本伝10章[Step91]ファッションとしてのダイエット

 328日目 
▲65.0kg(半減+3.0kg)
ラスト▲3kg!

なんて皮肉なテーマで始めちゃう最終章(なのか?)ですけど,そんなことよりわしのインド出発まであと12日ですよ!いや~楽しみ楽しみ!
 えッ?文意がブレてる?まあ楽に行きましょーや先輩!アハハハ…
 何ったって残り3kgッス!半減工程も▲48%まで来たわけで…でもここまで来て「実はザセツしちゃいました(泣)」っちゅーのは勿体無いオバケ,ちゃんと着陸しなきゃ!と気を引き締メルトダウン。脳の中がメルトダウン~もうダメだ~(by忌野清志郎)
 さて,以上の議論を前提といたしまして(…え?),人類が続けてきた身体加工の延長線上にダイエットはあるんじゃないか?という本題に入る。
 何たって12日後のインドにも繋がる議論なんである。

 「人間の身体は人為的につくられるもの,すなわち文化にほかならない。」
 三浦雅士「身体の零度」(講談社選書メチエ,1994)の主張です。
 「子宮外早生の1年」って概念を生物学者ポルトマンが発表してから,他の動物にはない次の事実が良く知られるようになりました。
 人間の胎児は成人の脳の1/4しかない(猿は70%)。また,出生時には立つこともできない。これらの基本的な資質を人間は社会的に習得させられる──
 つまり,人間は他の動物よりはるかに成形可能な身体を持つ。そして,成形されなければ生存できない。だから,「自然な形態」というものは人間にはそもそもなくて,「身体こそ人間にとって最初の文化だった」。
 そういう最初の形態の文化が刺青やお歯黒,化粧や香水であり,衣装や家屋に至るまでその延長,一番今日的な姿がファッションってわけ。
 そういう議論を聞いててふと気づいたのよ。…わしがこの1年やってた体重半減って──ユダヤ人の割礼とかと同じ身体加工だったんじゃねえの?
 身体加工。つまり身体に新しい文化的な意味での成形を加えることで内的に転生すること。
 さらに言えば──結局ダイエットってそういうもんじゃない?

 ここまででは「身体の零度」って書名の意味が分からんよね。
 零度ってのは──太古から人間があまた行ってきた身体加工の呪術を否定し,自然で健全なナマの自分であろうとする思想。そういうものがごく最近になって生まれてきたってこと。
 この本の最後1/3ほどは体育の誕生史が綴られる。主に国民皆兵の必要から誰もが健全で強固な肉体を持つことが奨励され,それまで舞いと踊りが国家事業として体育やスポーツに変化する。何とそれは19世紀後半に始まったばかりだって言うんである。
 変だと思ってたんだわ。何でオリンピックが古代ギリシャに由来してんのか…つまり,そんな特殊な時代(ローマとペルシャの間の軍事小国の弱肉強食時代)から持ってこなきゃ「誰もが体を鍛える」なんて変てこな行動類型はあり得なかったってことなのよ!
 さて…「身体の零度」は未完の論です。体育が始まった19世紀で唐突に終わってます。ではその次の時代,現代に何が「零度」の形として語られるべきか──それは明らかに「健康」だったと思うわけ。
 身体の理想的な状態ってイメージ。そこから始まる一億総ダイエットの時代。健康食とダイエット商品が厚労省が目をつけるほど売れる時代。
 だけどね。ホントは人間に理想形なんてないわけ。変化できるってことが一番の人間って生物の特徴なんだから!その変化のバリエーションこそ,人間の築いてきた文化そのもの。だから理想形を求めるなんて根源的にスッゴく徒労なわけじゃん。

 今からダイエットする人を見かけたら,まず言いたいのはこゆこと。
 「痩せなぎゃ!」なんて思っちゃダメ!そーゆーストレスが一番障害になるってゆう技術的なこともあるけど,そもそも誰が何の正当性でそんなこと強制できるの?
 どうせなら人間の本性に叶った痩せ方しよーぜ!変わることを楽しめばいいじゃん!痩せるのはもちろん,太ることも同じよ。それが文化的な人間らしい体験だし,その方が絶対楽しい!──実際わしはこの上なく楽しい旅を満喫してます。
 体重半減の1年で理解した最大のヴィジョン。「身体の零度」はそれをズバリ掘り出して見せてくれた。それは──人間はとてつもなく変化できるってこと!身体的にも精神的にも!そしてその2つは基本的には同じこと。身体加工こそ最も原始的な人間の文化なんだから。
 ファッションのよに純粋な「遊び」としてのダイエット!
 元々ダイエットなんて,全然深刻じゃないんでっせ。