FASE75@deflag.utinaR311withCOVID#与那覇うさん嶽\むんにむたりーん

※沖縄語→和訳:神隠し


 浦添城址のとある古墓に調査が入ったときのこと。壁面に造られた墓は、かなり立派なものであったという。その墳墓は今だ(ママ)一度も開けられたことがなく、市や県の職員も期待を込めて見守っていた。その墓に葬られているのは王族と関係のある人物で、もしかしたら新たな学術的な発見があるかもしれず、学芸員たちは朝からソワソワしていた。
 やがて古墓の正面の石がどけられ、懐中電灯を持った一人の職員が中を覗き込んだ。(略)
 その職員が真っ白な顔を墓穴から覗かせた。

 すぐに他の職員が中を覗き込んだが、その職員も墓の中においてあったある物を見て絶句した。墓は結構広く、奥深くまでいくつものジーシガーミが置いてあったのだが、それらに混じって赤いランドセルが一個、墓場の中にぽつねんと置かれていたという。

※ 小原猛「沖縄怪異譚大全 いにしえからの都市伝説」ボーダーインク,2021
本話の出典「著者による、とある学芸員からの聞き取り。2020年」

ふぁみまでうえま

お店で食べるより旨い!!

良そばの窓に広告「お店で食べるより旨い!!と評判の骨汁冷凍」。
 Covid対策としてテイクアウトを志向させる方向性は理解するけど、それを当のお店が言っちゃアカンのでは?
🛵
西原入口から左折、西原へ下る。
 東へ。坂田小学校。
 1158、降られた。ファミマで雨宿りしつつ周囲を見渡すと、もう国道のサンエーが見えてました。
 ファミマが上間の沖縄天ぷらとタイアップしてるらしい。
ファミマで上間

やぐ」で天ぷら定食を(結果的には永遠に)食べ損ねた後だったので──雨宿りしつつ買い食いすればよかったんですけど、なぜかこの時は呆然と雨を見てました。
 1222。なかなか止まない。webを見ると降水確率は50%になってました。
 寒気がしてきた。──移動すべきと判断。やや小雨になった隙を見てサンエーへ。
 食前に続き、スタバで食後のアメリカーノ。
「ファミマで上間」紙袋

傾斜面に樹一本

んだらしい。1314。
 小那覇交差点から右折、南行開始。
 1320頃。スマホが再びクラッシュ。振動と──水滴によるものじゃなきゃいいけれど。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

与那原交差点から左折。スマホが見れないので、とにかく大里城址とある方へ。
 工場。肥料の臭い。
 登り坂。

1336島添上方通りを走る

333。大里北小学校。右手に古堅の集落を見て、緩い登りがまだ続きます。
1338傾斜面に樹一本。

を越えて1342。
 前方に見えてきた集落に入る。ここが大里のはずです。
1343集落へ

尾御嶽・食榮森御嶽・上ヌ井
〔日本名〕南城市大里大里
(沖縄戦時:大里城防御陣地・重砲兵第7連隊本部、5月25〜27日陥落)
〔沖縄名〕まちゅーうたき・いいむいうたき・いーぬがー
〔米軍名〕(大里城は1961年米軍資材供与により公園化)

尾御嶽(まちゅーうたき)とある看板の脇に停車。1346。

『琉球国由来記』には「松尾ノ嶽」、神名「松尾森御イベ」と記されています。遥拝所といわれますが、どこへの遥拝所なのかはっきりしたことはわかっていません。アーチの中には3段の階段があり、その先は急な下り斜面となっています。アーチ手前には左右に石灯籠がおかれ、右側の灯籠の隣には火ぬ神(ひぬかん)があります。前面の広場は昔の馬場の一部です。
 松尾御嶽の東側(右手奥)にはナカヌウタキがあります。〔案内板〕

1354松尾御嶽を登り口より

い。入る者を遮るような門構えです。
 ……に圧倒されて見入りつつ坂道を登ってたら、滑って泥まみれになりました。あらあら。

まちゅーから何処かに捧げたる祈り

1355松尾御嶽の構造物

は斜面に加え藪に覆われとても進めない。
 どうも、部外者ウェルカム、という場所では絶対にない雰囲気です。
1357松尾御嶽の藪

大里村南風原の集落の北に位置する松尾の御嶽。人々が拝みを捧げる場所はアーチ状に空けられています。中央には精巧な宝珠をいただき、左右に灯篭が配されています。松尾の御嶽から離れた場所へ祈りを捧げるための祠であるといわれていますが、それがどこなのかは定かではありません。〔後掲南城市役所〕

 市記事でも案内文と同様、イベ:聖域の場所自体が秘●●●●●●●●●されています。

1400灯籠らしき構造物

ちゅーうたき」というのがここの名前らしい。「松尾」というヤマトっぽい漢字は後付けで、「松の繁る場所をマーチューとい」った〔後掲那覇市観光資源データベース/獅子松尾〕。例えば那覇市街の地形的中核を成す松尾交差点付近には「松尾と呼ばれる多くの場所があった」〔後掲那覇市歴史博物館〕。──つまりこの地名にも特段深い読みは出来ません。
 正面右手に小さな祠。火の神、はもっと奥に思えるけれど、奥は藪で見透かせない。
1405藪向こうにも構造物がある。

犬に吠えられた斜面のまち

面の「食榮森御嶽(いいむいうたき)・石彫魔除獅子」の矢印に従い集落内へ。1404。
 犬にしたたか吠えられる。

1410集落内の畑と家屋

や登った方向に、食榮森御嶽(いいむいうたき)はあるようです。
 通常の集落なら勘で核を探せる、と過信してスマホの調子悪さにかまけて歩いてたんですけど……ちょっと下り過ぎてました。
住所表示「大里大里」付近地図

榮森御嶽は、島添大里城:標高155mからの西傾斜面の中間に位置します。
 集落東淵のバス道がほぼ100m等高線ライン。松尾御嶽が水平距離では大里城から200m、標高は80m。なぜかこの標高80mラインに食榮森御嶽も存在し、集落の多くの家屋はこのラインより下方。大里城を背に、その威光を受けたような位置に両御嶽はあります。
1412海の見える坂道より

いんだよな?こっちで?
 内地の勘の磁針はまず指さない方向、集落外れへの道です。でも、半端に繋がるスマホのGM.位置情報はこっちを指していて──
1413やや人家が絶えて……

こ──だと思う。
 1415、食榮森御嶽(いいむいうたき)。──ネーミングの由来はなぜかどこからも見つかりません。類推も出来ません。ちなみに、今は「すいむいうたき」を連想してしまいます。首里森御嶽の地元読みです。

食榮森へ心して登れ

1415公園部にある「食榮森御嶽」
晴れた日の公園画像〔GM.〕

風原の最大の聖地」〔後掲淡路〕とも言われるそうです。地元ではボーントゥー墓と呼んでいるとも〔後掲GM.コメント〕。
 上記画像の造りからして──おそらくここは、正確には食榮森御嶽の拝所だと思います。でも……ならば本体は?
1426「食榮森御嶽」裏手のアーチ門

つも通り建物の裏へ、時計回りに入る。石造りのアーチ状の門、らしきものがありました。
 裏手に松尾と同じ形状の門です。
 霊感、というのではなく、ここから先は心して登るべし……という気配を感ずる。でも人はいないし、ここまで来たんだし……。
1427門から東への登り階段

らないよう、そろり、そろりと階段を登る。
 当時のメモです。「いずれもゲートなのです。あまり他の御嶽に例を見ない。
奥山も撮影。1428」
1429階段上にて

然れども崇ありて葬る

園部の案内板にあった記述は、こうです。

農村公園の東側の岩山頂上部分に位置しています。御嶽は、高さ70センチメートル程の自然岩を利用した基壇上に建てられており、高さ1.1メートル程で石灰岩を丸く筒状に積み上げ、その上にむくりのついた丸い屋根石が乗せられ、頂上部分に宝珠が置かれています。この御嶽の形式は大里地区の特徴的なものです。〔案内板〕

 この上の大里城カニマン御嶽とこの食榮森御嶽にしかない形式、と書くものもあります〔後掲淡路〕。後掲淡路さんと沖縄の裏探検プログ(いずれも2016年)には、この場所に確かに、案内板の言う次のようなイベが存在したと書かれます。

食榮森御嶽本体〔後掲淡路、2016〕

在はないのか、なぜないのか、という点にはあまり興味はありません。少なくとも、ワシはこの光景には出会えませんでした。

(略)石碑には「ここに骨あり世に遠くしてその人知らず 然れども崇ありて嘉慶二十年八月ここに葬る」と記されています。一説によれば、源為朝と大里按司の妹の間にできた舜天王の墓といわれている。農村公園一帯には、食栄森御嶽以外にも南風原区の多くの御嶽が所在しています。
平成五年二月二日指定
沖縄県南城市教育委員会

 嘉慶は内地の北朝期元号とは考えにくいから、清の仁宗代の中国元号で、嘉慶20年は西暦1815年。沖縄王朝の人間の初代王・舜天は伝1166(乾道2)年生-1237(嘉煕元)年没※なので、舜天の実在を信じるとしても石碑文は578年も前の骨の改葬記録です。

※原典:[1] 高良倉吉「舜天」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.407←wiki/舜天

「その人知らず 然れども崇ありて(略)ここに葬る」という墓銘としては珍しい文章は、1815年の改葬者も既に現代の我々同様、「誰なのか分からんけど実際拝まれてる」という状態だったことを物語ります。
 だからワシら現代人も、Xを拝む、という沖縄人スタイルの捉えでいいんじゃないでしょうか。知らんけど。

墓の左側にある石碑〔後掲沖縄の裏探検〕

※被葬者の推定については、①舜天説のほか、②ギリムイグスクを築いた王、③天孫氏王統(舜天王統前)17-19代、④疫病時に食栄森岩影に風葬した多数の病死者を後に改葬したなどの諸説あり。なお、戦後の墓改修時に発見された銅鏡に藤原道長名の刻印があったとも〔後掲沖縄の裏探検〕。

天孫は今帰仁を拝んだか?

と!!これも他にないぞ。御嶽に便所付き。有難や有難や。
 膀胱を空にして落ち着いて見ると──使って左隣、北側にも階段があるようでした。
 登ってみる。

1435左手の階段

を積み上げた構造物が見えました。コンクリートも入ってて、古いのか何か判断がつかない。というのも、道が樹木で塞がれてて近づけませんでした。
 後掲沖縄の裏探検は近寄れる時に訪問されたらしい。次の画像を残しておられました。
「先に進むとナチジナーという拝所があります。ここは本島北部の今帰仁(なきじん)に向かってウトゥーシをする遙拝所です。」〔後掲沖縄の裏探検〕

陽岩」という三文字が見えます。
 もしも隣の食榮森御嶽が舜天のもので、本当にこの「ナチジナー」が今帰仁遙拝所で、かつ両者が同時代のものだったら──という仮定の積み重ねが許されるとすれば……既に天孫王朝代から●●●●●●●中山は北山を拝していた●●●●●●●●●●●、いやむしろ天孫代の北山従属が後の世の今帰仁拝みとして残ったのではないか、と考えることも出来るのです。
 内地の九州王朝説にも通ずるような仮定です。

通りがかったいーぬがー

1439上ヌ井(いーぬがー)

りがけに見かけたのが、上ヌ井(いーぬがー)。1437。
 ムラガーと看板。産井(うぶがー)でもあったとある。また寒川家の井泉だったことから「寒川井」(そんががー)とも呼ばれる──と案内板にある。
 GM.クチコミによると、産井だけでなく「若水や死に水をとる井泉」もあったそうです。
 また、そういう目では見れてなかったんですけど──「窪地を石垣で囲み込み、屋根は2枚の大石を鍵状に組んで繋いだものを中央の石柱で支えており、石造建築としても特徴があります。屋根の右側には井泉の神様を祀っています。」〔GM.クチコミ〕。
 確かに。ただ大石2枚では強度が保たないはずです。ただ……鍵状に組ませる加工は相当の技術を要したはずです。
晴れた日の「井泉の神様」拡大画像〔GM.〕

泉の神様」祠も、自分で撮っていながら注目してませんでした。井戸の上部のアーチ型に傾きながら、それでもそれなりに手入れされてる気配がある。この種の祠は井戸上でなく傍らのこの位置のことが多い。元々傾きを持ったまま設置されてたんでしょうか?
「大里地区は細かく丹念に見て回ることをお勧めします。今に息づく『沖縄の祈りの形』が体感できるように思います。」〔GM.クチコミ〕
 小雨とスマホ不調でこれが精一杯、と自己弁護はしつつ──後から咀嚼してみて、まさに同意する卓見です。
 けれど、結局この不思議な集落って何だったんでしょう?

沖縄浦島への道

まくとぅーそーけー なんくるないさー

のお宅前のルートを避けつつ、松尾御嶽前に停めたバイクへ。1441退去。
 1453、ファミマでタバコを吸いながら確認すると、再びスマホがクラッシュしとりました。谷まで保てばいい、も少し頑張って頂ければ幸いです。

導看板はやっぱりありませんでした。
 位置情報が使えないので──国道329号を西行。小与那原から「ゆかぜ保育園」を過ぎ、さらに150m先。左手をよく見てると小さな川があります。──バス停・第一与那覇も目印にしてたけど、気付けませんでした。
 右折して路地に入る。一つ目の三叉路を曲がらず直進、二つ目を左に入ってすぐの左手の道へ入ると高台。1511。

※訳分からんわッ!!と思った方は、分かりやすい地元の地図を→〔後掲与那原大綱曳資料館

 ここしかないはずです。階段を登った、このために造ったのか?と疑われる高台。住宅地の空きなんでしょうか?
 ありました。ウサン嶽。

サン嶽
〔日本名〕穏作根子の墓(島尻郡南風原町与那覇)
〔沖縄名〕同(うさんたき、おさんたき)
〔米軍名〕-(砲撃で元の山容が崩されたとも)
1516ウサン嶽

うさんしーの桑の杖

縄版浦島太郎」とニベもない言い方がされる「うさんしー」です。情感豊かに読みたい方は地元の伝承を→〔後掲南風原町〕。プロットだけだと──

A 浜で添え髪(入れ髪)を拾った若者(浦島太郎)は、落とし主の女性に誘われて龍宮へ行った。
B しばらくして村に帰りたくなった若者は、紙包みをもらい、
桑の木の杖を持って戻ってきた。
C 地上の世界は既に33代を経ていて、知り合いも全くいなかった。
D 絶望した若者は紙包みを開けると、中に白髪の束があり、それが身体に触れた途端老衰で死んでしまった。
E
若者が残した杖から木が生え、人々はそこに御嶽を建てて祀った。〔後掲全国伝承地覚書〕※アルファベットは引用者

 最初から亀の代わりに姫様が助けられ、かつ包みを開いて死に至る分、バカリズム的に言えば極悪度はさらにマックスな物語です。
 内地の浦島太郎に完全にない要素は「桑」です。つまり養蚕の産業振興神としての要素も持つらしい。

※沖縄の桑「島桑」(クワァーギ、ナンデンシー)は、日本国内では南西諸島にのみ分布。冬季に落葉し休眠する内地の桑葉に対し、島桑は非休眠性で落葉しない。そのため蚕の餌としてだけでなく、ヤギやカメの餌、ウニ等の養殖餌としても用い、かつ食用・薬用としても使う多様性を持つ。だから、上記の産業振興の色彩に加え、単に生活に身近な植物という感覚かもしれない。
1520「穏作根子の墓」

サン嶽 うさんしー(穏作根子)のお墓
(略)
うさんしーの杖である桑の木がここから沖縄中に広がったとも伝えられています。
与那覇自治会〔案内板〕

 神体の文字には「おさなし」とロゴ。
 供え物あり。線香、猪口、グラス酒。後方に塵取り。
 不可思議な物語性を頭に過ぎらせつつ、この時は……はらはらと霧雨が舞い、奇妙な陽光が一時差したり途切れたり──神秘的というより、名を知らぬ沖縄の神様の掌で弄ばれているような時間でした。

昔(戦前?)のウサン嶽画像(字誌より)〔後掲南風原町観光協会〕

から当時は全く気づきませんでしたけど、与那覇のパンフ中にこんな一節があります。

昔、ウサン嶽は海人が目印にする程●●●●●●●●●小高く●●●、富士山の様な美しい形をしていました。
 しかし、沖縄戦、その後の開発などの影響を受け、現在の形に様変わりしました。〔後掲南風原町観光協会〕※傍点引用者

 沖縄戦、戦後の開発、どちらによる「与那覇富士」の消滅だったのか。

現在御嶽のあった山は削り取られてかつての御嶽の面影はない。「琉球国由来記」にオサン嶽として神名コバヅカサノ御イベ、上与那原巫崇所とある。「遺老説伝」に以下の由来譚が記される。与那覇ゆなふあ村の男が与那久浜(現与那原の浜)で髢(一種のカツラ)を拾い(略)〔日本歴史地名大系 「穏作根御嶽」←コトバンク/穏作根御嶽〕

といった記述からは、土木的に削られたように読めます。
 問題は、この山が海民のどんなアクション時に目印になったのか、です。

ウサン嶽をどこから仰いだか?

(上)平成初めの与那原海岸 (下)現在の海岸線〔後掲沖縄の風景〕※3公園*の位置は引用者

那原の埋立は平成初期と新しく、ワシ自身、昭和代末の海岸部は極めて狭かった記憶があります。
 現在の地理から考えると、ウサン嶽の地点・与那覇に最も近い海岸線は与那原湾しか考えられません。その東方面のうち中島区の石獅子(→GM.)地点は、古くからの陸地だったと推定できます。
 ここからウサン嶽は、約1.5km離れている。ただ東から進入する船から見て湾奥の方向なので、進路の目印にしていた、ということなのでしょうか?
 前掲(→コトバンク)のとおり、うさんしーがやがて不幸の元凶となる髢(かもじ:エクステンション)を拾ったのは与那久浜(現・与那原の浜)です。生活圏ではあったはずです。
1520うさんしーから那覇都心

禄まで来たけど……ああっ!!アプリコットが閉業になっとる!
 1611。
 雨は止んだけど風が凄い。ハンドルを握り込む。服が濡れてるので震えが出るのです。それとも、今日もまた重い霊気に当てられてるんてしょうか。

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