※沖縄語→和訳:普天間参詣
目録

デフラグな沖縄の骨
「搭乗券の座席にお座りください。座席を移動されますと、飛行機の重量バランスに影響を与える恐れがありますので」──影響しねーよ!
「機内の密を避けるため、お手荷物の取り出しは客室乗務員から指示があるまでお止めください」──密と全く関係ねーよ!
アナウンスラストに「皆さん今日はほんまおーきに」──それ……沖縄入りに合わねーよ!
「骨汁好きのお客様へ
豚コレラの影響で、しばらくの間、──」ええっ!!!何だ何だ??
1146 たから家
骨汁定食 500
「──従来の肉付きの良さでは無い場合がございます。ご了承くださいませ。」
空港からタクシーで直行してしました。このルートは途中、赤嶺駅前の分岐路で混むらしく、あまり時間の節約にならんかったけど……本日も何とか間に合ったらしい。
1155、おばちゃんより賑々しく「骨汁終わりました」宣言。危ない!客が多ければ12時前にも終わるのか……。
電話。1247、バイク押さえok!
直後、荒く使ってきたスマホの電源がクラッシュ。危なかった!背中を揉んでやると……今は復活したけれど、もうあまり寿命がないらしい。
ゆいレールは未だ満席。……のところへ隣にガキが乗ってきて大騒ぎするから、お母さんに席を譲る優しい「ないちゃー」(本土人)、という体で席を替える。
かんかんの晴天。たから家からの歩きでしっかり汗をかきました。
行き先表示は「てだこ浦西」で変わっていない。
1324壺川。1325旭橋。気だるい眠気。デフラグな沖縄。
1350。走行開始。
1427。ドイツ菓子Regensに寄りまして、リンツァートルテをご購入。
巫女さんに具現せしぐじー神:普天間宮
〔日本名〕普天間宮(権現、神宮)
(沖縄戦時:住民の避難壕)
〔沖縄名〕ふてぃま
〔米軍名〕-(米軍基地キャンプ瑞慶覧 (キャンプ・フォスター) の一部として接収、1949年米軍敷地開放)
久しぶりに普天間宮に寄ることにしました。1448。
由緒
琉球古神道神
日の神
竜宮神(ニライカナイ神)
普天間女神(グジー神)
天神・地神・海神〔案内板〕
奥宮参拝。
巫女さんの所で申込み。ダメ元で荷物を預かってくれるか訊いてみたら、預かるという。内地と違って全然威張ってはいないのに、エラく自然な威厳がある対応です。
定時入域制らしい。20分毎に入れてくれる。
洞窟と言っても、まあ短い。地下空間と呼ぶ方が近い。
鍾乳洞のあちこちの巨岩、おおよそ8か所ほどにしめ縄が巻いてある。最も大きい祭壇が普天間女神様らしいです。
普天間女神というのは、この土地のユニークな神様です。
父と兄が遭難したあと身を洞窟に投げたけれど、本人の生前の名前すら伝わらない。そういう不思議な女神様です。
ぬぼーと古いサンライズに轟沈
この物語を考えだすと、その不思議さに毎回ハマってしまいます。つくづくウチナンチュって……ケイパビリティ(分からないままの状態に耐える力)の高い民族なんだなと思うのです。
撮影禁止。空気が厳粛だし巫女さんたちの威厳にも押されるし、荷物まで預かってもらった手前──珍しくルールは守りました。
そのまま北中城村島袋、もう何度目か数える気もしないこちらのヤギへ。
1550南山
山羊汁550
「脂もヨモギも多め」と平気で頼むようになってしまいました。
この夜はなぜか途方も無く疲れてて、そのまま布団で倒れてます。
普天間女神様の
胡屋二丁目のサンライズ観光ホテルには、沖縄通いの最初の頃よく泊まってた。最近また足が向くようになってきてます。
設備は良いホテルです。ですけど建物も部屋も、造りがどことなくアメリカンで、ぬぼーと古臭い。それがたまらなく快適なのです。
0932、サンライズ発。本日もバイクにリュックを載せての行程となります。
0939、コザ十字路右折
大里から一気に下る。
0946、高原交差点。
アーミーと神の視線が交差する
美東中学校線へ左折が最適ルートだけど……一つ前の高原交差点からの左折路に、路地から抜けたくなりました。
ファミマ前から高原五丁目へ。
小学校と中学校の東側。泡瀬郵便局……なるほど!泡瀬そばの通りがここだったか?
ドミノ・ピザの交差点から目的地の南東角へ。目的地とは──以前調べた際に最も信仰が盛んと思えた泡瀬ビジュルです。
〔日本名〕泡瀬神社
(沖縄戦時:不詳)
〔沖縄名〕あわせびじゅる
〔米軍名〕Awase Airfield/NAB Awase、シモバル(収容所、飛行場、海軍・空軍通信施設。特定不詳)
1002。泡瀬ビジュル。
公園のようなブロック内です。長く米軍基地内だった現代史ゆえだと思います。別の意味で非常に沖縄的な聖地です。
神社本殿は東南面、ビジュルは南西面と、神様の視線が交差するような珍しい配置ですけど、これもその現代的な経緯ゆえでしょう。
神社に倣って:泡瀬ビジュル
泡瀬ビジュルの由来については、泡瀬の初期開拓者である高江洲義正が、海に浮かぶ霊石を見つけて持ち帰り、ビジュルとして祀ったのがはじまりといわれている。現在のビジュルは、昭和13年に改修されたものである。ビジュル参詣(ビジュルヌメー)は旧暦9月9日に行われ、祈願の内容は子安、子育て、旅の安全などである。〔案内板・由緒〕

(下)娘に書かせるパターン「おうちにかわいいあかちゃんがきますように」
泡瀬はその昔「あせ島」「あわす小離」と称され高原村より東へおよそ九町、隔海に突出した無人の小島で、自然に形成された砂州と南西には広い干潟を有していた。
1768年頃、読谷山間切の在番役を退役した樊氏高江洲(筑登之親雲上)義正は、初期の居住者としめこの地に入植し、広い砂州と干潟を開墾して、農耕のかたわら塩を焚き安住の地をここに定めた。
ある日、漁猟に出た義正は海面に浮かぶ霊石をみつけてもちかえり霊験あらたかなるビジュル神として、島の西側磯のほとりに石祠を建てて安置し、信心した〔案内板・由緒〕
「島の西側磯のほとり」が原立地だった、と伝わるのは面白い。
境内は泡瀬復興期成会の管理地と表示。──この団体は、現在進行する中城港湾の埋め立て計画を、強力な働きかけで人工島案に変更せしめています〔後掲内閣府〕。
泡瀬ビジュルそのものは非常に整然としたものでした。
市教委による由緒には──
昭和13(1938)年に旧石の祠を改修し、社殿と2基の鳥居、灯籠、手水鉢、内外玉垣を鉄筋コンクリートで建立した。
昭和58(1983)年、泡瀬土地区画整理事業にともなう土地の全面嵩上げ工事の際に境内を拡張し、社殿と一の鳥居、二の鳥居はそれぞれ四尺嵩上げして移設、一の灯籠を新設、玉垣を改修した。〔案内←後掲沖縄放浪日記〕
とあり、45年間が空白のままジャンプしてます。また、この「神社」形式については──
泡瀬のビジュルの形態は、自然の陽石を思わせるもので、安置される場所は
神社にならって 神殿をつくり、扉の奥深くにビジュルを祀まつっている。 〔後掲沖縄市/ビジュルについて〕※原典:泡瀬誌
つまり、ここは神社ではない、在るのはビジュルなのだ、と本音を文字にしておられます。
台風の潮のライフサイクル:泡瀬の榕
但……ホントにビジュル側には何もないので──本殿に戻る。社務所には「千秋堂」と看板。安産祈願の絵馬が風に音をたてる。
本殿裏にも丸っこい縦長石が十。ビジュル奥の暗がりの本尊も、視認する限りこういうものに見えました。
右手のアコウに説明書き。沖縄市の名木と標題。
台風で潮を被ると落葉し薄い赤茶の皮を剥ぎ新芽を出します。方言名でアコーギ、ウシクガジュマルと呼ばれています。〔案内板〕
沖縄の樹木は、台風で潮を被ることをライフサイクルに想定して生育してるのでしょうか?
さて。この後の「まるなが」開店時間11時のリミットが迫ってます。御参拝をとるか骨をとるか──二股かけたまま500m東行。
阿檀が繁る砂丘:東之御嶽
〔日本名〕沖縄市泡瀬一丁目34−1
(沖縄戦時:不詳)
〔沖縄名〕あがりぬうたき
〔米軍名〕Awase Airfield/NAB Awase、シモバル(収容所、飛行場、海軍・空軍通信施設。特定不詳:再掲)
東之御嶽。1035。
入口に「拝所 新井泉」(みーがー)。
由来については定かでない。(略)
1945(昭和20)年以前は、路地の傍らに設えられた湧水のない簡素な穴井(アナカ)泉跡として保存されていた。
1945(昭和20)年泡瀬全域が米軍施設に接収され,原形は消滅したが、1983(昭和58)年泡瀬土地区画整理事業に伴う土地全面嵩上工事の際に、以前とは位置形状を異にして、東之御嶽(アガリヌウタキ)の敷地内に新装並置した。2002年8月31日泡瀬復興期成会〔案内板〕

世持神(ユームチガミ)として集落の東方、阿檀が繁る砂丘に石灰石造りの石祠が設えられ、東海楽土のニライカナイから豊穣・繁栄を招く神として崇められた。御嶽庭(ウタキナー)はおよそ三千坪を有し(略)米軍施設に接収された際、石祠とともに砂丘全体が消滅したが(略)嵩上げ工事の際に現在地に改築整備した。〔案内板〕
つまり祠と井戸、どちらも新築なんですけど──ユームチガミ・世持神(巻末「軽くは訳せない沖縄語」参照)なので、恐らく漁業の振興者を祀ってます。また、米軍施設にされるほどのウタキナー・御嶽庭(同)を有するのは何かの宗教行事の専用地だったことを意味します。
全く別の神体と場所に移されてなお、これが、つまり「阿檀が繁る砂丘」ではるか過去に営まれた拝みの存在そのものが、これほどきっちりと拝まれ続けているのです。
まるながのゴーヤチャンプルー
ああっ!! もう開いとるがあ~!
1057まるなが食堂
ほねセット500
ここもテイクアウトは始めたらしい。「セット」は前からあったろうか?券売機が無くなり(カバーで覆われた上にメニューが貼り出してある)食器返却コーナーもでき──以前より、何となくあか抜けてきてます。
骨も記憶通りでしたけど──ここはセットにすべきです。「毎日違うんですよ」と遣り手っぽいおばちゃんが言う通り、この3皿が見事。
①あんかけ豆腐
②ひじきと人参の炒め
③ごーやチャンプルー
と品選びとしては珍奇なものじゃない。
①あんかけも他ならたまげる本格中華な味覚ですけど──
②鹿尾菜(ひじき)の調理もので、沖縄では時々歓声を挙げたくなるけど……にしてもこんな旨いのは初めてでした。鈍い海藻味と、おそらく人参の独特の臭い甘味が経験のないマッチングをしてるのです。
けれど③ゴーヤ。これには震撼しました。ずっしりと苦い。でも青臭さはなぜか綺麗に除いてある。卵とポークの味覚は極めて軽い。なのに、この迫力ある苦味の後方に隠れつつ、アクセントとして絶妙に後味を作りだしてます。
次に骨にフラれた時には、伝統料理ものを食べたい店……と初めて知りました。
■レポ:泡瀬創世史略
角川日本地名大辞典で「泡瀬」のヒットは1。「泡」も山形・福島に3例のみです。多分、地名としては忌字で別に置き換えが進んだからでしょう。
方言ではアアシという。(略)半島は、中城湾岸の海岸低地に発達した砂州からなる。南西に広がる干潟は、かつて県下有数の塩田であった。元禄15年の琉球国絵図では、小島で「あせ島」と見える。乾隆33年(1768)読谷山(ゆんたんざ)間切の在番を退役した樊氏高江洲義正が入植したと伝える。〔後掲角川日本地名大辞典/泡瀬〕
少なくとも、琉球神話の神代の事蹟がオモロに伝えられるような古式ゆかしい土地ではありません。
泡瀬が特異な地位に置かれるのは、沖縄戦で米軍が最初に東西分断しようとしたベルトの東海岸出口となってからです。米軍の沖縄上陸1945.4.1の3日後、4月3日には泡瀬は米軍統治下に入ります。
米海軍はここに泡瀬飛行場を建設します。
泡瀬人は自らの創造地に帰還した
米空軍は上陸当初、日本軍から接収した読谷飛行場を用いてます。対して泡瀬には、4月9日段階で米軍政府(military government)司令部と民間人収容所(「泡瀬キャンプ」:シモバル民間人収容所)を開設しており、軍政拠点と位置づけたらしい。
ただ、4月23日には戦闘機用滑走路の建設測量が始められ(第36海軍工兵大隊)、5-6月の雨季で竣工遅延したけれど、5,000ft(1,524m)の滑走路が完成、6月30日には海兵隊第33海兵航空群(MAG-33)が到着しています〔Building the Navy’s Bases in World War II History of the Bureau of Yards and Docks and the Civil Engineer Corps 1940-1946. US Government Printing Office. (1947). pp. 403–9〕。具体的な運用としては、沖縄本島周辺の哨戒や南西諸島・九州南部への攻撃が記録されます〔国立国会図書館所蔵「海軍・海兵隊陸上機戦闘報告書」『米国戦略爆撃調査団報告書』“Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, Entry 54: Land-Based Navy and Marine Corps Aircraft Action Reports, 1944-1945〕。
泡瀬飛行場は終戦で廃止され、その稼働はごく短命でした。ただ米陸海軍は馴染み深かったのか、その跡地を通信基地とし、軍事運用の拠点とし続けます。
泡瀬の住民は、この場所への帰還を試みます。
戦後暫く、泡瀬一帯は米軍の軍用地になっていましたが、部分的に返還・解放が進むようになり、住民がぽつぼつ泡瀬に帰ってくるようになりました。ただ、かつての個人個人の屋敷は全くなく誰の土地であるか分からない。整理して自分たちの土地をきちんとしないと帰れないから、区画整理を行わないといけない。区画整理には資金がいるが補助をもらおうにも国からの補助金の受け皿が無い。そこで対外的な窓口となり区画整理の主体となる組織が必要となり、昭和23年に、有志が集まって泡瀬復興期成会を組織することになったのです。〔泡瀬復興期成会会長 當眞哲雄談←後掲内閣府〕
「屋敷は全くなく誰の土地であるか分からない」というのは、ブルドーザーによる土地改変で筆やブロック自体が分からない更地に戻っていたということでしょう。
つまり、歴史的地名としての泡瀬は一度消滅したのです。
泡瀬復興期成会という組織は、この状態から土地区画整理と埋立運動を進めたのが母体になってる。内地の自治会ではありません。
(略)元の泡瀬への移動が駄目なら「内海を埋め立てて、代替地に」と発想を転換し、泡瀬内海の埋め立てが始まったのです。この埋立が復興期成会が発足して取り組んだ大きな事業でした。そうしないと我々は帰るところがなかった。時の米国民政庁官に「埋立をして自分たちはここに移る」と直訴したのです。〔泡瀬復興期成会会長 當眞哲雄談←後掲内閣府〕
現在の泡瀬に掴みどころのない区間しかないのは、当然です。ここは、戦後に創造された「沖縄」だからです。ただ、だからこそより沖縄らしい、という逆説の土地でもあります。
中近世泡瀬へのルネサンス
前掲角川の客観的な史料記述からすると、期成会の語る次のような歴史は、残念ながら相当割り引いて受容すべき「伝承」でしょう。ただ、政治勢力の記述しなかった海民の歴史としては、真実に近い可能性もあり軽々に否定もできません。
泡瀬は、内湾性の静かな遠浅の海で天然の良港として古くから物資輸送の中継点及び周辺離島への連絡港として利用され、山原船(やんばるぶに)の入る港町でしたから、港がいかに大事かという想いは強くもっていました。その想いをずっと持ち続けて今に至っているのです。(略)
昔は船(山原船)が入っても浅くて泡瀬の島の近くまで遠浅で来られなかった。現在の漁港辺りも遠浅でした。以前は、一本だけ船道があって、満潮の時にそこから大きな船から小さい船に荷物を載せて泡瀬の海岸まで持ってきていました。そして満潮のうちに船は出て行く。沖縄の東海岸で山原船が入るのは泡瀬と与那原だけでしたが、与那原は深いのでそのまま入るが、ここは浅いので無理だったのです。〔泡瀬復興期成会会長 當眞哲雄談←後掲内閣府〕
地殻の裂目の名残りなのか、上図で水深を見ると、確かに湾中央から水深4-5m程の海域が泡瀬沖まで、2mなら泡瀬湾奥まで伸びています。通説ならこの程度だと疑問は残るんですけど──沖縄の干満差約180cmの半分を足すなら水深は約3m。満潮時の一時的な進入は可能だったかもしれません。
出島方式で島ができれば、島と陸との間に昔の湿地帯が甦る、今の比屋根湿地や那覇の漫湖のような環境でしょうか、失ってしまったものを取り戻したいという想いが強かった。泡瀬通信地先にはヨネという砂の溜まるところ(砂州)がありますが、人工島の周囲は砂が溜まるのではないだろうか。そうなればそこに昔のようにアダンを植えて、昔、泡瀬が島だった頃の状況が実現できるのではないかと。〔泡瀬復興期成会事務局長 普久間朝健談←後掲内閣府〕
東之御嶽の案内板にあった「阿檀が繁る砂丘」は、泡瀬人の脳裏には確たる像を結んでいるらしい。東之御嶽の時代の泡瀬を復活させるプランを、彼らは一度は行政に認めさせているのです。
泡瀬人工島から「潮乃森」への退行
上記埋立二案を比較すると約3/4の埋立面積の後者の方が安くつく。役人の頭の中では、多分そんな計算で変更案が採択されたのだと予想します。
そのベクトルで、4年後、この人工島案はさらに次のように半分規模、当初案からすると1/3余にまで退行しています。
辺野古移設問題で国と県が対立を深めるごく初期に建てられた中城湾整備案は、従前レベルの潤沢な国補助を前提にしていたのでしょう。現在最新と思われる2022(令和5)年段階の行政側の竣工予定は、2029(令和12)年。しかもこれは「県が埋め立てる」9ha、約1割部分についてのみです。
沖縄県としては、こういう言い方で「遅れているのは国のせいだ」と世論の方向を転じ、良く言えば論点を明示しようとしているのでしょう。
県議会2月定例会は1日、一般質問を開催し、沖縄・自民の8人が登壇した。沖縄市東部海浜開発事業で整備する人工島について、島袋善明土木建築部長は、県が埋め立てる約9ヘクタール分の工事は2029年度に完了予定だと明らかにした。埋め立て区域や人工ビーチ整備費を含めると県は国の補助事業を活用して、総事業費は約542億円を支出する。
人工島は当初、187ヘクタールの計画だったが、環境への配慮などを踏まえて約95ヘクタールに縮小した。現在、県担当分を除いた約86ヘクタール分の埋め立て工事が進んでいる。中川京貴氏への答弁。〔後掲琉球新報,2022.3.2〕
96ha案の「国際観光リゾート」「健康島」は、既に「阿檀が繁る砂丘」から遠い、現代的な空疎さを帯びてきています。
沖縄県や沖縄総合事務局は、これでは保たないと考えたのでしょう。2022年に「潮乃森」海開きだけは、2023年実施を宣言しています。
沖縄総合事務局と県は11日、那覇市の沖縄産業支援センターで、中城湾港泡瀬地区の埋め立て事業に関する環境監視委員会(委員長・有住康則琉球大学名誉教授)の2023年度初会合を開いた。沖縄市が事業を進めている東部海浜開発地区「潮乃森」の人工ビーチの一部使用案を報告した。24年5月から9月の間、毎週日曜日の午前8時から午後6時まで一部が使用できる見込み。〔後掲琉球新報2023.07.11〕
沖縄タイムズはこれを「観光客60万人見込む沖縄市の人工島『潮乃森』 完成4年遅れる見込み 市議会『到底納得できない』 国の交付金減額 一部ビーチの使用目指す」〔後掲沖縄タイムズ〕という記事で報じてます。実際の住民の声は「やっぱり目処が立たないのね」という感じに読めるので、どのくらい政治的な演出色のある異論なのか、ちょっと分かりかねますけど──次の表現は沖縄市長の2023.2施政方針のもの。
「潮乃森」につきましては、先人たちの壮大な構想から長い歳月を経て、いよいよ人工ビーチの一部が供用開始いたします。
太平洋に抱かれた特別なリゾート空間がまばゆい朝日に照らされ、訪れる人々がスポーツ・健康・交流の生出す幸福感に包まれる、そんな光景に思いを馳せながら、私は、東部開発百年の大計である「潮乃森」の早期完成に向け、困難と対峙する覚悟で行動してまいります。〔後掲施政方針 2024/04〕
2024年5月と一度は発表された潮乃森の海開きは、少なくとも2024.6.23現在、予定情報がヒットしません。既に10月末の花火大会の開催予定は掲げられていますから、2024年中にはビーチが開放される可能性は高いようです。
【10月29日】第20回 沖縄市東部まつり・沖縄市潮乃森大花火(沖縄市)
沖縄市東部まつりでは、(略)また、同日に沖縄市潮乃森大花火も開催されます。沖縄市の東部沖合にある人工島「潮乃森」をPRするため、約1,000発の花火が打ち上げられます。〔後掲おきなわ物語 沖縄観光情報WEBサイト〕※掲載日掲載日:2023.10.23
おそらく、泡瀬人が更地から始めた天地創造は、この度のような苦節と裏切りの中でジリジリと進められてきたのでしょう。歴史というより時空を超えた想念の上に建っているような泡瀬ビジュルや東之御嶽は、そのような意味で極めて沖縄らしい拝所なのだと思えるのです。
■用語集:沖縄X探訪のための「軽くは訳せない沖縄語」集 逐次追記版
■イビ:聖域
・ナスの御嶽の説明に出てくる。場所自体が神体になっているようなケースでの、その場所を指す。
■イベ(又はイビ):御嶽の中での神が降臨する目印。御嶽の「本体」のような点。よって概念的には御神体ではないけれど、結果的に御神体と同じ扱いをされることもある。
■ウガン:御願。拝み。
・祈る行為そのもの。
・ただし八重山では、沖縄本島の御嶽にあたる聖地がウガン、ワン、オンと呼ばれる。
■ウガンジュ:「拝所」。ウガンとも。
・神を祀って拝む場所。御嶽(ウタキ)、井戸(ガー)など形態を問わない総称らしい。
■ウグァンブトゥチ:御願解ち。「一年の拝みを解く」と言われる。
・ヒヌカンは毎年、旧暦12月24日~旧暦1月4日は天に帰るので、その前に行う。
・ヒヌカンの掃除は毎月旧暦の二月・八月の「ヤシチヌウグァン(屋敷の御願)」とこの12/4のみで、むやみに行うべきではないという考え方がある。
・なお、ウコール他の祭器は酒で洗う。
■ウコール:香炉
・沖縄神道、特にヒヌカンの拝みでは神が移る場所とされる。
■ウサギムン:お供え物
■ウサンデー:ウサギムン(お供え物)を下げたもの
・ヒヌカンの場合、ウサギムンは女性のみが頂く。
■ウタキ:「御嶽」。聖域。
・拝む対象が基本的には無い、あるいはあっても目印だけになっているような場所らしい。
・ウタキの神様を迎え入れるには、お線香に移っていただくとされる。
■ウタキナー:御嶽庭
・イビやイベのような聖性の対象ではないが、拝みを捧げる場所として特別視される空間(土地)
■ウチカビ:打ち紙
・藁を原料とした黄色い紙に小判のような丸い刻印が打たれている。
・ご先祖様へのお金。あの世で故人がお金がなくて困ることがないよう送る。 ↔シルカビ:神様へのお金
■ウティン:天=天の神様(ウティンヌカミ)
■ウブガー:「産井戸」。集落の井戸の中で最も神聖なもの。
・正月の若水汲みなど儀式を伴う。
■ガー:「井戸」
・生活の場というだけでなく、神聖視されていることが多い。→同用語集:用水等生活関係編
■カバシウコー:日本線香(香り線香)
・神様や故人と繋がりたい時、商談成立など特別な、又は特定の拝みに用いる。香りによって、その時々で違う伝えたい事柄が無言語化して伝わるとされる。
・日本線香一本を三本(三位一体)として考える家も多い。この場合、ジュウニフンウコー(十二本線香)では日本線香四本、ジュウゴフンウコー(十五本線香)なら日本線香五本を供える。
■カミンチュ:「神人」
・祭祀の中心となる神女。この人だけがイベ(イビ)に入ってよい。
■グイス:御願で家を守る女性が唱える言い回し
■クシャテ:「腰当」。集落の要?
・北中城村HPのマーカーの御嶽とナスの御嶽の位置の説明として用いられていた。
■グスク:城
・日本語でいう城塞の施設というより、かつての政治的・軍事的中心が神聖視されている場所も含む。
■ジーチ:地神=土地神様
■ジュウゴフンウコー:十五本線香。ジュウゴコー(十五香)とも。
・ヒヌカンへの拝みで標準的。ただし、ケース別に五本、ヒラウコー(沖縄線香)の場合はタヒラ半(二枚と半分)など、複雑な換算を行う習俗も多い。
■シルカビ:白紙
・白い紙の半紙で作る。
・神様へのお金(税金)↔ウチカビ:ご先祖様へのお金
■チジウコー:日本線香(カバシウコー)三本を拝する拝み方
・ミティン(三天)の神様へ祈願事をする時に用いる。
■トゥーティークン:「土帝君」
・中国(主に福建省・台湾)渡来神。2月2日の祭祀多数。
■トゥン:「殿」
・一般の人が神を迎え入れて祭祀を行う建物。場所の場合は「神アシャギ」ともいう。
■トートーメー:お仏壇。琉球神、特にヒヌカンの祠に対照させての呼称。
■ビジュル:霊石
・漂着伝承を持つもの多し。内地の「びんずる」と同等と目される。
■ヒヌカン:火の神
・台所に祀られる家の守り神。神々への取り次ぎ役。家の女性(妻や母など、台所を担う女性)が拝まなければならず、また、家の女性以外は触ったり拝まないとされる。
・ヒヌカンの神様はウコール(香炉)の灰に宿るとされ、特に線香が重きをなす。
■ヒラウコー:沖縄線香
・お線香6本がくっついて板状になったもの。香りはない。↔カバシウコー:日本線香
・二枚重ねて供えると「夫婦和合」を意味するなど、「和合」の御願にも用いる。
・沖縄神道全体の発想として、神様や人々のマブイを移す呪具として扱われる。
■マギリ:「間切」
・行政区画
・「領土」よりやや狭く、集落域だけを指すらしい。
■マブイ:魂
・人が逝去した時は、マブイをお線香に移して家へ連れて帰る。
■ミティン:三天=①リュウグ(竜宮=海の神様)+②ジーチ(地神=土地神様)+③ウティン(天=天の神様)
・多くの家ではよりパーソナルな祈願事の対象とされる。
■ユームチガミ世持神
・世持:世の中をささえる
→世持神:沖縄の産業をささえた恩人として祀られる神
■ミーマンティ ウタビニスーリー ウートートゥ:沖縄の御願の締め言葉。意味「健やかに仲良く過ごせますようお見守りください。」
■ムィグァーシ:(供え物としての)お菓子
■リュウグ:竜宮=海の神様
※〘▶現在リンク切〙(参照) 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/本土の友人たちへ・近況報告 その2
※〘▶現在リンク切〙 ameba/沖縄の民俗~御嶽・ビジュル・土帝君・火の神・屋敷神〕
※【沖縄の御願】
/拝みに欠かせない「シルカビ」と「ウチカビ」 URL:https://oki-memorial.org/column/itenforokinawaprayer0108
/御願で違う☆ヒラウコー(お線香)の本数とは – 供養ギャラリーMemorial URL:https://www.ryuukyuu.co.jp/column/howmanyincensesticksforplay1116/
/旧暦12月24日(令和2年1月18日)ヒヌカンの掃除と御願解ち
URL:https://oki-memorial.org/column/okinawahousepray0109〕
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