005-5転石の谷\茂木街道完走編\長崎県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ(経路)

転石谷を渡る橋

石公園。1714。
 小さい球場並みに広い!そこに遊具一つ。当然無人です。工業団地に失敗したんだろか?
 振り返ると海!
 その先に──ついに現れました。1720,複雑な交差点。

▲1726橋を横目に

り返すけど,複雑です。
 西対岸に国道。でもその手前に深い谷があります。そこまでをドドーンとゴッツい橋が渡してある。そこに道が橋に上がるルート,くぐるルートとロータリー状にぐるぐる巻き付いてる。
 南側から川沿いに出る道を見つけるのに,しばらく地図とにらめっこしました。
 1726,橋桁くぐる。谷の北すぐには転石交差点とトンネルが見えてる。
 このドドーン橋の名前がどうもヒットしないけど,長崎自動車道・長崎南環状線の入口とのこと。西の谷向こうのトンネルは「唐八景トンネル」で,つまりこのトンネルの上の丘が唐八景みたいです。

旧県道 岩を穿った祠 白花

▲1732石垣のごっつい集落を行く

はこの転石の谷道が,今回初めて歩いた茂木側の道で一番気に入った辺りでした。
「散歩道」にも「旧県道」というカテゴリーで細かく写真を載せてあります。ただ…土地勘が全然ないのでどの辺りなのか見当つきません。→〔市HP散歩道〕/古写真1

▲岩窟の祠

転石自治会掲示板。ここからの坂道の上に鳥居が見えてる。ただ参道が視認できません。藪に覆われたのか,そこで途切れてるのか。
 やはり古い土地らしい。上の写真の,岩肌に穿った祠などは,結構珍しい形態に思えました。

谷底の古都,地蔵にミルクティー

▲1739ラブホと道

おっ!こんなところにホテル古都!ご休憩3800円~!1747。
 Ad田上一丁目22。
 大分,谷は狭くなって道の選択が出来なくなってきました。
 登る。

▲車道に戻る道の壁に白い花

のすぐ横に沿った道が下に見えてます。〔市HP散歩道〕にある「旧県道」とはこちらのことでしょうか?
 なかぬか分岐が見つからなかったけれど,1735,下の道に抜けれました。
 谷底という感じの道。上のバス道からは想像できません。
 ただこの道もすぐ途切れ,上の道(おそらく新県道)に再び合流してました。

▲午後の紅茶とお地蔵様

田上交差点:上海亭から良い香り

がぽつぽつ続いてます。
 茂木街道最難所,とでも言うべき場所だったでしょう。長崎の道のパターンからして街道の目印のようなお堂でしょう。
 
▲谷の道。かなり険しくなってきた。

うすぐ上は田上の交差点のはずなんですけど…この辺りの傾斜は,延々と長く続いた印象です。
 ただもう上に登りきるしかない。ひいひいと汗を拭きつつ,ひたすら登る。
 ズボンも汗だく。今回の長崎は,二晩ともズボンも含めた大洗濯をする羽目になりました。

▲国道をくぐる水路

道そばまで来た。1750。
 これをくぐる川のトンネルが渋いぞ!それにこのトンネルは,現に川筋が国道をくぐるのに使われてて,要は現役らしい。
 Ad田上一丁目18。ついに国道に出た。対面に野口タクシー。
 1756,バス停田上。そばの上海亭から良い香りが漂ってきてる。
 1758,田上交差点に達す。北へ渡って左折西行。

▲肉のタニガワのシニカルな笑み

地,つまり長崎-茂木間の最高所を最後の登りをかかる。
 この辺りは,〔市HP散歩道〕に相当数の古写真があります。茂木街道で一番賑わう峠茶屋だったようです。ただ,そう言われれば…という程しか今に伝わるものはない。
 正確には南の唐八景から低い丘が連なる形。茂木街道はその丘の間を縫うように北上していくわけだけど,ここと唐八景の間に合戦場という丘がある。この地名で後日また引っ掛かってしまう。→巻末小レポ:合戦場
 1804,肉のタニガワ。このマンガはよろず通りのメガネ屋と並ぶお気に入りになってしまいました。

■レポ:合戦場で誰が戦ったのか?
(1) 日本の「合戦場」

「合戦場」でググると,ハゲしく見当違いの場所がたくさんヒットする。「昔戦闘があった」という由来ははっきりしてるから,どこについててもおかしくない地名ではあります。観光地としての知名度で挙げてみると──
①栃木県下都賀郡都賀町:「かっせんば」。大永年間(1523年),宇都宮氏vs皆川氏。
栃木市立合戦場小学校
②福島県二本松:読み未確認。11世紀末(前九年の役)八幡太郎義家vs安倍貞任・宗任
③長野市篠ノ井横田:「かっせんば」。1181年城氏(平家方。越後)vs木曽義仲
 そもそも長崎の「合戦場」の読みが知りたかったんだけど,それも分からないまま,どこの「合戦」も…年代にしろ彼我の将にしろ戦後の影響にしろ…えらくマイナーです。教科書に出る前九年の役がややメジャーでしょうけれど,よく読むと,後三年での活躍の方が有名な義家が二本松で戦ったというのは史実性に乏しい。
 よく考えたら「○○の戦い」と名の付く「合戦場」なら「○○」と名付けるはずです。マイナーだからただの「合戦場」なんでしょう。
 それはともかく,合戦場小学校の児童は,やはり日々激しい下剋上を繰り返しているのだろうか。

(2) 長崎の合戦場

 さて長崎はどこなのかと言うと──ここ。→GM.:祝捷山公園
 ホントにすぐ近くでした。前回の万年坂まで行くと行き過ぎ,田上病院だと手前になる位置。この両者と前掲「肉のタニガワ」を結ぶとちょうど間になる。──こんな説明は稀だろうから,調子に乗ってGM.経路に落とすとこんな感じ。→GM.経路
 問題は,こんな場所で誰が戦ったんだ?ということですけど──深堀氏と長崎氏の,らしい。
(1)の定説に漏れず…マイナーじゃのう。
 ただ,この両者の対立は長崎史上は命運を左右するものだったらしい。
 長崎氏はもちろん現在の県・市名になってる元々の領主。対する深堀氏は,現長崎市深堀町に名を留めてます。

(3) 長崎氏vs深堀氏

 深堀氏の本拠は江戸期の城の残る現・深堀町と同じ場所とされてるようだけど,実態的には決めつけない方がいい。
 素人なのでかなりこんがらがる情報収集でしたけど,戦国末期=16世紀後半の九州三国鼎立期における当地武家勢力の関係は──細かくは皆さん親戚で,しかも裏切りまくって超複雑ですけど──単純化するとこんな感じでしょう。
龍造寺 ー 西郷 ー 深堀
┏有馬†ー 大村†ー 長崎†
島津 ※†:キリシタン大名
 深堀家の当時の当主・純賢は先代の養子。西郷尚善の実子です。長崎攻めで兄・西郷純堯の名が何度も登場することからも,龍造寺傘下の西郷家が名家を乗っ取った事実上の分家です。
 興味深いのは,大村家も同様に有馬家の実質的分家になってること。イエズス会に長崎と茂木を寄進した大村純忠は,有馬晴純の実子。こちらは既に嫡男・又八郎がいて,それを他家に養子に出しての乗っ取りで,翌年先代が死亡するという分かりやすさ。又八郎・のちの後藤貴明は城内家臣と通じ終生復権を狙い続けた。
 大名家名が沢山出てくるから分かりにくいけれど,16世紀後半の肥前にキリシタンの一集団が有馬家を先頭に社会的勢力になりつつあった,と考えればいいと思います。
 この時代の長崎市内の伝承にも「反キリシタンの一団が××を襲った」というものがある。
「合戦場」での戦いがいつのものかは定かでない。でも深堀氏の長崎来襲は一度ではなく執拗に繰り返されたらしい。──そりゃそうだろう,宗教的な敵として龍造寺ラインからの指示を受け,かつ島原を拠点に有明海を支配する西郷ラインからは経済的なターゲットにもされてたわけですから。
 歴史に残るはっきりした攻撃は二回あるようです。まず元亀元(1570)年。西郷家の大村家攻めに呼応し,深堀純賢が長崎家攻撃。しかし村落民の抵抗に遭い撤退。次が天正2(1574)年。深堀純賢+西郷純堯の兄弟連合軍が長崎純景拠点を攻撃。長崎家の砦やトードス・オス・サントス教会を焼いた。つまりこの時は長崎家は長崎での「本土決戦」をやってる。
 その結果を明確に記した史料が見つからないもけれど,その後の推移からして西郷・深堀側は長崎の恒久的な占拠には到っていない。おそらく撃退したのでしょう。武将の知略とかより「村落民の抵抗」の強靭さが推測されます。

(4) 長崎・茂木のイエズス会寄進の目的

 こうした経緯を追ってきて,初めて大村純忠の,というより有馬・大村・長崎キリシタンラインの長崎・茂木の寄進が何だったのか見えてきます。
 定説的には長崎関税収入権益の確保が挙げられてるけれど,それならなぜ茂木までセットだったのか?
 加えて深堀家拠点の位置を考えてみるといい。長崎港から外海への出口です。現に深堀家は豊臣政権下でも長崎出入りの船から通行料を取って,秀吉の怒りに触れてる。また,江戸期に入って有馬家の水軍はポルトガル船を包囲・撃沈しており,おそらく松浦残党の旧和寇勢力を手中にしていた。つまり征海権も奪われてた。
 天正12(1584)年の沖田畷の戦で寡兵の島津・有馬軍が龍造寺軍を壊滅させ隆信を戦死させる。そんな予想は誰も立てられない当時,長崎のキリシタン集団には前途の見込みが全くなかった。
 前史として,大村純忠は天正3(1575)年に福田港を開港。深堀家の征海域から離れてます。でも今度は松浦家の攻撃を受けます。
 天正6年(1578年),長崎港が龍造寺の本軍に攻撃される。これを純忠は「ポルトガル人の支援によって」撃退。つまりもうこの段階では,長崎家や深堀家は出てこなくなります。
 天正8(1580)年,長崎・茂木はイエズス会に寄進されます。誰の誘いに誰が乗ったのか,起死回生の策です。非日本領としてキリシタンの聖域を作り,茂木を入口としてスペイン・ポルトガル勢力を注入する。ここへの攻撃は対国家間戦争を意味する,という形で対立の構図を政治的に一気に格上げしてしまう。
 ただし,カードを切った有馬~長崎ラインも,おそらくこれを見て呆然とした龍造寺~深堀ラインも想像を絶していたのは,その対国家レベルの強談判が出来る勢力が早期に形成されてしまったことでしょう。
 1592年,秀吉が長崎を「没収」し直轄領化。

(5) 3潮流の狭間:何と何がぶつかったのか

 以上の推移を,海域アジアの視点から捉え直してみるとこんな感じになるんだと思います。
(陸上勢力)(海上勢力)
     【海賊勢力】
龍造寺 ー 西郷 ー 深堀
     【民商勢力】
┏━━━━有馬†ー 大村†ー 長崎†
島津   【官商勢力】
豊臣━━━(長崎代官)
     ※†:キリシタン大名
 16世紀末,いわゆる和寇は五島から平戸に逃げ込み,龍造寺はこの勢力を傘下におさめていた。
 長崎エリアのキリシタン集団が単なる宗徒だった段階では,龍造寺側の興味を引かなかった。けれどそれがポルトガルと通じて海上交易のマーケットを構築し始めると,途端に不倶戴天の敵と捉え始める。
 それが新原理のマーケットだったからでしょう。
 複雑なのは,その後すぐに東アジアを覆った官商による統制経済──多くは海禁政策の潮流が,日本中央から被さってきてることです。
 ただおそらく長崎の街にとっては,この3つの狭間を縫う,正確には飛び石のようにうまく適応していくことが出来た。個人単位では様々な悲哀や悲劇は生んでますけど,街としては壊滅することなく江戸初期の繁栄を迎えることになる。
 この微妙なバランスで歴史の縁をギリギリ駆け抜けてる奇跡のような推移は,なかなか世界的に希有だと思います。
 次章で,図式化した6人の末期を,和田龍風にまとめて思いがけない長さになったレポの筆を置く。

(6) 6つの末期

 勢力の大きさを加味して考えると,キリシタン側の伝承が圧倒的に多い。西郷・深堀は没年も不明確で,大村・長崎の敵役として高名だとすら言えます。
§龍造寺隆信:法名円月。主君を少弐・大内・大友・毛利と変えた末,九州鼎立の一角に。天正12(1584)年,沖田畷戦で敗死,首級の所在は諸説あり不明。
§西郷純堯:生年・没年とも不明。深堀純賢の兄。
§深堀純賢:同じく生年・没年とも不明。秀吉には本領安堵されるも海賊停止令への違反により所領没収。朝鮮役を機に鍋島氏の家臣となる。
§有馬晴信:幕府の交易担当として活躍するも,本多家臣からの長崎奉行謀殺嫌疑で甲斐に流刑,慶長17(1612)年自害させらる。
§大村純忠:龍造寺家に屈服し隠居,子は沖田畷戦に従軍。秀吉の九州平定で本領安堵,天正15(1587)年に3月咽頭癌と肺結核で病死。
§長崎純景:全所領が天領化され,諸方を転々とした後,大村家に100石で仕え元和7(1622)年に時津で没。

※ ごくつぶし/合戦場の名の由来
「昔、この丘陵地帯で長崎氏と深堀氏の合戦が行われた事から人々は合戦場とこの地を呼んだ。」
「当時、丘の竹やぶ内に戦死者の墓も散在していた。昭和30年ごろより、運動場の拡張や丘陵地帯の開発が進み、住宅が立ち並んで昔の面影も無くなった。」
「上の記事に石碑と書かれていますが、その向かいにほとんど崩壊した鳥居が立ってたのです。いまはどうなってんだろうか?」
深堀氏
「文永十一年(1274)の蒙古合戦い出陣、つづく弘安四年(1281)の蒙古再襲来に際しては、壱岐まで進攻して戦功を挙げ、肥前国神崎庄に田地三町、屋敷、畑地を賜っている。」
「永享五年(1433)、深堀時清が時遠に所領・所職を譲渡した。以後、戦国時代の貴時に至るまで、深堀氏の動向は史料から知れなくなる。」
「深堀氏の家督となった純賢は兄の西郷純堯と結んで、長崎の大村純忠と争い、大村氏に味方する長崎氏とも抗争を繰り返した。元亀元年(1570)、純賢は大村氏を攻める純堯に呼応して長崎氏の館を攻めたが、村落民の抵抗に遭って兵を引き揚げている。」
「天正二年(1574)純賢は兄純堯とともに長崎甚左衛門純景を攻め、長崎氏の砦と城外およびトードス・オス・サントス教会を焼いている。天正五年、龍造寺隆信が大村氏攻めを行うと、純賢は龍造寺氏の援助を受けて、大村氏の長崎を攻め、続いて同六年にも長崎を攻めた。」
深堀氏考
「戦国時代には、竜蔵寺氏に従い大村純忠と戦った。戦国時代の血脈として、竜造氏軍門の西郷氏からの養子(深堀純賢)の後、鍋島氏の縁戚石井氏からの養子(深堀茂賢)をとっている。」
「深堀氏は長崎港を利用する貿易船から通行税をとり、拒否すると積み荷を強奪していたが、これが海賊行為として豊臣秀吉の怒りに触れ、一時全領地を没収された。」
「鍋島氏より鍋島姓を賜り、知行髙6000石の佐賀藩家老・長崎奉行大番頭として江戸末期まで続いたとされる(深堀鍋島家)。」
「長崎市深堀町には深堀姓が多い。また長崎市深堀町には、元禄13年に「深堀騒動」と呼ばれる大事件が起こっている。長崎代物替会所頭取高木彦右衛門の西浜町の屋敷へ鍋島家の深堀衆21人が討ち入り、彦右衛門らを斬殺したもので、元禄15年の赤穂義士討入りの手本にされたといわれる。」
※ 旅する長崎学/第19回 深堀の城下町と善長谷教会
長崎の豪族たち
「長崎の歴史は、キリシタンのための開港と貿易の歴史が華やかで、それ以前の長崎がどんなだったかということを、知らない人も多い。」
※ wiki/深堀純賢
「永禄8年(1565年)8月、純賢は深堀氏に養子として入り18代目を継いだ。」
「天正元年(1573年)、長崎を攻めた純賢は、満潮を利用し六十艘の船で夜襲を仕掛けた。」
※ 武家家伝/西郷氏
「尚善は深堀氏と交流があったようで、深堀善時の烏帽子親をつとめ、善の一字を与えている。そして、のちに尚善の孫純賢が男子のなかった善時の養子となり深堀氏を継いだ。」
大村氏
「純前の養子となって大村氏を継いだのは有馬晴純の子純忠である。純忠は日本初のキリシタン大名となっている。
 ところで、純前には又八郎と称する実子が一人いた。本来ならば大村の家督をつぐべき身であったが、かれは有馬晴純の仲介によって武雄の領主後藤純明のもとに養子に出され、その跡に純忠が大村家の養子に迎えられたのである。
 純忠が大村家を嗣いだ翌天文二十年に、養父の純前が死去した。一方、武雄の後藤氏の養子となった又八郎は、のちに後藤貴明と名乗り、大村家をついだ純忠に終生恨みをもちつづけ、同家の反純忠派の家臣たちと通じて、しばしば純忠を危機に陥れた。」
※ wiki/有馬晴信
「天正10年(1582年)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。天正15年(1587年)に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。」
「慶長14年(1609年)2月、幕府の命を受けて高山国(台湾)に谷川角兵衛を派遣し、貿易の可能性を探っている(『有馬家代々墨付』)。
慶長14年(1609年)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めた。そこへマカオにおけるポルトガルのカピタン・モール(総司令官)であるアンドレ・ペソア (Andre Pessoa) がノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。」
※wiki/福田忠兼
「1564年から1565年にかけて兼次や忠兼の所領であった福田に南蛮貿易港が開港し、教会が建設された。イエズス会の本国への報告書では、この永禄年間に福田城下には1000人を超えるキリシタンが居たとされる。この福田港の繁栄を妬んだ松浦隆信は同年、福田港に攻撃を加えるが、忠兼はこれを撃退した。」

■付記:天正8年戦争の兵力動員とその直近3年の状況

 後になって,この時期の状況を詳細に検討している安野眞幸さんの「中世都市長崎の研究」を読む機会を得ました。
 以下は同論文むすびの表7に当たるもので,これを見ると,「誰と誰が何を争ったのか」さらに迷いが増します。

天正6・7・8年の長崎各勢力の城外動員兵力

* 安野眞幸「中世都市長崎の研究」『日本歴史』310号,1974
 当時,長崎には各地から庶民(おそらく倭寇残党も含む)の流入が多く,彼らによる六町を中心とする「長崎自衛隊」が,本文の天正2年合戦を契機としているといいます。一戸から1人というイスラエル並の動員により戦力に自信を得た彼らが,天正6年には深堀氏と,翌7年には長崎氏と戦闘をしています。7年戦では長崎氏が上表に「玉園坊」と記す神宮寺僧兵群と連合し,これが8年戦でのキリシタン動員を喚起する「宗教戦争化」を招いたともされます。
 問題はその動員元ですけど──

これに対して大村氏は、田中太郎右衛門忠知・同薩摩守忠邦の兄弟、朝長下総、神之浦村の領主、神浦丹波守正信、福田村の福田大和守忠兼、三重村の東(久松)新兵衛澄茂・同新介の兄弟等、都合百四十五人を援兵として差向けるのであるが、神之浦村、三重村は現在でも尚、隠れキリシタンが存在しているのであるから、これら大村の援兵が、イエズス会士の督励によって組織されたものであることは、まちがいのないところであろう。[安野1974]

大村氏(イエズス会)援兵動員元となった三重村・神之浦村と長崎の位置図

 西彼杵半島を股にかけた動員です。安野さんの見るとおり,大村軍への志願兵と言うよりイエズス会の民兵というのが実質でしょう。
 そしてこの戦争で深堀氏勢力が長崎中央部から駆逐された直後,大村氏からイエズス会へ長崎・茂木が「寄進」されている。
 安野さんが同論文末に書く通り「天正八年までは,イエズス会士達がいう程,長崎はキリシタンの町ではなかった」のだとすれば,8年戦は三重・神之浦民兵団による「長崎征服」で,彼ら勝者によりイエズス会領化とキリシタン改宗が専制・急進的に行われた,という見方すら可能になってくるのです。
 この点で奇異なのは,6・7年戦で主体になった長崎町方軍が,8年にのみ語られないことです。
 長崎町方は,この時,深堀・長崎・イエズス会のどの勢力とどう結びついて,「天正九年ニ一人モ不残耶蘇宗ニ帰ストイエリ」(「長崎縁起略評」。長崎市立博物館「長崎旧記後考」と同文)という状況に帰結したのでしょう?

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