m164m第十六波mスペクター基地深く入る龍灯かm船戸宮

坊津の3時間半

多浦を発ったのが0939。歩いた道をバスで引き返す。
 0942,トンネルを通過……するかと思えば,その前で,右折? ギョッとしたけれど,展望台への道(→GM.(経路))に入ったらしい。よく大型バス走らせるな,という細道だけど……確かに,眺めはスゴい。丸木浜先の岩礁群も一望だぞ!おおっ‼左右の絶景と静謐のコントラストが……これも痛恨のルートです。訪れた方,少しだけ迂回になるけど是非お通り下さい!!
▲(悔しいので再掲)スペクターの岩礁

る時に見た8つ風車。
 あ。スペクターの岬の向こうに,今チラリと見えたのが坊津の町かな。
 0948,今朝の十字に出て泊へ降りてく。スピードは出ないから時間はかかります。
 0949,泊バス停。マスクのお婆さんが一人だけ乗って来る。アナウンスが「次はおとまりです」──いや今日は泊まらないけど……ではなく,これは「小泊」という地名でした。
 泊の集落内は割と普通。埋め立て地っぽい風情ですけど……博多浦のことがあるから油断はできません。
 泊トンネルをくぐり市立病院前バス停へ。南さつま市立坊津病院。0952。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

▲0959海と中坊

坊,と言っても中学生ではない。0957,バス停・中坊にてバスを下りる。
 まずは帰路のバス便をチェック。枕崎行きは──0710,0810(土日運休),0952,1332,1717──選択の余地はない。1332便まで3時間半の坊津歩きとなりました。

▲「させないでください」。もしかして,その前を自由に入れ替えたいのか?

ほーら君も密貿易したくなる

時の時報を聴く。
 見回す。南すぐには,出口が見えないトンネルが暗い口を開く。南の信号ある交差点から左折西行でしょうね。
 坊郵便局。税関職員が目を剥きそうな看板「密貿易屋敷→」の矢印に沿って右折すると──

▲「密貿易屋敷」案内板

如,と言うのがピッタリ来ます。バス道からは高台に遮られて見えない浦が,静々と姿を現します。
 これは……密貿易したくなる地勢ですね。
 1010,浦の海側に続く石積のガードレールに見惚れつつ進みます。

▲石積のガードレール

?浦の対面に朱屋根の社が見えてきたぞ。
 1013。左手から「市道高台へ」と看板のある古い坂道が降りてきました。手すりは新しい疑似木製。でも古い気配のする坂です。──根拠なしに言えば,例えば海沿いの道がなくてこの坂だけを陸路入口にすれば,浦沿いを密封することが出来るかもしれません。

▲高台への石段

海からまっすぐに側溝

018,下浜川*付近の史跡案内図の看板。眼前の景色と見比べると──対面の社が船戸神社。さっきの沢が大谷川。
 湾に沿って右へ進もう。1020。
* この下浜川の位置がどの地図でも確認できないけれど,GM.には次の場所があるから,つる屋菓子舗辺りを河口に東から下る流れのはずです。
下浜滝→GM.

▲1017路地

地を覗いてみる。古びてるけど割と普通。
 ただよく見ると,側溝を何重にも引いた形跡があります。最古の排水路がそもそも海から直線で引かれたようです。

▲1017菓子舗

もぎ餅,やっぱりあるぞ!
 事前に調べてた「つる屋菓子舗」。「坊津旅情」という観光用の菓子のほか,やはり「よもぎ餅」の貼り紙が店頭にあります。

船戸神 猿田彦命 こさっどん

▲1020船戸神社前の水路。下記「彷徨」によると,幕末から明治初期にかつお節製造納屋まで滝から水を引くために建設された石管水道。
* 彷徨旅行記/出水・知覧・坊津・枕崎 その九

戸神社に着いた。概ね集落最西端のはずです。
 船戸神社石案内の碑の表面には「祭神 猿田彦命(古事記上・14 船戸神)
場所 こさっどん
本来は中国の岐神(フリガナ:くなど)(同祖神)であるが …」とあります。この「こっさどん」については,記事によって色々な説が書いてあり,決め手はないらしいけれど,とにかくこう呼ばれてるのは確かです。
 裏面を見ると──

大正13年木造を石祠に改造して附近の高地に移した。昭和23年宮田春信氏が木造鞘殿を造ったが昭和45年7月下浜部落民の総意によって現在のコンクリート造りにした
総工費 510千円
内訳 鵜鳴崎共有林売却代金360千円と部落民の浄財を以て充

云々とあります。様々に読める経緯ですけど,とにかく元はより低地,おそらく海際にあったらしい。
 現在の宮自体は,だから新しい。ほぼ北面。
*「鵜鳴崎共有林」がどこのことか,不明。ただ,これを地名の相似から現・鵜ノ鼻崎の島地内の地名とするならば,坊の住民共同体が湾内のかなり西の方まで所有感覚を持っていたことになります。

最初期の山川石造物 アカンコ庚申塔

▲庚申塔

の右脇の階段を登ると真裏に三重の石塔。これが「庚申塚」として紹介されるものらしい。
 文字は読めない。杖を持つ人物像に見える彫り物があるけれど──不動だろうか。焼香は新しい。
 後から薩摩塔を疑ったけど,違う。石材が山川石と特定されてる。ただ珍しいものではあるらしい。

[上]金剛像部
[下]「宝永八辛卯天」部
[後掲niemon]
※ niemon/
アカンコ庚申塔
y!プログ/みさき道人 長崎・佐賀・天草etc.風来紀行/船戸神社と庚申塔 南さつま市坊津町坊

──しいものでは,どころじゃないぞ,後でよく調べると。
「アカンコ」庚申塔というのが通称らしい。でも由来は不明。何かの中国語音かもしれません。
「宝永八辛卯天」というのは西暦では1711年。干支「辛卯」の計算も合う*から間違いはない。
*「辛卯」は干支の一つで,第28番目の組合せで,十干が「辛」,十二支が「卯」。直近の辛卯は2011年で,宝永8年はかっきり3百年前なので2011年-60×5≈1711年

 唐物崩れの年とされる享保8年≈1722年の11年前です。つまりこの三重塔の創建時,まだ坊津は外国船で騒然としていた。

指宿市山川町でしかとれない黄色っぽい山川石と称する石で出来た三重層の塔で、県下でも二番目に珍しいものである。(一番目,という例が何なのか確認未了)
 下層正面に青面金剛(しょうめんこんごう・病魔や病鬼を追い払う菩薩)を中心に鶏、三匹の猿が彫ってあり左側に奉寄進庚申結衆中、右側に宝永8年(西暦1711年)などの文字が鮮明に判読できます。[前掲みさき道人]

「山川石の三重塔」で県内二番目という珍しさがどの程度なのか判断し辛いけれど,山川石は指宿外港の山川のみに産する石。山川の豪商と言えば河野家ですけど,その山川石墓石群の年代は初代から7代までの享保2(1717)〜文久2年(1862)にわたるという。つまり地元山川の使用初年より,アカンコ庚申塔の創設は古いのです。
* いぶすきふるさとマップ/河野覚兵衛家墓石群
 18C初段階では例のない奇石を,海路でわざわざ運んできたことになるのです。

日本神話とは異なる何物か

▲奥の岩壁

らに裏手の藪の向こうにも,穴の空いた大岩,
 石垣,墓石らしきものが見える。大岩の上には大樹が覆い被さる。神域になってると見てよい。一礼して去る。

▲1034御神体

不燃戸神の本体を木枠越しによく見てみる。
 楕円状の石らしい。沖縄のものに似る。感覚がかなり古い。日本神話と違う何かの神様です。

▲1033アカンコ庚申塔からの裏参道らしき下り道

の浜」と地理院地図にはあり,字名は「坊」。東の一条院が由緒と書かれることが多いけれど,地名からするとこの辺りが中心地になるはずです。
 なのに──と言うか,だから,と言うべきか,三国名勝図会にはこのエリアの記述だけがスポッと抜け落ちてます。前後の書き方からして,意図的な削除やジェスチャーじゃなくて,本当に分からないらしい。

▲家屋裏から浦を眺める

■史料:三国名勝図会「坊津港」(全文及び関連付記)

 坊津の基礎史料として,江戸後期の薩摩藩の公式地誌「三国名勝図会」から,「坊津港」部の本文全文を,関連する付記を交えて起こしてみます。

名称:坊津 唐港 房津 唐港 はうのつ

坊津村にあり。名所方角集、唐港に作る。武備志、登壇必究、並に坊津に作る。海東諸国記房津に作る。今世上坊津と通称せり。当邑一条院は、往古上坊中坊下坊と号し、三所に坊舎を営み、三時上堂の軌則をなす。今に其地名残れり。坊津の名是に由て出つ。此地は、皇国の辺陲にして、直に絶域に対望するを以て、古昔漢土、及び海外諸蕃の徒通商互市する者、皆此津に輻湊す。故に唐港といへり。
✻ 三国名勝図会(坊津港) – 南さつま歴史街道

 本文でも触れたけれど一条院の「坊」が由来,というのは公式ではあるけれど無理目です。それなら寺がある場所は全て坊になってしまう。「房」津の別称からは,「坊」の漢字は後付けで音の方が先,という推測は成り立ち,それとも矛盾します。
 唯一,坊津名の初見として,これはかなり稀に触れられる「ハうのつ」が,これらの見方からは矛盾しません。

承久の乱以降、河邊郡を治めていた千竈氏が記した「千竃文書」に坊津の地名が記載されており、嘉元4年(1306年)4月14日の譲状において「ハうのつ」と記載されているのが地名の初見であるとされる。

* Wikiwand/坊津町坊
原典 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店、1983年

「ハうのつ」は,けれどさらに難解,というか不可解です。「はう」に近い音が先にあったとすると,例えば「公界」(クハ)が縮まったものであるとか,何かの漢語か古代の倭語,あるいは九州の方言が元になったのではないか……という程にしか推量できません。
 ただ図会後掲箇所にこうあります。

(後掲。本来順序は後掲★)
坊津旧跡記に、此港の形、梵字の鑁(バン)といふ字に似たる故、波字浦といふ。又港内鶴ケ崎の形に因て、觜の浦といふとは見えたり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

*「鶴ケ崎」の記述中にあるけれど,内容から,坊津港南側全体の地形を指すと思われる。
とあります。
「梵字の鑁(バン)」とは──

(上)本来の向きのバン字 (下)右倒しにしたバン字。地形ではこの形で北が上方向

という字で,確かに地形をそう読めます。この「鑁(バン)の津」が,それじゃ書けないから同音の漢字を当てた,というのが一番史料に則した読みになるでしょうか。
だとすると,日本の地名としては特異なサンスクリット語を冠した地名,ということになります。
 さらに言えば,この地形を「鑁の字のようだ」と感じる感性を持つ者が入港してきていた,ということにもなります。

歴史:自然と漁村になった

 続けて記すのは歴史の概観。いかにも不自然な筆致で綴られており,おそらく藩の筆が入ってますけど──

是故に当時は、市店檐を連ね、楼屋甍を比べ、人烟富庶なりしとかや。後世肥前長崎を以て、諸蕃の■場となししかば、自然と此港の繁華地を払って、終に粛然たる一漁村とはなりしなり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 長崎に海外交易が一本化されたので,坊津に海外船舶が来なくなり,一漁村になってしまった。
「自然と」と書かれて憤然とする坊津人は多かったのではないでしょうか。でもこの記述で記してしまう薩摩藩というのは,やはり肝が座ってます。
 なお,白尾國柱著「麑藩名勝考」にも似た文脈の記述がある。どちらかが一方を写している気配だけど,記述の詳細さからは名勝考が原文っぽい。

後に肥の長崎港をもて諸蕃來朝の㩁場となりしかば、おのづから此港の繁華地を拂て、終に粛然たる一漁村とはなりし也。懐中鈔に、頼めども蜑の子だにも見へぬかな如何はすべき唐の湊に、是唐山の客船も入來らず、此浦のさび渡りける比にやとおもはるれ。昔者布店軒を連ね、樓屋甍を比べ、人烟冨庶なりしといふ。礎砌など今は茅艸のみ巷を塞ぎ、苔むしたる蹟のみぞ残りける。

* 白尾國柱著「麑藩名勝考」
**白尾國柱:1762-1821。国学者。薩摩藩士で記録奉行,物頭。藩主重豪の命で曾占春と共に農事・博物書「成形図説」を編集

享保8年突如として幕府による一斉手入れが強行され、徹底した弾圧にあった。
関係した男たちは行方を明かさず逃げのび、家族と生き別れ、一家離散の憂き目をみる家が続出した。以後坊津は、人影もまばらな一小漁港となってしまうのである。

* 枕崎水産加工業協同組合  唐物崩れ
 この記述でも摘発者は「幕府」になってる。
 現実には,薩摩藩が密貿易業者を再編して配下に置いたわけです。逆に,配下に入らない,あるいは配下に入れる価値を見出さない者は摘発して,それを再編後の統制力としても利用した,というところでしょう。

概観:大瀛に接して一の内海の如し

 続く記述からがいよいよ具体の地形です。
 まず湾の全体ですけど──

此地の総略、層岡畳山、三面に環り、其内に海湾ありて、港となる。港口は西に向ふ。東に入て、更に南に転り、下浜深浦の湾曲窮処に至て、十有二町。港口の濶さ、三町四十間余。港の周廻三十町余。港中海水の深さ、卅六尋より四十余尋に至る。港口窄狭にして、入遠く、中広く回岸連り抱きて、唯西一方を欠き、大瀛に接して、一の内海の如し。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 要は逆Cの字で,南側が大層複雑に入り込んでる,ということですけど……具体的な数字の多さには驚きます。特に水深が把握されてる。これは往時には,どこがどれだけの深さかが運営者の頭に明瞭に入っていたからではないでしょうか。

坊津港全体の挿絵(三国名勝図会)

北岸:泊港とは西尾を隔るのみ

 さらに細部。北側海岸線からです。

港の西に山觜ハナあり。北の陸地より、西の方海中に尖出して、甚狭長なり。西尾といふ。西尾の西北に、一支港あり。泊港という。〔下条に詳なり。〕
 坊港と、泊港とは、唯西尾の一山觜を隔るのみ。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 泊を「一支港」と書いてます。坊津とは機能的に一体で,例えば坊津港側が一杯の時は泊に回る,というような差配がなされていたと想像できます。
 そうした中で,後の時代には警戒厳重な坊津より風待ちだけなら泊の方が,という運用にも繋がっていったのではないでしょうか。

▲坊史跡図(西半分)
*出典 坊津町郷土誌編纂委員会「坊津町郷土誌上巻」昭44,坊津町

外港南岸:双剣石・鵜嶼 西尾觜と相対す

 坊津湾は南岸だけを見ると,内外の二部に分かれる形です。その外側について──

港口の東南岸に、寺ケ崎といへる山觜、遠く海中に突出す。其山觜西尾の中辺に向ふ。是を港口とす。寺ケ崎港口の内湾曲許多あり。皆舟舶を停泊すべし。又寺ケ崎より、西南海口十町許に当り、東南岸に大巌あり。西北の海中に突出し、其西北に双剣石鵜嶼、接連して、横に海上を扞蔽す。鵜嶼の西北は、西尾觜と相対す。其間五六町許。是を港の外蔽とす。此外蔽の内、東南岸に湾曲許多あり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

六十余州名所図会
「薩摩 坊ノ浦 双剣石」

 上の画像は幕末に歌川広重が描いた浮世絵です。双剣石が全国69箇所の名所に数えられてます。坊津歴史資料センター輝津館の展望所から見える高さ27mと21mの双子岩で,広重が描くような桂林じみた奇形じゃない。
「皆舟舶を停泊すべし」とあるので,大型船はここに係留して,陸には小型船で行来したのでしょう──と思いきや,後掲「坊津浦」記述にも「数百艘の大船を泊すべし」とあり,後者の方が具体的です。
 いずれにせよ大型船の停泊に関する記述は,坊津港の章中この二箇所のみです。前に触れた泊・丸木浦の「琉球諸島に下る者,多く停泊して風を待」記述と合わせ,
①双剣石付近:係留地
②坊津浦  :積下地
③丸木浦  :風待地
という色彩が窺えます。
図会細部記述の位置対照図(〜i:亀浦)

鶴ケ崎[a]:舞鶴の首

 以下は坊の港の細部描写に移ります。ポイント毎にアルファベットを振り,上図に落としていますのでご参照下さい。
「舞鶴の浦」という別称は,坊南東部に突出する鶴ケ崎を鶴の頸部に見立て,この鶴が環状に翼を広げている,という比喩から来ています。

次に坊港の細状を記す。港内の東岸に山觜あり。鶴ケ崎といふ。港中へ鋭出すること一町許。觜端に祇園神社あり。素戔嗚命を祭る。祭祀六月十五日。山觜松樹鬱然として、桜樹頗る多し。此觜の海中に、石礁五十間許相連る。長礁といふ。潮涸る時のみ顕れ出。方角集に越潮と詠るは是なり。又山觜の方に、大巌あり。烏帽子礁といふ。潮満る時も隠れず。坊港、一名は舞鶴の浦と号す。長礁は鶴の觜にて、烏帽子礁は、鶴の烏帽子、西尾崎と、寺ケ崎とは、鶴の翼なりといへり。坊津八景中、鶴ケ崎暮雪是なり。〔一説に、鶴ケ崎は、鵜形ケ崎の事にて、此処にあらずといへり。然れとも此処烏帽子礁の名あれば、鶴ケ崎は、此地なるを必せり。〕[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 最後の括弧部は,図会著者の明らかな惑いを付記したものです。鶴ケ崎の場所がここではない,という伝えもあると言う。これは,名付けをした集団と著者集団の隔絶を想像させますけど──この読みでは,ひとまず著者の言を信じていきます。
 満潮で潜れる長礁と潜れない烏帽子礁,という記述は,この沖が航行者にとって難所だったことを伺わせます。
 もう一つ気にかかるのは,「祇園神社」の位置です。「素戔嗚命を祭る」とあり,現・八坂神社の主神を同じくするので,神体は同一でしょう。けれど,現在の八坂社が岬の付け根にあるのに対し,図会は「觜端にあり」とする。一度廃れて,再興時に人家に近い場所を選び直した,といった経緯を探したけれど,そういう由緒は語られていません。
 なお,原文ではこの後に前掲の「鑁」字記事が続くので,飛ばして進みます。

(前掲★本来順序)
坊津旧跡記に、此港の形、梵字の鑁(バン)といふ字に似たる故、波字浦といふ。又港内鶴ケ崎の形に因て、觜の浦といふとは見えたり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

下の浜[b]:狭湾 小舟を繋ぐのみ

 この日に坂を降りてすぐ見えた湾の辺りです。
 してみるとあの坂道の辺りが地頭館の置かれた集落≈西の坊津浦を監視する新集落だった可能性が出てきます。

鶴ケ崎より北行すれば、沙湾あり。下の浜といふ。岸に臨んて人家多し。地頭館も此処にあり。下浜の西北に接して、一狭湾あり。深浦といふ。〔入り一町許、広さ二十四五間。〕 即八景中、深浦夜雨是なり。此辺海浅して、小舟を繋のみ。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 港湾としての機能では,図会の評価はすこぶる低い。けれど近衛公の深浦夜雨歌「舟とめて蓬もる露は深浦の音もなぎさの夜の雨かな」の「逢」の字は,何か怪しい色彩を醸します。
「地頭館」は,薩摩の他地,近くでは秋目の麓(薩摩名の「外城」)では領主館を意味しますけど,西の坊津浦のダーク・サイドとの暗闘又は折衝が行われた政治的なエリアだったのを,中央政界から追われた近衛公が嗅ぎ取って詠んだイメージかもしれません。

[再掲]図会細部記述の位置対照図(〜i:亀浦)

中島[c]:中島晴嵐

 視点は深浦より北に順に移ります。中島は,丁度,中坊バス停から深浦の眺めを妨げていた山塊に当たるようです。

深浦より西に接して、島嶼の如き地觜あり。港中に一町許突出し、広さ是に半す。北は僅に一線路陸に相連る。〔広さ十間許。〕 因て中島と号す。松林鬱然、土人の遊処なり。即八景中中島晴嵐是なり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

「松林鬱然」,松林が覆い茂る様子は分かるけれど,「土人の遊処」とは何でしょう?
 以下に掲げるのは,図会付記部にある中島についての注釈です。これだけを誇大視すると,「島嶼の如き地觜」ゆえに幽閉場所に使われていたことになるんですけど,そこでなぜ地元民が「遊」んでいるのか?
 治安の悪い,無法地帯のような状況を描いたものでしょうか?いや,それにしては,ここに幽閉された人物が歴史的過ぎるのです。

○中島
前文に見えたり。宝永戊子の秋八月、邏馬国人を、屋久島恋治村に得たり。屋久島の宰、肝属三右衛門兼近、是を執らへて本府に状啓す。既にして邏馬人を屋久島より坊津に護送し、中島に虎落を結び、是を囚ふ。後長崎鎮台に護送し、又江戸に至り、終に牢死す。屋久島の巻に詳かなり。此者の事跡は、白石が采覧異言、又芳洲たはれ草、春台が紫芝園漫筆等に記せり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)/付記1]

最後の宣教師 Giovanni Battista Sidotti

「白石」が書き残している「邏馬人」(ローマ人),というとこで気付かれた方はなかなか鋭い。中島に囚われていたのは,屋久島に潜入し,江戸で新井白石と問答をしているイタリア人宣教師 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(シドッチ)です。
 屋久島から長崎へ送られる中継地です。屋久島での捕縛が1708(宝永5)年,江戸着が翌年1709年なので,唐物崩れの1722 (享保8)年より前。アカンコ庚申塔創建の2〜3年前です。
 坊津が中継港として当時かくも利用されていた点に加え,唐物崩れ以前の段階でも決して無法地帯でなく外交上の重要人物の幽閉地にされていた,というのはまた密貿易港・坊津のイメージをブレされるのです。

最近,遺骨(の可能性のある骨)を基に復元されたスコッティさん。疲れてるから眠らせてあげようよ……

広大寺・番所[d]〜鵜形ケ崎[e]:官吏を置き出入の船を検す

 中島以北の海岸線は,一言で言えば官庁街だったらしい。

中島の西四十間許に、広大寺あり。〔下に詳なり。〕 広大寺を距を半町許、西の方は即西尾とす。西尾接壌の際より、觜端まて、長さ十町許広さ四五十間、松樹翠を浮ぶ。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 この広大寺という寺は,現在は存在しないらしいけれど,国道脇に建つ沈溺諸霊塔という碑の次の文章から,現在の輝津館南海岸辺りと考えられます。

文化5年(1808)11月10日、坊港に入港しようとした唐船が沈没し、乗組員90人のうち29名は助けられたが、61名は溺死した。なくなった人々は広大寺に葬られ天保3年(1832)中国から船主が坊津を訪ねて厚意を謝した。天保10年(1839)に土地の有志によって慰霊碑が、同寺境内に建てられた。[沈溺諸霊塔 文化財看板説明書]

 この海岸の山手に一条院があったわけですけど,それ以外の記述がまるでない。
 輝津館の位置が番所のあったところとされます。確かにこの高台からなら湾対岸の坊への船の出入りは監視できたでしょう。

西尾の中辺に番所(はんところ) あり。本府官吏を置き、出入の船を検す。邏所より觜頭の方一町許の所は、地形頓に狭く、其状 約腹壺(ヒサコ)の如し。因て土人 緒束(タヒリ)と呼ぶ。是より觜頭四町許は、地形復大きく、其広さ五六町にして、陸田あり。此觜端を鵜形ケ崎といふ。又觜端の海中に巖礁あり。長さ十間許横礁と名く。是を港岸西北の極とす。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 これで湾北岸の記述は終わりです。以下の南岸の筆に比べて,単に地形描写に終わっています。泊も停泊地として利用されていたのに,なぜこの北岸の岬は記事が少ないのでしょう。

[再掲]図会細部記述の位置対照図(〜i:亀浦)

▲坊史跡図(東半分)
*出典 坊津町郷土誌編纂委員会「坊津町郷土誌上巻」昭44,坊津町

坊津浦[f]:唐船漂着の時も此に繋けり

 ここから視点は鶴ケ崎に戻り,舞鶴の比喩で言えば左手西方に伸びる翼を辿って反時計回りに移っていきます。

また前文鶴ケ崎より半町許南にいけば、一大湾あり。西南に寺ケ崎の山觜五六町鋭出す。故に海湾をなす。坊津浦と名く。人煙頗る繁庶なり。此湾港内、大船を停泊する所にして、唐船漂着の時も、此に繋けり。湾大にして底深ければ、数百艘の大船を泊すべし。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

「唐船漂着の時も,此に繋けり」と書くところが意味深です。主目的での外国船来航はない,ことになってる訳です。
「数百艘の大船を泊すべし」の「べし」は可能の意でしょう。物理的には,ここはそれほどの船が入港できる広さか?と思えますけど,図会はそれほど誇張を用いる文体ではない。やはり読み取りにくい。
 それから──ここを「坊津浦」と呼ぶ,というのは,ここが狭義の坊津港だということでしょうか。
 前掲名勝考には次の一節があります。

鶴㭰の東灣は下濱、南灣をば大坊といふ。

「大坊」は,元来「坊」といえば坊津浦を指していたところ,広義の「坊」が発展してきたので尊厳を帯びた差別化名称として生まれたものではないでしょうか。

飯盛山[g]:松山晩鐘

 坊津浦西,寺が崎の高地部を飯盛山と呼んだらしい。ここから,形状による名称がほとんどを占めることにご注目ください。

坊津浦より南二町許に飯盛山あり。山形飯を盛たるが如し。故に名く。是より西南は、山林高低相連る。飯盛山の西面五分許に、〔海岸より一町半許。〕
 松山寺といへる曹洞宗の禅寺ありしが、今廃す。即八景中松山晩鐘是なり。
 松山寺址より西の方一町許、〔海岸より一町許。〕 山腹に興禅寺址あり。〔此寺の事跡、下条に詳なる故、此に略す。〕[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 近衛公が歌に詠んでいる(巻末参照)ということは,江戸初期には松山寺の晩鐘は坊に響いていました。
 さらに遡ること6百年,1223(貞応2)年には曹洞宗開祖・道元がその師・明全和尚と共に坊津栄松山興禅寺に滞在したといいます。明全は坊で没し,道元は渡唐してます。──ただその間が長いので,継続した歴史があるのかどうかは定かではありません。
* 南さつま市坊津町 (地勢、歴史,、文化等の基本データ)

[再掲]図会細部記述の位置対照図(〜i:亀浦)

寺ケ崎[h]〜亀浦[i]:漁網に利ある所なりとぞ

 松山興禅寺の岬とその西・亀浦についてです。

 興禅寺址の北に接して、山觜突出す。即ち前に所謂寺ケ崎なり。寺ケ崎皆石巖にて、其西面潮際に二間許の穴あり。その奥に観音の倒像あり。天然に彫刻せるが如し。是を下り観音と号す。寺ケ崎西南に小湾あり。湾口濶さ四町許。亀浦といふ。漁網に利ある所なりとぞ。即ち八景中亀浦帰帆是なり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 この下り観音も興味深い。「観音の倒像あり。天然に彫刻せるが如し」は結局人工物かどうか不明瞭な書き方ですけど,古寺の直下でこう呼ばれたからには人工ではないでしょうか。媽祖信仰らしき臭いもしますけど,これ以上材料がない。

図会細部記述の位置対照図(j:網代浦〜)

網代浦[j]:群魚の聚集せる所 常に魚人の利となる

 寺ケ崎以西に亀浦,網代浦と続く湾入は好漁地として描かれています。近衛公の歌は亀浦から「帰帆」しているのですから,なぜかこの浦に住む者はなかったらしい。

亀浦の西に接して山觜あり。海中に突出す。寸々礼石觜といふ。其東北亀浦は、湾小く觜の長さ一町許。其西は湾大にして、觜の長さ五六町、寸々礼石の西面觜端に両石あり。長短相並ふ。合抱の形に似たり。因て夫婦石と名づく。寸々礼石觜の西なる大湾を、網代浦といふ。其陸を網代山といふ。湾の渚に蛭子堂あり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 蛭子を祀る堂があったらしい。
 坊からこの程度に離れた,住む者のない場所に,海神の社がある,というのはどういうことでしょう。かつてはこの辺りに,海人の家船が浮かんだのでは,という夢想を招く事蹟です。

湾の西に双剣石、鵜嶼ありて、鵜嶼は寸々礼石觜と相並ぶ。湾の口濶さ四五町、入も寸々礼石觜の長さと同じ。湾内鉛錘魚等群魚の聚集せる所にして、常に魚人の利となる。山上に棚を設け、漁事に老たる者、棚に在て海を望み、群魚の湾に入るを見て、舟を列ね湾口を遮り網を湾内に下す。魚を得るころ甚多し。其魚事の状、此津の佳観なりとて、遊客の徒、必す勝を探るといふ。即八景中網代名照是なり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 最後の「其魚事の状」で「遊客の徒,必す勝を探る」,魚群の形や量で勝機を占った,というのも不可解です。「遊客の徒」はなぜ網代浦の「魚事の状」を知り得たのでしょう。「勝を探る」からには直接に見聞した書き方ですけど,坊津浦から網代浦まで,そのために出向いていたのでしょうか。

双剣石[k]:却在二海西天一

 網代浦西が双剣石の屹立する地です。

網代浦の西は、陸地より西北海中へ大巖突出すること三四十間、大巖を距ること二間許に、双剣石屹立。双剣石雌雄ありて、大なるは高さ十五間、周回二十間許。小きは高さ十二間、周回六七間。両石の間僅に人を通す。根太く頭尖り、宛然として両剣を立るが如し。因て双剣石と号す。唐土人名つけしといふ。両石の上、松樹生ず。此津の奇勝なり。或人題双剣石詩に、双剣雌雄石、時々生二紫烟一、豊城何用問、却在二海西天一。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 最後の漢詩,と言っても5・7音なので元は対聯でしょうか。後段は,読解力の問題なのか,読めません。「豊城」がどこなのか,まず分からない。沖縄の豊見城でないのなら,江西省の豊城でしょうか。「却」は第一句の「時々」と対になっているのでしょうけど「在二海」と「西天一」が分からない。海はなぜ「二」つで,一つの天はなぜ「西」なのでしょうか。

双剣石を去ること二間許にして、鵜嶼あり。鵜嶼周囲5町許、高さ四五十間。此嶼皆石鵜といへども、松樹茂生し、翠色海に映ず。潮退く時は、東南岸より双剣石までは、巖下に沿ひ、徒歩すべく、土人来て蛤貝の属を拾ふとぞ。潮満る時は、双剣石と、鵜嶼との間は、二端帆の舟経過さるとぞ。〔鵜嶼の西北は、即鵜形ケ崎なること、前文に見ゆ。〕[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

「翠色海に映ず」る風光も美しく描かれてますけど,潮の満干で千変する光景も魅惑的です。引き潮の時にだけ現れる浜で干狩りをする海人の姿。
 双剣石-鵜嶼間の隙間を,通れる船の種類で表現しているのも海人的です。鵜嶼(鵜ノ島)の北を回ればいいような気もするのに,あえて双剣石の海峡を通ろうとしたとすれば,海人の矜恃のようなものがあったのでしょうか。

[再掲]図会細部記述の位置対照図(j:網代浦〜)

栗子島[l]:鰕魚を常に網し餌に用ゆるとぞ

 それにしても、亀浦から西は「何が捕れる」と漁撈の場として描かれることが多い。
 漁業権の色彩が薄い,共同の漁場だったのかもしれません。

 双剣石より西南の海中五町許に、栗子島あり。〔陸岸より一町許。〕 周廻八町許、高さ五六十間、松樹疎生。此嶼辺鰕魚の群衆する処にて、漁人常に網し餌に用ゆるとぞ。凡坊泊の地形は、沿海諸邑の地より、海上に鋭り出たるに、坊港東南の地、特に其西南海上に尖出すること数十町。其尖末を坊の御崎といふ。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 漁の餌にする蝦を獲る場所だった。漁への行来に立ち寄って,というのでなければ,専業の漁獲者がいたとも思えます。

御崎・高石神[m]:鳥糞着垂て粉白なり

 視点は西の岬を過ぎます。この「高石神」は位置も,推定も全く及びません。

双剣石の後、大巖接壌の処より、御崎の方六町許に、高石神といへる一危巖あり。後の一面は陸巖に連り、三面は海水環抱す。高さ三十間、周廻二十間、海畔に孤高直立す。巖上一草木を生ぜず。其上には海鳥常に巣くひ、鳥糞着垂て粉白なり。其状甚奇なり。御崎の極端に、円形の洞孔あり。大さ二丈許。東北に透明す。是を望めは、宛も月輪の如し。天然の妙造にして、神工鬼鑿とも云べし。即八景中御崎秋月是なり。御崎の地形、皆奇巖怪石。垂畳堆積して、急涛奔浪、激怒奮撃して、沫を飛し、雪を散し、其勢甚壮烈なり。此処に海獺ミチ〔或曰海驢。〕 といへる海獣あり。時々群り上りて睡眠す。唯一頭は寝ずして、人の来り襲んことを候伺すといふ。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 途端に話が神話がかってきます。「神工鬼鑿」の岩柱・高石神とは次の岩のことでしょうか?
 この辺りには別に岩がトンネル状になってて,そこから開聞岳が見える場所があるといいます。
 これらの風景は全て,海の航海者が見たものを名に落としています。陸人が名付けたものではない。航海の目印としての地名群です。

御崎付近の天を突く巨岩柱(高石神?)

[再掲]図会細部記述の位置対照図(j:網代浦〜)

田代[n]:水田陸田あり鳧雁時々下る

 この田代は,集落名ですけど,やはり位置が不明です。形状や正業が分からないので考えようもないのですけど,ここまで移り住む人々がいたものでしょうか?

御崎を施行し、東北の沿海十町計に小湾あり。田代といふ。水田陸田あり。鳧雁時々下る。即八景中田代落雁是なり。是を坊港東南岸の景状とす。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

坊津外周:日本三景 及はざること遠し

 図会は,坊津の周囲の山河をベタ褒めして総括してます。日本三景を挙げて,坊津には遠く及ばないだろう,と優を誇ってます。

また坊津一望の勝■を述るに、東に飯盛山、又朝日峯あり。北に車ケ峯あり。蒼翠靄然として、港を夾み、海水と相映す。港の回岸は、湾曲千折し、巖觜百出し、洲嶼巖礁星羅碁布し、其山険峻、其巖■■にして、碧水湛然たり。港内風帆漁舟の往来せる。岸上人烟寺廟の断続せる。其風景の奇絶なること、唐画山水を閲するが如し。朝霞夕靄、千態満状に至ては、筆下に模倣すべからず、実に海内無双の勝景にして、丹後の橋立、芸州の厳島、景勝の名を天下に著すといへども、坊津に及はざること遠し。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

港外:皇国と漢土の分界

 以下の最後の数段は,地誌としては異質な文章です。坊津の海上地勢に関する表記というのでしょうか。耳にしたその特異性を列記している感じですり

港口の西は大瀛にして、漢土往古呉越の地。今の福建省浙江省の地最近く、其水程三百五十里許ありとかや。海中漢土の近き処に、三里許の暗礁あり。是皇国と漢土分界の所なりといへり。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

「皇国と漢土分界の所」,つまり日本-中国の国境だという「三里許の暗礁」とはどこの,どういうものを指しているものやら想像を絶してます。

往古此湊は、皇国三津の一なり。三津とは、筑前博多、伊勢阿濃津、薩摩坊津とす。故に此港は往古漢土、及ひ諸蛮人湊泊するのみならず、皇朝より遣唐使を遣さる時は、此港より開帆せること、多く国史に見えたり。其文挙るに遑あらず。
 後堀川天皇の時、坊津の飯田備前、土佐の篠原孫右衛門、兵庫の辻村新兵衛、三人を鎌倉に召て、船法三十一ヶ条を定らる。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 後段の「船法三十一ヶ条」は廻船大法奥書に記された鎌倉期の坊津-土佐-兵庫の三名士に触れたものですけど,これが史実としては極めて疑わしいのは既に通説化してます。
* m17fm第十七波残波mm一條御所withCOVID/高知県/[付記]廻船大法奥書に記す「土佐浦戸篠原孫左衛門」
 ついでに書くと,中世から続いたとされる一条院の存在も,考古学的にあり得ないという見方が強まっています。
* 栗林文夫「坊津一条院の成立について」2018
 だからこそ分からなくなるのですけど──遣唐使がここを発し,鑑真や道元の事績を持つ中世の坊津はどんな場所で,近世における倭寇と密貿易の一大拠点とどう接続しているのか?
 論点は多分,中世と近世の間の空白期です。前記倭寇や元代の歴史にまるで現れない坊津の名が,それ以前とその後に頻出するのはなぜなのでしょうか?

されば此港は、唐土迄も聞え、武備志にも、津要有二三津一皆商船所レ聚、通海之口也、西海道有二坊津一、〔薩摩州所属。〕花旭塔ハカタ津、〔筑前州所属。〕、洞津アノツ〔伊勢州所属。〕
 三津惟坊津為二総路一、客船往返必由ル云々、あり。〔次文曰、花旭塔津為二中津一、地方広濶、人烟湊集、中国海商無レ不レ聚、云云。洞津為二末津一、地方又遠、与二山城一相近、云云。〕
 其外唐土の書籍に、往々坊津港の名見えたり。今長崎通商の清国舟舶、本藩に漂着の時は、此港に入津せること多し。[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)]

 図会の語るような坊津の通史的な捉えは,かなり一般的な語り方になっているのですけど──前掲の中世と近世の断絶が解明されない以上,ひとまずは近世の坊津のみに限って論じた方が安全です。
 ただ同時に,中世後期の海域アジア史は,まだまだかくも暗闇の向こうにあることは,巨大な「?」として保留しておくべきです。

坊津八景:中島 深浦
松山 亀浦 鶴崎 網代 御崎 田代

 最後に,図会が付記する近衛公の八歌を掲げておきます。情緒はあるけれど,正直それほど写実的でも文学的でもないように思えます。ただ当時,かの貴族の目に映じた坊津の光景が今に伝わることは,それ自体が奇特なことです。

○坊津八景
近衛藤公信輔、当津に謫せられ玉ひし時、八景の題を撰びて、各和歌を詠じ玉ふ。
中島晴嵐
松原や麓につゞく中島の嵐に晴るゝ峯のしら雲
深浦夜雨
舟とめて蓬もる露は深浦の音もなぎさの夜の雨かな
松山晩鐘
今日もはや暮に傾く松山の鐘の響きに急く里人
亀浦帰帆
亀が浦や釣せんさきに白波のうき起と見て帰る舟人
鶴崎暮雪
鶴が崎や松の梢も白妙にときはの色も雪の夕暮
網代夕照
磯ぎはの暗きあじろの海面も夕日の跡に照らす篝火
御崎秋月
荒磯のいはまくぐりし秋の月かげを御崎の浪に浸して
田代落雁
行末は南の海の遠方や田代に下る雁一行
[三国名勝図会/坊津港(南さつま歴史街道)/付記6]