※本歌∶ひる返る空に身をなぐ鯨波 (山野尚)
[島唄まれまれ/2022.1月の奄美特選俳句五選]
[前日日計]
支出1300/収入1300
▼13.0[243]
/負債 0
[前日累計]
利益 -/負債 352
五月四日(三祝)
0700(喜界町蒲原)旬菜きずな
ふくれかん250
1211ファミリーレストラン珊瑚
チキン南蛮650
2000Acoopもう一種のよもぎもち250
キビナゴ南蛮漬け200
[前日日計]
支出1300/収入1350
▼13.0[244]
負債 50/
[前日累計]
利益 -/負債 302
五月五日(四祝)
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恐れていたことに。
0752ホテルの自転車は全台予約完売。空港店へ。
現在のとこ薄曇り。
0804空港へ。やはり15分強。静かな空港です。
チェックインカウンターではなく戸口の売店で借りろという。売店はシャッターが閉まってる。「本日午後は15∶00open」?「は」がどうでも読める文章です。「閉店時」とある電話番号が貼ってあるのでかけると,「今もう開いてると思うんですけど」とのご回答。事を荒立てず切る。やはり借りよう。開いてるはずの売店の開店を待つ。
空港の前には50台分ほどの駐車場。車で来たメガネのおばちゃんが「おおっスズメがぶつかってきた!」と大声で喜んでる。
0845らや到着の鹿児島からの便に向け,体温測定カメラの設置が始まってる。出発客も荷物を降ろし始めました。
0818開いた!
自転車は皆さん予約してるらしく,現在お姉様が在庫を確認中。
「今,タイヤとか確認に行きますから,ちょっと待ってて下さいね」というから危険な機体っぽいけど,怖そうなので2日半の全行程借りとく。2255円。
タバコを吸ってから,空港対面の置き場へ。仲里戦闘指揮所跡と書かれる標識。
かなり古そうね。タイヤに空気を入れてもらう。少し軋むけど回転はいいし,古い分車体はしっかりしてる感じ。前の荷物置きが台形にへしゃげてるので,へしゃげ号と命名。
0843出走。まずは時計回りです。
パン工房クロワッサン。「都合により本日は休ませて」とあるから明日は開くらしい。
0848ほっともっと。南の本道へ。
0851あましん──奄美信用組合喜界支店。アマミノクロウサギのゆるきゃら(→画像)。
エスペランサという店は廃業してるっぽい。
0857本屋。ブックス銀座。入って見る。
ゲゲッいきなり三冊も買ってしまった!結構な数,喜界島本は出てるんである。
0910再出走。
NTT東に変な森を見つける。回りを巡るけど何でもない。こういう場所が点在するのでしょうか。
ここの車道出口には石敢當。
0918赤連川。向こうに県立喜界高校。集落を過ぎて道が右へ湾曲。城久への三叉路を直進。
0924バス停・池治。あれ?ここのはずだけど?
周囲ぐるりを回ると東の山裾に──あった!
新しい。神体はまるで墓石そのもの?花の供えも全く同じなんである。
左手「建立紀念碑」の表記は
池治氏子崇敬者一同
土地改良地権者一同
東京池治会一同
大阪池治会一同
鹿児島池治会一同
平成二十一年十月完成
後ろにサンゴの石垣が回り込む。
左手に,甑島と全く同じ正面を遮り右へL字に折れる石垣。
周囲に祠はない。後ろの森は一応,神域でしょうか?
背後に森に入る門のような場所。両側の石が大きいから扉絵だったと思われる。でも中への道は草木で潰れてる。その木々の下に埋もれかけた小屋。コンクリも見える。社務所には見えないし,住人がいたんだろうか?だとすればここはイビではないことになる。
何だ?この取り合わせは?
隣にもコンクリ囲いの空き地があるから,土地改良で筆を整理した跡でしょうか?前の状態が全く読めません。
高度を知っておこうか。南へ進むことにする。0945
かなりキツい。道は複雑で未舗装道も交じる。0953でもここで下り?
イタチ殿が道を横切る。
ここからが緩いらしい。ただ上りは続く。鯉のぼりが泳いでるあの丘が城久か?その向こうの東側にもう一段高い丘が見える。
0958。
1011。ほぼ9合目。運び上げたらしい巨石が段々畑の基礎部にある。
1015東西道。まず左折東行。バス停城久。
1018城久遺跡群前畑遺跡。
「前畑遺跡空中写真(百合台を望む)」という写真。おそらくここから西方方向。
高台最後部の麓,いかにも古代人好みの場所です。ただでは丘上には何があったのか?
1029折返し。
1033西に眺望が開けた。こっちには大きな丘はない。ただ中央部には森。
トゥヌムトゥ公園。その先の……下った場所?鹿児島神社。
一棟貸しのログハウスのような建物。
入口に碑文。読めないが古そう。
石灯籠の裏に「文化十年酉三月吉日」の文字。ただどうも堀跡が新しく見え,これ自体は修復されたものか。
御祭神 天津日高彦穂々出見命(アマツヒダカヒコホホデノミコト)
由緒
「喜界島代官記」に「御八幡城久村に御取仕立之儀,元禄十年三月,大日本洛陽より御代官長谷場源助様御請下に而,宗廟ニ被為成請候由,島中尊敬仕居候」とあり,元禄十年三月島内の宗廟として創建され,八幡宮と称していた。
明治になり鹿児島神社と改称された。
訳がわからん。大日本の洛陽とは京都か?なぜ請いうけた?なぜいきなり宗廟ができる?なぜ突然,しかも島津侵略時でなく維新後に鹿児島名になる?
明らかに中世に遡るのにその痕跡がない。
背後に大樹。ガジュマルに見えるけどそれにしては高度がある。
樹下に,供え物はないけれど祭壇のようにも見える横長の石。沖縄ならこれがイビです。
自転車を止めた丘に「支那事変並國民精神総動員」紀念碑。昭13。
丘の上のサンゴ岩にも明治百年と彫り物。誰か国粋主義の人がいるんでしょか?
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