般若心経(日本)=古池@ことばぐすい

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

(wiki/玄奘訳テキスト:
小林正盛 編「真言宗聖典」、森江書店、大正15年、p 114
句点の打ち方を独自に修正した。また誤植を修正した。)

観音菩薩が、
深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、
〔命ある者の構成要素たる〕五蘊はすべて〔いかなる本質、実体をも〕欠いていると明らかに見て、
すべての苦しみと災い〔という河〕を渡り切った。
「シャーリプトラよ、
色(肉体)と〔実体を〕欠く〔というあり方〕とは異ならない。〔また、実体を〕欠く〔というあり方〕と色とは異ならない。
色は〔実体を〕欠いている。〔また、実体を〕欠いている〔ものこそ〕が色である。
受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)もまた同様である。
シャーリプトラよ、
すべての現象(一切法)は〔実体を〕欠いていることを特徴とするものであるから、
生じることなく、滅することなく
汚れることなく、汚れがなくなることなく
増えることなく、減ることもない。
ゆえに「(実体を)欠くということ」の中には、
色は無く、受、想、行、識も無い
眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、
色、声、香、味、触、法も無い
眼で見られた世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い
無明も無く、無明の滅尽も無い
“老いと死”も無く、”老いと死”の滅尽も無い
「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い
「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い
「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い
「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い
知ることも無く、得ることも無い
もともと得られるべきものは何も無いからである
菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに
心にこだわりが無い
こだわりが無いゆえに、恐れも無く
転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。
過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに
完全なる悟りを得るのだ。
それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは
偉大なる呪文であり、
偉大なる明智の呪文であり、
超えるものなき呪文であり、
並ぶものなき呪文であり、
すべての苦しみを除く。
〔なぜなら〕真実であり、偽りなきものだからである。
〔さて、〕「智慧の波羅蜜」という呪文を説こう、
すなわち呪文に説いて言う:
“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え)
〔以上が〕般若心経〔である〕。

(wiki/現代語訳:玄奘訳 般若心経から和訳(サンスクリットからではない)
※ wiki/摩訶般若波羅蜜多心経

大乗仏教は,まさにこの涅槃観を否定したところに成立します。修行の最終目標が,そのように何の活動もない状態になること,無にも等しい状態になることで,はたして本当によいのかという問題提起です。ただ生死輪廻の苦しみから逃れられればよいのか。大乗仏教はそうは考えません。むしろ自分が生死輪廻を離れたら,また生死輪廻の中に入って行って,しかもそれに染まらず,とらわれず,自在に苦悩する人々を救済していく活動をめざします。生死輪廻からの自由ではなく,生死輪廻への自由を追求しているのです。人間が修行する,その最終目標は,身心を滅してしまうような世界ではなく,どこまでも自利利他の主体として実現していくことにあるとしたのです。

私たちはいつも,同じか異なるかの二元対立的な枠組しか認めません。言語にもとづく分別の中で,同じか異なるか,そのどちらかしか認めないのです。そうすると,同じだけれども異なるというような事態を認めなければならない因果関係は成立しないということになってしまいます。あるいは,因果関係や縁起の中で語られているその事態そのものの前には,有無・一異等々の二元対立的な価値に貫かれている私たちの日常の言語体系は解体されなければならないということになります。その意味で,
言葉で語られる世界は,ひとまずすべて否定されなければならないのです。因果関係によって構成される四諦説も,言葉で語られている限り,その言葉の世界そのものが自壊せざるをえないことになるのです。

縁起や因果を否定することは,言葉で語る世界を否定するということです。言葉で語る世界は,二元対立の価値に貫かれていて,それは真実の事実(諸法実相)に合致しません。それだけでなく,言葉で語る世界では,事柄を主語として立て対象化し,固定化して,それに対して述語します。事を物化し,時間的世界を空間化して判断する世界であり,動態の世界を実体化してしまいます。そうして,事実そのものから遊離していくことにもなるのです。真のリアリティは,時間が空間化される以前,事が物化される以前,即今・此処・自己の真実そのものにあります。そこには,事柄の対象化以前として,主客分裂以前にしてしかも根源的な主体そのものがあります。それは不生にして絶対の主体とでもいうべきものです。

すべては得られないということが明瞭になる地平は,自分が現在に立ち尽くしているとき,主体そのものとなってはたらいているそのただ中においてです。

物だけでなく自分自身すら,決して自分のものにはならないのです。このことをはっきり自覚するとき,不思議にもかえって根源的な主体が尽きることなく働き出します。こんこんと湧いてやまない生命が,はたらき出します。一切は不可得であるという絶対の否定は,実はそのまま根源的な主体の実現という絶対の肯定であるわけで,ここに『般若心経』の核心があります。否定に満ちているようで,実はもっとも力にあふれた,元気に満ち満ちていた世界を描いていたわけです。

※ 竹村牧男「般若心経を読みとく」平29,角川文庫

古池や 蛙飛び込む 水の音 芭蕉

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