009-2金田城(往)\対馬\長崎県

対馬金田城に
こんな感じで
ついふらりと
行くのは止めましょう。
体力に自信のない人は
酷い目に遭います。

神武天皇とか神功皇后とかゴロゴロしとる

▲案内板にあった池の屋形の図面。「府中」は厳原の江戸期以前の古名。

,初泊の一泊宿から二日目以降の連泊宿へ,荷だけを先に移しました。
 今測ると4百mもない。この間に以下4枚の写真を撮ってます。
 まず出かけてすぐ,ふいに目についた街角神社がありました。
 0852,池神社。
 由緒書によると,祭神は──
建彌己己命(たけみここのみこと)
弥都波能売神(みつはのめのかみ)
佐須景満
──??? 全く聞いたことのない神様たちです。
▲池神社の拝殿前にはアンパンマン

の屋形跡
池の屋形は約四百七十年前の室町時代に築かれた対馬島主宗氏の城で所在地や規模などはなぞに包まれた幻の城です。(略)池神社には,女池,男池があり女神と男神を祭っていたそうです。
池の神は,古くからの神で「対馬開闢よりの神」といわれています。〔案内板〕

 分からない。「対馬開闢」って……そんな古い時代にここに,おそらく海城が築かれてたんでしょうか?

※後掲tamayoriには次の伝承記述がある。「神武天皇の朝、建彌己己命(たけみここのみこと)、対馬県 直(あがたのあたい)となりしとき、この所に館を置かれし古跡なり。よりて対馬県(つしまのあがた)の主たるをもって本主の神としてこれを祭る」──これによると,対馬開闢とは神武帝の時代となる。

 なお,後で見つけた後掲西山記述に,宗氏拠点の変遷史としてこういうものもありました。

一、金石城の歴史
 宗家島主十代貞国が、国府を佐賀から厳原の中村に移したのは文明十八年(一四八六)のことであった。その後大永六年(一五二六)、十四代将盛(まさもり)は居館を今屋敷の「池ノ屋形」に移したが、享禄元年(一五二八)に宗氏一族の内紛により屋形が炎上。将盛は清水山南麓の金石の地に「金石屋形」を建築し、そこを居城とした。以後この金石屋形が宗氏の居城として機能することとなる。

▲市内の石垣。こんなに当たり前に,新しくても江戸期の,野面と打込の間のような垣が露出してます。

原には十数年前に二度滞在してます。土地勘がないわけじゃないんだけど──若い頃には感じられなかったのか,こういう町の手触りが内地とは凄く違和感がある。ふとぶつかった場所に底無しの穴が開いてる感じです。
 0903,ふれあい処東向かい,浜殿神社。神体は小さな鏡。祠一基だけど頭上に巨木。御嶽の風情です。

※この神社を神功皇后行宮と記しているサイトがありました。出典等不詳。「4世紀ころはここまで海岸線で、豊玉彦を祀っていました。ここに神功皇后の行宮がありました。」〔後掲偲フ花〕
 なお,このサイトによると,「対馬市役所前にある『与良石』(よらいし)も、もとはここが海岸で、皇后の輿を据えたところと伝わります。」という。

▲浜殿神社神体

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

六拾一歳 在路上

然ながら遅くなりました。
 0915,自転車を借りる。完全なママチャリで,ペダルがやや重いけれどギアは6段。
 とりあえず北へ。
 0920,宮谷で左手の川沿いへ入ってみる。ここには石垣がかなり残ります。──と全く知らずに通過してるけど,ここは江戸期の武家屋敷街。全く鑑定眼が及んでないけど石垣の多くは江戸期そのままらしい〔後掲対馬全カタログ〕。

宮谷の防火壁(火切り石)〔後掲対馬全カタログ〕

923,車道へ出て北へ。
 宮谷郵便局。藩校日新館門。ここまではやや広い道。藩校対面東の丘に遺構,標識なし。

日新館は,幕末時代対馬藩勤王党の拠点であったが,藩の内紛によりその多くが噴死〔案内板〕

 勝井騒動のことを書いています〔wiki/日新館 (対馬府中藩)〕。佐幕派の勝井五八郎が,その年に尊王攘夷派の大浦教之助が創ったばかりの日新館に集った二百名の大半を殺害・処刑または自害させた(生存者は数名)というもの。
 対馬藩の幕末は激烈なもので,それは単に熱狂というだけでなく,雨森芳洲が新井白石にぶつけた「芳洲理論」から幕末まで何度も浮上した対馬移封論まで,2世紀近い過激論の巣だったらしい──詳しくは巻末にて,と掘り込みたいけど,今のところこの件は深過ぎます。

軸裏に「六拾一歳 雨森芳洲先生肖像」と記載の掛け軸。京都市のオークション出品をを長崎県対馬市のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会」が落札。定説では同肖像画は5幅ある。〔西日本新聞ne 2020/9/10〕

輪にとってのトンネルの怖さは,四輪の運転手には分からないと思う。
 0932,厳原トンネル。
 0939,すぐに二つ目。
 結構スピードは出ます。距離は稼げてる。
 入口東裾に階段,墓か祠のようなものが連なる。なぜかこの島ではこういう所に本気で近寄らない方がいい気がしてます。
 0941,トンネル通過。
 0949,第三のトンネル・根緒坂隊道。コスモス前で美津島町に入る。
 既に……かなりきつい。速さは出るけどガタイのある重いママチャリ,消耗も早いみたい。

下っちゃえ!そしてポッカスープ

▲0954海側の集落遠望
緒坂トンネルを抜ける。0955。
 東北に海に続く集落。根緒だろう(巻末参照)。国道382はこれを見下ろす西山麓を北へ伸びる。
 唐突に天皇御即位記念樹があった。破れかけたMBK購入ハンドバックを供える。お疲れさま。
▲根緒集落
003,根緒の集落を金網越しに見下ろす。
 案内板。南北朝期に征夷大将軍大塔宮興良親王の知行地だったとある。──後醍醐帝の孫,南朝の征夷大将軍です。
 膝に来た。これは……ダメっぽい。引き返そう。1012。
▲1010邪馬台国跡。魏志をどう読んでも対馬の先としか考えられんけど──
原-金田城間はたった16km。道と車体によっては一時間の行程です。険しい山野と重量級ママチャリとはいえ,その半ばも行かないうちにリタイアとは──
 いや?地図で見つけてたハンバーグ屋がほんの少し先にある。そこまで行くか?
 1018,ハンバーグ&ステーキロワール。もちろんまだ開いてません。峠のような場所にバス停・内良。比田勝84km,対馬空港5km表示。とにかく休もう。タバコを吹かす

厳原~金田城行程中のハンバーグ&ステーキロワール地点〔GM.〕
🚲
の力で,意味もなく欲が出てきました。
 下っちゃえ!
 第四トンネル。1028。
 1032,鶏知に入る。東海岸線を離れたことになるけれど,海は高みに遮られ見えません。
 1039,十八銀行の三叉路を左折。地図だと……あと4km余のはずなんだけど。
 予想を超えて飲食店がない。自販機でポッカのコーンポタージュを買って朝飯とする。
🚲

黒瀬観音とヤマネコの坂

敷,1055。黒瀬観音堂とある分岐。媽祖の疑いが頭を過ってその場でしばし調べるけど……如来信仰らしい(巻末参照)。そのまま下る。
 1103,一倉坂トンネル。静かです。
 1107,川,というか静かな浦の奥を渡る。州藻という地名が風景にぴったりきます。
▲1111須藻

てその先が急坂の上りになり――――1118,予想通りここが一番きついらしい。右折点を待たず,自転車を押し歩きます。
 眺望はない,まさに山中,島にいる実感が全然ありません。
 そうこうしてたら,1123……下り?
 あっけなくトップに着いたけど……これは帰りに泣んじゃないか?くねる下り道はぐんぐん容赦なく降りていってます。
▲ヤマネコ注意

洲厳原~金田城行程中の洲藻トップ地点〔GM.〕

だからふらっと寄っただけだから……

に生まれて喜んでくれたのは
菓子屋とドレス屋と女衒の女たらし
嵐あけの如月 壁の割れた産室
生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった ♪

 自然をこよなく憎む当方としては,ツシマヤマネコのことは全く知らなかった。とにかくこの坂にはよく出るみたいでした。
♪傷つけるための爪だけが
抜けない棘のように光る
天(そら)からもらった贈り物が
この爪だけなんて この爪だけなんて♪〔中島みゆき「やまねこ」〕

▲「この先1kmヤマネコ飛び出し注意」なぜその地点だけ?

調子に乗って通りすぎると,登って来るのが大変そうです。急降下してはGM.を見て,と変な慎重さで進むと――――あっけなく着いた。
 1134,「金田城登山口」看板。
 まだ舗装が続いているので自転車で登っていきますけど……もう完全に人家はありません。樹海の中の一本道,という風情になってきました。こちとらママチャリで軽く遠出したつもりだったので……探検とかする気は全くないんですけど……。
▲城山の手前の原始林の山

山道入口900m」看板。1146。下りになる中間地点で自転車は置き,ここから歩くことにしました。……鍵をかけ忘れてましたけど,そんな必要も感じなかったほど人の気配が皆無なのです。
 1149。途中に金田城750mサインが出る。それはどこまでの距離なんじゃ?ひょとして……「登山口」までということか?
 登山口200m手前,舗装途切れる。1159。
 1202,登山口。4台,車が駐車しています。間違いない,ここからが「登山」になるらしい。

(後で見つけた)金田城攻略マップ!! ──だからふらっと寄っただけなんで,許してくれえ。。。

黒瀬湾に見る舟溜まりの幻

の舗装が無くなったぞ……。話が違うぞ……。
──とビビるマンになってましたけど,下写真のような道は整備されたメインルートだけ。
 結構登った先の三叉路を右へ。
▲1207登山口からのまだ優しい顔の山道

うか,島にいるんだったな,と眺望が開けてやっと思い出せました。
 浅茅湾が湖のような佇まいで姿を見せる。河,とは見えない。大きい。
▲ビューポイントから湾

の景観撮影,1218。
 方向は東のはずだから,黒瀬湾。湾南岸の隣の岬,つまり黒瀬觀音堂のある半島との間の湾に過ぎません。にしても絶景です。
 金田城がこの上にあるということは──小さくはこの黒瀬湾口を押さえる砦で,浅茅湾に敵水軍侵入を許した際にも黒瀬湾に我の水軍を容れての抵抗拠点として,大きくは下島北部の山嶺の防衛ラインの北端拠点として,リアルな進攻を想定した城塞なのです。

底部の水門もいまだ機能している

▲東南角石垣。専門的には,石塁の角部分を外側に出した「張り出し」構造で,韓国で「雉」と呼ばれるもの。鬼ノ城(岡山県)でも確認されるという。

垣,1222。
 地図に「土塁跡」と書かれるこの垣が,半島を一周していることになります。三ノ城戸5分表示。T字で右折,三ノ城戸へ。
 掘立柱建物跡。位置的には守備兵の詰所だけど,後掲長崎県美津島町教委もこの城全体で「最盛期には100人から200人規模の防人が常駐していたのではないだろうか」としつつも,「防人の生活していた場所は特定されていない。烽の調査と同様今後の課題となる」〔後掲長崎県美津島町教委〕と記しており,こうした生活痕の無さは金田城の謎の一つになっているようです。
▲三ノ城戸

ノ城戸,1237。
「Xノ城戸」は,近世日本城郭の「Xノ門」のようなX番備えの意味ではなく,半島内部へ食い込む谷の上部狭隘部の防御地点を北東から南西へ数えたものらしい。──なお,現代の考古学上の呼称で,当時の記録に残る名称ではありません(後掲ピングシも,一ノ〜三ノの後で発見されたため連番にならないので既存呼称を付したもの)
 うち最も大きいこの谷は最大の想定リスクを見込んでると思われます。
「底部の水門もいまだ機能している。」と案内板。水門とは,谷川を変流させて防御陣形を整えたということでしょうか?
▲吸い込まれるような下り道

どれだけの労働力を投じたか?

ルート」と「石塁ルート」に分岐。迷わず石塁ルートを選ぶけれど……おお〜!崩れかけた石屑だらけの急坂!
 今回の対馬行程は,何か全般がヘタレのモードに入っててお恥ずかしいけれど……ママチャリで疲労した足で山道を来て,どうもガクガクになってます。これでさらにママチャリでの帰路もあると思うと……アカンわ。それなりに見れたし,これで撤退といたしまする。
▲カメラまでヘタレてるけど三ノ城戸案内板

るとなると,もう少し撮っておく気になりました。
 城壁は,古代のものとは思えない精緻さです。近代城郭と同じく,隅石を特化して大石を使用し,結果的にかもしれないけれど玉石積みに近い形状になってます。
▲1243隅石のみ大きい城壁

れた岩を素人目に見ても,明らかに加工痕があります。
 金田城は,面積の巨大さと謎の大きさから,まだ考古学的に調査されたのはごく一部。この第三城戸は未調査地域の一部らしい。──次章後編で至った推論からも,ここからはまだまだ驚くべき成果が発表される日がある可能性を秘めてます。
▲1245崩れ落ちた岩壁。他の城郭プログでも指摘してたけれど,中世城壁のように岩壁裏を土で固めているタイプではなく,壁全体を岩で突き固めてあるらしく,同じ岩壁でもとんでもない労働量を投じてあります。

文字が怖すぎる映画「二百三高地」の防人の詩〔さだまさし〕

■レポ:「厳原」地名の由来考

 対馬の後フォローは疲れる作業です。主邑・厳原の地名の由来を調べるのにもそれなりの手間がかかってしまいました。
 対馬の実質的統治者・宗氏が,鎌倉期,峰町佐賀地区(下島東岸中部)から本拠地を移したのが厳原地区。以後,江戸期末までの城下町です※。佐賀からの移転は文明年間(1469-87年)の宗貞国と時と記録されます〔世界大百科事典 第2版「厳原[町]」(コトバンク/厳原町)〕。

※古代※※に後の町役場付近に国府が置かれていたとされるけれど,未だ考古学的には実証されていない(遺構の発掘など)。〔wiki/厳原町/歴史〕
※※厳原の「国府」「府内」称は「677年(天武6)対馬国府が置かれた」ことに由来する。〔世界大百科事典/府中(コトバンク/厳原町)〕

 現地名の厳原は,明治維新時(1869(明治2)年)の「府中」からの改称が直接の起源で※〔後掲角川日本地名辞典/厳原〕,2004年(平成16)年の対馬市成立により同市内の町名として存続しています※※。

※行政単位としての起源は,正確には1908(明治41)年(島嶼町村制施行)時に成立した厳原町。同町の前身は
旧厳原城下10箇町[注5]
厳原村 久田村 南室村 小浦村 曲村
[注 5] 長崎県令によれば、該当町名として桟原町、宮谷町、日吉町、天道茂町、中村町、今屋敷町、田淵町、大手橋町、国分町、久田道町が記載〔wiki/厳原町〕
ただそうすると,上記注5の10町に厳原名のものは含まれないので,明治2年に改称された対象が,上記「厳原村」だったのか,一般呼称としての「厳原城下」だったのか定かでない。
※※郵便局サイト内郵便番号検索(対馬市)参照。なお,現郵便番号は,厳原町の35大字のみ「817-xxxx」と個別子番号が付され,その他の対馬市域は「814-0000」と事実上子番号無し。

 とすると,行政地区名・厳原はまだ150年ほどしか使われてない。
 ただ,ややこしいことに──明治2年のこの地名の採用元となった「いずがはら」又は「いずがはる」「いずはる」はどうも途方もなく古いらしいのです。

伊豆波留だった頃の厳原

 次の記述は厳原八幡宮神社についてのプログからです。──(木坂)伊豆山→(国府)「伊豆が原」→厳原 と記されます。

 神功皇后が三韓征伐の帰途、ここ清水山に天地の神々を祀ったのを起源として、後の天武天皇6年(667)、勅命により八幡神を祀ったと伝わります。
 古代、木板八幡宮(現海神神社)を本宮・上津八幡、厳原八幡宮を新宮・下津八幡と称していました。
 下津八幡は伊豆山にある上津八幡から分霊を請けた為、この地を”伊豆が原”と呼ぶようになったのが、”厳原”という地名の由来だそうです。〔後掲八幡大佐のにっぽん漫遊記〕※下線は引用者。以下同じ。

 後掲「のくて~takaのYOUいっちゃいなよ!」にも同様の記述があるけれど──原典が不明だし,どちらもファンキーな名前のサイトで鵜呑みにするには不安が残ります。
 ただ,667(天武天皇6)年といえば,まず間違いなく663年の白村江敗戦の影響を受けてます。火山の噴火後に神格を上げて霊的防御力を強化しようとしたのと,同等の発想でしょう。
 また,GM.などでヒットはないけれど,下津八幡(現・海神神社)の神山を古くは伊豆山と呼んだのも他に記述があります。

仁位を出発してさらに北上すると、対馬西海岸の中心に三根湾があり、その北側に「木坂」という里があります。里の北側には「伊豆山」という神山があり、その山腹に「海神神社」が鎮座しています。〔後掲伊ありをりある.com〕

 ただこれもファンキー・サイトなので,角川日本地名辞典で裏をとっておきます。

喜佐賀とも書く。(略)集落は南の保利山,北の伊豆山の狭い谷あいにある。旧国幣社海神神社は伊豆山の中腹にあり,御前浜から開けた御前原を望む。〔後掲〔後掲角川日本地名大辞典/木坂〕※丸付き数字及び改行は引用者(以下同)

 さて,この作業時の副産物として確認できたのは,「伊豆が原」説も角川日本地名辞典が出典らしいことでした。

明治2年府中を厳原と改称したことにより成立した地名で,当初は「いずがはる」と呼んだが,すぐに「いずはら」となった。地名の由来は,古くから府中市街地の中心に鎮座する八幡宮の前原を「伊豆波留」と称していたのに由来する。伊豆は神の稜威,波留は原である。古くは白鳳期対馬の国府が置かれ,文明18年に宗貞国が府を三根郡佐賀から移して以来府中と呼ばれ,約500年間宗氏の城下町として発展した地である。〔後掲〔後掲角川日本地名大辞典/厳原〕〕

「伊豆波留」は万葉仮名的な表記です。厳原名に繋がる地名は「伊豆が原」というよりも,音のみの「いずがはら」らしい。
「いず」の意味は,角川が言う「神の稜威」が定説化されてる。伊豆半島の伊豆と繋がるというより,海民に広く概念せられた「いず」が各地に残ったと考えるべきでしょう。当然,安芸宮島「厳島」を始め一般動詞の「斎く」に通ずる音です。
 以上から,(木坂)伊豆山→(国府)「いずがはら」→厳原 説は確からしい。その起源は7C後半の八幡分祀です。

上・下津八幡(伊豆山といずがはら)の位置〔地理院地図〕※黄字は引用者

「いずがはら」はどこだったのか?

 木坂の海神神社所在地が伊豆山と呼ばれていたとすれば,国府の「いずがはら」に地名が移転されたのは,同神社が在る緩斜面だと推定されます。

木坂周辺(上)標準地図 (下)アナグリフ〔地理院地図〕

 対馬西岸「上津」神社に対応させる「下津」神社を,対馬東岸に置くイメージが7C当時構想された。まず間違いなく,従来の半島への攻めの海神から,白村江敗戦後の守りの海神への転換です。対馬の山塊を天然の城壁と見てもいたでしょう。
 史料が語らないその場所を①八幡神社所在地と②コピー元の前記緩斜面を選定条件として推定すると──
下津神社の(上)標準地図 (下)アナグリフ〔地理院地図〕

該当箇所はほぼ上記場所しか考えられません。厳原八幡宮神社のやや北側を中心とするエリアになります。
 補強材料は全くありませんけど,あえて言えば──このエリアの住所表示は厳原町中村になるらしい。「中」村というのが集落の発祥地(≒沖縄:根屋 ニーヤー)を指す可能性はあります。その中でも番地の数字が最も小さい百番代の住所は次の図の付近,ハローワーク対馬の西南付近になるようです。
対馬市厳原町中村130番地〔GM.航空写真〕

異説:書契問題と厳原改名の相関

 以上で厳原の由来「いずがはら」の語源と場所とを荒く押えたことになって,目出度し目出度し……とするには,もう一つ,重要な空白があると感じました。
 明治維新でなぜ,厳原地名が急浮上したのか,という点です。
 維新時の地名再編については,ほぼ確かとされる「都市伝説」的主張として,賊軍の藩の地名を明治政府は残さない方針を採った,というのがあります。けれど──英・露の露骨な領土的野心に接していた幕末の対馬は長州と同盟(対長同盟:1862年)したほどの尊皇攘夷の急先鋒,宗氏※は戊辰戦では大阪へ薩長軍に従軍,明治4年には外務大丞に就任している明確な明治政府側です。〔後掲たびなが,現代史参照〕

※当時の島主は対馬国府中藩第16代藩主(宗氏第35代)宗義達(そうよしあきら/そうよしあき。維新後の改称・重正(しげまさ))。〔wiki/宗義達〕

 なのに,後の長崎県構成地域中,藩名とは別の県名になったのは厳原県のみです。

版籍奉還(1869年)〜現・長崎県の変遷〔後掲イーエヌプランニング〕

 厳原への改称は,正確には明治2年6月の版籍奉還段階で,対馬府中藩を厳原藩に改名してます。
 これに半年先立つ明治元年12月,新政府の命令を受けた形で対馬府中藩家老・樋口鉄四郎が朝鮮に派遣され,日本の王政復古についてを通告します〔後掲現代史〕。この通告を朝鮮側は受け取り拒否した〔後掲NEWS TOPICS〕と略記するものもあるけれど,厳密には──

一二月一六日幹事裁判川本九左衛門は完成した書契を携行して渡斡し,一八日に訓導に書契を写し取らせた。そして,東莱府使に謄本を届け,二七日に返答を持ってくるよう訓導に約束させた(17)。しかし,二六日に入館した訓導は川本に対し,幹事裁判書契の受け取りについては容易に返答できないため,明日再び東莱府へ行って商議し,早春に返答をすると述べた(18)。この間に,一二月一九日大修使樋口鉄四郎・都船主(副使)薦田多記が倭館に到着し,一八六九年一月四日任訳との初対面を果たした(大修Mニ・一•四)。〔後掲牧野〕

※出典 (17)対馬宗家『紀事大綱状』(朝鮮方)明治元年一二月二二日川本九左衛門・番縫殿介より嶋尾益城・村岡近江・村岡相模・古川釆女宛書翰。(18)同明治元年一二月二九日

 朝鮮側が問題にしたのは,対馬側が従来使用した「日本国対馬州太守拾遺平朝臣義達章」を,維新政府が発給した新印「日本国左近衛少将対馬守平朝臣義達章」に──つまり「対馬元首」から「日本国吏員」に変えた点です。
 次のような手続きからして,対馬は朝鮮に「朝貢」類似の形式をとっており,朝貢する主体は国家元首でなければならず,他国の臣下であってはならなかった,ということなのでしょう。朝鮮があくまで形式問題として扱ったのは,対馬側が「いや実質は従来と何も変わらないのだ」と説明していたことを推定させます。

 近世の日朝関係は、対馬藩が幕府と朝鮮政府との間を媒介し、将軍の新立や死亡の報告、通信使の調整などを、使節を派遣することで執り行っていた。倭館に派遣された対馬藩の役人や使節の対応は、訓導や別差と呼ばれる訳官が東莱府から倭館まで下来して行った。各使節が倭館に到着した後、任訳(訓導・別差の総称)が使節の名目や用件、持参した書契の内容を確認する。その書契に問題がなければ、規定通りの儀式が行われ、書契は東莱府使・釜山餃使(東莱府使とともに倭館を管掌)、礼曹、朝廷へと渡っていく。〔後掲牧野〕

 歴史的に「皇」「勅」書契問題と呼ばれるこの「拒絶」事件と府中→厳原の改名の時期的近さは,従来の「国府」地名が朝鮮への見せかけ,つまり朝貢原理に適合した「独立国対馬の首都」たる意味合いを持っていたところ,明治維新に至ってそれを自己否定する必要に迫られたことが予想されます。
 厳原への地名改名は,朝鮮の視線を意識した対馬「国」,あるいは三百年も朝貢国もどきの体をとってきた日本の,維新後最初のカミングアウトだったと言えるのではないでしょうか?
 この時期,中国・朝鮮との大同団結を説いていた対馬藩出身の大島友之允が,次第に征韓論の急先鋒へ立場を転じています〔後掲嶋村〕。

※付記:後掲日本姓氏語源辞典によると,「厳原」(いずはら)姓のうち推定50%がコリア系であるという。本姓は「厳」の例が多いというけれど,上記の議論とどう関係するのか判別できませんでした。

国府より前に在りし与良・やら

 厳原や国府・府中名の前に,さらに「与良」という地名があったといいます。近代史料としては「與良郷給人奉公帳」というのがある。

 城下町にあたる地域は初め与良と呼ばれ、時代毎に国府、府中または府内と呼称が変遷している。府中は中世における「対馬八郡」のうちの与良郡、および近世における「対馬八郷」のうちの与良郷[注4]に所在したが、郡郷域に含めないとする見方もある。〔wiki/厳原〕

[注4] 『津島紀事』のうち与良郷の項目によれば、郷内には府中(厳原城下)のほか、雞知(けち)・洲藻・箕形・吹崎・賀志・尾崎・昼浦・島山・大山・犬吠・小船越・鴨居瀬・芦浦・賀谷・横浦・濃部・大船越・久須保・緒方・竹敷・黒瀬・根緒・小浦・南室・久田・尾浦・安神・久和・内院・内山の1府30村が存在したとされる。上記のうち内院村は江戸時代初期に与良郷と豆酘郷の境界として分割され、与良郷側の内院村は「与良内院村」とも称する。さらに枝村が4村あり、このうち小浦村の枝村として曲村が存在した。

 豆酘郷に対するやや広域の名称で,個別の村名ではないようです。角川日本地名辞典には,さらに詳しい記述がありました。①からすると「いずがはら」同様,音が先にあった,つまり漢字伝来以前の地名のようです。

読み:よら
①余良とも書いた。対馬の南部に位置し,南・東・西は対馬海峡に面する。
②地名の由来は,「ゆら」に同じく,海辺の淘りあげ地と解される。
③また新羅・加羅・安羅あるいは松浦・早良・多々羅・豊浦などと語尾を共有する古語とも見られる。
④厳原(いずはら)の南東に野良(やら)という字があり,また浦口の岬を耶良崎というのは与良の遺称と見られる(津島紀略)。
⑤浦の南西岸には与良祖神社があったが,現在八幡宮境内に遷座している。
⑥天長7年「新撰亀相記」に「夜良直」と称する卜部の名族があるのは,当地の古族かとみられる。〔後掲角川日本地名大辞典/与良〕

 ②の「よりあげ」というのは,下記柳田推論からすると,水辺に臨む霊地を指すもので,やはり神の「いず」≒「斎く」イメージの地名と考えられます。

兼城の安波根にはコバモトの嶽,宜野湾の安仁屋(あにや)にはコバツクリヨリアゲ森があります。淘り揚げという御嶽は多<渚に臨んだ霊地で,海がもたらしたる奇瑞の石を,斎(いつ)くものかと思われます。常に前兆と啓示とに基づいて,祭典を経営した民族にあっては,やや普通でない樹と石との行動は,すべてみな神の言語として受け容れられたのです。数あるコバウ嶽の中でも,山北今帰仁のコバウの嶽は,ことに神山でありました。〔柳田国男「海南小記」1975

 ③の新羅・加羅などの類似音とする説も,2音なのでどうとでも言えるとはいえ,刺激的な説です。④の類似地名説も,他に厳原の與良祖神社(宝満宮),豆酘東方の厳原町与良内院など明らかに共通根を持つ地名が残ります。
 ⑤与良祖神社が現・八幡神社に吸収されている,見方によっては八幡の前身かもしれないという指摘も本当なら重要な起源です。
 驚かされるのは⑥830(天長7)年「新撰亀相記」に「夜良直」と称する一族名があり,これが卜部だったとする言説です。実は(ワシも忘れてたけど)原文は前章に掲げています(→「夜良直」記述原文)。──ここに「上懸郡五人直井卜部也下懸郡五人卜直部夜良直也」と,上(対馬)県と下(対馬)県で微妙に異なる言い回しの中に出てくる「夜良」には,さらに深読み出来る余地がありそうですけど……流石に実力不足です。
 最も不思議なのは,この途方もなく古い「やら」称号が,近代はおろか中世には掻き消されてしまっているように見えることです※。何らかの意味で忌むべき名だったのでしょうか?──瀬戸内海には淡路や讃岐の由良地名を考えると,広域的に嫌われる地名ではないと思われますけど……白村江以降に新羅の「羅」と重なるから,とか,奈良と「ala」音が近いから,とか何か対馬独自の事情があったのでしょうか?

※wikiには「与良村」という項があり,広域名称としての与良郷が1872(明治5)年に廃された後,1908(明治41)〜1912(明治45)年の5年間だけ与良村が存立している。旧豆酘村・尾浦村・安神村・久和村・与良内院村・豆酘内院村・豆酘瀬村・佐須瀬村・内山村が合併して発足し,大半は新・厳原町に,残部が豆酘村に吸収合併されたとある。

 いやはや,主邑の地名一つでこの深みです。対馬の歴史地理というのはどんな泥沼なのか,先が思いやられます(囍)。

■レポ:宮谷武家屋敷はなぜそこにあるか?──桟原城との位置関係考

「みやだに」と濁って読みます。
 由来は,第16代島主宗義調(1532-1589年)がこの地に隠居所を構えたときに,そこが神祠※の近くだから「宮谷」と命名し,自分の建物は「宮谷館」としたためという〔後掲対馬全カタログ〕。

※谷出橋の西上方にある風神の祠のことと伝わる。

 以後,義調に倣って武家が屋敷を構える慣習ができた場所らしい。

桟原屋形(城)に近いので武家屋敷が多く、その石垣が観光スポットとして多くの観光客を集めている。道は舗装され、川に落ちないように柵が設けられたが、石垣のほとんどは江戸時代のものだ。〔後掲対馬全カタログ〕

 ここでは,この宮谷の位置を問題にしたい。まず,上文では桟原屋形に近いからとされるけれど……「桟原屋形」とはどこでしょう?

桟原城の推定位置〔後掲桟原城〕
桟原城の推定位置〔後掲桟原城〕
 現・陸上自衛隊対馬駐屯地の位置に当たります〔後掲対馬の城,wiki/桟原城〕。1678(延宝6)年築で,17Cに建った城というのは一国一城制度上ありえないけれど,そこは「屋敷」だということで幕府には通ったらしい。

1678(延宝6)年、桟原城(さじきはらじょう)が完成すると藩庁機能は失われていますが、その後も城は存続。
つまり、一国一城令の後には、桟原城を「御屋敷」、金石城を「御城」として両立させたのです。〔後掲日本旅マガジン〕

 桟原「城」は,金石城から直線距離にして2km離れてます。宮谷はそこから500m,両城のうちでは桟原に近いけれど,中途半端な位置と言わざるを得ません。
 桟原は阿須川から厳原本川が分岐する三叉地点です。新たに屋敷を設けるなら近辺に用地を求めた方が,別の谷筋に求めるよりは容易いはずです。

(上赤四角)桟原城 (中赤丸)宮谷 (下赤丸)金石城〔地理院地図〕

 桟原「屋形」新設の趣旨は,大分後ですけど1809(文化6)年刊の「津嶋紀事」に記載されています。──史料「津島紀事」は,視察に来島した幕臣土屋帯刀(たてわき)の命で府中藩の郡奉行・平山東山が編み幕府に提出したもので〔後掲日本人名大辞典/平山東山〕,幕府向けの公式見解を記したものです。

先君世城二居住ス然モ家狭ク屋敷湿地ナル故朝鮮ノ使者接待二ヨカラザル故別埜ア桟原二営造ス則山ヲ平木ヲ伐梯シテ家ヲ建(略)〔津嶋紀事〕※後掲対馬の城

※同長崎県はその追加解釈として「『朝鮮通信使』に対し藩の威容を見せられないということ,金石城が,港から近いため,『朝鮮通信使』の隊列が整わないなどの理由があったとされる。」と記している。

 沼地なので朝鮮使節を接待しにくいから,桟原に屋敷を造営した。その造営は「則山ヲ平木ヲ伐梯シテ」,つまりゼロベースで新造したことになってますけど──桟原城の発掘調査では江戸期より前の朝鮮陶器が多く出ており,築城以前から貿易の場だったことが伺われます。

これらの陶磁器のほか、朝鮮王朝陶磁が築城以前の桟原下層とした層より出土している。時期としては14世紀〜16世紀のものが出土しており、なかでも16世紀のものを主体としているようで、白磁碗・雑紬陶器が量的に多い。〔後掲長崎県教委〕※下線は引用者

※1994(平成6)年に同地自衛隊の隊舎建設の際,長崎県は三ヶ月・500㎡に渡る文化財調査を行っている。〔後掲長崎県教委〕

 つまり桟原屋形は,室町期からその原型があったと解せざるを得ません。
 そもそも義調が造った「隠居屋敷」自体が妙な位置です。普通に捉えると,旧清水山城を含む尾根道を結んだ広域の防衛を考えていたように思えます。
 その場合,桟原城が如何に平城※でも,その南前面の西側尾根に防衛拠点があれば,いわゆる縦深陣地を形成できる,という構想を持っていた可能性があります。

※同長崎県は「標高32m程の平山城」と記している。

 現実の歴史上,何度となく外国勢力の進攻を受けてきた対馬にとって,幕府が何と言おうとそうしたリアルなリスクは想定せざるを得なかったのかもしれません。

※同長崎県は「宗氏が鎌倉時代に在地の土豪の阿比留平太郎時国を討ったときに、この地に首をさらしたことに由来するという。付近に首塚があったとされるが、現在は不明である。」としており,宗氏にとって軍政上縁起を担いだ土地という意味合いも考えうる。
4つのリスク対応概念図〔後掲リスク管理Navi〕

宗氏的リスクマネジメント

 上記はリスクマネジメントの4つの大きな対応方向として,現在概念化されているものです。
 桟原が早くとも14Cから遅くとも19Cまで朝鮮貿易マーケットの実質的中核で,けれどもそこが平城で,かつ外敵の軍事進攻という現実の脅威が相当に想定されたとすれば,そこを可能な限り防衛を施す「リスク軽減」手法だけでは十分な対応たり得なかったでしょう。
「保有」=予備(保険)財源の保持は,長崎・薩摩貿易に脅かされる他産業に乏しい対馬の貿易環境からは不可能です。「移転」=他地への拠点移動の余地もない。
 ならば「回避」策,つまり非常時に清水山城から金石城方面の山間部に貿易資産を退避させる方法しか,選択肢がなかったのではないでしょうか?

平成28年度整備工事設計図〔後掲対馬市教委 図55〕※左上が北

 その際には,宮谷経由でその最奥から清水山城に上がっていくことになります※。──現在遊歩道が整備されている東側からの道は,左右が谷になる尾根道ですから,平時にはともかく戦時には攻めにくい。
 宮谷の武家屋敷は,桟原の「財宝」が山へ上がった後を追う外敵の迎撃用,酷に言えば「人柱」として配置されたのではないか,というのが本稿の推論です。
再掲地理院地図に桟原城→宮谷→清水山城退避ルートを上書きしたもの
(上赤四角)桟原城 (中赤丸)宮谷 (下赤丸)金石城

※清水山城への宮谷側からの登り道は山道のようなものが確認できるだけで,ただ宮谷を造る川沿いがなだらかに続いている地勢から,上記の推論を行いました。ただし,後掲対馬市教委が現・遊歩道を造営する際にも,「入口から三の丸・二の丸を経由して一の丸に至る道は、道標もなく樹木に覆われており、見学もしにくい状態である。」(昭和59年頃の清水山城跡整備計画)と見ており,昭和末年まではどこが既存の入口だったか不明になっている。
清水山城から見た厳原の街と港〔冒険県 冒険する長崎プロジェクト ワクワクを探しに出かけよう/対馬に城跡や砲台跡が多いのはなぜ?実際に訪ねて平和の意味を考えよう!〕※URL:http://boken.nagasaki.jp/spot/boken099.html

■レポ:徳川日本唯一の公式外交拠点:対馬府中藩

 新井白石と理論戦を交わした雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう 1668(寛文8)年生-1755(宝暦5)年没)の生国は近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)。
 地名を姓にしてます※。町医者の子息で,京都で医学を学んだ後,江戸で朱子学者・木下順庵門下に入る。この同門同期に新井白石もいました。

※町医者である雨森清納(きよのり)長男として生。名は俊良(しゅんりょう),通称は東五郎(とうごろう)。現在の呼ばれる芳洲名は雅号(対馬の別称「芳津」に由来するとの伝えあり)。
 雨森氏は元・浅井家有力氏族で,江北四家(磯野・井口・赤尾・雨森)の一。〔後掲須賀谷温泉〕

 順庵の推薦で対馬藩に仕官。最初,江戸藩邸勤めだったらしいけれど,1692(元禄5)年,つまり24歳にして対馬本島に赴任してます。途中,長崎で中国語を学んでる。1698(元禄11)年には朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)となって釜山の倭館に七度渡り,朝鮮語も習得。朝鮮側の日本語辞典「倭語類解」の編集に協力,自身も朝鮮語入門書「交隣須知」を編む。──その語学力は,晩年には対馬藩直営の朝鮮語学校「韓語司」を設立したほどで,先の「交隣須知」は明治期まで朝鮮語の教科書となりました。
 これだけの天才が,白石のように政治中枢に身を投じるのではなく,外交のメッカとして対馬を選んで思いっきりのめり込んで活躍しているのです。それは雨森だけの偏執狂ぶりだったのでしょうか?

綺羅星の如き対馬官僚

 後掲嶋村さんは「萬松院からいただいた『御墓所案内』在墓藩主略表に出て来る官僚」として,雨森を含む次の8人を挙げてます。
①賀島兵介 ②松浦霞沼
③陶山訥庵 ④斎藤延
⑤雨森芳洲 ⑥杉村直記
⑦松浦桂川 ⑧平山東山〔後掲嶋村/官僚が時代を動かす。対馬藩には誰が?〕
 うち①賀島,③陶山及び⑤雨森は対馬三聖人と称されます。
 ④斎藤延は不詳。

 生国
対馬:①③⑥⑧
   ⑦(雨森の孫)
他地:②播磨 ⑤近江(長浜) 

木下順庵門下
木門:②③⑤
(うち②⑤は木門の十哲)
他 :①⑥⑦
   ⑧(満山雷夏門下)

功績地
対馬:②③⑤⑦⑧
他地:①鳥栖(対馬藩知行地) ⑥江戸(江戸家老22年間) 

朝鮮担当
朝鮮:②(朝鮮通交大紀著)
③(竹島紛争) ⑤(芳洲理論) ⑥(貿易衰退補填金獲得)
他 :①⑦⑧

他功績部門
行政全般:①
農政:③(野猪殲滅)
地誌:⑧(津島紀事編纂)
ー:②⑤⑥⑦

幕府・藩との対立
有:④(朝鮮人参密輸への不満から朝鮮方佐役辞任)
  ⑥(松平定信と対立し隠居,藩からも反易地※派領袖と目され江戸で取調べ中病死)
  ⑦(宗義蕃世継ぎ問題で藩主に反対,18年余間幽閉)
無:①②③⑤⑧

※易地聘礼:えきちへいれい。朝鮮との国書交換を江戸でなく対馬で行うこと。1811(文化8)年実施。

雨森 朝鮮方辞めたってよ

 芳洲は1698(元禄11)年から23年間,つまりほぼ四半世紀努めた朝鮮方佐役から,藩方針への抗議として自ら職を辞しています。その理由をwiki(雨森芳洲)はこう書いています。──「朝鮮人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から,享保6年(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕之允に譲った。」
 これをそのまま読むと,対馬藩が朝鮮人参密輸を政策としていた,と読めますけど……少なくとも表向き,そんなことはないはずです。そういうことをやってたのは薩摩島津藩であって,それをやらないから対馬口の貿易は没落したわけですから。
 本稿は「海域アジア編」と同時整理してます。そういう興味から彫り込んでいくと,またもや泥沼で……ついに一章別建てといたしました。対馬,恐るべし!

ねを違い

■史料:根緒 ねを・ねう という地名のこと

 津島紀略は平山東山の「津島紀事」の底本となった地誌で,これも前掲八官僚の一人・陶山訥庵が記したものです。陶山の生年が1658-1732年なので,江戸前期のもの。
 ここに既に「根緒」地名は書かれています。

琴〈読如字〉,在葦見之北廿一町,去府十五里十二町,至舟志二里六町,至五根緒一里廿四町,東岸曰琴崎,琴之東辺有壌地,曰藻木〈茂義〉〔津島紀略,後掲角川日本地名大辞典/琴村 に転記〕※「至五根緒」の「五」は字義不明。誤記か。

 角川日本地名大辞典の「根緒」項には「鎌倉期」の初出を記す。原典「あひる千代証状写」や「宗茂世書状写」は不詳だけれど,乾元2年は1302年,応永27年は1420年。遅くとも鎌倉末期には存在した地名です。

 鎌倉期から見える地名。対馬国のうち。与良郡に属す。ねを・ねうの村とも見える。けんけん(乾元)2年9月21日のあひる千代証状写に「つしまのくによらのこをりねふ」と見え,「〈ねう〉ゑんめい寺さうしゆ」にあてた応永27年6月13日の宗茂世書状写には「ねうのちさうたうのまゑのミちの事」と見える(大扈徒御判物帳/県史史料編1)。〔後掲角川日本地名大辞典/根緒(近世)〕

 案内板にあった大塔宮勢力の所領の伝えも記されます。ただし,「大党氏」と書かれるし,「大田右衛門尉」も不詳。鎌倉末〜南北朝の宗氏は主家・少弐氏からの半独立状態で,少弐氏は概ね北朝方なので,普通には大塔宮系統の勢力を自領に容れたとは考えにくい。

当地には大党氏の所領が存在した。応永6年3月5日の某預ケ状写によれば「つしまの島下津郡の内ねうの田地」が大党備前守に預け置かれ,応永11年6月1日の宗貞茂充行状写によれば「つしまの島よらの郡之内さいちやう地之内,ねを田地畠地」が大田右衛門尉に充行われている(同前)。〔後掲角川日本地名大辞典/根緒(近世)〕

 ただ,根緒の地形は対馬東岸で,点在する島々に緩く遮られた港になっており,東への反攻拠点としては適切な位置にも思えます。

根緒付近〔地理院地図〕

 この場所は,音が先にあったことははっきりしているのに,平仮名表記そのものがブヨブヨしているようです。漢字以前なのはもちろん,平仮名の発音体系より前からあった音韻による地名──そんなものがありうるのでしょうか?

「ねう」ともいう。古くは「にょう」と称した。対馬の南部,東海岸に位置し,東は対馬海峡に面する。東には3つの小島が並び,「根緒の三島」と称される。地名の由来は,根山の根浦の意味で,「ねほ」が転訛したものという(津島紀事)。また当地と小浦の間に琴瀬と呼ばれる岩があり,琴と関連付ける説もある。北方に「ねえら」という海岸,同じく「ねそ」という浦があり,それらとの関連も考えられる。〔後掲角川日本地名大辞典/根緒〕

「琴と関連」とは音緒(ねお)のことでしょうか。二音なので,様々な由縁が唱えられてます。
 全く突飛ながら,ギリシャ語源のNEOが英語のNEWに転化する──根緒とその最古称「にゅう」の整合,これは何でしょうか?
 結論どころか展開しっ放しになるこの地名の土地は,トンネルの合間でふと垣間見ただけでした。

■レポ:黒瀬觀音堂の「おんな神」

「如来信仰でしょ?」とこの日は通り過ぎた黒瀬觀音ですけど,この方の画像はどうも露出してないらしい。
 むしろそこに興味をそそられました。
 観光上売り出すどころか,全面的に公開してもいない。何と,拝観時には事前に連絡して時間を調整する必要があるんだそうです。
 正式名・銅像如来坐像。そのイラストが対馬歴民報に載ってました。

鋳造如来形坐像 統一新羅時代(国指定重要文化財)黒瀬觀音堂〔後掲津江(対馬歴史民俗資料館)〕

黒瀬観音堂(銅造如来坐像、銅造菩薩坐像)
銅像如来坐像:国指定重要文化財。統一新羅時代(8~9世紀)の作。造高43.6cm 銅像菩薩坐像:町指定有形文化財。李朝時代(15から16世紀)の作。像高51cm
銅造如来坐像:この仏像は、黒瀬の里の産神として、当地の観音堂に祀られてきたものであるが、その由来は不詳である。法衣を左肩にかけて右肩を脱し、胸前で一種の転法輪印を結ぶ。技法で注目されるのは、頭部と右腕、胸を含む上半身、法衣をかけた左肩から腕を含む下半身とを別鋳する点である。台座は蓮華の半分ほどと、反花のついた八角形の框が残っているのも貴重。
銅造菩薩坐像:この仏像は、産神(おんな神)にたいするおとこ神として観音堂に祀られている。(略)〔後掲九州旅ネット〕

 つまり,一般公開していないのは「黒瀬の里の産神」だから,ということらしい。沖縄の「根屋」並みに,保守的な集落独自の信仰があるようなのです。

対馬にぞ根付き過ぎてる朝鮮仏

 先の引用でもう一つ目を見張ったのは,如来坐像が「女神」扱いされていることです。
 上記の見かけで如来です。後付けの仏像が菩薩なら,感覚的にも仏教的にも菩薩の方が女性格を持つように思えます。
 そこには,対馬の人々の持つカミのイメージが反映されてるように思えました。
 ここで,以下の津江さんの豊潤な愛郷心に彩られた(と感じられた)対馬朝鮮古仏についての文章を転載します。

 対馬には多くの古い仏像が散在し、保存され、そして深い信仰の中にある。それ等の仏像は京都や奈良で拝するような大きなものではないけれども、村人達の素朴な信仰の対象として長い間生きつづけてきたのである。
 対馬の仏像の中には、対馬で制作された木彫の観音や女神像等の野趣に富んだ作品群がある。又、本土の中央仏師の制作になるものと、北九州文化圏彫刻と同類の作風を示すものと、いわゆる本土から島に来た仏像群がある。それから最も特徴ある存在である朝鮮仏群がひっそりと散在している。
 まったく対馬には朝鮮彫刻が集中的に存在しており、現在の調査の段階では百体以上を数えることが出来る。それ等は政治経済の中心地であった厳原町と、朝鮮に近い西海岸方面に多く収蔵されている。そして制作年代は、朝鮮三国時代から統一新羅、高麗、李朝時代まで及び、対馬の人達が長い間、朝鮮仏へ親近感をもち、その美にうたれていたことを 証明するかの如くである。中でも高麗仏が最も多いことは貴重なことであろう。材質は金銅(ブロンズ)、木像、石質像、陶像、木心塑造等あるが、数量的には断然金銅造のものが多く、最も大きいもので厳原町久根浜の大興寺の釈迦如来坐像で像高 七八、一センチのものから、十数センチほどの小像(持念物)まで大小さまざまである。〔後掲津江(対馬歴史民俗資料館)〕

 単に「親近感」と言ってもこれほどの違和感を生むのです。これを言い換えると,朝鮮的な美をこそ対馬の村落民は美しいと感じた。中世頃までの対馬人の審美眼は,ほぼ朝鮮のそれだったのです。
 ただ唯一,そのカテゴライズに対馬テイストが残ってる。本体がピュアな朝鮮系だから,その無理矢理さ,違和感が対馬独自の色彩になってる。

誕生仏に対馬が投じたイメージ

 対馬古仏像の特色として,もう一つ,釈迦の誕生時をモチーフにしたものが多いことが挙げられるそうです。

[左]銅像誕生仏(李朝時代 厳原町大平寺寄託) [右]銅像誕生釈迦仏立像(飛鳥時代 正眼寺所有・奈良国立博物館寄託)

又、如来像、観音像、女神像、地蔵菩薩等色々の種類の外に対馬には誕生仏が多いのが特微であろう。
 釈迦が生れた時「天上天下唯我独尊」といって手を上げて天地を指さされたという、独得(ママ)のポーズのものである。四月八日の花まつりの日に甘茶をかけて礼拝する行事は今もなお残っている。稚拙愛すべき表現で、非常に現代的は(ママ)自由な表現である。
 本土にある有名なものは長い裳をつけた形であるが、ここのは短かい裳をつけ、又、右手を挙げるのに、左手を挙げた形のものまであって、実に楽しい制作ぶりを感ずることが出来る。久根浜の大興寺、美津島町小船越梅林寺に収蔵されているものは、代表作であろう。ともに十世紀から十一世紀の高麗時代の制作となっている。 〔後掲津江(対馬歴史民俗資料館)〕

2014年の盗難事件で有名になった梅林寺の誕生仏「韓国人4人が24日午前、日本長崎県対馬市の寺刹である梅林寺から盗もうとした高さ約11センチの誕生仏。 銅で作られたこの仏像は新羅時代9世紀に製作されたと伝えられている。 日本対馬市教育委員会提供 連合ニュース」〔後掲hankyoreh japan〕

「子ども」という共通項しかないけれど……これは,対馬の天道信仰の一種の混淆ではないのでしょうか? 仏像芸術の形で,信徒のイメージが具象化された,と言い換えてもいい。
大興寺の銅造誕生仏〔後掲長崎県/長崎県の文化財〕

 天道(天童)法師の姿は,あまり具象化されたものがありません。また,生誕にまつわる逸話も乏しい。ただ,「日輪之光に感して有妊て」と語られるだけだけれど,それにしてはイメージが鮮烈で,この母の神体への信仰も存続しています。
 この古代超能力者の出生譚は,何かの理由で封じられた物語なのではないでしょうか?
天道法師の母像。天道女躰宮の御神体である(「対馬国志」より)〔後掲webムー〕

 以下に天道法師の対州神社誌記述を(曾孫引きですけど)挙げて,本稿を終えます。
 終えますけど……以上掲げた誕生仏とその母の画像をどうご覧になりましたでしょうか?
 日本的な仏像の造形と全く異なります。もちろん百済仏など三韓のそれとも異質です。プリミティブというか,木石がそのままこっちを見返してきてるような表情──「朝鮮仏」と区分されるのは,衣文(えもん)の形式かららしいけれど,全体のタッチが,何というか,アフリカめいた虚空を感じさせます。これらのイメージは誰が創ったものなのでしょうか?
統一新羅時代の渡来仏と鑑定された,対馬市の民家に伝わる仏像。九州国立博物館(九博)の研究員を招いた市民向けフィールドワークに,「ほかの仏像と一緒に仏壇に祭られていた」ものを対馬市厳原町の主婦(71)が持ち込んで判明したもの〔後掲長崎新聞2020/10/12〕

史料:対州神社誌及び多久頭魂神社由緒中の天道法師伝承(原文)

 文末は「右之外俗説多しといへとも難記」と〆てあるように,対馬の天道伝承は多岐に分化しているらしく,異説外伝はまだまだ多数あるらしい。

対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳二月十七日、此女日輪之光に感して有妊て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥六壬辰年十一月十五日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶三癸卯年、対馬州に帰来る。霊亀2丙辰年、天童三十三歳也。此時に嘗て、元正天皇不豫有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。天道吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、竝、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉可免罪科矣、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者、是也。其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍略之。不詳也。〔対州神社誌 原典:鈴木棠三 「対馬の神道」三一書房,1972年 ※wiki/天道法師〕

 また,前日に訪れた多久頭魂神社の由緒を転記しているらしき本地垂迹資料便覧には,類似する次の記述があります。

天道法師縁記
天道法師者、 天武天皇白鳳二年癸酉、生於対馬州酘豆郡内院村僊山之沢上、 其母一朝向日尿溺、受日輪光感有娠矣、 至其誕辰、則五色瑞雲靉靆、而四面垂布、 其現以有此天瑞、故小字謂天道童子、 且以日輪精、故謂十一面観音化身、 蓋天地之霊山山河之秀、不測非常人也
[中略]
大宝三年癸卯、天皇不予搢紳呑気、 仍令一時占者、為亀筮、則日海西対馬国、有天道法師者、 教彼祷天寿、乃皇上病立癒矣、[中略] 皇上深感祷寿之妙応、而詔天道法師賜宝野上人号并菩薩号
[中略]
天道法師入定地、在酘豆郡卒土山半腹之上、計画其地則縦横八町余、 而中積畳平石、以有九重宝塔、其境絶頂雲掩霞遮、鬼守神護、 不生雑草、不掃無塵、実天上覩史地外霊場也〔後掲本地垂迹資料便覧/多久頭魂神社〕

2021年発表・対馬博物館公式ナビゲートキャラクター(左)越高獅子右衛門と(右)みたけさん
※前者:上県町越高で発見された青磁獅子型硯滴(推定・13C全羅道制作)より
後者:北部御岳に生息したキタタキ。1923年天然記念物に指定されるが,1962年調査では生息確認出来ず。

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