015-4安芸府中\安芸郡四町\広島県onCovid

川音増す道を行く

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~


海田市駅北西方の岩滝山麓域

田市駅北側の山裾には神社が並びます。
 常本天満から熊野神社、花都八幡、岩瀧神社。船越の谷を挟む山際です。──この配置と方向は、広島駅北側の山裾の尾長天満から東照宮、鶴羽根神社(旧八幡)の神社群と相似します。
 岬の突端に配置された矢野の龍田神社(旧赤石明神)や尾崎神社の配置の、それは拡大版に見えます。海に向いた神域、または神域の連なり、海側から見れば特定の港へ向ける舳先の標準となるランドマーク。

め立て前にこの広島湾岸に並んでいた港町の生活の方向に沿う方向性、と言えばある意味当然でもあります。単独で見ると不思議はない。けれど今回のようにこれを連続体として見た時、横糸のようなものが何かありそうに思えます。
 実際、海人が港から港への横の往来をしていなかったはずはない。……というよりも海民にとっての港というのはその往来をするためのインフラなわけで、生業の感覚からするとむしろその横糸の方が本体のように思えるのです。
再掲: 安芸郡編各地域位置図
坂西矢野海田府中矢賀・牛田中山・戸坂仁保

の横糸を手繰っていく感覚で、広島駅裏方向へ、進める限り予定なく、即ち非線形の感覚で歩いてみる──というのが今日からの歩きのステージに……なるんだと思いますよ、きっと。予定がええ加減なんで知らんけど。
JR呉線・新町踏切北側の海田川

田川に沿って新町踏切を渡る。0925。
 広島市信用組合。ad船越五丁目27。川の東は字が転じて新町15。
 海田川が、ゆっくり左へ湾曲していきます。
 家屋敷地内だけど……祠がある。河口を向いてます。
 川岸には石垣が現れてきました。

越観音 豊稔寺」の矢印表示。ad.船越五丁目1。川は道中の半暗きょになる。覗くと石垣がやはりある。古い。
 0936、梅田酒造場。煙突が古色なエンジ。
 川音増す。
 0939、ad船越六丁目10。坂に勾配が出てきました。

彼岸花とブルーシーン

道幅半ばを占めて伸びてる海田川

942、綴れ織りの坂道に。やはり川筋道。
 相当な出水を想定した造りです。それもかなり古くからでしょう。坂西の総頭川はたまたま平成30年に気象と地形の条件が重なった、というだけでこの地域の短い直線河川は同じ危険を孕んでるのかもしれません。
0945川筋を振り返る

が分岐する。0950。
 水はほぼ流れていません。家並が絶え絶えになってきました。
 文字の掠れた石碑あり。
0952川筋の分岐点と石碑

両の音に驚く。
 真裏西側にもう一本車道があるようです。この上で道も分岐しているらしい。トップも近い。そろそろ、そちらの道へ出て下ることにする。0953。
 ad船越六丁目34。
 東山際には地滑り痕のビニールシート。
 対してこちら西山際は、青ビニールは見えない。空地に古井戸もあり土地は古いらしい。川からの微妙な距離と傾斜の違いが、歴史的に安全を保証しているということか。
0957空地に彼岸花、谷向こうにビニールシート

9世紀 花都の森に八幡神

稔寺に着く。1001。高野山真言宗。ここは「新観音堂」とあり、岩瀧神社、奥之院大本堂と併せ岩滝山を御神体としている、という書き方の絵図。
 豊稔寺観音講名義の献燈あり。本尊は「十一面観世音菩薩」、御真言は「おん まか きゃろにきゃ そわか」。

1004豊稔寺の神域山麓案内図
「船越観音 小児はり針灸療院」

下の道になりました。知らぬ間に集落域の上側にいたらしい。
 とすると今いる道は何なんでしょう?宗教専用道なのかこれ?
海田宗教林道から海田の町を見下ろす

023、安芸国鎮守 岩瀧神社の前に出ました。
 由緒書に曰く──

御祭神 伊邪那岐神 帯中津日子命 息長帯媛命 品陀和氣命 素佐之男命
相殿 菅原之神 宇迦御魂神
由緒略記
当神社は、人皇第五十三代淳和帝の御代(西暦八二六年)既に花都の森に八幡宮 竹浦の畔地の森に新宮社、西の天王開地に祇園社が氏子の守護神として奉祀されていた。(略)
明暦二年丙申二月十五日時の神主渡辺大和守保正が御神託により、三社の御祭神を合祀し岩瀧八幡宮と改め(略)〔案内板〕

岩瀧神社三段再奥の金比羅宮

殿から向かって左手、かつ上方へ段を成すように天満、金比羅が祠を構えてます。

船越村古地図の下に立ち尽くす

本殿に三社連署の篇額

には、確かに旧宮名「新宮 八幡宮 祇園」が記されています。
 拝殿右手に「安芸郡船越村古地図」。
船越村古地図

下に「昭和四拾七年四月■現在より弐百六拾三年前 船越町 河内光衛」と不思議な出典が書かれてます。18C初の古地図が別にあって写した、という意味でしょうか。ただ、海田川が瀬野川の方向を流れているので、単に昭40年代後半の地形に古地図の情報を重ねた図なのかもしれません。
 今日遡った海田川は「あせち川」と書かれてます。上流の「あせち溜池」から発しています。それに対し八幡宮の本宮は岩瀧神社の峰を挟んだ西側、鳥井川の源流辺りの再奥にある。
 さらにその西に「まとを川」と読める川があって「府中村堺」と記されます。左下には「仁保嶋」。

らに──左手西側に凄い記述がありました。

木船山城想像図 三澤盛三
この城は 今から四百二十年位前 鳥籠城の支城として阿曽沼氏によって築かれた平山城であるが水軍城の側面をもっていた 城代は小田村弾生であった
本丸は当岩瀧神社南方指呼の間にあり二の丸三の丸と共に海田湾一帯を眼下に見下ろす天然の要害の地にあった 毛利氏の防長移封と行を伴にした阿曽沼氏の去った後廃城の運命をたどる〔船越村古地図〕

文年間です。∵天文21(1552)年=1972(昭和47)年-420年
 織田信長が家督を相続した年に当たります。(巻末読解)
 この戦国期の歴史を経たその城跡地へ、三社が合祀されたということらしい。
──とは言え、古地図で大まかな方向は決まった。北西の峠越えで府中町へ入るぞ!しんどそうですけど……。

忠魂碑の血文

魂碑。1117。
 国際連盟脱退後の国難を意識して忠魂碑建立を決した、とあります。当時の民心をあからさまに彫ってます。
 1128。奈落に落ちるような坂の先に三叉路。迷いGM.と位置情報を見た上、右を選ぶ。

違和感を残して過ぎる安芸船越

1132岩瀧神社下T字を西へ(露出暗すぎですけど……)

137、出た車道を右折。これで北西方向のはずです。
 ad船越三丁目6。間違いない。府中町中心部への直線ルート:安芸山陽道、即ちかつての街道跡のはずです。
1144府中への船越道

リギリ車がすれ違えるほどの道幅なのに、交通量はかなり多い。抜け道的な道路のようです。
 石垣と旧家が続いてる。古い地区です。
 1147、水の音。それでようやく、左手に渓流が流れ初めてるのに気付きました。やはり綴れ織りの流れ。家屋敷地より5mも低い谷を流れる感じ。
1152脇道覗く

専寺」「船越めぐみ幼稚園」(現・保育園)の看板。
 はっきりと、石垣や煉瓦の跡があります。確かにここが昔からの土地ならば、生業は峠町の茶屋など接客業だったはずです。しかしこの場所で?どうもその想定だと雰囲気が合わない気がしました。
めぐみ保育園(現)付近の安芸山陽道〔GM.〕
中世の「府中湾」と平安・江戸期の街道位置図〔後掲府中町観光マップ(旧版)〕
※黄:平安期 赤:江戸期



地図の「府中湾」東岸一帯の寺社密集(→上図及び後掲マップ参照)は、これまた海田や広島駅北口のそれに類似しています。定説の山陽道の配置とは反れるけれど、この三点を結んだ海人の往来があったと考えると筋が通る。
 かつ、その往来は海路を主としつつ「船越」なる陸路をその補助路として用いた。つまり、国定の街道ではなく(海)民が通る往来が道になったルートだと考えます。

船越峠南手前付近の安芸山陽道〔GM.〕

越の地名については対馬船越の節で既に検討しました。海民にとって水面と別水面との間の陸峡は、海路の節目でしかありません。

内部リンク→009-4豊玉(往)\対馬\長崎県/■レポ:鼬殿 越すに越されぬ大船越
全国58の「船越」地名〔後掲araki minoru①〕※同著者が角川日本地名大辞典で検索したもの

※凡例(再掲)
地峡での船陸送・地峡での船乗継
地峡での船陸送(9) 
地峡での船乗継(1) 
渡船場・舟運(船着場)・人名由来 ∋広島県海田-府中船越
由来未記載・地名未収録

中町に入る。正午の鐘。
 下りとなる。急に道が拡がる。府中町が財政力の差を見せつける。
 ただそれだけに、府中町側には古道らしき痕跡はほとんどなくなりました。要は開発しつくしてる。唯一残るのは住所表示──八幡四丁目11。

八幡二丁目から宮の町五丁目の乱れ筆

1208八幡掲示板

の地名も歩くにつれ消えました。──字としての八幡はかなり広いようなのですけど……。(→GM.:地域)
 1207。バス停・府中永田。
 1211。バス停・浜田三丁目。
八幡の新幹線下の枯れ池

とここに池の跡がある。溜池が干上がっているだけでしょうか?新幹線の橋桁下。樹木根の跡があるようにも見えます。
 前掲地図と重ねても、ここはまだ「古府中湾」からは遠い。何の跡なのか見当がつきません。
 枯れ池の中にはただ渡り鳥三羽。

d八幡一丁目9。1226。次のブロックで1になる。
 一丁目1番です。要を指す住所のはずですけど……何もない団地なんだけど?
府中町一丁目1〜府中中学校付近(≒松崎八幡跡)マップ

──かに勘が瞬発できてればと悔やむのは、こういう時です。
 八幡一丁目から北へ150m、二丁目のさらに北の丘が松崎八幡宮跡(→GM.)。神武天皇御腰掛岩の所在地でした。
 上図のとおり沖縄X(航空写真)的にも、周囲の団地と明らかに異なる乱れたドットを見せてます。

※さらに言うとなぜだか、広島沿岸域では「一丁目=要」論が効かないことが多い。例えば幸崎神社は三原市幸崎能地五丁目1、二窓厳島神社は竹原市忠海東町五丁目18。

南北氏子の宗教戦争

崎八幡は、伝承に近い話だけれど北の総社と一種の宗教戦争を繰り広げた時代があったようなのです。

松崎八幡宮跡
京都の石清水八幡宮の別宮として、700年前には5つの寺をかかえるほど盛んな時代がありました。江戸時代から多家神社を巡って総社との争いが起こり、1874年(明治7年)に両社廃社のうえ現在の多家神社に合祀されました。今は石段が残り、旧境内に「神武天皇御腰岩」があります。[後掲府中町観光マップ(旧版)]

家神社を巡って」という書き方は、もっと複雑で凄惨な情景を丸く言ったんでしょうけれど──神聖ローマ帝国と教皇領みたいなもので、はるか古代の多家神社の後継は自分だと主張し合ったのでしょう。

中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽迺森」(たれそのもり)(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。[多家神社由緒書]

争の起こった時期は、近代神道の興隆期から維新以降の皇国史観の時代です。裏を返せば、この時期以前の千年ほどは神武帝の聖痕の縁もなくなったままに流れてきた可能性が高い。

神武天皇御腰掛岩〔GM.:地点〕

し──まあ自己弁護ながら、この八幡二丁目ですらやや道の揺れが激しい、という程のエリアのようです。まして上記の腰掛岩と来たら、某はり◯や橋並みのガックリ観光地らしく……ちょっと再訪する気にはなれません。
 なれませんけど──ここ八幡二丁目〜宮の町五丁目付近が近世府中町史の何らかの要地だったことは、確実なのです。
府中町八幡二丁目付近〔GM.〕

幡一丁目に話を戻しますと──スマホの漢字変換がイカれたらしい。「あんきょにみずのおと」と書いてます。
1233僅かに石垣残る

字を左折。みず音を追う。
 道路基部に石垣がある。見た目古くは見えないけれど、団地の中で異様に目立ってます。
水音を追う八幡の道

く水音の流れが顔を出す。
1235。
 この水路も、低部は完全にコンクリ。ただし道は微かにブレを見せてる。──というのは先の二丁目の筆の形の影響だったでしょう。
1236水路の姿を見せた道

に小山を見る。
 あれが多家神社の杜だと思う。右の脇道に入り北行。1239。
 宮の町四丁目交差点。車道左手の道へ。
1243宮の町の細道

245、倉本呉服店のT字路を右折。
 お好み焼き屋2店、どちらもコロナ休業中。
1251旧家軒先より

多祁理宮に神武七年坐す

山手前に幾つか旧家。左手西に回り込む。
 1257、多家神社。思わず階段にしゃがむ。「埃宮」(えのみや)とカッコ書きあり。
 正面鳥居に対聨。右「列[イ舞][壊-土+テヘン]賊聞歌伏仇」左「即覺夢而敬神祇[ム/夫]」──全然分からないけど、えらく戦闘的です。
 右手前丘下に貴船神社。やはりここに船を着けてたか……と淡く想像します。

貴船神社から公園


主祭神 神武天皇 安芸津彦命
相殿神 神功皇后 応神天皇 大己貴命
摂末社 貴船神社(高竜神、別雷神、大山津見神)
「古事記(七一二年完成)」に阿岐国(安芸国)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。「日本書記(七二〇年完成)」には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家(たけ・おおいえ)神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。〔案内板〕

 どこから解していいかと思うほど随所に違和感がある由緒ですけど──厳島-速谷-多家の並列がまず目を引きました。海神の港だった時代の広島湾。私見では、神武東征本隊たる南九州海民集団が広島湾方面の海民と融合したことが、近畿王権への跳躍を可能にした……とイメージしてます。
だその根拠は?と問われれば、あまりに脆弱です。
 多家神社から北500mに鵜上寺という古寺があるけれど、この名の由縁に──

「鵜上寺」というのは、昔このあたりは海に近く海鵜がこの台地に住みついていたことに由来するといわれています。[後掲府中町観光マップ(旧版)]

総社跡-多家神社-松崎八幡跡位置図

とは、古寺社の配置からの推定です。ただしこれも、海岸線の推定材料であって、ここへの外航船の来航、ましてや神武東征集団の来寇を実証するものでは到底ありません。

バス停・府中埃宮

府中村軍人優待會

征軍人碑裏に「府中村軍人優待會」記名。
 1911(明治44)年建立。下記詳述サイトによると饒津神社の「北清事変忠死者紀念之碑」(1901(明治34)年建立)と形状が酷似しており、揮毫は第三代広島市長・佐藤正。──明治後半の広島市の軍国風潮を牽引した人物らしい。1849(嘉永2)年生:現・広島市白島-1920(大正9)年没。歩兵第24連隊長で日清戦を戦い(市長就任前)、平壌攻略戦で負傷・左足切断というから相当の猛者です。陸軍少将で退役。〔後掲広島ぶらり散歩/5cq09〕
コロナ休館中の歴史資料館と最寄りバス停

寄りバス停は、多家神社名ではなく「府中埃宮」でした。余程バスに乗ろうかと思ったけれど……やはりこのエリアは歩いておきたい。1355、南へ。
 堤防らしき道の左手碑が側は、海田に似た3mほどの窪地が続きます。やはり埋立跡でしょう。
堤防道窪地の道

404、入川橋を渡る。川の名は住宅地図では榎木川とある。
 げんこつラーメン府中店でやっと昼飯にありつく。コロナ下でこのルート選択では、飯屋に遭遇するのが難しいようです。
 1458、JR天神川駅から帰る。

■レポ:船越村古地図注釈 読み解き

 本編で岩瀧神社本殿の船越村古地図に触れました。以下、その左下に書かれた注釈を読んでいきます。

(再掲←原図)木船山城【a】想像図 三澤盛三
この城は 今から四百二十年位前 鳥籠城【b】の支城として阿曽沼氏【c】によって築かれた平山城であるが水軍城【d】の側面をもっていた 城代は小田村弾生であった 
本丸は当岩瀧神社南方指呼の間にあり二の丸三の丸と共に海田湾一帯を眼下に見下ろす天然の要害の地【e】にあった 毛利氏の防長移封と行を伴にした阿曽沼氏の去った後廃城の運命をたどる〔船越村古地図〕

【a】木船山城

 そもそもこの城名がヒットしません。唯一、岩瀧神社について書いた後掲サイト「ザ★歩く車マン」に記述が見つかりました。この訪問時に迂闊にも見落としてますけど、次の絵馬が奉納されてました。

「岩瀧八幡宮と木船山城と江田島と金輪島と仁保島が描かれた絵馬 昔は木船山城っていうお城があったらしい」〔後掲ザ★歩く車マン〕

 絵馬の奉納者は「三澤盛三」、つまり注釈者と同一者です。この方は1957-62(昭和32.4.1-37.4末)の船越中学校の第3代校長先生でした〔後掲広島市立船越中学校、ただし同HP上は「三沢盛三」〕。おそらく絵心があり、かつ郷土史に通じた方だったのでしょう。
 ただ出典は明らかにしてません。つまり戦後の郷土史家の想像図ですから、残念ながらこの地図時代が、史料性のやや薄いものと捉えざるを得ません。
 さて三沢さんの想像した木船山城です。岩瀧神社鳥居も描かれていますから、位置的には船越四丁目付近。該当場所に下古屋山(しもこややま)城跡(→GM.∶地点)があり、広島市が記す城主名が三沢さんのそれと同じですから、多分同じ城の古名か別称なのでしょう〔後掲財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課〕。
下古屋山城略測図〔原典:広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』1993←後掲財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課〕

なまえ 下古屋山(しもこややま)城跡
所在地 広島市安芸区船越4丁目
時代は? 中世
 本城跡は、茶臼山(標高271m)から南へ延びる丘陵先端部に位置しています。現在独立丘陵状になっているが、本来は尾根続きとなっていました。周囲の市街地化の進展によって裾部が破壊されており、現状ではほぼ東西方向に六つの郭が確認されています。後背部の現在道路となっている部分に堀切があったと推定されます。城主は、阿曽沼家人、小田村弾正、または小田禅正と伝えられています。〔後掲財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課〕

【b】鳥籠城

 旧城主名(阿曽沼親綱)から鳥籠山城(→GM.∶地点 ad.現・広島市安芸区中野町)と同一と推定されます。
蓮華寺山(→GM.∶地点)から南へ派生した尾根の南端〔後掲城郭放浪記〕に位置し、最高所に本郭、南東方向に大小13の郭を階段式に配置〔wiki/鳥籠山城〕した典型的な戦闘的山城です。設置面はほぼ自然地形、尾根を断ち切る堀切のみが人工の土地改変と見られています。

鳥籠山城縄張図〔後掲城郭放浪記〕

 同城郭放浪記は城主・阿曽沼家の歴史を次のように記します。前掲wikiは、同家が鳥籠山城を拠点とした期間を約350年と書きますけど、下記の12C前半から16C後半を数えているのでしょう。

 築城年代は定かではないが承久年間(1219年〜1222年)阿曽沼親綱によって築かれたと云われる。 阿曽沼氏は下野国安蘇郡阿曾沼郷発祥で下野国阿曽沼城主阿曽沼広綱の子親綱が承久の乱の功により、安芸国荒山荘の地頭職を得た。
 中世は周防大内氏、後に毛利氏に従い関ヶ原合戦後に毛利氏に従って萩に移った。〔後掲城郭放浪記〕

【c】阿曽沼氏

 阿曽沼氏が最初に安芸国に得た拠点たる前掲「荒山荘」とは、世能荘(せののしょう)のことらしい。現・瀬野川から安芸中野の付近で、前者が世能村、後者が荒山村であることから「世能荒山荘」とも総称されたようです。正式名は安芸国安南郡の太政官厨家領荘園・世能荘〔改訂新版 世界大百科事典 「世能荘」←コトバンク/世能荘〕。
 阿曽沼氏が領した「荒山荘」が、世能荒山荘全体だったのか、語義通り後代の荒山村部分のみだったのかは定かではない。ただ、経緯から考えて少なくとも12C前半に全体を実効支配し始めたと考えられるでしょう。

左大史小槻宿禰隆職子孫相伝領掌当国世能荒山庄事〔1198 (建久9)年官宣旨(かんせんじ)案←後掲広島ぶらり散歩/7y0d〕

 小槻隆職(おづきのたかもと:当時の官位=左大史,1135生-1198没)は、源頼朝に解官されるも、後白河法皇により復権した官人です。世能荒山庄は元は太政官厨家が領したけれど、平氏時代(国司=平親守の時)に便補保※として小槻の所管に移った。ただその手続きは1198(建久9)年にようやく終わり、高倉法華堂領世能荒山荘が成立。

※便補保(びんぽのほ):中央官衙の諸経費にあてる納物や、封戸(ふこ)からあがる封物を当該地の官物や雑公事でまかなうために立てられた保。要するに、給料又は事務手数料を支払う代わりとして、本来の官有地の一部を実質的に領有させるもの。

 世能荒山荘の地頭職は安芸国守護・宗孝親の兼帯(≒兼任)に落ち着いていましたけれど、承久の乱後には源氏方の阿曽沼氏がこれを継ぎ〔改訂新版 世界大百科事典 「世能荘」←コトバンク/世能荘〕、これにより安芸阿曽沼氏の時代になります。
 阿曽沼氏は下野国(下野国安蘇郡阿曽沼)を本貫地とします〔wiki/阿曽沼氏〕。藤姓足利氏の一支流ながら、源平合戦で平家についた藤姓足利本家と袂を分かち、鎌倉幕府の御家人として奥州合戦までを継戦して遠野地頭職も得ています(遠野阿曽沼氏)。
 世能荒山荘の領主が訳わからないほど変転してるのは、「当時濫妨あるの所々」で「官中方々の公用、大略無きが如き者也」〔官中便補地由緒注文案←改訂新版 世界大百科事典 「世能荘」←コトバンク/世能荘〕、つまり治世が乱れて徴税不能の領地だったためと目されています。ここに安芸阿曽沼氏が進駐し、武力で自領に取り込んだのが鎌倉初期です(→前掲城郭放浪記参照)。鳥籠(山)城を築城したのは元寇の前後という〔wiki/鳥籠山城〕。
 南北朝の戦乱で阿曽沼氏は将軍方につき、尼子・大内氏に従属して長らえるも、1551(天文20)年の大寧寺の変(陶氏による大内氏乗っ取り)の後、当初陶氏と同調した毛利元就に鳥籠山城を攻められ降伏。関ヶ原後の防長移封に同行して萩へ移り、鳥籠山城は廃城となる。〔wiki/鳥籠山城、阿曽沼氏〕

阿曽沼家墓地(→GM.:矢口神社※)の五輪塔〔後掲史跡巡り和美プログ〕※同神社奥の廃寺跡宗源寺内

 阿曽沼秀光(1637(寛永14)年生-1678(延宝6)年没)とその子・秀之の頃まで記録があるけれど、その後は定かでない。なお、遠野阿曽沼氏は南部家に属して関ヶ原戦に至るも、その折に叛逆、戦後に南部家に滅ぼされています。ただし阿曽沼興廃記という興亡史が残っています(享保年間(1716-36年)宇夫方平大夫広隆著)。

【d】水軍城

 さて、三沢さんは木船山城(下古屋山城)が安芸阿曽沼氏本城・鳥籠(山)城の「支城」であると書いています。またこの城には小田禅正という者が入ったとしています。
 この人のデータは全く見つかりません。ただ前掲広島市は出典不詳ながら「阿曽沼家人、小田村弾正、または小田禅正」としています(→前掲財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課)。
「小田村」という表記は集落名を想像させますけど、角川日本地名大辞典で広島県下に存在する地名を引くと高田郡の小田村しかヒットがない。明治以降の村名ですし、阿曽沼氏が可愛川沿線まで勢力圏に収めたとは思えませんから、これではない。──ただし少なくとも、下野から追従して安芸入りした氏族と見るより、元々安芸にいた氏族が外来の阿曽沼氏に属した可能性が高そうです。
「支城」に話を戻します。まず、木船山城(下古屋山城)と鳥籠(山)城の位置関係を確認しましょう。

木船山城(下古屋山城)と鳥籠(山)城 位置図

 確かに直線距離は3kmなく近いですけど、山系が全く異なり、防戦時に連携出来る位置関係にありません。何よりも、街道の要所と捉える場合、鳥籠(山)城が甲越峠ルートの旧山陽道の入口を押さえるのに対し、木船山城(下古屋山城)はこの日歩いた海田-府中の船越ルートの入口です。地政学的な発想が全く違う地点なのです。
 三沢さんの捉えに即しませんけど──これは支城というよりも、出自からして基本的に陸上武装勢力だった阿曽沼氏が、新たに海への進出する姿勢を明確にした新城、と理解すべきではないでしょうか?
 その意味で三沢さんの「水軍城」という表現には、納得すると同時に自己矛盾を感じます。水軍城を支城に持つ陸兵城、というのは軍略上あり得ません。
 木船山城(下古屋山城)の築城年をはっきり推定した書面がありませんけど──鳥籠(山)城の築城伝承年代、「元寇の前後」≒13C後半以降と考えると、瀬戸内海を尊氏を始め武装勢力が往来した南北朝初期を想像すべきでしょうか?阿曽沼氏は、おそらく既存海浜勢力だった「小田」なる勢力との連携を図り、中部瀬戸内の覇権争いに参入した、あるいはしようとしたのでしょう。
 逆に言えば、世能荒山荘の立荘当初の「当時濫妨あるの所々」という状況は、これら海上勢力の横暴によるものと推測できます。そもそも山陽旧道が甲越峠を越える内陸路を採っていたのも、広島湾岸が財を安全に運送するのに適さなかったからではないでしょうか?
 小田なる未詳の海上勢力は、従来からの岩瀧山の神威を背景とし、阿曽沼氏の後ろ盾と、おそらく同氏からあてがわれた弾正官位を振りかざし、半公的な集団として海域を支配したものと考えられます。
(再掲)「岩瀧八幡宮と木船山城と江田島と金輪島と仁保島が描かれた絵馬」〔後掲ザ★歩く車マン〕

【e】天然の要害の地

 三澤さんが上記二枚の想像図を描いたのは、畢竟、このことを表現するためだったのではないかと考えます。
 岩瀧八幡宮を背後に、霊的にも軍事的にも木船山城は広島湾に冠たる位置を占めた──と郷土史家としては示したいでしょう。この点を当時の軍略家に依らずに「実証」するのは難しいことです。何より、当時を想像できないほど埋立てられた現代に、制海圏への影響力は推しにくい。
 ただし、現段階の水深図は確認できます。

海田町正面の水深図〔後掲みんなの海図〕

 露骨に言えば海賊の目からの木船山城(下古屋山城)の位置は、この図からかなり想像しやすくなります。旧海田湾は遠浅ではあれ、中央部には12mほどのギリギリの深さはあるようです。つまり鳥籠(山)城方面に上陸・強奪しようとする海賊は、金輪島や仁保島側から東北東に海路を取り瀬野川を遡ろうとしたでしょう。二日市の蓄財が目的であれば、上陸せずともよかったでしょう。
 この想定侵攻ラインを牽制しうるポイントが、木船山城(下古屋山城)です。
 ギリギリの深さはあるとは言え、特に湾内の海底地形を知らない外来の海民なら下手に展開すると座礁したでしょうから、海田湾内での小競り合いは海田守備側に絶対的に有利だったでしょう。そこに突き出た形の木船山城(下古屋山城)から支援を受ければ──例えば弓の攻撃があれば、もし瀬野川に入れても今度は撤退が容易ではない。

小田・警固衆の守る海田湾

 すなわち、木船山城(下古屋山城)を阿曽沼氏が新規に設けた軍事的理由を考えると、

①海田の海商の興隆があり
②それを狙った海上勢力の侵攻が繰り返された

事態を想定するのが自然である……とまでは客観的に言えるのではないかと思います。
 その結果浮かび上がる「小田」海田水軍は、海賊というよりも海田海商の警固衆と言うべき、守備に特化した海民集団ということになってしまうので──三沢校長先生のロマンティシズムを満たすものとしては自信がないのですけど……。

■レポ:埃宮異説

「埃」字に、何か隠された雅な字義でもあるのか?と思いきや……調べる限り、やはり「塵埃」、ゴミの意味しかありません。
 ただ現代中国語の用法では、実は中国語母音としては珍しい「e」の音訳に多用されています。(例:埃及 ai1ji2=エジプト 埃德加・斯诺 ai1de2jia1 si1nuo4=エドガー・スノー)
 だから府中多家神社が「埃宮」を名乗る際の根拠は、日本書紀のみです。同社側の人間が選んだ字ではありえません。そこでまず、記紀本文を掲げておきます。

自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。亦従其国上幸而、於阿岐国之多祁理宮七年坐。亦従其国遷上幸而、於吉備之高島宮八年坐。〔後掲古事記の原文〕
※読み下し:其地(そこ)より遷移(うつ)りまして、竺紫(つくし)の岡田(をかだの)宮に一年(ひととせ)坐(ま)しき。またその国より上(のぼり)幸(い)でまして、阿岐(あきの)国の多祁理(たけりの)宮に七年(ななとせ)坐しき。またその国より遷り上り幸(い)でまして、吉備(きび)の高島宮に八年(やとせ)坐しき。

(再掲) 神武天皇御腰掛岩〔GM.:地点〕

十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。〔後掲日本書紀について/日本書紀巻03神武天皇〕
十一月九日、天皇は筑紫国(ちくしのくに)の岡水門(おかのみなと)に着かれた。
十二月二十七日、安芸国(あきのくに)について埃宮(えのみや)にお出でになった。
翌年、乙卯(きのとう)春三月六日に、吉備国(きびのくに)に移られ、行館(かりのみや)を造ってお入りになった。これを高島宮(たかしまのみや)という。
三年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。〔後掲古代日本まとめ〕

 なお、本節でのお話も、本稿の従来からの観点=「神武東征の実質は目的地のない東行難民群だった」という立場からのものです。

内部リンク→m17e@m第十七波余波m峰m阿多【特論2】隼人東征/【Synopsis】八百万の神武東征群/論点〘B〙プル要因は「とにかく東へ」
日本における人口重心の推移〔後掲社会実情データ図録/人口重心の移動マップ〕※桃色及び水色は引用者

東征路 安芸に留まる七年間

 上記の記紀記述で確認できる通り、「埃宮」は日本書紀の一箇所のみで、古事記は別字「多祁理宮」(たきりのみや)を用います。両者は音さえ共通しない。
 滞在年数もバラバラ(記:7年-紀:3か月足らず)、具体の事績も語られない。紀の直前寄港地は「筑紫國岡水門」と書くのに、宮の所在地すら書かれません。その感想を予期してでしょう、紀には吉備高嶋宮(こちらは記紀同一名)に「脩舟檝 蓄兵食」と兵站確保していた旨が追記されるのに、安芸埃宮で書いてあるのはなおも単に「居た」事だけ。
 後世にこんな書き方をするケースとして考えうるのは、a.書くネタが失われているか、b.書きたくないか、もしくはc.特に書くことがないか……くらいしか考えられません。
 船出の模様や大坂湾以降の多弁ぶりからして、広島・岡山部分だけ記録が失われた(=a.)とは解しにくい。また、b.=書きたくないのなら、大坂湾への直接の発進地・吉備はともかく、安芸についてはそもそも書かなければよい。なのに記の7年を紀で極めて短期間に設定した後ですら、あえて安芸に寄った旨は残しているのです。──おそらくは、少なくとも記紀記述時点で安芸での伝承が既に消し難くあって、それをなかったことにすると相当に整合性を欠いたり非難を浴びたりする恐れがあったのでしょう。
 従って、c.=神武東征一行は安芸(と多分、吉備でも)で行く宛てもなく留まった●●●●●●●●●●●というのが最も蓋然性の高い像ということになります。
 ただ、「何もしなかった」状況はなかなか史料に残りませんから……実証の術がない。

広島県安芸高田市吉田町川本の埃ノ宮神社(宮ノ城跡)〔後掲ちょっと歴史ドライブ日記〕

吉田・埃ノ宮と廿日市・可愛川

 安芸府中・多家神社から北北東へ40km、安芸高田市吉田町にある「埃ノ宮神社」が上の写真です。もちろん読みは「エノ宮」です。
 ここの地名は可愛村。直近を流れる江の川も、かつては可愛川※と呼ばれていました。この「可愛」は「カワイ」ではなく、「エノ」と読みます。──先に現代中国語での「埃」字の音訳的性格を指摘しました。後からあてられた漢字はあまり問題にならない。「エノ」音だけの残存を見ると、府中より「エノ」度は濃い●●●● ●● ●●●●

※現・江の川の名は、1966年に水系全体が1級河川に昇格した際に名称統一されたもの〔改訂新版 世界大百科事典 「可愛川」←コトバンク/可愛川〕

 実際、次のような説があるといいます。

 広島湾に面した誰曽廼森(たれそのもり)に上陸した神武天皇は、太田川、根の谷川を北上し、高田郡可愛村に到着したのだろう
8km上流の上根地区は、古くは根村で素戔嗚尊の住む根の国と伝えられて来た〔可愛村郷土誌調査会発行『神武天皇御聖蹟埃宮』昭和16年←後掲ちょっと歴史ドライブ日記〕

 これだけでは我田引水の臭いが漂うので、「可愛」地名を他地で確認しますと──広島県廿日市市にもありました(→GM.)。何と……!厳島と並ぶ古社と呼ばれる速谷神社のすぐ横を流れています。厳島の真の祭神は神武帝という異説まであり、面白い位置ですけど──かの可愛川は通常、「かわい」川と読みます。

※廿日市・可愛川の下流には榎浦橋(えのうらばし→GM.)という地名があることから、この川も古くは「エノ」川と読み、その河口を「エノ」浦と呼んだ、とする主張が不可能ではないけれど、地名の他に実証性ある材料がありません。

 ここで、日本書紀の埃宮は正しくは府中・埃宮ではなく吉田・埃ノ宮である、いや速谷である……といった断定をすることは難しいと考えます。ただ、既に見たように、府中・多家神社を紀の埃宮とする説は土地の伝承を除いてはほぼ実証的な根拠がありません。多家神社=埃宮説が一般に最も信じられている理由──
 それは、府中・埃宮が瀬戸内海沿岸だから、という一点に絞られると思います。一般に信じられている神武東征路が、当初から奈良の「葦原瑞穗國」を揺るぎ無く一直線に目指したものである、とするなら、寄港地・埃宮は瀬戸内海を東西に横断するルートから離れるはずがない。
 本稿は、神武東征が目的地無しに始まった流浪だった、という立場に立ちます。埃宮が府中である必然性から、自由に議論できる立場に立ち得ます。

帆待川(河戸帆待川駅→GM.)と「帆待川の伝承」案内板〔後掲広島市亀山公民館〕

安芸可部・舟山と八岐大蛇外伝の可愛川

 往古、瀬戸の海は可部盆地辺りまで入り込んでいたといわれる。
 初代天皇として知られる神武天皇が、九州から軍旅を整えて大和へ東征の途中、安芸の国・埃宮に立ち寄り軍勢をととのえた。
 天皇は広島湾の奥深く、この帆待川をさかのぼり、舟山のふもとに舟を繋ぎ、舟山に登られたという伝承がある。
 天皇みずから舟をつながれた由緒ある山のため、別名「貴船山」(きふねやま)と呼ばれたが、いつの頃からか貴の字が取れて船山となったといわれる。
 帆待川は「神武天皇ゆかりの川」として、いかなる旱天にも水の枯れることがないと伝えられている。〔後掲広島市亀山公民館〕

河戸帆待川駅前の神武船舶模型と案内板〔GM.〕

 神武帝伝承のある上記可部・舟山付近には、埃宮又はそれに近い音の地名は見当たりません。
 けれども、ここまでの前提としてきた「エノ」が音だけの地名で「可愛」とも書かれたと想定すると──「可愛」という地名は書紀に一箇所だけ登場します。八岐大蛇の物語の前段、外伝の二つ目になります。

一書曰、是時、素戔嗚尊、下到於安藝國可愛之川上也。彼處有神、名曰脚摩手摩、其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳、此神正在姙身。〔後掲日本書紀について/巻第一 神代上〕別の言い伝え(第二)によると、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、天から安芸(あき)の江の川のほとりにお降りになった。そこに神がおられた。名を脚摩手摩(あしなづてなず)という。
その妻の名を、稲田宮主賛狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)という。この神が身ごもっていた。〔後掲古代日本まとめ〕

 身ごもった子もやがては八岐大蛇に呑まれると、この夫婦が嘆くのを聞いて、スサノオが大蛇退治に乗り出す、という物語になっていくのですけど──位置を確定できないながらも、吉田・埃ノ宮は概ねこの地域になります。
 スサノオの物語は、出雲系神話のメインストーリーの一部です。神武帝が「東征」中にこの埃ノ宮まで来たとすれば、神武神話と出雲神話がここで接触することになります。──けれども記紀の本筋では、神武と出雲は全く接触しません。出雲神話と接触するのは、アマテラス方のタケミカヅチが出雲方の大国主に強談判して領土を要求する、いわゆる国譲りの物語のみです。
 換言すれば、安芸・埃宮が府中でなければならないのは、人神代の神武神話は出雲と接してはならないから、とも解せます。記紀作者たちは、神武が広島湾から北行して出雲へ赴く行程を描いてはならなかった。それが描かれると、奈良の葦原瑞穗國に新国家を建設するための東征、という神武神話の本旨が否定されるからです。
 けれど本稿は、その本旨から自由ですので、記紀で禁断の「神武北行路」を描いてみます。

語られざる神武北行譚

神武北行路関係図

 舟山のある可部から東北15kmには、上根峠という分水嶺があります。地学的には河川争奪で有名な地形です。この地点からさらに東北10kmに、吉田・埃ノ宮、即ち紀外伝に言う八岐大蛇の土地があります。
 ここへ神武東征集団が広島湾からわざわざ赴いたとしたら、それは出雲へ帰属しようとしたから以外にちょっと考えにくい。
「埃宮」が一箇所であった、とする考え方に固着する必要はありません。府中・埃宮から出向いて吉田・埃ノ宮を「連絡支局」として置いた、と考えてみましょう。それは何のためか?──新来の広島湾移住地を「出雲の安芸領」として認定してもらうためでしょう。
 当時の西日本で最大勢力だった出雲の傘下に入り新植民地の経営を安定させる、という発想は、人口が溢れた九州からの難民が「東征」集団の実態だと考えたなら、むしろ自然なものだと思えます。けれど何かの事情でその構想は成らなかった。すると次に頼ったのは第二勢力・吉備だった。でもこれも成らず、やむなく大勢力のない近畿・濃尾を目指さざるを得なくなった。
 神武集団は記の滞在年数によると、足掛け15年間、出雲・吉備の分国を建設しようと努力した、ということではないでしょうか?
 あるいはこの時点以降の近畿・濃尾への、今度はれっきとした「東征」自体が、出雲・吉備の中枢の意向を受けてのものだったと考えるのも、また自然です。例えば出雲・吉備が一度は「難民受入」を容認したけれど、その際限ない増加を受けて、新天地移民を建前とした「難民追い出し」に転換せざるを得なかった。──近代日本で言えばハワイや南米への官製移民が近いかもしれません。
 さらに、大状況としてはアメリカ初期の西部開拓をイメージしてもよい。「葦原瑞穗國」建設は、西へ西へと進んだ移民集団が西海岸のサンフランシスコをついに全米の首都にしてしまった、といった仮想歴史に近い、と想像します。
 もう少し地域規模は小さいですけど、仮想でない移民史を本稿では既に扱いました。18-19Cの台湾です。

内部リンク→m19Fm第二十五波mm1鹿巷まで/■レポ:鹿港史の表は短く裏は永い/移民時代のニューヨーク
18C前後の大陸-台湾正規航路

 17Cの鄭氏王朝の後、福建を中心とする移民たちは最初期には台南、その後は鹿港を目指し、そこを一次中継地として台湾島各地へ入植していきました。その結果、19C末には(日帝植民地下ながら)首都を台北に置くこととなります。
 安芸府中・埃宮は、神武東征路の重要な結節点──台湾の例で言えば鹿港に相当したろうと思います。九州からの何波にも渡った移(難)民群は、府中・埃宮をまず目指し、そこからさらに近畿・濃尾へ旅立ったのでしょう。だからこそ神武伝承が色濃く残った。──多分、安芸府中の地場に神武神話が形成されたのは、東征より後、移住先の奈良や濃尾が確保された後でしょう。東へ船出する移民たちに、尖兵となった「神武帝」の神話が語り継がれ──その神話の存在が、記紀作者が制作目的上は書きたくない「神武安芸滞在」の一節の削除を許さなかったのでしょう。