006-4六町南東縁\旧六町編\長崎県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

から地図を見て驚いたけど,直接距離だと片道1km程度の行程です。単に歩けば10分,坂を考えても15分あれば足りる距離。
 これに,前半(前章)80分,後半(今章)60分かかってます。当時の見積りでも,細かく見るとこれほどにかかるとは予想しなかった。
 なので,やや急ぎ足の後半になってます。

勤労福祉会館と平野富二碑の道

▲0944,トンネル出口の軌道

じゃそりゃ!と突っ込んだマティマハル。昨日の昼間と同じ場所に出てしまいました。
 Ad桜町3。
 0935,市役所前交差点から右折南行して下る。つまり歩道橋を渡る。
 渡った先が12番坂。確かに勤労福祉会館前はさっきの議会裏と同じ不思議な道。道幅が歪んでて普通の都市計画じゃ作られない道です。
 平野富二生誕の地の碑あり。(→巻末略歴参照)

▲0947,勤労福祉会館前

「<12番>急な坂道。左下に電車通りを見ながら、公会堂方面に下る坂の途中から右折。左に勤労福祉会館があるところが、かつての町使屋敷があった場所。
<13番>坂道。」

勝山市場と警察署脇の暗きょ

▲0951半分石段坂

度,桜町通りの車道を東へ渡る。
 警察署の左手から入る。つまり昨日の桜町小学校から市役所通りの南対面。
 半分だけ石畳の坂道が,市役所通りへ登ってます。途中に勝山市場というおどろおどろしいドヤ街めいたアーケード。
 この道,14番ということだろうか?
 あとこの警察署横の小路も半分に蓋がしてあるけど元は川沿い道です。
 ただ,タイムアップっぽい。今回はここまで!

▲0954勝山市場の商店街入口

「<14番>かさ上げされて、緩やかな坂道となっているが、一部、進行方向と平行に階段が設けられ、「休石」が残っている。二の堀があったところで、今はそこに溝がある。
<15番>坂道。」

長州と小倉の藩屋敷の間だから巌流坂

▲0956警察署横の小路。暗きょが続く。

両脇に側溝の『止まれ』坂」とメモってました。何のことか後で読んだだけじゃ分からんかったけど,写真を見ると,まあそういう坂です。1001Ad桜町8。
 巌流坂でしょう。この名前の由来もちょい笑えます。

「<16番>巌流坂。長州藩と小倉藩の大名屋敷が、この坂を挟んであったためについた名前だという。現在の自治会館が長州藩蔵屋敷跡。」

▲1002巌流坂

の下ラインを行こう。
 警察署からの側溝が,蓋なしで剥き出しになってきました。

▲1003側溝続く

十七番坂はどれなんだ?

くと,底が平らでなく斜めに石が配置されてる。どういう事情だとこうなるんだろう。
 1005Ad栄町2。
 右手に片側一車線の車道の坂。おそらく17番坂。左手に長崎小売酒販会館。

「<17番>階段はなく、今は車の通りの多いところ坂になっている。かつての一の堀(堀町)につながる通りである。」

▲1006。17番坂

 Ad善町。1008。
 え?末次興善が町名になってるの?
 左手に長崎市医師会館。
 長崎市立長崎高等学校跡碑が立つ。

▲1009。いやおそらくこっちが17番坂

 ad町5。1012。
 長崎腎病院下。坂道。確認する余裕がなくなってきてたけど,こちらが17番坂だった…のか?
 この坂で,警察署から続いてた水路は公園に途絶えてます。

▲1011高くなってきた壁

れやれ一本坂が多いぞ?どうなっとる?
 とか思ってたら──あれれ?この坂は,じゃあ何番だ??

▲1012,真の17番坂??

間違うことなき天満坂

七番坂の謎として伝わる三本の坂の怪奇に,こうして後から頭を抱えたのは,次に現れた18番:天満坂が間違えようがない見事さだったからです。
 これだ!

▲1019。まごう事なき天満坂

「<18番>天満坂。今も石段が残る。深堀騒動の発端となった事件の場所として有名。このあたり、高い石垣がよく残っており、丘の上と下の高低差を実感できる。地図上の標高差でも7mはある。「惣町絵図」ではこのがけの下にも井戸が点々と記されているが、その1つが今も残っている(右写真)。」

▲1022使われてない井戸

の雲仙堂の道を進む。道が少し下がった分,右手石垣が高さ増す。
 1019Ad賑橋3。
 石段が現れた。時間がないけど両側の壁も凄い。──18番だろう。
 少し先の右手に水神碑のある井戸跡。
 1023昨日の坂道。
 1026中心橋。飯は諦める。
 1031観光通りから電車に乗る。ふう涼しい。

「<19番>急な坂道で、かつては階段であっただろうことは容易に予想がつく。左折すると鉄橋につながる。この角にも井戸が残っており、昭和の手押しポンプもしつらえたまま。上水としてではないが、現役として使われている(左写真)」
「<20番>ピンコロ坂。江戸町商店街。下りながら途中右折すると、蔵番長屋があった背後の石垣が駐車場の奥に見える。」
※出典(再掲):長崎県文化振興課 山口保彦/たびながHOME



崎駅SBCでエスプレッソ。1058。
 ──カフェする時間が残るならもう少し最後を丁寧に歩きたかったけど…長崎の電車って来ない時は来ないから怖いんだよなあ。
 でも濃かった。計6本,歩きをやれた。特に茂木街道完全踏破を酷暑期に,というのは…我ながら気が狂ってる,というか壮挙でありました。
 ただ成果は?というと相変わらずじわじわ近づいてるだけだけどなあ。
 1120発のかもめで博多へ。

▲興善町がくんちで奉納する本踊。能「石橋」後段,牡丹咲く石橋で文殊菩薩の愛獣たる獅子が胡蝶と戯れるシーン。

■小レポ:末次興善さんのこと

(1) 史実
 史料へ断片的な陰を落としている人物で,公職に付いてないため明確なのは初代長崎奉行末次平蔵の父親という点だけと言っていい。
 足跡の地理的分布から考えて,東シナ海をまたにかけて活動し,その交易ネットワークに新拠点・長崎が位置付けられたことが,その後の長崎を性格づけた,と言っていいでしょう。いわば「ハブ港湾都市・長崎の創造者」です。
・生没年不明。(ながさきの空によるイエズス会報告書からの推定:1516~1590+@)
・元は武士の家系。1550年代頃に商人となり,博多で成功。
・興善町の由来。彼が町の基礎を作ったと伝わる。
・初代長崎奉行末次平蔵の父親
・ポルトガル宣教師の手紙やフロイスの日本史などに登場する「博多のキリシタン商人コスメ・コーゼン」は彼のことと推測されている。
・1556年頃,渡明。(「秋月を往く」記述からの推定)
・フロイスからは信者としてより後援者と見られていた。(ながさきの空推測)
※ ながさきの空/初期長崎の町づくりに貢献した末次興善のこと
「天正18年(1590年)、天正遣欧少年使節がヴァリニャーノ神父に伴われて長崎に帰国してきました。一行が上洛のため博多の街を通過するとき、コスメ・コーゼンと言う信者が宿舎の提供を申し出てヴァリニャーノ神父が辞退した、そのとき「コーゼンが73歳であった」とイエズス会神父の報告書にある。
 その後、彼の名をキリシタンの文書の中に見ることがないと言う。彼の生年はこの事より想定できる。」
「興善の墓地は、京都・博多・長崎など諸説があり判然としない。」
「弘治2年(1556年)、興善は明の将軍から明王の子供を預かり日本に連れ帰った。その子は、興善の婿養子になり秋月氏に伺候し、その後、秋月の長生寺の住職になって124歳で入寂した。」
※ 松竹秀雄「朱印船時代とそれ以後の長崎の海外貿易(2)」長崎大学学術研究成果リポジトリ,1989

(2) 状況からの推定
 海域の言動が史料に残りにくいのは当然なので,後代:平蔵が「起こした」と言っていい大事件・タイオワン事件からの推定を試みる。
 どうやらこの事件の日本名は,ない。だから「日本史」の教科書に載らないけれど,下記wikiを一読してみてほしい。アヘン戦争を彷彿とさせるような冒険的外交を,この一奉行が間違いなく独断でやってる。
 結果,幕府にはバレたのだろう。これも間違いない,平蔵は抹殺,事件の事実自体が国内の史実としては消された。幕閣も関わった何か大きな事実が,「鎖国」への舵切りへの転換点になった雰囲気です。しかも,その動きの中ですら裁ち切れないような何か大きな貸しをオランダに作ってる。
 東シナ海全域をまたぐ「オランダ・台湾行政長官」vs「長崎奉行」の戦闘状態。この状態から,末次家の勢力の性格が推定できる。
・末次家の当時の勢力は,長崎という点的なものでは到底なく,少なくとも「面」だった。(そうでなければ,なぜ平戸オランダ商館を閉鎖できたのか?)
・少なくとも当時の台湾行政府に対抗できる程度の武力を,海外に有した。
・国内でも,将軍謁見を胃のままに設定できる程度,おそらく幕閣並みの発言権があった。
・にも関わらず,独断で外国に敵対行動をするだけの「マージナル」な性格を留めていた。
──そして,容易に推測できるのは,これらの性格は,平蔵が長崎奉行になったことで獲得したものとは考えにくいという点です。興善代,半世紀に満たない短期間でこの海上勢力は形成されてる。

※ wiki/タイオワン事件(ノイツ事件,台湾での呼称は浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件))
「1624年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官で朱印船貿易家の1人でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。」
「オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、1627年(寛永4年)、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた。」
「1627年、浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。」
「(1628年(寛永5年))ノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ人質にとる実力行使に出た。」
「長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう。この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが江戸幕府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるのでオランダが貿易を独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィアにこの返書を持ち帰った。」
「以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。」
「オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。」

(3) 末次興善の立ち位置
 豊臣時代の奉行・村山等安は,末次興善配下で傀儡として職についたけれど,力をつけすぎて除かれた,と見るのが正確でしょう。
 そうすると,末次家は地元代表などではない。瀬戸内の海賊たちとは異なり,末次興善は江戸期に唯一公認された海域勢力だったとも言えます。幕府側はおそらく苦い顔で彼らを長崎奉行に位置付け,しかし公職に取り込むことで管理下に置いた。
 これは裏資料がありませんけど──タイオワン事件時にこの勢力を除く際,幕府が選んだ方法は,敵の敵,つまりオランダ側との融和だったことはごく自然な戦略です。
 末次家の海域勢力は,1676年に四代目平蔵が密貿易のかどで処罰されるまで,実に百年近くかけて中央政権に滅ぼされた,ということになります。
 もう一つ興味深いのは,この百年の同時期,まさにタイオワン事件の現場たる安平城を攻略して台湾を根城にした鄭氏政権との関係です。幕府側が鄭氏からの連携を拒み,距離を置いた史実がありますけれど,台湾と因縁が強かった末次勢力はこの時期に鄭氏政権とどういう関係にあったのでしょう。蘭-清-幕府vs台湾鄭氏-長崎末次家のような構図が,もしかするとあった時期が?という気もするのですけど…史料はなりません。可能性としては,前三者が劣勢の後二者を囲いこんでいた,という位置関係が考えられます。
 とすると──これは非常に通説的で分かりやすい。小氷河期後の17世紀に再興された陸域勢力が,前世紀を謳歌した海域勢力を包囲殲滅していく。その転換点に,末次興善は海を歩いてたわけです。

※ wiki/村山等安
「出自は、尾張国(現・愛知県清須市)出身の他に、安芸出身とも博多出身ともいわれているが明らかではなく、生年も不明である。」
「長崎町衆の1人として朱印船貿易商となって、豪商の末次興善(末次平蔵の父)たちの助けを受け、当時珍重された呂宋壺(ルソン島で焼かれた陶器。茶器として珍重された)の取引で資産を得た。」
「また、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。」
「等安は長崎の外町に影響力を持つスペイン系の托鉢修道会に近付いた一方、末次平蔵たちはポルトガル系のイエズス会が占める内町を勢力の基盤とし、両者の対立は内町対外町、イエズス会対托鉢修道会、ポルトガル対スペインの権力争いでもあった。元和4年(1618年)の末次平蔵の訴えにより、キリシタンを擁護したことと、徳川氏が敵対していた大坂の豊臣氏と通じたという嫌疑で、元和5年(1619年)10月26日に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。彼の死後、長崎の代官業務は末次平蔵政直が継いだ。」

■メモ:二重被爆者のこと

 長崎に映画が来てて
,ポスターで見て知りました。史実としてこういう事態があるそうです。
 濃い事実です。添える言葉もない。
 ただ,日本の都市から無作為に選んだ2点よりは,この広島・長崎に該当日時に同一人物が存在する可能性が高いことは理解できます。
 この方の場合は,長崎の三菱から広島の造船所に出張していた。西部軍司令部の置かれてた広島,壊滅間近の海軍の出撃拠点・長崎。つまり,いずれも規模の割に軍都の色彩の強い都市です。
「だから落としていいのか?」と感情的になるのは待ってお聞き頂きたいのですけど──近畿以東への威嚇としては,連合国にとって合理的な選択肢だった点は否めないと考えます。

※ Wiki/山口彊
「1945年5月、山口は同年8月7日までの予定で広島の造船所に出張する。8月6日に広島市に原爆が投下されたとき、彊は職場への通勤途中であり、爆心地から約3キロメートルの広島電鉄江波線江波電停にいたところ、被爆した。この被爆で彼は左鼓膜が破れ、左上半身に大やけどを負った。彊は妻と子供に会うため、国鉄山陽本線己斐駅から翌日の救援列車に乗って長崎へ帰った。
8月9日、長崎市に原爆が投下され、長崎三菱造船の事務所で再び被爆する。」
「2006年、記録映画『二重被爆』に出演した(後述)。 彼の原爆手帳には2度の直接被爆が記載されている。1957年8月に手帳が交付されたとき、両方の被爆が記載されていたが、後に更新された時に広島市の記載が消去された。2009年1月になって追加記載を申請し、広島市の記載が復活した。」
「2009年12月22日には、米国の映画監督ジェームズ・キャメロンが病室を訪問し、原爆をテーマにした映画の構想について話した。それを聞いた彊は英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語ったという。
2010年1月4日午前5時38分、胃がんのため長崎市内の病院で死去した。93歳没。」
※ 産経新聞/二重被爆と投下機搭乗の孫、祖父の因縁越え交流 長崎

■略歴:平野富二さんのこと

 調べると,この碑は,立ってからまだ1年経ってませんでした。2016年末になって国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」から引地町町使長屋の旧在地が判明して,平野富二の生家の場所が特定されたことから,急遽建立が決まった。つまり,ごく最近再注目されてる方です。
 略歴をたどるだけでも,とんでもないマルチプレイヤーです。
1846年10月4日(弘化3年8月14日)出生
1858年 特例を以て長崎奉行所隠密方御用所番に採用
1861年4月(文久元年3月) 長崎製鉄所落成。特例を以て長崎製鉄所機関方見習
1863年3月(文久3年2月) 長崎製鉄所機関方に任命,蒸気帆走輸送船「チャールズ」号(長崎丸)及び「ヴィクトリア」号(長崎丸一番)の乗組員
1864年12月(元治元年11月) 「ヴィクトリア」号で江戸から長崎への帰途、暴風雨で難破。八丈島に漂着。以後半年,八丈島滞在
1866年7月(慶応2年6月) 長崎港内巡視用軍艦「回天」の一等機関方に任命
同年8月(和暦7月) 同艦で第二次幕長戦争の小倉沖海戦に参戦
1867年4月(慶応3年3月) 後藤象二郎の招きで土佐藩の蒸気船器械方。9月中旬~10月初旬(和暦8月初め~9月半ばまで)坂本龍馬と同行
──幕府隠密だった経歴からも,龍馬同等のインテリジェンスの世界の人,という側面も若い頃には持ってます。
1869年(明治2年) イギリス商人トーマス・グラバーから買取った小菅修船場の技術担当所長に任命。船舶の新造・修理設備がなく経営に行き詰まっていた長崎製鉄所に大きな収益をもたらす。
1870年12月(明治3年閏10月) 長崎県権大属に任命,長崎製鉄所の事実上の経営責任者となる。
──飽の浦の章で辿った長崎造船を,初期に採算を取れる状態にしたのもこの人だったらしい。この頃から経営の辣腕ぶりが発揮されはじめます。
1871年(明治4年) 本木昌造から活字製造部門の経営を委嘱,経営方針の見直しと生産体制の抜本改革を断行
1872年2月(明治5年) 近代戸籍の編成に際し平野富二と改名して届出
同年8月(和暦7月) 東京神田和泉町(旧藤堂藩上屋敷門長屋)に長崎新塾出張活版製造所を開業
1883年 福沢諭吉の要請で李朝朝鮮国にハングル活字と印刷機の納入
──長崎造船の国営化で造船業から活版業に転身,即座に成果を残してます。
1876年(明治9年)10月 海軍省から石川島修船場の跡地を借用,石川島平野造船所(現、株式会社IHI)設立。初の民間洋式造船所
1889年(明治22年)1月
個人会社を改め有限責任東京石川島造船所とし,渋沢栄一・梅浦精一を委員に迎え,自身は常任委員に
1885年(明治18年)3月 海軍省から一等砲艦「鳥海」を受注。1888年(明治21年)12月
引渡。初の国産軍艦
──軍産の初発もこの人が飾ってる。この末期の業績がwikiには並んでるけど,山手線から東北線まで鉄道事業まで功績を残してます。
1892年(明治25年)12月3日)没。
──ホントにいたのか?と思わせるような,力業で近代日本を造った長崎人だったんでした。今後の研究にも注目したい。

※ wiki/平野富二
平野富二 近代日本の創建に貢献したひと 金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木 平野富二没後百十年記念祭 平野富二碑移築除幕式
「長崎の『平野富二碑』の存在は、わずかな文書記録によって紹介されたばかりで長年忘却されてきました。また矢次家の墓地はすでに棄縁されているとの風聞もありました。それが2001年11月24日に平野義和・正一父子の現地調査の結果、矢次家の墓苑はすでに破却されていたものの、無縁塔のなかからこの貴重な碑が発見されました。このたび平野富二没後110年記念祭を機縁として、平野家墓苑(谷中霊園乙11号14側)に移築され、除幕・披露のはこびとなったものです。」
長崎)「平野富二生誕の地」碑立つ 活版文化拡大に貢献 2018年11月25日
「日本で初めて鋳造活字を完成させた本木昌造から活版事業を引き継ぎ、その文化を広めた平野富二(1846~92)の生誕地を示す碑の除幕式が24日、長崎県勤労福祉会館前であった。」

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