m172m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m大当

俺は鉄平石

垣だらけじゃ!
 自称「石垣群の里」大当の石積みは,傾斜地の利用,丸石の野面(のづら)積みという工法も凄いけれど,とにかく百万個と言われる石の量が感動的でした。
 家の外周の垣根は完全にソレです。家屋自体が石積みでないのが不思議な位。集落道もかつては石造だったといい,この石が──

集落内の延べ1,250mの小路は、背後の野間岳から採掘された鉄平石を敷き詰めた石畳の道路だったそうです
* 石垣群の里・大当 - 鹿児島県南さつま市
URL:https://washimo-web.jp/Trip/Kasasa/kasasa.htm

 野間岳の石だったそうです。

▲1115 樹根と石垣のハイブリッド

平石自体はこの地方独特のものでなく,板状節理が発達した輝石安山岩で,約2千5百万年前の火山活動による形成が推測されています。

大当の鉄平石の石畳(……がこのように一部残ってるらしいけれど,ワシ自身は見逃してるので他の方の写真です。)

がれやすく建材に加工しやすいけれど,重さのために産地以外では使用例が少ない。長野の諏訪・佐久地方のものが著名で,野間岳が紹介されることが少ないので特記しておきます。
* About: 鉄平石
URL:https://ja.dbpedia.org/page/%E9%89%84%E5%B9%B3%E7%9F%B3

▲1116古い小道の向こうに野間岳

だ,道の石積は小さな道までほぼ完全に──少なくともワシは石畳を確認し損ねてます──コンクリに置きかわってます。
 強度に優れたものではなく,崩れた箇所から補修された後で,文化的に「発見」された集落なのでしょう。

鬼灯や石畳道が野に還る

▲1119道と家の間の石垣

のように,家屋側にもごく僅かにレンガ造りが残る例もあります。
 けれどこの家も,道も石垣下の基部もコンクリートで固めてる。残り方が自然で生活感がある,というさり気なさは好い。

▲1120石垣から溢れる雑草。鬼灯でしょうか。

い痴れてふらふらと進むうち──地図に目を落とすと,どうも登り過ぎて道が尽きる場所まで来てました。
 下る。1122。

▲1122石垣道が野道に切り替わる場所

ふいに赤子の大泣き声

ったコースはかなりの勾配があるものでした。
 グネグネと折り返しながら下降します。石垣の高さもぐんと増して──

▲1124かなり段差のある野積みの壁

で石垣の種別を勉強した目で見ると,大当の石垣は概ね野積み,接ぎがかなりモロいはずです。鉄平石の特性なのか,単にそれが重いからなのでしょうか。

▲1126大当でなければ何かの遺構か祭壇かと思える光景

向きの順路まで戻ってきました。
 あまり人の往来はない。さらにゆっくりと堪能します。と思えば,ふいに子供の大泣き声が聞こえてきた。生活感は奇妙にあるのです。

▲1128藪に消える石積

釈し難い景観もあります。上の石垣は,元々道があり,両脇に垣もあったものが,人が捨てたために野に呑まれた場所でしょうか。それにしては雑草の茂り方が物凄く,元の景観が想像し辛い。

▲1130がっちりした石垣に視界が阻まれ,迷路感は高い。

渾然一体に荒れていく

路が再び北へ。
 1131,三叉路右折。人の気配が徐々に薄れてきました。

▲1133この敷地はハッキリ人が住んでるのに垣からの雑草が覆い尽くしそうな勢いです。

に巣食う雑草は,もしかすると野積み特有の手入れの難しさがあるのでしょうか。つまり打込や切込に比べて,草木が根をおろすのが容易で荒れやすい,といったことが。

▲1134石垣からの雑草が道を半ば占拠する。

い家屋になると,木造部分までこの荒れの中に渾然一体になっているようです。
 だから斜面側の寂れ方は,それ自体がちょっとしたアートになってるようなところがある。庵としての住心地もある意味良いのかもしれません。

▲1135崖下の家屋

バスが消えて吹っ切れる

れど……おかしい。
 最初の公民館前以外,何でこれだけの集落に寺も神社もないんだろう?──後から考えるに,野間権現に信仰が特化していると考えれば納得がいかなくもない。でも坊津側と同じく,里宮,あるいは沖縄だと拝所のようなものさえないのです。

▲1143水仙群から野間岳

140,水仙の沼地に至る。海岸線が近い。
 1143,車道下のトンネルから海岸へ。釣りびと多数。
 南へ歩き出す。

▲1144港へのトンネル

,加世田行きバスが視界から消えた。1147。
 吹っ切れました。後は1344大当発便が通るまで,ひたすら歩くしか選択肢はない。

▲「三国名勝図会」「野間岳 自片浦港所見」

■レポ:野間岳と権現の大いなる空虚

 媽祖を奉る野間権現について,一般に書かれる説明は次のようなものです。

当初は野間岳の山頂に「東宮」「西宮」の2つの本殿があり、東宮には境境杵尊·鹿華津姫命を、西宮には火蘭降尊·彦火々出見尊·火照尊を配っていたが、後年、西宮では「娘妈」「順風耳」「千里眼」という神がまつられるようになった。この3柱の神は中国沿岸部の洞でよくまつられる神であり、この地域と中国とのつながりが伺える構成となっている。[前掲南さつま市]
※ 鹿児島よかもん再発見/【南さつま市】野間神社・野間岳:ニニギノミコトを中心に皇神を祭る
URL:https://kagoshimayokamon.com/2016/03/12/noma/

 ただ,この「神社」ほど派生する話に事欠かない場所も少ない。
 薩摩一般の例の通り,観音を奉ずる仏教寺院だと言えば存続が危うかった幕末から明治期の廃仏毀釈下で,神社の体裁を整えたと書く記録もありますけど,ここの関連情報はその説明にも収まり切らないものがあります。

▲同図会「野間権現社」山頂に「本社」,麓に「本地堂」がありそれぞれ僅かに人の姿も描かれる。

[古代]神武天皇の奥様出身地

 野間神社の創始年代は不明。ただ、社記によると野間岳の山腹に神代の都「笠狭宮」があったとされている。
 標高591mの小山ながら古くから山岳信仰の対象となっており、海上から目立つため、特に航海者からの信仰が厚かった。[前掲南さつま市]

 航海者から重宝され,それが信仰に転じたという話は,野間岳現物を見れば大変納得が行きます。このエリアの海岸線からは,かなり広域でそれと見定めうる独立峰です。
 ただ,それが神話上の「笠狭宮」とも伝えられ,初代天皇家系にまで連なっているというのは,簡単には信じ難い。由緒がまるで分からないから後付けしたようにも思えます。でも(原典まで当たれてないけれど)かなりハッキリと語られる伝承です。
 控え目にも,古代から航海民には意識されており,集落も存在した,という位には捉えていいのでしょう。

古事記・日本書記によると、ニニギノミコトはある時に笠沙の御前(ミサキ)で麗しき美人に出会い、その名を尋ねると大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘で神阿多都姫(カミアタツヒメ)、またの名を木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と云い、この姫を妃に迎えることになります。
※神話のふる里/神代笠沙宮の古址 宮ノ山遺跡
URL:http://www.synapse.ne.jp/haya/pg544.html#sinwano-furusato

 ただこれも根拠史料を辿るとやや弱い。日本書紀神代下・第九段第六に

吾田の長屋の笠狭の碕に到ります。遂に長屋の竹島に登ります

とあり,こよ瓊々杵尊が登ったとされる竹島(たかしま)が野間岳,とされる。だから,書紀が根拠というより伝承から来た由緒と捉えた方がよい。
 さらに,この後の時代の事象は,坊津エリア同様にスッポリと抜けます。ハッキリしているのは江戸時代前期,つまり交易で中国人が訪れた頃で,これを介した海商が現れる後期にはまた謎に包まれていきます。
 つまり史料が少ない。公的に祀られたことのない,ひたすら民レベルでの信仰であり,そこにむしろ根強さを感じられるのですけど──以下の多くは笠沙町郷土誌に集められた,やや伝承的な民俗資料に基づきます。

▲(再掲)日本所在の古媽祖像一覧
←*m131m第十三波mm川内観音(序)/■資料2:日本に存在する媽祖の所在一覧
※ 高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」※※ 所在地の原典:藤田明良「日本所在の古媽祖像一覧表(2006年6月現在)」
※※※ 色塗りは引用者
凡例 緑:長崎・沖縄
黄:大阪以東
桃:上記以外

[江戸前期]媽祖様セット×5

 野間岳における江戸前期の信仰のキーになりうるのは,やはり媽祖像だと考えられます。
 現存する像の全国の所在は,先に上図の形で既に触れましたけれど,笠沙町郷土誌ではこれを次のように記します。

江戸時代の笠沙町域に祀られていた娘媽神像(千里眼・順風耳ほか夾侍を含む)を整理すると,次のようになる。①野間権現西宮に三体,②本地堂に三体,③林家に七体(江戸時代は五体),④愛染院に三体。

*笠沙町郷土誌編さん委員会編「笠沙町郷土誌」笠沙町, 1986(以下「笠沙町誌」という。)第四章第十節 江戸期に祀られた娘媽神像
 媽祖本尊と従神の千里眼・順風耳を同時カウントしているけれど,三体をワンセットと見て地域別に分ければ,
①野間岳の西宮・里宮 2
②林家 2(または3)
③愛染院  1
の5(〜最大6)セットが所在したわけです。
 前の地図と比較すると,公認交易場たる長崎の半数規模です。しかも唐寺や唐人屋敷として行政に公認された設置場所の長崎のものとは異なり,笠沙エリアの場所は三者三様でいずれも民の色彩が濃い。非公式や破却されたもの,記録の抹消されたものを含むと,長崎並だった可能性があります。

笠沙町林家に所在した媽祖像(火災後,保存処理を施した上で現・笠沙町中央公民館所蔵)

林家の媽祖像

 寺社に関係しない完全な民所有の林家媽祖像(上記②)だけは,上のような画像が残っています。
*出典∶南さつま半島だより/笠沙町片浦の媽祖神像
URL:https://k-mingu.blogspot.com/2014/07/blog-post_28.html?m=1

 これに対して,野間権現の媽祖①は非公開で祠の奥に眠っているとされるだけで,画像はない。愛染院③では本地堂に納められたとされるけれど,既に廃絶しており所在しないとされています。

野間の媽祖の時代考証データ

 これらの媽祖像は,作成はもちろん,林家に持ち込まれた年代もよく分からない。
 物証のあるものとしては,笠沙町誌は3点を掲げる。高玄岱の碑文の関係は愛染院に限るので後に掲げますけれど,その他の2点は──
ア)長崎夜話草:三国名勝図会に転記が残る。
イ)林家由来:加世田再撰帳に記録される。

中国の娘媽神が,いつごろから日本で信仰されるようになったのであろうか。先にみた史料のうち,長崎夜話草は享保五年(一七ニ〇)成立,高玄岱の碑文は宝永三年(一七〇六)の作である。(略)片浦に帰化した林北山は,明末・清初の動乱期に来日したというので,明の滅亡した一六四四年前後のことであろう。
[前掲笠沙町誌 第四章第十節ニ 林氏の娘媽神像]

 長崎夜話草を三国名勝図会が転記した祭の記録はこうなっています。

(略)
長崎の津外七里南に野母といえる浦里あり,高山の麓に寺あり,本尊一体・御長七尺計,行基菩薩の作にて,元享釈書にいへる,日御崎観世音これなり,此の高山の下を日の御崎という。唐船も亦これを遙拝す,野間と野母の通韻にて殊にいずれも観世音の霊地なればなり,みな姥媽の転韻なり,故に野間・野母の両山ともに唐土の人は,天堂山と号し奉りぬ,
右は崎陽西川先生の文にして,すなわち是を長崎夜話草と題し,五巻の草紙にしてありしを,予乞求めて,つれづれなる雨夜の折に,ひとり寝の友と詠めしに,如何にしてもらしけん,薩陽の聖師,娘媽の巻ばかりを写してくれよと,せちに乞給ふによりて,求めに応じ侍る,
  于時天明六稔丙牛仲冬二日 崎山人一瓢軒 恕柳
[三国名勝図会 野間山大権現縁起]

 長崎の野母岬を媽祖に通ずるものと目す味方は江戸期からあったらしく,それに基づいて強引に写しをとったものらしい。両地に共通の馬祖信仰があり,その間に交流があったことを伺わせるのみですけど,背景には根強く受け継がれた西九州から南九州にかけての海人の伝承があったのかもしれません。
 また,林家の出自を記す加世田再撰帳は──

『加世田再撰帳』に「林氏先祖は林北山ト云者ニテ,唐国ノ乱ヲ避,慶長之頃従者十七八人召列,当国ヘ罷渡,今ノ片浦之林氏ナリ,」「唐国ヨリ守リ来候娘媽神ハ今ニ家内エ格護コレアリ」と記されている。
[同笠沙町誌 第四章第五節一唐船渡来の港 林氏と娘媽神]

というもので,笠沙町誌の書くとおり,明末清初の戦乱からの避難者だったことは推定されます。
 なお,現代の解説としては,下野敏見さんの著作の中に書かれた以下の林家の媽祖像の由来があります。
※ 下野敏見「南九州の伝統文化 第2巻」

 薩南笠沙町片浦の林真古刀さんの家にはボサさんあるいはボサッドンと言って、天冠を被り笏(しゃく)を持った中国伝来の神様を祭ってある。高さ五十四センチの木製生像である。
 そのかたわらには、ロバさんという小像とその侍神の千里眼、順風耳の神像がおかれている。
ボサさんは、 台座の裏に寛政七 (一七九五)年の年代と「菩薩」の墨書があることからボサッであることが分かる。この神様は長崎や沖縄にもあって、やはり、「菩薩」と記録されている。

 この文章の続きで,やや気になる内容が記されます。一つは,林家の媽祖像は江戸期の野間権現のそれを,廃仏毀釈から守るために同家に保護したものだとする語りです。この他,三国名勝図会にはそもそも野間権現の媽祖像は林家が献じたものだとしており(→後掲原文参照),自家の祖先が納めたものを取り返したとも言え,野間の媽祖信仰に主宰または管理者的な関わりを持っていたとも思えます。

 ボサさんは、 近世には笠沙の秀峰·野間岳の山頂に祭ってあったといわれ、その跡は今も残っている。 廃仏の折、 林家の者が「これは仏ではない。神様だ」と言って持ち帰ったのだと言われる。
 林家初代の林北山は十六世紀末頃、中国から帰化した人で貿易商人であったらしい(片浦のボサさんは、惜しいことに最近失火により焼失した)。[前掲下見]

 もう一つは,林家媽祖像が「失火により焼失」したとあること。笠沙中央公民館で加工保存されているものは,林家に伝わったものとする説明が他ではあるのですけど,このやや混乱した複数の伝えの中からは,笠沙集落の媽祖は本当に一つだったのか,という疑念も湧いてきます。

高玄岱碑文の内容:愛染院の媽祖縁起

 高玄岱碑文の原文,現在の所在や状況は分からない。ただここに書かれた内容は,笠沙町誌によると以下四つの内容らしい。

高玄岱によると,野間権現の別当寺であった加世田の龍泉寺愛染院に,あるとき閩(福建省)の一商人が尋ねてきた。別当寺の愛染院は野間権現を祭っていたので,この寺を訪れたのであらう。その客は,娘媽神像と順風耳・千里眼の二将像を差し出して,丁重に祀ってくれるように頼んでいる。
[前掲笠沙町誌 第四章第十節 愛染院を訪れる中国の人たち 前段(1)]

 野間岳の神威がまず漠然と知られていた信仰状況に,この時期に中国,具体的には「閩(福建省)の一商人」が媽祖という当世売出し中の神像の形を与えた,とも解釈できます。
 また,どういう経緯か,江戸期より前,野間権現は別当寺の愛染院に属することになり,愛染院は笠沙の媽祖信仰の窓口になっていったらしい。

 その後,同じく閩の魏という商人が愛染院に来て,船に積んだ金銀・朱玉・錦繍・綾羅などを供え,神の助けにこたえるためにはこの供物は少ないのだが,として,娘媽神に助けられたことを長々と話したという。
[前掲笠沙町誌 第四章第十節 愛染院を訪れる中国の人たち 前段(2)]

 媽祖信仰が既存の海の地方神を呑み込んで拡大したことは通説ですけれど,笠沙や加世田でも同様の事態が起こったと考えていいと思います。
 現実的な寺院財政上も,こうした寄進が愛染院と野間権現を媽祖宮に変えていった。これは台湾マネーが福建本土の媽祖宮に還流している現代中国の状況から,十分想像できます。

 中国人がいつから愛染院を訪れるようになったのか,再撰帳によると,愛染院本堂の正面にあった額に「野間権現」とあり,元和元年(一六一五)に唐人建立とも書かれていたとある。この額は野間権現の再興か愛染院の再興かがが不明であるが,既に元和年間には来訪したことを教えてくれる。
[前掲笠沙町誌 第四章第十節 愛染院を訪れる中国の人たち 後段(1)]

 その年代は江戸初期,大阪の陣前後までのことだったようです。
 愛染院本体もすっかり媽祖を主神とし,航海安全に功徳ある寺社として自己規定するようになった時期があるようです。

 その後,愛染院の座主は,毎年清船が来航する秋八,九月中,野間岳にこもり,航海安全の祈願をするようになったようだ。その場所が本地堂で,ここにも娘媽神像と二将の像が祀られるようになった。
[前掲笠沙町誌 第四章第十節 愛染院を訪れる中国の人たち 後段(2)]

 この清船来航がどこだったのか,というのが本海域アジア編本来の論点ですけど,それは次章に譲り,ここではもう少し愛染院と野間権現の両者の一次史料に当たっていきます。

愛染院縁起とその媽祖像

 笠沙町誌が転記している愛染院の縁起本文は,次のようなものでした。

1 愛染院略縁起
一 愛染院開基年月不詳,娘媽宮別當寺ニ而,唐人寄進物等段々有之,毎年長崎来朝唐船一艘より,銀百三拾目宛寄進仕来候,
一銀二貫目
右延享四年,為本堂甫料,長崎来朝之唐人より愛染院江寄進有之候ニ付,寺社方江差出置候,
(略)
2 本堂
(略)
本堂
一娘媽権現 一体 長ケ二尺椅子腰掛木像彩色
[前掲笠沙町誌 海商関係史料 五 愛染院]

「唐人」からの寄進が絶えなかったことを記した後,具体的に媽祖像の存在が書かれています。
 愛染院にあったのは一体。それは
①長さ二尺で
②椅子に腰掛けた
③木像に
④彩色した
像でした。
▲娘媽権現 一体 長ケ二尺椅子腰掛木像彩色

三国名勝図会 野間嶽権現社

 次に,三国名勝図会の原文に当たっておきます。
※ 本地垂迹資料便覧/「三国名勝図会」巻之二十七 野間嶽権現社
URL:http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/NOMA.html

蓋是娘媽神を此に祭るに及て、娘媽神を崇奉する者、漸々盛になりて、火闌降命等の三体は廃せしなるべし。野間嶽権現の神号も、娘媽神に本づくとの説もあれば、此嶽は娘媽神女、特に盛なるを見るべし。

 媽祖信仰興隆に押されて廃された神「火闌降命」が,それ以前に祀られた海洋神だった可能性が高いのですけど,この神は神武天皇の子とされます。ただ,海幸山幸譚の中で色々な関与を見せており,性格が判然としない。ということは記紀神話が簡単に咀嚼できない,神代の大きな存在だったと推測されます。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)との間に生まれた3子のひとり。「日本書紀」では,第1子の海幸で隼人(はやと)の祖とされている。「古事記」では第2子で火須勢理(ほすせりの)命といい,兄の火照(ほでりの)命と弟の火遠理(ほおりの)命(彦火火出見(ひこほほでみの)尊)があらそった話が海幸・山幸の物語としてある。
*講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
(コトバンク/火闌降命 ほのすそりのみこと
URL:https://kotobank.jp/word/%E7%81%AB%E9%97%8C%E9%99%8D%E5%91%BD-631176)

 野間権現の里宮としての本地堂も,続けて紹介されています。林家が媽祖像を納めたくだりからも,江戸初期の媽祖信仰の中心はこの本地堂だったように思えます。

本地堂 野間嶽の八分にあり。 即野間神社の下に接す。 本地阿弥陀如来を安置す。 又堂内に、娘媽神女石像一坐、及ひ千里眼、順風耳、石像二坐を安置す。
或は此堂を娘媽堂とも称す。 一旧記に曰、明人林氏乱を避て、加世田片浦に来り住し、天妃の像を奉し来て、此堂を建て、神像を安置す。 其子孫今片浦に家へすと。 今是説を邑吏に問ふに、然らず、今片浦に唐土より帰化せる林氏の家現存す。[前掲三国名勝図会]

[信仰]朧に残存する媽祖

 では野間岳の媽祖を対象とする信仰は,外来中国人以外の集団の中に,実態として存在したのでしょうか?
 図会にも「野間」(のま)の音が媽祖=「娘媽」(にゃんま,福建語∶にうま)に由来するとの説は掲げられ,長崎の「野母」も同じとする論調は書かれています。

野間山大権現略縁起(略)野間の和訓は、これ娘媽の唐韻の転語なり。
又長崎の津外七里南に野母といへる浦里あり。[前掲三国名勝図会]

 ただ,地名としてのこの広がりと古さは,前に触れたMANA系根源語✻の一つであって,媽祖と野間がもっと大きな同一背景を持つと解するのが妥当でしょう。そうだとすれば「野間」名は媽祖の子孫ではなく姉妹で,おそらく媽祖の方が年少です。
✻FASE62-2@deflag.utina3103#当銘のガジュマル,瀬長のアカサチ森/⑤「M」への展望

中国からの船から見た野間岳

 これに関連して,三国名勝図会は,中国方面よりの航行者からの伝聞と目される次のニ記事を載せています。

毎歳漢土の商舶、長崎に来る時は、洋中にて必ず此岳(引用者注:野間岳)を認て、針路を取り、皇国の地に到り。その始て認め見し時は、酒を酌て賀をなすといふ。
✻三国名勝図会 第27巻 薩摩国川辺郡 山水

 一つは,想像はできますけど,野間岳を航路の標としていたこと。もう一つは,野間岳を初見した際に酒で祝う習俗があったことです。

或は曰、此岳往古は、笠砂岳といひしを、山上に娘媽神女を祀りしより、野間岳と号す。[前掲図会/山水]

 山頂に媽祖を祀るようになってから後に,「笠砂岳」を野間岳と改称した,と図会は記します。つまり,このニ記述をまとめると,①中国からの来航者が航行の標とした山に②媽祖を祀ったので③その山を娘媽岳=野間岳と呼ぶようになった,という時系列になります。
 ただ,因果関係としてはあまりに綺麗過ぎ,ここで触れてきた中国交易以外の「雑音」,特に狭義の媽祖信仰以外の海神の存在を考えると,やはりそこまで鮮明な因果が地名になるようには思えません*。「娘媽」が先なら敢えて別名を使う理由がない。長崎と南薩摩にこの地名が同じくあるのは,漢字文化圏の航行者以前の海民が音として「ノマ」に近い名称を付し,後に漢字が充てられたと考えた方が自然です。
*仮に神名だから同音漢字を充てるという発想だと考えても,中国語音での同音漢字を充てるはずで,「娘」と「野」(中国語∶イエ),「媽」と「間」(同∶ジエン)が交換されるとは思えません。

媽祖漂着伝承

 野間岳に媽祖が祀られる由縁として,この地方にかの女の遺体が流れ着いたという伝承がやはりあるようです。
「死んだ女神の漂着」というモチーフも珍しくはなく,普通には元形に媽祖が乗っかってると解釈できる。でもこの場合,媽祖の死亡場所は福建から動かせない訳で,随分と強引にも関わらずあえて漂着譚にしてるところが面白い。
✻ 同様の媽祖遺体漂着譚は,漢族圏では台湾南竿島の馬祖村のものが最も著名。
 漂着場所は,加世田と赤生木(笠沙町南海岸)です。

土人の説云、娘媽は、(略)遂に海に投て死す。其後神女の屍、加世田の海渚に漂ひ来る。[前掲三国名勝図会]

 加世田漂着譚の方は、明らかに福建の媽祖の本筋を反映してます。付け足したのは漂着地の場所だけです。
 ただ──

此神女の屍、加世田に漂ひ来るといふは、誤り伝へなるべし。 唐土の説に見えざることなり。[前掲三国名勝図会]

とも書かれているということは,中国での語りでも媽祖遺体は南九州に流れ着いたとされている,と信じられていた時代があったのでしょうか。まあいずれにせよ,媽祖信仰の存在した江戸初期に創作されたことは推測できます。
 これに対し,赤生木✻への漂着譚は対馬の天堂とその母親のそれに似て,土着性が感じられます。
✻位置→黒瀬海岸(神渡海岸)∶GM.

神渡 野間嶽の南、赤生木村の海浜にあり。 土俗の説に、娘媽神女虚船に乗て此処に至る、農民驚き、茅を敷き坐を献すといへり。 今に其子孫歳暮に橙実、及ふ拝筵を野間山神社に献ず。 此所土人崇敬して神迹とす。[前掲三国名勝図会]

「虚船に乗」ってきたという辺りはまさに天堂風で,海人の古くからの伝説のキャラが挿げ替えられたと思われます。また,こちらの漂着時には媽祖はまだ生きていることになっています。

南九州での媽祖信仰の定着

 最後に,南九州で最も媽祖信仰が根付いたと言える笠沙周辺で,地元の日本人がどれだけ媽祖を拝んでいたか,という点です。

 ボサさんは、かっては地元漁民はもとより薩南一帯に広く信仰された。沖を通る長崎通いの中国船の人びとも、船上から野間岳山頂のボサさんを遥拝したという。[前掲下見]

 大体,こんな「昔は信者がいたと聞く」という語られ方が多い。それが何重にも伝聞されている格好です。具体の事象を探してもほぼヒットがない。

 十六世紀中頃、加世田の領主島津日新斎(一四九二~一五六八)も熱心な信者であった。[前掲下見]

[再掲]日新公・伊作(島津)忠良さん

ともされるけれど,忠良さんは僧体で描かれるところが多いことからも,観音菩薩として崇拝していた可能性もありますし,中国交易に熱心だったのだから付き合いでということもあったてしょう。いずれにせよ,日新齋の媽祖信仰を証するものは見つかりませんでした。
 また,下見さんは

加世田市向江には野間岳神社の別当寺愛染院があって、信者たちはそこでボサさんの祈祷札をもらった。その札が一枚、「ミュージアム知覧」に展示されている。それには「奉修娘妈山大権現順風相送祈所」と記されている。[前掲下見]

としますけど,もし祈祷札の存在だけが根拠ならば,江戸初期に媽祖で売り出していた時期の愛染院が御札くらいは作成し始めたとしても,それは商売の戦術としてあまり不思議じゃない。
 唯一,具体の信仰慣習と目されるのは,前章で紹介しました椎木の例祭と田中別所での礼拝のみでした。
✻ m171m第十七波mm野間岳/田中宮別火所のストーンサークル
 図会「田中宮別火所」の記載はこうです。

田中宮別火所 片浦村に属す。野間嶽北麓にあり。 嶽の絶頂を距ること一里許。水田の間に小社を建て、猿田彦大神を奉祀し、別火所とす。野間嶽権現社の代宮司宮原氏、毎歳八月朔日より、家人を携へ、爰に寓止して、斎戒をなし、野間権現を祭り、十月朔日に至て止む。且野間権現祭祀の神酒を醸し、神供を調ふ所なり。[前掲三国名勝図会]

 いつの時代かは定かでない。また,なぜ猿田彦なのか,なぜ火を使うのか,不可解なところの多い祭祀です。さらに,この通りなら二ヶ月もほぼ仮宮のような扱いになるわけで,その時期はおそらく唐船来航時期です。それを今も続けている趣旨もよく分からない。
 笠沙町誌は次の神火伝承を記しています。

神女はときどき海岸へ潮水を汲みに下ることがある。その時神火があらわれる。神火はいつでも二塊であって,一つは直径五〇センチぐらい,もう一つは三〇センチぐらいである。はじめ野間岳の絶頂の白石あたりから現れ,徐々に岳の後をまわり,神渡辺まで下り,同じ道を通って帰っていく。村にはこの神火を見た人が数人はいるという。
 また,海上で嵐にあい,暗い夜の危険なときに,一心に祈願すれば,絶頂に必ず神火が見えるといわれ,この神火で方角を知ることができ,危険をまぬかれた者もいた。このような神異があるたびごとに,人々は娘媽神を厚く崇敬するようになったという(『三国名勝図会』)。
[前掲笠沙町誌 第四章第十節一 ④笠沙の娘媽伝説 あらわれる神火]

 これらを見ると,地元の特殊な信仰があり,それはかなり根深いものにも思えるのですけど,にも関わらずそれらしい寺社の類いは田中別所以外に見つからない。
 当時は,「野間岳という自然そのものを祀っているのなら」と納得してますけど,江戸期から現在まで信仰が続いてるのなら,そんなイスラム教の偶像禁止のような状況も奇妙です。

[メモ1]九州の愛染明王信仰

 愛染院が本来祀っていたであろう愛染明王の社は,近畿以西にはほとんどありません。源頼朝の念持仏と伝わるので,鎌倉初期に南九州に来た島津氏始祖が祀ったのかもしれません。
✻wiki/愛染明王
 それで思い出されるのは,先に触れた坊津の耳取峠の「太山府君神家」石碑に彫り込まれた梵字「ウン」✻のことです。この文字は愛染明王を象徴しています。
✻m167m第十六波mm硯川/梵字「ウン」と坊津「太山府君」

梵字[ウン」字(愛染明王)

 坊津―加世田の広い範囲で愛染明王信仰が存在した,と仮定するなら,その宗派は密教系のものだったと考えられます。そして,この地域で修験道的な信仰の場に相応しいのは,やはり野間岳になるはずです。
 ただ,そういう仮定と,野間岳の旧神・火蘭降尊らとはどうも繋がりにくいし,仏教寺院もない。さらに海人の神としての性格にも結びつきにくい。
 神道,仏教,媽祖信仰が個性的な形で痕跡を残すのに,どうにも焦点が結びにくい,この土地の信仰世界はどうなっているのでしょう?

[メモ2]諏訪湖の神渡との薄い相似

 笠沙町赤生木の「神渡」について先に触れ,媽祖が漂着した話に原型があったのではと疑いました。
 この原型が,神武帝(笠沙宮来訪時は瓊瓊杵尊∶ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の出あいに絡むものだと仮定すると,同様の「神渡」の文字が用いられる諏訪の「御神渡り」が想起されます。
 これは冬期に氷の収縮と膨張の結果が繰り返されて諏訪湖面に生じる亀裂のことですけど,諏訪の人は「諏訪大社上社の男神が下社の女神に夜這いに行った」跡だと,少し猥雑な捉えをするのです。
✻「御神渡り」の伝説とは?諏訪の歴史を紐解きながら絶景を眺める – Skima信州-長野県の観光ローカルメディア
URL:https://skima-shinshu.com/suwa-omiwatari1/amp/

 水上から男神が女神を訪れる,というモチーフは,両者に共通している可能性があります。
 またこのイメージは,海人が,航海中目印にした野間岳を訪れる,という旅程を象徴していると考えることもできる。その男女が入れ替わった形で,媽祖漂着譚が語られるようになった,というのは,何かの偶然なのか,あるいはさらに古い大背景を持っているのでしょうか?

──といったわけで,率直に言えば大した空振りだった野間岳北岸訪問は,それにも関わらず不可解な事象を幾つも見せてくれてます。それらの間に全く相関の線を引くことが出来ないのもまた見事な程で,何かあるのは分かるのに何なのかが全然分からない。
 薩摩の「媽祖」はまさに古代からの「マナ」で,捉えようのない「?」のままに残っているので──次章巻末では引き続き交易面の史料を探っていきます。


✻本文前後のこの画像は,内容とは関係ありません。

「m172m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m大当」への2件のフィードバック

  1. At the beginning, I was still puzzled. Since I read your article, I have been very impressed. It has provided a lot of innovative ideas for my thesis related to gate.io. Thank u. But I still have some doubts, can you help me? Thanks.

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