m19Km第三十波m龍の玉龍の時間の環き島m2古波蔵迷宮 (ニライF71)

▲中村屋のよもぎそば

沖縄人ならヨモギ食え

だ!よもぎ食べたいんなら,ここに来ればよかったんだ!
 東口から栄町市場を通過し,ゆいレール安里駅前へ。
1000中村屋
よもぎそば
じゅーしーおにぎり450
 碗を覆うよもぎ。初回の訪問は夜だったから視覚的に記憶が薄いけど……麺も鮮やかなよもぎ色です!口に含むと,やはりかなりのよもぎ香が高貴に漂って……よもぎラー(?)には最高のお店!!

(閑話休題)某よもぎ飲料の広告。「マズ〜い!もう一杯!」よりさらに難解じゃのう……。

ーキも意外にデカい。ソーキそばというより牛汁に少し近いか?だからこのソーキに,よもぎを取り合わせて食べるのが宜しい。出汁にも汁ものに近いほど豚が効いてます。
 この苦味,ホントに癖になる。最終日に食べたのは間違いか?
 おばちゃん一人の気兼ねなさも好い。

倒れてるけど石敢當

▲与儀十字路の陸橋
021,南へ。
 1025,与儀十字路を歩道橋で越える。
 1030,島ちゃん。明かりはついてる。それは好いけれど……1時間,余ってしまったなあ。
 じゃあ……久しぶりにあの店の珈琲でも飲むかねえ。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路:島ちゃん〜)

▲島ちゃん近くにて。ブロックだけど,倒れてるけど石敢當

丘の上は無菌無臭

で走ると「にーちぇ」に出た。でも……開いてない?ここの開店はどうも気紛れ……あるいは秘密の規則性があるのか?
 前の公園でトイレだけ借りる。どーしよう?
 にーちぇの裏に坂道を見つける。この方向って……何があるんだろ?
 1040,南へ丘を越えてみる。ad(住所表示)古波蔵一丁目11。
▲1043古波蔵一丁目12の坂道

転車を押しながら登ると上の横道に出ました。ad一丁目12。何の変哲もない住宅地です。
 右折。1042。
 左手南へ細い道。行けそうです。左折。1045。

住宅地裏の細い道

▲1046細い抜け道

れどこの道は──?
 好い路地です。無毒な住宅街の間の道にしては,出汁が出過ぎてます。かと言って古い民家がある風でもない。近代に入ってからの通りに見える。
 ここは一体,何を前身とするエリアでしょう?
▲1045路地を覗く。

の湾曲は,左右の路地を含めてあまりない。戦後,米軍支配下での設計と感じます。
 ただその割にはこの路面のたるみ方は……元の施工がかなり雑だった感じです。
▲1047さらに路地を覗く。

道に出れた。1048。ad一丁目17。
 右折。
 これまた無菌無臭の住宅街です。ただ坂下,東側にはやや樹木が多い。家が多くて分かりにくいけれど,南西側にはもう土地の高みはない感じになりました。

ジャージの女が拝む宮

波蔵」の拝所
〔日本名〕沖縄県那覇市古波蔵二丁目18〜一丁目19
〔沖縄名〕うしじゃーぬしんぬかー
〔米軍名〕-(与儀南東57高地:現・おもしろ公園 西)

▲1055鳥居あり


 古波蔵むつみ会館前。大きな鳥居。「古波蔵拝所」とのみ書いてある鳥居。
 北側の山には亀甲墓が見えてる。街並は全くの住宅街だけど,どうやら伝統的な聖域らしい。
▲1057宮前の公園。というか,宮を維持するための公園指定っぽい場所。

はようございます」と丁寧な挨拶をして通りすぎたジャージの女性二人が,座り込んで拝み始めた。その姿があまりに真摯なので,宮の中を覗きこむのは憚られ,一礼して去る。

なのでネット上の「古波蔵の拝所」写真を拝借〔後掲Kazu〕

地聖烈鎮守善神」と書かれた石碑が社の中にあるらしい〔後掲Kazu〕。
 kazuさんも書いてるけれど……この拝所のことはほとんど全く紹介されていません。「聖烈鎮守善神」も全くヒットがない。自治会館と公園のセットといい,集落に密着した拝所のように感じますけど……全然とりつく情報シマがありません。

古波蔵御嶽へ坂下る

▲1058坂を下る

のまま東へ。1101。
 三角地の山。──「古波蔵御嶽」と書かれる場所がおそらくこの緑地だと思います。
 その角に祠。「産井(ウブガー)」と平成14年の碑が中にあり,神体は歪な台形の石。
▲1104古波蔵のウブガー

豆腐の神様じゃない何者か

の場所は,GM.上は「ウシジャーの神の井戸(ウシジャーヌシンヌカー)?」と変な記述がありました。
 コメントには「古波蔵(クファングヮ)ウシジャー」という豆腐の記事がある。「古波蔵むつみ会」を中心にこの伝統豆腐の再現が企画されているらしい。古波蔵ウシジャーは古波蔵の湧き水で作るもので,戦後頃までは集落のほとんどの家庭で作って公設市場近くで販売した,とある。

「ウシジャーの神をまつる拝所」。右側の𦥑は大豆をつぶすときに使用したものだとある。

 で,この拝所はその「ウシジャーの神」を祀る場所だというのです。隣に火の神(ヒヌカン)の拝所もあるそうなので,ワシが見た神体はそちらだったのかもしれません。
 けれど──話がどうも俗っぽ過ぎます。背後の御嶽も含めて豆腐の神様というのは,いかにも大掛かり過ぎる。そこでこのブロックを「沖縄X」してみますと──
 何となく,この森には踏み入ってはイケない気がしてきました。
ウブガーのある「古波蔵御嶽」航空写真〔GM.〕。沖縄の御嶽をこの方法で見ると「ヘソ」が浮かぶことが多いけれど,この「御嶽」には「ヘソ」が少なくとも数個存在しています。

■レポ:古波蔵とはどこだろう?

 この日の古波蔵ルートでは,北西から南東に伸びる丘を二つ越えた格好です。最初に,この位置を今昔マップ(埼玉大)で戦前のものと比較することから入ってみます。

現在の「古波蔵御嶽」(ウブガー≒「ウシジャーの神」北)〔後掲埼玉大学/今昔マップ〕※指指しは引用者。以下同。
1919年同〔同〕

「古波蔵御嶽」と括弧書きで自信なく書いてますけど,この両図でも指指し位置の南東により大きな起伏があるようです。けれどここには航空写真でヘソは認められないから,ウブガーの位置が御嶽だろうと想定して話を進めます。
 1919年図では集落は,ウブガーから北西に緩い弧を描くように伸びています。この集落の道は現在も二本,現存しています。
 また,海岸線(漫湖の湖岸線)が戦前には現在よりぐんと近い。概ね現在の国道507号線と重なります。
 このラインを海岸線としても,集落道二本の湾曲はそれより内陸にあります。おそらくこの湾曲は,元の「古波蔵湾」です。1919年当時にも埋立てが進んでいたのでしょう。

壺川ホーホー 銀鱗刺々

「古・古波蔵湾」の漁業の伝統は,けれど戦後には跡形もなかったと思われます。西隣の壺川には「ホーホー漁」という追込漁が戦後しばらく残存していたらしいけれど,それは古波蔵には伝播することなく,古波蔵の人はその魚を銭で購入したと語られます。

──漁の写真もありますが、これも漫湖でしょうか?
豊島さん:はいそうです。これは追い込み漁です。普通は海でやるものですが。あらかじめ網で囲んでおいて、水面を棒で叩いて網の中へ魚を追い込むんです。一番奥へ追い込んだら、網をあげて魚を獲るわけですね。何の魚を獲っていたのかはわかりませんが、壺川の漁協からまとめて売っていたと思います。古波蔵では売っていなかったので。〔後掲漫湖日和3後編〕

 壺川ホーホー漁は,東恩納寛惇が次のように書き残しています。ということは,この地の漁法は戦後にわかに行われたものではなく,少なくとも戦前からの伝統だったと思われます。

壺川の住民小舟を浮べて唐三良辺に屯し、水道を遮つて舟を横たへ、上げ潮に乗つて応々掛声勇しく水面を叩きながら舟を推して行くに、銀鱗刺々声に応じて舟中に躍込む、これを壺川ホウホウと唱へたり。硫黄城下の居民七八家打網に妙を得、これを「渡地網打」と唱へ、この二者は那覇名物の中に算へられ、(中略)元来一技にて、後に打網と追込とに分化せしものなるべし。〔東恩納寛惇「南島風土記」1950〕

「写真『那覇市国場』(1960年 Tさん撮影)。早朝、霧の立ち込める畑で農作業をする夫婦。豊島さんは『あぁ、ミレーの画だな』と思いシャッターを 切ったのだとか。夫婦の後方に見える2本の煙突は製糖工場のもの。」〔後掲漫湖日和3後編〕

琉球は帯状に残った

「漫湖水鳥スタッフ」名の方(々?)が漫湖を巡るライフヒストリーを,ごく最近(2021年頃?)に収集しておられました。この中に,聞書情報を図に落としたものとして次の図を転載させて頂きます。

Tさんのお話をもとに作成した地図(※地図は国土地理院の空中写真(1977)を加工)。原典キャプチャ「戦後,漫湖には国場ベニヤ株式会社と沖縄プライウッド株式会社のベニヤ板工場があり,明治橋から那覇大橋にかけての両岸(旧みなと村に挟まれたエリア)は原料のラワン材を保管する貯木場だった。」〔後掲漫湖日和 その3後編〕※赤矢印(ウブガー位置)及び青丸は引用者

 ピンク部分は,戦後に沖縄プライウッド㈱などが入居した埋立て部です。また,黄緑部分は,以前掘り下げた港湾労働者タウン「みなと村」で,これが県庁の位置から古波蔵の西隣までの広大なエリアに存在しました。
「写真「那覇市壺川」(2006年11月5日 Tさん撮影)。1軒だけ残っていた,終戦直後に建てられた規格住宅(写真中央)。網やタープがかけられ茅葺の
屋根はほとんど見えない。おばあさんがひとり住んでいたのだとか。2017年に取り壊された。」〔後掲漫湖日和3後編〕

「みなと村」は行政上の区域で規制されていた訳ではありません。村の存在した敗戦直後,日銭労働者の集落は古波蔵にも溢れ出し,既存の古い町並みを覆った後に現在の住宅街が再建されたのでしょう。

戦後の古波蔵から奥武山方向の写真。埋立が未了なので1950〜60年代と推定される。手前の岬は古波蔵三丁目23辺り(→GM.)に当たる。〔後掲那覇市歴史博物館/古波蔵方面からみた奥武山〕

 なぜなら戦後の古波蔵は,海岸線側の工場エリアに加え,北に軍需エリアも控え,両者の間に挟まれた地域だったからで,南東に溢れた労働者たちは古波蔵集落を侵食するしかなかったと思われるからです。
 地図の北に青丸を書きました。この古波蔵集落北隣にあったのが与儀タンクファームです。今でもこの辺りは俗に「ヨギタンク」と言われています。タクシーの運転手にそう言えば通じるのだそうです〔後掲レキオ島唄アッチャー〕。

❝聞書抜粋❞Tさんの古波蔵埋立地入域記

出身は宮古島です。(略)高校の卒業式の前に琉球大学ができるという話が来て。宮古の枠は36名だったんですが、それに何とか入ることができて、1950年の5月に入学したわけです。(略)
──古波蔵にはいつ頃から住まれているんですか?
Tさん:1964年からですね。土地購入の募集が出ていたので、じゃあ応募してみようかと。漫湖に隣接した古波蔵の3~4丁目は1960年頃に埋め立てでできた土地なんです。4丁目の方は、1963年に樋川で起きた大火事で焼け出された人達が大勢いたんですが、そうした人達を優先して移住させていました。そういう場所なので、地元の人はいない、寄合世帯なんです。(略)ちょうど真ん中に「埋立地市場」という、那覇の公設市場をもっと小さくした感じの市場がありました。〔後掲漫湖日和3前編〕

にーちぇの真上によぎたんく

 与儀タンクファームは,嘉手納基地など各地米軍施設に石油を輸送するパイプラインの南部中継地及び貯油施設として,1952年に接収された土地に建設。
 1972年,沖縄の本土復帰前日に滑り込ませて民間に返還されています。古波蔵の人家直上にあり,直接には反対運動の成果とされています。ただ返還に合わせてではなく「前日」というのは,日米ともリアルな危険を否定できず,そのままの状態での本土復帰がためらわれたのでしょう。

「与儀タンク」画像〔後掲(上)那覇市歴史博物館 (下)沖縄県〕※タンクの配置は下画像参照
※※(上)画像原典:写真集那覇百年のあゆみP199。裏書「77.638坪に及んだ与儀ガソリンタンク群(米軍機の航空燃料貯蔵所)は市民の永年の撤去運動の結果沖縄返還の前日に開放された。」

 では,古波蔵北辺りにあった与儀タンクとは,具体的にどこにあったのでしょう。
 wikiに航空写真がありましたので,これを基準にして推定してみます。
(上)与儀タンクファーム(1970年5月)及び(下)「にーちぇ」付近拡大〔後掲wiki/与儀タンクファーム〕※原典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス,琉球政府,赤線・赤字のポイント記載は引用者

 家屋はもちろん筆もかなり異動がありますけど,特徴的な道の形状をa〜dの4か所,上の1970年図と下の現在図の双方に取りました。
 よって,現「にーちぇ」位置までが旧集落残存域,その東の公園(与儀ちびっこ公園)からが旧与儀タンク域です。これは,字・古波蔵と字・与儀の境界にも一致します。
「にーちぇ」付近の2022年現況〔後掲日本地理院地図〕※赤線・赤字のポイント記載は引用者

 従って,現・古波蔵の一・二丁目は,西南北を戦後の開発地に囲まれて辛うじて残存した旧集落のベルトです。ただし,繰り返しですけど「みなと村」の奔流を実質的には被っており,注意深く見なければ痕跡は見出しにくい現状です。
めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉

めにかかる雲や 古波蔵 南越国

「名護親方」として著名な程順則が名護間切の総地頭職に任命されたのは,71歳で死去する5年前でした。
 程は14歳の時に,真和志間切の古波蔵地頭職を父親から継いでいます。それから実に半世紀,古波蔵を地盤にしています。〔後掲がじゅまるの樹の下で。〕
 また,「古波蔵親方」と普通に言うと鄭嘉訓(1767~1832)です。久米村鄭氏十六世,号は泰橋。1816(嘉慶21)年,久米村最高官位・紫金大夫(紫冠)。1824(道光4)年,同最高職・総理唐栄司〔後掲那覇市歴史博物館/鄭嘉訓書「野望」〕。

鄭嘉訓書「野望」(王績詩)〔後掲那覇市歴史博物館〕

 久米村要人の専管領地だった,と消極的にも考えられます。ただそれにしては,このエリアは米作に適した地形でもないし,漁業で有名な土地でもない。まして「古波蔵港」などというワードも全くヒットしません。
美少女図鑑アワード2020の準グランプリ古波蔵心杏さん

 ヤケになって調べてたら後掲DEEokinawaに「阮氏古波蔵の謎」と題する記事を見つけました。阮氏は「げんうじ」と読む。阮氏ビルという建物も複数あり,地縁の強い財界勢力らしい。
 そう言えば昔のNHKドラマ「ちゅらさん」の主人公一家の姓が古波蔵でしたけど……この「古波蔵」は語源も分かりません。
 ただ琉球語の読みは「くふぁんぐゎ」。先の心杏さんもその呼び名だそうです。
「阮」と言えば,ベトナムの最頻姓です(人口比38%)。ベトナム語読みはグエン(Npuyen)。──ちなみに北京語はrua3n ルアンで遠く,閩南語でNg ングと少し近づきます。
※他に,甫田九頭十八巷の馬巷の古称・阮巷は,阮姓の一族が住んでいたからとされる。→(甫田編)資料:莆田「九頭十八巷」と馬巷
ベトナム姓の比率(2008年)

「くふぁんぐゎ」と「ぐえん」。何か,近くね?
 阮氏はベトナムで阮朝を立てて興隆した一族です。清朝を悩ませた安南海賊の背後の勢力とも言われます。日本の銅銭のベトナムでの出土,相互の漂流記録などから,17〜18Cの東シナ海へは相当規模のベトナム海商が進出していたと推定されています〔後掲日越外交関係樹立45周年記念プロジェクト〕。
 拘っているのは,この古波蔵の場所が,那覇港の背後にして久米への出入口の脇に当たり,例えば長崎とかなら正規の取引が出来なかった交易品を小口で積み下ろしするのに最適な場所だったように思えるからです。
 ただ,ついに史料のホールドがまるで見つかりません。
 現代史の狭間に偶然残されたエリアなのに,かくも分からないまま市街地に呑まれていく,大変勿体ない土地……という感がどうしてもするのです。
写真「漫湖」(1966年3月 Tさん撮影)〔後掲漫湖日和3後編〕

{異説}第二尚氏中期フィクサー 阮維新・直轄地=古波蔵

「阮」と言えば,毛国鼎と共に薩摩侵攻前後に王朝のバックで動いた阮維新がいたことを,以前確認しました。

阮維新,字天受;其先福建漳州府龍溪縣人。明萬歷時,有阮國字我萃者,與毛國鼎同奉命居琉球;官正議大夫,充萬歷三十四年謝封使。傳四世至維新,同梁成楫、蔡文溥入學;累官紫金大夫,充康熙五十三年貢使。〔中國哲學書電子化計劃/清代琉球紀錄續輯

 次章で見るように,阮の盟友・毛国鼎の一族は,古波蔵の東隣・与儀〜寄宮を領した可能性が高い。
 古波蔵阮氏とは,この阮維新に連なる人々ではないか──という可能性をここでは提起しておき,次章・福建-台湾-沖縄編最終章で,より大きな絵のピースとして整合するか否か試みていきたいと思います。

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