m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m3あまみきよの道(ニライF69)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
前頁掲「南城市緑地・遺産環境保全区域〜ヤブサツの浦原周辺〜」図の全体〔後掲ameba〕

目録

やふぁしのうらばるの海

阿摩美久の道の心臓部,受水走水に出たのは,実は偶然でした。
 北からの三叉路を折れた百合(ひゃくな)。この集落は物凄く道が複雑でした。分からなくなって進んでると「みーばるビーチ」という看板が出た。それをよすがにGM.を見てたら「受水走水」(うきんじゅはいんじゅ)が近かったんで,寄ってしまったという成り行きでした。
 西は新原貝塚群から東はアイハンタ御嶽辺りまでの石灰岩丘陵付近を指す「ヤブサツの浦原」※を,南城市が観光用に呼び替えた名が「アマミキヨの道」。
※読み∶やぶさつのうらばる。「やぶさつ」は地元では「やふぁし」とも。

と思いきや,もうGM.にもちゃんと表示されてる「あまみきよの道」
「琉球国王が隔年旧暦4月,稲の初穂儀礼に(略)親拝されたことが,後の『東御廻り』信仰に、つながっていきました」〔前掲案内板〕とある(巻末参照)。
 1336,「受水走水」と記す朽ちた標識から,なぜかまず海側へ足が向きました。

視感のある砂浜への道。
 清らかな浜です。
 やはり,何もない。琉球の浜は何もないからニライに通じてる。
 ひとしきり潮を吸って振り返る。浜から見る丘の連なりはむおんと神気が凄まじい。
 山側へ。

まみきよの道
〔日本名〕新原貝塚群(南城市玉城百名)〜アイハンタ御嶽(同)
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕百名収容所・養老院・孤児院

鶴は新原の「からうかは」に落つ

か,ウチナンチュのサイトには「受水走水」を「じゅすいそうすい」とか「うけみずはしりみず」と読み間違えた子どもが神隠しに遭った,とか書いてます。国語に弱い子に厳しいカミ様らしい。
「うきんじゅはいんじゅ」にはあぜ道を辿るとすぐ着きました。こちらです。
▲受水走水の田んぼ

〜ん。げに,田んぼよのう。
 案内板。

「琉球国由来記」(略)によれば,阿摩美久(アマミキヨ)がギライカナイ(略)から稲の種子を持ってきて玉城親田,高マシノシカマノ田に植えはじめた。又,伝説によると昔,稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の『カラウカハ』という所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御穂田)に移植されたという。

 神名は「ホリスマスカキ君ガ御水御イベ」。

はここ,沖縄通いを初めた頃に「有名な観光地」として訪れてます。
 その時も「田んぼじゃん!」でしたから,ここまでは想定内。田んぼ以上のものを見つけれるかどうか,です。
「田んぼ」の山手正面に,さらに三本の道が伸びてます。不思議なことにこれに触れた記録がないから,一応図に落としてみると──

本邦初!……の気がする受水走水周辺山道配置図!

右の水源地の祠

とこの三本道,地理院地図にも書いてない。赤線は,まあ方向と長さだけを感覚的に引いたラインです,ワシが今。
 中ほどの道を無視したいので,まず右へ。「親田」と表札があるのは岩と岩の間──を抜けた向こう。おおっ,このパターンは「奥宮」みたいなのが座すパターン!どうだどうだ?
▲右手の祠
き水が岩肌からちょろちょろと零れてる。その出口に方形の祠。
 写真の通り,そう古くは見えません。でも写真の通りにちゃんと拝んだ跡の黒い燃えカスがある。
 この水がさっきの田んぼに流れこんでるみたい。だからおそらく拝みの対象は水の源,あるいは生成自体です。沖縄各地の「ガー」(井戸)信仰の原初形?
 その後ろの岩壁──これも古い感じはしないんだけど,何というか……えらく特徴的です。写真の通り,いや何となく。
──というわけで,次は正面の道の番になってしまいました。階段は確かに古い感じがするんだけど,この登りが……

中の道 何かだった曲がり角

▲1401登る道
ツい!それでもって思いがけず深い!
 蓮の生えるごく小さい川を橋で渡る。間違いなく下の田んぼの水源ですけど……不思議なことに祠らしきものは一つも見かけない。それは沖縄の聖域には珍しいことじゃないけれど,ここは階段があるんだから「イビ」(立入禁止の聖域)の体もとってない。
▲1404何かだった雰囲気の曲がり

凄く上がった果てに出たのは,上のアスファルトの路地。
 ん〜?
 明らかに神域の道ではない。さっきの垣花樋川の抜け道に似てるから,客観的に見てやっぱり……散策道だろうなあ。
 真冬だけど……暑!
 下る。──ん〜。まあただ,この,きっと広義の御嶽であろう森の雰囲気は分かるわな。樹叢としても物凄いシロモノに思えるけれど……判断がつきません。

左の楽しい水辺

▲1407左の道の奥

いうわけで(ゼーッゼーッ)左手の道へ。1406。こちらも水の出口の祠らしい。
 右手よりさらに素朴な感じです。焼香壇はなく,拝まれてる雰囲気はない。垣花樋川ほどじゃないけど,良い水辺,という場所でした。
 う〜ん。
マミキヨの道をそのまま北東へ。1410。
 あらら?行き止まり?林道はずっと伸びてるらしいけど……バイクではコワいなあ。
 1419,国道へ上がって東へ進む。
 一瞬,海原に平たい島。凄まじい美景。久高島──しかこの方向にはないでしょう。
 東行。

戦争は終わりました 百名知念へ行きなさい

▲1424海。久高島(だと思う)遠望。

名をこの辺りで後にしたはずですので唐突ながら──もう一つ見つけた百名収容所の記事をご紹介しておきます。wikiの転載なんですけど──1945年6月末の「百名」は,登降先として米兵の口から繰り返し語られた地名らしい。

20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く見えました。数百メートル先の丘には米兵の列が見えるが、タマは来ない。『戦争は終わりました。降服しなさい。男はふんどし1枚、女は着のみ着のまま百名知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えられます』と米軍が放送します。上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさまはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう1人の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。〔後掲wiki/百名収容所〕※原典 榊原昭二『沖縄・八十四日の戦い』新潮社版 1983年 p. 189

🛵

藪と何とか見分けがつく壁

り過ぎかけて急ブレーキで路肩に原チャを停める。1429。
 ここもまた通り過がりでした。志喜屋グスク。

喜屋城
〔日本名〕南城市知念志喜屋
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-

十六~十八世紀を中心としたグスクです。独立した小さな丘を取り囲むように石垣をめぐらし,周辺には共同墓地があります。発掘調査の結果,中国製陶磁器やよろいの部品などが出土しました。〔案内板〕

▲1428志喜屋グスク

に入ると,藪と何とか見分けがつく壁。だから材質は全く見て取れない。その前に小さな祠一柱──いやこれは拝壇で,すると本尊は、この岩壁そのものか?
 これは高貴な一族の旧家跡を御神体に据えたパターンです。
 ただ道端です。今はガラス瓶が転がってます。
🛵
道331は意外に交通量が多い。かなり苦労して右折した記憶があります。1439。具志堅で再び海側に降りてみる気になりました。
 え?何だこの道は?幹道がどれなのか,全く見当がつかない。
 おそらく知念城の南(→GM.∶地点)のこの辺だったんだろうと思われます。

知念の腰あてに追い戻される

南城市知念字知念の海側集落図(地理院地図)
念知念」と表示されてるのは,誤記ではなく(村※巻末参照)知念の中の(字)知念ということらしい。つまり知念の本集落(腰あて?)と思われます。
 今見ても,何でこんな複雑な道が出来てるのか見当がつきません。昔,傾斜を緩くするためのS字道があった上に集落が出来て側道が伸びたらこうなるのでしょうか?
 とにかく勘で走っていくと迷い抜いた果てに方向すら分からなくなり,気づくと国道の知念のバス停(→GM.)に出てました。1448。集落に追い返された,という感じです。
 悔しいので,もう一つ東から再度海側に下る。今度は海には出ました。
▲知念漁港

どこれは……ずいぶん東に来すぎたな。右折,西へ少し戻る。
 1456,知念漁港。久高島行きの出る北の安座真港とは別に知念が有す生活港湾。施設は新しい。月の第3日曜には朝市が開かれるといいます。
 そこからすぐで1457,神山之殿(かみやまぬとぅん)。

山之殿
〔日本名〕沖縄県南城市知念443
〔沖縄名〕かみやまぬとぅん
〔米軍名〕-

▲神山之殿全景

消えゆく旧神人集落・波田真村

さな丘が道端にある。ただそれだけの風情だけど,「海を見下ろす低い丘」は沖縄の聖地にはむしろ類似例の多い立地です。
 暗がりに入ると,祠らしき穴の空いた岩。藪へ続く道の入口という感じだけしかない。沖縄らしい聖の空間です。
▲1459神山之殿のイビ

かっている事実を連ねると──「流球国由来記」に「神山之嶽(神名:森司嶽ツカサノ御イベ)」とある。波玉巫というノロにより「毎年三・八月、四度御物参之有ニ祈願一也」という。
 丘陵の裾にあたる標高約13m地点に位置する。歪な円形をした約30坪ほどの広場中央近くにアカギの古木が1本生え,これに接し4本のアワイシ(粟石)製の高さ1m未満の石柱が残存。柱周辺に赤瓦の一枚物や破片が散乱することから,瓦ぶき屋根の建物の支柱と推測されています〔後掲沖縄文化・観光ポータルサイト〕
 ここには昔「波田真村」という集落があり,年中行事や御願を行う場所と伝わる〔後掲らしいね南城市/神山の殿〕。戦前は5月4日にハーリー祭が行われた〔後掲沖縄文化・観光ポータルサイト〕けれど,現在は集落での祭祀は断絶。1982年に市の文化財(史跡)に指定〔後掲なんじょうデジタルアーカイブ〕
🛵百円とは言いながら──御嶽巡りでお金を払ったのって初めてじゃないだろうか?
 1512,斎場御嶽。
 え?え?有料ガイドが1日10回転以上??
 沖縄通い初めにし頃,野辺を歩くように閑散としてた情景を思い起こします。こんな観光地になったんだ…。
 でも──今回の流れでは,ここだけは見ておきたい。

■レポ:神世とアメリカ世が交差する知念

 知念南部地域の近世以前の歴史には,一次史料らしいものがほとんどない。
 沖縄発祥の地と伝えられる場所なのにも関わらず,です。あるいは発祥の地だから,ないのかもしれません。
 その背景として考えられるのは三つ。沖縄のホントの聖地はこうした形だから,という本質論。ホントに古いから完全に忘却されている,といった歴史性。
 もう一つは,ホントの沖縄発祥の地だから,久高島と斎場御嶽の象徴する尚王朝公認の聖地以外の記憶は抹消された。つまり政治色です。
 それらを承知の上で,以下,史実に喰らいついて行ってみます。

1 知念村∶知念間切の14村

 繰り返すけれど近世以前は分からない。ただ琉球処分前後から少し記録があります。

【19C以前】以下14村が属する知念間切が存在。間切番所は知念城内。
・志喜屋 ・上志喜屋
・鉢嶺  ・仲里
・山口  ・具志堅
・知念  ・波田真
・寒水  ・久手堅
・安座真 ・知名
・外間  ・久高
【1908年】島嶼町村制施行により,知念間切→知念村に変更。以下7字(分立後11字)が帰属。
・志喜屋 
・山里
・知念(後,具志堅が分立)
・久手堅(後,富貴利が分立(→現・吉富))
・安座真 
・知名(後,海野と久原が分立)
・久高

 具志堅の分立と19C末の村の列記などは整合しませんけど……この戦前11字段階の地域がたまたま確認できるのが,次の地図です。

知念地区の主な戦跡マップ。沖縄戦時点の知念村11字も確認できる。〔後掲南城市教委〕
 右手が北の地図です。数字のマーク【12】が知念漁港や神山之殿の北側の丘,【4】が斎場御嶽。
 ここでは一応,上記地図での知念と具志堅を合わせたエリアを「旧知念村」と定義してみます。
 改めて驚くのは,この旧知念村域に最高聖地たる斎場御嶽が含まれていないことですけど──後に回して通史を先に見ましょう。
 知念エリアの戦闘については前章で触れましたけど……その後,終戦の1945年中に,知念は何と市になっています。

2 知念市∶主産業は収容所

【1945年】6字(久手堅〜志喜屋)が避難民収容所となる。人口2万5千人を超過,知念市発足(庁舎・志喜屋)。
※1946年1月に「地方長」及び「地方総務」に改組される過程で廃止

1950~60年代の知念村部落の運動会の写真。左端にはアメリカ人らしき男性。右から二番目は与那城町長も務めた具志堅順助さん〔後掲aha!〕

 知念には米軍の「知念補給基地」(通称:キャンプ知念)がありました。現・琉球ゴルフ倶楽部の敷地がこれに当たるという。
 キャンプ知念について残された記録は少ない。──ただ,カメラの修理工場があり,そのカメラで撮った字知念地域の古写真が多数残っています。当時のカメラの修理工の証言では,本来持出禁止の米兵所有カメラを,修理状況の確認の名目で基地外に持ち出し撮影したものという。〔後掲aha!〕

【2006年】佐敷町・知念村・大里村・玉城村→南城市に合併〔後掲wiki/知念村〕

 総括すると,「知念」名の行政区分は,間切→村→市→村→(南城市に吸収)という経緯を辿って消滅います。──2022年現在,ここの郵便番号区分には「知念知念」(〒901-1513)とされ,最初の二字は旧村名,後の二字は字名を引き継いでいるらしい。内地なら通常「本町」「古町」などに改まるところをあえて繰り返してるのは,余程の矜持があるものと察せられます。それを尊んで以下この字知念を「知念知念」と呼びます。
 こうした矜持はその逆行でもあるのでしょうけど──残念ながら,純粋な意味での伝統村落は,爆発的拡大の時期を経た知念ではアメリカ世に相当希薄化してしまったと考えた方がいい。
 さて,ここまでで抽出した論点を振り返ります。

論点1 久高島から本島への正面はどこ?

 アマミキヨ降臨の記述として,どうもまとめて記述された史料はなく,基本的に伝承ばかりらしい。それは大まかには──

【降臨】大石林山(旧名・金剛石林山→GM.∶地点)
【開闢】久高島に上陸
∵1)開闢御嶽中,久高島にコバウ森(クボー御嶽)有
(※原文「中山世鑑」は下記リンク参照)
∵2)アマミキヨは天帝から賜った五穀の種子を久高島に撒く。〔琉球国由来記久高島行幸〕

【渡海】ヤハラヅカサの浜
・浜川御嶽(はまがーうたき)に仮住まい
・ミントングスク(玉城仲村渠)に定住
【遥拝】斎場御嶽
∵聞得大君(きこえおおきみ∶王国最高の神女)の就任儀式(お新下り(おあらおり))開催場所

〔後掲タイムトラベル沖縄,オリオンストーリー,らしいね南城市など〕

 日本神話と同様,神話は論理的に明らかに破綻しているほど正直に伝えらた蓋然性が高い。
 アマミキヨ降臨神話は地理的にもストーリー的にも,明瞭に破綻してます。──沖縄本島最北の山地から最東の島へ移動?知念知念のヤハラヅカサに上陸し,仮居・本拠とも同地だったのに,現・礼拝地はそこまでのストーリーにない斎場御嶽?

久高島から見た本土への理想漂着点

開闢神話に関わる聖地 北部・南東部。ただし,中山世鑑に記述する9開闢御嶽以外の3箇所は引用者が括弧書きとした。〔後掲那波〕

 島尻東南部への開闢聖地の偏在性は誰の目にも明らかだけれど,数が多いだけに,そのドットがはっきりと知念半島南側に集中しています。
 なぜでしょう?
 安座真港からの現・久高島航路であることを意識に入れると,安座真やそこからすぐ南の斎場御嶽が久高遥拝に最適で,知念知念の聖地群の位置の方が不自然に映ります。
 けれど,アマミキヨが沖縄本島に渡ったのは古代〜中世。船体はサバニに近いものでしょうし,航海術の基礎も磁針ではなく目視中心のはずです。
 本島に向うなら,直線距離より目標の方が重要だったでしょう。
久高島-知念半島間地図(地理院地図)

 一つは,久高島から見て中間目標として岩礁が連なっている先にのが知念知念側だということ。上図の通りクマカ岩など複数の岩が,漢字も当てられぬまま存在します。
 もう一つは,高度の高い稜線が,斎場御嶽方向より知念知念方向に多いこと。斎場御嶽裏の山は149mでかつ単独峰ですけど,知念知念側にはそれより少し高い稜線が長く続きます。
久高島から見た沖縄本島〔後掲ちょっとディープな沖縄旅行,OKINAWA41〕

 中世アマミキヨ族による久高から本島への航海は,知念知念方向へ向うのが自然だったと推定されます。
 だから,久高島の本島正面は知念知念だったのです。

斎場「さやは」嶽と尚巴志の同時代性

 これは逆に言えば,開闢御嶽中,北に浮いているような斎場御嶽の性格を物語ります。
 ここは,佐敷から久高島沖を抜けて八重山,台湾,福建へ,近世型大型船舶が磁針を用い一定深度を航海するようになって,出港帰港時の航海安全を祈念する御嶽だったのではないでしょうか。──佐敷へ向う船は,まず久高の平たい特徴的な島影を見ます。それを迂回して,斎場御嶽の丘・須久名山を目標に港に近づく。これを回り込んだ先の佐敷を目指したのでしょう。
 おもろそうし※の巻10の4には次の歌があり〔後掲Wikisource〕,どうやら斎場御嶽は「さやは」という音名の御嶽に,日本神道風に当て字を被せたものらしい。

※1531~1623年,琉球王府直接編纂の歌謡集

◯与那原村稲福親雲上宿にて御規式の御時
かぐら節
22-1530(23)
一聞得大君ぎや/鳴響む精高子が/さしふ 降れ直ちへ/又おぼつ吉日 取りよわちへ/大島きら 直ちへ
【読】一きこゑ大きみきや/とよむせたかこか/さしふ おれなおちへ/又おほつゑか とりよわちへ/たしまきら なおちへ
◯右同所御打立前に
大ざとのげすのおもいあんじぎや節
22-1531(24)
一与那覇浜 聞得大君/八千代 掛けて 鳴響まさに/又あきり口 鳴響む大君/八千代
【読】一よなははま きこゑ大きみ/やちよ かけて とよまさに/又あきりくち とよむ大きみ/やちよ
◯佐敷寄り上げ杜にて(佐敷よりやけもりにて)
うらそいのおやのろが節
22-1532(25)
一佐敷寄り上げの杜に/島寄せる鼓の有る按司/又根国寄り上げの杜に
【読】一さしきよりやけのもりに/しまよせるつゝみのあるあち/又ね国よりやけのもりに
◯斎場御嶽にて(さやは御たけにて)
きこゑきみおそいが節
22-1533(26)
一聞得大君ぎや/斎場嶽 降れわちへ/うらと/御想ぜ様に ちよわれ/又鳴響む精高子が/寄り満ちへは 降れわちへ
【読】一きこゑ大きみきや/さやはたけ おれわちへ/うらと/おさうせやに ちよわれ/又とよむせたかこか/よりみちへは おれわちへ
◯斎場御桟敷にて(さやは御桟敷にて)
22-1534(27)
斎場嶽 御嶽/ゑよ ゑ やれ 押せ/又そこにや嶽 御嶽
【読】一さやはたけ みちやけ/ゑよ ゑ やれ おせ/又そこにやたけ みちやけ
◯御船に被召候御時
22-1535(28)
一押し出たる ゑ/司子 ゑ/吾は 祈て 走り居る ゑ/又走り出ぢへたる ゑ
【読】一おしちへたる ゑ/つかさこ ゑ/あは いのて はりよる ゑ/又はりいちへたる ゑ
◯ 御船帆上ゲの御時
はつにしやが節
22-1536(29)
東方の大主/ややの真帆/押し揚げて 走りやせ/又てだが穴の大主
【読】一あかるいの大ぬし/ややのまほう/おしあけて はりやせ/又てたかあなの大ぬし〔後掲wikisource〕

※番号はwikisouce付番。◯,【読】,下線は引用者。

 この一群の歌は,聞得大君が首里から久高を詣でる際の情景を順に詠んだ歌と解するのが一般的です。この歌群の中に繰り返し「権力者」の姿が描かれます。尚王権でしょう。ただ「鳴響む大君」は本島の王のイメージですけど,「鼓の有る按司」「東方の大主」「てだが穴の大主」は本島征服前の尚巴志の姿に近い。
 そうなると,「さやは」嶽の音と「しょうは」志の音の相似も気になってきます。二語の同源性,つまり「さやは」という聖語が,一方の土地は日本神道的な「斎場」の語を当てられ,一方の大王は中国風な三文字,あるいは「さやは」の人体化称を得て初代尚王名になった,と。

論点2 収容所から米軍政中枢,情報中枢へ

 日本軍は知念半島に相当な防御陣地を築いていたらしい。下の報告書は現・知念屋外運動場と推定される陣地のスケッチ図です。既に日本軍の地下陣地に悩まされてきた米軍は,こうした詳細な分析を行っています。破壊されない状態のものが稀だったからかもしれません。

陣地positionA〜Dスケッチ〔後掲南城市教委第6章第三節p607 原典∶米軍第10軍参謀第2部「インテリジェンス・モノグラフ」Intelligence monograph(防諜研究書)
※後掲南城市教委は陣地位置を現・知念屋外運動場周辺と推定〕

 大勢として,知念半島は一気に征圧されました。下図の青点線(5/31)は米軍進出線です。青実線は6/3。この三日間でほぼ平地部から日本軍を駆逐しています。
1945年6月1日〜3日米軍前線を示した戦闘地図「The Push South」。青線はCommand Position,3 june 6/3(日本軍) 部隊陣地。なお青点線は5/31の米軍進出線で,この3日間で日本軍を山岳部にまで追い詰めていたことが分かる。〔後掲南城市教委第6章第四節p629 図11〕※出典 米防軍(公式戦史)「沖縄最後の戦闘」,1948(Appleman. R. E ., Burns. J.M.,Gugeler. R.A., and Stevens.J (1993)Okinawa:The Last Battle. Washingtonl D.C.: Center of Military History, United States Army) 巻末付録

 極めて希少な戦闘記録中,知念城付近と推測される次のような戦闘もあったらしい。ただこれは戦闘というより,ほぼ残敵狩りの様相です。
1945年6月3日の戦闘イメージ図∶史料※を元に南城市教委作成〔後掲南城市教委第6章第四節p637 図4〕※出典 米軍第7師団日報 2.Enemy operations during period(この日の敵(日本軍の行動))中6月3日分抜粋

8865E※ー日本人の殺害
合計十八人の日本人が、一人または二人組で発見され、知念半烏の一六三高地(8865E地点)に向けて前進中の第三二歩兵隊により殺害された。〔前掲米軍日報〕※引用者推定∶位置的にほぼ知念城跡付近と推測される。

 この18人のプランを想像すると──まず間違いなく,手つかずだった知念半島山岳防御陣地のどれかに入って抵抗戦を試みようとしていたのでしょう。仮にそうなっていれば,司令部が評していたとおり,東南北は崖,西は尾根の陣地はかなり堅固だったはずです。
 なぜ日本軍は,東南の知念てはなく,南の摩文仁へ撤退してのでしょう?

知念半島籠城戦はなぜなかったか?

 
 1945年5月19日頃の第32軍司令部では今後の方針案として「首里複郭案」「知念半島撤退案」「喜屋武半島撤退案」の3案が検討されたことが記録されます。

 知念半島は四周ほとんど断崖と海に囲まれて対戦車戦闘には有利である。しかし、洞窟陣地の数が少なく軍の残存兵力を収容するには足らず、既集積軍需品も僅少である。
 そのうえ、与那原付近が米軍の攻撃を受けて致命的破綻を生じようとしている現状においては、彼我の態勢上から軍主力を知念方面に撤退させることは極めて困難であり、地形、道路網の関係上も不利な状態である。〔後掲仲本〕※原典 防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(南雲新聞社 1968年)p530-532

 洞窟陣地の不足がほぼ唯一の客観的要因です。けれど互いに穴奥で通じているとかでなければ,反撃の拠点には成りえないでしょう。
 映画「沖縄決戦」でも八原高級参謀が「与那原は既に敵の手に落ちておりますから」と知念撤退案を捨てる策を説明しています。
 確かに,半月を要した運玉森の攻略戦が5/22に終わり,米軍は与那原から南部に雪崩込もうとしていました。この東部戦線の米軍の勢いを日本軍はやや過大視し過ぎたのかもしれません。八原高級参謀の計算では軍を知念に撤退させるのは,時間的に間に合わなかったのでしょう。

※ あるいは,大変冷酷な考え方で,他の記述にも書かれないけれど……摩文仁方面には既に県民の避難民が殺到していたので,彼らを人の盾に使う腹があったのかもしれません。32軍は一般的に言われるよりスニーキーな算術能力がありました。その戦法が採れる分,摩文仁の方が有利とする計算は,軍隊ならあり得る計算だと考えます。

 ただ,結果として知念は戦火で荒れなかった。そこで収容所が置かれ南部への避難民の一時受入場所になったわけですけど(前章参照),米軍城下町・知念の歴史はそれで終わったわけではないらしい。

知念は沖縄のワシントンになりかけた?

 1946年段階の米軍の沖縄支配の拠点を4つ挙げるなら,本部・宜野座・コザ・知念らしい。まずモータープール(≒自動車集中管理場所)がこの4箇所に集中させられています。

経済小委員会〔商品輸送・予算・農業組合〕
  五月八日(水)午前九時。
  出席 知事、松岡、又吉、玉城、當銘、護得久、比嘉、安谷屋の諸委員。
  軍政府 ローレンス少佐、ペリー少尉。
諮詢事項(略)
軍政府
  沖縄住民の使用する凡ての車は宜野座、田井等、本部、コザ、前原、知念、糸満、差し当たり本部、コザ、知念、宜野座のモータープールを工務部に移す。修理機械・器具を調査し置くこと。
  東恩納のモータープールの不足分も調査して置くこと。
  ガソリンも一ケ月分調査すること。
  米軍には切符を渡してガソリンを入れさす。其切符は軍政府で発行す。〔後掲沖縄県公文書館/沖縄民政府/経済小委員会 1946年5月8日〕※朱書∶引用者

 この1946年内に,米軍政府と軍民連絡会議が玉城・知念に移っています。実質の行政と立法を明らかに知念半島に集めようとしてる──これが全体としてどういう経緯と構想だったのかは,どうにも分からない。

沖縄民政府は,多くの課題にとりくんだ。手順としては,部長会議で民政府としての意思を決定した上で,米軍政府との軍民連絡会議に臨むのが通例であった。1946年10月には,その前々月に米軍政府が具志川市から玉城村へ移転していたのに伴なって,石川市東恩納から知念村志喜屋に移った〔後掲小林〕

 この次に,これら三権が移ったのが那覇で※,この時には沖縄の「首都」を置く宣言を伴っていますから,一時的に知念は沖縄の都だったことになるのです。

※南城市によると「沖縄民政府は新里に移転し,49年に那覇へ移転」したとあり〔後掲南城市役所2022年5月号〕,これに基づくと(時期はなお未詳ながら)民政府は石川市東恩納(46年10月)→知念市志喜屋→同新里→(49年)那覇と2年余の間に三度移転を繰り返したことになります。

 なお,知念への民政府移転が1946年10月15日から一週間後までに行われたことは次の議事録から推測できます。

軍民連絡会議〔帰還者・移動〕
  十月十五日(火)午後二時三十分
  出 席 志喜屋知事、又吉部長、島袋官房長。
  軍政府 レートン中佐。
諮詢事項
 軍政府(略)
  ホーイ大尉からの伝言であるが、民政府が知念へ移転する時は貿易庁の事務室もお願ひす。(略)
 志喜屋知事
  来週の連絡会議は知念でやりたいが。
 軍政府
  よろしい。
〔後掲沖縄県公文書館/沖縄民政府/軍民連絡会議/1946年10月15日開催〕

建材・電燈 知念のモノ余り そして……

 正確な事情は窺い難いけれど,終戦直後の知念には物資の滞留傾向が見受けられます。
 次の会議録は1946.6月のものですけど,ホテルの民営化解禁時にその残留建材を調べると,大半が知念にあったことを記しています。

経済小委員会〔銀行・カロリー・ホテル〕
  六月五日(水)午前九時
  出 席 志喜屋知事、又吉、松岡、比嘉、玉城、糸数、當銘、護得久、安谷屋の諸部長。
  軍政府 ローレンス少佐。
諮詢事項(略)
 糸数部長
  食パン、理髪、ホテルを民営にさせる様に知事から手続を提出してあるから成るべく早く許可されて貰いたい。
 軍政府
  石川のみか。
 糸数部長
  全部のホテルである。(略)
  (ローレンス少佐帰府)(略)
松岡部長
  石川には建築材料
      三〇軒分
  具志川 一〇 〃
  知念 八〇〇 〃
   以上の材料しかない。
 糸数部長
  ホテルに宿泊して居る民政府の職員の宿泊は如何しますか。之を解決しないとホテルの経営は出来ないが。
   未決定。〔後掲沖縄県公文書館/沖縄民政府/経済小委員会 1946年6月5日開催〕

糸数商工部長(中央)とウィルソン中佐〔後掲那覇市歴史博物館/デジタルミュージアム〕

 ローレンス少佐は終戦直後のこの時期,沖縄の経済統制の事実上の総括者です(後掲)。糸数商工部長がこの時にローレンスに平場で要請したホテル民営解禁が,この時なぜ「未決定」(継続審議扱い?)になったのか,どうも釈然としない。けれど,最後の糸数の民政府官舎状態の解消の件は解除条件付きの継続審議にするための公の理由付けで,実質の論点は松岡工務部長の建築資材の偏在発言にあるように読めます。
 単に収容所建設の残材とも考えられるけれど,物流上も知念は何か特殊な地域だった疑いも生じます。

▼ ❝MEMO❞ニール・ヘンリー・ローレンス Neal Henry Lawrence

〔展開〕

ニール・ヘンリー・ローレンス Neal Henry Lawrence おそらく沖縄の浜での撮影

 次の議事録ではローレンスが電燈(電球?)の知念での滞留を指摘しています。日本軍のものではあり得ず,沖縄で生産したのでもないのですから,米国側の流通不全に起因するとしか思えない。つまり海軍がローレンスの口から,滞留を起こした米国の別セクションを攻撃したように見えます。

軍民連絡会議〔労務・機構〕
  六月十四日(金)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉部長。
  軍政府 ローレンス少佐。
諮詢事項
 軍政府(略)
  知念の倉庫に多くの電燈の装置があるが、電燈の不足を来して居るが、あれだけ必要か否かを村長に質すこと。(略)
 志喜屋知事
  次の報告をなす。
  糸満の魚闇取引の件。
 軍政府
  署員にも知って居るものが居る。
 志喜屋知事
  真和志にも倉庫があるが米兵はC・Pが其所に行くのを好まない様である。〔後掲沖縄県公文書館/軍民連絡会議 1946年6月14日開催〕

 後半では糸満の魚などの闇経済の流れで,CP(民警)の倉庫に立ち入り警戒,おそらく戦果アギャー(米軍物資の盗難)を警戒する発言があります。知念の物資はそうした危機にも晒されていたらしい。

※CP∶Civilian Police(米軍任命の民警
 MP∶Military Police(憲兵)

 一月半後の会議では戦果アギャーが大きな話題になっており,その中で知念も名を連ねています。

部長会議〔闇・先島統合・食糧〕
  七月二十六日(金)午前九時
  出 席 志喜屋知事、又吉、大宜見、玉城、當銘、平田、山城、松岡、仲村、糸満(財政)、久場(商務)、當山、護得久、前門、安谷屋、比嘉。
協議事項
 志喜屋知事
  去る廿四日ワトキンス少佐外数名帰米しました。
  去る二十三日島尻の町村長が農村復興の件で陳情に参って居た。
  部員で盗をして検挙されて居る者がある。
 久場課長
  其内容(盗)を説明す。
 志喜屋知事
  宜野座警察署の報告。
  食堂部として何々部のトラックが闇買出に行って居ると。
 ◎懲罰委員会を設けたいが。
 護得久部長
  通貨膨張のため闇をするが、通貨縮小も出来るが而し後には物々交換になって通貨の意味をなさないから物の制限をして後懲罰委員を設けたい。
 志喜屋知事
  部員に素行悪い時は直ちに知事に報告(文書を以て)する様に願ひたい。
  商務部は早速(盗みの件)報告すること。
  知念地区でM・Pと補助M・Pで物資所持につき調査した所区長と売店関係の人々が多分に持って居たとの報告があった。〔後掲沖縄県公文書館/部長会議 1946年7月26日開催〕

 前述カメラ持出疑惑は,こうした物資の滞留状況にも起因すると思われます。ただその状況が長引いたのは,知念にあった施設が軍管下での「治外法権」域だったからでもあるようなのです。

知念CIA基地 CGS

 防衛施設名「知念補給基地」は1974(昭和49)年に大部分(181ha中180ha)が返還され,その多くが琉球ゴルフ倶楽部として用いられています。

【知念補給地区】
 返還面積:1,816千㎡(全部) 玉城村
 昭和20年に強制接収。海軍司令部や陸軍の兵舎、モータープール、倉庫、住宅等用地として使用される(特殊部隊の基地としても使用される。)。現在、公園、福祉施設、体育センター、ゴルフ場等用地として利用されている。〔後掲沖縄県>駐留軍用地跡地利用対策沖縄県本部>跡地利用の事例>知念補給地区〕

 沖縄県の公式見解として「特殊部隊の基地」使用が合った事は確認できます。そしてこの期間は,1949年7月のグロリア台風で民政府が打撃を受け,同12月に那覇市久米(旧上山国民学校)に移転してから,この1974年までの25年間です。

(上)キャンプ
(下)CIA「混成サービスグループ」CSG見取図
※ロバート・ジャクソン回顧録等を元に沖縄タイムスが構成〔後掲Okinawa Basically Basic Base Story〕

 事実がようやく漏れ聞こえ始めるのは移転の三年前,1971年の映画にもなったいわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」。この一連のニューヨーク・タイムズのスクープにより,キャンプ知念は米陸軍基地にカモフラージュされたCIA(アメリカ中央情報局)拠点,しかもアジア最大級の極東戦略基地であることが公になりました。
 1974年の閉鎖・返還は,これが政治問題となったことによります。
 以上が事実関係で,それ以上の追求は断たれてしまっています。ここの機能がどこへ移ったのか,もちろん定かなことは分かりません。
1951年10月15日のルース台風で大破したキャンプ知念の古写真
 キャンプ知念は1949年7月にグロリア台風での損壊により民政府が那覇市久米へ移転した後,さらに1951年10月にルース台風で損壊しており,一説には朝鮮戦争での必要性もあって,この台風後の建替えを隠れ蓑として陸軍混成サービス群地区(CGS∶chief of the general staff)が創立されたともされます。
 陰謀史観的な記述は多数あるけれど,ここではあくまで事実を追います。以下,出典史料を可能な限り吟味して内容を吟味します。
The Strategic Hamlet Program, 1961-1963 題字部

戦略ハムレット計画on1961-1963

まずペンタゴン・ペーパーズ/アメリカの外交政策に関する文書: ベトナム 第二巻第二章の上記パートです。

沖縄のステーションはそれ自体が準軍事的支援資産であり、極東における不正規戦争 (UW) 活動の広範囲における支援が要請される危機的状況では、その基地全体としてこの任務にあてることが可能である。キャンプ知念に位置し、米陸軍基地の表向きのもとで、武器や爆発物から医療や衣類に至るまで、あらゆる兵站物資の貯蔵、試験、包装、調達、配達に必要なすべてのタイプの施設を備えた自己完結型基地で構成されている。それは制御された領域であるため、単独個体や小グループだけでなく、小グループ訓練での秘密情報作戦の対象物を見事に収容することができる。〔後掲後掲(原文閲覧可)Okinawa Basically Basic Base Story,The Pentagon Papers “The Strategic Hamlet Program, 1961-1963,1961年エドワード・ランズデール将軍からマクスウェル・テイラー将軍に送られた極秘メモ〕

 第一文では,知念基地は「準軍事」の「UW」専従体制をとりうる施設だったことが記されます(「沖縄ステーション」は知念補給基地のCIA呼称だった模様)。これをスパイ映画的に「謀略」活動と読めばダークになるけれど,当時の世界的軍事動向,特にUWの末に世界最大人口の国家建設に辿り着いた隣国と向き合う沖縄基地において,正規戦争の半面のコアを置こうとする方向は合理的選択と言えたでしょう。

 第二文は兵站施設としての十全さを語っています。ただし、「米陸軍基地の表向きのもとで(略)自己完結型」である,というのは,正規戦争機能から独立した機能系を成していた,しかもそれは前者にカモフラージュされていたことを意味します。
 第三文もまた怖い。「単独個体や小グループ」というのは特殊部隊の訓練施設だったと読めますけど「単独個体」とは……出動準備を整えたエージェントかスナイパー,又は密使を想像させます。またこれらとは別に「秘密情報作戦の対象物」とは何でしょう?想像できるとすれば,拉致・捕獲した特定集団ですけど……監禁,ひょっとしたら尋問・拷問施設までを意味するのでしょうか?
 これらを確認するために原文にもトライしてみたけれど……ペンタゴン・ペーパーズは長い!英語を斜め読み出来る語学力がないと見つかりそうもありません……。

※2011年6月(ニューヨーク・タイムズのスクープから40年後)「ペンタゴン・ペーパーズ」の機密指定が解除,国立公文書記録管理局ほかが全文を公式ウェブサイトで公開。全7,000ページ中,明らかになっていなかった2,384ページを含め全部が閲覧可
沖縄タイムス報道とジョン・ミッチェル証言on2017

 ペンダゴン・ペーパーズのスクープから知念基地返還までを時系列にすると次のようになります。

1971年6月13日「ペンタゴン・ペーパーズ」ニューヨーク・タイムズに掲載
同9月28日 沖縄タイムスがキャンプ知念の記事を報道
同(期日不詳)FBIS(CIA 管轄の通信傍受局)が「沖縄タイムスが沖縄のCIA基地を暴露」と英訳し本国に送信。
1972年5月15日 沖縄本土返還(米軍→日本)
1972年7月31日 CIA基地 (CGS)閉鎖。アメリカ陸軍特殊部隊 (グリーンベレー) の訓練センター,語学学校などに転用
1974年 沖縄に接収地が全面返還

 つまり膨大なペンタゴン・ペーパーズの中から知念情報を抽出して価値を見出し沖縄で報道されるまで,3ヶ月かかっています。この作業を完遂した沖縄タイムスにより,返還への政治的圧力が初めて働き始めたと言えます。
 ただ,それが返還にまで至ったのはタイミングの良さが大きい。後掲ロバート・ジャクソンも指摘していますけど(→後掲回顧録③),沖縄本土返還の詳細条件整理の段階に丁度,知念問題が報道され,日米とも返還後への「琉球安定支配」上の悪影響を避けたのでしょう。
 その沖縄タイムスが2011年のペンタゴン・ペーパーズ全部公開後,当時基地勤務者の子息ロバート・ジャクソン氏からインタビューを行い,2013〜17年に報道します。以下,章を改めて挙げるのはそのポイントを抜いたものです。

「自宅前の芝生に座るロバート・ジャクソン氏(左)と父、きょうだい=1965年、キャンプ知念」〔後掲回顧録④〕

■記録:「知念補給施設」on1960-1970

 先に資料の性格を明確にしておいた方が,客観的な視座を失わずに済みそうです。
 ロバート・ジャクソンさんは米国籍のオマーン在住。1972年まで知念に住んでいたのは事実ですけど,年齢からして本人の見聞に,後日の(おそらく父親からの)伝聞が相当入っているとみられる。また,意図的に一次情報を持つ父親が死亡してから取材に応じた,とも捉えられます。

※1960年生,沖縄タイムス取材の2017年当時57歳。∴沖縄居住の1963-1972年当時3-12歳。
※後掲回顧録④「 私の父も、沖縄の基地が閉鎖されることを願っていた。彼はその長い人生の中で、嫌というほど戦争を見ていた。もはや米国が世界中に大規模な軍事力を維持する必要はないと信じていた。父は2015年、97歳で死去した。」

 また,沖縄タイムスが直接取材した内容ではありません。各記事末尾に「(構成=ジョン・ミッチェル特約通信員)」と書かれるけれど,この人は横浜在住,明治学院大学国際平和研究所研究員。「米国情報公開法に基づき在日米軍と米国中央情報局の公文書を入手し,日本における米軍の核兵器や化学兵器,基地汚染などを丹念に取材した記事と著作で知られ」,運動家と言っていい。この人から沖縄タイムスが買った記事です。〔後掲wiki/ジョン・ミッチェル (ジャーナリスト) ウェールズ出身のジャーナリスト〕

ジョン・ミッチル著「追跡 日米地位協定と基地公害――『太平洋のゴミ捨て場』と呼ばれて」

生活∶電話に出る時 名乗ってはならない

私の父は沖縄の米中央情報局(CIA)要員だった。
 1960年代から70年代初頭にかけて、私たちはキャンプ知念に住んでいた。〔沖縄タイムス/【ロバート・ジャクソン氏の回顧録 一回目(以下「回顧録①」)】(1)アジア謀略作戦の拠点 森に隠れ家、特殊訓練も 構成=ジョン・ミッチェル特約通信員

 米中央情報局(CIA)要員の海外勤務はたいてい3年だった。父は1963〜66年と69〜72年の2回、沖縄勤務を経験した。私たち家族が最初にキャンプ知念に来た時、私は3歳で、最後に離れた時は12歳だった。〔前掲回顧録②∶2017年8月19日 沖縄タイムス〕

「父」の名前は恐ろしいことに記述されていません。ただ,次の証言の土産物からすると,少なくとも東南アジアまでは知念の活動範囲に恒常的に入っていたと推測されます。

CIA要員の子どもたちにとって、父の仕事というのはブラックホールのようなものだった。
 分かっていたのは、施設内に立ち入り禁止区域がたくさんあること、父が時に数週間にわたって海外出張に行くこと。自宅の電話に出る時は、名乗らずに割り振られた番号を言うようにと教えられた。
 父は派遣先から土産を買ってきてくれた。インドの彫刻、インドネシアの籠、フィリピンの人形など。夕食後、一緒にアイスクリームを食べながらアジアの農場や森を写したスライドを見ることもあった。〔前掲回顧録②〕

 では知念基地での情報を,ジャクソンさんがいつどのように知ったかというと,「大人になって」から,つまり知念を離れた後の「父」からの伝聞だとはっきり書かれています。

 私が大人になって初めて、父が施設の詳細や危険な任務について話してくれるようになった。〔前掲回顧録②〕

 これだけのバイアスを承知しても,なお知念の事実情報には有意なものがあると考えるので,以下各フェーズに分けて転記します。

組織∶CIAは溶けてグリーンベレーに

 組織面で肝要な点は,民政府及び米軍からの独立度です。

同基地内では軍人の姿はほぼ見られず、勤務していた職員はワシントンから約3年交代で赴任したという。沖縄の別の米軍基地から出入りする米軍関係者はおらず、米国民政府(USCAR)の最高責任者だった高等弁務官ですら訪問時には所定の手続きが必要だった〔沖縄タイムス/米CIA沖縄基地 元従業員が詳細語る 2013年4月22日 09時20分〕(以下「OT2013」)※複数の元従業員らに聞き取り調査を行って得た情報,とされる。

 3年交代の要員配置はジャクソンさん父子の実際の履歴とも合致します。
「米軍はいなかった」「高等弁務官でも手続きが必要」という点は,「元従業員」が直接認知できたとは思えないので,多分彼らの間での噂か米側からの伝聞でしょう。むしろ米軍-民政府-CIAは薄くではあれ連携はしていたことが窺えます。ただ,命令系統や業務面で独自だったのでしょう。

 CIAが去った後、キャンプ知念の管理は陸軍第1特殊作戦群(グリーンベレー)に移り、訓練拠点や語学学校として使われた。CIAもラオスやカンボジア、ベトナムで作戦を続けていて、補給拠点の役割は引き続き果たした。沖縄の職員の雇用は特殊作戦群に引き継がれた。〔前掲回顧録③〕

 雇用主の権能がCIAからグリーンベレーに引き継がれた点は,両者の密接な連携を感じさせます。あるいは被雇用側の沖縄人に,上層の異変を察知させないために,とも考えられます。
 分からないのは第二文で,CIAの「補給拠点」の役割が継続されたと書いてあることです。時期的に「父」が語った内容です。知念がCIA看板を下ろしてもなお存続する組織は,どこにあったのでしょう?あるいは,もっと「深い」組織形態に移行したのでしょうか?
 いずれにせよ,この辺りは最も簡単に隠蔽されうる側面です。もっと具体的な物理施設の情報に移りましょう。

施設∶盗聴・盗撮・パスポート偽造の工房

 ジャクソン回顧録はさらりとこう総括しています。

当時、沖縄には核ミサイル基地、膨大な化学兵器の集積があり、驚くほど要塞(ようさい)化されていた。〔前掲回顧録③〕

 1971年のレッドハット作戦で撤去されたVXガス等の毒ガスを始め,存在しないことになっている核も具えた「要塞」だと言い切っています。そうならば,沖縄を不沈空母と化し待ち構えようとした日本軍の構想が四半世紀を経て実現されたことになります。

1971年7月に実施された第2次移送に先立ち発行された琉球政府のパンフレット「毒ガスについて─24の質問に答える─」〔後掲沖縄公文書館/毒ガス兵器撤去のたたかい〕
毒ガス撤去対策昆布支部〔後掲沖縄公文書館/同〕

 けれども,こうした規模の正規戦争用のハードな暴力装置とは別に,ソフトな暴力装置群が知念にはあったわけです。次の情報源はジョンソンさんではなく,沖縄タイムスによる「複数の従業員」です。

秘密収容施設は基地南側の森に囲まれた「Zエリア」と呼ばれる地域に3棟あった。さらに基地の東側にはコンセット型の建物があり、従業員の立ち入りは厳しく制限されていた〔前掲OT2013〕

 沖縄タイムス作成の地図に,Zエリア(以下「Z」)及び「コンセット型の建物」(以下「C」)※と推測される位置を書き込むとこうなります。

※英語の原語はQuonset hut(クォンセット・ハット)。トタンによる軽量のプレハブ工法で,第二次世界大戦中に建設された何十万もの建物が民間に払い下げされたので名を知られるようになる。最初期のロードアイランド州海軍建設大隊センターにあった工場名クォンセット・ポイントに由来。「コンセット」は沖縄でのカタカナ表記で,その形を「かまぼこ型」と見てマルヤーとも呼んだ。〔後掲wiki,琉球新報社「最新版 沖縄コンパクト事典」〕

那覇市開南小学校にあったコンセット校舎(1953年)
CIA「混成サービスグループ」CSG見取図中コア施設部 ※前掲図の部分

 Z-C間の「秘密研究施設」(以下「R」)を含め,立入厳禁施設が,プールや野球場の隣に並んでる。どうも,今のペンタゴンやクレムリンのような外部を拒絶した配置に見えませんけど……。

 CIA施設は世界のどこでも米軍基地の中に秘匿する必要があった。だが米軍支配下の沖縄では隠す必要が少なく、キャンプ知念として存在できた。それでも本土復帰が決まると施設の存在が問題含みとなり、72年7月31日までに閉鎖するよう通達された。〔前掲回顧録③∶2017年8月31日 18:42 沖縄タイムス〕

──とジャクソンさんが語る通り,現在の安全管理措置の分野でいう物理的安全管理措置が欠けた,つまり基地内の安全圏にあって,それを侵す者はない,と信じられていたのかもしれません。
 次にある「ショップ」はRかCか定かではありません。おそらく正式名称が使われることはなく,てんでに俗称で呼ばれていたのでしょう。

技術者が働く「ショップ」と呼ばれる工房は、保安のためダイヤル式の錠が毎月交換されていた。彼らは盗聴、写真、武器の専門家だった。備品室にはパスポートを偽造、改ざんするため、タイプライター、入国管理局のスタンプ、ありとあらゆる種類の紙、インク、のりがそろっていた。工具で鍵を開ける練習をしたり、合鍵を作ったりするため外国の錠前もあった。〔前掲回顧録①〕

 読む限り,時々スパイ映画にも登場する秘密兵器の工房です。
 ここだけならマニアックな研究施設ですけど,決して語られない森の中のZ区画となると──どこから連れて来られたとも分からぬ,おそらく他陣営のエージェントが長く勾留されたのでしょう。
 ちょっと考えるのは,この後のゴルフ場造成時に掘り返した際,地中から何かが発見されないものでしょうか?──一応調べる限り,経営者も施工業者も全くローカルな法人で,変に隠蔽された気配はなかったのですけど……。

アジアの国で活動するロバート・ジャクソン氏の父=1970年

人的活動∶アジアの某国首都で政府文書の入替失敗

 通っていた米軍人子弟用の学校はキャンプ知念の外にあり、先生に父の仕事について聞かれると、私はあいまいに答えざるを得なかった。父からは「陸軍で働く民間人」と答えるよう教えられていたが、私はそれがうそだと知っていた。〔前掲回顧録②〕

のお父さん」とか作文に書くことはなかったんでしょうか?
 また,その内容を後に子どもに話した,というのもよく分からない。守秘義務うんぬん以前に,他言が何かの拍子に伝わることはなかったのでしょうか?

 私が大人になって初めて、父が施設の詳細や危険な任務について話してくれるようになった(以上再掲)。東ベルリンで監視任務に就いていた時、シュタージ(秘密警察)に拘束されそうになったこと。アジアのある国の首都で政府高官の文書を入れ替える任務に失敗し、やはり捕まりそうになったこと。ベトナムや南米でも施設に侵入しようとして命の危険を冒したこと。〔前掲回顧録②〕

 こうした任務の詳細までが親子の間で手柄話のように語られた,というのが信じられないのです。
 信じられないと言えば,知念からドイツ国境や南米まで出向いてスパイ活動をするということが,現実的にあったのでしょうか?

要員はいつでもCIA本部からの指令に備えていなければならなかった。タイの首都バンコクにあるソ連駐在武官の事務所に盗聴器を仕掛けるといった任務も、知念の担当だった。
 ほかに、中国軍人が香港から脱出するのを助けた。インドネシアのパスポートや雇用書類を偽造した。中国人要員に超小型カメラの使い方を訓練した。ベトナム戦争中、北ベトナムが建設した補給路ホーチミン・ルートに沿って、電話を傍受する太陽光発電システムを設置した。〔前掲回顧録①〕

 ただこれらの話は,「父」本人が亡くなってから取材に応じたという点とは符号します。これらの話が世に出た際に本人が生存していれば,多分何かしら圧力がかかるでしょう。
 あと気になるのは,中国絡みが多い点です。上記の超小型カメラの使い方をマスターした中国人要員は,どこで何の活動をしたのでしょうか?

 知念で勤務したある要員は60年、キューバの首都ハバナで中国の通信社に盗聴器を仕掛けたところを現行犯で捕まった。別の知念経験者は70年代、イランのCIA施設の責任者を務めている時に拘束された。〔前掲回顧録①〕

 最後の情報は「元従業員」の伝聞ではありますけど,可能性としては前記Z施設の用途でしょう。

元従業員らは、朝鮮戦争があった50年代から60年代にかけて、アジア系外国人が秘密収容施設に収容される様子も目撃していた。〔前掲OT2013〕

 もっとも,これを「元従業員」ではなく「沖縄のうわさ話」として捉えれば,キャンプ知念はどこかいかがわしい,と地元の嗅覚が嗅ぎ当てていたことになる。ワシ個人としてはその方がしっくり理解できるのです。米軍が「分かるはずがない」と思っていたVXガスやCIA拠点に,うちなんちゅの集団としての知覚はしっかりと焦点を結んでいった,というのはむしろ十分にあり得ることに思えるからです。

(上)設置当時のキャンプ知念のメインゲート
(下)同位置に現存する琉球ゴルフ倶楽部のゲート

■レポ:本田清の編む「知念市誌」on1945

 後掲「南城市の沖縄戦」(南城市教委)は第7章第三節として本田清・編纂「知念市誌」を紹介しています。というより,現在原本が行方不明になっている同史料を合本しています。
 本田清さん(旧姓・知念,玉城村垣花出身)は知念市の社会教育主事の立場で,主に1945(昭和20)年6月〜翌1月の市内諸活動を当時の関係者が記した資料を編纂したと思われています。
 そのうち徳元八一「避難記」1946(抄)については次章に特別編として編みます。ここでは,それ以外の,無数の知念市民の声のうち三つだけを聞いてみたい。

具志堅区(民)∶精神ハ尖リテ愛ヲ知ラザルガ如シ

民艦砲ノ洗礼ヲ受ケ
負傷者大多数ヲ占メ
健者モ皮膚病ノタメ壕色※二塗ラレ
顔色ナク髪ハ乱レ
着物ハ汚レテホコロビ見ル影モナシ
精神ハ尖リテ愛ヲ知ラザルガ如シ
衣食ヲ求メテ壕ヲ探リ
米兵ノ菓子ヤ煙草ヲ自動車上ヨリ道路へ投ズレバ
老幼男女群リ砂糖二蟻ガ付クガ如ク
人類トモ思ハレザル行動犬畜二愧(は)ズ(「各区の部 具志堅区」)〔後掲知念市誌〕※改行は引用者。以下同じ。 ※壕色∶原文ママ。赤銅色?防空「壕」との取合せ?

 章立てが「各区の部」となっているので,知念市には「区」があったと想像されます。
 日本本土でも見られた情景ではありますけど,沖縄では,ことに急造の市となった収容所都市・知念では,はるかに濃度が高かったでしょう。

「連合軍政府によって収容された沖縄住民」米軍が屋嘉部で撮影したとする写真〔後掲南城市教委〕
知念市(1945年中)人口移動一覧〔後掲南城市/南城市の沖縄戦 資料編/第七章第三節〕※マーカーは引用者

百名NP・CP∶打ちおろす木鎚の音が聞へて来る

 次の方は,日本兵から警察官に転じています。
 それがまだ糸満〜照屋での激戦が続いていた6/10というのにも驚かされます。知念での米軍はこんな段階から「戦後」に入っていたのです。
 なお,黒帽の「NP」という職種はネット上に見つかりませんでした。

恐威的艦砲迫撃砲銃撃等々戦慄的洗礼を浴びて
憐れ同胞の群が続々と我が知念半島に集結した時は
西暦一九四五年六月十日
我が百名警察署創立の時の記念日である。
当時を回顧すれば聴くも涙見るも涙の連続であった
我等は武運?(ママ)尽きてMP隊長に捕へられ
強制的に巡査を命ぜられ
三名の巡査が一旬(ママ)にして数名となりMP隊長の青眼下NPの腕章に黒帽を冠(かぶ)り
心無き者よりスパイとも云はれ
尚敗残兵の襲撃の恐威を物ともせず
只管(ただ(で)すら)避難同胞の誘導
輻輳(ふくそう)する交通の整理
物資の昼夜看視
米兵民家侵入の看視連絡
越境者の取締
公衆衛生等
直接避難同胞に体当りし
以て保護指導に専念し帰宅せざる日幾日もありたり(百名警察署)同〔後掲知念市誌〕

 避難民の奔流の中で粉骨砕身されています。
 指揮系統はMP(憲兵)を上に戴いています。前章でも触れたインテリジェンスの集積が,後日のCIA拠点の萌芽になったのかもしれません。
 知念市警察のCPに改組されるまでに,市民(収容民)の信頼を徐々に得ていった様が文章から滲みます。

(続)斬く七月の上旬頃避難民は日々と増加しNPの負荷の大任倍加す
MP隊長より早急に増員せよと命ぜるも希望者皆無なり(略)
NPよりCPに改名赤帽を冠せらる
赤帽赤帽と云はれ泣き虫どもの泣き止めにも奏効(ママ)し
軍の有るところ赤帽あり民のある処かならず赤帽ありて
我等の赤誠漸く軍民の信を受け八月の中旬となる
各区を総合して知念市と称し各署を総合して知念市警察署となす
人心漸く安定し明朗知念市の建設に市民の打ち卸(おろ)す鎚の音が萌へ出ずる若葉となって聞へて来る
寔(まこと)に感激無量なり
(百名警察署)同〔後掲知念市誌〕

具志堅校長∶洗練された野蕃性

 これも人と柄は分からないけれど,地域の教育者の視点です。沖縄戦を戦前の教育の敗北と捉えて述懐しておられます。

一、過去の教育は無力であつたかと云ふことである。(略)
あれ丈教へた筈の礼儀作法が全く地を払ひ
長上に対しての礼はおろか
民主主義教育が恰もさうであるかの様に解して
対等かの如く振舞ひ
世も末を思はせるものがあった。
其の上自他の物の区別は全く失せ
壕はあさるし、
時に戦果なんかと言って物を米兵にねだり盗み去る如く
物に執着を持ち
親も是を喜ぶかの感さへあり。
オーケー等と片言の英語を語り
髪を伸ばし煙草を吸ふて
恰も大人の格構(ママ)を喜ぶとさへ見え
一時徹底したかに見えた言葉の問題にしても
標準語は地を払ひ
学校が出来てからでも学校へ出る事を嫌った児童の多かった事は
何としても過去の教育者に罪の一班を痛感し
併而世の父兄就中(なかんずく)児童を持つ父母の責任や
重且つ大であったと言へるのである。(略)
我々は過去に於て
余りにイズムの教育に専念し
枚挙に暇のない学説
机上の空論に禍されて
真に師弟相愛実践指導の教育と言ふ
大地に根を下した教育を怠つて居たのではなかったかを怖れるものである。(「戦争と児童教育」具志堅校長 喜屋武盛雄)〔後掲知念市誌〕

 自虐史観と呼ぶにはあまりに骨太で,生々しい指摘です。内地(やまと)を責めることすらせずに自己の問題として「イズムの教育」「枚挙に暇のない学説」「机上の空論」たる自らが手掛けた戦前教育を,ためらいなく否定しています。
 否定した後に「生活力」という一見ありふれた語に,戦後の教育のよすがを見出しています。 

ニ、生活力の問題である。(略)
如何なる困難に逢つても
何死んでたまるか生きぬいて見せると言ふ闘志こそ
今次大戦争に無事に活きのぴた人々への教訓である。
次に避難中もさることながら一応落ついてからも
我々の住居は如何であったらうか。
果してちゃんとした家であったらうか、
否寧ろ厩であり牛小屋
乃至はかつては人間が夢想だにしなかった廃屋ではなかったか,
雨はもり風は吹きまくり惨たるものではなかったか。
生活力のない人々は
斯くして耐えられぬ苦痛に
病気になり不具になり結極死んで行ったではないか。就中壕生活で我々は
生気は奪はれ闘志を挫かれた人々の多かった事は
思ひ半ばに過ぎるものがあるではないか
此に耐え彼に打勝つた人丈に今日生存し得る権利があるのではないか
其の外海に漁り
山にあさつて食物をあつめ
時には考へ問題ではあるが
許されてよい場合の盗人になつてまで
生活力を発揮して行った人々が
今日生きる喜びにひたって居る人々ではないか。(具志堅校長 喜屋武盛雄)同〔後掲知念市誌〕

「戦果なんかと言って物を米兵にねだり盗み去る」「盗人になつてまで生活力を発揮して行った人々」──奇しくも真藤順丈が「宝島」で描いたソウルに重なる像を結んでいきます。

(続)此を考へ彼れを考えて見る時
我々は生活力と言ふことを考へずには居れない気がするのである。
我々は果して過去に於て
此の生活力の問題を取り上げて行った事があるか如何かを考へるものである。
我々はもっと生活力と言ふ事を重大視して教育すべきではなかったか。
この生活力と云ふ問題は或る部分行過ぎると先に論じた道徳問題ともなり
誠に微妙な感があるが
要するに我々は生活力を強調する必要がある。
特に町の児童及び大事にされ過ぎる児童の場合である。
我々は搬送力及び何死んで堪るかと言ふ闘志を
運動競技と言ふ形に於て
粗食以て耐え得るといふ力を学校給食と言ふ形に於て
(従来行った欠食児童並に偏食矯正といふ場合と別個に)
住居の問題をキャンプ生活等で
簡素生活の訓練が出来ないものかと思ふ。
要するに洗練された野蕃性を多分に保有する必要があるのではないか
と痛感する次第である
(具志堅校長 喜屋武盛雄)同〔後掲知念市誌〕

 最初に否定したアメリカ「エセ民主主義」でも日帝「机上の空論」でもない「洗練された野蕃」というイメージは,自己矛盾にも見える。けれど,この当時,著者の周囲に跋扈していたであろう旧い海人(うみんちゅ)の蘇りのような二十日うぇーき(→大密貿易時代資料集参照)や戦果あぎやーの体臭に未来の沖縄人像への一縷の望みを,この教育者は繋ぐに至ったのだと想像するのです。

米軍撮影「男子寮のベッドの端に座る百名孤児院の男児(1949年3月14日)」(沖縄県公文書館所蔵)〔後掲南城市教委〕

「m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m3あまみきよの道(ニライF69)」への2件のフィードバック

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