FASE81-1@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#シン・大国ミロク\あまぐれおろちへ


一 勢理客ののろの
  あけしののろの
  雨ぐれ降ろちへ
  鎧 濡らちへ
又 うんてん 着けて
  小港 着けて
又 嘉津宇嶽 下がる
  雨ぐれ 降ろちへ
  鎧 濡らちへ
又 やまとの軍
  やまとの軍
〔「おもろさうし」第14-46〕

*文意は不明であるが、ヤマトからの上陸軍に祝女(ノロ)が霊力で雨を降らせ、その鎧を濡らせた、という解釈もある。時代考証的には源為朝や薩摩軍ではないと解される。また、「うんてん」は「運天」港と解釈するのが定説。
コザから那覇へ
動いた日でした。
でもこの行程は
臍曲がり過ぎ。
[前日日計]
支出1300/収入1450
    ▼13.0[143]
利益 150/
[前日累計]
利益 177/負債 –
十二月二十九日(ニ)
1101だるまそば
骨汁550
1333軽食の店 ルビー
牛肉ニンニク炒め550
2000パティスリージョーギ
新都心ロール250
[前日日計]
支出1300/収入1350
    ▼13.0[143]
利益 50/
[前日累計]
利益 227/負債 –
十二月二十九日(ニ)

 

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

商事前バス停から無縁墳墓

夕確認したルートを早速利用しまして、北へ。──リュックを積んでの那覇移動なので、方向は逆です。
 おおっ!登川カギ店にちゃんと出れた!当たり前だけど感動!0913。
 安慶田交差点を左折。すぐに橋。この川の右手が越来グスクとその前の緑地になります。本日は橋を渡って左折、川沿いを行くというミニ企画。

918、バス停・仲松商事前。……ってスゴい名前です。商事がバス会社を買収したんでしょか?
 けど……サンサン通りから半kmほどです。なのにこんなに空気感が変わるものなのか?
 道なりに右へ湾曲。ここに丘があります。ad.越来一丁目19、沖縄Xで目星をつけた地点です。

西森御嶽?
〔日本名〕越来一丁目
〔沖縄名〕にしむいうたき?
〔米軍名〕?

越来一丁目の集落


集落に入って裏へ回ってみると──茂みに公告。
「墓⑤
   無縁墳墓等改葬公告
 墓地整理のために無縁墳墓について改葬することとなりましたので、墓地使用者等、死亡者の縁故者(略)は、本公告掲載の翌日から一年以内にお申し出ください。(略)平成29年(略)」
として、具体の墓碑を5件挙げてます。
公告「無縁墳墓等改葬公告」

の主が分からくなったままの「無縁墳墓」が、少なくとも5基以上はこの丘にある、ということです。
 那覇のように空襲で焼けたからではないでしょう。沖縄戦時に離れた住民が、混乱の中で何らかの事情で戻らなかったのでしょうか?
 いずれにせよ、この川沿いは墓地として古くから使われたエリアらしい。でもこの時は、それ以上の痕跡は見つけられませんでした。

せーじじゃー川に虹架かる

越来・美里の集落周辺図(p279左下部拡大)〔後掲沖縄市立郷土博物館〕※青文字は引用者追記

郷土博物館の後掲書中に、上のような民俗地図がありました。
 ここに書かれる「西森御嶽」の北西隣が、この日に訪れた場所です。現在は西森公園(→GM.)になっている場所で、園内に小祠もあるようです。
 この御嶽の中央以南、多分拝所のある側が公園になって守られ、北端の墓地部が茂みになって残った。けれど開発の最後の障害としてついに整理され、崩されようとしているのでしょう。
 上図に記される川の名は、御嶽南側で「ハンザ川」、北側で「セージジャー川」となっています。図に「ハンジャー橋」があり、次の「セイシジャ橋」も合わせ考えると、西森からの橋の名前が川名にも転用されたと推測されます。
🛵
0932川沿いを行く(せいしじゃばし付近)

930ローソン。左手の橋には「せいしじゃばし」とある。
 0933、その先の信号。集落は絶えてトラック集積場かある。「墓地あります」の広告が目立つ。
 0937、次の信号。右に学校、左には工事現場。護岸工事でしょうか。
 川沿いの道はここまでだけど、この川はそのまま知花グスクまで伸びてるらしい。
 0941左折。行く手に虹。
0944虹がかかる

の道は、ごく最初のころの夜、迷って2時間ほど歩いた道です。三度目になる。少なくとも今は、コザ中央霊園という看板が出てました。住所表示は八重島三丁目から二丁目。
0936八重島の道
改修途中らしい亀甲墓

沖縄本島のカタチの森

947、自動車道やまなか通りに出て左折。
 バス停・中部観光バス前を過ぎた先の、ローソンで一服。ここまでは前回、大国ミロクを訪れた時と同じです。

ローソン前からやまなか通り

の時、前回あまり印象のなかった大国ミロクになぜ再訪する気になったのかは、よく分かりません。▶〔内部リンク〕→FASE53-3@【FC2】/八重島&センター公園

 おそらくルート上に出たからついでに寄ったんだと思いますけど……。

ミロク大社の道へ

国ミロク
〔日本名〕沖縄市八重島2丁目7−45
〔沖縄名〕?
〔米軍名〕?(嘉手納基地東縁外100m∴かつては基地内だったと思われます。)

大国ミロクと八重島付近の航空画像(GM.)。森の形がまるで沖縄本島です。

958、ミロク大社の筋に入っていきます。
 あれ?ここ看板なんてあったっけ?鳥居まであるぞ?前は見逃したのか?
大国ミロク大社の看板

居からまっすぐの道を振り返ると──こっちをじっと見張ってる猫の向こうに、多分……センター公園の丘が見えてます。
 地図上で測ると、胡屋交差点から1.5kmない場所……とはとても信じられない異界感です。
猫が見つめてる八重島集落

切通しのこちらとあちら

──年前に「大国ミロク」として訪れたはずの場所と、まるで違う。前回は逆に、何を見たんだろう?……とそっちの方が不気味な程です。
 猫がこっちを見据える道は、けれどあの時、暗がりを走った時の雰囲気を想起させます。
 本殿正面の昭和20年銘の碑には
「火之神
 男之神
 陰陽縁結之神
 女子神」
という文字。やっぱり、ホントに見逃してるらしい。
 上がりましょう。脇は石灰岩の崖。

石灰岩の壁伝いの道

?屋内から呪文が聞こえるぞ?そんなに熱心な信者がおられるんでしょうか?
 センター公園が見えなくなる方向へ、本殿を時計回りに進む。1005。
建物右手は藪で進めなくなっていました。

から回り込む道は途絶えました。戻って、本殿向かって左手から階段を登る。
 こっちは続いてました。三叉路。まず左手へ。
切通し道の先から八重島集落を振り返る

通しのような道。浦添ようどれや斎場御嶽にある風情。聖地です。1010。
 窪地のような場所。おそらく切通しの場所がシビでしょう。ただし祠も何もない。
石灰岩の崖の窪み

って右の道へ。1014。
 左の道が聖地だったとすれば、右はおそらく管理用か生活用の道でしょう。原生林っぽいけど山道は残ってます。

樹根は道を食い破る

手の入っていない原生林が続いてる

根がコンクリートを食い破ってる。
 聖地が力強く人為を拒み、太古に復さんと唸ってる。
コンクリを食い破る樹根

嶽外周路らしい。かなり続く。
……見えました。1019。
石灰岩の崖下を回り込んで続く道

■レポ:新興・大国ミロクの拝する御嶽

 大国ミロクの現在の経営母体である「一般社団法人 こころのかけはし 祈りの和」HPによると、この宗教施設の由来は以下のとおり。

大国ミロク殿本宮は、沖縄県沖縄市(旧:沖縄県コザ市)の八重島にある、黄金森(くがにむい)と呼ばれる森に鎮座しており、本宮の奥には、光明山(こうみょうさん)と呼ばれる聖地があります。周辺の地域には、その昔、首里から王様がこの森に参拝に来ていたという言い伝えがある、古くからの聖地です。〔後掲大国ミロク殿本宮〕

 黄金森、光明山ともネット上、ワードにヒットはありません。沖縄で黄金森と言えば黄金森公園陸上競技場(南風原町字宮平)が有名で、現地では通りの良い地名です。対して光明山とは、どうもヤマトっぽくて沖縄古来の地名らしくない。個性的な地名と読みの多い越来美里にあって、地域に根付いた単語に聞こえません。

「初期のミロク殿」〔後掲大国ミロク殿本宮〕

 本殿が造成されたのは戦後です。団体名を見ての通り、運営者は宗教法人ではありません。

一九五二年(昭和27年)五月二十八日に開祖である比嘉ハツにご神託が告げられ、当宮の主祭神であります宇宙創成四祭神様の御神体がこの世に現れました。更に、その大神様の教えにより同年十一月十五日に山中に封印されていた天岩戸で開祖比嘉ハツにより神開きの業が行われました。〔後掲大国ミロク殿本宮〕

 つまり、客観的に見て、沖縄では例の多い個人単位の新興宗教活動の一つであるらしい。霊感の強い宗教者を多数産する、このシマならではの風景です。
 ただそれを言えば、内地よりはるかに「何を拝み何を教義にしているか」分からない、いわば淡い、プリミティヴな宗教形態は、むしろ沖縄では常態で、それが無数に並列しているのが沖縄の宗教風景です。

尚宣威墓の森

「尚宣威王の墓碑」〔GM.〕

 しかしながら。「首里から王様がこの森に参拝に来ていた」理由は十分にあります。越来と第二尚王室の関係を考えるなら──直近での関わりは第二尚王権・二代尚宣威王(1430(宣徳5)年生-1477年9月11日(成化13年8月4日)没)。第二尚氏始祖・尚円の弟であるこの人は、尚円の子・三代尚真に僅か半年で王位を譲り領地越来に落ちて没する。玉陵への埋葬権がなかったので、現・越来二丁目24(→GM.)に葬られています。神号は西之世主(にしのよのぬし)。
 以下は尚王家の子孫の方が「okinawa41」HPに特別寄稿した記事です。清明祭で上記尚宣威墓にお参りされた模様を記します。

その当時に生を受けてない私には知る由もありませんが、尚円王の右腕であられたであろうと想像に固くない尚宣威王です。その尚宣威王と子孫を廃することが必要だったという王家内の争いに対し、平和的解決は出来なかったのでしょうか。
 私自身は尚宣威王に敬意を表します。〔後掲OKINAWA41/越来に眠る尚宣威王 御清明祭【特別寄稿④ 尚本家第23代当主 尚衞〕

 少し広域の地図で見ると、次の位置関係になります。

大国ミロク-尚宣威王墓-西森御嶽の位置関係 ※水色ラインは引用者

 してみると西森の「西」は、尚宣威神号・西之世主に通ずるものかもしれません。祟りを恐れてのものでしょうか?それとも尚王統に対する地方の尊敬の意でしょうか?
 大国ミロクを含むエリアに中世広がっていたかもしれない広大な御嶽に、尚王家が永く参拝し鎮魂してきた可能性は、確かにあるようなのです。

「FASE81-1@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#シン・大国ミロク\あまぐれおろちへ」への2件のフィードバック

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