▼▲1251古島駅前で下車することに。▼▲
コインロッカーがあったので先にここを見ることに。──なければ一度県庁前へ動き,チェックインしてから出直す気でした。今日の天候が崩れるなら,歩きは早く済ませた方がいい。
おもろまちに向いて右手前,(有)沖縄電解水側に下りる。南行。
アクロスプラザの向こうを階段で西行。
完全無欠の新興住宅地。1310
杏屋から片側二車線車道。違法横断してMOSCAFE手前へ右折北西行。市民協働センタープラザにぶつかり左折。ドラッグイレブンの裏,すこやか薬局手前で右折。園地にぶつかり右折北行。変な石垣が見えてくる。園内に入っていくと──あった。伊是名殿内の墓。
伊是名殿内(いぜなどぅんち)の墓は,伊是名・伊平屋両島の総地頭家(上流士族),伊是名家の墓です。銘苅墓跡群の中にあって他の墓とは,その規模・造形などが大いに異なる亀甲墓です。
この墓は小高い山を三面に切り取り,その切り取った土で敷地を造成してつくられた,面積660m2の県内最大級の亀甲墓です。その規模・建築技術は沖縄県内の墓の中でも傑出したもので,道教(風水)の思想を基につくられています。
墓庭を囲む石垣には「相方積み」を用い,隅には突出した石「隅頭」(すみかしら)があり,上流士族の屋敷囲いの石積みを彷彿とさせます。入口には,本門と中門の2つの門があり,入口をクランク状につくることにより,ヤナカジ(悪い風)が直接墓本体に当たらない工夫が施されています。
中門を抜け墓庭に入ると,左手には葬儀に用いた用具等を処分するための,石を積んでつくられた穴があります。また,墓本体の正面右手には土地の神であるヒジャイ(后土神)を祀る祠が見られます。(略)〔案内板〕
1337正面図,平面図撮影
石積みは精緻
ただ墓地群は森に完全に埋もれてるらしい。上でゴルフの練習してるおじい一人。
一度上の車道に出て橋を渡る。橋──覗き込むと確かに小さな水流がある。
1349SAGAWAの手前の歩道へ右折。おばあが歩いてきたから抜けれはするんだろう。
柵で入れないけれど所々に構造物が見える。1353。コンクリートブロックもあるようだから戦後にはしばらく実用されてきた場所のはずです。
1355ヴィラアンソレイユ裏。シグルグカーの場所のはずだけど,何かおじいが来て般若心経を唱え始めました。
その祈りの方向にも特に何も見えはしない。「この辺の人はここの水にお世話になったからさあ」と語り始めたので適当に去る。
斜め方向から井戸らしい場所が見えたけれど……もちろん何の確証もない。1401
「花とみどり課」の看板。理由は書かずに「入ってはいけません」とだけ書いてある。それが正しい。
1409道路に出た。下の橋の向こうに「JIMMY’s」のオレンジ看板。
1420秀の窯パン工房
帰路のファミマから対面の高校のネットを見る。破れた箇所を丹念に裁縫してある。いつもここの十字路は通ってるのにな。
1507古島駅ホーム。足が鬼の金棒のようですなあ,ははははは。

この日はダウンした後,一度だけ何とかパレット久茂地の地下の食品売り場に行ってみました。よもぎの束があったので再度購入。
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■レポ:▼▲
「銘苅古墓群」が発見された現在の天久新都心は,1951(昭和26)年に米軍に接収され,主に米軍住宅施設として約30年余に亘り使用されていた地域でした。その後同地域は,1973・74(昭和48・49)年の日米安全保障協議委員会での返還合意に基づき214haにおよぶ広大な地域が返還されました。この地域は当時「天久解放地」と一般に呼ばれていました。
那覇市では,この広大な地域を市の新都心として開発するために「那覇新都心土地区画整理事業」を計画しました。一方,市教育委員会では同事業に先立ち,文化財課による埋蔵文化財の分布及び試掘調査を実施し,その結果を踏まえ1990(平成2)年から1999(平成11)年まで,10年間の長期に亘る本格的な発掘調査が実施されました。発掘調査の結果16ケ所の遺跡が天久地域から発見され,その中の一つが「銘苅古墓群」と呼ばれる遺跡です。
(略)発掘調査を終えた時点で最終的には両地区合わせて290基余りの古墓が発見されました。〔那覇市立壺屋焼物博物館〕
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Your article made me suddenly realize that I am writing a thesis on gate.io. After reading your article, I have a different way of thinking, thank you. However, I still have some doubts, can you help me? Thanks.