m17fm第十七波残波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m一條御所withCOVID/高知県
014-1一條御所\中村\高知県

幡多は文化的に高知ではない

日に高知に滞在できた日の昼は、如何にしてもここで食べなければならないのです。
1133 リーベロ
美鮮豚肩ロース肉と香味野菜の煮込み★★ 650
 田舎臭さとイタリアンの絶妙なバランスの膳を堪能してから、今回のメインイベント、中村へ向かいました。
 中世一条氏の太明交易説に、まんまと魅せられての訪問です。
🚈🚈
万十市川河口を中心とする地域を、幡多郡といいます。行政地名としては、今も大月・黒瀬町と三原村の郡名として残ります。
 幡多は、文化的に高知ではありません。

幡多弁・高知弁の分布と伝播推定ルート〔後掲NHK〕

 外来者としてはあまり意識できなかったけれど、現地の人が聞くと方言が相当違うらしい。イントネーションが、高知は四国一般と同じ京阪式だけれど、幡多は東京式という。これは愛媛県南予も同じ〔後掲NHK〕。
 ただ調べる限り、土佐弁の特色とされる現在・過去完了表現(「しちゅう」など)は幡多弁にも存在する(「しちょる」「しちょう」など)ようです※〔wiki/幡多弁〕。また、母音を明確に発音する特色も、幡多でも特に土佐清水には強いという〔後掲川中子〕。だから、イントネーションのみ東京化した高知弁、という可能性も否定できませんけど──大まかには宇和島〜中村辺りの南西四国部は、県として分離してないけれど文化的異国感を、少なくとも他の四国人は持ってるようなのです。

※実感しやすいところで言うと、過去・現在完了形の表現は広島弁にも存在してます〔後掲エバンス〕。むしろほとんどの西日本方言には、現在・過去の二項対立表現より、現在・完了・過去の三項対立の方が一般的という〔後掲工藤・八亀〕。

🚈🚈
急あしずり5号が着いたのは、小雨の残る中村でした。
 駅前の四万十市観光協会にレンタサイクルの存在を確認。0830営業開始、1730閉店、夜越しの貸出はNG。5時間まで千円,同電動2千円。
 駅前の宿に荷を置き国道439を北西へ──想像よりかなり町は大きい!いや、かなり昔に訪問済のはずでしたけど、初手から目論見を外しました。
 1627、ようやく道に凹凸が出てきた。ad表示なし,森下病院前。
 左手にアーケードを見る。大石和菓子店前を左折。門前町と表示、これは住所か?──と思ったけれど観光エリア名のようなものみたい。

香り米が食えないなんて嫌でおじゃる

1644「はたしん」と中心街

638、アーケード手前に中村マルナカ。
 この直前で右折。幡多信用金庫。愛称「はたしん」を冠するこの信金は、何とここが本店でした。──実は、「幡多」の名称はこの銀行名で初めて知りました。たまたまあった喫煙所で一服しながら、この二字に不思議を感じて初めて調べてみたのです。
2022年10月6日四銀-はたしん業務提携。高知県内に本社がある9868社のメインバンクは51%が四銀、5%が幡多信(東京商工リサーチ)。〔後掲朝日新聞2022〕

古くは播多郡とも書いた。平城宮跡で出土した木簡に、「播多郡嶋田里」と記されたのが、幡多郡の存在を示すもっとも古い証拠である[1:ただし詳細は巻末資料参照]。国郡里制が施行されていた大宝元年(701年)から霊亀元年(715年)のものである。今ある文献で初めて記すのは、貞観2年(860年)6月29日、土左国播多郡の地10町を施薬院に与えた事を記す『日本三代実録』である[2]。
※ wiki/幡多郡 日本の高知県(土佐国)の郡
※1^ 山下信一郎「古代土佐国の郡の変遷に関する覚書」626頁。
※2^ 『日本三代実録』貞観2年6月29日戊申条。新訂増補国史大系普及版『日本三代実録』前編52頁。土左は土佐の別表記。


町通りと記された石柱。確かここも小京都を名乗ってたっけ。

内部リンク→外伝07(≧∇≦)再訪・香り米の6月/土佐の香り米
「 土佐の香り米の本場は四万十市の旧中村市域。中村は今も小京都の一つで,一條大祭(いちじょこさん)って祭が有名。室町期に土佐幡多郡なる荘園があり,藤原北家の一条家の領地だった土地。
 応仁の乱の際に,一条教房(前関白)が都から疎開してきた。香り米の生産はこの時始まったとされる。要は,教房くんが『香り米が食べれないなんて嫌でおじゃる』とか駄々こねたらしい。自分の我が儘ぶりを歴史に残すのはイタいよ!とは思うけど,まあその位,公家の世界じゃ好まれてたわけ。」

 右手西側の丘に社を認める。ここです。上記「おじゃる」さんの館。
 1645、左折、回り込む。

1648一條神社の丘西側

ア美容室前からさらに左折南行。狭い台地らしい。
 1649、「旅館 一條荘」。この裏の高みが一條神社らしい。横手西側からの脇道は入れるかどうか分からん。
 まあ,一度アーケードに入ろう。

咲かずの土佐一条藤

1651退散!

ャッター街とは言い切れない、まずまず活況のアーケード街です。天神橋というのが通りの名か?
 1655、マルナカ北正面が正門鳥居でした。「一条氏中村御所跡」という石碑も並立してる。
 登ろう。
正面から一条神社。〔GM.2023〕

社は1862(文久2)年に「土佐一条氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立されました」。別の案内に「慶長12年(1607)遺臣により一条氏数代の霊をまつる一祠が建てられた。」とある。
 一条氏の名残としては「藤見の御殿跡」と「化粧の井戸」があるらしい。
 燈籠には「奉献 天神社 氏子中」とあるから元の天神社が一條神社に引き継がれた、ということなのか?
1715神社碑文

に別な案内レリーフ。藤は一条氏家紋で「土佐一条氏第4代当主一条兼定は,長曽我部氏に終われ,館を離れるにあたり
 植えおきし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな
と歌を残して去り,この藤はその後約三百年間花をつけませんでした。しかし文久元(1861)年この藤が見事に咲きほころび,このことが翌年の一條神社建立の発端となりました。」
──1861年、つまり明治維新7年前です。江戸時代の支配層(山内氏?)は一条氏を偲ぶことに否定的な空気をもってたのでしょうか?
 階段直前左手「霊藤記」という石碑。昭和11年とある。読みにくいけれど昭和3年に戦艦陸奥乗船の久●宮が参拝した時にも藤が咲いた,と書いてある。これも日中戦直前です。この神社の藤が咲く、というのは歴史的変事の兆候と認知されているらしい。
咲かずの藤は令和4年に満開を見せました。宮司「これだけ満開になったのは約40年ぶりです」〔後掲朝日新聞2023〕

中村開府五百年碑

1718「八十人役」

段の前の奉寄進に書かれる「八十人役 ××××」とは何だろう?もしかすると、現代の「金×××万円」の代わりに労働力を供したのでしょうか?
 化粧井戸も、しめ縄が巻かれてそれ自体が神格化してる。──伝承では、一条家の女官が化粧に使った、というだけの井戸です。なぜそれが神格化されるのか?
 どうも……ローカルな信仰対象の集合体、みたいな臭いのする場所です。
1720化粧井戸にしめ縄

れにしても……この現・神社は小さな丘です。
 標高は僅かに19m〔後掲西国の山城〕。
 御所というには変に小高い。城というには小さ過ぎる。──現に1575(天正3)年に豊後から故地奪還を目指し四国に再上陸した一条兼定は、四万十川北岸の栗本城に入り長宗我部に対陣してます。
 なぜこんな、半端な場所を本拠にしたのでしょう?
1723振り返った鳥居とマルナカ
1725市街望見

内。
 中村市長 長谷川賀彦著の「中村開府五百年 国鉄中村線開通 記念碑」の横の由緒に一条氏代の栄えが「国内経営文教産業貿易等の振興とその活躍は多彩であり」と書かれる。一条氏が貿易を振興したことは、学説以前に地元の自己認識であるらしい。
1731碑文に「貿易」

図面。
 1589(天正17)年検地帳に、この丘陵に「森山」,建物としては「維摩堂床」と書かれるとある。岡村憲治という解説者の推定復元図が掲示されてました。
──このニュアンスは、懐疑的に見るなら、一条氏の居館という「伝説」が幕末になぜか地元で「思い出され」て、三百年前の城を再発見したように読めます。つまり、ここが中村御所なのかどうかは決して確定的ではありません。
1747、絵図面

村さんの推定原文を掲げておきます。根拠は天正検地帳。

天正17年(1589)の『地検帳』によると、此の丘陵が森山で維摩(ゆいま)堂床がある。
 小山の東側に、御堀・北堀・寺院跡や小田つきの広い土地に建物がある。
 西側には、御土居が散田と登録され「居(いる)」の記載で家屋のあったことが知れる。
 御土居・御堀の敬称は長宗我部元親に付けたものではあるが、東・西同じ地割の絵図範囲が土佐一條氏の『中村御所』跡と推定できる。(略)
   昭和63年(1988)
   提供 中村南ロータリークラブ
   <解説>岡村憲治〔後掲西国の山城〕


神社は戦後の合祀らしい。
 一條神社本殿の右手西方に祀られてました。この神体のことは、先の碑文の少し手前に併記されてます。昭和28年に現市役所にあったのを移転したものという。祭神は,少彦名命と菅原道真公とあり,つまり一條氏とは関係ないようです。
 天神より前,右手に愛宕神祠。
 本殿左手にも一祠。これが元々の神に思えるけれど、記名なし。
 上から見ても東西と北は急斜面です。城のようだけれど、やはり小規模過ぎる。

土佐に来ない一条兼良を祀る社

1753西側は急崖

神の若藤男命・若藤女命は一條兼良と同夫人を指す。
 本殿の由緒によると御祭神として一條家各代連枝が書かれるけれど,一條兼良と同夫人のみが若藤男命・若藤女命として神名で書かれる。この夫婦の時代が中村の開びゃく代と認識されてるんでしょうか。
──と当時は適当なことを考えてるけれど、この兼良(8代)と夫人とは、幡多へ進駐した一条家初代・教房(9代)の父母のことらしい。
一条経通~兼良の系図〔後掲ねっこのえくり〕※ピンク丸(兼良・教房)は引用者
土佐一条家系図〔後掲四万十市観光協会〕※ピンク丸(教房)は引用者

故、土佐一条家初代・教房ではなくその父母が神格化されているのか?後代の地元の創作神なら、土佐に来ていない兼良が最高神に祀られるのは不自然です。兼良は関白・太政大臣だったので、最高位の権威からなのか、あるいは一条家が主体的にその祖を祀ろうとした経緯があるのか、ちょっと断言しにくい由緒があるように思えます。

昭和21年 壊滅した小京都

1803中村市街中心部路地にて。ラーメン屋。

当てにしてたラーメン屋は開店しないらしい。
 四丁目から五丁目を通って帰路。
 遺構というほどのものはない。少しだけ凹凸や不規則な径がなくはない。ただその位です。
 鄙びた町並みはよい。ただ家屋は新しい。
1804中村市街中心部路地にて。道には緩い湾曲。

京都・中村は、昭和21年12月21日の南海大震災で壊滅ています〔角川日本地名大辞典/中村平野〕。同震災で国内最大の被災地と目されており、例えば、四万十川にかかる鉄橋9スパン中6スパンが落下してます〔宇津徳治・嶋悦三・吉井敏尅・山科健一郎 編『地震の事典』(第2版)朝倉書店、2001年←wiki/昭和南海地震〕
 なお、巻末に掲げるように、四万十川の流域も頻繁に転じていると推定されています。一条氏時代を含め、ある時代の流域がどこを流れて交易に使えたのかどうかは非常に特定しにくいのです。
1806中村市街中心部路地にて。複雑な屈曲もある。

万十市役所のアナウンス──「××病院にワクチン配布中です。……5月中旬には再度案内を……」と長い長い放送がありました。
1807中村市街中心部路地にて。パティオのようにも見える路地。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

元禄14年の奇妙不思議

朝0840。
 雲が厚い,というか濃霧のような状態?四万十川だからな。
 0855、駅前観光協会で自転車をレンタル。赤のマウンテンバイク。古いけれど性能は良さそうだし、整備もしてあるようです。
 0900。線路と後川を渡る。後川の河岸は自然っぽく古びた遺構はない。──これも、暴れ川ゆえに整備が十全だからでしょう。
🚲
910、古津賀古墳。

高知県西部では最も大きな横穴式石室古墳です。6世紀後半(略)につくられたこの地方の豪族の墓です。(略)古墳からでた副葬品(金環,鉄刀,馬具,土器類)などは幡多郷土資料館に展示〔案内板〕

 見た感じは、何というか、古い防空壕か何かに見えるので写真は撮らなかったけど──幸いwikiに画像があったので転載。
──意外にも、幡多地域の古墳数は極めて少ないのだという※。繰り返された氾濫のせいかもしれないけれど。

※原注[3] 『古津賀遺跡群 第1次-第6次発掘調査報告(四万十市文化財調査報告 第1輯)』 四万十市教育委員会、2006年←wiki/古津賀古墳

墳丘全景(中央に石室開口部)〔wiki/古津賀古墳〕

的地にしていたのは、その山の西側の古津賀神社でした。
 南側は傾斜に畑。その向こうは水田,さらに線路から丘に起伏が登ってる。何というか、ゴチャゴチャした環境の神社です。
45度斜めの宮方向

居からまっすぐの道に、本殿が45度傾くように建つ。これは、珍しい配置感覚だと思います。
──この点ははっきりwikiに解答がありました。古津賀神社は、古津賀古墳を信仰対象●●●●●●●●●●、つまり御神体としての創建されたと伝わってます〔「古津賀古墳」『日本歴史地名大系 40 高知県の地名』平凡社、1983年←wiki/古津賀古墳〕
 この元資料は、おそらく 皆山集※。「元禄14年に当地に『奇妙不思議』があったことから神託を請い,以後同神社が当古墳の被葬者を総氏神として祀った」という不思議な記事があります〔皆山集←角川日本地名大辞典後掲/古津賀古墳〕。
 つまり、古墳の遥拝所としてその方向を向いていたところに、後から人が参道と道路をつけたのです。
 つまりその位に(元禄14年=1701年)古い「信仰」の場なわけですけど──なぜ古墳を拝むんだろう?

※一一六巻一一六冊 松野尾章行編著 高知県立図書館 昭和四八―五八年刊
明治一一年から同三四年にかけて編纂された高知県郷土史料集。編著者の著作やテーマをもった巻もあるが、過半は古文書や古記録を書抜いたもの。現在湮滅してみることのできない貴重な史料を多数収録している。〔日本歴史地名大系 「皆山集」←コトバンク/皆山集〕

0925真澄神社祭壇

殿社の左手に2祠。
 すぐ左は真澄神社,貞享元年と記される。社自体に神体はなく,手前に恵比寿に見えるテラコッタのような像が三。

沖縄が素朴に拝まれてる

0923土佐鶴パックの供え物

左のバラックの社は無記名,神体は石2つ。
 だけど供え物はこちらが多い。土佐鶴の紙パックが紙ナプキンの上に鎮座してる。
 正統性やらはともかく、とにかく素朴に地元で拝まれている感を強く受けました。
0928神域境界石列

の3座を結ぶ石の列があります。
 沖縄ならはっきり「イビ」と判定できるラインです。でも、沖縄御嶽では通常、イビは拝み人の導線と直交する、つまり進路を妨げる方向に伸びます。古津賀神社のは導線に並行、見方によっては導線そのものです。もしかすると、古墳の構造上、例えば表道(せんどう)や仕切りの上部構造とかが地面に出ているのでしょうか?


 沖縄的な神域を感じたからか、妙に藪蚊が多い。退去。

0940水田の集落

路下をくぐった後右折。0938。
 方向は西南か。水田広がる。
0942石垣の小径

行する田舎道。
 好い。
 ちょっと脇道に入ってみる。かなり古い石垣も散見できます。
0940車道直前からの路地

琴平神社の津波看板

946、車道・下田港線に再び出る。右折南東行。
 0948、古津賀川を越える。小さな流れにしては小舟多数係留。この「きりぬきばし」の脇を水路用の橋がもう一本かけてある。古くはない。
 下田港線を少し登ると、四万十川が見えてきました。ここが中村市街のある中洲の頂点にあたります。

0948古津賀川

通量が多い。右手河岸側の歩道を走らないと危険だけど,次の目的地から考えてあえてもう少し左を走ろう。
 0956。ad井沢。
 1003、行き過ぎた。少し戻って,井沢川をみつける。幅2~3mだけど古そう。この上流が琴平神社のはず。行こう。左折東行(→GM.)。
1005井沢川。川岸の石積が素朴で古い。

れた野道ながら清々しい。
 三叉路で間違えて、行きつ戻りつしつつ、1013。琴平神社の津波避難路看板を見つける。
 やはり石垣の映える細道です。さらに竹林。進む。
1007井沢川の川辺の野道

■小レポ:幡多遣明船と土佐海民の幻

 この中村への「海域アジア」探しは,大失敗であるとともに大成功でした。
 大失敗というのは,地域的には幡多,時代的には室町期,主宰者的には一条氏,どれをとってもまた拡大しても,土佐には瀬戸内・松浦五島・薩摩琉球・台湾福建に類する海域アジア性は見いだせなかった点です。遣明船参加者である事すら,非常に怪しい。
 なのに大成功だったというのは,まさに先述の「海域アジア性」が何なのか,それが、一見その存在が必然と見える土佐にない,という事実から浮き彫りになるからです。
 有るはずの所に無い,というのは,有るものの在り方を鮮明にします。例えば,福建の中でも泉漳だけが,瀬戸内の中でも二窓・吉和だけが,なぜあれほど広く烈しく海を渡ったのか、という本質が見えてくるのです。
 結論から急ぎ過ぎました。順を追います。
 まず,高知県人のみならずニッポン国民共通の土佐人認識は,前掲絵柄のような「大海に悠然と乗り出す」海臨丸とその甲板に立ち向かい風の坂本龍馬イメージでしょう。
 もっとも,これは自己愛自己理想や偏見だけでなく,位置関係からしても薩摩の坊津や山川に共通します。黒潮の寄せる太平洋岸。つまり、地図を安易に見た時に感じるイメージです。

四国における幡多地域(中村・(土佐)清水)は,九州の坊津や山川と,位置的に共通する「感じ」がある。

[偏向の認知]一条氏の遣明船参加説への賛否

「土佐一条氏が対明貿易に参加していた」とする説は,意外に早い時期に唱えられています。
 1935(昭和10)年の野村晋域「戦国時代に於ける土佐中村の発達」がその嚆矢とされ,この論文で
【仮説】土佐中村の外港下田=遣明船寄港地
とする説も唱えられています。その根拠は

【A】 1537(天文6)年に一条氏による遣明船建造の計画がなされたこと(翌年2月に堺へ回航)[出典:石山本願寺日記(天文日記 天文6年12月24日条)]
【B】 一条氏が送った明由来と思われる品
B-1 1540(天文9)年「唐犬」→石山本願寺証如上人[出典:証如上人書礼案]
B-2 1539(天文8)年「あさぎのどんす」(浅葱の緞子),1552(天文21)年「ひきわうごん」(引黄金)→皇室[お湯殿上日記]
B-3 年代不詳 明国渡来の花瓶→月山神社(幡多郡才角村:現大月町内)[現存]
※1 瀬戸の島から/土佐中村の一条氏は、対明勘合貿易に参加していたのか?
2020/07
※2 中村市史編纂室「中村市史」昭44 第四章/七 堺商人との関係/対明貿易

 これらを冷静に考え,かつ他地域の事例と付き合わせれば,以下記すような諸点の検証を待たずも論拠の薄い印象が明白です。早くも戦後には,小松泰や下村敷が否定説を唱え初め,学界では現在それが通説化してます。
 その典型的かつ核心部として,まずA「遣明船建造」についてです。一次史料としては肯定説のほぼ唯一の根拠となっているのがこの史料ですけど……入手はできませんでした。
 ただ、この原典での一条氏の関与としては,木材を切り出した,という一点です。四万十川の水運から考えて木材供給に便利なので,中村で建造されただけ、とするのが自然な解釈ではないでしょうか?一条氏が造船を実施したとすれば,船の所有権を有し,それを売却した,というような記述があってもおかしくはないけれど,それはない。そもそも,移封直後の一条氏本体にも幡多地元社会にも,そんな技術基盤を有した必然性がありません。
 けれども,地元では過去に,つまり坂本龍馬やジョン万次郎より前から土佐人が「海外雄飛」した時代があった,と信じたい志向が根強いらしい。一度唱えられた「一条氏遣明船」イメージはなかなか消えていない、というのが真相に思えます。
 そういうバイアスがかかっていることを,議論の環境として,まず認識しておいた方がいいと思うのです。

[論点1]中村地域での唐物の絶対量と種類

 Bの中国由来の品も,たとえ本当に明産であったとしても,遣明船で一条氏が交易で直接得たものという確証はないし,何より品の種類も絶対量も他地域の例と桁違いに少ない。
 この点の確認方法としては,幡多地域での唐物の「裾野」を見れば確認できます。

勘合による遣明船の輸出入品は、輸出品は刀剣・鎧・硫黄・銅を主とし、扇・蒔絵・屏風・硯・漆器などがあり、輸入品は銅銭を主とし、生糸・高級織物・錦・書籍などでした。これらの流通が中村周辺では見られない[前掲瀬戸の島から]

 考古学的にも,四万十川流域は「貿易陶磁が高度に集中して出土した遺構等は確認されていない」とし,博多・薩摩の事例と比較した場合,「これらの遺跡の第一義的な機能として貿易の拠点や中継地を考えることは困難であろう」とするのが通説です。ただし,「貿易陶磁の絶対数からみて,少なくとも遠隔地間海運に関わる湊津が近在したとみられ」ることは認められており,交易と無関係だったと断ずるところまでは難しい,という微妙な状況らしい(引用部は下記池澤2004)。
※3 橋口亘「南九州から見た土佐――十五~六世紀頃の貿易陶磁出土様相と志布志大慈寺一石五輪塔――」
※4 池澤俊幸「土佐における広域分布品の様相」『中世西日本の流通と交通』高志書院,2004

 また,これは土佐全体に言えることで,例えば中国産の貿易陶磁の出土量は,「薩摩南部の出土例だけで土佐のそれを凌駕している」[前掲橋口]という。
 具体的なデータを見てみると,高知県域の主な遺跡で出土した国産及び貿易陶磁の件数は次のように算出されています。
※5 池澤俊幸「南四国に搬入された中世土器・陶磁器と海運」第1表1・2 主な遺跡における搬入品計数の時期別一覧 下記はそのデータを引用者において加工したもの

加工表:高知県域の主な遺跡における搬入品計数
※ 池澤さんの抽出計数中,東・西・西南部の計を抜いた上で,同区分中,ある時期に最もメジャーな遺跡のみを内訳として抜いたもの

 同時代の土佐での比,高知県南西部での比,ともに15Cの南西部,つまり一条氏時代の中村地域は半数程度のシェアにまで達しています。一条氏が明交易に全く関与していなかった,とは到底言い切れない数字ですけれど,交易の主体だったとすると少なすぎる,という微妙な数値です。
参考地図:前掲加工表に内訳表示した遺跡の位置

 上の地図は,前掲の池澤さんの算出した遺跡の場所が分からなかったのでプロットしたものです。
 東・西部の遺跡は高知市周辺に疎らに存在します。高知湾の地形からして利用しやすかったこの地域への集中はある程度自然として,これと比較した南西部の集中度は異様です。極端に中村域に密集しています。
 なお,下のグラフは,上の表から時代毎の出土数を積み重ねの棒グラフにしたものです。15C中村域の位置,無視できないけれど確証はできない,という状況は,繰り返しですけど確かに言える。でも,既に触れたように絶対数が土佐以外の地域とは比較にならないので,中村域は土佐で初めて海外交易の影響を如実に受けた地域だった,という位は言えるようなのです。

加工グラフ:前掲加工表による
※ 表頭「貿易」列の地区計のみを積み重ねグラフとしたもの

[論点2]迂回路として開拓された南海路

「幡多への異国船来航」の事実自体は,一次史料で確認できます。それは大きく分けて,近畿に残る遣明船(いわゆる勘合船)の記録と幡多側の異国船来航騒ぎのそれです。後者については論点4で触れることにして,前者の有名な史料を以下掲げます。

一、唐船帰朝 大内可落取之由在其聞 経九州南 著四国土州ニ著云々
※6 大乗院寺雑事記 文明元年八月十三日条
一、唐船三艘進発近日事也 長門以下路次難義間 可越年土佐幡多 自四国可渡唐云々
※7 同 文明十五年十二月十二日条

 荒く言うと,文明元年に中国→日本の船が「土州」(土佐)に「著」※=着いた。また,15年には日本→中国の船が「土佐幡多」で「越年」し「渡唐」=中国へ帰った。
※「着」は元来「著」の俗字だったけれど,「着く」の意味に特化して用いるようになった漢字
 大乗院寺雑事記は応仁の乱前後を,奈良興福寺の大乗院院主という適度な距離感から三代に渡って記した根本史料です。上記は,三代中でも最も歴史的価値が高いと評される尋尊(じんそん)の記載部分(尋尊大僧正記)に属します。
 なお,尋尊は一条兼良の嫡子,つまり中村一条氏の祖・教房(のりふさ)と兄弟です。教房が長男に当たり,ともに正室の子。
教房 1423(応永30)年-1480(文明12)年
尋尊 1430(永享2)-1508(永正5)
 要するに前述の記事の著者は一条教房の最も近親者です。
 さらに,教房の幡多までの移動は
1467(応仁元)年8月 尋尊を頼り奈良に疎開
1468(応仁2年)9月 父・兼良も奈良に疎開,教房は父に避難所を譲り幡多へ移る。
 前掲記事はその翌年の1469(文明元)年です。
 次代一条氏当主・教房の幡多への移動は,少なくともこの父子3人が戦乱下での家の存続策を熟考した末の戦略だったでしょう。つまり,大内家に倣い,中央の政治力より地方での経済力の方を有望と見たのではないでしょうか。
 以上前置きを長く書いたのは,この記録を書く尋尊が,幡多に入った長兄・教房を強く意識していたはずの時空と状況にいた,という点です。
 15年に「土佐幡多」で「越年」と書く尋尊が,元年に「幡多」で何をした,と記していないのは,この船が幡多に入港していないか,そもそも土佐は経由地点として記されただけでろくに入港していないか,そのいずれかと読むのが妥当です。文明元年船は日本に来ているわけで,どこに着いたか分からないということはあり得ない。
 だから,幡多への入港史料と信頼できるのは,文明15年船の記事だけと考えるべきです。
 この時は「越年」です。おそらく潮待ちでしょう。中村市史は,中村で越年した理由を,正月の諸行事を挙行できる小京都は土佐にここしかなかったから,と書くけれど,確かにそうでしょう。それは逆に言えば,文明15年船が幡多を港湾又は交易地として選んだ訳ではなかったことを意味します。幡多は長期滞在地として選択された。
 要するに,この2つの記事は,幡多,おそらく中村下田が遣明船の交易地であることを証明しません。

倭寇根拠地エリアと中村の位置。九州・瀬戸内海の倭寇エリアの南の外にあたる。

2-1 海賊の空白地帯・土佐

 ならばなぜ唐船が土佐を通ったのかと言えば,文明元年船については「大内可落取之由在其聞」──大内氏が略奪すると聞くから,15年船では「長門以下路次難義間」──長門から先が難儀が多いから,と書かれています。
「落取」というのは,はっきりした語釈がない,おそらく俗語的表現ですけれど,海賊行為を指す時にも使われます。大内氏が直接海賊を成したわけではないでしょうから,瀬戸内海,朝鮮使節の記録では大内領西瀬戸内に海賊が多くいたことを言うのでしょう。
 それは,土佐側には海賊が少なかった,と逆読みもできます。
 土佐の海賊の記録として有名なのは,紀貫之「土佐日記」です。

十一日,あかつきに船を出だして室津を追ふ。(略)
二十一日。(略)国よりはじめて,海賊むくいせむといふなることを思ふ上に,海のまた恐ろしければ,頭もみな白けぬ。
(略)
二十三日。日照りて曇りぬ。このわたり,海賊のおそれありといへば,神仏を祈る。
(略)
二十五日。(略)海賊の追い来といふこと,絶えず聞こゆ。
二十六日。まことにやあらむ,海賊追ふと言へば,夜中ばかりより舟を出だして漕ぎ(略)
三十日。雨風吹かず。海賊は夜歩きせざなりと聞きて,夜中ばかりに舟を出だして,阿波の水門をわたる。
[8 土佐日記。年月はともに935(承平5)年1月]

 この記述は叙情的過ぎて地名がほとんど書かれないのが難点ですけど,室津から鳴門の間,時間からして阿波沖一帯が,当時の水夫が海賊に怯えたエリアらしい。
 その他の史料にも淡路や阿波の海賊という表記は散見されるけれど,事実描写はほぼ残らないらしい。阿波の海賊について書かれている資料:紀伊牟呂郡田辺町小山文書(1322(元享2)年)「阿波国海賊出入所々…」
 土佐→難波ルートを辿った紀貫之一行が室津から先で海賊におののき初めてる,ということはそれ以前、室津以西に海賊が●●●●●●●●格段に少なかった●●●●●●●●ことを意味します。調べる限りでも,「土佐海賊」に相当する情報はヒットしません。
 次章巻末でも触れますけど,海や河川を交通路とした形跡ははっきりとあるのに,東西の豊後・紀伊水道で書き残されるような海上自由民たる海賊が,土佐にだけはいなかったことになる。
 なぜでしょう?
 この点は,表経済的な言い方だと海路のネットワークが築きにくい,裏経済的には追われた海賊が隠れにくい,という理由からだと考えます。
 高知県の岸は黒潮に洗われ,太平洋側の沖には島がほぼ存在しない。近代の高機能の船舶が登場する以前は──航路が一次元にしか広がらない。ために,複数種の交易が入り乱れての発展は行われにくいし,航路のラインを官兵が遮断すれば海賊の取締りが容易です。
 だから,次節に記すようなルートの転用や政治環境の変化があった時,他の方法や形態に変化して生き延びられない。寸断されれば即,交易路の崩壊に繋がる。
 ネットワーク化されていない海路は,生命力がない。
 土佐には,海路を利用する人は多かったけれど,その海路を自由に使って生活する集団は生まれてきにくかったのだと思います。

2-2 近世までは細かった南海路

 東シナ海を越える大洋路と南島路の2ルートは,前者が博多-五島-浙江を,後者が薩摩-琉球-台湾-福建を結ぶ。対して日本列島でも,江戸期に北回りや南回りに耐える千石船より前の地乗り航路は2つ,中国路(瀬戸内路)と南海路(土佐路)でした。豊後水道の位置はこの4海路の交点に当たります。
 ただ,この四者の中では南海路は格段に脆弱だったらしい。

南海路は、一五世紀後期の応仁度遣明船が帰路に使用してから注目されるようになるが、実際は遣明船以前からの利用が史料から確認できる。ただし、瀬戸内海を通過する中国海路と比較すると、南海路は、距離も長く時間もかかるうえに、室戸岬や足摺岬を迂回し、太平洋に直面する土佐湾を航行するという自然条件の厳しさもあったため、中国海路の沿線が不安定化した場合や、政治的な背景がある場合に限って利用されることが多かった。
※9 伊藤幸司「遣明船と南海路」『国立歴史民俗博物館研究報告』 第223集,2021年

 脆弱さの理由は2つ,距離と危険度です。
 後者の危険さは,太平洋に晒されており波が高いという点に加え,室戸岬と足摺岬の突出点での潮や岩礁の読みにくさということらしい。確かに瀬戸内海にそんなリスクは存在しようもない。
 もう一つ,距離の問題は,瀬戸内海→博多のベクトルより,足摺岬→室戸岬→薩摩のベクトルははるかに南を向いてしまうことを考える必要があります。

南島路と太平路

 距離が遠い,というのは正確には,目的地が朝鮮や北部中国である場合には,です。南部,なかんずく福建・広東方面に向かう場合に,初めて中国路と距離的に同等になる。
 つまり,東シナ海に南島路が開発されてから,土佐沖の南海路も初めて成立しうるようになったわけです。決して古くはない。
 加えて,あまり指摘されないようですけど,北側から見た瀬戸内海の入管管制の固さ,という問題もあると思う。
 やや古いけれど,8・9Cには新羅海賊が九州北岸を荒し回っていた時代がありました。その時代以降,下関(旧称・長門関)の入管管理は完璧を求められてきました。866(貞観8)年に中国人がノーチェックで近畿に来た時の厳しいお咎めがあったことが,記録に残っています。

―責豊前・長門等国司曰、関司出入、理用過所。而今唐人入京、任意経過。是、国宰不督察、関司不過所之所致也。自今以後、若有警急、必処厳科
[10「三代実録」866(貞観8)年4月17日条]
唐人任仲元、非過所、[車取]入京城、令譴詰大宰府。重下―長門・大宰府、厳関門之禁焉。[11 同五月廿一日条]

 これは下関の地形が可能にしたことです。
 それに対し,瀬戸内海は南には豊後水道と紀伊水道で開かれている。北へはあれほど厳しい入管を敷けた内海水路へ,簡単に侵入できます。「瀬戸内海のバックドア」としての南海路のメリットは,例えば御手洗に屋敷を設けた薩摩のような例を考えると,実は結構大きかったのではないでしょうか。

2-3 堺遣明船の関連史料とその内容

 以上の遣明船派遣経緯に関する史料は,岡本真さんが極めて簡明に表に落としておられました。
※12 岡本真「『堺渡唐船』と戦国期の遣明船派遣」東京大学史料編纂所,2015

 こう整理すると,非正規の色が濃い堺遣明船は,かくも雑多な勢力が多様な立場で口を挟んでいて,一条氏はそのほんの一角だった,というのがよく分かります。岡本さんはこう結論づけています。

協力の見返りとしての利潤獲得こそ見込んでいた可能性はあるが、一条氏が造船に関与した事実のみから演繹して、遣明船派遣計画の中心的存在だったとは想定しがたい。したがって、土佐一条氏も証如と同様、派遣推進勢力の中心ではなく、協力者に位置づけるのが合理的だと考えられる。[前掲岡本]

[論点3]なぜ大内氏は一条氏に姻戚関係を求めたか

 大内晴持(はるもち,1524(大永4)-1543(天文12))は大内氏16代当主・大内義隆の養嗣子(後継者としての養子)。実父は土佐一条氏3代当主・一条房冬※。母は房冬側室=大内義隆の姉だから,晴持は義隆の実の甥でもある。
※ 記述によっては一条房家の四男で、房冬の弟と記すものもある。(wiki/大内晴持 出典:大内義隆記)
 大内氏最盛期を築いた義隆の,後継者として一条氏から養子に入ってる。元服後,各主要戦場にも義隆に同行しています。けれど,尼子経久没後の混乱に乗じて出雲を攻めた1543(天文12)年の月山富田城戦,いわゆる第一次月山富田城の戦いでの大内軍の敗走中,二十歳にして溺死しています。
 結果,義隆の跡目は晴持の義理の弟に当たる義長が継ぐ。実兄は豊後の大友宗麟。陶隆房の謀反後,隆房により擁立された当主なので当初から傀儡で,事実上大内最後の当主となります。
 ……ここまで書くだけでも分からくなりそうですけど,つまりは,大内-大友-一条の姻戚関係はこの時代にかなり深くなってます。
 中村一条氏に関して言えば,二代房冬の子の三代房基は,大友義鑑の娘を妻として生まれた娘を伊東義益に嫁がせ,その子四代兼定も大友宗麟の娘を妻としてます。
 さて本題です。
 中村一条氏が参画(木材提供)した遣明船は,客観的に考えて表看板は細川氏,実質は堺商人が主管しています。この細川氏と,応仁の乱,さらに寧波の乱で対明交易の正統性を争ったのが大内氏です。
 細川方に与しているように見える中村一条氏出身の一条晴持に,寧波の乱後に対明交易を主導していた大内義隆が,なぜ跡を継がせようとしたのでしょうか。
 寧波の乱当時,薩摩は大内とも細川とも通じていたという[前掲岡本]。政治的取引に長けた一条氏も同様のカメレオン外交をしていた,ということは想像できるけれど,それにしても義隆代の姻戚関係は極端に見えます。

大内氏系譜(最後代のみ)
※13 中世 守護大名 大内物語(その1)/大内氏系譜

 これはまるで,実質的な「一条・大内・大友」三重王国を企図していたように見えます。いや,戦国末期にはこの形で,他家を実質的に乗っ取る手法が横行していくわけですけど,義隆は一条氏や大友氏に主筋を乗っ取ってほしかったような政略結婚を仕掛け過ぎてます。
 一条氏の晴持が戦没した後の大内義長が当主に就いたことで,大友氏の血統が大内領を支配する──と言っても既に実権は陶氏に移り,これも実を結ばなかったけれど──。
 一条・大友とは,豊後水道の東西の勢力です。
 この時代の大友豊後領は,大友義鎮(法名:宗麟,洗礼名:ドン・フランシスコ)の下で遣明船を派遣,琉球・カンボジア・ポルトガルとの海外貿易を行い,交易の全盛期を迎えていました。史料や物証はありませんけど,方角だけから考えると南海路-豊後水道経由での交易路を用いています。
 太平路の前半を使って朝鮮を主な取引先とする大内氏の視点からは,大友氏の交易は斬新に映っていたのではないでしょうか。
 とすると,大内義隆は「南海路開拓を主宰した一条氏」も大友氏と並ぶ日の出の勢いの海上新勢力と捉えて(誤認して)いたのではないか。
 そして,両者に一体化する,大げさに言えば「環・豊後水道交易ブロック」を構成することで,旧来の交易形態のリストラクションを構想していたとするならば──その契機となった堺渡明船企画,その盟主に誤認された一条氏の参画は,当時の政治・経済界に与えたインパクトから測るなら,大変巨大で,ある意味予想外の成功をおさめたと言えるのかもしれません。

廻船大法奥書(写真は「諸御書付二十八冊」 毛利家文庫 40 法令 135(17)のもの。ピンク部:土佐浦戸篠原孫左衛門)

[付記]廻船大法奥書に記す「土佐浦戸篠原孫左衛門」

 土佐が,古くから海上交通拠点であったことを証する史料として,日本最古の海上法規である廻船大法が持ち出されることがあります。けれど,本稿ではこれについては触れていません。

右三拾一ケ條之儀,貞應二年壬未(癸未)三月十六日,兵庫辻村新兵衛,土佐浦戸篠原孫左衛門,薩摩房野津(坊之津)飯田備前(守)天下江波召出,船法御尋之時,則御批判被成候[14 廻船大法奥書]

 廻船大法に,その由来として浦戸・坊津・播磨の3商人が幕府に召し出されて定めた,と書かれている。それは,この3港がそれほど古い由緒を持つ,という議論です。
 土佐には,戦前から活動しておられる「土佐史談会」というグループがあります。廻船大法の土佐表記は,このグループの以下の論文によって,昭和一桁代に史料的には否定されてます。

能島水軍流の兵書,一葦要決(海軍史料叢書第十二巻)の中に於て海上掟と題する船舶衝突の規定にも貞應二年,辻村,篠原,飯田の三人が制定した旨を附記してある。(略)
 是に於て次の疑問が起り得る。何故に藝豫海峡に立籠った三島水軍が坊之津,浦戸等の名を引用したのか,當時村上海賊衆中に此地方の水夫が加入してゐたのか,港灣としては赤間關・博多・堺が著名であるのに,是等を差し措いたのは何故か,筆者は是に就き何かの縁因を辿るべく,海軍文庫に於て屋代島村上家文庫を漁ってみた。そして圖らずも失笑に禁へざる偽文書,偽系圖に接した。
 兵庫・浦戸・坊之津が單に西海占有,海内将軍領域の東界・南界・西界である以外,何等の意味もなき虚飾の文字から,三港の人士を羅致して貞應年間に假托したことを知ったとき,實に唖然たらざるを得なかった。
※15 關田駒吉「廻船大法の奥書に就て」土佐史談会『土佐史談 第37号』,仁尾商店,昭和6年-1931.12月
※ 土佐史談:バックナンバー

とした上で,關田さんは次の当該文書を紹介しています。これが村上家文書のどれに当たるのかは,確認が取れていません。

    教書
一、今度至筑前沖,蒙古攻来,日本勢大分被打果,及難儀候所,武吉勤軍忠,通康・吉充・隆重同意,以計策,黒船悉切崩,一手之者共迄,分(ママ)骨無比類,神妙至,其外及數度,遂軍功條,令祝着候,因茲任家例,海内将軍給綸旨□戴面目太以也,如前代,上者境之濱小路□,下者薩摩坊津・五島九嶋・土佐浦戸・豫讃備藝九拾九島,惣而西海悉可知行也,仍□執達如
   天文十八巳酉八月廿八日           義晴(花押)
        村上大和守武吉江 [前掲9關田 昭6]

 つまり,辻村,篠原,飯田の三名の名において,という文言は,海上法規を規定する上での枕詞のようなもので,その意味を問う価値は薄い。關田さん自身もこの論文末で,海上法規としての妥当性・有効性とは関係ない,と書いており,確かにこのような法規が存在したのは稀有なことだけれども,この「枕詞」の意味を敢えて現代語訳するならば「どこの海上でもこう決まっているのだよ」という強制力を発動する呪文だと考えた方がいい。
 だから,本稿で海人を追う上では,奥書に浦戸の地名があることは特に論じてません。

海洋国土佐の幽霊が踊る

 海洋王国日本にあって、高知は太平洋に面した海洋国土佐であり、海を通じて多くの人材を輩出しています。〔海洋少年団設立準備説明会に参加 : ブログ : 高知県議会議員 HP〕

──といったイメージ像があり、一条氏海上雄飛説はほぼその勢いに乗った「仮説」で、実態は相当に薄い。高知県下で比較すると幡多エリアの交易の痕跡は突出する傾向はあるけれど、それはむしろ土佐全般の中世交易の低調な水準を意味している。……というのが結論です。
 前記イメージを冷静に読めば、臨海地方だから海洋に雄飛した、という極めてシンプルな論理だということはすぐ分かります。
 1997年に高知県は県立高知海洋高等学校を設置しました。既存の県立室戸岬水産・高岡(宇佐分校)・清水(漁業科)の各高校を統合した際、抵抗を弱めるために世論に迎合した形です。学科名もマリン技術科・マリン工学科・マリン科学科とその色彩が強い。
 ただ同校自身は、流石に冷静にこう記述します。

 高知海洋高等学校の位置する土佐市宇佐町は、自然豊かで、南に黒潮踊る太平洋が広がり、昔から鰹節の生産が盛んな伝統ある水産業を営んできた地域です。〔高知県立高知海洋高校 – 学校紹介〕

 この記述が掛け値のないところで、要するに高知の海洋産業は土佐の荒波を押し渡れる駆動力を船舶が持ち得るようになった近代以降に初めて勃興し得たのです。
 逆に言えば中世以前、①航路としての自然環境と②それに対する技術の欠如、③以上と比較した際の交易ネットワークのメリットの少なさから、土佐に海民はさほどには育たなかった。僅かに幡多は、一時・試行的に日明勘合船の航路とされたけれど、それすら多くの時代には薩摩-志布志-瀬戸内の航路のサブの寄港地だったと推定されます。──幡多の遺物もその多くは、豊後水道ローカルの交易ネットワークで長州大内領や豊前大友領からもたらされたものだったのではないでしょうか?
 つまり、いかに政治権力が机上で航路をデザインしようと、交易ネットワークは自然・技術・経済条件が整わない場所には育たない。幡多海外雄飛仮説とその否定は、逆説的に中世交易ネットワークが諸条件の微妙なマッチングの上に成り立っていることを示してくれます。

■史料読解:ハタ史略

 しかし、ハタ(幡多)に関しては史料に事欠きません。事欠かないのに像を結ばない。このとりとめのない事象の集合を、とりあえず角川日本地名大辞典を中心に列挙しておきたいのですけど──先に前提として、この地域の特異な地形を押さえておきます。

中村中心部の地形 (上)広域 (下)拡大

【地形】地殻の崖っぷちの氾濫原

 西から中筋川、東北から後川の合流する中村の四万十川河岸の平地は、氾濫原と溺れ谷地形の集合体で、随所に自然堤防や後背湿地があります〔上図下半分参照、角川日本地名大辞典/中村平野〕。
 二本の川のうち少なくとも中筋川は、過去二度は四万十川に途中接続していたと見られています。──下記引用の旧流域は、土地勘がないワシには具体に読み解けませんでしたけど、中村市街対岸の平地部に残る湖沼はその残存のようです。

 四万十川は他の河川同様に、下流部において川の道を変えていっています。その昔、中村の佐田の池の本、寺の池を通って入田の元池から具同を流れ、坂本の具重において中筋川と合流していたことがあり、これを前川時代といっています。当時の面影を物語るものとして入田に残る元池があります。また、具同の古川を通って中筋川ゴゼ礁において、中筋川に合流していた時代もあり、これを古川時代といっています。その後、寛弘6年(1009年)の洪水の時と言われていますが、佐田付近の流れはしだいに西に移り、その反動により水流は左折し、入田の佐田ノ原から東流して、だいたい現在の河川の形となりました。〔後掲四万十川財団〕

 中村付近の四万十川下流合流点では、四万十の傾斜が非常に緩くなっていて、これが氾濫を生みます。

 この緩やかな流れが、生活排水やにごりなどの汚濁に対して大変弱い体質をつくっているといえます。
 四万十川の特徴は、蛇行を繰り返していることですが、それにより流域面積に比べて、幹川流路が長く、川の勾配が非常に緩やか( 平均河床勾配は0.61%、特に梼原川合流点(標高125m)から河口までの106kmは0.12%と大変小さい値となっています )です。国内の他の河川と比べてみれば分かりますが、ゆったりと流れていることが一目瞭然です。この流れが四万十川の運命を決めたとも言われます。〔後掲四万十川財団〕

 ただこの傾斜の緩さは、偶然の産物ではありません。
 まず一つは、四万十川の運ぶ土砂が少なくとも日本最大級の自然堤防を形成しているからです。中村の原地形は溺れ谷なわけですから〔前掲角川日本地名大辞典/中村平野〕、四万十の土砂は深い谷を埋めつくし、「平野のような」土地を造っているのです。

川登自然堤防 地形・地質断面〔後掲籠瀬〕

 上記図は日本最大と言われる中筋川沿いの川登地区で行われた、ボーリング調査に基づく推定断面です。ここの自然堤防は標高で21m超、四万十川水面から14mの高さを持ちます。
 前掲籠瀬論文は、中筋川の背水性(バックウォーター現象)を理論的に解明しています。四万十川の造った既存の自然堤防と、その洪水時の水圧によって、洪水の際には中筋川は逆流するのです。
四万十川合流地点直前の中筋川河岸平野の標高〔後掲日本の地形千景/高知県〕

 上図で西から東に流れ四万十に合流する中筋川の河岸が、赤(≒5m)からオレンジ(≒10m)に、つまり合流地点に近づいた方が高くなっています。つまり中筋川の谷底平野でありながら、まだ合流していない四万十川の後背低地になっているのです。〔後掲日本の地形千景/高知県〕
 なぜこんなことになっているかと言えば、四万十に二本も川が合流しているからです。中筋川と後川はこの地点で合流せざるを得なかった。
 合流点の南東側を、北東から南西に伸びる高地が閉じているからです。
 このパターンの地形は、高知市中心部が最も典型的です。浦戸湾の北と南に、中村のと同じ方向に高地が走っているため、鏡川がそれを無理やり突き抜ける形で高知市中央の平野と浦戸湾が瓢箪状に連なります。
 この方向の高地のラインは、日本各地で様々に呼ばれてきましたけど、最も新しい呼び名では「四万十付加コンプレックス」と呼ばれます。
四万十帯南帯:関東山地〜赤石山脈〜紀伊半島〜四国〜九州〜沖縄まで、15〜100km幅・延長1500kmの帯状に分布〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「四万十帯」←コトバンク/四万十帯〕

 素人なので最も俗な「四万十帯」と以下呼んでいきます。中筋川ラインは西の宿毛まで、JR四万十くろしお線の通る谷を成してますけど、これが中筋地溝帯で、四万十帯の一部です。
 四万十帯の特徴の一つに「デュープレックス」という衝上構造があります。「衝上断層が活動するときに、移動する地層が動かない地層の上面を何回もはぎ取った結果、瓦状に積み重なった構造」〔日本の地形百選/徳島県〕です。なるほどなるほど……って分かるか!!
徳島県和泉層群中の衝上デュープレックス〔後掲日本の地質百選/徳島県〕

 四万十帯の地層は、(略)いくつかの衝上断層によって、デュープレックスという衝上構造の存在が報告されている。これは海溝堆積物が剥(は)ぎ取られて、陸側に取り込まれる底付け作用により形成されたものと考えられている。〔コトバンク/同上〕

付加構造の模式図〔wiki/付加体〕

 この付加体がなぜ重要かといえば、「日本列島の多くの部分はこの付加体からなる」というのが現段階での地質学の通説だからです。我々の足元の大地がそれなのです。
 素人の理解ですけど──陸のプレートを太っていくのは、その下に海のプレートが潜り込む時、その堆積物が剥がれて陸に「付加」されるから、と考えられてるらしい。
 その付加工程が反復される、つまりやたら激しい場所に出来るのがデュープレックスみたいです。
 四万十帯は、中生代白亜紀から新生代古第三紀の付加体の集合体とされる。それ以降はというと、「四国沖」で今この時も生産中だという〔wiki/付加体〕。つまり四国南岸は、日本列島を形成してきた地殻の活動が今も継続されている大地なのです。
 1946(昭和21)年12月21日午前4時19分過ぎ、南海トラフ沿いの潮岬南方沖78kmを震源とした昭和南海地震は、Mj8.0(Mw8.4)のプレート境界型巨大地震でした〔wiki/昭和南海地震〕。この時、高知市では津波は0.5cm(浦戸湾の形態上減退)だったにも関わらず、市内が半月も水没しました。

室戸岬付近では沖に磯が現れ、船が入港できなくなるなど逆の現象が起きていたため、地盤変動が起きているとして高知付近の地盤沈下が囁かれはじめた。当初、県や市の関係者は高潮が原因であるとして地盤沈下を否定し、「沈下か高潮か」の意見対立が始まった。原因調査のために市建設局が南国市領石を基準として測量を行った結果、高知は領石に対し23センチメートルほど沈下していることが示され、その後の海上保安庁水路部の調査において、野根・安田・下田・月灘を結ぶ線上より北側では沈下、南側は隆起という地盤変動の全容が明らかになった。(略)この高知市浦戸の沈下は、南海トラフ沿いの断層がすべることによる南海地震の発生機構を明らかにし、歴代の南海地震である宝永地震や安政南海地震も同様の地盤変動が起きていることを示すものであった。〔[37] 小林昭夫、吉田明夫:潮位記録から見た1946年南海地震後の広域地殻変動 『測地学会誌』 2004年 50巻 1号 p.39-42←wiki/昭和南海地震〕

 この二つの知見を組み合わせると、専門家はそこまで結論づけてはいないけれど──長期的に南海トラフ沿いの断層を滑り落ちつつある四国という島を流れる四万十川は、河口部が逆行的に隆起する傾向の地面を流れているために、河川による侵蝕効果より地殻変動による隆起の方が大きく、結果的になだらかな流れになっている、とも仮定できますけど──そこまで言わなくとも、要するに四国南部の大地は「グラグラしている」こと、それに起因するシワ──若い褶曲構造が海底にまで続いているのは確かなのです。
 思わず長くなりました。プレートのシワの隙間を河川が抜いた特殊地形が、中村付近の四万十とその支流の合流点です。この地形は地殻と河川の2条件が●●●●●●●●●●マッチング●●●●●しないと構成されません。土佐佐賀・土佐久礼・須崎・安芸(室戸岬以東なら海陽=海部)と、土佐湾岸の町は多くがこの構造──南海岸側を東西方向の高地で仕切られ、北からの河川が窮屈そうに湾と平地を形成する集落ですけど、中村の規模に比するのは高知市だけです。
 東西の褶曲構造を基本とする土佐湾は、少なくとも自然状態では港湾に適さないのです。──この点から、交易港としてなぜ中村が選ばれたのかがある程度説明できます。補給・避風港として使用できるには、地殻変動の原型に巨大河川の加工が施される必要があったのだと推定できるからです。
 ただ、四万十の膨大な流出土砂堆積を考慮すると、自然状態でこの流域には、南海路を渡るような中型以上の船舶が寄港できたポイントは多くはなかったとも思えます。下図の海底地点から見ても水深20mラインは河口のさらに先で、四万十の堆積は河口部をも遠浅にしており、中型船舶が河口から遡れた距離は限られていると思われるのです。

四万十川河口の海底地形図〔釣りナビくん〕

【古墳時代】先代旧事本紀:「波多国造……定賜国造」

 さて、史料に移ります。
 後掲引用初めの「九州文化の影響」は、おそらく考古学的な通説らしい。ただ、それがなぜ八幡浜や宇和島、宿毛辺りではなく、足摺岬を隔てた幡多・中村エリアなのかはやはりピンときません。

古代~近代の郡名。波多・八多・畑とも書かれた。県西部に位置し,西は豊後水道を隔てて九州に相対し,古くから九州文化の影響を多く受けた。もと波多国で,「先代旧事本紀」巻10の「国造本紀」に「波多国造 瑞籬(崇神)朝御世,天韓襲命依神教云,定賜国造」とあり,成務天皇の代に国造を定めた都佐国より先に成立している。栗田寛は「国造本紀考」で,大和に波多郷があることから波多国号は大和から移したもので天韓襲命は韓人であろうといい,また国造に渡来人の秦氏を置いたから波多国というとの鈴木重胤の説も載せている。郡内には宿毛(すくも)貝塚・中村貝塚をはじめ多くの縄文時代の遺跡があり,弥生前期の土器を出土する有岡・入田・橋上の各遺跡をはじめ稲作を実証する多くの弥生遺跡もある。古墳時代では,前期古墳の平田高岡山古墳・平田曽我山前方後円墳,後期古墳の古津賀古墳・田ノ口古墳などがある。中でも平田曽我山古墳は県下唯一の前方後円墳で,県下最大のものであり,波多国造天韓襲命の墓であろうといわれている。
(古代)波多国は,大化改新により成立した土佐国に併合され,幡多郡となったと考えられるが,その時期は定かではない。〔角川日本地名大辞典/幡多郡
【はたぐん】〕

「天韓襲命」から仮想される韓人、「ハタ」音→秦の音の類似からの漢人の渡来もあり得そうな話です。そういうことならば、方向からすると朝鮮人や漢人がまず幡多に集落を成し、例えば神武東征のムーブメントに乗って大和へも移住した、と考えることも合理的に思えるのです。
 ただし、それを直接に物語る考古学的成果は、今のところありません。

※後代の長宗我部氏は、本姓として「秦忌寸」(秦朝元への下賜姓:続日本紀 養老三(719)年四月)を自称する。ただ、土佐土着ではなく信濃国の秦領・更級郡住人である秦能俊(=長宗我部能俊)が土佐入りして祖となったという不思議な伝承を残す〔長野県更級郡役所「更級郡誌」1914(大正3)年、←wiki/長宗我部氏〕。
近畿地方の「波多」地名〔GM.〕

古津賀遺跡:須恵器と土師器と鉄製品

 幡多地方の古墳時代最大の遺跡は「古津賀遺跡」らしい。これは古津賀神社付近のスポットではなく、それを含むほぼ幡多中心平野部20ヵ所に及ぶエリアを出土域とします。

第1図 古津賀遺跡の位置と周辺遺跡分布図〔後掲高知県教委p2〕

※原典凡例等 1.古津賀 2.古津賀古墳 3.観音寺 4.角崎 5.不破 6.竹島土居山古墳 7.竹島福重古墳 8.佐岡橋下 9.佐 岡 10.後川橋下 11.中村貝塚 12.百笑久山 13.吹越山 14.人田 15.源地 16.石丸 17.西和田 18.東神木 19.ボケ 20.船付場
※中村市街地に大きく蛇行する点線部分は,本来の後川流路を示すもので,今日見られる直線流路は,それを昭和11年に付け換えたものである。

古墳後期の祭祀遺跡。中村市古津賀字フダグロ・シンチ・カヅラギ・ミツタ・大場・米舟戸にまたがる。後川左岸の自然堤防上で,後川が四万十(しまんと)川に合流する付近の微高地に立地する。標高3~3.5m。昭和56年,後川堤防工事に先立ち発掘調査が行われ,須恵器・土師器・砥石・叩石・鉄製品・小形粗製土器・石製紡錘車などの遺物が出土している。特に須恵器が第Ⅴ層から第Ⅶ層にわたって出土していることから,これに伴った土師器ともども型式編年を知るうえで好材料を提供している。さらに,当遺跡からの祭祀遺物と思われる小形粗製土器の出土は注目される。この土器は,第Ⅴ層(粘質砂層)から出土し,周辺には須恵器の坏・高坏などもみられる。これらの遺物は,第Ⅵ層(粘土層)の上部に径3~5cmの河原石によって構成された集石遺構の直上から出土している。須恵器の編年は,第Ⅶ層のものが5世紀末~6世紀前半,第Ⅵ層のものが6世紀中葉~後半,第Ⅴ層のものが6世紀末~7世紀前半と考えられる。当遺跡における祭祀の対象を考えた場合,出土地が標高3~3.5mの低湿地であり,後川に接していることなどとの関連で考える必要があろう。文献に県教育委員会「古津賀遺跡」(昭和57年)がある。〔角川日本地名大辞典/古津賀遺跡〕

 祭祀関係遺物とバラエティに富んだ生活遺物が出土したけれど、遺構は発見されていません。──ただこの地域の流域氾濫の歴史からすると、遺構は相当にラッキーな状況でしか残らないことも想定されます。
 太古の南海を押し渡ろうとした人々のうち、どんな集団が、前掲の如く地殻と河川による奇跡的なシェルター地形を見出したのか、考古学的な手がかりは従って、ありません。この氾濫原の広域に、それこそ奇跡的な新発見を待つしかない。
 ただ、相当に「賑やか」だった幡多の古代の匂いだけを、古津賀遺跡は伝えています。

 幡多の古代と中世に興味を持つ層が違うからなのか、この点はあまり指摘されてないから付記しておくけれど──不思議なのは、「賑やかな」古墳時代と「伝・大交易時代」中世の間に、史料的な空白があることです。自然に考えると、古墳代の一定時期にある集団が「賑やかに通り過ぎた」後、平安後期〜鎌倉前期に荘園として「再発見」されたことになります。なぜそうなったのかは想像がつきません。

【鎌倉期】北家→九条→一条と転がされた荘園

 下記史料群は鎌倉期のもの。
 端的にまとめるなら幡多の地名は片鱗として出てくるだけで、総合しても、藤原忠通の荘園だった、ということが分かるだけです。

藤原忠通(1097生-1164没):藤原北家、道長の五代後の当主。小倉百人一首の法性寺入道前関白太政大臣(家系図→ねっこのえくり参照)

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。幡多郡・高岡郡のうち。嘉禎3年10月18日の法橋某田地寄進状に「香山寺〈在土佐国幡多御庄本郷内〉」とあるのが初見(蠧簡集)。当荘の成立は平安末期の土佐国と藤原摂関家との関係にさかのぼると考えられる。応保元年12月日の土佐国幡多郡収納所宛行状写によれば,収納使西禅らが千手観音経供田として「御崎村」など3町を寄進しているが,その文中に「毎日観音経十巻内……二巻者我主君藤原朝臣為御一家各息災延命無病長寿」と見える(同前)。土佐国は,嘉応元年8月日の土佐国金剛福寺僧弘解に「古(故カ)法性寺入道殿下(藤原忠通),当国成敗之刻」(同前),同年頃と推定される後欠の同弘重解にも「本給田六町之内,僅見作三町也,然件給田万雑公事不可勤之,検注使不可向之由,遠 嵯峨天皇御時,近法性寺入道殿下(藤原忠通)御時ヨリ免来処,在先判旨明白也」とあり(同前),下って正嘉元年4月日の前摂政(一条実経)家政所下文に引用された慶全解状の中にも「法性寺大殿(藤原忠通)当国御沙汰之時,率已旧例,寄進新免卅町免田也,彼御寄進状永留于寺家矣,而田堵動対捍,地利漸減少,至于応保元年,令減定六町,是則当郡主宗我部氏滅亡之刻,止其沙汰」とあるところから(同前),摂関家の藤原忠通の知行国であったことが知られる。これらの文書から,当郡内の田地が足摺(あしずり)岬の金剛福寺に寄進され,特に藤原忠通は土佐国の知行国主として,康治2年頃には金剛福寺の火災に際して(編年紀事略),新たに30町の免田を寄進して堂宇を造営させていたことがわかる。しかし,田堵の対捍などにより地利は減少し,応保元年には6町に減少している。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

1143(康治2)年頃
 藤原忠通、金剛福寺(足摺岬)に免田30町を寄進し堂宇造営①〔1169(嘉応元)年・1257(正嘉元)年記録〕
1161(応保元)年 田堵の対捍などにより地利は減(6町)
同(応保元)年
 寄進者「収納使西禅」が「我主君藤原朝臣」と記載②〔土佐国幡多郡収納所宛行状写〕
 ∴①②から土佐は藤原忠通所領と推定
1206(建永元)年
 土佐が九条家知行となる〔三長記 4月3日条〕。
 ∴幡多も九条家支配に移行?
1237(嘉禎3)年
「土佐国幡多御庄」

「田堵動対捍」の一成句は教科書的な荘園不全化の様相を示します。「田堵」(たと)は平安期に荘園・国衙領の田地経営実務を担った有力百姓層〔wiki/田堵〕、「対捍」(たいかん)はやはり同時期の用語で、幕府・領主等制度上の債権者に対し年貢・課役・雑役等の義務履行を意志的・積極的に拒否する行動※。

※精選版 日本国語大辞典 「対捍」←コトバンク/対捍
§将門記(940):官物を弁済せしめむが為に度々の移牒を送るといへども対捍を宗となして、あへて府に向はず
§吾妻鏡‐文治二年(1186)三月一〇日:有限御上分雑事、并給主祢宜神主得分物、不対捍、任先例弁備

 田堵が対捍に動く、つまり領主を無視した地元の自立化傾向が強まった。それに続き、この事態が「当郡主宗我部氏滅亡之刻,止」というのですから、ここでの田堵とは地域具体的には宗我部氏なのでしょう。……ただこの記述の文意は、郡主宗我部氏が滅亡したので回復できた、という過去形か、滅亡させないと回復できない、という願望なのか不明です。──宗我部氏は、古代末から土佐のあまりに広域に住したので、長宗我部(「長」岡郡支配)や香宗我部(「香」美郡支配)と差別化する必要が生じた古いエリート層ですけど、平安末に「滅亡」したと推測できるような事実はありません。
 以下も中央での政争で幡多の所有層は様々に転じていきますけど、上記「田堵動対捍」記述からは、実態的な支配層は別にいて必ずしも常に所有層に従ってはいなかったことが読み取れます。
 一方、中央の政争に忙しい領主側にとっては土佐は単に「駒」に過ぎなかったらしい。

(続)その後,土佐国は仁安元年8月から後白河院の近臣源資賢の知行国となり,次いで承安元年4月には藤原資頼が土佐守に任ぜられ,土佐国は大炊御門経宗の知行国となり,文治5年経宗が没すると子の頼実に伝領された。そして「三長記」建永元年4月3日条には「聞書到来,以越後・讃岐被申替土左,入道殿(九条兼実)御計也」とあり,摂政九条良経の没後その父兼実の奏請によって,土佐国は九条家の知行国となった(史料大成)。九条家領である当荘はおそらくこれ以降に成立したと推定されるが,年代は未詳である。「明月記」嘉禄2年10月12日条に「午時許大府卿(大蔵卿菅原為長)称路次便之由光臨,驚出相謁,悲歎子細聞之落涙,其上前殿(九条道家)忽御勘気,被召土佐之波多訖」とあり,九条家の家司菅原為長が道家の勘気を被り,「土佐之波多」を召された悲しみを藤原定家に訴えている。この記事に見える「土佐之波多」は当荘のことと考えられ,為長は当荘の領家あるいは預所の地位にあったのであろう。前記のように嘉禎3年10月18日の法橋某田地寄進状が荘園名としての初見で,「幡多御庄本郷内」(現中村市)にあった香山寺に領田3町を寄進している。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

 1226(嘉禄2)年の幡多地名の史料記述は、九条家の家司菅原為長が藤原定家に左遷を嘆いた書状のものです。勘気の主・九条道家とは、九条良経の次男、つまり先の藤原忠道の曾孫に当たります。かつ一条家祖・一条実経の父です。

藤原忠通〜九条良経の系図〔後掲ねっこのえくり〕

「被召土佐之波多訖」の「波多」が幡多と推認されてます。「訖」の文字はこの場合「とうとう」とか「ついに」という語感で、嘆きを表現しているのでしょう。
 さてここで、藤原さんのお家事情なのでお腹一杯ですけど、もう少し入らないといけなくなりました。可能な限り圧縮して土佐一条家に至る系譜を、以下示します。
藤原家家紋:下り藤

【始祖】藤原鎌足[01]
 =中臣鎌足(614生-669没)
 ↓孫
【北家】房前[03]
(681生-737没)
 ↓曾孫 冬嗣[06]
 ↓曾孫
【九条流】師輔[10]
    (909生-960没)
 ↓孫
【御堂流】道長[12]
    (966生-1028没)
 ↓孫
【花山院流】師実[13]
   (1042生-1101没)
 ↓曾孫 忠道[17]
 ↓子
【九条家】九条兼実[18]
   (1149生-1207没)
 ↓子  九条良経[19]
 ↓子  九条道家[20]
 ↓子
【一条家】一条実経
[21]〘01〙
   (1223生-1284没)
 ↓曾孫 一条内経〘04〙
 ↓曾孫 一条兼良〘07〙
 ↓孫
【土佐一条家】一条房家
     〘09〙《01》
   (1475生-1539没)
 ↓曾孫
(事実上の土佐一条家最期の当主)一条兼定《04》
   (1543生-1585没)

 1250(建長)年、つまり上記系譜で九条家から分岐したばかりの一条家初代・実経に、次の引用の通り幡多は伝領されます。ここから一条家が土佐に関わっていくことになります。

(続)建長2年11月日の九条通家惣処分状には前摂政一条実経に譲られた所領の中に「新御領……土左国幡多郡 本庄 大方庄 山田庄 以南村 加納久礼別符」とあり(九条家文書/図書寮叢刊・鎌遺7250),以降一条家領として伝領された。この処分状に荘園名で記されている「本庄」「大方庄」「山田庄」は以降当荘内の郷名で見えており,独立した荘園ではなく,当荘を構成した郷と考えられる。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘【はたのしょう】〕

 一条家の幡多承継当時、荘園・幡多は三つの集落から構成されていたことが推認されるわけです。角川は一度立ち止まり、この三集落について考察を加えてます。

本庄(本郷)・大方庄・山田庄の位置推定

 本庄については、「本郷」と同義として書いてます(以下「本郷」に統一)。調べる限り現在はこの呼称は使われないようですけど、概ね現・中村中心部です。三集落の筆頭に記述されることからも、遅くとも1250年には幡多の主邑が存在した事が確実なわけです。

(続)本郷は当荘の中心地域で,中村(現在の中村市本町・東町などの市街地を中心として観音寺・古津賀などを含む)・具同村・敷地村・津倉淵などの地域にあたる。荘内の年貢は中村に集められ,四万十(しまんと)川・後川の流れを下って下田から太平洋を経て京都に運ばれた。「幡多本郷」に宛てた文永12年3月日の沙弥某下文に見える船所職はこうした必要から設置されたものであろう(蠧簡集)。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

「船所職」権限を領主・藤原氏側が「僧慶心」に安堵した1275(文永12)年の沙弥某下文(→次章原文)は、「勿論得分之事任先例可」とあることから、この年以前から機能していたと推測されます。かつ、受任対象者・僧慶心の肩書は「幡多本郷 定補船所職付横浜事」なので、つまり13C後半より前から幡多本郷を住所とする船舶事務所が存在したことになります。──ただし角川著者の見立てでは、本郷には現=観音寺・古津賀・具同村・敷地村・津倉淵を含むので、四万十下流域から中筋川・後川・津倉淵川域を含むかなり広域の一円を含むので、場所の特定は難しい。

※中村市史は、僧の所蔵寺を木ノ津に近い廃寺「観音寺」と推定:次頁参照。これが正しいなら、近場で考えるなら「船所職」役所は木ノ津かその西対岸・津倉淵川付近にあったと推定できます。

(続)大方郷は現在の大方町一帯にあたり,貞和3年7月日の東福寺領庄園文書目録によれば,元応2年3月10日付の一条殿御寄進状で東福寺に寄進されている(東福寺文書/大日古20-2)。大方郷の年貢の輸送は貞和5年6月15日の東福寺領土佐大方郷年貢送文によれば,預所・下司・公文が佐賀村の商人六郎左衛門に命じて東福寺に送付していた(同前)。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

 大方(→GM.:大方郵便局)は1320(元応2)年に東福寺に寄進され、佐賀(→GM.:大方村と合併して現・黒瀬町)の商人により年貢輸送がなされています。
 韓国新安沖で発見(1976年)された沈没船は、木簡等から1323年に元の港から日本に向かう唐船と明らかになりました。この船の木簡に「東福寺」の文字を刻む木簡が15点確認。ここから積荷の紫檀等はその年の4年前に焼失した東福寺再建のための輸入材と推定されています〔後掲世界史の窓〕。沈没場所からしてこの航路が四国を通ったとは推定しにくいですけど、日明勘合以前から対中交易を続けていた東福寺であってみれば、一条家側に特に強請っての寄進だった可能性も考えるべきでしょう。
 最後に西と南です。これは広い。宿毛や土佐清水までの地域、つまり高知県西部一円が当時の「幡多」だったと見られています。

(続)山田郷には平田村・山田村・宿毛(すくも)村・磯川名・江村などが含まれ,現在の宿毛市宿毛から中筋川上流の平田町戸内(へない)・平田町中山・平田町黒川・山奈町山田から中村市横瀬・九樹・磯ノ川・江ノ村にかけての地域に比定される。以南村には伊布利(里)名・三崎村・志水が含まれ,現在の土佐清水市以布利・三崎・清水の地域に比定される。加納久礼別符は現在の高岡郡中土佐町久礼の地にあたり,幡多郡内ではないが,幡多荘の加納地となっていた。そのほか正安2年11月日の左大将(一条内実)家政所下文には「仁井田山」が見えるが(蠧簡集),これは現在の窪川町内にあたり,応安4年閏3月13日の中納言(一条経嗣)家御教書では「幡多庄仁井田村」と村名で見える(長福寺文書/大日料6-34)。これはおそらく杣として当荘に含まれた地域が,のち開発が進み,村名で記されるようになったものであろう。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

 後段にあるように土佐久礼や窪川、仁井田までが「加納地」名義等を含め幡多だったとすれば、単に政争の具としてだけでなく、相当の勢いで田地開発が進んだと考えざるを得ないのです。

角川日本地名大辞典の地名を単純に連ねるとこんな位置になります。 (凡例)緑:本郷 青:小方 桃:山田郷・以南村・仁井田・久礼 黄:以上を粗く領域化したもの
 これだけのポテンシャルを、なぜ鎌倉期の幡多は有したのでしょう?

(続)以上のように九条道家の惣処分状などから考えられる鎌倉中期頃の当荘の荘域は,幡多郡内では中央に本郷,東に大方郷,西に山田郷,南に以南村があり,幡多郡北部(のちの上山郷・下山郷の地域,現在の大正町・十和(とおわ)村・西土佐村)は当荘には含まれていなかった。そして高岡郡では仁井田山(村)から久礼別符にかけての地域が当荘に含まれていた。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

【鎌倉末〜南北朝】寺領四至内殺生禁断

 鎌倉期の開発の空気の結果と因果づけると整合するのですけど、鎌倉末の幡多は史料的賑やかさを一挙に増しています。──元号と西暦の対照を先に挙げます。
1257(正嘉元)年
1289(正応2)年
1300(正安2)年
1304(嘉元2)年
1310(延慶3)年

(続)正嘉元年4月18日の前摂政(一条実経)家奉加状によれば,金剛福寺造営料として官米100石が奉加されており(蠧簡集),一条実経は「幡多庄官百姓等」に対して造営用途を奉加するよう命じている(同前)。そして同2年10月日の同家政所下文でも「幡多庄官百姓等」に旧例に任せて金剛福寺供田6(ママ)町を奉免することと,同寺四至内の殺生禁断を命じている(同前)。この時奉免された同寺の供田は「本郷三町 浦国名壱町〈字伊布里,北限箕作谷〉恒時名壱町〈限西切間河内崎〉山田郷三町 九樹谷内本田〈東限金柄崎,南限幡峰,西限小布木,北限小河〉」に散在していた。幡多本郷内にある金剛福寺・香山寺などの供田に関しては正嘉2年7月24日の中原某下文(同前),弘安4年5月日の前摂政(一条家経)家政所下文案(同前)などが,また荘内の供田に関しては弘安4年4月日の同家政所下文案(同前),3通の正応2年5月日の同家政所下文(同前)などがあり,手厚く保護されている。下って2通の正安2年11月日の左大将(一条内実)家政所下文案によれば,「幡多庄官百姓等」に対して,院主快慶の勧進によって金剛福寺の供養用途を奉加するよう命じ,文永の例に任せて荘内の村々に割り当てているが,その内訳は「具同村拾斛 敷地村拾斛 中村拾斛 平田村柒斛 山田村柒斛 宿毛村柒斛 大方郷柒斛 以南村陸斛 磯河名壱斛弐斗 江村弐石参斗 仁井田山参斛伍斗」となっており(同前),このうち敷地村については,同年11月15日の一条内実御教書が残っており,「敷地村沙汰人等中」に宛てて院主快慶に「敷地村分拾石」を渡すよう命じている(金剛福寺文書/古文叢)。延慶3年2月日の権大納言(一条内経)家政所下文によれば,「幡多庄沙汰人百姓等」に対し金剛福寺の造営用途を奉加するよう命じており(蠧簡集),その施行を指示した3通の同年月14日・16日・18日の一条家家司の奉書の宛所は「以南村預所二郎右衛門殿」「江村預所伊与殿」「山田村預所殿」であり(脱漏),一条氏は預所を置いて当荘の経営管理を行っていた。前記の正応2年5月日の政所下文には「兼又寺領四至内殺生禁断事,違背度々仰下文,動違犯云々」と見え,また嘉元2年3月日の公文代某注進状にも「宮山坂」の注に「但自敷地近年押領云々」とあり(蠧簡集),荘内の治安は必ずしも万全とはいえなかったようである。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘【はたのしょう】〕

「殺生」や(土地)「横領」が蔓延り初めてます。──1289(正応2)年5月付政所下文「寺領四至内殺生禁断事」は、お寺の境内(四至)で殺すな、というのですから境内ですら領主が命じないと殺人が起こる、つまりその外は無法地帯ということでしょう。
 各々は細事なのですけど総括すると、どうも(新開発された)土地を巡る争いが絶えなくなっているようにも見えます。
 これが南北朝期に入ると、混迷の度は明らかに増したようです。
1341(暦応4)年:武士領?
1344(康永3)年:騒乱?
1447(文安4)年:横領

(続)下って南北朝期の内乱は荘園の解体を進めたが,当荘については具体的にわからない。ただし暦応4年8月7日の摂津親秀譲状によれば,「幡多荘具同村」を舎弟松王丸に譲っており(金剛福寺文書/古文叢),当荘内に武士が所領をもっていたことが知られ,足利氏の支配力が強化されるにつれて,当荘内の一条氏の支配も後退していくことになった。一条経通の日記「玉英記抄」の康永3年7月18日条には「今日依相当円明寺禅閣(一条実経)御忌日,密々供養……多年之間於此亭無仏事,聊依有所思故修之也,幡多庄令静謐者,自後年可為八講也」とあり,当荘内に争乱があったことがうかがえる(続史料大成)。下って文安4年3月29日の一条兼良御教書によれば,当荘内の金剛福寺領津倉淵を布加賀入道が地下専当と称して横領している(金剛福寺文書/脱漏)。こうした状態は応仁の乱を迎えて激化していった。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

 幡多で南北朝のどの勢力がどう活動したのか、政治的な記載は乏しく、具体に総括しにくい。
 はっきりしているのは、やはり1468(応仁2)年の土佐一条氏入域です。よく使われてる表現では、一条氏分派が土佐に入って戦国大名化した、ということになります。
 本社から現場を知らない支社長がやって来た、という感じで一見、とても成功はおぼつかない試みに見えます。でもなぜか土佐一条家は西土佐を平定、その後百年以上ここを支配しています。

(続)下って応仁2年9月6日,一条教房は当荘回復のため奈良の大乗院内の隠居所である成就院を出発,9月25日,和泉堺から「土佐之大平知行之山下船」に乗って土佐に下った(大乗院寺社雑事記同年閏10月6日条/続史料大成)。この教房を援助した大平氏は土佐守護細川氏の被官であり,高岡郡蓮池の城主でもあった。こうして教房は10月中旬頃当荘の中村に到着,ここに居館を構えて当荘の回復に努力し,また中村の都市化にも尽力している。「大乗院寺社雑事記」文明元年8月11日条に「下山事自伊与国押領,色々御計略如元知行云々,中村闕所分事御知行云々」とあり,この頃までには下山郷の地域が当荘内に含まれており,この下山郷や中村に対する支配が回復しつつあったことが知られる(続史料大成)。また同書同2年8月4日条には「一,土佐御所御願書到来,遺御師方,其趣ハ幡多庄内大概雖無為之儀,太方郷内入野大和守藤原家元,同子息市正藤原家則不応下知,仍以彼名字被籠春日社頭,存不忠之意者,可被加神罰之旨,可有御祈念」とあり,当荘内の大部分が回復され,大方郷の入野氏だけが下知に従わない状態であった(同前)。同書文明3年10月5日条によれば,この入野氏も一条氏に屈服し(同前),その後,同書文明7年7月13日条には「国人及合戦子細有之歟,金剛福寺院主,此一両年止住高野山,為仲人可下向之間被仰付之,迎共罷上云々」とあり,一時的な国人の抗争は続いていた(同前)。教房の父一条兼良の「桃華蘂葉」には「土佐国幡多郡〈有諸村村等〉当時雖有知行之号有名無実也,但応仁乱世以来前関白令下向于今在庄継渇命者也」とあり(群書27),畿内にいる兼良のもとには充分な年貢が届いていなかったものと考えられる。しかし,一条氏は名門として土佐国内の豪族たちから尊敬されていたため,土着して年を経るに従いその勢力は伸張していった。「親長卿記」文明12年11月27日条に「一条前関白〈教房公,五十八歳〉薨去之由,自土左畑注進〈乱中就知行分,居畑給也〉」と見え,また「宣胤卿記」同年11月28日条にも「一条前関白殿〈教房公〉自大乱始下向土左幡多,卿在国送年序,去十月五日令薨給之由,飛脚一昨日参着云々,御歳五十八,被号妙華寺云々」とあり,教房は当地で没している(史料大成)。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

「なぜ一条氏は幡多に入ったか?」という問題設定をよく見るけれど、「土佐之大平知行之山下船」に乗ってきたという点から、応仁乱で行き場のなくなっていた一条教房を「誰がなぜ幡多に導いたか?」と問題を立て直す視点が持てると思います。

応仁乱の勃発を間近にひかえた寛正六年(l465), 土佐は伊予河野氏によって脅かされ,山名方に応じた大内教弘父子は河野氏を援助して,土佐守護細川勝元の軍に打撃を与え(10),ついに守護代新開遠江守以下戦死の憂目にあい,勝元は毛利豊元に援助を求めたのである。ところで当時,田村庄には頭虹して細川勝益が在城していたと思われるので,勝元は別に新開遠江守を守護代として,幡多庄を中心とする西部土佐に配置していたものと推測される。従って一条氏も室町中期頃に於ては,荘園管理の面からも,有力なる守護大名たる細川氏より,武力による保護を受け,荘園の保全をはかつたのであろう。この場合,後述の土豪大平氏は両者の楔としての役割を演じたと考えられるのである。〔後掲足達〕
※原注10)蔭涼軒日録、寛正六年九月廿九日条

 つまり土佐一条氏の端緒は、かつての四国管領・細川氏が、同氏の抑制剤として優遇した河野氏の西土佐進出を受け、最前線の幡多に「防波堤」として招いた──と本稿では想像します。

【戦国】豊後水道域の「一条の均衡」

 15C後半〜16C前半の戦国土佐には、いわゆる「七雄」の割拠したと軍記は伝えます。──土佐物語では山田・片岡氏を加えた9氏で、要するに中小勢力は無数に蠢く蠱毒の壺状態です。

 一条氏と土着大名との関係は次の長元物語※がよくしめしている。 「
一条殿 一万六千貫,
津野    五千貫,
大比良(大平)四千貫,
吉良    五千貫,
本山    五千貫,
安喜    五千貫,
香宗我部  四千貫,
長宗我部  三千貫
,以上八人の内,一条殿は各別,残り七人守護と申す」。 つまり一条氏は他の戦国大名とは大名としては同質,ただ「各別」=格別だというのである。一条氏と長宗我部氏とは守護領国時代より密接な関係があり,長宗我部国親は一条房家の周旋により本領還付を得た。しかし両者の交好関係も永禄以前である。本山氏は同氏が仁淀川下流に進出以来対抗関係に入る。大平氏は一条氏に亡ぼされ,天文弘治にわたり津野氏は軍事的に一条氏に制圧された。この場合津野氏はその家臣への知行宛行につき,一条氏に注申状を出しているが,強い封建的主従関係をしめす安堵状はみられない。他の戦国大名についてはなおさらである。〔後掲島本 注5〕

※長元物語:長元記。元親記の続編と推定。長宗我部元親家臣(のちに細川家)立石正賀の覚書。1659(万治2)年成立と推定。なお史料部のスペース・改行は引用者。

 wiki(/土佐一条氏)は、一条殿の「各別」を「盟主的存在」と記しています。長元記著者・立石正賀は長宗我部家臣ですから、長宗我部が七雄というのは少し割引くべきかもしれませんけど、それでも一条家勢力3に対し七雄各国は1。
 一条教房の船を用意した大平氏は、一条氏に滅ぼされてます。既に無き細川氏も含め、対河野氏の捨て駒のはずだった一条氏が、事実上土佐の「小皇帝」になってしまったわけです。
 吉良(吾川郡南部)、本山氏(長岡郡本山郷)、安喜(安芸郷)は少なくとも平安期以前からの土着勢力。残る長宗我部ら四者は、室町期になって土佐に入った細川氏の傘下で興った勢力です。

土佐国に於て細川被官として建武中興瓦解の後,南北朝の動乱を経て応仁乱に至る約百三十余年間に,史上にその姿をあらわす国人=土豪には,津野・三宮・吉田・長曾我部・広井・須留田・堅田•香宗我部・大平・石内等があつたが,就中,香宗我部・長曾我部・津野・堅田・大平等はその有力たるものであった。〔後掲足達〕

 この情勢は、何だか、現在の感覚はもちろん「四国の戦国」という陸側からの発想と方向が違う気がしてきました。なかなかイメージに合う地図がみつかりませんでしたけど──これが一番近かった。

永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図/近畿中四国〔後掲2ちゃんねる〕

 河野氏が南予・西土佐を狙った理由と同じですけど、一条氏が土佐の盟主となった情勢は、「土佐の頭が西に付いていた」、即ち豊後灘を向いていたというベクトルを意味すると感じるのです。
 これは、後代の毛利氏が博多や松山近辺に進出した、つまり関門海峡や燧灘の沿岸一円の同一権力による支配を目指したヴィジョンに似てると感じます。
 してみると「南海路」構想も、政敵・(山名方)大内氏の瀬戸内という動脈切断の切り札を無効化させる、細川-一条氏方のプラフが本質だったかもしれない。寧波の乱に帰着する大内-細川の対立が、当時の西日本政治情勢の基礎構造になっていたとすれば、それは後代よりはるかに海からの視点で動いていた可能性があるように考えます。
 つまり、豊後水道-西瀬戸内-東瀬戸内-紀伊水道の主要海域の争奪として、西日本の戦国は捉えるべきで、一条氏の幡多での小皇帝化はそのベクトルにぴたりとタイミングが合ったからではないでしょうか?

(続)教房のあと一条氏は房家―房冬―房基―兼定と続き,荘園領主から戦国大名へと脱皮していった。その背景には,細川氏との密接な関係に基づく対明貿易の利潤と,当荘内からの木材産出などによる経済基盤の豊かさにあった。特に応仁の乱後,反細川方の大内氏によって瀬戸内海の航路が封鎖されたため,「大乗院寺社雑事記」文明元年8月13日条に「一,唐船帰朝,大内可落取之由在其聞,経九州南著四国,土州ニ著云々」,同書同15年12月12日条に「一,唐船三艘進発近日事也,長門以下路次難義(儀)間,可越年土佐幡多,自四国可渡唐云々」とあるように,貿易船は南海道を航行するようになり,中継地として当荘は重視され,中村の外港下田は船舶の出入りでにぎわった。こうして一条氏の居館のある中村は貿易の拠点として都市へと変質していった。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

 だから、中村愛郷者にとってはともかく、同時代の細川方の経済戦争感覚からすれば、幡多が日明交易に実際はさして貢献していなくても問題ではない。瀬戸内を抑えても使える南海路があるから、と大内氏にカードを見せれればそれでよかったのだと思うのです。当然その観測は、情報戦略として強調して流言されたでしょう。
 細川サイドが怨敵・大内に広げてみせた大風呂敷の残像が、現代まで残る「一条氏海外雄飛」イメージなのではないでしょうか?

【豊織期】それでも五代続いた土佐一条

(続)しかし,長宗我部氏の勢力伸張に伴う土佐国統一の進展は当荘にも及び,天正2年一条兼定は豊後国の大友氏を頼り,その子内政は元親のために長岡郡大津城に移され,翌3年当荘回復を目指して帰国した兼定は元親のため敗れ,当荘は完全に元親の支配下に入った。天正17年から同18年にかけて長宗我部氏は当荘一帯に検地を実施するが,「幡多庄」あるいは「畑庄」を冠する地検帳には,天正17年の幡多荘佐田之村地検帳,天正18年の畑之荘具同之村地検帳,同年の幡多荘入田之村地検帳,天正17年の幡多荘山路之村地検帳,同年の幡多荘初崎之村他二村地検帳,同年の幡多之荘深木村他一村地検帳,同年の畑荘国見他二村地検帳,同年の幡多荘横瀬村他一村地検帳,同年の幡多荘磯川他一村地検帳,同年の幡多荘内橋上他三村地検帳,同18年の三崎村地検帳(本文中に幡多荘とある),同17年の幡多荘浦尻之村他二村地検帳,同年の幡多荘大浜之村他一村地検帳,同年の幡多荘伊布利村他五村地検帳,同年の幡多荘鑰垣谷村他一村地検帳,同年の幡多荘下萱地検帳,同年の幡多荘布之村他二村地検帳などがある。(続)〔角川日本地名大辞典/幡多荘
【はたのしょう】〕

 具体の年代を次のとおり整理してみました〔主にwiki/土佐一条氏及び一条内政 より〕。こうしてみると、土佐一条氏七代のうち土佐国主五代と言うのはかなり形式的で、実態的な政治勢力としての土佐一条氏は三代・房基の前半生までだったことが分かります。──この時期は、「三代目は潰す」情勢ではなくむしろ土佐一条氏が最大版図を誇った時期でした。長宗我部は、その版図拡大自体か、あるいは前述の房基による大友・伊東氏との政略結婚など豊後水道域ブロック志向を危険視したと想像されます。
 三代目を扼されてからは、長宗我部氏に陰湿に縊り殺されてます。

土佐一条氏3-5代概略
(3代・房基)
1546(天文15)年 津野氏を降伏せしむ。
(同じ頃) 大平氏本拠・蓮池城を奪い高岡郡一帯を支配下に。
1549(天文18)年 自害(暗殺?※)
〔※市村高男「戦国都市中村の実像と土佐一条氏」『西南四国歴史文化論叢よど』10号、2009年。〕
(4代・兼定) ※房基嫡男
(房基死後) 一条房通の猶子となり上洛
1556(弘治2)年〜翌年 土佐下向
1567(永禄10)年 毛利氏伊予出兵、一条氏勢力減退
(事後) 兼定は豊後国へ退去
1573(天正元)年 長宗我部元親により隠居(土佐国主→内政)
1575(天正3)年 土佐に再上陸するも長宗我部軍に敗北(四万十川の戦い) ※伯父・岳父の大友宗麟の支援下
(事後)伊予宇和島沖の戸島に隠棲
1585(天正13)年 急死
(5代・内政) ※兼定嫡男
1573(天正元)年 長宗我部元親により(形式的な)土佐国主に(→大津御所体制※)
〔※後掲秋澤〕
1581(天正9)年2月※ 長宗我部氏家臣・波川清宗の謀叛への加担嫌疑により伊予法華津に追放
(事後)病死又は毒殺
※1580(天正8)年5月に伊予国邊浦で殺害との説も有


 ただ、五代・内政は、完全に傀儡と思われるにせよ、長宗我部元親により形式的な土佐国主に返り咲いてます。この点は、何と信長記にある長宗我部元親を指した表現「土佐国令補佐●●●●●●」で確認できます。

六月廿六日 土佐国令補佐候 長宗我部土佐守 維任日向守執奏ニ而為御音信〔wikisource/信長公記 巻十三(八)因幡伯耆両国ニ至テ羽柴発向之事〕
土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守〔信長公記 天正8年6月26日条←wiki/一条内政〕

※後掲秋澤は、信長又は織田政権が一条内政を土佐国主と誤認した、もしくは長宗我部元親の陪臣たる立場を強調し意図的に傀儡・一条氏を国主と認定したと唱える。後者の場合、信長→一条内政→長宗我部元親の支配階層の容認を求めたと解する。

 内政の土佐国主就任の1573年は、元親の四国統一が成ったか成らぬかの微妙な時期です。大友宗麟と早くから昵懇だった信長が先手を打って圧力をかけた可能性もあるけれど、四国統合の「象徴天皇」として祭り上げる必要があった、と考える方が自然な策に思えます。
 ただ上記の通り就任十年を待たずして追放、おそらく暗殺の憂き目に遭ってるのは、1581(天正9)年2月(異説でも前年)。──これは、信長が元親の領有地を土佐一国と阿波南半国に限るよう迫った1580(天正8)年、これによる関係悪化後に信長を後ろ盾にした三好康長・十河存保らが反旗を翻した1581(天正9)年(年)3月とほぼ重なります。
 即ち五代・内政の当初はともかく、後半は一条氏の四国支配が「信長の平和」の一ピースになっていた可能性が高い。元親はこれを謀殺することで、「信長の平和」を最終否定したと解するべきでしょう。
 おそらく豊後・大友氏も、一条氏を傀儡化しようとしていたのでしょう。一説には本能寺の変の背景に考える長宗我部と織田の対立の、最後の架け橋として土佐一条氏が存立していたと推定できるなら、弱体化してなお戦国後半の豊後水道エリアの秩序維持の支柱たることを期待し続けられたのが土佐一条だったことになります。けれど、大友宗麟や織田信長が一条家の家格を重視したとは想像しにくい。
 現代からは想定しにくい幡多地域のこの重力は、異様に思えます。やはりそれに似合うだけの正体は、今のところ見透かす材料がないのです。