m17fm第十七波残波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m下田withCOVID/高知県
014-2下田\中村\高知県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

目録

琴平社 本当の名は読めない

沢の集落の奥、竹林を抜けたさらに奥に琴平神社の参道を見つけました。
 見つけ……たはずです。鳥居には確かに琴平神社と書いてあります。
 登る。

1017井沢琴平神社参道

道途中と思える場所に、川を向く祠。
 丸石とコンクリの小社。記名なし。
 丸石の二文字の初めは「不」。後は摩耗して読めません。
1021琴平神社?

に参道途中、石像。十円硬貨を頭に載せてるのは子どもか何かのイタズラか。
 本殿手前に二つ目の鳥居。でもそこに書いてある神社名は──「琴平」には読めない三文字の漢字でした。

二つ目の鳥居に書かれた神社名

宝丁」のような文字。──一つ目の鳥居には琴平神社と書いてあるのに?
 ということは途中の小社が金比羅神で、奥の本殿は別の神様の可能性もあるのでしょうか?
 とにかく本殿へ。
手水場の8人

殿手前の手洗場の石桶には「天保十一年奉寄晋」の文字。手前に書かれる8名分の名前、でもほぼ判読不能でした。
 本殿に従神なし。中を覗くと青いビニールシートにくるまれた何かがある。
井沢琴平神社本殿〔GM.〕

倒的です。しっかりした神社なのに、取り付くよすがのない神域でした。
 1041、自転車に再びまたがり車道に戻る。南行。
 1045、竹島の叶観音祠。
「女性も使えます」ならその表示は何のため?

厳島 鍋島宮 船溜まり

050、橋への十字路。ローソンで一服。河口までもう2km。
 小さな川。──少し先に竹島川の表示があった──岸の石積は古そうな気配。

四万十川・中筋川合流点より下流東岸付近

島付近は、四万十川の潟に川が流れ込んで合流してるような地形です。これは西岸・中筋川最下流も同様。
 やはり津波避難所表示に「鍋島城山」と書かれる。ここに城?
1106道端

形図を見ると……確かにこの東後背には、同名の丘があります。40m先と指す。
 1103。一応入ってみると階段脇に何かあったような石積と台座がある。祠跡でしょうか。ただそれより先はかなり傾斜がある。戻る。
鍋島城山入口

108、さらに小さな川(→地点:GM.)。
 道路との交点に小社。先と同じコンクリの赤屋根と白囲い。左手に丸石の神体。なぜか、このセットは共通してるようです。
1110鍋島宮?

──路、この道対岸の窪みに厳島神社を見つける。また、隣接バス停名は「鍋島宮」。──ということは、「厳島」ではない先の上記写真の社が鍋島宮なのだと思われます。
 1115。右手中洲の作る屈曲点。左手の丘が突き出してきた。
 この辺りのはずです。
1118路地から四万十川方向

120、下田の住所表示を見つける。津波避難所表示にある「松ノ山」、下記津波避難マップ〔後掲四万十市〕によるとこちらは小字名のようです。
津波避難マップ/下田地区〔後掲四万十市〕

曲部の船溜まりの静けさは何だろう。──と当時メモってますけど、竹島川とその東側の支流の合流点です。ここで水域はやや広くなってます。
屈曲部の静寂の船溜まり

琉球人座波さん追えば藪の中

洲が発達していない時代はここに船が入ったんだろうか。──「竹島」川の竹島というのは、文字から考えておそらくこの川のどちらかの中洲を指したのだと思う。水流からすると多分この水域は深度も深いはずです。
 三叉路から左手集落道へ。──上マップの道の形から見るに、下の写真の辺りはおそらく近代以降の埋立地、あるいは水害後の造成地に通された道でしょう。ただ道の直進性だけから判断すると、古い川岸はほぼ山際になり、昔はこの集落はなかったか湖沼域だったことになります。

1124下田集落

の寝転ぶ土壁道。1126。
 津波避難所表示「秋葉避難地」。左折してみる。──ただしこれは民家でした。
1132南宗寺?の登道より下田集落

道にも入ってみたけど……ただの墓地。でも石垣は古い。古墓らしいものも混じります。
 この辺が南宗寺のはずなんだけど──と南宗寺を探したのは巻末1795(寛政7)年下田浦琉球船漂着記録(→原文)にある「琉球人滞留中、同浦南宗寺ニおいて御振舞等被仰付」──琉球人遭難者が預けられたとの記事からでしたけど──
1136古墓群

……古墓ってこんなにあるんかいッ!
 しかも山中に疎らです。案内版など期待できないし……こりゃあ分からんわな。あはははは……。
1142道消える


に道、雑草に飲まれる。逡巡してる間にやぶ蚊もぶんぶん飛んでくる。1141。
 駄目だ。引き返そう。
 1145、ふと足元を見れば和泉屋傳兵衛孝母塔と読める墓石。琉球人「小峯」さんの墓(→後掲)もこうした感じで野に埋もれているのでしょうか。
墓石「和泉屋」

か自分的には納得しかけてたんですけど、後日次の記事を見つけました。

土佐幡多郡下田浦への漂着ー1795年4月、福州から琉球を目指して出港したが、再び遭難して土佐の下田浦に漂着した。八重山グループの中の座波(35歳)が土佐での滞在中に急病死し、座波の遺骸は、南宗寺の後ろの山に葬られているという。-写真(→後掲画像)の座波の墓は南宗寺の住職様より贈られたもの。〔後掲島袋2013〕

(再掲)琉球人座波の墓〔後掲島袋〕

ち、座波さんのご遺体は確かに山中のようなのですが、次の記述と画像からは、「参り墓」はかなり里に近い場所にあります。
 ただ、この画像からは、表面の刻字部が妙に白く、かつ鮮明になっています。一度摩耗したか破壊されたかした後で、何かの理由で補修して現在に至っているように見えます。つまり、多分漂着時そのものの状態ではないのでしょう。
藪の仏

集落南端・貴船神社

157。車道へ出てもう一走りすると貴船神社前。ここはもう下田集落の南端、現・港の北側すぐです。
 右手に「戎宮」と読める小社。こちらへの奉納が多いらしい。神体は恵比寿様の絵。

1201戎宮御神体

船神社の御祭神は高龗神と闇龗神※。エビス=事代主とはダブルイメージにはなり得ないなずです。

※読みは一般に「タカオカミノカミ」「クラオカミノカミ」。ともに降雨・止雨を司る龍神とされ、その清浄さから貴船は、地名では濁る(キブネ)けれど、神社名では濁らない(キフネ)という。なお神話(記及び紀の一書)上は、イザナギが長子・迦具土を斬った剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神が生まれたとされる。高龗神はその事後的な反面神、つまり呪いながら祝うためのペルソナ神と思われる。

 もう一点。こんな古神がこの位置にあるのは、一種の境界神でしょう。古・下田の北端はここの可能性が高い。下記奈良もそんな書き方で、史料上は鎌倉最末期に遡れます。では鎌倉以前の現・下田港は、どんな姿で、なぜ集落外部と認知されたのでしょう?

 地検帳には、(略)「木船谷、弐代、木舟大明神」と記されており、(略)貴船神社の創建は、『皆山集』3)には、元徳元年(1329)に尊良親王の土佐配流の際、鞍馬山の貴布禰神社を舟の守護神として下田浦に着岸し、翌2(1331)年に「貴舟谷」に一宇を造営し奉祭され、貴船神社創建を契機に、対岸の間崎などから貴船神社を氏神とする漁民が移り住み下田の集落が開かれたとの伝承が記されている。『下田郷土史料』によると、貴船神社は、元禄 7(1694)年に現在の小字貴船山に遷宮されたとされる。
 この当時、河川の大規模な埋め立ては困難であったことを考えると、中世の下田には、貴船神社の創建地である貴船谷や、南宗寺が位置する後背部の山裾など、中世に起源をもつ寺社門前に集落や町場が形成されていたと推定する。[後掲奈良文化財研究所]
※ 3) 文化12(1815)年に編纂された土佐七郡の地誌。『南路志』(高知県文教協会 ,1959 年)として翻刻される。

 R20に出て港を反時計に廻り込む。

1204下田港

田港は予想通り整備の行き届いたコンクリートの小港湾でした。
 1205。
 南側の集落に入る。
1208水戸集落。中央の路地。


淡く浮く水戸集落

1211水戸集落。下田港への通路付近。

々に古びた家並みもあるけれど、明るくひなびた陽光の町並みでした。
 1211秋葉宮。
 道の形状からは、新しい町造りでは決してありません。──この時行かなかった方の神社、住吉社には「安政」「地震」の文字がわずかに確認できる碑があるという〔後掲高知・徳島の地震津波碑紹介サイト〕。
 ビニール袋が転がってるのか、と思えば毛ばさばさの猫二匹。
1214港への道に白いもの2つ

戸というこの集落名は、「関所」のような語感です。
 下田港付近が湖沼地だった時代には、中村側から見ると、この水戸付近だけが淡い島のように浮いている感じだったでしょう。
水戸集落の集落地図

を築ける地形でもない。中型以上の船は四万十も竹島川も遡れず、河口外か、避風で停泊するにせよ下田対岸・津蔵淵川河口に投錨するしかなかったでしょう。船所職の事務所があったとすればこの集落しかありえないと思えるけれど──痕跡はありませんでした。

四万十大橋はダメなのだ

赤花の台座

217。彼岸花みたいな水仙の咲く石積の台座。この集落はこういう菜園をいくつか見かける。古い廃屋跡の活用法らしい。
 北へ引き返そう。下田集落北側まで走り、ローソン四万十竹島店過ぎの交差点を左折。四万十大橋を西へ渡る。
1239橋中央より

238、橋中央より河口撮影。
 心構えをしてなかった。高度恐怖の人間には──ダメな橋です。細く長くて高度感あり。
 思わず降りて歩く。降りて歩くとさらに……ダメな橋です。
 ただそこまで(?)身を張ったおかげで、対岸の川岸が船着き場には向きそうな深度らしいことは確認できました。1245。
1247西岸

西岸は──東岸よりはるかに淋しい。この格差は何だろう?──と当時は不思議がってますけど、もちろんこれは水害のせいです。特に四万十川への中筋川合流点点のこの辺りは、四万十の自然堤防で中筋川が行き場を失っている地域です。
カフェ・ほっこり食堂(ad.四万十市山路)〔GM.〕

254(四万十市山路)ほっこり食堂
日替550
 全くの飛び込みだけど雰囲気から迷わずドボン。日替とカレーしかないというけど内容も聞かずに迷わず日替。
 米が香り立つ!高知米でしょう。
 平和な一食。安らぐカフェでした。
ほっこり食堂対面の平和な集落風景

具同をスルーした件


う一度四万十川を渡らなきゃいけない。新四万十大橋は避けて、中筋川を越えてから四万十川を渡るポイントを探しまして……
 1340、渡川大橋という分かりやすい橋を渡り中村市街へ。
──と高所的にダメじゃないルートを探し東岸ばかり気にしてたんだけど、この西岸平地部、中筋川流域が考古学的には船着が疑われている場所だと、後に知りました。やっぱ高所恐怖は直した方がいいです。
間城跡と周辺遺跡位置図〔後掲建設省ほか〕※間城跡・船戸・アゾノ各遺跡地点のみ引用者が朱書追加
間城跡と周辺遺跡一覧〔後掲建設省ほか〕

四万十川と中筋川の結節点より約7.2d上流の右岸には古墳時代の祭祀跡として著名な具同中山遺跡群がある。発掘調査では古墳時代ばかりでなく、平安時代から集落が形成されており、鎌倉時代の掘立柱建物跡や貿易陶磁器、瓦器などが多く検出されていることから、この時期に盛行期をむかえていると考えられている。室町時代になると集落は小規模化しており、代わって周辺には墓地が形成されるようになる。遺跡の中筋川を隔てて対岸にはアゾノ遺跡が立地している。アゾノ遺跡は地震の噴砂跡を初めて検出した遺跡であるが、13世紀後葉から14世紀前葉にかけて集落が盛行しているが、地震のためか15世紀後半には集落自体は衰退している。アゾノ遺跡から上流約500mの地点の小さな入江状をした場所に船戸遺跡が存在しており、古墳から鎌倉時代にかけての流路跡のほか掘立柱建物跡、柱穴群を確認している。遺物では貿易陶磁器、瓦器のほかに石製の碇が出土しており、遺跡の立地や船戸という地名からも中筋川を往来する川舟の停泊地(河津)として機能していたのではないかと考えられている。〔後掲建設省ほか〕

 この考古学の視点からは、①遺跡の多さ、②貿易陶磁出土、③「船戸」等地名が根拠です。
 広域名としては「具同」と呼ばれます。前頁で既述の通り、
a.四万十川はかつて具同を流れていた。→前頁
b.1300(正安2)年の金剛福寺供養用途の奉加の村々への割当ての筆頭に具同村の名有→前頁
c.1341(暦応4)年に幡多荘具同村の土地の武士層への譲渡文書有→前頁
などの実証資料から、幡多荘の中心地と疑われる場所です。
──ただ、再訪したいかと言うと……どうも目的地を見出しにくい。多分、中筋川の氾濫が古代の痕跡を洗い流してしまった可能性が高いのです。

曇天ゆえの絶景

🚲
転車は1350に返却。
 見逃してたけれど駅前右手北側、モニュメントのテラスの向こうに「花ちゃん弁当」という「朝6:00~売れ切れるまで 定休日 日曜日・水曜日」という手作り弁当店があった!朝飯はここで買い食いすべきでした!絶対旨いと見た!

何だか怖い駅前看板
🚈🚈
510中村発あしずり12号高知行にて東へ引き返す。
 列車は後川を越え、さっき走った水田付近を縫い、小川の作る谷を東へ入ってすぐに谷奥のトンネルに入っていきます。
 四万十川流域は幻のように、車窓から消え去っていきました。
 次は土佐入野。
 1529。土佐佐賀までの間は太平洋の絶景。曇天ながら、いや曇天こその太平洋の景色は、素晴らしい。

土佐藩軍船の紺白紺の帆印

■小レポ:近世中村湊の実風景

 前章巻末で一通り否定した「一条氏遣明船主宰説」ですけど、本章ではもう一歩進めて、一条氏に限らず土佐人が海上交易とどれほど関わってきたのか、史料等客観事象から知れる範囲で見ていきたいと思います。

準偏を急ぎ、室津の室津氏、安芸の須藤氏、手結の浜口氏、種崎の明神氏、浦戸の池氏、御畳瀬の田所氏、須崎の武政・浦岡氏、下田の江口氏、甲浦の桑名氏らを動員して輸送船団と水軍を編成し、三〇〇〇余の兵を率いて出陣した。
 軍船と輸送船を伊予の今治沖に集結させたあと、讃岐の水軍とともに瀬戸内海を西航して豊予海峡を渡り、九月末、豊後は別府湾内の沖浜に上陸した。
[16 工藤章興「長宗我部元親」学研M文庫,2010]

 前掲の工藤さんの小説上は、かくして「長宗我部水軍」が描かれます。これは朝鮮出兵時の記述ですけど、薩摩征伐時の九州渡海を考えると、この規模の水軍編成は可能だったのでしょう(戸次川の戦いの長宗我部水軍も兵3千とされる)。千石船クラスで一隻百人乗りと計算しても30隻、10家あるから各3隻の寄合所帯のイメージです。
 この10家中「下田の江口氏」として、中村の水軍がカウントされてます。
 でも江口氏?──聞いたことはない。ググってもほぼヒットはありませんけど──奈良文化財研究所の論文に僅かに記述がありました。前章からの文章のターゲットを再確認する意味も兼ね、このある程度存在が確からしい「中村江口水軍」をまず追ってみます。

現在の下田の地区構成と小字境界(部分)

※17 独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所「四万十川流域文化的景観研究」奈良文化財研究所学報第89冊,2011

下田浦江口氏の海域アジア

 まず近世下田の集落構成を確認します。

 地域住民からの聞取りによると、戦前まで、「松野山」、「下田(現在の下田上・下田下)」、「鵜ノ碆[ルビ:うのはえ](現在の串江)」、「青砂島(現在の水戸)」の5地区で構成されていた。さらに、地元住民の間では、上記の地区区分とは別に、下田の山裾に発達した地域を「うわまぁち(上町)」、河川側に発達した地域を「したまぁち(下町)」、青砂島の北東の岬と砂州の付け根部分を「根の首」、南側に張り出した砂州を「横浜」と呼ぶ。[後掲奈良文化財研究所]

 先に貴船神社について触れたように、同社から東への貴船谷が下田の最古の集落と推測されます。けれど上の地元呼称を見ると、密度と、呼び名のセット具合からして明らかに「上町」「下町」、つまり南宗寺付近が中核地域です。この前提に立つと、下田集落の重心は
[中世]貴船谷
→[近世]上町下町
 →[近代~]青砂島
      (現・下田港)
と移動しています。
 以上が、前置きとしての下田集落の概観です。この下田の中で、江口家はどこにいたのか?

安政年間下田復元図(部分)(幡多郡下田浦図を基に作成)

 地検帳をみると、下田村の総検地面積は60町30反余で屋敷数32を数え、そのほとんどは江口一族の給地と水主給及び散田である。「下田村 主居」と記された江口出雲の所領は、4町8反余と下田村の中で最も広く、江口姓の6名の給地は、計50町4反余を数え、下田村全体の約80%に及ぶ土地を領有していた。また、舟主を示す「水主」の屋敷は24を数え、それら屋敷地の一つに「材木屋」と記されており、当時、漁業や海運業、木材運搬に従事していた浦人が集住していたことが知れる。[後掲奈良文化財研究所]

 どこにいた、どころではない。江口家しか住んでいない水上交通の結節点です。対馬の阿比留家だらけの集落を想起させますけど──状況的に、完全に海人の集落です。後から出来た集落ですけど、この位置が「空いていた」とは考えにくいので江口家が外部から「進駐」して成した集落でしょう。
 検地帳ということは桃山時代以降です。その頃まで、ここに「江口王国」があって、確かなところでは四万十川の材木運送に当たっていた。

 江口出雲は下田村や鍋島村一体(ママ)を支配した在地領主で、下田を拠点に江口一族を率いて水軍を編成し、長宗我部水軍の一員として、朝鮮出兵等の外征に従軍したとされる(『中村市史』)。地検帳には、江口出雲の屋敷は、「船トノ土居、壱反参十代四分、上ヤシキ」と記される。地名から場所は特定できないが、「船トノ土居」といった地名から、船着場がある堀を巡らした広大な居館であったと窺えよう。また、「御直分」と記された長宗我部氏の直轄地には、「御蔵ヤシキ道ノケテ本一反地、壱反参代壱分、江口右兵衛居」との記載があり、物資を荷揚げする船着場と物資を収める御蔵を江口氏が管理していた事が窺える。[後掲奈良文化財研究所]

 船トノ土居=「船着場がある堀を巡らした広大な居館」というのは砦に近い。船着場なので、瀬戸内海の能地地方のような船の収納場所ではない。
 よって船は家船ではなく、移動・運送ツールとしての船舶と思われます。
 下田の入管管理は江口家が専管していたようです。江戸期には青砂島に「御分一」と書かれる藩の役所が置かれます(後掲奈良文化財研究所)けれど、江口家のこの機能を継承したものでしょう。

下田浦風景図(島村小湾画、明治11年作成、四万十市立郷土資料館所蔵、出典:『描かれた土佐の浦々』)

 次に、下田江口家は何を扱っていたのか、という点です。

 下田から積み出された産物について、宝永7(1710)年の「下灘浦々縮書」には、保佐・薪・起炭・松節・椎皮・諸材木と記され、下田港から積み出した物資の大半を占めるのが四万十川上流の林産物であったことが知られる。
 近世初頭の下田の廻船業を牽引したのが、中世の在地領主であった江口出雲を祖先とする江口家「新屋(アタラシヤ)」である。『下田郷土史料』による と、五代目・江口市左衛門正直(?–1681)の頃より、上方との貿易に早くから着目し、土佐の物産を大坂、堺に土佐の物産を輸出することで繁栄し、下田の庄屋も勤めた。近世初頭の明暦〜寛文頃が「新家」の最盛期で(略)近世の下田では、その後も廻船業を営む豪商を次々と輩出しており、四万十川水運を介した廻船業が、港町下田の繁栄を支える原動力となった。[後掲奈良文化財研究所]

 江戸期の江口家は商人化してます。この時代にははっきりと大阪・堺への廻船ルートが使われてる。江戸初期、それもかなり早い時期です。
 この南海航路がどの位早い時期に開かれたのか、という点はやはりよく分からない。でも「五代目・江口市左衛門正直」がこの時期ということは、江口家初代は1500年前後、一条氏の中村移住の時代の人物と推定されます。
 これを踏まえて、議論の戦略を再整理しますと──中村にも海人はいた。近世以降は近畿方面との廻船の往来もあった。にも関わらず、海外との直接交易はおろか、琉球ないし薩摩とのそれが行われた形跡はない。
 つまり土佐の海人は●●●●●●雄飛しなかった●●●●●●●。それはなぜなのか?という疑問です。
 この点をしつこく追及しているのは、この疑問が裏を返せば、海域アジアの起点又はステイクホルダーたる必要条件は何なのか?という問題設定になるからです。

[補記]江口家五代目「からくり市左衛門」

 上記の五代目・江口正直という人は、少しだけヒットがありました。発明家としてちょっと有名……どころか、事実なら当時の技術水準と比較して凄い技術者だったことになります。

江口正直 ?-1681 江戸時代前期の発明家。
土佐幡多郡(はたぐん)下田浦(高知県中村市)の富商で庄屋。おおくの機械工具類を発明し、「からくり市左衛門」とよばれた。(略)通称は市左衛門。屋号は新屋(あたらしや)。江口正直とは – コトバンク

 江口正直という本名では、他にヒットはない。コトバンクの原典も不詳です。ただし、俗称の「からくり市左衛門」の方では――――

 細川半蔵の生まれた土佐にも、江口市左衛門正直、方良親子そして楠瀬恵恒らのからくり技術者がいた 31)。 江口市左衛門(1620~1681年)は土佐の幡多郡下田の豪商であった。(略)正直みずから、船に乗り九州、大阪に赴き、商売の傍らいろいろなことを見聞した。そうして蓄えた知識と技術で、船の水垢を吸い取る「スッポン」なる機器を発明したり、からくり人形を作ったりしたと伝えられている。また彼が大阪に行った折り、当時有名な竹田出雲のからくり芝居を見た。ところが出雲の人形は行ったままで戻ってこない。そこで正直が出雲に人形が戻る機構を教えたという。(略)彼の息子の方良(?~1718年)も機巧を好み、工夫の才があった。彼が足摺山寺に寄進した人形時計は、後にネジが壊れて動かなくなったとき、細川半蔵が修理したといわれている。
[後掲鈴木一義「江戸時代の『機巧』技術に関する実証的研究」国立科学博物館理工学研究部,1988]
※ 原典:(31)寺石正路「土佐民間科学者伝」高知市民図書館,1978 220pp

 鈴木さんの論文は細川半蔵をメインに据えたものです。この細川半蔵は1796(寛政8)年に「機巧図彙」というからくりの製作法を詳解した書籍を残しています。1808(文化5)年には再版されており、流行書籍と言っていい。
 土佐の出身者とされる。鈴木さんは、上記文章の後の推測で「江口方良が細川半蔵に(略)影響を与えている。」と推測しており、そうだとすれば江口正直は土佐のからくり技術の祖のような位置づけになる。
 からくりの原型と推定されている機構は、時計だという。1551(天文20)年にザビエルが大内義隆に送った機械時計が伝えられる最初のものですけど、この技術を習得した初代津田助左衛門が遅くとも1688年(元禄)までには和時計として自己制作するに至っています。
 また、細川半蔵の「機巧図彙」によると、からくりの動力となる「ぜんまい」には「鯨のひげ」が使われている。「鯨目ひげ鯨亜目に属する鯨の上あごに生えた板状の繊維状細管の集まったもの」で、「鯨史稿」ではセミ鯨の弾力に富んだヒゲが用いられたという。現存のからくりでもこの素材の使用例は多い。
「ザビエル」由来で「鯨のひげ」動力。江口正直又はその先祖が、海商生活の中で得た知識と技能の結晶をもって土佐を「からくり先進国」にしていた――――といった仮説もありえなくはないですが、やはり決め手になる史料に欠けるので……本論に戻ります。
※ 江口家の別称・江口「出雲」は、江口正直の先達だった発明家・竹田出雲に由来するのでは?とも考えましたけど、これも確証はつかめませんでした。

茶運び人形(高知県立郷土文化会館蔵。左:着衣 中央:着衣無・正面 右:着衣無・裏側 寛政(1789~1800)頃の作と推定※)

出典:立川昭二「からくり」法政大学出版,1969 160pp

[論点4]土佐船は何処の海に現れたか?

 前掲市村さんの論文では、検知帳上、宿毛から土佐清水一帯に散在する「(地名)+方」表記の土地について紹介しています。
 例えば江戸期の地検帳には、「臼杵方」という表記を付した土地が、宿毛湾一円に23筆も存在する※。他にも「米津分」「法華津分」表記もある。それぞれ大分県の臼杵市、佐伯市旧米水津村、愛媛県の宇和島市法華津を指し、海を隔てたそれらの土地を本拠とする人々の知行地と推定されています。
※20 市村高男「海運・流通から見た土佐一条氏」
※原典 21:中山泰弘「『長宗我部地検帳』にみられる臼杵分についての一考察」『史学論叢 No.34』,p.39- 57,別府大学史学研究会,2004

 現段階の研究では、これらの由来は断定できる材料がないらしいけれど、例えば「臼杵分」というカテゴライズがなされるということは、臼杵由来の人々が継続的かつ一定規模で土佐側と接触していたからでしょう。
 豊後水道を跨ぐ人の往来は相当あったことが確認できているわけです。
 そこに土佐人、なかんずく幡多人が参画していないはずはない、という想像は当然に働くんだけど──
 この点に関し、土佐船の遠距離航行の証拠として、結構あちこちに記されているのが次の史料に触れます。

4-1 1568(永禄11)年志布志湾で攻撃された「浦戸之船」

一 雖未申馴候、令啓候、仍島津豊州方肝付弓箭取合最中候、海上警固相調候処、御領浦戸之船罷通候、夜中懸合、既決勝負候処、土佐船と申候之間相違候、船中箭三射籠候、其々当一人越度之由候、言語道断、不及是非候(略)随而至櫛間湊御領無出入之由申候、彼地去六月已来、肝付被致手裏候、於自今已後者、廻船上下之船、相互可有出入之事(略)
 当永禄十一戌辰 老中薬丸出雲守
          兼将
 江村備後守殿御宿所
[22 「肝付家文書」332『鹿児島県県史料 旧記雑録拾遺家わけニ』]

 全文をほぼ意訳したものが別にあったので以下掲げます。

 永禄十一年(1568)とみられる年、島津豊州家と合戦中の肝付氏が同氏が掌握する櫛間湊周辺で海上封鎖を行っていた。そこに長宗我部氏領浦戸の「土佐船」が通過した際に、肝付氏側の矢が船にあたり死者が発生する事件が起こった。この事件の経過は肝付氏老中・薬丸兼将から長宗我部氏家老・江村親家に報告され、肝付氏は船頭の帰国の許可とともに、今後の廻船の通行を申し入れている。
※23 櫛間|戦国日本の津々浦々

1570年前後の九州・四国地方の勢力分布と動静及び「櫛間」の位置

 このサイトによると、この8年後に島津から長宗我部へ通商関係を築くための書簡が送られているという。原文には当たれていない。

 天正四年(1576)頃の長宗我部元親宛の島津義久書状によれば、先年、島津氏本拠・鹿児島から土佐船が帰帆する際に肝付氏に拿捕された事件があった。義久は元親にこのたび肝付氏に命じて送還させる旨を伝えている。長宗我部領と島津領の廻船の往来がこの段階でも継続されていたことが分かる。義久は書状の中で「廻舟彼是向後互為可申承」と今後の廻船交流も提案している。[後掲23津々浦々]

 櫛間は志布志湾北岸。原文での櫛間は、正確には土佐船を送還した港として書かれるだけですけど、これしか地名記述がないから土佐船が発見されたのは大抵「志布志湾付近」だと推測されています。
 この櫛間港は、少し後に島津本家が接収、琉球交易の拠点とした場所と推定されています。

 天正二年(1574)、肝付氏は島津氏に降伏するが、櫛間は肝付氏の領有が認められた。一方で島津豊州家の島津朝久は自家の本領であるとして櫛間を与えてくれるよう義久にたびたび申し入れている。このあたり、櫛間の重要性がうかがえる。ところが、天正五年春、島津氏は肝付氏から櫛間などを没収し直接掌握した。その後、先述のように天正十年に船頭日高新介に「琉球渡海朱印状」を発給するなど琉球につながる交易港として活用している。[後掲23津々浦々]

 1568年というのは、1571(元亀2)年の木崎原の戦いの直前です。伊東軍3千を3百の島津軍が包囲殲滅する、島津義弘の武勇を象徴する戦闘です。
 海上ネットワークの成員は大抵、情報収集力に長けていたとされます。当時、島津領北縁で最もきな臭かったこの地域を、この土佐船はなぜ航行していたのか?
 櫛間から帰路につき、その後も島津側からドヤ顔で話題にされているということは、土佐には無事帰着していると思われます。さらに島津が通航を提案しているということは、この土佐船が長宗我部氏の所管しない船、即ち完全な民間船だったことを窺わせます。これは、土佐の民間船を扱うマニュアル又は先行例を島津側又は九州側が持っていなかった、ということになります。
 これらを総合すると、単に史料に残っていないだけでなく、土佐船の九州沖航行はかなり稀な出来事だった、と考えるのが自然でしょう。
 宮本常一は「海に生きる人々」(24)で過去帳や遺品送還などを通じ、海域各地の遠隔航行の事例を紹介しています。けれど、この人が足で集めた膨大な事例の中にすら、土佐からの移住・物故者は一例もヒットしません。
 漁法の伝承についても、江戸期に土佐で盛んになる捕鯨は紀州から●●●●伝わったとされる。松浦や五島列島へも、最初は紀州の海民が操業していたのを真似たと伝わる。でもその中に、土佐人がいた、という伝承は前掲宮本書の中にもやはり見つかりません。

「泰平諸候船[臣二/金]の一部」(大名の帆印一覧)

4-2(未確認情報)坊津に鰹漁を伝えた「土州カツオ船」

 後で触れる鰹節の関係を掘ってたら、枕崎の漁業組合のサイトに次の記述を見つけました。

枕崎港の西方にあって低い峠越えに隣接している坊津でカツオ漁業のはじめられたのは、土州カツオ船が来て操業したのに刺激されたからだとされる。土州船は宝暦のころには跡を絶ったという※25 枕崎水産加工業協同組合  枕崎に開花した土佐式製法

 出典は定かでない。おそらく、枕崎に伝わる伝承ではないでしょうか。でもそれに基づくと、鰹漁は紀伊→土佐→薩摩と西へ伝わったことになる。そしてその途中の時期、土佐船が薩摩半島南岸まで出漁していたことになります。交易船ではないけれど、海上では、上記櫛間より遥かに遠くまで土佐の海人が来ていた。
 その時期について、同HPはけれども次のように推測してます。

[引用者追記:坊津は]享保の唐物崩れ以前は密貿易の盛んな商港だったのだから、土州船の大挙出漁は享保8年(1723)以後のことになるであろう。
 それから宝暦初年(1751)までは20数年しか経てないから、短年月の出漁であった。
 紀州の熊野式新漁法が土佐の清水七浦漁民に伝えられたのは、遅くても慶安末年(1735)である。享保のころともなれば、釣り溜漁法に習熟した土州船団が漁場をしだいに拡大し、その一部がついに坊津港まで出漁してきたとしても不思議ではない。[後掲枕崎水産加工業協同組合]

 合理的な推理です。
 そうなると土佐漁船群は、薩摩の地元漁民が一世代ほどの間に鰹漁法を習得した後、折角開拓した薩摩沖漁場からあっさりと撤退した。そしてそれっきり来なかった、ということになります。
 どうも時系列的に奇妙な推移なので──参考までに付記しました。ただ経緯はどうあれ、土佐船の遠洋漁業は恒例化しなかったというのが実情のようなのです。

 しかし土州船は、薩摩藩の許可なしに、坊津港を居浦とすることはできない。
 おそらく、唐物崩れにより一寒村に転落してしまった坊津復興の一手段として、薩摩藩の諒承の下に残存する地元の有志が呼び寄せたものであろう。出漁期間が短期間で終わったのは、地元漁民が熊野式新漁法を十分に習得してしまったので、土州船が無用になったからではないか。[後掲枕崎水産加工業協同組合]

[論点5]幡多に来航した「異国船」

元親幡多を平定し(略)以南筋に所々の案内者を召して道すがら(略)清水に至り湊の広大なるを見て、異国の大船数度入津せしも理なりとぞ宣ひける。[26「土佐物語 巻五」『土佐旧事記大集・下巻』]

 長宗我部元親は、幡多の一条兼定を追放しその子・内政を「大津御所」なる傀儡政権とした後、翌1575(天正3)年に再起を図った兼定旗下の諸将を四万十川の戦いで敗り土佐西部を平定します。よって先の発言は、一条氏時代以前を回顧した言です。──①異国の②大船③数度④入津せし。
 ①異国は、清水浦の「唐船」と同様、外国だけでなく広く土佐以外を指す、と土佐清水市史※は推測します。
※27 土佐清水市史編纂委員会「土佐清水市史 上巻」昭55
 土佐清水港内の唐船島(→GM.)は「いまも沿岸航路の船が嵐を避けて船だまりとする場所」[後掲・同土佐清水市史]で、②大船は現代の沿岸船程度の大きさと想定しうる。それが③数度、伝わっています。
 また、以下触れるような漂着ではなく④入津、つまり自らの意思で入港したとされています。

5-1 13C 幡多本郷(中村)に相伝された「船所職」

 中世の中村域に船舶管理に関する役人が置かれていたことは、史料に書かれています。

下 幡多本郷
 定補船所職付横浜事
        僧慶心
右於件職者慶心重代相伝于今無
違乱云々而給主得替刻或有限得分令
滅少之或就所職妨之雖然於所職者当
知行之上者勿論得分之事任先例可
被別当于十三分之状如件庄屋宜
承知勿違失故下
  文久十二年三月 日
      公文藤原[花押]
      沙  弥[花押]
※28 中村市史編纂室「中村市史」昭44 第四章 船所職

 文字数は多いけれど、中央がこの船所職のお墨付きを与える目的の文書なので、語るところは限られます。抽出すると
①1275(文久12)年には船所職は存在し、「重代相伝」つまり代々引き継がれていたこと
②(職名の文字からして)船舶管理が業務内容と推測できること
③(受任者が僧なので)寺院に属する者と推測できること
 中村市史は、まずその場所を、
④四万十川と後川の合流点の左岸、小塚(古津賀)の東南端にある「木ノ津」という地名
⑤江戸期、井沢(木ノ津の隣)に設けられていた「国産方」という役所
から木ノ津又は井沢を推定し、受任者の属した寺を
⑥木ノ津に近い廃寺「観音寺」(「南路志」に「延命山理趣院観音寺真言宗石見寺末」とある。)
に比定しています。
 少なくとも13C時点の中村に、恒常的に専門職を置く必要があるほど船舶の入港があったことは史実らしい。
 ではその船舶群は、どこから誰が何の目的で来ていたのか──というと具体の記録は江戸期まで時代が下ってしまいます。しかも上記定義では「異国船」ですけど、琉球国籍船です。

5-2 17-19C 幡多への異国船入港記録

凡例 連番 年月:事項[出典]
   朱書 中村関係

01 1601(慶長6).10:清水浦へ異国船入港[橋田資料]
02 1607(慶長12).6:小満目浦へ唐船漂着[年表 宮崎文書]
03 1615(元和元):唐船漂着[橋田資料]
04 1616(元和2).6:呂山船清水浦漂着[年表]
05 1640(寛永17).10:琉球船下田浦漂着[年表]
06 1705(宝永2).7:琉球船,清水浦漂着[年表 年代記 宮崎]
07 1762(法暦12).7:琉球船大島浦漂着[年表 年代記 宮崎]
08 1795(寛政7).5:琉球船下田浦漂着[年表 年代記 宮崎]
09 1809(文化6).11:異国船柏島浦へ[河村万蔵文書]
10 1829(文政12)冬:異国船柏島浦漂着[宮崎 川村 能津]
11 1854(安政元).5:津呂沖夷船見ユ[宮崎]
12 1856(安政3).5:広東船越浦飄着ス[樋口 尾崎]
13 1857(安政4).5:薩船天地浦漂着[樋口]
14 1866(慶応2).7:英国船安満地浦へ侵入[安東文書]

※29 中村市史編纂室「中村市史」昭44 第二章 四、幕末期における中村人士の国事活動(2)海防問題 中の独自作成表
※ 元の表記は縦書きだが、本稿では横書きに直し、凡例を入れた。
 なお、出典史料の年代や所在は後掲島村2008が辿り丹念に紹介する。

 5の1640(寛永17).10:琉球船下田浦漂着については、後掲川合1967は佐賀浦漂着と整理しています〔後掲平川・竹原も同〕。「鎖国令」初期でもあり、あまり神経質な対応がなかったのかもしれず、本稿では当面保留せざるを得ない。
 けれど残る8下田漂着については、小野文書※の詳述を中村市史が転記しています。なので以下、この詳細を読んでいきます。

※四万十市立図書館の2017年調査では、①中村市史出典の小野文書はなかった。②小野文書を解読したと思われる小野義廣氏の頓狂亭探古に記録有。③皆山集p.189~190に松野繁樹の書いた琉球人の噺有 とのこと〔後掲国立国会図書館 レファレンス協同データベース〕。

5-3 18C末 下田浦(上記8)琉球船漂着記録

 寛政七卯五月廿六日、下田浦へ琉球船着致し、即日御郡奉行福岡助之進様御馬上ニ而御備ヘヲ以御かけ着被残出勤仕ル。御城下より小浦奉行所、大御目附所、御勘定奉行所、其外御御陸目附所、諸御先遣所御立越、右琉球舟御守方、郷士中、足軽中番船相勤ル。[後掲28中村市史]

 1795(寛政7)年5月、琉球船が下田に入港。そこで郡奉行福岡助之進様ほかお偉いさんが「琉球舟御守方」(≒琉球船監視チーム)を編成、わらわらとやって来ました。「御勘定奉行所」(≒会計課)まで来てるのは、何かの取引も期待したのでしょうか。もちろん庶民(「郷士中、足軽中」)も番船を駆ってかけつけてます。

幡多に上がった琉球人と座波

(前掲続)琉球人滞留中、同浦南宗寺ニおいて御振舞等被仰付、八月最初之頃薩摩より御迎船来ル、薩州御士中四人、御使者共十五六人にて御座候、此度も右御侍中、於南宗寺御振舞御座候、琉球船[後掲28
中村市史]

 即ち、漂着した琉球の人たちは、「同浦(下田浦)南宗寺」で「御振舞等仰せ付けらる」軟禁を命じられてます。

※ 後掲島村幸一(「土佐漂着の『琉球人』志田伯親雲上・潮平親雲 上・伊良皆親雲上を中心に」法政大学沖縄文化研究所,2008)は、琉球人と奉行団間の書簡から考えて、琉球漂流民は上陸を許されなかったと推定している。
※ 島村さんは同論文で、この事件の複数の史料群を以下の通り列挙しています。
・『豊策公紀』第二十六巻「寛政七年五月二十六日」土佐山内家宝物資料館蔵
・「安芸歴民館史料九五’一(寛政七卯年五月廿八日達琉球船漂着二付き下田浦より註進状写他と(『頓狂亭探古1幡多地方古文書解読集」小野義廣、自家版、一九九六年刊)
・「下田日記」(『土佐国群書類従7災異部漂流部』高知県立図書館、平成十七年刊)
・「宇留麻話」S土佐国群書類従7災異部漂流部』高知県立図書館、平成十七年刊)
・ 「南路志巻七十九(琉球船漂着之記)」(『土佐国史料集成南路志」第七巻、高知県立図書館、平成六年刊)

 中村市史には次のような「座波」という人の墓の写真を掲載してます。この墓が、この日に藪蚊に刺されながら山中で探した(→本文)お墓でしたけど……彼は軟禁中に亡くなったのでしょう。史料は何も語っておらず、寺にも「琉球人の墓がある」というほどにしか伝わっていなかったと推定されます。

「下田にある琉球人座波の墓」[後掲11中村市史]

琉球人座波の墓〔後掲島袋〕

幡多発琉球行帰路の旅

(前掲続)琉球舟帆柱実崎村天満宮御社ニて杉ノ木御仕成被仰付、至而能木ニて御座候、右舟八月末方下田浦出帆、セト海通豊後地ヘ御送付被仰付也、御舟頭、下田浦庄屋大藤忠左衛門、清水浦庄屋浜田五左衛門豊後迄立越申候[後掲29中村市史 原典:小野文書]

 琉球船の帆柱として、実崎村天満宮の社にあった杉の木を提供するように仰せが下ります。至って能き(良い)木材だったので、船は8月末には下田浦を出港、豊後ヘ送還されます。御舟頭として、下田港と清水港の庄屋(それぞれ大藤忠左衛門と浜田五左衛門)が豊後まで随行しています。
 まず、実崎村天満宮は現在も存在しています。四万十川西岸、下田の対岸です。→GM.
 琉球船は暴風か何かで帆柱を損傷していたのでしょう。土佐藩は一般的に巨木の搬出を制限していたはずなのに、藩が宮側に強いて、恐らく神社の御神木──「至而能木」とは、琉球側から誉められたか、中村側がもったいないと思ったか、と推測される──まで伐り出して補修しています。余程早く出港して欲しかった、というか追い出したかったのでしょう。
 そして8月、琉球船は豊後へ送還されます。この際の随行者に、もし役人がいれば書かれるはずですけど、その名はなく庄屋2人のみ。この人事は、幕府の御禁制に触れるのを恐れた役人は誰もが身を引き、いわゆる腹切要員として現地下田の庄屋・大藤忠左衛門に押し付けられた。
 けれど、この庄屋も自信がないから、同じ庄屋の経験者を頼った形に見えます。それが、土佐清水港の庄屋・浜田五左衛門でした。
 先の表にも見える通り、幡多地域で最も異国船漂着を経験してきたのはこの清水港から大月・柏島までの足摺岬西岸です。清水港への漂着は表では1・4・6、うち直近の6は1705(宝永2)、90年前の同じく琉球船です。
 だから土佐清水港庄屋・浜田さんが異国船処置の実経験があったわけではないはずですけど、覚書のようなマニュアルが伝わっていた可能性はあります。
 あと、足摺岬の西側海岸に漂着が多いのは、北上する黒潮が四国から出っ張ったこの岬にぶつかる形になるからでしょう。

全年の海流平均値(海洋台帳)高知県・鹿児島県部分拡大

※ かだいおうち Advanced Course/黒潮

土佐清水に没した琉球人

 なお、この1705年の漂着時にも清水港で亡くなった琉球人がおられます。こちらは「小峯」さんという方で、浜田家墓地に墓石が現存するそうです。

◆漂着・病死した琉球人墓:墓碑「覚室宗本信士」
・現在判読できるのは上記の六文字のみである。墓碑中央に刻字されている。なお『幡南探古録』によれば墓碑には「覚空(室の誤読)宗本信士、宝永二年乙酉九月十六日 琉球国小ッ(文字摩滅)」と刻まれていたという。
・埋葬者は1704年の進貢船の乗員・小峯と見られる。
・この進貢船は、1705年、帰国の途中で暴風に遭い、土佐国清水地方に漂着した。庄屋の「五右衛門」・郷士の「濱田五郎兵衛正純」らが救助・世話をした(「濱田五郎兵衛正純」は庄屋兼郷士であったが、元禄8年に実弟・五右衛門に庄屋を継がせた人物である)。この琉球人墓が、清水浦の歴代庄屋であった濱田家の墓地内にあるのはそのためであろう。
※31 日本における琉球史跡/清水蓮光寺 土佐清水市元町11-1(消防署近く)

 土佐清水市史は、中村市史の前掲一覧にないものも含め、異国船漂着時の記録を数件掲載しています。1602年の呂宋(現・フィリピン)船漂着時にはスペイン人・フィリピン人の乗組員を捕らえて江戸まで護送し幕府の裁断を仰いでいるほか、琉球船漂着時には迎えに来た薩摩藩との折衝もこなしてます。
※後掲27土佐清水市史上巻
 なお、土佐全体では、1596(慶長元)年の浦戸へのスペイン船サン・フェリペ号の漂着を端緒とする。秀吉による宣教師26人の殉教に繋がる有名なこの船の後、長宗我部と入れ替わりで藩主となった山内一豊は、前記の1602(慶長七)年の呂宋船清水漂着時には着任早々でした。捕らえたスペイン人等約40人を江戸に送ったら、スペイン親交を構想している時期だった家康に「却って山内家の処置について譴責」されたらしく、土佐の外交体質に大きなトラウマとして残ったのかもしれません。
※32 小野美子「元和二年、土佐漂流イスパニア船について」法政大学学術機関レポジトリ,法政大学史学会,1968
 さて、そろそろ幡多に話を戻して「判決」しなければなりません。

※天神通り含み

異国船対応マニュアルのなかった江戸期幡多

 これらの点的な事実を繋げていくと、以下の六点ほどの指摘に帰着せざるを得ないと考えられます。

① 幡多への「異国船」来航として実証されるのは、江戸期の漂着(1795(寛政7)年)の一度(琉球船)のみである。
② 江戸期の「異国船」漂着地は、清水側(足摺岬西岸)の方が多い。(中村側(東岸)ではない)

──この二つからは、幡多へ能動的に来た船は認められず、それどころか対外港湾として認知されていなかったことが推測されます。
 さらに1795(寛政7)年の漂着記録からは──

③ 中村下田の南宗寺はもちろん、最も経験値の高かった(伝わっていた)土佐清水庄屋家ですら、「異国船」に受動的に対応しているだけである。
④ 江戸期の記録に「異国船」専門の役所は登場しない。そればかりか、異国船対応のマニュアルも存在しなかったと見られる。

──総体的な印象として、外海からの来航者に慣れていない。さらにパーソナリティとして言うなら、本格的な他者との接触を拒む心性さえ感じます。これらを踏まえると──

⑤ 13Cの船所職の存在は、幡多が交易港機能を実証しない。
(他地の外交寺院のようなノウハウやナレッジがあったなら、一条時代の文化的痕跡が残ったり、江戸期の沈着な対応が可能だったと思われる。13Cに「異国船」が幡多に来航したとは考えらないから、同職は四万十川の水運を管理するローカルな地域交通管理職と推定するのが自然)
⑥ 一条氏時代の前後に「異国船」と対等の折衝をした事例や痕跡がないことから考えると、一時的に勘合船が南海路を通った一条氏時代にも、中村は(単なる寄港地で)交易港ではなかった可能性が高い。

──どちらが原因で結果なのかは解釈次第ですけど……史料に描写されるところからは、海を越えて他地へ移っていく、という連想を幡多の諸事象からは描くことができません。むしろ大航海時代に外国から偶然に流れ着く船や人を、受け身でやり過ごしてきた、というように思えます。
 他の土地ならば、漂流に扮して貿易や抜け荷をした、という疑いも生まれるんだけど……この刺々しい土佐の各港の雰囲気は、そういう想像だと違和感がありすぎる。
 要するに、土佐の海人に遠隔地に対する自発性は薄かったと考えるのが自然なのです。

5-4 [補説]臨済宗大徳寺派 南宗寺は外交をしたか?

 上記の琉球船漂流時に琉球人たちが「御振舞等仰せ付けら」れた南宗寺についてです。

地検帳には、「南宗庵、五代、下ヤシキ、散田分、坊 主居」(略)と記されており、(略)南宗寺の創建年代は、『中村市史』によると、天文年中(1532–1555)で円照禅師によって創建され、明暦年中(1655–1658)に南宗庵から南宗寺に社名を改めたとされる。[後掲奈良文化財研究所]

 これだけのデータでも引っかる点があります。まず開祖とされる「円照禅師」ですが、おそらくこの人のことです。

大林宗套 没年:永禄11.1.27(1568.2.24) 生年:文明12(1480)
室町後期の臨済宗の僧。諡号は仏印円照禅師、正覚普通国師。天竜寺では惟春寿桃と称していた。(略)弘治2(1556)年には三好長慶の招きにより、和泉(大阪府)南宗寺の開山となる。このころより、堺の豪商で、茶人の武野紹鴎などと広く交流(略)
大林宗套とは – コトバンク
※ 石井清純文責。参考文献:竹貫元勝『日本禅宗史』

 堺出身です。
 臨済宗、中でも大徳寺派は、福岡の承福寺がそうであるように、中国語の知識や中国人とのネゴを生かしたらしき外交僧としての活躍が目立ちます。
 また、南宗「庵」が「寺」に改名された、おそらく施設か体裁を拡張された明暦(1655~1658)は、前述の江口市左衛門(1620~1681)が堺への廻船航路を開いた時期と重なります。
 さらに言えば、前期の1795年の琉球船下田浦漂着の150年前、同じく琉球船漂着のあった1640年のすぐ後の時代です。
 大阪・堺側が自港との連絡員として送り込んだか、土佐側の江口家が招へいしたか。他の寄港地の如く外交僧が明暦以降は居住していたのだとすれば、そのいずれかが交易路の対外拡張を企図していた、という可能性はゼロではない。ただ「鎖国令」が徹底され土佐藩も萎縮しきっていた時代ですから、大阪との国内海路の強化のためと考えるのが順当でしょう。
 もちろん1795年に南宗寺が務めた「御振舞等」は、軟禁あるいは居住の世話というだけでないはずです。「等」には外交に類する行為も含まれたでしょう。ただ南宗寺が実際に務めた「外交」は、琉球人との折衝でした。

景轍玄蘇(1537(天文6)年~1611(慶長16)年)。臨済宗中峯派の僧で、22歳で博多聖福寺住職、44歳で対馬島主・宗氏に招かれ、後、朝鮮出兵時の外交を担う――――という人の韓国ドラマの画像

[論点6]技術的側面──岡家の造船術の行方

 幕末史に名高い海臨丸の太平洋横断。その乗員名簿は、各人の経歴とともに伝わっています。
※ 後掲太平洋横断乗組員名簿
 総乗員105名中、塩飽出身水夫が35名、長崎出身が31名。
 坂本龍馬の私営ではなく国策ですから、単にコネの働く状況ではないにせよ──何と土佐からの参加はゼロ●●●●●●●●●●です。
 薩摩や長州からの参加もありませんけど、例えば薩摩が幕末に西洋船(昇平丸)を自力建造したことを考えると、ちょっと同じ状況には思えません。
 一条氏の遣明船関与は、明確なところでは木材提供だけだった、という論旨で前章巻末に触れました。それにしても、江戸期を経た後もなお、土佐に操船・船大工の技術はストックされていなかったのでしょうか?

「享保9年(1724)土佐藩の船匠岡四郎右衛門が弟子の早川市朗右衛門に伝授した境井流の秘伝書一式」

 江戸期の浦戸には船匠・岡氏がありました。
 安芸郡田野町には同氏の豪邸が残ります。同町では「岡御殿」として、観光的に売り出し中でした。

岡家は馬路村の魚梁瀬杉を中心とする材木業、回船業、質屋、地主、酒造業、両替商などさまざまな商売をして土佐藩主に御用金を納め、名字帯刀、御目見、独礼御目見(どくれいおめみえ)の特権を許されていました。
※34 有形文化財「岡御殿」で江戸時代の暮らしに触れる | 自然&体験ブログ | 高知県観光キャンペーン「リョーマの休日」

 初代の技術者としては岡四郎右衛門がいます。この人は土佐藩船匠になっています。
 ここで江戸期の船匠を調べてみると、次の名が知られています。

江戸期の代表的船匠
・川上和泉
〜近世初期の船匠。大坂に住み、朝鮮戦役の大量造船に際して、山崎豊後とともに指導的役割を果たし、近世関船の木割を確立した代表的船匠。生没年未詳。〔精選版 日本国語大辞典 「川上和泉」〕
〜原典:「逸克流船造記」(山崎豊後も同)

・山崎豊後
・境井九郎兵衛

〜薩摩藩:先祖長崎源七右衛門に境井九郎兵衛(八郎右衛門の父)が授けた許状(1657(明暦3)年付)。
土佐:岡家にも同様のものがあると思われる。
 (以上三者は徳川将軍家御用達の船匠)

・金沢家瀬戸流秘伝術
・串木家唐津流秘伝術
・長谷川家伊予流秘伝術

船大工と秘伝術 : 土佐の船匠岡家の航跡日記
※※コトバンク及び後掲石井(下記展開内参照)から「〜」以降の解説を引用者が追記した。


 岡四郎右衛門は、このうちの境井家に弟子入りしてスキルを会得したという。彼は1724(享保9)年、藩命を受けた二人の弟子・早川市郎右衛門と津野久兵衛に秘伝書一式を授けており、その一部は「造船曲尺法許状之事」等として岡家に伝わっています。だから岡氏の造船術習得は遅くともこれより前、18C初めです。
 ここで重要なのは、まずインプットの過程です。大阪の境井家には、おそらく山内藩の強力なネゴを使って岡は弟子入りしている。これは、17Cまで地元土佐には既存の大型造船ノウハウが乏しかったことを意味します。
 次に、移入技術の拡散です。同じ時代には、薩摩藩の樗木家も境井家に弟子入りしています。薩摩の調所広郷の財政改革は藩の船団編成と民間船舶所有の奨励だったわけで、樗木家は鹿児島県川内市久見崎に設けられた藩直轄軍港の船匠になってます。
 そもそも江戸初期に薩摩と土佐の造船ノウハウが同列だったとは思えないけれど、江戸初期にこの大藩が揃って大阪に技術留学しているのは、藩統治側は少なくとも当初、同じ海上王国構想を持っていたのでしょう。けれど、その後の結実には凄まじい格差が生まれています。
 岡家の造船技術が、江戸期を通じ土佐の経済興隆にどう影響したのか、この点はどうもわかりません。
 現在も包丁がプロの料理人に重宝されるように、土佐は鍛冶の先進地でもあります。和船は鍛冶の技術の延長とも言われる。さらにこれまでも見たように、林業や木地の伝統もある上、前掲からくり市左衛門のような新技術へのインセンティブもある土佐で、なぜ造船術を初めとする船舶関連技術が発達しなかったのか──どうも納得できないのですが──現実としてそれは目に見える発展に繋がっていません。
 普通に考えて、その前代の室町期の幡多で、遣明船を造ったり大規模な修理をしたりする造船スキルが蓄積されていたのに、江戸期にそれがなぜか廃れた──とは、とても想像できない。室町期のそれらの蓄積はなかった、造船・修船は行われておらず、幡多は木材供出の地でしかなかった、と演繹するのが自然なのです。

土佐で珊瑚をとった漁船を描写したもの(木材に記載されている模様。時代等出典情報不詳)

[論点7]土佐珊瑚はなぜ交易に用いられなかったか?

 古代地中海では、重要な交易物資として珊瑚が用いられています。なかでも有力だったのはベニサンゴ。これは土佐で獲れるのと同種です。
 東アジアでも、琉球から明清への進貢物には珊瑚が名を連ねます。
 けれども──土佐の珊瑚が世に知れるようになるのは、明治以後です。中国や台湾で貴金属扱いされるようになるのは、その後、現在までの間のことです。

19世紀、土佐湾で極めて美しい宝石珊瑚が発見されて以来、日本は珊瑚産地に加わりました。明治になると、見事な原木を求めて、宝石珊瑚の本場イタリアのバイヤーが高知県に直接買い付けに来るようになりました。以後、高知県が世界の珊瑚産業の中心地となりました。
ヨーロッパのバイヤーは血赤珊瑚のことを「トサ」と呼び、高知県で生産される宝石珊瑚は「土佐珊瑚」と別格視されています。またイタリア産カメオの原木は日本(高知)より供給されています。※25 高知が世界の誇る、海の宝石。土佐珊瑚|高知まるごとネット

 江戸前半に対中国交易で銀や銅が枯渇した日本は、なぜこの珊瑚を差し置き、俵物のような珍品を代替としたのでしょうか?
 一般には、上記のように土佐珊瑚は19C以降に「発見」されたような書き方になってます。
 下記は出典が定かでないけれど1838(天保9)年に、土佐藩がサンゴの採取・所持・販売を禁止した旨の記事です。前掲の記録の時代・19C以降と概ね時期がダブりますから、準貴金属たりうる存在として珊瑚が認知され始めたのもこの時期以降と推測できます。

文化九年(一八一二)二月、元浦(現室戸市元)の庄屋奥宮三九郎が藩へ差出した口上覚えには、「勢子舟沖合い羽指の文丞が、下《さ》ヶ釣船でたまたま大ノ珊瑚樹差上候者ニ御座候由」『珊瑚に関する最も古い記録』(津呂捕鯨誌)より抜粋、また、南路志にも記述あり。
 余影録には「室戸の人戎屋幸之丞が天保年間(一八三〇~四三)に室戸岬付近に於いて釣りするに方り、偶々珊瑚の其の釣りにかゝるをみて、百方考案を加え、遂に創めて、珊瑚網を発見せしを、当時、藩政珊瑚の探採を禁じ之を使用することを得ず。」(略)
※26 津室儿のブログ:  室戸市の民話伝説 第55話 幻の献上珊瑚

 19Cに珊瑚が突然大発生したとか、土佐に網漁法が伝わったとかは想定しにくい。18C以前の土佐では、珊瑚が網にかかっても、それを交換して儲ける発想、つまり交易の思考法には乏しかったことになります。──他の交易地の例を思い出すと、交換価値のなかった産物や、交易用に事後的に創成された産物まである。
 土佐サンゴは18C以前には交換価値として発見されていなかった、と推定できます。
 では珊瑚の存在が認知された19C初め、なぜその採取が御禁制だったのでしょう?しかもどうやら土佐藩のサンゴ禁制は、極めて神経質なものだったようだったのです。

お月さんももいろ 絵本表紙(松谷みよ子、角川書店、1975)

7-1「お月さんももいろ」

珊瑚の存在が江戸幕府に知られれば、財宝として土佐藩から幕府に召し上げられてしまうからだ。だから土佐の殿様は、珊瑚を採ること、拾うこと、持つこと、語ることを禁じたという史実がある。
※27 clubSWAN : 特集/「お月さん ももいろ

 藩が幕府の動静を気にし、珊瑚の存在自体を伏せようとしたのならば、藩や幕府はその高価たる事を知っていたことになる。
 つまり、19Cの土佐では、珊瑚が交換価値を持つという認識があったわけです。
 ここから考えるべき点は2つ。まず、高価であることをどこで知ったのか。琉球使節は江戸参内していたわけですから、おそらく交易品のお裾分けとして誰かが入手し、珍重されていたのでしょう。
 今一つは、ならばなぜ藩がサンゴを交易に用いず、存在自体を秘する選択をしたのか、です。
 存在自体を、というのは、幡多の大月村が舞台とされる「お月さんももいろ」という唄(俚謡)に表現されてます。

お月さん桃色 誰が言うた
あまが言うた あまの口引き裂け

 暗号のような歌詞になってます。「お月さん」は「大月灘」と類似音、「あま」は女性一般のことを言うふりをして「海女」の同音。「桃色」は海中の珊瑚を指します。要するに、大月の海に珊瑚が沢山ある、という事実、さらにその事を公言すると「口を引き裂かれる」(≒死に至る)という禁忌を裏意してます。
 昔話としての「お月さまももいろ」は、絵本にもなってます。不覚にも買い損ねてますけど──無茶苦茶に救いようのないお話でした。海女と山人(猟師)のラブストーリー中、海女が山人に渡した珊瑚の引渡しを役人が要求。海女と山人の二人とも死んでしまった後※※、珊瑚は(高知城の)お姫様の首飾りになる。教訓はありません。ズバリ「珊瑚を持ってると知れたらエラい目に遭う」という、それだけの話。不条理そのものです。

※後掲26 津室儿のブログ及び27clubSWAN
※※海女は山人に愛の証としてサンゴを渡した後、役人からの要求に苦慮し、別のサンゴを採ろうと海に潜って嵐に巻き込まれ遭難死。山人は海女の遺骸を埋葬しに入った山中で、サンゴを狙った侍に斬殺。

 いや、庶民にとっての教訓は無いこともない。あえて言えば──現生活を変えようとするな、保守的であれ、というところでしょうか。怯えそのもののような教訓です。
 推測するに、龍馬伝に描かれるようなのとは違い、幕末土佐の漁村というのは貧しく陰湿な閉鎖環境だったのではないでしょうか?経済的な珍重物は虎狼の輩に襲われ、だからそんな欲は持ってはならない、貧しいまま生きて死すべし、という人生観が絶対的な……。

絵本「お月さま ももいろ」場面集

7-2 大阪「土佐堀」 高知「はりまや」――――土佐材ほか近世土佐発交易品

 では、土佐で産した他の交易品はどんな扱いを受けていたのでしょう。
 まず頭に浮かぶのは、一条氏が遣明船に関わったそもそもの原因、木材です。

土佐材は、大阪城築城の時に太閤秀吉から「日本一」というお墨付きをもらったことで、全国に知られる銘木となりました。江戸時代の初期には大阪城や伏見城などの修築をはじめ、大きな戦乱に巻き込まれた大阪のまちの復興にも多くの土佐材が使われるなど、昔から全国で広く利用されてきました。吉野川上流白髪山のひのき、高知県東部の魚梁瀬杉をはじめ、土佐の山々から藩の御用木として幕府に献上されました。また、大阪に日本で最初の木材市場を開き、土佐藩の財政救済に貢献してきた歴史があります。今も大阪に残る「土佐掘」「白髪橋」といった地名はその名残りといわれています。※後掲土佐材流通促進協議会 28 高知県木材協会「高知の森からの贈り物。」

 大阪には、土佐の地名が残るほど太い流通のパイプがあったわけです。それも単に「土佐」でなく「白髪」という産地名です。
 ところでもう一点、「土佐藩の財政救済に貢献」という気になる表記があります(上記引用下線部)。これはどういうことでしょう?

白髪山の檜は、高額で取引されたため、単に売却にとどまるものではなく、幕府に対する課役を、木材で代納することもあった.つまり、藩財政が逼迫する度に、木材の売却によって直接に負債の償却に当てたり、幕府よりの課役を代納したりして、藩の負担を軽減する役割を果たした。
※29 加藤浩徳他「地域交通システムの成立と発展:高知県を事例に」2011

 土佐藩は土佐材を、財政の長期安定のためのいわば引当金代わりにしてる。この藩は伐採量の調整もしていたらしいけれど、その趣旨はもちろん自然保護ではなく、ヘソクリの入った金庫を守るような感覚だったと想像されます。
 逆に言えば、産業振興とか流通促進とかいう経済的攻勢への感覚はどうも薄い。

「土○山御用木」と記された当時の材木

京町は京都の呉服問屋の筒井宗泉が移住して町をつくったので、その名がある。(略)堺町も泉州堺の呉服商が呉服商売に来国して住んだ所といわれている。
※高知市歴史散歩/175 はりまや橋界隈(かいわい)(一) -高知市広報「あかるいまち」1998年5月号より-

 高知市の多所に残る近畿由来の地名は、上方からの商人がいかに幅を効かせていたかを意味します。高知最大にして最ガッカリな観光地「はりまや橋」はその筆頭で、これは豪商・播磨屋邸に由来します。その出身はこれも名の通りの播磨出身。──この一族は代々、土佐藩の大年寄役を務め、その邸宅には藩主や幕府御巡見使が度々来訪・宿泊しました。はりまや橋の由来も、江戸初期に播磨屋と隣接する櫃屋(紀州出身)の間の私道の橋が、藩の沙汰で公道の橋になったというもの。

是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也[高知風土記]

 つまり、幡多の江口家や浦戸の岡家がむしろ例外なのです。土佐経済の中核は、そもそも外来資本によって開発されてきました。
 以上の江戸期以前の経済情勢事実からは、土佐地元に大阪に拮抗するような大資本の海商がいたとは思えません。交易は輸送先の近畿系商人に牛耳られ、藩もむしろその活用を奨励してきたように見えます。
 けれど、さらに他の交易物に焦点を合わせると、そうとばかりは言い切れない事実も僅かに浮かびます。──鰹節です。

土佐節本枯節

7-3 江戸期土州鰹節の諸風景

 それ(引用者追記:木材)以外にも、鰹節、薪、木炭などが上方に輸送された。特に鰹節は、幕府への献上品、大名への贈答品などとして全国各地へ輸送された。[後掲29加藤他]

 江戸期中盤以降に対中国の輸出品のメインとなる「俵物」は、教科書的に書かれる昆布・海鼠・鱶鰭だけでなく、むしろ「諸品」、その他海産物が多かったのではないか・という議論が近年有力になってます。
 鰹節が、そのうちの一つにあります。

俵物とは煎海鼠、干飽、鰻鰭の三品を意味するようになっていたようである。これに対して、そのほかの貨物として諸色があったが、それに関して「長崎会所五冊物』には、
昆布・[魚易]・萩苓・鶏冠草・所天草・鰹節・千切レ砂食煎海鼠・千切レ蟲入干飽・藤海鼠・刻昆布・干海老・五倍子・椎茸・干瀬貝・寒天・樟脳・いたら貝・獭皮・御種人参・會津・雲州和人参・銅器物・流金道具・蒔會小間物・呉服、其外樽物等を諸色と唱、唐人共買渡申候、則壱船當時買渡平均六拾三貫六百目程之積り、壹ケ年拾艘六百三拾六貫目程、出帆之時々荷造仕、唐人相好候品々買渡候儀二御座候。53)
※31 松浦章「江戸時代に長崎から中国へ輸出された乾物海産物」
※ 53)『長崎県史史科編第四』41頁。

 鰹節が、中国への輸出品になっていたのは、琉球に多量に流入し、現在も「味くーたー」な食文化に影を落としていることでもかなり確からしい。
 下記画像は文政年間(1884~)のものとされる鰹節名産地の番付表ですけど、土佐と薩摩は圧倒的です。

「諸国鰹節番付表」は「土州」(土佐)だらけ 

 ただ──どの史料を見ても、なぜか中国輸出の諸色としてはそれほどメインになった形跡はありません。
 江戸期のこれほどの土佐の鰹節興隆に対し、海外輸出に名を連ねないということは、やはり鰹節は国内、主として大阪方面へ流れていたと考えるべきです。
 経済の自然な発想からすると、東シナの向こうの海外の需要より紀伊水道を隔てただけの大阪の需要の方が強い引力を持っていた──ということなのでしょうか。ただ、それを覆して利潤の大きい国際交易に特化させるだけの統制力や政治力、起業力や冒険心を、当時の土佐は持たなかった、という点もまた事実でしょう。同じ鰹節を琉球は進貢品にしているわけですし、元々俵物三品だって臨時登板で交易品に担ぎ上げられた珍品だったわけですから。
 買い手がある以上何でもいい訳ではないけれど、交易利益を追及する執念があれば何かしら輸出品は作れる。福建の織物もそうですし、薩摩の硫黄もしかり。土佐の珊瑚や鰹節が対中交易品にならなかったのは、近畿の経済圏に組み込まれて、交易品を開発しようとする地域の自律的な起業的発想が弱かった事実を示唆します。
唐人駄場遺跡→土佐清水市のプロモーション用ドローン撮影動画掲載サイト

[論点8及び結論]「唐人」「唐船」感覚と異種認識

 高知県土佐清水市、足摺岬の山の中に不思議な巨石群が林立する「唐人駄場遺跡」があります。唐人とは異人、駄場とは平らな場所という意味だそうで、付近からは縄文~弥生時代の石器や土器などが多数出土しています。
フランス、ブルターニュ地方のカルナック巨石群の様な世界最大級のストーンサークルもあったそうですが、残念なことに埋め戻されたり運ばれたりしてしまい、現在は唐人駄場公園となっています。公園内には巨大サークルの一部が残されており、カルナック石群と同じ並び方の列石を見ることができます。
山の中の巨石の大きなものは6~7mもあり(略)
※32 謎の縄文巨石群!高知足摺のパワースポット「唐人駄場遺跡」 | 高知県 | LINEトラベルjp 旅行ガイド※ 位置→GM.

 この遺跡こそ太古の渡来人の証明だ!──とは流石に言おうと思ってません。
 触れておきたいのは、この用語感覚です。
 各史料に書かれる外国籍の船舶や渡来人の表現が、凄く固い。マニラ船も琉球船も構わず「唐船」「唐人」と書かれてます。土佐清水市史の同見解を既に先述(→唐船)したけれど、「中国人かどうかに関わらず近畿も琉球も『異人』と呼ぶ」という記述があちこちにあります。

自然、唐人共腹立様二仕候而ハ、いか様之儀も可御座候哉
※ 後掲小野1968
※原典:高知県立図書館 元和二年六月一四日 山内吉兵衛発 生駒木工宛書簡 元和二年=1616年

 また、土佐では何と江戸初期から「黒船」という言葉も使われてたらしい。

恐言上仕候、黒船かぴたん御目見ニ参上申候
※後掲小野1968
※原典:同元和二年六月一九日同者間 (再掲)元和二年=1616年

 もちろん断片なので決め付けにくいんですけど──どうも、外部から来た人間を一括して「外人」と呼ぶような、浅い、というか外部の深い理解を自ら遮断するような拒絶感覚を感じます。
 人類学的な異文化理解としてこの姿勢は明らかに失格で、逆に「外人」理解がA人とB人とに分節化されていかないと人類学の視点は持てません。つまり他者概念の細分化過程がまさしく異文化理解であるわけですけど──当然ながら、対外交易の場面ではこれはより一層必須です。商品MがA人に百で売れたけれど、別文化に属するB人は十でしか買わない、という「価値の落差」を利用するのが貿易という行為です。
 そもそも、この辺りの経済感覚の基本認知からして、江戸期以前の土佐は「異人」との交易は成立し得るような風土とはとても思えないのです。

8-1 能地・二窓の移住しなかった土佐

 以上の心性は、他者認識の未発達という側面だけでなく、自己認識の硬直性という側面でも捉えることができそうです。
 次の3画像は広島県教委が「家船民俗資料緊急調査報告書」(1970)(33)の中で、能地・二窓(現・広島県三原市)の海人が移住・居留した土地を地図に落としたものです。(具体的には善行寺の過去帳に掲載されている移住・出漁先の字名をプロット)
 南方面が、豊後水道では大分県都留、和歌山県雑賀崎でバサッと途絶えてます。
※ m19Pm第三十五波mm忠海二窓&幸崎能地(上)/(再掲)(漳州)m龍眼营再訪

能地・二窓移住居留地図(西半分:広島県以西)
能地・二窓移住居留地図(東半分:岡山県以東)
同アップ 最西・東・南の移住村
(最西:現福岡県小倉平松 最南:現大分県臼杵都留 最東:現和歌山県雑賀崎)

 なぜなのか?という点は今も謎ですけど──結果として、瀬戸内海のような陸民と海民が混交する生活圏は、豊後水道と紀伊水道以南には形成されなかった、と考えられます。
 同様に、南の琉球方面の海民も山川(→m17dm第十七波余波mm山川withCOVID/鹿児島県)や鹿児島市にその痕跡が認められるような集落を成しました。彼ら琉球人も、幡多や土佐清水に逗留し、墓も残したけれど、恒常的な集落の痕跡はない。逗留記録から考えてそういう場所が存在したとは到底思えません。
(再掲)倭寇根拠地エリアと中村の位置

 陸民のみが居住するフラットな社会が維持され、異種を拒んでいる。
 もちろんそれは理念型です。そのような完全な閉鎖社会は継続し得ない。なぜなら、均一化の社会的引力は必ずその体内から異種を造り出し、その要素を異種と社会的に認知することでさらに過剰に均一化する。けれども完全な均一社会にはインセンティブが完全に無くなるからです。
 その異種が居住地を固定していれば、いわゆる奴隷や賤民、悪党と呼ばれるのでしょうけれど、彼らの側も継続的に必要とされるわけだから、底辺そのままの位置では存続のインセンティブが維持されない。
 だから、異種は移動する。
 人間は生存の装置として集団を社会に転じてるわけで、通常、社会間を移動する事は生存を危うくする。けれども一定の成熟をみた社会の経済同士が一定の密度で隣り合い、間社会的な経済が求められるようになると、移動する異種がそこから継続的に収益を得、職業とするようになる。
 それが交易民の位置だと考えます。──近世以前にはそうした移動をしやすい地理は海・川・湖など水域だったので、彼らは海民とほぼ重なります。
 能地・二窓の海民の移住は、そうした間社会的経済の存在するエリアの縁で止まっているのだと思う。江戸期の土佐にはまだそれが形成されておらず、当然交易の発想を欠いた。──これも理念型ですけど、そういうイメージで理解できると思います。

8-2 間社会的経済人としての海民

 まとめてみます。本「海域アジア」編で海民と呼んでいるのは、アジア海域の陸上諸文化の間社会的経済を担う準社会の構成員です。それを言い換えると、海民の定義は、①経済のネットワーク間の交易を②構成員がコモンセンスとして目的化する③政治・経済的に自律した準社会、と言えるでしょう。
 近世までのアジアの場合に、海がそのインフラとして最適だったから海民なのですけど、機能的には「間社会的異種」とでも呼んでおきましょう。
 一つずつ押さえます。
①彼らはネットワークの上に存在します。二つの社会・経済の間の橋桁又は中継地である場合、両者の片方の需給が途切れ、あるいはその間の線を切断する政治力が働くなどの変動に対し、脆い。元々、間社会的異種の位置は不安定なわけで、定まった品を何百年も、どの社会からも合法と見なされた状態で交換し続けることなどできない以上、ネットワークの上で絶えず変態し続ける必要があります。──土佐は、中国・琉球・薩摩と大阪・堺を結ぶ単線の位置しか取れない、つまりネットワークを形成し得ない不幸な地理的条件下でした。
②華僑や瀬戸内海民は、アメリカに渡った清教徒のように移民を「使命」とした訳ではありません。前者は同族幇のネゴ、後者は伝来の漁業技術ゆえに、移住を生業獲得に有利な投資として選んだだけです。薩摩や琉球の場合のように、政治機構が公式に交易を政治目的とすることもあります。だからその契機はかなり多様ですし、その結果が交易という生業とも限りません。
 間社会的な立ち位置を自律的に選んだ集団が、海民です。──土佐への「異国」船来航時期は、一条氏時代にしても秀吉-家康期にしても地方の統治者側がそんな選択を毅然としてできない複雑な政治風景下で、かつ交易志向も形成されておらず、誰も間社会にはみ出そうとしなかった。江口市左衛門のような個人レベルの「変人」しかそんな選択はしなかったのです。

③間社会的、という立場は複数の社会に「端子」を有するわけです。狭義の海民とは、端子からある程度独立した「つなぎ」集団=準(間)社会を指します。けれど、その端子が商人であり、しかも海商として長けている場合、「運び屋」など間社会的な存在の助けなしに端子自体同士、あるいは端子の一方が直接に交易をしてしまう。これも、即ち陸人が間社会へ突出して海民化した状態で、広義の海民です。
 薩摩の調所広郷が行った選択は、まさにそれと言えましょう。
 南海路の場合、片方の端子として、中世にも近世にも大阪・堺の海商(端子)がその強大な資本力で海路を支配しました。土佐はもう片方又は仲介港でしかなく、漁業生活者や(四万十川の木材運搬業など)内水航行者はいても、彼らは海民として間社会化することはありませんでした。
 以上が、土佐幡多に海民の姿を求めた「失敗」の論考です。