021-2矢ノ平稲荷(長崎)\長崎withCoV-XBB.1.16\長崎県

第二日

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朝六時の衝撃広告

ブレッド・ア・エスプレッソは7月下旬まで三週間近く夏休み。早起きしたのに朝をダラダラ過ごす。
崇福寺行きに乗れない??どんな俄観光ラッシュやねん?
蛍茶屋行にする。先に矢の平を回ろう。0957。

1010蛍茶屋電停付近

蛍茶屋から南へ入るのは初めてです。
愛宕への車道はこの先の三叉路から出るのか。
ad.中川一丁目11,中川交番隣から南へ。1010。日差しは凄まじい。
1012 中川向こうの崖の家並みを見る。

新しい住宅街。中川を渡る橋がない。
1017駐車場から川向こうの蔵を見る。

道なりに行くと小さな橋。桜橋,ad.中川一丁目4。渡る。1018
1019桜橋から山手

1020右手に川辺道

左手に好い川辺道が延びてるけど先に右手へ。勇壮な石垣,古い。ピンクのTシャツの原チャがバリバリと登る。
1021右手に石垣下の登道

1023矢の平二丁目自治会看板のT字路。左手に渓流と蝉がOTOをたてる。橋は矢ノ平橋。家は新しいけど道は古い。
矢ノ平橋から渓流上流

右手が25番横向地蔵堂でした。1026
「元気だ矢の平」の三番までの歌詞が張り出してある。
左手に水場と不動など三仏

入口右手に,これも不動明王か?左右に小さな仏,右手は三面仏。
本堂右手三仏

本堂右手に三仏。これは中程が小さい。
本殿中央三仏

中央は右から小中大。左の大仏は横を向いてる。
本堂中央仏具

仏具もえらく長く使われてるっぽい。建物も元々は石造りだったのではないか?今はコップや皿の各30程も入ったみずやがあるから,公民館でもあるのでしょう。
本堂左手にみずや二つ

地蔵なのに入口には般若心経が全文書いてある。御詠歌「法の船 入るか出るか(いるかいずるか)この津寺 迷う我が身を乗せて給えや」
そのまま西へ進んでみる。
その先にパティオのように道が広がったスペース。元々はここに集まった場所かもしれない。電停側を一枚。一つまとまった集落を思わせます。
直下が中川,前方は新中川町電停方向

二丁目自治会掲示板の右側に矢ノ平神社参道入口と表示。1051登る。
矢の平神社参道,一の鳥居前

枯れかけのアジサイと鳴滝方向の参道

鳥居とアジサイが見えた。ad.矢の平二丁目2。鳥居左手に元治二乙丑年表示の灯籠。でも隣はごみステーション。
一の鳥居すぐ内側の灯籠の元治二乙丑年表示

一の鳥居内側より

ad.矢の平二丁目1。両側に小さい水路,かなり古い道です。
矢の平二丁目1の静かな家並み

1104二の鳥居。二重,前面の石の鳥居には「稲荷大明神」,奥の木製鳥居には「矢の平神社」とある。なぜでしょう?
二重の二の鳥居

矢の平神社本殿

着いた。矢の平神社。1108
左手社務所。奥に一段高い台がある。大きさは建物跡に見えます。
左手の一段高い空地の台

沿革として

延宝元年(一六七三年),出来大工町乙名に住む若杉喜三太浄宜は,その先祖より邸内に安置していた稲荷大明神を伊良林次石に遷座なし祭った。この神社が,伊良林神社(現在の若宮神社)である。(略)
 享保十年五月十三日(一七二五年),若杉氏は御神璽を伊良林郷眞久保なる現在の地に移して社殿を建てた。此れ等の関係からこの地の人々は若杉稲荷と呼び,伊良林次石なる若宮神社と同一神社であると信じられている。〔案内板〕

本殿内部

本殿内部には左に太鼓。右に大きなつづら二つ。
神棚は閉まって見えない。
右手四基

本殿右手のやや広いスペースに,奉寄進碑のほか社四つ。手前は開け広げられがらんどう。左は塔。
右手二つ並びの祠

右の二つが並ぶ。最右のが祠,やはり中は空。左は岩。左右とも赤い鳥居を前にする。分からない祀り方です。
最奥「奉納大乗妙典」祠

奥に「奉納大乗妙典」とある石柱のある祠。
帰路の参道の先には山口整形外科。電車の走る音。
二の鳥居から左折西行。
矢の平下り道

1132。出た下り道を下る。ad.新中川町9
脇道から家屋を見上げる

くねる下り道

電停方向を見下ろす

下り道 横田内科方向

矢の平の家並みを見上げる。険しい傾斜面に並ぶ。

車道。ad.9のまま。少し左からさらに下る。1144
傾斜がなくなってきた細道群

1147電車道。ずっと見えてた真っ赤な「横田内科」の文字の手前がぴったり樹でした。ざぼん漬けと桃カステラ購入。
電車道が見えた。

陸橋の上を歩く鳩。そばを過ぎても全く逃げない。
1153新中川町電停に群れてるこのケバい女性集団は専門学校か何かの下校か?
岩屋橋まで電車で休む。

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