010-7馬頭観音〜稲荷嶽\長崎withCOVID\長崎県

🌬  🌬  🌬  🌬  🌬馬頭観音
〜稲荷嶽
~~~~~(m–)m

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

今日はめあての地蔵より先


910。蔦の川を渡る,高平町6-7の坂まできた。今日はもっと先へ行きます。小島川東岸をさらに進む。
 0916,愛宕町1-4から上に上がらざるをえなくなった。下の道は私道で尽きる。そうだっけ?
 バロン理容室。地図を確認。
 0919,愛宕1-6「めあての地蔵」。市立小島小学校。
 0922,右に小島荘への脇道。ad愛宕1-9。
▲0924小島川を渡る。

細い路地裏の愛染寺

折,小島川を渡り,橋向こうから左折。見覚えある屈折道。上小島2丁目掲示板。
 車道側に陸橋が見える。
 あれ?その陸橋に出るしかなくなりましたよ?路地があった記憶なんだけど?止む無く出ると──上小島バス停。セブン。
 エレナを過ぐ。まあ今日は薩摩秘密屋敷は目的地じゃない。秘密なんだしそう何度もお窺いしても悪い。車道右側道を登る。
0935白糸バス停が見える。谷川の手前の右折細道へ。
▲0927白糸バス停手前※の細道へ

※正確には,登り・愛宕方面行バス停を過ぎ,下り・崇福寺方面行バス停(や時々本サイトで触れるエグチ美容室)より手前(崇福寺側)。


手──いきなり出現か?0937,正一位愛染寺稲荷大明神。
 路地の家並に埋もれるような神体,台湾によくある光景です。
 ただ,鳥居にクモの巣。鳥居も本殿も真紅。誰か特に敬虔な,あるいは篤志家が建てたものでしょうか?

※「愛染明王」を指すとすれば,長崎には珍しい。鹿児島由来も疑われます。
(內部リンク)
m172m第十七波mm大当/高玄岱碑文の内容:愛染院の媽祖縁起
[メモ1]九州の愛染明王信仰

 進む。ad愛宕3-14。

馬頭観音からぐんぐん登る

▲0939一度水路へ出てから……

な細道で,一度水路に出てから再び山手へ入る小径でした。家屋の筆の関係でしょうか?
 0940。近寄れない。でもとにかく,洗凡馬頭観音を拝むことができました。
▲0942馬頭観音

の中に木製の小さな祠。紫の布を庇にしてる。
 中に赤い前掛けの像。表情その他細部はよく確認できない。前面の野道は全て私道らしく,柵で仕切られてて流石に迷ったふりはしにくい。
 さらに登ることにします。
▲0943階段道に入る。

Y字分岐から中小島地蔵まで

慣れたパレス司Ⅲの見える車道に出た。Ⅲ方向の路地を進んでみる。0946。
 ad.上小島3-8。これは何度か通った上への抜け道です。ここは何度も迷ったけれど……直進せず一旦崖下に折れて進めばクリアできる。
 車道,ad上小島3-8,右折して下りにつく。
▲1001Y字分岐

958,ヘアーサロンタケガミの先,上小島2丁目自治会掲示板のY字(→GM.:地点)を左手に登る。
 ここが今回最大の分岐ポイントでした。普通にはまっすぐ行ってしまいがちです。ad小島2-13。「小島の水」という配水所らしき建物。
 キンモクセイの美しい路地。振り返り一枚。
▲1004キンモクセイの道。上小島2丁目13-4付近。

005。竹藪脇の道。ここも通った記憶がある。
 墓の脇道になる。ピントコ坂っぽくなってきました。しかしまあ……墓に一匹ずつ主がいるのか?と思うほど猫が多い。こいつらもいわゆる「主」なのでしょうか?

稲荷嶽神社を見るも道はなし

ったくりちかん」十字路,1008。交わったのはピントコ坂です。これをあえてまたいで,そのまま直進。
 1012,長崎女子高裏門過ぐ。立派な石垣があります。
 1014。ad上小島1-1の分岐に着きました。ここを今日は左へ進む。
 紅白の彼岸花。
▲1016上小島1-1分岐

坂になる。この辺が,ナガジンの記す「雷公岡」のはずだけど──宅地が多く実感しにくい。
 掃除してるおじいの側を,何となく謝りつつ通る。
 T字?中小島地蔵堂と案内板?あ,ここは梅園身代の上手です。
 ええと進むべきは──左手南西側の登りの階段道だと思う。
って行くと──西に赤い屋根の建物を載せた岡がはっきり見えてきました。
 目指す稲荷嶽神社はあれしかありえない。
 ただし,そこに至るべき道は視認できません。でも視認できてれば着けるだろう。
 1029,ad上小島2-3,上はまた墓地らしい。
 住所表示が……中小島2-1?曲がりくねる道が下りに入りました。──この辺り,どう道を採ったのか全然分かりません。

ヤタロウの見える坂

▲1032昼寝ねこ

033,中小島2丁目南部自治会看板脇から車道へ出た。丘はもう真上だけど……道は?道はどこなのよ?
 地勢からすると下だろう。下る。
 1037。ad西小島2-3とある脇道へ左折。対面には大きな神社。以前ここを右折した場所です。
▲1041登り坂から振り返る。

※ヤタロウが見えてるし,家並の外見も一致するから,多分,後に「西小島の丘」編で通ったこの画像(→021-3西小島の丘\「西小島の小径が突然の下り道に」)と同じ坂です。

 西小島中之切自治会掲示板のT字からさらに登る。振り返ると登って降りた先の山上にヤタロウ。
 1842。三叉路でやはり登りを選択。
 着いた。でもこれは……ああ南が正面なのか。そちらには下からややキレイな階段がありました。
▲1046鳥居下

稲荷嶽神社に人の影もなく

047,鳥居くぐる。
 本殿は鍵がかかっている。建物はやはり真紅です。
 左手に爐のような石造り。下に炭を入れるらしく横に金属製の煙出しだろうか?が付いてる。燃やした後はないけど用途不明。
▲焼香施設か?

に石鳥居の社。
 本尊の石柱の微妙な窪み──これは仏像と思われます。榊のお供えあり。
▲1053摩耗した神像

かしこれは──場所的に,はっきりとした砦です。この位置は唐人町上手。誰が?と疑うなら薩摩っぽいのだけれど……。
 1054。太い坂を下る。するとさっきの道の途中,亀川酒店の上に出ました。こんな風に……西小島に入ってからは,何が何やら分からない道行きだったのでした。

■レポ:稲荷嶽神社について分かっていること

 実はこの訪問時から今に至るまで,稲荷嶽神社を「いなりごく」と読んでたんですけど……「いなりだけ」が正しいらしい〔後掲八百万の神など〕。祭神は稲荷神=宇迦之御魂神のみ。
 現地名の稲田町は,大正に入ってからの地名で,次の角川記述によると稲荷岳の「稲」を採っている。つまり十善寺郷か小島郷の「稲荷岳」という古地名があったことになり,異字ながらその名を冠した稲荷嶽神社は同じく古いと推定されます。

(近代)大正2年~現在の長崎市の町名。もとは長崎市十善寺郷・小島郷の各一部。町名は,字名のうち稲荷岳の「稲」と田ノ浦の「田」をとって名付けられた。大正2年の戸数約470〔角川日本地名大辞典/稲田町〕

 分かることは少ないけれど──稲荷嶽の「嶽」は「岳」と同義と思われます。沖縄の御嶽と通じます。この漢字を用いる地名は,九州では鹿児島(嶽村)と大分(嶽沢・嶽下池)の三例のみ。全国でも山口(嶽),大坂(嶽山),滋賀(嶽山),山形(嶽原(遺跡)・嶽谷)の八例。複数字で○○嶽というのは長崎のこの一例が唯一です。○○丿嶽という呼び名は,沖縄で御嶽を指す時によく使われるのですけど……それがなぜ長崎のここにぽつねんとあるのか,全く分かりません。
 後掲Artworksさんもそれ以上のことを調べようとしてますけれど,全く記事が見つからなかったと書いて断念してます。

田口盧谷(無款)「崎陽稲荷嶽眺望之図」,江戸時代/19世紀前期,銅版墨摺〔後掲文化遺産オンライン〕
※下は原図。上は表題の拡大。
※来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

田口蘆谷画「崎陽稲荷嶽眺望之図」

 関西大学東西学術研究所に「長崎唐館図集成 近世日中交渉史料集 6」(2003年)がある。同大の大庭脩教授らによる東西学術研究所歴史研究班が1993-6年度に編成した「長崎唐人屋敷の復元的研究班」の資料収集成果のドキュメント化ですけど,この中に上記田口蘆谷画「崎陽稲荷嶽眺望之図」があり,現在は文化遺産オンラインにも掲載されてます。
 あまり言われないけれど──視座の「稲荷嶽」のマイナーさからでしょうか──,唐人屋敷関係図画としては傑出したものに見えます。

同図左半分(上部を切捨) ※唐人屋敷南壁方向がほぼ西

 まず左半分ですけど──眼下に唐人屋敷が一望です。現在より建物が少ないから,唐人屋敷全体の監視にはこれ以上の場所はないように思えます。船の出入りも完全に把握できたでしょう。
 にも関わらず,ここに視座を置いた図画がこれしかないのも確かなのです。何らかの,あるいは何者かが立ち入りを制限でもしていたのでしょうか?
 あと,二万人が住んだ,というには見た目ひどく建物が閑散とした印象も否めません。
同図右半分(上記左半分と同率拡大)※新地・出島方向がほぼ北西

 右半分にも唐人屋敷が続いてますけど,その先に新地,出島がはっきり描かれてます。
 これらの地への出入りも把握できる。特に新地は,中国人のイミグレと税関を兼ねた機能を持った場所でしたから,その段階の情報が掴めた訳です。
 さらに言えば,新地・出島の右手・東側は各藩の蔵地です。ここからは長崎貿易の全体状況を一望できたはずです。
 現代の地図に置き直してみます。左半分の唐人屋敷南壁ライン方向がほぼ西向き,右半分の新地・出島方向がほぼ北西向きの,下記矢印の方角に当たります。
現在の地図での視野(稲荷嶽→唐人屋敷南壁ライン≒西方向,稲荷嶽→新地(現・中華街)→出島≒北西)

 本文にも書いたように,稲荷嶽神社の正規の参道は南から付いています。つまり社の建物の影から覗ける位置です。唐人屋敷や新地・出島側からは,ここからの視線を感じようがない。
 稲荷神は島津が篤く信仰したカミです。島津義弘(鬼島津:1535-1619)が朝鮮出兵の折に「松明をくわえた赤と白のキツネが敵陣に駆け」て敵火薬庫を誘爆してからという〔後掲鹿児島観光ガイド!〕。──ただ,より有名な伊良林の若宮稲荷神社は,幕末の志士の信仰が篤かったというけれど,薩摩を志向する謂れはあまりなく,稲荷なら島津,とも決めつけ難いので──。
 Artworksさんと同様です。どうも妙な場所,ということしかやはり分からないのです。
川原(田口)盧谷「阿蘭陀人舩中之図」〔後掲国立国会図書館デジタルコレクション〕

〔付記〕「崎陽」≒長崎

 以下は,上記の謎を解くものではなくて,附随するマターを掘ったけれどあんまり関係なかった,という類です。ただ「長崎学」的には有意義な情報なので,付記しておきます。
 まず,田口画の題名の頭に冠されている「崎陽」とは何でしょう?
 後掲国立国会図書館のリファレンス協同データベースによると,次の資料から,長崎を漢語的に気取った言い方と推定してます。

崎陽とは長崎の異称。由来は江戸時代、漢学者が中国の都市名風に呼んだものらしい。地名に「陽」をつけた例が複数ある。(略)
1.国語辞典『広辞苑』で「崎陽」を調べる
  →長崎の異称。江戸時代、漢学者が中国の都市名風に呼んだもの。
(略)
3.(略)
  ・『思わず話したくなる社名&商品名の謎 』※
    p84・85崎陽軒の由来記載
    創業者長崎の出身。崎陽とは長崎出島の別名で陽のあたる岬(崎)という意味。〔後掲国立国会図書館〕
※思わず話したくなる社名&商品名の謎 田中ひろみ/著 日本文芸社 2003

 他に,先述の関西大学の参考史料に「崎陽全図」というものもありました〔Cultural japan:https://cultural.jp/item/adeac-R100000094_I000059414_00〕。
 ……典拠はやや乏しいけれど,「崎陽稲荷嶽」とは単に「長崎の稲荷嶽」というだけのようです。
 もう一つ,図画の作者・田口盧谷ですけど,長崎の人と言われています。生年は不詳ですけど1870(明治3)年没。川原慶賀の門人ですけど実子です。姓・川原を後に田口氏と改称してます。
 父・慶賀は出島出入絵師。風俗画や肖像画を得意とする。対して子の盧谷は洋風画に傾き,浮世絵師に加え版元でもあったという〔wiki/川原盧谷,川原慶賀〕。だからやや商売人じみているけれど,鹿児島の関係者では決してない。
 稲荷嶽からの視座を採ったのは,単にビューポイントを耳聡く知っていた,というだけかもしれません。ただ,田口にしてはいささか真面目過ぎるこんな風景画をなぜ描いたものか,やや疑問は残ります。そのおかげで末期の唐人屋敷の景観を今我々が確認しうるわけですけど──。

川原慶賀「唐蘭館図・蘭船入港図」推定1811-1842年画〔wiki/川原慶賀〕