009-1豆酘\対馬\長崎県

▲初めて見た節分モードの櫛田神社の鳥居

~~~~~(m–)m対馬編~~~~~(m–)m
凡例 白字桃地:対馬
海域アジアの
頻出地名・対馬
どうしても
行かねばならぬ
気がしました。
[前日累計]
利益 -/負債1455
§
→二月八日(六)
0230むっちゃん饅頭 カスタード
Oven クリームフランス370
0900Bel Waffel ワッフルセット250
1349対馬庵
ろくべえ450
1900村瀬製菓かすまき250
ksOven アメリカンビスケット250
[前日日計]
支出1400/収入1570
    ▼14[243]
負債 170/
[前日累計]
利益 -/負債1285
→二月九日(天)

目録

媽祖巡礼 コンティニュードin対馬

多から乗った九州商船のジェットフォイル内で,とにかくその日の豆酘行きバスの時刻表を調べました。
厳原1435→豆酘1512
豆酘1639→厳原1716
 その日のうちに厳原まで帰るなら,それしか便はないらしい。
 対馬は三度目です。この島の大きさはよく体感してるつもりです。山嶺連なる垂直の高度はないけれど,海岸線の複雑さから,地図上よりも多彩でそれが巨大な印象をもたらす。
 コロナで海外へ行けなくなった直後でした。この機に国内の要所を巡っておきたい……と,まだこの疫厄が数ヶ月と思いこんでた当時はそう考えて選んだ旅先でした。

度目とは言え,これまでは島好きとしての旅行でした。海域アジアの好学徒としては初・対馬です。
 ではあるのですけど……前者の時代の皮切りに読んだ「忘れられた日本人」で宮本常一が歩き記した豆酘の村々の鮮烈な光景は忘れ難いものがあったのでした。
 かてて加えて──上陸した厳原港から宿まで歩く途中に寄った本屋で,いきなり見つけてしまった本を購入。内田樹・釈徹宗「聖地巡礼 コンティニュード 対馬紀行」──滞在中に読み込んでたこの本にも引きづられた,色々と半端な旅行紀になっておりますです。

宮本常一はここを歩いたの?

🚌
な訳で,1435厳原発。
 バスというかミニバンです。まず南行から右手西側の登りへはいる。左手に港一望。フェリーが入ってきてる。
 すぐに,離合できないような細道になりました。下に鮮魚直売所。お船江跡。
 1440,久田。一気に登りに。
 やはり山が深い。向山トンネル。1442。まだ登ってく。さらにトンネル。
本編の行程

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

浦入口。路肩にはかなり崩れた跡。……こりゃ自転車じゃ無理だ!宮本さんはここ歩いたのか?四叉路を直進。
 安神入口。1449,さらにトンネル。
 ここから下りに入る。山荒れる。下りも傾斜は凄い。雄大な山肌。疎らな集落に入る。
 1452,ようやく在家。
 左手に川。川石が丸く巨大です。
 1455,桃ノ木・鮎もどし。
 1500,西の集落に入りました。1501,佐須瀬。豆酘瀬。
 もう一山越える。1505下りに。
 1511,消防署や産直の駅の三叉路を過ぎた辺りで下車。センター側へ折り返す。
 1517,三叉路※を消防署側,今バスで走った道へと逆に歩いて……500mほど。あの右脇道かな?と思った地点の逆サイド,道の左手に思いがけぬものが。

※この消防署の三叉路を北西に入ると,雷神社という古社がある。巻末参照。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.:降車地点〜多久頭魂神社北口
GM.:同神社南口駐車場〜豆酘郵便局・バス停
(ともに経路)

思いもかけず ほとこやま

▲古墳

?「保床山古墳」?
 1520。少し入ってみる。
 分かりにくいけど残土あり。7C造営と案内板ある。さらりと書いてるけど──飛鳥時代なのか?
 これはまた……いきなりえらく深い場所に来てしまってます。

──「とこやま」と読む「保床山」。おそらく音が先の地名です。
 1948年に東亜考古学会によって調査されたというから,宮本常一が参加した九学会連合の流れでしょうか。
 石室は割石積みの横穴式石室。南に開口。石室東南隅から須恵器・有蓋銅腕,西北隅から土師器・須恵器・金銅製太刀が出土,研究者の評ではいずれも畿内からの下賜品。
 現・定説では,豆酘で古代から営まれる卜占神事の当事者が葬られている,という見方です〔後掲長崎県〕。けれど,その者がヤマト王権と古くから関わっていたというのは,何を意味するのでしょう?
▲古墳から豆酘港方向

初めての豆酘 いきなりの山道

って神社看板から入る。2枚あって悩ましいけど北側からにする。1529。
 山側に大がかりな獣罠。
 車も人もまるで気配がない。土地勘もなくこんなところに迷い込んで大丈夫なのか,ワシ?
▲看板から山道へ

さな看板から右手へ入る。1538。
 舗装はあるけど……完全に林道の風情です。曲がりくねって行く手が見えないうちは,ちょっと生還を期し難い気もしてましたけど──
▲豆酘山中,神社への山道

う一本先の入口からなら神域裏手に直接出れたのかもしれません。
 1540,集落の広がりを行く手に見た後,左手にふいに鳥居が現れました。おそらく時計回りに回り込んでしまった格好です。
 登る。

普陀山 毘沙門 瑠鳩堂……媽祖は?

▲一の鳥居から登りにつく。
内板が一枚だけありました。
 人の姿のない林の中を見渡す。日本神道では有り得ない,けれど他の,少なしワシがこれまで見てきた宗教の社のどれとも違う。森中の,木漏れ日の落ちる荘厳な広場を半円に取り巻くように諸社がある,という感じ。本殿への道も,ここがメイン,と主張してはいません。
▲参道の概略位置図

の鳥居前の手洗場から右手へ,さらに三叉路を右へ。
 観音堂。社の並びから言うと一番手前,新参の位置です。
▲観音堂

545,観音堂。
 額には中央「普陀山」,右「毘沙門」,左「瑠鳩堂」。お堂には鍵。媽祖信仰の可能性を期待したけれど,その痕跡は全く認められず。
 というか,何とも等閑視されてて,社というより東屋に近い。拝壇がなければ祈りの場とは捉えがたい雰囲気です。
▲本殿へ

豆酘の樫ぼの

堂への道を辿る。
 沖縄の御嶽のような,参拝者を招く気のない,それどころか出来れば来ないでほしい,という拒否感が満々の宮です。さっきの案内板がなければ本堂を見失っていてもおかしくない。
▲最奥の大樹

551,本殿。
 右手に土俵。最奥に大樹。根元に小さな,けれど明らかに神威を主張する社。
 その右手から,さらに奥へ道が伸びるけれど──タイムアップ!
 引き返す。
▲帰路に残照
居正面道から東に豆酘寺門。1557。「樫ぼの」遺跡と立て札。
 後に調べてみても──

地元の人が「樫ぼの」と呼ぶ、樫の実を水漬けして保存する設備のこと。(略)飢饉の年に救荒食料として樫の実を採集して、水に浸けて貯蔵した穴蔵といわれ、対馬では各地にあったと思われます。(略)対馬では穴を「ほな」と言い、豆酘では「ほの」と言われていたことから、「樫ぼの」と言われたといいます。〔後掲長崎しま旅〕

名前と伝承だけで,本当に実証されてるのはそこに変な穴があることだけ。──例えば樫の実を貯蔵したなら,その残り滓なりが出てきそうなものですけど……。

永泉寺の四叉路

▲神社の丘を振り返り

渡る。
 豆酘川ではないかと思うけれど,権現川と記す記事もあり判然としない。
 ようやく集落へ。振り返り一枚。1559。
▲豆酘集落

うもこの辺の農耕を主業にしてきた集落に見える。海の町の色は,もう一つの集落・浅藻の方が強いのかもしれないけれど──ここへ行くにはもう一日潰さないと無理なのです。
▲1603豆酘集落

じはいいんだけど……道も家も近代的な雰囲気です。
 四叉路。永泉寺。
 方向から左折を選ぶ。1602。

収穫はみかん20個

▲1605豆酘集落

608,豆酘郵便局方向へ左折。
 かんだはし(神田橋?)。一旦港側へ出てみようか。
 1613,豆酘漁港。
 どうも家並みが読めません。それが読めたら分かると踏んでたんだけど……バス停は?
ついに道を尋ねる。おばさん曰く「あの看板の前辺りで待っておられたら?」
▲1611集落

便局のすぐ西,さっき通った場所に確かに豆酘と看板はありました。時刻表も何もないけど……確かにここしかなさそうです。
 集落には見るべきものは特にない。ただ,家の軒先には所々小さな祠がある。あと石垣がやたらに多い。
▲1612神田橋

物らしいみかんが,あちこちにある無人販売所にありました。20個ほども入った袋が百円。収穫がないので代わりに購入。
 メイン道らしきものがないのも古い集落道が平地を埋めてるからでしょう……か?
▲1622集落

厳原=内山・瀬+豆酘+浅藻・内院

640,運ちゃん以外無人のバスに乗る。集落のどこからも,なぜか誰も乗って来ない。
 あれ?料金表示は次が浅藻??でも引き返して山を越えてるぞ?
 山をかけ登る段々畑の…跡。家並みは豪勢だけど労働性はかなり衰えてるらしい。
🚌
び峠。トンネル名にある内山峠がここの地名でしょう。安神入口。一瞬,岬を見渡す絶景。
 後日,厳原市作成らしき「厳原南部地域アクションプラン」※というPDFを見つけたけれど,厳原より南は行政的には①内山・②瀬・③豆酘・④浅藻・⑤内院の五地域から成り,住民感覚としては①②-③-④⑤の3地域に大別されるらしい。
※URL:https://x.gd/lR8GX(短縮)

内山峠からの眺め〔GM.〕

原での下車時に支払いしようとしたら「いいですいいです」と辞退された。まあ何と親切な運ちゃんでしょう。
──んな訳ない。バスなんから無料はないだろ?それでよくよく運ちゃんを見ると往路と同じ人で,流石にこの路線に部外者は珍しいから記憶してたらしい。
「今度からこの切符を買われたらいいですよ」と一日券みたいなものを見せる。なるほど,これを買ったことにしてくれる,という意味なのか。やはり親切だけど,とにかくこの路線で千円以上払う人は物凄く目立つらしい。
 単に一日3便の過疎路線ってだけじゃなく,それ以上に守られなければ続かない,地元死守の路線。そんな印象を受けました。
🚌
,厳原では当然ながら晩飯の外食店なんてない。飲む気ならかなりあるけどお食事ができない。
 ただスーパーはある。交流館にRedCaveageという外地の店があり,かなり規模は大きい。刺身とかすまきを買ってみたら,どちらもなかなかでした。
 魚は長崎並だと思う。かすまきも餡が半ばソース化してる独特の味覚で,こちらには滞在中ずっとハマってました。
かすまき坊主!──けどそのキャッチ,長くね?

■レポ:雷神社と対馬と亀卜

 見逃してしまってる豆酘・雷神社(GM.→位置)は古社と伝わる。延喜式(巻9・10神名帳 西海道神 対馬国 下県郡)の「雷命神社」に比定されています。
 祭神は雷大臣命。元,神功皇后の審神者(さにわ)・中臣烏賊使主であったという。
 読みは「なかとみのいかつのおみ」。何と以後の天皇に連なる中臣氏です。新撰姓氏録には天児屋根命十四世孫と書かれる。
 三韓征伐からの凱還後,対馬県主,豆酘の館に住む。神功皇后従軍後には「韓邦の入貢を掌」ったとあるから,要するに出入国管理の要職にあったことになります。おそらく朝鮮半島の知識なのでしょう,祝官に祭祀の礼と太古の亀卜の術を伝えたという。
 死後,その館跡が祠となり亀卜の神として祀られた,というのが神社の由緒になります。

現在行われる「対馬の亀卜習俗」〔文化庁/文化遺産オンライン〕

概観:対馬の亀卜

 対馬で古代から亀卜が盛んに行われ,おそらく日本国内で最も権威があったことは延喜神祇式の記述(→後掲原文)で明確です※。ただし現在も伝わるのは一家のみで,何とそれが雷神社の岩佐家という一族であるという。

※延喜神祇式で祭祀を行う亀卜20名の出身地別割当ては,伊豆5人・壱岐5人・対馬10人で,対馬が半数を占める。伊豆の5名と当時,言葉は通じたのでしょうか。〔後掲原文参照〕

 1871(明治4)年の対馬藩廃藩まで,藩の公式行事として行われた。ということは宗氏もこの習俗を,少なくとも統治機構外には置くことを許されなかったわけです。宗氏管下を離れた後は,豆酘地区の村行事として存続しています。

雷神社本殿〔GM.〕。こちらもやはり,日本神道ではありえない霊場感です。

 亀卜(きぼく)は甲卜(こうぼく)とも言う。カメの甲羅に熱を加え,生じたヒビの形状を見て占います〔後掲wiki/亀卜,以下用語は「亀卜」に統一する〕。焼きヒビを読む占い=太占(ふとまに)のうち,焼く素材をカメに限定するものが亀卜であるらしい。

祠の前で火鉢の炭で焼いた付け木を亀の甲羅に当て、ひび割れた状態から天啓を得、半紙に占いの結果を書く。天下国家の吉凶を占う祭事。
(略)正式に行うには多くの手間と人出が必要なために、昔と比べれば現在は簡略化された。本来の卜術や作法は失われているとも言われ、存続が危ぶまれている。〔後掲神社と古事記〕

亀卜(きぼく)と太占(ふとまに)〔後掲京都府教委〕

歴史(草創):最盛期は殷代

 古代中国の殷代に盛んに行われました。
 当時,占いの結果などを彫り込んだのが甲骨文字。中国では,占い自体は漢代には衰え,唐代に卜官も絶えたけれど,この文字だけは存続し「漢字」として現 代も用いられています。
 日本に伝わったものは,原初には,宮中でニホンジカの肩甲骨を使った太占として行われていたらしい。これが後に,中国伝来の形態である亀卜に移行,つまりカメの甲羅だけを用いるようになります。
 その移行年代が議論されることが多いけれど,奈良時代頃とするのが定説。ただし,神奈川県三浦市の間口洞窟遺跡からは古墳時代後期(6世紀代)の卜甲(亀卜に用いられた甲羅)が出土しています〔神奈川県教育委員会 編「平成28年(2016年)度 考古学ゼミナール ヒトと動物の関わり-考古学から考える-」神奈川県,2016〕

亀卜の朝廷浸透と対馬卜部の浮上

 後掲する延喜式新撰亀相記の記述から,時期もですけど,この時期に亀卜を朝廷が大々的に取り入れた意義が,対馬のそれとの関連を考える場合には重要です。

その(卜骨の)消長を大局的にみると、帰属時期は弥生時代前期~古墳時代初頭と、古墳時代後期~奈良・平安時代の2つの時期に大別でき、中間に当たる古墳時代前~中期に帰属する事例は僅少である。〔後掲國分2013〕※括弧書きは引用者

 物を焼いた壊れ方で占う(焼灼≒骨卜)方式は,平安期以前の王朝時代においても常に重用されたわけではない。イメージ的に最も盛んに考え易い古墳時代にはむしろ低調で,その前が(鹿の肩甲骨を主に焼く)太占の時代,後が亀卜であるらしい。つまり両者を一元的に捉える,もしくは通説とされる鹿の肩甲骨などの代替として亀甲を用いた●●●●●●●●●●●●●のではなく●●●●●,殷を含む古代祭祀として広まっていた骨卜(≒骨を焼く)と,対馬を核とする「新しい」太占としての亀卜を差別化する考え方が,文献や考古学的事実と適合するようです。

律令国家体制が構築されていく中で、公民制を象徴する祭祀として大嘗祭が構築されたとするならば、その選抜方法として、「限定的な知識」である亀卜が選ばれたとも考えられる。つまり、大嘗祭は伝統的な収穫儀礼を前提としつつも、その成立の時点においては「新しい祭祀」であった。〔後掲久禮〕

 この太占の新派が,まさに対馬を源流とする集団だったようなのです。

 対馬在住の永留久恵氏によれば、対馬が卜部の本家で、壱岐卜部は対馬卜部の一族、そして伊豆卜部も対馬から移された一派だとあり、またこの三国卜部はいづれも雷大臣命(いかつおみのみこと)を祖人とする同族だとありました。一方で壱岐在住の横山順氏によれば、卜部には、伊豆では嶋直、壱岐では土、対馬では上県・下県両郡の直、下県郡の夜良直(与良直)の諸氏がいたとあります。〔後掲鎌倉遺構探索〕

 雷神社の祭神・雷大臣命が,この集団の祭神又は祖神として登場します。場所的に海民が想定されます。そうして,亀卜が朝廷儀式に公式化される時代,彼らを統合したのが(神社由緒にもある)中臣氏とする次のような説もありますが──

 浅岡悦子著『古代卜部氏の研究』では「亀卜を生業とする全く別の氏族が、ある段階で同系統の氏族として統合された(略)と考えられる。」という見解を示しています。またその別々の氏族を統合したのが東国の卜部と密接な関係を持っていた中臣氏であったようです。〔後掲鎌倉遺構探索〕

 同浅岡論文を含め,①対馬の②亀卜がなぜ③中央の中臣氏に容れられ興隆したのか,という点は後でもう一度触れます。ここでは対馬の亀卜が,単にとてつもなく古いだけでなく,ヤマト王権中央とも繋がっていたらしい感触を押さえて通史を辿ります。



歴史(室町・江戸):大嘗祭の220年間の断絶と唐突な復活

 けれども亀卜の習俗は,それが織り込まれた朝廷の祭祀とともに,武士の時代に一度消滅しています。
 1735年に復活した大嘗祭で亀卜もまた再び行われるに至るけれど,この時点以降の亀卜には,対馬を含む卜部三国の名前は登場しません。この点に触れた歴史書を見つけることができませんけど──卜者もまた朝廷専属になっていったと想像されます。
 大嘗祭復活時に,亀卜のまだ存続していた対馬から技術の再移入を行う,というのは自然な発想に思われます。それはなぜ行われなかったのでしょうか?

17C末の大嘗祭「復活」by霊元天皇∞徳川吉宗 ▼展開

左から112代霊元帝-113代東山帝○-115代桜町帝○ ※○:大嘗祭で即位した帝


歴史(現代):朝廷秘事として続く亀卜神事

 その後の推移は朝廷秘事ゆえに定かでないけれど,とにかく朝廷儀式としての亀卜は現在も存続しています。
 毎年実施される新嘗祭と,即位時にしか行われない大嘗祭の大きな違いは,例えば使用される米・粟が,前者が宮内省官田収穫のもので足りるのに対し,後者が特別に選ばれた悠紀・主基田から収穫した米・粟を用いること。この悠紀・主基田の選定こそが亀卜による「国郡卜定」儀です。その意味で大嘗祭の構造を決するため,(亀卜にとっては幸いにも)省略できない儀式だったようなのです。

明治・大正・昭和・平成・令和の各大嘗祭で選ばれた「斎田」地域 ※中国地方と北海道・沖縄は選定漏れ〔後掲朝日新聞デジタル/皇室行事の秘儀〕


2019年の令和の大嘗祭で実際に使われた卜甲〔後掲朝日新聞デジタル/皇室行事の秘儀〕

 ただし,明治以降の「国郡卜定」儀にも対馬を含む卜部三国は公定されていません。近代日帝下で天皇祭祀は法制化され,大嘗祭は登極令(とうきょくれい)※として明文の規程になります。けれども,この規程からは亀卜による選定形式そのものが除外され,単に「勅定ス」と規定されています。だから卜部又は三地方と亀卜が結びつくことは,現在ではもうないようです。
※1909(明治42)年皇室令第1号。同規程は戦後1947年に廃止されてますけど,現在の儀礼も例規的にこれに従っています。

第一條 天皇踐祚※ノ時ハ卽チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ且踐祚ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム
第二條 天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム  元号ハ樞密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス
(略)
第八條 大嘗祭ノ齋田ハ京都以東以南ヲ悠紀ノ地方トシ京都以西以北ヲ主基ノ地方トシ其ノ地方ハ之ヲ勅定ス
第九條 悠紀主基ノ地方ヲ勅定シタルトキハ宮内大臣ハ地方長官ヲシテ齋田ヲ定メ其ノ所有者ニ対シ新穀ヲ供納スルノ手續ヲ爲サシム〔後掲wikisource/登極令〕
※踐祚:天子の位を受け継ぐこと。先帝の崩御あるいは譲位をその原因とする。踐祚により帝位についたことを天下万民に告げる儀式を即位という。

その他関係法令 ▼展開

宮内庁組織図〔宮内庁HP〕



 実際,2019(令和元)年9月18日に悠紀斎田が栃木県高根沢大谷下原,主基斎田が京都府南丹市氷所新東畑の水田に決定した旨を発表したのは,宮内庁式部職でした。
「秘話」めいたものとしては次のような話はあるものの,天皇家儀礼と対馬は現在は分離されていると考えるのが順当です。



 では,朝廷外での亀卜というのは存続しなかったのか?──という点が問題になるわけです。現に豆酘にはその痕跡があるし,次の表記などを見ても存続したことは認めているのですけど──

21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われている。宮中行事では、大嘗祭で使用するイネと粟の採取地の方角(悠紀と主基の国)を決定する際に用いられる。2019年(令和元年)5月13日に皇居の宮中三殿で「斎田点定の儀」が行われた。2018年に行われた準備作業では、東京都小笠原村でアオウミガメの甲羅が調達されている。〔後掲wiki/亀卜〕

 各地の神社の儀式における亀卜の事例は,今当たる限り本稿で触れる豆酘と八丈島しかありませんでした※。現代において朝廷以外で秘事として亀卜を執り行う事例は考えにくいし,やっていれば相当目立つので,他にはないと断じてもいいと思います。

※愛知県砥鹿(とが)神社の神紋に六角型に卜象(町形)の形象をしているとの指摘をしているプログがあるが,伝承や現存文化はない。〔後掲物欲子のブログ〕

天皇家vs環境法 ▼展開

アオウミガメ (場所:沖縄県渡嘉敷島)



 以上のような時系列で概ね展開してきた亀卜の祭祀文化ですけど,やはりどうも分からない。対馬は,9〜10世紀に一回きりの登場で,それきり埒外にあるように見えます。
 今度は,祭祀の性状面から各論的に掘り下げてみます。

(再掲)2019年の令和の大嘗祭で実際に使われた卜甲〔後掲朝日新聞デジタル/皇室行事の秘儀〕

各論・甲卜:ウミガメを使うのは日本だけ?

 まず,焼かれる甲羅の持主たる亀についてです。
 亀卜に使われた腹甲は,古墳時代後期から奈良時代の遺跡から卜甲が出土していることで確認されています。実例としては,アカウミガメの腹甲を用いるものが知られます。
──ウミガメの甲を用いる点は,考古学的に確認される古代のものから,報道される大嘗祭のそれまで一貫しているようです。
 ところが,ウミガメを亀卜に使ったのは日本だけらしい。

殷墟から見つかった卜亀はクサガメやハナガメなどの淡水性の亀の甲羅(陸ガメらしきものもあるらしい)であるのに対し、我が国で出土した卜亀は全て海亀の甲羅である〔後掲蒼流庵随想〕

※もっとも,「元文伝」や「亀卜聞書」などの秘伝書には「『浮かれ甲』(海岸に漂着した、死んだ亀の甲羅)や陸に棲む亀を利用するという所伝もある」〔後掲國分:→原文〕とされており,これらには天童信仰(その母が漂着して死亡)の漂着神モチーフや中国の陸亀による亀卜との類似が疑われ,興味深い。

殷墟出土の亀甲を鑑定した結果、中国の江湖中に棲息する膠亀や陸地亀と同じで、また中国近海やマレーシア半島付近に棲息する海亀と同種のものであるらしい[18]。この膠亀とはクサガメのことを、陸地亀はリクガメ類のことを指すのだろうと思われる。
 筮亀はメドハギの下にあるとされていることから、陸棲のカメであることは間違いがない。そうなれば、筮亀はアジアガメ科またはリクガメ科に属するカメを想定して書かれたのであろう。〔後掲永谷〕

※原典[18]孟世凱『亀が語る歴史―甲骨文字と漢字の起源―』、21頁、狼烟社、東京、1984
──この点を重視して,日本の亀卜は海民の文化だったとする見解がまま見られる※。けれど,前掲永谷にあるとおり,「中国近海やマレーシア半島付近に棲息する海亀と同種」ですから,海洋性か淡水性かは素材としてあまり大きな差はないと考えるのが妥当です。「亀甲」を用いる需要がまずあって,中国では淡水亀又は陸亀が,日本では海亀が採り易かったのでそれぞれの亀を使ったと考えるべきで,日本の海民が独自の亀卜文化を持ったと想定するのは論拠が薄い。
 ただこの点は微妙なので,最後に再考します。

笹生(衛):亀卜の形が、それまで全く亀使っていないのですね、6世紀の末まで亀を使っていなくて、そこから急に、しかも穴のあけ方が、いきなり四角い穴のあけ方を、亀を使うのと同時にやり始めるのですね。だから、そういう意味では新しい。確か韓国では、高田先生、四角い削りのやつってないですよね。韓国ではないのですよね。だからそういう意味では、何か韓国か中国から文献的には亀使うのがいいよというのが情報的に入って、日本で再構成するようなことをやっているのかもしれません。それは分かりません。分かりませんが、少なくとも6世紀の末に新しい占いの形態として、亀卜が入ってきて、それは朝廷の中のかなり重要な決定事項を決める占いになっていた。そこに漁撈民がかなり関わっているという事実は、間違いないのではないかなと思います。〔後掲「神宿る島」協議会〕

「人間の胸部には心臓や肺などをカゴのように囲む肋骨(あばら骨)があります。
 カメはこれを変形させて、心臓などの重要な臓器だけでなく、緊急時には体全部を包み込めるほど大きく発達させています」〔後掲ニコニコ大百科〕※原典 twiter:「カメの甲羅はあばら骨」@kame_abara

各論・ヒビの作り方:腹甲を賽子状にし研磨して町を造る

 ここまで荒く「甲羅」と呼んでますけど,正確には目に付きやすい背中側(背甲)ではなく,お腹側(腹甲)です。亀の甲羅は肋骨の発達したものと言われ,構成する甲が細かくは分化しており,割れやすいのもその部位に沿ってでしょう。
 放射状に破れ目の出来る腹側の方が意味づけしやすかったのだろうと考えられます。

亀の背甲,腹甲各部の名称〔後掲東邦大学〕

 さて,甲羅は生態上は皮膚が角質化したものなので,子亀や病気の亀ではやや柔らかいのが,健康な成長をすると硬くなるものです。
 つまりある程度柔らかいことを想定し,亀卜では概ねまず甲を乾燥させて研磨します。──乾燥は,鹿島神宮では天日で百日,吉田神社(京都)では10年以上に渡る。研磨は,鹿島では「斧で整形し,両面を鏡のように平坦にする」。その他,吉田では将棋の駒の形に整形する。
 次のものは対馬の例です。

①素材としては亀甲(ウミガメの甲)をも用いる。捕獲したもののほか、『元文伝』や『亀卜聞書』では「浮かれ甲」(海岸に漂着した、死んだ亀の甲羅)や陸に棲む亀を利用するという所伝もある。亀甲は入手後、皮を除去し、天日に晒す・水を掛けるなどして亀甲を清浄な状態にする。
②亀甲は、表面を研磨により平滑にし、裏面も平坦にする。「竪横ともに、凡五六分より三分」(0.9~1.5cm)程度の町を刻む(第2図7)。
③亀卜に用いるものとして、亀甲、亀甲を加工する道具(斧・小刀・鑿)、指火木、兆竹、墨などを用意する。指火木には波々迦の木を利用する。決まった本数はないという。
④波々迦の木に火を点け、町の内側を焼灼する。「ト」の方から「ホ」の方へ指すことを3度、続いて「カミ」の方へ3度、そして「エミ」の方へ3度指す。亀甲に罅が入るまで続ける。そして罅の入った所に墨を塗って結果を判じやすくする。亀甲の表面から罅の入り具合を観て、吉凶を占う。〔後掲國分〕※原典 藤原斎延 秘伝書「対馬国卜部亀卜之次第」(1696(元禄9)年)・「亀卜伝」,伴信友「正卜考」,杉村采女(対馬藩)「元文伝」(1737(元文2)年),牟田栄庵(対馬藩医)「対馬亀卜口授」
※※罅:ひび

 なおこれを,朝廷祭祀で直接使われる祭文で読むと,次の箇所になります。

吾が八十骨〔甲なり。〕を、日に乾し曝し、斧を以ちて打ち、〔小斧なり。〕天の千別き千別きて、甲上・甲尻は真澄鏡に取り作りたまへ。〔甲の表は瑕無きこと、鏡の如し。〕天刀を以ちて町を掘り、判り掃ひたまへ。〔穴の形、町に似たり。〕天香山の布毛理木を採りて、火燧を造り、天香火を燧り出だして、天母鹿木に吹き着け、天香山の無節竹を取りて、卜串に折り立てて問ひたまへ。〔今、佐万師なり。其の節着かぬ木の辞、此の如し。〕…(中略)…、亀誓、如し。故、六月・十二月の御体の卜には、先づ此の辞を誦む。〔後掲國分〕
※原典 新撰亀相記・宮主秘事口伝※※に引かれる祭文(一部)
※※沖森卓也・佐藤 信・八嶋 泉(編著)2012「新撰亀相記」『古代氏文集 住吉大社神代記・古語拾遺・新撰亀相記・高橋氏文・秦氏本系帳』

 つまり,乾燥・研磨等加工過程はかなり多様です。「神意が出易いように」,即ちヒビが出ずに終わることのないように各技術者で工夫をしたわけで,文化というより技術です。従って,文化を論ずる場合は,このレベルの差異にはあまり引きずられない方がいい。

卜占手法の分類〔後掲國分〕 ※最右列:地域等別

 さていよいよ,甲羅を焼くことになるわけですけど……おそらく元々は直接火にくべていたのでしょうけど(下記鹿島神宮例),祭祀に用いる際は,高温物質を押しあてる。入力する熱量をコントロールしやすいからでしょう。
 押しあてる場所には,溝や穴を開けておく流派も多い。これを「鑽」又は「町」と呼んでいるようだけど,近世以降の宮中のやり方は「墨書」になっている。不安定な要素をどんどん削ぎ落としてるんでしょう。──逆に言えば,自然物を過激な熱を加える原初の手法は,それほど何が出力されるか分からなかった。だからこそ占いとして意味を持ったのでしょうけど……。

町形内に「ト・ホ・エミ・カミ・タメ」の五兆を掘る、若しくは亀甲に墨書する宮中や対馬の手法では、罅が発生するまで町形に沿って指火木を何往復も当てて焼灼している。焼灼は、下→上、中央→左、中央→右の順でなされる。町を掘るが五兆を刻まない伊豆の手法では、町の中央に火を当てるのみのようである。鹿島神宮のものは、棒状のものを当てて灼くのではなく、鼎の上に置いてそのまま火で焼いている。古い記録では焼け罅を観た可能性もあるが、近世以降は焦げ具合が判断基準となっている。〔後掲國分〕

 要するに,焼く熱量をどんどん弱めた結果,ヒビを入れて割るのではなく焦げ方による占いに変わってきているのが近代の亀卜らしい。

各論・焼灼:ト・ホ・エミ・カミ・タメ

 最後に押しあてる「高温物質」についてですけど,現在の朝廷では「波波迦木」※を用いる。「ははかぎ」と読み,上溝桜を指すと言われます。

※大嘗祭の際の「斎田点定の儀」で用いられる(鎌田純一『平成大禮要話』p.74 ISBN 4764602628)。なお2019年(令和元年)5月の「斎田点定の儀」の際の波波迦木は、古式に則り奈良県の天香具山の麓から伐採され提供された(『三輪さん 大神神社講社崇敬会会報』第110号 p.3)〔後掲wiki/亀卜 注〕

 なぜ波波迦木なのか,よく分かりません。
 中国の亀卜書には焼灼の方法として「亀の甲に錐(きり)で穴をあけ,そこに焼けた棒を差し込」むことまではあるらしいけれど,加熱物質の種類までは確認できません〔平凡社「百科事典マイペディア」,コトバンク/亀卜〕。できないけれど,ウワミズザクラの生息域は日本以外では中国の一部(湖北省・四川省・広西省)で〔wiki/ウワミズザクラ〕,漢族の支配域が華北に限られた古代から日本と同じハハカベが用いられたとは考えにくい。
 つまり,この部分はおそらく日本独自です。 

 卜占の際の道具としては、鑿・小刀、火を指すものとして「波々迦」の木の枝を棒状にしたもの、焼灼する際に水を掛けるものとして「兆竹」、焼け罅を明瞭に見せるものとして「墨」がみえる。亀甲を用いるもののうち、町形内に「ト・ホ・エミ・カミ・タメ」の五兆を掘る、若しくは亀甲に墨書する宮中や対馬の手法では、罅が発生するまで町形に沿って指火木を何往復も当てて焼灼している。焼灼は、下→上、中央→左、中央→右の順でなされる。町を掘るが五兆を刻まない伊豆の手法では、町の中央に火を当てるのみのようである。鹿島神宮のものは、棒状のものを当てて灼くのではなく、鼎の上に置いてそのまま火で焼いている。古い記録では焼け罅を観た可能性もあるが、近世以降は焦げ具合が判断基準となっている。〔後掲國分〕

「ト・ホ・エミ・カミ・タメ」の部分は何を言ってるのか分かりにくいけれど,同國分の掲げる図によるとこういうことらしい。──感覚が日本人的,というか中国人はこんな細かい決め事はしないと思う。

新撰亀相記での亀甲 〔工藤2005※〕〔後掲國分〕
※工藤浩「新撰亀相記の基礎的研究―古事記に依拠した最古の亀卜書―」日本エディタースクール出版部,2005
※※ピンク・青字は引用者

 兵庫県丹波篠山市に波々伯部神社というのがあり,地名表記も波々伯部という〔後掲丹波新聞〕。

近松宮司によると、ウワミズザクラは、古くは「ハハカ(波波迦)」と呼ばれ、古代、「亀甲占い」に用いられていた。ハハカの木を朝廷に献上する民が、この地に小さな集団をつくって暮らしていたことから「ハハカベ」と呼ばれ、それが転訛して「波々伯部」となったという。〔後掲丹波新聞〕

兵庫県丹波篠山市波々伯部(宮ノ前)の波々伯部神社の本殿脇に生えるウワミズザクラ

 この波々伯部の例と同類で,対馬も単に海亀の産地として朝廷と繋がっていただけ,という視点も,もっとも臆病なものとしてはありうるわけです。原産地だから一次加工技術もついでに盛んになった,と。
 ただ,その視点ではどうしても余ってしまうものとして,卜部という地域指定職の問題があります。

各論・組織:儀式の中核を三国卜部に外部嘱託

当時の支配層は、対馬国、壱岐国、伊豆国の卜部を神祇官の管轄下に組織し、亀卜の実施と技術の伝承を行なわせた[5][6]。卜部の技は、秘事かつ口伝であったため、材料(カメの種類や甲羅の部位など)や技術に係る未解明な部分も多い[7]。〔wiki/亀卜〕

[5] 『延喜神祇式』「臨時祭」(iZE Co., Ltd. (2003-2005). “3巻:40条:【宮主ト部〔閣〕】”. 延喜式検索システム. 皇學館大学. 2020年1月8日閲覧。

凡宮主取ト部堪事者任之。其ト部取三國卜術優長者。〈伊豆五人。壹岐五人。對馬十人。〉若取在都之人者。自非卜術絶群。不得輙充。
【読み下し】
凡(およ)ソ宮主(みやじ)ハ 卜部ノ事ニ堪フル者ヲ取リテ之レニ任ズ。其ノ卜部ハ三国ノ卜術ノ優レ長ズル者ヲ取ル〈伊豆五人・壱岐五人・対馬十人〉。若(も)シ在都ノ人ヲ取ル者ハ、卜術の群ニ絶スルニ非ザル自(よ)リ、輙(たやす)ク充(あ)ツルヲ得ズ。
【現代語訳】
そもそも宮主は、卜部の中でもその仕事に堪うるものを採用して任命するのである。その卜部というのは、三国の中で卜術が優秀なものを採用するのである(伊豆から5人、壱岐から5人、対馬から10人)。もしも都に在住する人を採用する場合、よほど群を抜いたものでないのであれば、たやすくその職に充てることはできない。

[6] 東アジア恠異学会, ed (2006). 亀卜:歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす. 臨川書店. pp. 31-32. 。
[7] “シンポジウム「亀卜 -未来を語る〈技〉-」”. 國學院大學研究開発推進機構 (2005年9月25日)

 なぜ神官が対馬等卜部三国出身者でなければならなかったのか?──この説明には,先の笹生(衛)説のような三国海民の文化に亀卜が含まれていた,とするのが自然ですけど,そうした時代は平安期に限られています。対馬が亀卜文化の中心だったとするならば,江戸期の大嘗祭復活時にも,いや復活時にこそ彼らが再度祭りの中心になって然るべきです。平成大嘗祭でも同じ。
 だからといって,海民が中国の亀卜を伝えた,というだけでは,伊豆が登場する理由,そもそも神官に採用された理由が説明できません。
 対馬は亀卜の主体でも伝承者でもない。
 ならば,対馬ほか三国とは,亀卜の何だったと想定できるのでしょう?

地域偏在:骨卜遺物中の3特異点=対馬壱岐伊豆

 まず,日本における亀卜の考古学的成果(卜甲及びその予備と推定される亀甲の出土品)の地域的分布から確認してみます。卜占の痕跡のある出土品はほとんどが卜骨で,卜甲は数自体が限られていますけど──

卜骨・卜甲出土地一覧表(前半)〔後掲國分〕
凡例 ○卜骨 ●卜甲
骨卜・亀卜出土地一覧表(後半)〔後掲國分〕
 これをマッピングしたものが次のもの。赤でドットを打ったのが卜甲です。
骨卜・亀卜出土地地図
(上)古墳時代前期以前 (下)古墳時代中期以降〔後掲國分〕
※亀卜出土地の朱書は引用者
 主体は関東,それも東京湾口。そこから大きく隔たって壱岐対馬,という配置です。次の地図は,これに延喜式で卜部が採用されたとされる三国(四地域×各5人)の位置を重ねたものです。
(上)卜骨出土地域※ (下)卜部姓(緑)と占部姓(赤)の分布図※※〔後掲鎌倉遺構探索〕

※壱岐・肥前・筑後・伊予・備中・備前・出雲・因幡・摂津・河内・大和・志摩・尾張・駿河・伊豆・相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・信濃・加賀・佐渡〔原典 後掲國分2013〕
※※奈良時代の戸籍・計帳や平城京出土の荷札木簡などから。「卜部三国」:対馬・壱岐・伊豆以外 その他(「占部」):筑前・因幡・近江・駿河・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸・陸奥〔後掲浅岡〕

 なぜこの配置なのか,やはりこれだけでは全然想像できません。統計的に何かを想定するには,3又は4点というのはサンプルが過小過ぎます。
 解法を得るには,少し新しい視点を加えてみなければならないようです。

三浦半島の洞穴遺跡分布図(うち★間口遺跡で1972年に国内初の亀卜跡発見)〔後掲神奈川県立歴史博物館〕※原典 横須賀考古学会編「三浦半島考古学事典」2009

【認識論】道端で拾った卜甲を見分けられるか?

 卜甲が考古学的に発見されたのは意外に最近で1972年,まだ半世紀経っていません(2022年現在)。
 発見場所は三浦半島の海蝕洞窟遺跡の一つ,間口遺跡(神奈川県三浦市)です。最初の調査は1949~1950年に横須賀考古学会によるもの。つまり,民間団体が趣味的に掘ったもので,この時に発見された複数の時代の遺物の中に,骨卜の遺物が見つかります。それから四分の一世紀間,卜占痕が収集された末についに卜甲が見つかったのです。
 その時の博物館担当者の雑感が,「50年のあゆみ」に残されています。

担当者から一言
 1971年から1973年まで5回に亘って行った、三浦市間口洞窟遺跡の発掘調査の成果を発表した展示でした。その際に発見された卜甲はアカウミガメの甲羅を用いた占いの道具で、古墳時代後期のものでした。発掘調査による初めて発見例で、私の竹べらの先で取り上げたのですが、これが何であるか、かいもく見当がつきませんでした。報告書より先に、この展覧会で紹介したのですが、見学者から大変注目され、胸が高鳴ったことを憶えています。(K)〔後掲神奈川県立歴史博物館編「神奈川県立博物館・神奈川県立歴史博物館 50年のあゆみ」〕

三浦市間口洞窟遺跡発掘調査で発見された国内初の卜甲。加工痕と中央のヒビで判別される。

 言い方を変えれば,1972年に国内初の卜甲を「発見」したのは,展覧会の見学者だったのです。
 亀の腹甲そのものは出土事例も多くあるわけで,前例を参照できない段階で,これは文献にある亀卜で使用された物ではないか,と疑い,形状確認と科学的分析でそれと確定させるのは,幸運に加え発見者の慧眼に恵まれた場合のみです。
 つまり実際は「発見」されている卜甲のうち,それと認知される確率は,一般の化石や歴史的構造物以上に低い。
 こうした卜甲発見に関わる人的要素を考えると,東京湾周辺での出土例の多さにはプラスのバイアスがかかっていることが想定されます。開発の頻度が日本沿岸でも格段に高く,かつ三浦半島での事例があるために考古学的調査が密に行われ,さらに卜甲を判別できる人材を備えた神奈川県とその周辺自治体の埋文担当部局が,多くの出土を確認してきているわけです。

【評価論】日本人でないなら卜甲を発見したいか?

 日本で亀卜が行われていたことは,魏志倭人伝中にも記載されます。ここで当たりたいのは,その筆致です。

其俗舉事行果有市云為輒灼骨而卜以占吉山光告軒卜其辭如令龜法視火拆
❴和訳❵其の俗、挙事行来に、云為する所有れば、輒ち骨を灼きて卜し、以って吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。

※中国語原文 三国志」「魏書」第30巻中の倭人記述部(いわゆる魏志倭人伝=烏丸鮮卑東夷伝倭人条) 原文中の上記文面箇所→m133m第十三波m川内観音(急)/■史料:「三国志」「魏書」第30巻中の倭人記述部(いわゆる魏志倭人伝)/該当箇所
※※和訳は後掲辻尾

 周知の如く魏志倭人伝の記述は帯方郡から対馬を経て女王国に至るのですけど,亀卜の記述は対馬ではなく女王国の詳細記述の一つです。また,著者(陳寿)の書き方は,自国の古風俗の伝承されたものを遠方に見出した,という感動を到底感じさせません。未知の習俗を書くそれでもない。中原では大昔に廃れた非論理的占術を,この島人たちは未だに統治の中枢でやっている,その後進性を描く例示──という姿勢が「令亀の法の如く」(まるで亀卜のお告げが法律のよう)の辺りに如実に現れます。
 三世紀の中国人・陳寿にとっての亀卜は,現代日本人にとっての「お歯黒」や「ハラキリ」みたいなもの。自らの祖先がやってたことは認めるけれど,自分がやるのは考え難い悪習,といった捉えでしょう。
 現代の象徴的元首が厳かに亀卜を執り行う国と,何千年も前に悪癖としてそれを捨て(かつ文革で否定し)た国とでは,例えば同時に同形状の卜甲が発掘されても追求の熱意が180度違わざるを得ません。
 なお,1907(明治40)年以降発掘が続けられている韓国・金海貝塚では,卜骨が相当数発見されてきたけれど,卜甲はついに発見されていません。

金海貝塚で出土した卜骨総数は一〇一点であり、これは同一遺跡で発掘されたものとしては比較的量が多いと言える。中国の場合、甲骨を利用した占卜は、大きく亀の腹甲(又は背甲)を利用した卜甲と、牛、豚、羊、鹿などの肩胛骨を利用した卜骨とに分けられるが、金海貝塚では鹿と猪の肩胛骨を利用した卜骨だけが出土した。『三國遺事』の内容を根拠として、加羅(伽倻)で亀甲を利用した占卜が行われたという見解もあるが、これに対する議論はさらに確証的な資料が発見されて以後に可能になることである(4)。 〔後掲辻尾〕

※4) 李亨求(イヒョング)「渤海沿岸早期無字卜骨之研究(上、中、下)論兼古代東北亜諸民族之卜骨文化」、『故宮季刊』(第十六巻第一~三期)一九八一年~一九五二年 李亨求はこの論文で「村山知順は「占卜習俗」といい、李丙燾(イビョンド)は「歌舞亀卜儀式」である。」という言葉を引用し、「燔灼而喫」という文句から「喫」を「契」に見て「焼灼亀甲」を行う過程を理解している。しかし、これは全体の文脈で見ると、「亀、亀、その首を現わ出せ、もし首を現わさないと、亀甲を燒灼す。(亀何亀何。首其現地。若不現地。焼灼亀甲。)」と解釈することがもっと妥当だと言える。従ってこの内容は亀を利用した卜甲とは多少距離があると見え、伽耶地域でまだ卜甲が発見されていないという点ではさらに慎重を期する必要がある。

 つまり,卜甲の発見を天皇家の容れる古風として「好し」とする日本と,牛鬼蛇神の類として忌み嫌う中国・韓国では,亀卜に対する歴史感覚又は政治的に雲泥の差があり,その発見率に大きなバイアスをかけていると推測されます。

【地理論】対馬-壱岐-伊豆とはどこか?

 これまで触れてきた卜部については,延喜式(→前掲)のほか,卜部自らが記したとされる新撰亀相記※があります。ここにも三国の卜部について触れられています。
※記本文によると天長7年(830年)8月卜部遠継の著

所謂四国卜部在数氏焉。伊豆国卜部。五人。一氏〈卜部井伊豆嶋国〉。壼岐嶋卜部五人。二氏〈卜部井土也其卜部在二門家記具也。〉対馬嶋卜部十人三氏〈上懸郡五人直井卜部也下懸郡五人卜直部夜良直也〉惣廿人。其対馬嶋稲両国〈両郡此也〉昔者下懸郡。在舟首嶋麻呂。供奉卜部。而今絶焉。
(読み下し)
所謂四国卜部に数の氏在り。伊豆国の卜部は五人一氏なり〈卜部は幷に伊豆嶋と国とにあり〉。壼岐嶋の卜部は五人二氏なり〈卜部は幷に土にあり。其の卜部に二門あり。家記に具らかなり〉。対馬嶋の卜部は十人三氏なり〈上懸郡の五人は直にして幷に卜部なり。下懸郡の五人は直にして卜部と夜良との直なり〉。惣て廿人なり。其の対馬嶋を両国と稱ふ〈両の郡、此なり〉。昔は下懸郡に舟首嶋麻呂在りて卜部に供奉りき。而るに今絶えたり。
〔新撰亀相記,後掲浅岡〕

 卜部遠継と同じく,ここに唯一出てくる人名・舟首嶋麻呂も他に事績がヒットしません。延喜式にない記述点としては,対馬:壱岐:伊豆の卜部指定席数が10:5:5なのではなく,一氏5人席のセットが対馬の①上県と②下県,③壱岐,④伊豆にあったから計20人だったという点です。
 卜部の人数については,史料により地域や人数にブレがあります。延喜式や新撰亀相記の人数は,卜部拠点に定数5人を乗じただけの「推計」である可能性が高い。
※例えば,令集解(9世紀中頃編,養老令の注釈書)では,下記計30人枠。

古記云。別記云。津嶋上県国造一口、京卜部八口、斯三口、下県国造一口、京卜部九口、京斯三口。伊岐国造一口、京卜部七口‘斯三口、伊豆国嶋直一口、卜部ニロ、斯三口。斎宮卜部四口、斯ニロ。伊岐ニロ、津嶋一口、伊豆ニロ、国造直丁等、各給斯一口。〔「令集解」古記別記(官員令別記),後掲浅岡〕

 また,卜部の始祖伝承を辿ると三国とも雷大臣命を含むものの,史料によりかなりの「雑音」があります。三国を比べると,壱岐の「豆都」や「登都」は対馬の豆酘を指す可能性があり,関連性が疑われる。伊豆の記述は希薄(新撰亀相記のみ)で,後から追加した気配があります。

史料別に見る卜部三国(対馬・壱岐・伊豆)の始祖対比〔後掲浅岡〕

 日本史学者の平野邦雄さんの見解では,三国卜部は元々独立の系統だったものが,「官職を共有」を期に,後から中臣氏の元で同祖説話を持ち「事実上卜部という同氏を形成」したとします。

雷大臣命は、三国のいずれかの始祖として記されており、卜部氏の系譜は中臣氏の祖である天児屋命の幾世か孫にあたる雷大臣命から派生していく系譜を持つ。平野邦雄氏(18※)はこのような同族関係が生まれたのは「かれらが、事実上卜部という同氏を形成していたからであり、それには、各国卜部が上番して、神祇官の上位を占めた中臣・忌部のもとで、祐・史・ト長上・ト部などの下級の官職を共有したことがあずかって力があり、同氏の構成と同祖説話をもつにいたったのである」としている。私見もこれに倣い、おそらく、伊豆・壱岐・対馬では異なった系譜を有していただろう三国の卜部氏が、神祇官に取られ、卜部として宮中に供奉するに当たり、中臣と同祖である雷大臣命を三国卜部氏共通の祖とする系譜が発生し、さらに『新撰亀相記』が、その系譜を踏まえて三国卜部氏の系譜と整理したと考える。〔後掲浅岡〕

※18)平野邦雄「『氏』の成立とその構成」『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館,1969

 類似の亀卜慣習を持つ集団が並立していたのを,後から無理に統合した。これは記紀の日本神話構成に共通するパターンです。

特に上記三国の位置が、島国と東国という、容易には交流のできない立地関係であることを鑑みると、亀卜を生業とする全く別の氏族が、ある段階で同系統の氏族として統合された故に系譜の混同が発生したと考えられる。これについて、唯一『新撰亀相記』のみが三国全ての系譜を同じ場所に記し、系譜整理を行っている。このことから、『新撰亀相記』が自氏に伝わる古伝を記す氏文であろうとした姿勢が伺える。〔後掲高橋〕

「伊豆」の南の端はどこ?

 さてもう一つ,「伊豆」という表記ですけど,熱海など伊豆半島を指すように考えがちです。
 古代熱海は海民・安曇族の根拠と考えられており,海上50km南には縄文時代から黒曜石の産地とされた神津島があります。

伊豆国の歴史上の要所
「黒いマークが、イワナガヒメを祀る聖域。上から八ヶ岳の権現岳、西伊豆の大平山の浅間神社、東伊豆の雲見浅間神社。オレンジが伊古奈比咩命神社。ブルーが熱海の多賀神社(旧 白浪之彌奈阿和命神社)と神津島の阿波命神社。赤が富士山と三嶋大社。八ヶ岳の西北の赤いマークが、現在、星くずの里たかやま 黒耀石体験ミュージアムで、この周辺も、縄文時代の質の高い黒曜石の産地である。」〔後掲風の旅人〕

 伊豆国全体となると,さらに南海上の八丈島をも含みます。遠流の刑地としての伊豆とは,これら離島を指す場合が多い。
緑:東海道 赤:伊豆国 青字:熱海・神津島・八丈島の位置〔wiki/伊豆国〕

 この八丈島は,対馬とともに遅くまで亀卜の風習が残存していたと言われる場所です。これは奇説ではなく,例えば俳句では「亀卜始」という新年の季語が残っており,その意は「八丈島で、村々の卜部が毎年正月七日に亀甲を焼き一か年の五穀の豊熟を占った明治初期までの習慣」〔後掲日外アソシエーツ㈱〕。
 現に江戸末期の民俗学者・近藤富蔵が来島・調査した時点の1885(明治18)年には,その風習が消えていたという旨の記録が残ります。

八丈嶋ニ亀卜残リテ(当今) 中之郷卜部ト樫立村卜部ノ二軒ノミ年々正月コレヲ卜(ぼく)シテ1ヵ年ノ五穀ノ豊熟ヲ計レリ極秘トセリ中之郷卜部喜松ヨリ免授朱印是也。明治十八年ノ今当ハ両家トモ亡命シテキトノ□島中ニモ尽タリ〔近藤富蔵(1855)・ 八丈実記刊行会 編(1964). 八丈実記, 5, 13.),後掲にしけいポン〕

 さて,以上から申し上げたいのは,延喜式や新撰亀相記の記す「伊豆」から選抜された亀卜者は,現在の地名で言うと八丈島から来ていた──という可能性がありうるという点です。

伊豆というと伊豆半島も含む広い地域になるのだが,江戸時代であっても文献で亀卜が出てくるのは,八丈島だけなので,あるいはこの伊豆は八丈島のことかもしれない。幕末まで,樫立・中之郷地域では,亀卜が行われていたという。亀卜は,朝鮮系ではなく中国系の占いであると言われている。従って,これもまた,黒潮文化の産物であるのかもしれない。〔後掲林〕

 伊豆半島と八丈島の位置の違いは,三国の関係史上,何か根本的に影響するのか──と最初は考えたのですけど……いわゆる「方言周圏論」(柳田国男「蝸牛考」,1930)のフレームを当てはめてこんな図を書くことが可能になると思うのです。

方言周圏論的卜部三国(伊豆→八丈島推定)位置図

9~10世紀の亀卜集団周圏フレーム

 サンプル数3では帰納的結論とは到底言い難いけれど,ここで求めたい仮説はこの3を合理化する9~10世紀の亀卜集団の居住域です。
 周圏論は,既存の文化域の弧状にそれが古いまま残存する,というフレームですから,前記仮説が正しいなら,狭くとも対馬-八丈島の直径百km円内にかつて亀卜の文化圏が存在したという理屈になります。しかもそれは中臣氏や卜部氏が主導する人為的なものでなく,政治的には独立した集団の群として存在した。
 そんな人間群は,海民としか考えられません。
 根拠的に薄いままあまりに途方もない話になってくるので,本編は対馬初回でもあり,一旦筆をおきますけど……その場合に残る論点について二三付記しておきます。

〘論点1〙同心円外にはなぜ亀卜が無いのか?

 海民がそんな広域で特定の文化を有していたなら,東シナ海や日本海域も例外とは考えにくい。
 にも関わらず,日本国外≒対馬-八丈島円弧外で甲卜が発見されているのは,殷墟だけ,しかも陸ガメのそれです。
 この点を説明する考え方として,前掲「【評価論】卜甲を重視するのは日本だけ」を掲げておきました。
 東北に亀卜がないのは海亀が生息しないから,安曇族の居住域・長野県(諏訪地方)にないのは大和朝廷のような徴税力を欠いたからと説明できなくもない。
 ただそれにしても,古代に大和王権と密接に関わった(記紀的には大和の領域だった)南海岸・任那≒弁韓の地域に当たる金海の遺跡で,甲卜の出土がゼロだった,というのは不思議です。対馬とそれほど全く異なる集団(海民?)が海峡の北側には住んでいたのでしょうか?

〘論点2〙亀卜の一次復活はなぜ9~10世紀だったか?

 三国の亀卜慣習が周縁的なものとすれば,9~10世紀に既にその文化は滅びかけていたことになります。
 それが一気に大和王権中枢に取り入れられたなら,江戸期の大嘗祭復活の7百年前に,既に一度亀卜慣習は劇的な復活を遂げたことになるのです。
 なぜそんなことが起こり得たのか──1274(文永11年)から一条氏らに「日本書紀」を講じた卜部兼文,「釈日本紀」を著したその子・兼方,さらにそこから連なる吉田神道興隆〔後掲斎藤英喜,コトバンク/卜部兼文,wiki/卜部兼方〕によるもの……とするのは時系列的にやや逆転してます。記紀編纂に至る天皇中心の国家編成のベクトルに,その古式の象徴としての亀卜がうまくマッチしたのでしょうか?
 率直に言えば──この極めてプリミティブな占術が,大陸中国の中央では漢代には完全否定されているにも関わらず,日本で二度も過激に復活した理由,あるいはモチベーションがどうも実感できないのです。

豆酘のゴンゾーロー祭での亀卜では,神に奉納した魚(くろ魚)を捌いて献上する。このとき,左手で魚に触れずに火箸で抑えて捌くことになっている。〔後掲民泊ごんどう〕

〘論点3〙亀卜を創始されたのは陸上か海上か?

 
 まず感覚的にですけど……海民は,いかに陸民による(ひょっとしたら世界史初の)中央集権国家であろうと,その文化を有難がって取り入れるインセンティブを持つとは思えません。
 骨卜の判定方法と亀卜のそれは相似しているので,陸民が骨卜を,海民が亀卜をそれぞれ創始したと考えるのは無理があります。どちらかが先行し,他方が倣ったと考えるのが自然です。
 そうすると──紀元前に占術の主体だった骨卜を,海民が自分たちも行おうとしたとき,手頃な素材が海亀だった,ということになるのでしょうか?
 ならば逆に,亀卜→骨卜という時系列関係も想定しうるわけです。殷は元々山東から出た王族とも言われます。つまり,海民が造った亀卜を,太古の島だった山東の集団が受け継ぎ,陸上(あるいは堆積した黄河平原)でもそれを継続した。
 後者であったなら,漢字文化圏の根源となった甲骨文字を生んだ骨卜は,海民を初源とするとも捉えられるわけですけど──これももう少し考古学的サンプルの蓄積がないと何とも言い難い。

豆酘ゴンゾーロー祭での祝詞。順風を祈願する語句や「博多童」が登場するのが面白い。〔後掲民泊ごんどう〕

【AnotherStory】もう一つの朝廷内地域嘱託集団:隼人司

 そこまで考えてさらに思い至ったのが──下の図は,前掲の卜部三国の周圏論モデルに,隼人の点を追加したものです。
 このポイントも,同じ同心円孤上に辺ります。 

 前掲の各論・組織項の記述をしていたときに連想したのが,大嘗祭を含む朝廷儀式に「出演」する隼人のことでした。
 彼らもまた,①出身地域限定の②特異技能集団として③朝廷最重要儀礼の重要な役という意味で,卜部三国と同じ位置にいます。(上記リンク参照)
 隼人司と卜部の機能を比べ合わせることで,何か新しい構造が見えてくるのでは?──と上記リンクでは探ってみましたけど,当面本稿での課題からズレし,いい加減長過ぎるので……別稿としてます。今度は,恐れ多くも神武東征で大法螺を吹いてみました

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