021-3西小島の丘(長崎)\長崎withCoV-XBB.1.16\長崎県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※唐人屋敷入口東〜中小島地蔵堂

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第二日

日の盛りの時間をふくの湯で過ごし,15時発のバスで下山する。

唐人屋敷入口東側の空地(‘23.7現在)

1544唐人屋敷入口
東側に空地が出来てた。高低差が分かりやすい。すぐ裏の小島側まで20m以上はある。
土神堂と「いわし」幟

1548土神堂前。
向かって右手,西に「いわし」の幟。
「福徳正神」幟を掲げる土神堂と「幽霊堂」

內部に問題の図が掲げてありました。正面参道を下がって右手に「幽霊堂」
幽霊堂位置の現況

その位置は丁度白いビニールシートで覆ってある。こっそりめくってももう草地があるばかり。1154
「いわし」のビルはやはり岩永ビルです。
岩永ビル

1158天后-観音のラインまで来た。左折東行。
5mで右に道?地図にはないけど右折南行10m,次いで左折東行。
あった。唐人屋敷時代の石積み。

唐人屋敷時代の石積み

ごく数mです。ただ左のコンクリの中から突き出している岩は,削らずに埋めてしまった岩壁の欠片と思われます。
にしてもこのラインとは──谷の半ばの緩斜面です。地勢的には如何にも頼りないように思えます。

「唐人屋敷時代の石積み」(南ライン)延長の光景

1610予定通りここから左折東行,階段を登る。
「唐人屋敷時代……」からの東行階段

枯れかけアジサイから振り返る

二本の南北道にぶつかった。前回,難東隅石を見た時は手前から来たはず。今回は奥に入ります。左折北行,1615
北へ折れる二本の道

北行の小径

北行の小径その2

北行路の家並の間から西を望む

1620。稲田町一之組親交会掲示板の角に出ました!ad.稲田町2,GM.ではヘアーサロン ペパーミントがヒットする。
ここに1869(明治2)年推定の写真が掲示してありました。確かに山の稜線はぴったりです。
※現地案内板にあるQR:長崎さるくQR
https://nagasaki-saruku.jp/06/
ただしこのURLには掲示画像(下記日下部金兵衛撮影写真)は掲示されていないので,下記画像下に長崎大学附属図書館のURLを添えます。

内部リンク→m142m第十四波mm唐館(出)/■史料紹介1:唐人屋敷焼失前の古写真3枚
▲①日下部金兵衛撮影「館内から出島を望む」(明治5~6年頃) 上図:全体 下図:左下部分拡大
※ 長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む | みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”
※ 長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース/詳細 | Old Japanese Photographs in Bakumatsu-Meiji Period/館内から出島を望む
原タイトル:Nagasaki Harbor
目録番号: 50
撮影者: 日下部 金兵衛
アルバム名: 日下部金兵衛アルバム (2)
同アングルでの現光景

仁田佐古小学校校門まで東行。右折南行,小島養成所方向
ad.稲田町12。この三叉路を細道へ左折だろう。1636

西小島の小径

西小島の小径の水神

1639ふいに水神。唐人屋敷方向を向く,と言えなくもないけど変な向きです。
この界隈にはえらく水神祠が目立ちました。
西小島の小径その2

西小島の小径が突然の下り道に

1644突然下り道になる。山の上にはヤタロウだから方向は崇福寺方向のはず。降りる。
日蓮宗本行寺と掲げてあるけど寺はどこにもない。
本行寺の看板だけが見える坂

ad.寄合町2,車道。中小島西部公民館の対面。1650
玉泉神社と公民館の間の小径を進んでみる。
1653玉泉神社と公民館

道が左に湾曲する地点から右へ階段を登る。1655
1656三叉路。右の階段を採る。

中小島1丁目西部自治会掲示板
1658平らな一角に出る。なぜかオートバイが多数停まる。

1700ジャスト,ad.中小島一丁目7。中小島地蔵堂へ出たぞ?なるほどそう繋がってるのか。
何度かこの地蔵堂へ至ったルートが繋がったような気がしました。
本日の中小島地蔵堂

でももうギブアップ,熱中症のなりかけです。下る。
それにしても猫が多い。影毎に別のが寝てる。
ベンチ下を渋々立ち退く白猫

今,中小島集会所の公園のベンチで休んでると,真後ろから白く膨れた猫が驚くでもなくノソノソと出ていったので、こっちがびっくりしたのでした。

へぽにハウスⅡと道に寝そべり当方を眺める黒白ぶちの猫

■レポ:西小島の丘のS字筆列▼▲

「西小島の丘」 ※矢印及び赤ラインは引用者

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