027-02 我的「歴史の見える丘」2警固屋黄幡\呉市\広島県

※テーマソング コトリンゴ「戦艦大和」

戦艦大和〔映画「この世界の片隅に」〕

20260131警固屋行
三河屋咖啡で時間調整。
1023 バス停・中通一丁目から1-1乗車。倉橋行きと表示。確か児扶手滞納者の訪問に一度検討した路線。
下車は鍋桟橋(上站∶大正橋)。
寒い。
バス停・総監部前。部署名か。
バス停・子規句碑前。早口言葉か。
1035潜水隊前。部隊名か。てゆーかホントに潜水艦が数隻浮いとる。本物かい。
だし道楽前から東方

1040 だし道楽 警固屋店
細肉かすうどん 400
開店十分で、結構混んでる。
ホントに旨い!

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
∶だし道楽警固屋店〜的場四丁目黄幡社

1105東行。鍋桟橋跡の石柱の前に「なべ」と書かれたタクシー。南対面がバス停・鍋桟橋。ここから東に警固屋交番を挟み、神社?
社名なし。
鐘楼と墓の崖下T字を左へ。1108
これが国道487なのか?呉警固屋郵便局。
その前、警固屋4丁目11番と表示の十字を右折南東行。これがGM.上の鍋小学校入口交差点でしょう。1111

1113警固屋4丁目11番から東行、南崖上満行寺を振り返る

1112斜め後方崖上を振り返り一枚
左手に宇佐神社。というかこの道はここまでは基本的に宇佐神社参道らしい。ただし曲がらず南東へ。1115
1114宇佐神社参道口からさらに東行登る

1117警固屋4丁目14付近

1117ad.警固屋4丁目14
1118同脇手等高線ラインを見る。

1118登り道

郭のような野積の石垣と横道が鱗のように続く。下界に選挙カーがわめいてる声。
1119右手脇道を行く人

右手に古びた大きな建物
1121第七区自治会館と時計

1121第七区自治会館に新しい壁掛け時計。
1122黄幡社(左手横向き)が見えた

目的地・黄幡社は非常に小さかった。1123
1124左・黄幡社と右・防火水そう

隣に防火水そう。
北朝南面。注連縄はぶった切りではなく両締まり。神殿は閉まってる。
1126黄幡社社前から下界造船設備の茶褐色

下の路地から北東隣の坂道に出れないか?1128右折北行
1129右折北行路へ

──後で知ったけどこの道から黄幡社側は字名が異なる。的場四丁目(→GM.)になるようです。
掲示板のあるT字?左折。
1131T字のトキワサンザシから北方斜面

中◯電力、電線綺麗にしたれよ、な蔦だらけな電線下。1133
蔦だらけな電線下

1134多分宇佐神社上手の小公園・警固屋4丁目公園。さっき声かけて行った赤セーターのおばあちゃんがいる。

1137宇佐神社正殿を南正面から

山崎さんによると、海軍工廠で働いていた鍋の人は、よごろ(引用者注∶宇佐神社の祭り、通称「鍋の祭り」)の前日は仕事をさぼり、祭りの準備に勤しむ人が少なくなったとのこと。
あの当時、警固屋地区の住民の多くは海軍工廠の従業員で、「職工の町」と呼ばれていただけに*11、その影響は無視し難く、工廠から補導班が出動し、彼らを連れて帰っていたそうです。
一方、彼らとてそう易々と捕まるわけにもいかず、補導班に見つかると一斉に逃げ散っていたとか。〔後掲呉のやぶ〕

※原注11 警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。
昭和39年のよごろの日に撮られたもの〔後掲呉のやぶ〕

「講和発効記念」奉寄進板

これも北朝南面。舞台正面に「講和発効記念」「昭和二十九年九月吉日」の奉寄進板。
本殿裏の崖下の国道

正殿裏は崖、崖下を国道。
向かって右に小社。1143。社名はないけれど結構厳重に祀られてます。方向は本殿と同じ。右手前に大木の切り株。
正面社殿修復記念額と左手明治百年額

さっきの講和発効奉寄進の左手に「社殿修復記念」「平成五年七月吉日」の奉納として桟橋の巌が書かれた画。元の鍋桟橋の画でしょうか?さらに左には明治百年記念の画に明治帝が描かれてる。
「絵馬は埋め立て前のなべ小島」

分かった。下に消えかかった文字で「絵馬は埋め立て前のなべ小島」と記されてました。
下山。正面入口に案内板。御祭神は品陀和氣命(應神天皇)、息長帯比賣命(神功皇后)、玉依昆賣命(神武天皇の御母)

創立年代不詳なるも大治二年、建久九年、天正四年に再営(改築)と云い永萬元年瀬戸開基平清盛此地に安在此神社深く信仰とある〔案内板〕

右手に伏見稲荷。皇紀二千六百年「敬神」石碑の裏。

皇紀二千六百年「敬神」石碑の裏の「聖業完遂」

日本中望みを赤羅様にして
日本中傷付き挫けた日がある
だから話したがらない誰も話したがらない
たまに虚像の世界を飛びたいだけ
右聯「神威光赫照四海」左聯「皇德深厚敷八紘」
左聯「皇德深厚敷八紘」

鍋桟橋跡∶明治43年(1910)に架設され、終戦までは海軍工廠に通勤する工員などの利用者で賑わった桟橋の跡。利用者の減少や老朽化のため、昭和48年(1973)に廃止された。昭和63年(1988)に埋め立てられたが、当時の桟橋繋留チェーンと岸壁の石垣が残っており、記念の石碑が建てられている。〔後掲音戸の瀬戸〕

7月24日と7月28日の呉沖海空戦では、もはや燃料もなく呉軍港内外に防空砲台として停泊していた海軍の残存艦船15隻が攻撃の対象となりました。
その際、鍋沖に繫留されていた巡洋艦青葉に対する熾烈な銃爆撃と青葉乗組員による必死の反撃によって、警固屋地区の海岸そのものが戦場と化し、とりわけ舞々尻以南は甚大な被害を受けました*19。〔後掲呉のやぶ〕

※原注19 空襲による警固屋の被害状況については、下記を参考に記述。 警固屋歴史研究会編(2003)『警固屋の歴史』。

戦艦大和〔映画「この世界の片隅に」〕

▼▲

〉〉〉〉〉参考資料 

(おんど)音戸の瀬戸 鍋桟橋跡 | 音戸の瀬戸 ~平清盛 日招き伝説の地~
URL:https://x.gd/zg4t7 (短縮)
(くれの)呉のやぶ 昔の祭り(宇佐神社編)
URL:https://kureyabu.hatenablog.com/entry/2017/09/16/065731
▼▲参考資料▼▲