目録
❝1/5❞緑井▼▲
0832中緑井
フジグランを背に北上。
微高地になってる。西横の道も下ってるから、多分堤です。高さ2mほどか。
0839黄幡神社
東面。鳥居脇に横幅の石灯籠。狛犬は新しく相貌も端正。
下記由緒を記した鉄板がはめ込まれている切り株が平成15年3月まで立っていた銀杏のものらしい。してみると樹木信仰の度はあまり高くない。
(略)
御祭神 素戔嗚尊(すさのうのみこと) (相殿 観音像あり)
例祭 旧暦八月一八日(秋分の日)
(略)
由緒(略記:原文)
中組部落は、古より南西の安川と北東の古川に挟まれ度重なる洪水による氾濫原を形成、河道沿いに自然堤防が造られ北は中組から八敷、上組へと繋がり南は日吉、大下、中須へと土手が築かれた。
伝承によると寛政年間(1790年代)中組部落の旧家土井家の屋敷神として、屋敷内に小さい祠が祀られ、秋の収穫後、正月等多くの人が参詣するようになった。
文政八年(1825)乙酉歳八月吉祥日に部落の信仰神として、自然堤防近くの現在地に移され祠を西向きに建て、家内安全、五穀豊穣、水難鎮護を祈願した。(略)〔案内板〕
0856北行。
対面川沿い(ほぼ水無の谷状態)の緑井第五公園は黄幡公園と名付けられてます。ここから道は緩い下り。
あきたかた焼を名乗る「大人のお好み焼き」屋は10万食突破宣言。
0902緑井5丁目交差点で右折。
0907昭和大橋で古川を渡る。
0910酒のやまやのT字(川内5丁目15番交差点)を右折南行へ。
地名上はここが川内です。こちら東岸にもやはり2mほどの堤が南北に続き、この道がその上を通っている格好。
セブンで煙草休憩後、さらに南行。
バス停・セブンイレブン??
0921 山城珈琲
モーニング(デラックス BLT、珈琲)370
酸味のしっかり効いた珈琲でした。ただし朝はバーガーは食えないみたい。──と思ったら、バーガーのモーニングセットは別にあるらしい。まとめろ。
1002東対面の道へ。すぐad.川内五丁目35で右折、南行から東南行へ。不思議な湾曲ですけど……うーん、何てことない。
10085丁目34の交差点から高架下をくぐり南行。
出口を右折西へ、すぐ左折南へ。右手に細い水路。T字を右へ、すぐ左へ再び南行。何てことない住宅街だけど、このカギ折れの通りに水路が曲がってます。1015
時折旧家。なぜか畑地続く。1021振り返り一枚。
1923左手一枚。
ad.二丁目22。車道をまたぐと水路は暗渠に。さらに南行。
T字。この南が黄幡社の五角形筆。左折、時計回りに行く。1026
社は西の車道側でした。1029黄幡神社。
入口に「◯◯東◯井◯」とある石柱。
本殿はサッシ。六角形を三つ積んだ紋。
当社創建の時期は記述資料に乏しく不明であるが、安芸国守護[耳云]武田氏所属の川内衆水軍の総帥・福島大和守親長が古川の内堤防守護神として、北の庄堤防寄りに創設鎮座されたものと伝えられ、爾来「おんばんさん」と呼ばれ崇拝されてきた。〔案内板〕

随社なし。奥の社はやけに厳重に鍵がかけられてます。
迷ったけど南行。第2立山ビル前の中筋4丁目交差点で右折西行。また高架下をくくる。1046
小瀬大橋で古川を越える。1050
段差が多く複雑にアップダウンしてる。太田川が自然堤防を幾度も造っては壊ししたエリアらしい。
中須2丁目交差点で南へ左折、すぐ右折西行すると広島共立病院が見えた。ad.中須二丁目17
1100お好み焼き善さん
ねぎ大盛り(麺うどん・肉・玉・ねぎ盛り)550
なかなかガッツリ焼いてある。
中須二丁目12の立体交差(→GM.)を上がり南行。1148
安大橋を渡る。川面の幅5mほどか。ただ一級河川と表示。
アストラムライン古市駅を右に見て中須一丁目交差点を南へ。
車道右手西側、1mほど低い水路。幅2mと結構太くジグザグに折れて流れる。水路はすぐ左折、東へ離れる。1152
南行。左手に古市交番。右手にはこれも流れの跡に見える緑地が道際まで迫る。公園を抜けてみる。
──この安川緑道公園(→広島市祇園西公民館web情報ステーション/安川緑道を歩く)は中須一丁目付近の安川からの分岐(→GM.)から祇園一丁目付近(→GM.)まで続き、そこから先は何と川に戻って長束一丁目付近(→GM.)で太田川放水路に合流しています。この間約3km。
堤防跡らしき斜めの石垣が続く。1156
この北側基点・中須一丁目付近からの現・安川流路は、古川への人工の接続路らしい。
”安川緑道” は 1990年(平成2年)から8年間を要して、”安川” の流路変更工事によって廃川となった旧流路部分(旧安川)を、祇園 1丁目から中須1丁目までの約3キロを整備された遊歩道です。 〔後掲広島市祇園西公民館web情報ステーション〕
❝2/5❞あさひが丘▼▲
バス停・安佐南区福祉センター前から──びしゃもん台行きを二本やり過ごして──あさひが丘行きに……1224やっと乗車。15分遅れかよ……。あ、すぐにセブンがあったのね。灰皿もあったのね。スムージーもあったのね……。
このルートは乗ったことはない。
1235安小峠。アナウンスによると「やすこだお」と読むらしい。やや狭隘な眺めになってきました。郊外スーパーが連続。水路や石垣はやや古い。
1242安小学校前から上安駅。そうか、ここからアストラムで古市へ行けば早いのか。上安駅は駅地下のロータリーまで入ってくれます。乗降もかなりある。あさひが丘の車なしの住民は相当数がこのルートを使ってるのでしょう。
さてアストラムライン高架下から動物園下交差点で右折。1250
いよいよはっきりした登りになる。BS下萩原。傾斜面を団地が埋めるある意味広島らしい光景。時折段々畑の残骸のような一枚田。はっきり崩れた跡の残る谷。
BS荒谷。峠になりました。左手谷は意外に浅い。BS安佐動物公園で楽しげなチャイム鳴る。2500万人達成の看板。
下りになりBS「あさひが丘下」。13時を回る。再び少し登る。
ある意味壮観な土地です。
登る。BSあさひが丘中。ここから左の高みに折り返していく。割と古い店もあるなあ。水路も年季が入ってそう。
お好み焼きとコーヒーの店。
あさひが丘3番。バスの速度がものすごく遅くなりました。2番。カウントダウンみたいなバス停名です。運ちゃんも「2番でーす」。あさひが丘1番。ラーメンかよ。
1307BS県営あさひが丘住宅下車
❝3/5❞荒下▼▲
1407広島BT行乗車。これは流石に定刻通り。
さてさて本日はまだ第三段がご用意されております。明朝では時間的に間に合わない。
1442BS大町下車、JR大町駅へ。
空は曇天に転じました。とりあえずラッキー。
大町駅はJRとアストラムとBTが一緒になってる優れ者。どっちへ行くとどれなのか分かりにくいけどまあそもそもそんなに広い場所でもない。──ただホームが一つなので土地勘のない人は乗り間違いにご注意。ワシもあやうく間違いかけました。とほほ。
1508可部線乗車。

北部医療センター安佐市民病院の北側、終点安芸あめやま駅下車。1533
北にえらく高い丘陵があるような気がするけど、気のせいだと思う。
南へ。
西へ少しずつ曲がってバス停・荒下。間違えようがない。
変則四差路を南西へ。1542
1544荒下神社。
祭神:神倭伊波礼毘古命(神武天皇)
東征の際に、この地に舟を繋ぎ、居を定めたと伝わっています。その縁で創祀された神社です。かつては、太田川の川岸に社がありましたが、1815年に、現在地に遷座されました
ちなみに、荒人というのは、安佐郡亀山村時代まで使われていた地名です〔GM.コメント/SRさん〕
鳥居なし。周りの石もいわく有りげだけど読めない。
前殿に神体は無いらしい。奥殿はガッチリ閉まってて見えない。
昭和52年の奉寄進額がかかる。ここの背後二山が描かれる。
これと向かい合うように、つまり通常参拝者からは見えない方向に奉納歌が掲げてある。二番だけが辛うじて読める。「明治大正また昭和
思えば長い年でした」
背後にズルズルと音がする。アオダイショウが這っている。あわてて正面へ戻り一礼して去る。
正面右手の高みの札の文字も気になるけれど、ちょっと読めない。
変則四差路から北東へ、一つ目の左折路を北行。
ad.亀山南二丁目15。16時ちょうど。
やっぱり階段になりました。しかもこの一本階段、長崎もびっくりの容赦のなさです。
振り返ると微かに可部市街地が見えてます。
❝4/5❞虹山▼▲
1612階段上から右折北行、まだ登るのか??
ad.亀山南二丁目67
1616ad.72。公園。まだ登る?
茶色の鉄塔の向こうの三叉路がトップ。1619
❝5/5❞螺山下山▼▲
お好み焼きをスルーして亀山南四丁目27の公園脇から小径へ。1646
再び入った小径は登り……。
1651おそらく龍王神社。東面。注連縄が右ぶった切り型。
御神体の箱が半分開かれてる。中は木のレリーフ……蛇でしょうか?
背面に虹山下会館向こうの道を下る。1655
県警宿舎。
虹山団地下からのバスは少なく良いのはないので歩く。あと1kmほど、ここからは道なりに、しかも下りですから。
でも学生はこれをガンガン自転車で登ってくる。強くなるわな。
1712川を渡る。玄道橋交差点。
1719 Eclat見ゆ。
この北の辺りの路地は面白い。でも東は可部バイパスのラインでつと断ち切られてる感じです。
■レポ:虹山団地ラッシュの頃▼▲
「螺」の語義は──①つぶ。にし。にな。巻貝の総称。また、ほらがい。「螺鈿(ラデン)」 ②渦巻き形のもの。「螺旋」〔goo辞書/螺〕
山の名前に貝の漢字がなぜ使われるのか?山容や形状が巻き貝のようとも思えず、可部の螺山がなぜその名なのかはよく分かりません。
安佐北区可部町勝木にある独立峰。標高475m。山は古生層からなり巨石が多く,頂上からは可部町地区一帯や特に南を曲流しながら流れる太田川の眺望が良い。北麓の大毛寺は花崗岩になっていて緩斜面の発達が良く,大規模な住宅団地が広がっている。〔角川日本地名大辞典/螺山【にしやま】〕
昭和40年代になると、なだれをうったように不動産業者が入り込み、町内の土地に目をつけはじめた。(略)この頃すでに螺山山ろく一帯の山林地帯の大規模開発AB数社によって計画されつつあった。
ひうした状況の下で”将来のよりよい町づくり”の一環としても乱開発を防ぎ、秩序ある都市づくりの必要なことが町当局や議会の内部で論議されはじめた。
これに呼応して地元有志、土地所有者などもいち早く目を大局に注ぎ、開発するとすれば公共団体の手によるものの方が最も効果的である、という構想を立てた。
こうして40年2月には、地元の有志、地主等から県営団地を誘致してほしい、旨の陳情書を町当局へ提出した。
当時すでに県においても、大型住宅団地を計画、その位置を物色中であった。その頃名乗りをあげていたものに高陽、瀬野川、熊野に加えて可部があったが、可部町の強力な誘致熱意は圧虹山団地の一部倒的で、県当局も好意的であり、県も乗り気になってきた。〔後掲広島市亀山公民館〕

41年11月には地元を中心に「虹山団地建設委員会」が結成せられ、会長に町長山田保、推進委員に地元の森沢貫一ら15人が推進委員となった。
この外特別委員として亀山地区内の町議会議員全員がこれに加わった。
こうして地元からの誘致熱に対して、県当局も前向きに本格的検討を始めた。
以来、紆余曲折はあったものの、県住宅供給公社の手によって昭和43年10月着工、同45年6月に現在のものが完工した。〔後掲広島市亀山公民館〕
この団地の総面積は 46万1,700㎡(13万1,000坪)、(道路延長)1万2,340m、(幅12m=1,500m・同8m=1,120m・6m=2,570m・4m=7,150m)、(公園緑地)2万700㎡・排水溝4万7,000m・(汚水管1万m)、(総事業費)12億円を要したのである。
雑木と松林に過ぎなかった螺山山ろくは、この団地造成によってその様相を一変した。建設当時は、県営住宅としては県下団地の筆頭に挙げられ、話題をにぎわした。〔後掲広島市亀山公民館〕
昭和46年1月、新都市計画法に基く都市計画区域が設定され、さらに同年3月、同上の区域内に市街化区域、市街化調整区域がそれぞれ線引きの上、指定になった。(略) 可部町内の市街化区域として決定された区域は972ha、この内亀山地区のものは269haとなった。亀山地区の都市計画区域は大字四日市、大毛寺の全区域、それに大字勝木の内(略)が入った。
大字大毛寺は、その全域が入った。このため従来虹山山ろくにあった山林地域の全部が入り、宅地開発は急進展した。
すでに開発中であった、県営住宅虹山団地がその中心となり、周辺山林の宅地化も又これに呼応して積極化した。
県営住宅虹山団地を筆頭に、その下方両延神社の南側、四日市、河戸、さらに東側福王寺山ろく一帯、恵坂峠を越えて下行森まで大小の団地が、県、市、あるいは民間の手によって開発された。〔後掲広島市亀山公民館〕
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