坂駅に降りて、まずは北側住宅エリアへ。お好きな方以外はあまり楽しめないので展開にしますけど……安芸郡坂町がかろうじて独立の町を維持している所以は、この住宅区画にあるわけで、その意味ではリアルな坂町の姿です。
坂町横浜
1011西行して、ad.坂町横浜中央一丁目6
坂郵便局から高架下をくぐる。方向は南西。
ad.三丁目1。左手に横浜若竹こども園。
ad.三丁目2で右折北西行。前方山手に高くまで続く墓地。
右手に横洲公園。家屋は一戸建てだけど道は乱れてきました。
1026ad.三丁目14で道が左に折れる。さらにすぐ右へ折れる。ここはそのまま細道へ直進、左へ折れて、すぐ右へ折れたまま南西行。1029
ad.三丁目16。海へ出る。1031。バス停・横浜中央三丁目。右手北西行。
南東岸が船着になってる。1034。
北西にはセメントサイロ。その北側がやや低い。1035
やや古い家屋が三軒。
右手に宝海寺。バス停・坂横浜港。
正面「酒米激安」表示の裏筋へ。1040
T字を左、すぐ右。ad.横浜西一丁目9。
1045住吉神社。南面、北へ階段。
住吉社
祭神 底筒之男命(そこつつのおのみこと) 中筒之男命(なかつつのおのみこと) 表筒之男命(うわつつのおのみこと)
祭日 3月第4土曜日
住吉社は、宝永7(1710)年に勧請し、はじめ今宮と称していましたが、文化3(1806)年現在地に移して社殿を改築し、今宮から住吉大明神と改名しました。
明治35(1902)年に初めて鳥居が建設され、その後大正3(1914)年に現社殿を再建の後、鯛尾地区の須崎大明神を合祀しました。この大正3(1914)年の社殿再建について「住吉社造営の縁起」によれば、
「今回の起工計画は住吉多年の宿題なりしが起工の期、熟せざりしも、昨大正2年の朝鮮鰯網豊漁なりし為、人気引立ち、立所に寄附金壱千弐百余円を醵集し建築に着手せしは本年1月にして3月12日賑々敷(にぎにぎしく) 上棟式を行い同月29日を以って特に挽船を出し、胡子神社に遷座中の神霊を迎え賑々敷……」
とあり地区住民をあげての造営であったことが伺えます。(略)
坂町教育委員会〔案内板〕
通る人通る人が拝んでいく。
樹下に屋根瓦8つ。形状は似る。この樹木そのものが、幹に雑草の茂みを作る古樹です。
本殿のしめ縄は右がぶった切、左が細いタイプ。内部には机二つと長椅子、祭事用でしょう。
本殿右奥に大正拾五年と記す奉献画像。大日本軍艦丹後と書かれるか。
裏手を含め従神祠無し。
狛犬裏に「横浜戸主会」の文字。
1113退去。
バス停に
ひき船
横浜地区の伝統文化である、ひき(曳、率)船は珍しい船形御輿で、1749年から坂八幡神社に奉納されており、その当時出稼ぎに行った漁民等が、堺住吉神社から伝えられたものとも言われています。(ママ)(略)「ひき船」は長さ約10m、重さ約700kg。豪華な飾りの船を若者約60人が大船頭、船頭補佐、小船頭の誘導で担ぎ(略)〔案内板〕
1138お好み焼き こいけ
うどん ホルモンのせ550

坂西山手
三河屋で休憩して1339再起動
とりあえずはB地点を目指す必要があったけれど──GM.では駅裏からの接続路はない。ただ地理院地図では抜けれるように書かれてます。そこでA1とA2を進入口に選んだんですけど──
坂駅から眺めるとA1は物凄い山道に見えます。A2を目指してみる。
南口広場から左手に東北行。坂町駐車場を過ぎた対面の……この道か?1342。
1347T字、これは右手へ南行。
かなり登ってコンクリ道。振り返り一枚。1352
東行。墓場。
この辺りがB地点らしい。
かつては田畑だったらしいコスモスの咲く谷が家の上手にあります。1359
これを降りてみるか?左手分岐を下る。1401
山道だったけどとにかく降りれました。にしてもコスモスだらけ!
この道の下側辺りにはかなり古くかつ不細工な石垣。
1414車道に出た。右折東南行。ad.坂西一丁目18。あれ?ここは前回の休憩場所か?
ここには灰皿(缶)があったので喫煙しつつ位置確認。GM.と地理院地図が違いすぎて比較できん。
1424東南へ。
サンスターホールが左手真横に見えました。
ナガヤベーカリー。D地点のはずです。右手に「ふるさと自然のみち 頭部ルート森条口」と矢印。でもこの道しかない。右折南行で登る。森浜住民協倉庫。すぐの三叉路を右へ。ad.坂西一丁目26。
1433三叉路。左へ。
え?分岐?おそらく右の等高線路でしょう。──途切れた。左の下り道へ。
1436
よし平らな道。おそらくC地点です。十字を東行しよう。
1444。エディオン坂店とバス停。車道を北北西へ進む。
1452姫宮神社もご参拝。案内では、「弘治2(1556)年に、与三左衛門が伊勢皇大神宮より分霊、奉戴し、坂西に構えた屋敷の隅に祠を建て祀ったのが、この社の始まりといわれています。」と奇妙な創始になってます。
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□付記:矢野八幡山▼▲
戦国期に当地は隣接する矢野の野間氏の支配下にあったが,弘治元年野間氏は毛利氏に滅ぼされ,その旧領は毛利氏の家臣に宛行われた。(略)永禄4年7月の大鳥居材木出所注文写によると,厳島社の大鳥居の用材として楠1本が「矢野坂八幡山」から切り出されており,坂は矢野に含まれていた(大願寺文書)。なお広島市矢野町との境に野間氏の支城茶臼城(高尾城)跡がある。
〔後掲角川日本地名大辞典/坂(中世)〕
矢野城は南北朝時代に熊谷蓮覚による築城と伝わります。その後は、1445(文安2)年入部の野間氏の支配が一世紀余続いてます〔後掲広島市文化財団〕。
矢野城の場所は矢野上登山口から平行距離620m、所要約30分。野間神社はさらに570m、30分。〔後掲安芸区スタイル〕
さらに、ここでの矢野城とは唯一県史跡になっているC郭群のみのことらしい。矢野城A郭群は、発喜山山頂部(→GM.、標高466m)にあり、即ち先の登山概要だと野間神社からさらに350m・10分。
つまりこの最高所から県史跡・矢野城にかけA-C郭群が並ぶ形の典型的な中世連携型山城です。
A郭群には郭四つ。背後の高所・絵下山山頂部からの尾根は堀切で分断。──現存はここが最高所ですけど、さらに上方、現在テレビ塔が建つ絵下山山頂に防衛思想上は郭があった必然性が高い。ただ塔建設時に調査されなかった、という疑いが強いようです。
B郭群の最高所に野間神社が建ちます。郭七つ。同様にA郭群間の尾根に堀切有。
なおB郭群から東斜面約20m下の小郭には、自然石利用の門跡らしき遺構が発見されています。
C郭群は郭五つ、やはりB郭群間の尾根を堀切で断つ。
野間氏家系由来書では上記の伝承及び家系図となっているが、伊予国にも野間氏がおり、この野間氏が北上して矢野に来住した可能性も指摘される。
具体的には、後世の「野間家系由緒書」は、清和源氏足助氏の子孫が、足利義満から重能が足利義政から尾張国野間荘を拝領して野間氏を名乗り、重能が足利義政から矢野を与えられて下向したと伝えられている。〔後掲山城攻城記〕
矢野野間氏が海賊衆的性格を有すること、有力家臣に伊予衆に出自をもつ末永氏がいること。
伊予国野間郡を名字とする伊予衆野間氏がいること。
南北朝期に伊予衆の越智姓の領主(重見氏か)の支配下にあった瀬戸(波多見)島に対して野間氏が執拗に領有権を主張して小早川氏と紛争を繰り返していたことなどをあわせ推察すれば、矢野野間氏が伊予国野間郡を本貫とする伊予衆であることは、まちがいないと思われる。
波多見島への介入は1421年野間一族である「公光」が小早川弘景に島を譲渡したことが記録されているので尾張から移動してきたことと整合性が合わなくなる。〔後掲山城攻城記〕
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