目録
ジロー君をフトン巻きから守る会
未だCovid吹き荒れる時でした。がねの客席にも透明パネルが設置されてました。ただそこは沖縄、何か変な文字が残ってます。
広告を残す条件で安く設置してもらった?……のかどうか、訊いてないから分からんけれど、沖縄ならあるかもです。ちなみに「WE LOVE 蓮」の意味は不明。
最初は「悪さをしたので布団巻きにされて罰を受けてるジロー君」──を想像したんてすけど……
糸満で2017年に設立(2020年栃木に本社移転)、令6(2024)年現在103店舗にまで全国拡大している超成長企業でした〔同社/企業理念 URL:https://x.gd/n7iFZ(短縮)〕。この旅行当時はまだまだ沖縄の風物詩だったものでスミマセン……。
さておふざけはともかく話を戻しまして──
那覇に着いたらナイクブ古墓群
「国際通りに一番近い駐車場」(→GM.)という身も蓋もない名前の駐車場の奥が、シーサーインの駐車スペースでした。ここにバイクを停めると、沖映・国際通りに出ずにシーサーインに抜けれそうに見えたので──沖縄X歩きの賜物、というか悪い眼が育ってしまって、そういうのが見抜けるようになってしまって──入って行った先が上の写真の路地、というか「隙間」です。
地理院地図でも粗くは道が見えます。南側の「隙間」は、今や懐かしの初めて震撼した沖縄Xの道です(→FC2/FASE49チョーチカチカ)。おそらく南北の小径は、国際通りが出来る前の那覇集落の道でしょう。北側の道の形は、ナイクブ古墓群〔後掲那覇市観光資源データベース〕南縁に沿った迂回路でもありましょう。
17時丁度にシーサーインに入り、あてがわれたお部屋は何の因果か北向きでした。見下ろすと、先ほど歩いた裏道の亀甲墓がもろ見下ろせました。
三原から登るとこうなって嬉しい
古藪の上を紫の……昼顔でしょうか?冥く艶やかな円形の花々が疎らに彩ってます。
さてと……疲れたけどまだジョーギへ行かねばならぬ!
18時、今回も無事に輸送完了いたしまして──
1730ジョーギ
新都心ロール(チーズ)500
──を堪能いたしまして、床に轟沈したのでした。
GM.(経路)
8時頃から、三原の無秩序な坂を登る。0834、識名小学校のバス停に至る。
──この
朝、どう走ったのか全然跡を追えません。三原から登ると、いつもこうなるのです。そうなることを期待してたのでもありますけど。
0842、繁多川公園の山の東窪みにはまる。西から脱出を図りましょう。
亀甲墓がかなりある一帯でした。
真珠道 メーミチへ朝のご挨拶
◯845。「真珠道」という看板。
それ……ってどこなんだ?
首里城守礼門東南脇の石門を起点としめ金城町、シチナンダビラ(識名坂)メーミチ(前道)、ムラグヮー(村小)シードゥビラ(勢頭坂)識名を経て、真珠港(国場川河口、那覇港)にいたる約4kmの石畳道である。この真珠道の建設は、今から487年前尚真王代(1477-1526)の重要な土木事業であった。〔案内板〕
この朝、吸い込まれるように行き着いた行程が、真珠(まだま)道問題との初めての遭遇になりました。後掲与儀公園からの迷宮状集落の連なりを想定したのは、事後的な作業からです。

内部リンク→FASE92-2@
/京の内-金城橋
/金城橋-長田
/長田-三原
/寄宮-与儀

「沖縄の光景」さんは史料から読めるルーティングから、上記地図を作成してます。ワシのは集落読みによるもので、出口を与儀と想定しました。真珠道の通説は国分川や漫湖の南に回る形なので、上記の通りです(「沖縄の風景」地図の詳細は同サイト参照)。
凄まじい坂の下で道路に出て,右折。
繁多川公園の山陵と首里城のそれとの間には、こんな広い谷があるんだ……。これに沿うように回り込みながら、圧倒されました。
0857、交差点。右に曲がると南南風原町と看板。左だろうけど──
0907。あやぐの向かいのローソンにバイクを止める。よし、今日こそは天ぷらじゃ!!
中味汁喰ろうて仰ぐオプスレイ
「天ぷら、6月位からなくなったんですよ、揚げ物系が全部」
──ガーン!
0913あやぐ食堂
中味汁定食550
写真を撮らなかったけれど、この料理は臓物好きにはやはり旨い。あやぐのように、出汁に自信がある店ならなおさらです。さらにその出汁が沖縄出汁だから、内地のホルモンスープとは全く異なるスープになる。気取らない、ずぶ濡れの旨味が出てます。
ところで──2023年10月にこのあやぐ食堂は閉店してしまいました。上記さんぺいさんは、あやぐの全メニュー制覇!!という野望をテーマにしておられたようです。さんぺいさんの野望達成は閉店までに間に合ったのでしょうか……。
出ると小雨。
タバコを吸いつつローソンで雨宿り。
0942。沖縄らしい通り雨だったらしく、再び日照。出発。まずは石嶺方向へ。──首里から内陸部を抜けるルートはあまり採ったことがない。
石嶺駅を過ぎたところで右折。道はすぐに北へ向きを変える。沖縄県総合福祉センター。
0953。コブシが丘トンネルの前で右折。
〇957。西原入口。頭上にオプスレイが爆音を立てる。──なぜかこの後も見ました。前田高地は本日、オプスレイのラッシュみたいです。
1001。地名は前田。もう目の前です。左折地点の手前のスタバでエスプレッソとし、時間調整。
この山手ラインを通ると、沖縄の地形的豊かさにいつも圧倒されます。
十五の旗と三枚の骨
1046、早めのご到着。「骨汁」の旗が14本!立て過ぎじゃ!──訂正。もう一本ありました,15本!
1053。開店準備にシャッターを開けるおばさんが出て来られました。
1100宮良そば
骨500
「サラダバー無くなったんですか?」「そうですね,コロナの影響で」──だから関係あるのか?
と色々とツッコミどころはあるけれど、あんまりそれは関係ない。
宮良そばの骨。現在のところ沖縄ベストな骨であります。
■レポ:墓の上の那覇
1853年に内地より一足早く那覇に寄港したペリーは、次のような異様な景観を書き残しています。
丘陵には所々に白い斑点が点在して、最初は家かと思ったが、石灰岩の墳墓であった。〔日本遠征記←後掲琉球新報デジタル〕
もしかするとゆいレール古島〜儀保駅から見える末吉森南麓の古墓群の可能性はありますけど──ペリーの眼は着岸して交易すべき沿岸に向いたでしょうし、次の資料からも、やはり現・那覇の海岸だったと考えるのが自然です。
現・那覇市内のうち、大まかな密集ベルトは首里近辺と那覇海岸沿い、と捉えてよい。那覇の場合、開発度からの偏在ということはあまり考えなくてよいでしょう。
大きさだけからしても、那覇沖から最も目立つ古墓群はナイクブだったと考えられます。
位置は、けれどもむしろ沖縄的には自然です。今帰仁や名護の海岸墓を想像してもよいし、那覇の港町付近の天龍大御神、元々御嶽だったと思われる天久宮や波の上から連想してもよい。
尚王朝より古い時代、つまり交易の荷揚荷卸に用いる発想のなかった頃、那覇は名護同様に島影の多い遠浅の港で、そこは主に祖先の終の棲家だったと思われます。そこをまず尚氏が港町とし、米軍が更地にし、ヤマトが開発し、何となく共同幇助しながら人が住んでもいい土地になっていった。──戦後どころか昭和末の返還の頃までウチナンチュが天久を怖れていた、という感覚もこの辺りに底通するのでしょうけど──未だによく分からない。
ただ肝に銘じておくことにしてるのは、那覇は意外に昏い場所だということです。その角を曲がった先が、東京とかと同じ無機質の路地だとは信じない方が身のためです。
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