FASE63-2@deflag.utina3103#金城大樋川,仲之川,彌覇川,御客屋跡,美連嶽\美ら瘡ぬうとぅじ 遊ぶ嬉しや

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

とてもXな気分にならない・金城石畳道


編の行程選択は,半ば観光地巡りになっちゃって失敗してます。
 崎山公園から金城町一丁目の三叉路に出て左,西方向の細い方へ…とこれはまたシャレにならん下り道に出ました。
 1142,ゲイダイ第3キャンパス前バス停を過ぐ。
 1145,首里金城の大アカギとの看板。ただ入口見つからず。
 そして1148,金城石畳道に久しぶりに来ましたです。左折して入る。
 観光客がにわかに増える。
 たまらず三叉路を右折。北西角にガジュマル,これは豪勢なものでした。どうしても観光客の眼でなく観たかった金城石畳道,半ばは新たな収穫になりました。

▲1152金城村屋の三叉路のガジュマル

縄戦での首里への攻撃がいかに峻烈なものであったか,少し学び得た今では,ここに町並みが残ったことが奇跡としか感じられない。
 でもだめだ,やっぱり観光地です。とてもX歩きの心地じゃない。

▲1154金城大樋川

だまあ一応,目的地,金城大樋川(共同井戸)は見つかった。沖縄語で「かなぐすくうふひーじゃー」と読む。文化財的価値は高いらしいけれど信仰対象の気配はない。→巻末メモ参照

▲1156,にわかにコンクリート敷に変わる石畳道

し行くと石畳はふいにコンクリ道になる。
 現金やなあ。と思ったら,石畳は元々ここへ向かうために整備した道だったらしい。つまり行政が観光地と定めたエリアのエッジです。
 1159,仲之川。

之川
〔日本名〕沖縄県那覇市首里金城町2-11
〔沖縄名〕なーかぬかー
〔米軍名〕-

※ 那覇市観光資源データベース/仲之川

金城エリアのエッジ・仲之川

▲1158路地裏に石畳道が続いてる。

時は井戸そのものにはあまり興味なかったので,まず石畳が続いてる路地裏を覗きこんでます。
 コンクリート敷は戦後のもので,それが観光用に石畳化されたのでしょう。それは分かるけれど,この路地に連なる石畳は,行政の観光用とは想像しにくい。
 すると,ひょっとしたらこの路地裏の石畳こそ,本当に残った石畳だったんだろうか?

▲別の路地。これも,草蒸した感じからしてそうだろうか?

之川」名称の由来は案内板に書いてありました。
「東の金城大樋川,西に寒水川樋川があって,その中間部にあるので」──何じゃそりゃ,三つの井戸の真ん中ってだけかい。
 と思ったけど──大樋川と同じく,やはり正面に3m×1mほどの井戸がある。でもこちらには,石垣中段,井戸から3mほどの高さに祭壇がある。
 位置的に供え物や焼香はないんだけど……明らかに祭壇です。何のためのどう使うものなのか,想像できません。

▲仲之川の石積み

府時代はひでりなどのとき城内の御用水になっていました。」
 つまり王宮内の井戸が枯れても,この仲之川からは水が出てた。それほど湧水が良好な井戸らしい。

▲仲之川の旧由来書き石碑。上半分が沖縄戦の,おそらく砲撃で破損した模様。

之川の入口の由来標柱は「沖縄戦で破壊」とあり,それ自体が戦争遺跡としてそのまま残されてる。
 つまり,ここは戦闘被害の及んだ範囲のエッジでもあるみたいです。
 先へ歩く。
 下向きの坂道にも石畳の残る細道はあるようです。登り降りするのも辛そうだし……よくよくチョイスして,南へ降りる企画も立ててみたいなあ。
 でも今日は勘弁。

▲1212下方向の石畳階段

完全無欠のX・彌覇川

覇川
〔日本名〕沖縄県那覇市首里金城町2
〔沖縄名〕にーふぁがー
〔米軍名〕-

水川樋川があったはずだけど,なぜかそこには寄ってません。それともここの別名だったんでしょうか?
 1213,彌覇川(にーふぁがー)。
 完全に何もない。ここは完全なXでした。

▲1215彌覇川

の土台みたいなものはあるけれど,石垣のみ。供え物など拝みの痕跡はない。
 右手は家のコンクリート塀。場所がここでなければ車庫かと思ってしまいそう。
 奥の岩壁には,なぜか電球が埋め込んである。祀りのためなのか,単なる照明なのか,いずれにしても見たことのない設備です。
 これだけしか材料がない。ネットでもヒットはない。完全に分からない場所です。

真壁大阿母志良礼専用・ミンチラ御嶽

うやく車道に帰れた。1219。やっと左折して西行した後,すぐに右折北行。
 1225,首里高校前。おそらく南側。左折西行。
 1227,御客屋跡(クチャヌヤアト)という碑を見かけました。案内板に曰く
「薩摩藩の在番奉行などが首里城に登城する際の控所」「廃藩置県後は首里警察署が置かれた」
 控え所と言いながら,その跡に警察暑が,というのはこの場所の位置を象徴してるように思えます。首里への駐留軍拠点だったのでしょう。
 そしてその西に──

連嶽
〔日本名〕めづらだけ
〔沖縄名〕みんちらうたき。「めずらだけ」とも読む。漢字表記は「免津良嶽」とも書く。
〔米軍名〕-

▲1234美連嶽

連嶽。1232。
 巨岩の下に祭壇がある。
 ただそれだけのシンプルな拝所。従神も何もない。それがむしろ聖性を際立たせている。
 那覇市観光資源DB(巻末参照)によると,戦前までは巨大な御嶽だったようで,ここはその中核部が残存している場所。
 1250,琉染脇の道から山川交差点へ。──この途中に真壁大阿母志良礼の殿内跡を見た記憶が確かにあるんだけど,写真も撮らずスルーしてます。

▲拝所横手から。畏い森の暗がりが伸びる。

■小レポ:「金城の石畳道」から思うこと

 沖縄語では「シマシービラ」(島添坂)と呼ばれるこのルートは,観光用の写真撮影以上に様々なことを物語っています。

①「金城の石畳道」の延長線

 238m,この沖縄屈指の観光用の石畳道は,沖縄戦で奇跡的に残った界隈です。ただ戦後,全部かどうかは定かでないけれどコンクリート敷にされたのを,1983年に石畳に復したもの。
 ここではその位置を主に考える。
 このルートは,島添坂以外にも真玉道という呼称がある。島添坂は金城石畳道の北側だとか,真玉道は総称だとか細かい違いはあるらしいけれど,どうせ俗称だからあまり拘らず「真玉道」と呼んでしまおう。
 そのルートは,識名平を経て国場川の真玉橋(マダンバシ)から垣花の湊に伸びるという。
 ということは仮想されるルートはこうなります。

~(m–)m 真玉道の行程 m(–m)~
GM.(経路)

② 首里城は元々南西を志向していた

 真玉道は首里城の城下町でした。朝貢貿易で賑わった那覇港の,東側にではありません。
 崎山公園からヒジ川への道も同じく南を志向してます。この2つはどちらが主道でどういう役割分担かは分かりませんけれど,志向する方角は同じ。ということは,似たような首里から南への道は何本かあったのでしょう。
 つまり首里の尚王権は,形成期には南方,正確には南西方向を志向していた。
「志向していた」というのは,表玄関が南西にあったということです。例えば首里への来訪者は,南西から入って首里城まで坂を登り,王室に謁見していた。
 泊外人墓地があり,ペリー艦隊の水兵の事件が伝わる泊地区の位置からすると,これは変です。推定できるのは,尚王権の末期には表玄関は東だったけれど,それ以前,那覇港の興隆した時代以前は南西だったということ。
 一番それらしいのは,那覇港の代替機能を負った港が南にあったということです。
 それが垣花の湊であり,国場の土帝君のある付近だった。尚王権の財源となった貿易の,元々の主港がこのエリアだったということです。

③ 防衛政策上の金城石畳道

「沖縄拝所巡礼」はこのルートが「防衛上」のものと書いてます。
 貿易による財源とはまた別の観点です。
 垣花の湊かそれ以前の国場に王立水軍がいて,これとの連携路だったということでしょうか?それとも豊見城など南部の城郭のそれでしょうか?
 つまり,首里城が南西を志向していた理由についてです。前掲後者の南部への道だったとすると垣花以南にも古道が残りそうな気がするけれど,それらしきものはない。だから古港との接続を狙ったものと思われるんですけど,それは貿易以外の目的を伴っていたのか?
 防衛とすると誰からの攻撃か?現実となった内地・ヤマトからのとすれば,方向が変です。WW2の日本軍と同様,北の峰峰と連携を取るはず。だからと言って中国と考えるのは非現実です。
 とすれば海賊か?
 首里につめている武士団が港から素早く出撃するための道,と考えるのがやっとです。つまり防御拠点としての首里と,攻撃拠点としての垣花の連携路。
 陸上国の発想からは考え辛い「防衛」ですけれど,そういう発想はあり得たのかもしれません。

④「ヒラ」地名の全国分布

 最後に,これはほぼ紹介になりますけれど「シマシービラ」の「ヒラ」の用語についてです。
 これについては加藤昌彦「
『平』らな崖・傾斜地名について」2016→ファイルに徹底的に論じられてました。
「坂」または「崖」に近い,傾斜地一般を指す日本古語らしい。
 イザナギがイザナミを追った黄泉比良坂の「比良」から四国金比羅山の「比羅」まで,これは言われてみれば日本全国にほぼ満遍なくある地名です。中でも「大平山」という地名は日本に77箇所もあるという。
 弥生人が主に入植した平地は別の言語体系の地名が新たにつけられたけれど,縄文人が住み,あるいは弥生人に追われて住んだ山地部には日本古語が残った,ということでしょうか?
「ヤマタイカ」がテーマにしてる山地部の「母音+S」地名のように,山地部の地名の類似性にはもっと気を配るべきかもしれません。
※ wiki/首里金城町石畳道
「琉球王朝時代の城下町である金城町にある。首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4 km、総延長10 kmの官道であった真珠道(まだまみち)の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年頃にその建造が始まった。第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊され、コンクリートで舗装されていたが、1983年(昭和58年)に歴史的地区環境整備事業によって再び石畳に整備された。金城町に現存する238mの区間が首里金城町石畳道としてその姿を現在に伝えている。」

※ 首里あるき/島添坂 シマシービラ
「’ビラ’とは沖縄方言で’坂’のことをさします。
16世紀に首里城から豊見城村との境にある真玉橋(マダンバシ)まで整備された『真玉道』と言われた道路の一部にあたり(略)」
「島添坂を下ると、赤マルソウ通りを挟んで、『金城町の石畳道』へと続きます。
『真玉道』とは、『真珠のように美しい道』という意味です。」

※ 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/坂(さか)とヒラ・日本古語では黄泉比良坂(よもつひらさか)に見るように、一つの言葉だった。
「琉球王府の時代、防衛上の重要性から、首里城の南側から、今の那覇真和志の市街地を抜け、真玉橋を経て、垣花の湊に至る道が整備されていた。真珠道(まだまみち)と云う(略)」
「金城坂を下り、バス通りを横切って安里川に架かる金城橋(かなぐすくばし)を渡ると、その先には、勾配の急な上り坂、識名平(しちなのひら・しちなんだ)が続いている。」
「『地名語源辞典』(山中襄太著・校倉書房・1995年)で『ひら』を検索してみた。そこには、『ヒラは坂、傾斜地、崖の意で、地名の多くは当て字で、字そのものには意味はない。』と書かれていた。」
「アイヌ語でも、崖のことをピラと云うそうだ。北海道に、平賀内(ひらかない)、平岸(ひらけし)などの地名があるが、それらは当て字で、ピラカは崖の上、ピラケシは崖の下を意味すると云う。」


■用語集:沖縄X探訪のための「軽くは訳せない沖縄語」集(生活用水関係編)

 金城大樋川は「村ガー」(共同井戸)だという。この「村」の読みはとうとう分からなかった。以下はその途上で見つけた関連用語です。
■ウブミジ:「産水」。お産の時の水を特に汲む井泉
■ウブガー:「産井戸」「産井」。集落の井戸の中で最も神聖なもの。
・正月の若水汲みなど儀式を伴う。
・ウブエジを汲むことと関連している模様
■エーガー:「親井」
・「村のもとになる井泉」と解説されるが,具体にどういう意味かは分からない。
■カー:「井戸」。垂直に掘られた底辺に周囲から水が湧き出る形式
・音の類似からか,漢字の当て字に「川」が使われることもある。
■語りガー:発見説話のある井泉
■カーヌナー:井戸前広場
■カ-ラ:川(自然河川)
■クラガー:「暗川」。鍾乳洞穴下の井泉
■ジャ-:「カー」と同義
■ヌルガー:「祝女井」。神女,特にノロ専用の井泉
■ヒージャー:「樋川」。水源が遠くにあって,水源から水路が導き,樋より水が流れ出る形式
■ヒージャーガー:「樋川井」。ヒージャーと同義
■ブージガー:「精進井」。みそぎ専用の井泉
■村ガー:(仮)集落の共同井戸
※ 那覇市観光資源データベース/金城大樋川
「カー」とは何か

■小レポ:闇の祭祀の実質トップ・真壁ノロ

 現首里高校は王族の御殿跡だという。その西側に真壁大阿母志良礼(マカンオオアムシラレ)の殿内(住居)があったようです。──史料的には二ヶ所のうちの一つとされている。
 美連嶽はこの真壁大阿母志良礼(以下「真壁ノロ」と略)が管理し,祭祀を行った場所で,なぜか「国家的祭祀」も行われた。
 真壁ノロは三平等(みふぃら)の大阿母志良礼(うふあむしられ)の一人。聞得大君を補佐して尚王朝領域のノロを管轄する三人の副長職のうち,豊見城,読谷,久米島を所管。首里周辺では,古い王朝の玄関口たる金城方面を所管する。
 斎場御嶽や伊是名島など王朝祭祀上重要な箇所は,首里ノロが所管してるのに対し,主に尚王朝の仇敵側の地域を真壁ノロが所管してるように見えます。
 その殿内から目と鼻の先に美連御嶽はある。当然,真壁ノロの所管御嶽です。漢字は当て字としか思えないし,読みが沢山あるのは由来の古さを物語る。
 表の華々しい祭祀を司った首里ノロに対し,真壁ノロは裏の,いわば闇の祭祀を司るという意味で,実は極めて重要なポストだったのではないでしょうか。
※ ハイホーの沖縄散歩/美連嶽
※ 那覇市観光資源データベース/美連嶽
「昭和戦前期まで境内は広さ約250坪ほどのおだやかな起伏のある小丘で、一面芝生が広がり、東よりに高さ5m程の奇岩が直立し、その北面に接して低い石積みの門構をつくり、石香炉が置かれさらにその手前には拝殿跡の礎石が残されていた。奇岩の背後の斜面は境界に沿うようにして竜舌蘭や阿旦(あだん)などが東西に細長く茂っていた。」
※ 首里あるき/美連嶽
「琉球王国時代は、真壁大阿母志良礼(マカンオオアムシラレ)が管轄した御嶽で国家祭祀も執り行われていました。」

※ 沖縄写真/百人御物参 Momoso Omono Mairi
「真壁大あむしられの神殿・住居跡を上の地図では、首里城南側を案内していますが、現在の観光案内では、首里高校西側の路地の居住跡が案内されています。
 実際、古地図を調べましたら高校西側にもあり、つまり、二箇所存在したようです。」
※ 4travel/真壁殿内跡 琉球王国時代の高級女神官の神殿跡
「“玉陵”のすぐ近く、寒川通り(県道50号線)に面する“琉染”と言う染物屋さんの右手横の道を北側に少し入ったところに『真壁殿内跡』の石標が建っています。」