パティオ対面、西側に池。北側は錦田水尾村村公所。
▼▲この背後の建物が天后でした。▼▲上は「天后古廟」。右聯「天佑我邦」左聯「后澤黎民」
新しい。
左手は福徳。貫禄ある笑みのオヤジ顔。ただ祠は古い。
中央天后。右聯「天后有靈庇佑黎民隆祀典」左聯「古廟重光神宮煥綵耀萬年」
右は子を抱く「黎群普恵」?右聯「普見人間歌聖母」左聯「恵従天上下麟児」
──キリスト教っぽい。何の神でしょう?
あと、対聯五つが段差を成している。これは左壁もです。
聖母殿背後、つまり門の右に「藉福」という男神。右壁「水德参天」右聯「康德巍峨扶稷」左聯「王恩浩蕩佑黎明」左壁「坤儀配地」
この建物は本殿と離れ、その間には空。つまり三進になりかけた状態の建物です。また、正面の門が閉まって沖縄的な衝立になってます。
天井部に「福蔭子孫」の文字。
再び小雨。
トイレを探してたらもう一つ祠。文字のみ。
右から
「出入皆為富豪客」
「護 「本郷社稷大王」
佑」「本郷土地福神」
「往来都是壽星公」
トイレは公所で貸して頂けました。
1357バス道の延長を南西へたどってみる。「樹屋」という矢印があるからとりあえずこれを辿る。
公園の奥のこの大ガジュマルらしい。錦田樹屋。
(略)據説、樹屋原址一間天后廟(有稱乃一書齋)、其主人因清初遷界的縁故、離開錦田、従此一去不回。(略)〔案内板〕
ホントに樹根の間に煉瓦が見えます。
自転車が走った。抜けれるらしい。1409真っ直ぐ奥屋の間へ。
凄い集落です。先の樹屋じゃないけど蔦に食われかかってる。
1417T字。長春園とある建物。右聯「長守中原舊」左聯「春囬大陸新」
ここの屋根の形。あれは何とかという古いタイプではなかったか?
右側、多分西側に洪聖宮の文字。金柵で入れないけど本殿が見える。
すると?この左右(南北)の古屋は?
右手に南が「廣愉鄧公祠」でした。右聯「南陽世澤」左聯「税院家聲」
入ってみる。
正面に神殿はなく文字の位牌のみ。
三進中庭青天井。1428左屋の祠。
1429右屋の祠。
本殿左手に山車らしきもの。
本殿には「來成堂」の文字。
入口左手脇に小さな福徳正神祠。1435
え?左側三進屋も「清楽鄧公祠」
右聯左聯とも先と同じでした。ただこちらは門が閉まってます。
1442東のバス道へ。
永盛士多。1456
1458ガジュマル下のバス停で待つ。
錦上路站に着いてしまいました。まあいいか。乗る。1509
1601機利文新街
白牡丹半斤
見つかりました!ここが見つかったら食べる
1614三多麺食
魚片麺250
おい!かまぼこじゃねーか!しかもかまぼこだらけで麺見えんじゃねーか!
最初の頃惚れ抜いた広東卵縮れ麺です。
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■レポ:▼▲
錦田由鄧氏建鄉,先建有北圍(水尾村) 和南圍 (水頭村),其後人擴展至其他圍村,亦有鄧氏分支至大埔頭、粉嶺和屏山鄉。元朗居民一直這樣說,從雞公山上看到的土地,都是鄧氏所有。
另外有一個傳說,是光宗皇帝曾經御賜錦田鄧氏一頭木鵝放在錦田河上,隨木鵝流經的地方,皆屬於鄧氏族人。
事實上不止如此,從鄧氏一份處稅記錄中可以追蹤到鄧氏擁有的土地曾經遍及香港島、黃泥涌、薄扶林等地,甚至青衣島,所以鄧氏貴為香港新界五大氏族之首,富甲一方,擁有良田萬畝,而向朝廷上繳稅項亦為重要,是族人土地擁有權的証據。〔後掲跑遊元朗錦田鄉 (5) 〕
錦田原名岑田,因為這個地方原本有岑氏鄉民居住(現時在祠堂村中仍然有岑姓居民),早於北宋初期,江西藉吉水白沙村之鄧漢黻,在廣東任承務郎之官職,於太祖開寶六年 (公元973年) 遷居錦田。〔後掲跑遊元朗錦田鄉 (5) 〕
《新安縣志》中亦記載了鄧符協於北宋熙寧二年 (1069) 考中進士後,授陽春縣令 (現廣東省西南陽江市內) ,鄧符協乘船至屯門港時,望見青山與大頭山兩峰的山勢,於是在元朗尋龍追脈。(略)
(玉女拜堂)
鄧符協精通風水,先後尋得「玉女拜堂」、「仙人大座」、「半月照潭」(荃灣灣柴灣角)、「金鐘覆火」(山貝) 四個美穴,加上岑田平原景緻,於是遷居錦田開基立業,而這四個名穴成為了鄧氏一世祖鄧漢敝至四世祖鄧符協的祖墳 ( 正在桂角山的山腳就有另一個名穴「鐵鑪墳」)。新界大氏族都擁有著名的風水墓穴,把先祖埋葬於風水穴中,可以福澤後人。〔後掲跑遊元朗錦田鄉 (5) 〕
錦田鄧氏後人在明成化年間(1465-1487年) 繁衍開枝,增建錦田六圍,包括吉慶圍、永隆圍、泰康圍等,而當時錦田等地還是叫「岑田」。
於明萬曆十五年(1587),新安縣發生旱災饑荒成災,知縣邱體乾傾盡縣府官倉仍然不能解困,唯有向鄉伸籌款賑災,當時錦田水尾村的鄧元勳慷慨捐穀十二萬斤賑災。
邱體乾感激之餘,親自率船到岑田鄉取糧及答謝,他看到岑田「地皆膏腴,正錦繡之鄉村也」,自此岑田鄉名為錦田。〔後掲跑遊元朗錦田鄉 (5) 〕
水尾村 297 號 從水頭路直入,第一幢是水尾村清樂鄧公祠,於明朝弘治期間 (約1490) 為紀念鄧欽長子鄧清樂 (十七世祖) 而興建。 清樂鄧公祠屬於三進形式,由於祠堂四周空曠,突顯出建築物之宏偉規模。祠堂不予開放,在門前可以窺看到中廳內的「思成堂」匾額,這是清朝進士初彭齡於乾隆五十九年 (1794) 所書。〔後掲跑遊元朗錦田鄉 (5) 〕
堂聯中「南陽世澤」指鄧氏郡望南陽,於商朝時期 (公元前 1350) 商王武丁之子「曼姓」於南陽被受封於「鄧國」,國人以國名為姓,故此鄧氏一系源出於南陽,以南陽為郡。〔後掲跑遊元朗錦田鄉 (5) 〕
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