喩的転換@ことばぐすい

背広を着て帽子をかぶれば見分けはつかないでしょう。旧人には彼らの言語があり、社会構造がありました。立派な狩猟道具も作り、集団で狩りをおこなっていました。しかしただ一点だけ、旧人と新人の間には重要な違いがありました。

目録

芸術と宗教

この二つのことを、旧人はおこなわなかった

のです。


統辞構造(横軸)だけでできた言語に「喩の構造」という縦軸

が組み込まれ、

言語が立体的な構造をもつ

ようになったとき、はじめて芸術と宗教の思考が生まれてきます。そのときまっさきに人類の前に出現したのが、詩でした。


言語の統辞構造のなかに、意味の空間のなかを横っ飛びしたり、ジャンプしたり、スライドしていって、よく似た仲間を「喩」の仲間として発見し、腕をつかんで引っ張り寄せるよう「喩の構造」が組み込まれたとき、

驚くほど自由な空間

が人類の心の内部に開かれます。


同じ考えを仏教が説いています。「法(ダルマ)」の与える拘束にしたがって身を律していくとき、はじめて心のなかに絶対自由の空間が開かれる。これは仏教のもっとも重視する教えです。
仏教は

自由と拘束が一体

であることを説きますが、定型詩は言語の領域でそのことを理解してきました。
その意味では、仏教の教えは詩の原理そのものでもあります。とくに実践仏教である禅で強調されるのは、外へ向かう心を閉じて、

内的空間を開くことの重要

さです。


ギリシャ人は、言葉にはロゴスが宿っていると考えました。ロゴスとは、「目の前に秩序立てて並べる」というのがもともとの意味でした。
世界で起きる

混乱した出来事を目の前に順番立てて並べること、これがロゴスの意味

です。統辞法を備えた人間の言語には、それができるのです。ロゴスによってわれわれは世界に起きていることを表現することができます。もっと正確に言うと、

世界でおこっていることと、言語で言われたことの間に、対応関係がつけられます。

そのために私たちは言語で言われたことのなかに、現実的な事実が含まれていることを信じています。


「象徴の森」のなかでは、事物は時間軸に沿って並んでいません。最初に発せられる音が、最後に発せられる音につながっており、部分と部分はいく本もの「ニューロン」でつながりあっています。最初の音が発せられると、それはただちに空間全体に響き合っていきます。そのため

詩を理解する時には、言語の統辞構造が時間軸に沿って広げたものを、内部に引っ張り戻して、全体と響き合わせる必要があります。

そのときに初めて詩を読んだという感動が起こります。これは音楽も全く同じです。音楽の最初の音と最後の音は響き合っています。ですから最初に奏でられた音の意味を完全に理解するためには、最後の音まで聞き取って、心のなかでそれらの音を重ね合わせた時に、はじめて音楽が理解できるようになります。
人類の脳には、ロゴスによって世界を整理し、秩序づけるという能力が生まれました。言語がそのロゴスのいちばんの支えとなっています。詩はその言語からつくられるものです。しかし詩は、その言語を利用してロゴスとは違う空間を「象徴の森」としてつくろうとしてきました。そういう能力をもった人類として、私たちはつくられました、ですから

私たちの本質はロゴスと、ロゴスを超えるもう一つの能力との合体としてつくられている

のです。


ゆく春や鳥啼魚の目は泪

この芭蕉の有名な句で、詩を詠んでいる「私」は空を行く「鳥」や水中にいる「魚」と相為相関のつながりのなかにあって、ひとつの共鳴する空間を形成しています。その空間が全体で、「春」の去っていく頃を惜しんで、嗚咽し、涙し、激しく慟哭しています。この俳句をロゴスだけで理解することは不可能です。ここではレンマが最大限の能力を発揮しています。


それは

「執着」を捨てる生き方

を求めるでしょう。なにかに執着すると,事物のほんとうの姿が見えなくなります。

事物のほんとうの姿は,対象のそのもののうちに見出だされるのではなく,それを喩的に転換したところにしかあらわれてきません。

そのためには,切れていなければなりません。


喩的生存

」が頼みにするのは,場所のなかで得られるポジションではなく,

大地から生い出た一本の木のように

,空間の広がりを生まない宇宙のなかの「特異点」でなければならない。


芭蕉はそのように生きた偉大な旅人でした。そして,広がりを持った場所ではなく,宇宙のなかの特異点のような

樹木の影だけを頼りに

生きようとしました。


鎌倉を生きて出でけむ初鰹


私は万葉集から古今集へ,西行から連歌へ,そして芭蕉の俳句へと発展をとげていった日本人の詩歌の歴史のなかに,一つの大きな思想的課題が力強く展開成長していく様子を見るのです。その思想が力強いのは,主題を据えている場所が人間の心=脳の構造にあるからだと思います。その

深い普遍的な場所で,日本人の詩歌は仏教思想に出会う

ことになりました。


古池や蛙飛こむ水の音

ここには切断による連続の生成,宇宙的な特異点の発生,無執着な生存,などという俳句と仏教に通底する思想的主題のすべてが語りつくされています。


私はそれを「

流動的知性

」などと呼んでいますが,脳の中に流動的知性が発生すると,今まで分かれていたジャンル同士をつないでいく精神の運動がおこります。その能力が発生した瞬間に,根源的なアニミズムが同時に発生するのです。

アニミズムは個物を相互貫入させる力の流れへの直感

にほかなりませんが,

その力の動きと脳の中を自由に動きはじめた流動的知性はじつは対なのです。

一個一個の個物存在である木,岩は,それまでは孤立していましたけれども,人間はこれを比喩の力でつないでいくことができ
る脳を持ちました。すると,この世界の中にある山川草木,岩や動物,そうしたものすべてが個物として分離しているのではなくお互いがつながりを持ち,相互貫入しあい,自由に往来しあっているというアニミズムの世界観が発生します。こう考えてみると

詩とアニミズムというのは,新人である私たち人類の存在の証

であるということになるのではありませんか。

(中澤新一・小澤穣「俳句の海に潜る」)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です