目録
艮黄金神のあまぐれおろちへ
おおっ!あったよ。1019。
「天之岩屋
天之御柱
艮黄金萬神
風水大神」
とある昭和27年の石碑。──この年次は、宮公式HP(→前章)にいう「ご神託」年です。ただ「艮黄金萬神」という神は、元から伝承されたものかもしれません。
正面に三角形の「窓」があります。そのの中は……洞窟になってるらしい。
覗くと、中にも構造物が続く。コンクリートになってるから今でも拝まれてる。ただし鍵をかけた柵あり。
裏(多分北側)に回り込むと三叉路。まず平地の右へ。1024。
岩が囲んだような場所。
どうやら──ここがコザ霊園の最高部です。
三叉路。左手に祭壇。戸口をコンクリで固めてある。
まっすぐはおそらくさっきの建物左の道なのでしょう。右に上がる。
祭壇らしい岩囲みの場所。最上部らしい。1030。
先の分岐に戻り、左の登りへ。
途中、左手に竪穴。かなり深い。さっきの洞窟の空気穴……かもしれません。戦時のガマだったような気配はないし、多分狭過ぎる。
ふいに、開ける。唐突に小雨。
サンエーが見えてます。手前に香炉3。書いてある文字はどれも「奉」一字のみ。供物の形跡はない。
何となく、斎場御嶽の久高遥拝所のような場所でした。
1038、折り返す。
骨あと3つね~
そこからの道は……もう迷いまくりました。一度はサンサン通りまで出てしまったけど……結果的に11時ぴったり!──ただ、ここやっぱり記憶通りもっと早くから開いてるっぽい。
それにしても久しぶりじゃのう、だるまさん。
1101だるまそば
骨汁550
沖縄ってまだ半袖着てる人がいるのは、何なんだろう……。
さて骨です。デカい肉塊がゴロゴロ。肉塊と言ってもそこは骨なので、これをいくつかに分解しなきゃならんのだけれど、ここの骨はこの分岐点の見定めと、捻り切る方向がなかなか難物。肉と骨が混じってるからどこがどう繋がってる骨なのか、雑食人種たるナイチャーには看破しにくいのです。
その代わり!
そうやって千切った小片の間の細かい筋の付いた肉は──これは記憶に残ってます。変に繋がった肉と筋と脂の連結みたいなものが……もう無茶苦茶な旨さです!
誰かが書いてたように、確かに出汁汁は濃厚さを欠く。でもこれは欠くというより抑制してる、と言うべきです。肉より前に出ないシンプルな体を保っていながら、よくよく味わうと深い。
ここはすり下ろし生姜を入れ放題。この小気味よい肉と汁だから、たっぷり入れて問題なし。ギュッと肉汁が閉まる。
やはりよく出てるらしい。席を立つ頃には「骨、あと3つね~」とカウントダウンに入ってました。
〔日本名〕宜野湾市真志喜一丁目24
(沖縄戦時:85高地、独立歩兵第13大隊主陣地(後掲))
〔沖縄名〕むいぬかー・むんぬかー
〔米軍名〕-
脱衣所の下着を盗って琉球王
1220、R58を走ってから具志喜北交差点で左折。道なりに南へ右に曲がった後、信号を左折。──ということは、米・普天間飛行場と西海岸の狭間地です。
森川公園。
県指定名勝「森の川」と表示。さっぱりした地名なので現代風にも思えますけど、それとも元がそういう聖地名なんでしょうか。
まずガー(井戸)がある。威風ある構造物です。
天女が降臨し沐浴したという「羽衣伝説」の舞台となったところです。『球陽』などの古文書によると、天女は奥間大親なるものと結婚し、一男一女を授かり、のちにその男子は中山王察度になったとされています。察度王は1372年に公式に初めて中国王朝と外交を開いた人物として知られています。
泉の東隣には村の聖地であるウガンヌカタがあり、そこに立つ石碑(西森碑記)に、泉は1725年に向氏伊江家の一族により、石積みで建造されたことと、そのいきさつが記されています。
この泉はまた、真志喜の重要な泉で、子供が出生したときの産水、正月の若水をとる泉であり、地域の方々との結びつきが深く、大切な場所です。
2005(平成17)年3月 沖縄県教育委員会 宜野湾市教育委員会〔案内板〕
洪武五年中山王察度貢贡方物
察度王伝承の伝えに、森の川が登場する。かつ、その察度王が14Cの史料に残るため、ここが察度と繋がる地点とされるけれど、西森碑記に史料として残る記銘は18C──という実は非常に細い線で結ばれる事象群が記してあります。
61 洪武五年十二月(略)
88 ○杨载使琉球国中山王察度遣弟泰期等奉表贡方物诏赐察度大统历及织金文绮纱罗各五匹泰期等文绮纱罗袭衣有差〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之七十六+七十七〕
その東隣に「西森碑記」という、不可思議な碑文がありました。
雍正三年(1725年)建立。平4(1992年)の宜野湾市教育委員会の訳文が以下のとおり掲げられてました。
大清雍正三年吉日
森の川で沐浴していた天女と奥間大親(おくまうふや)が出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私達の元祖尚宗教賢伊江王子朝義の母は宜野湾間切謝名村のの具に掟(のぐにうっち)の娘で、名を城の大按司志良礼(ぐすくのうふあんししられ)といい、尚清王※の夫人である。私達子孫は毎年五月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野口掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。(続)
碑文の筆は、観光案内より遥かに実直で謙虚です。先の14C察度王と1725(=碑文:雍正3)年石垣建造の間の、16Cに転機があったことが記されます。尚王家との縁戚関係※の成立で、真志喜の人々は伊江家を興こしています。
(続) これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷つめ、泉を囲い、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
大清雍正三年九月吉日、向和憲垣花親方朝理・向良顕伊江按司朝良・向和声西平親方朝叙
伊江家は当時、首里王府で三司官を輩出する有力家系だったという〔後掲ハイホー〕。
入ると出てこられません
普通、こういう場所は石垣が結界を成してて入れないんだけど、公園という性格からでしょうか?ここは歩道が付いて、入れました。
裏にも祠はない。おそらく他のイビもこういう感じの原生林なのでしょう。ただ結界裏だけは、何かの祭祀に使うのか、空いた空間があります。
※この公園には霊域として立入禁止のこんもりとした森がありますが、絶対に入らないようにしてくださいね。ここに入ると出てこられないとか、ユタの修行場があるとか、大きな穴があり、落ちたら出られないなどの噂のある場所です。〔後掲沖縄IMA〕
──なぜそれ早く言わないっ!??
その対面、信号側のトップに「神西森拝所」。建造は新しそうですけど、おそらく元のイビがここなのでしょう。
と──思い込んでたけど文字は「神酒森拝所」です。西を酒と書く。どういう意味だろう?近づくとルビが「うんさくむい」と振ってある。
ウンサクで祝うウマチー
名水と酒ですから、その時もよく考えたら分かったはずですけど……真志喜集落では、ノロが「森の川」の水を神水とし、神事に用いたほか、神酒(ウンサク)を醸造して集落に配ってたそうです〔後掲masaki〕。なかなかの営業上手です。
「うんさく」について、少し寄り道してみます。ウンサクを使う神事を「うまちー」と呼びます。ウンサクは米だけでなく麦でも作られ、別のウマチーを構成しました。
沖縄では旧暦の5月15日や6月15日に「ウマチー」と呼ばれる行事を行います。
かつては琉球王国の神事で、年に4回行われていた「ウマチー」。旧暦の2月、3月、5月、6月の15日に行われ、2月と3月に行われるのが「麦」の「ウマチー」でして、5月と6月に行われるのが「稲」の「ウマチー」となります。
琉球王国時代は「麦稲四大祭」とよばれ、久高島や首里城で、国王も参加して大規模な儀式が行われていました。
集落で行われる「ウマチー」は、門中単位で御神酒(おみき=沖縄の言葉で「ウンサク」)を作り、神人(カミンチュ)やノロを頂点とした神役と宗家の代表がその御神酒(ウンサク)やお供え物を供え、ウタキ(御獄)やヒヌカン(火の神)を巡り、豊穣祈願や集落の繁栄祈願を行います。〔後掲マルキヨ製菓〕

中国人は飲用拒否
史料にも、沖縄の口噛み酒は登場し、概ねその「悪習」と「悪臭」が印象的だったみたい。
今から約600年前、嵐のため琉球に漂着してしまった朝鮮人がいまして、このウンサクについて見たことを報告しています。
その年に取れたお米を水につけてやわらかくしたあと、身を清めた女性が口の中で何度も噛んでクチュクチュした後にはき出す。それを容器に入れ、3日ほど寝かせると濁ったお酒になる…。(略)
このウンサクは中国皇帝の使者である冊封使にも勧められています。しかし多くの冊封使は、それを飲むことを断ったとか。
18世紀の琉球にやってきた冊封使の1人、周煌(しゅうこう)はウンサクを飲んだ少数派の1人。飲んだ時の様子をこう語っています。
ヨーグルトのようで、甘くあっさりしている。
数日経つと、酸っぱくなる。
女性が口の中で噛んで作ると聞いた中国人の多くは、飲むことを断っている。
琉球人は競うようにその酒を飲み、味を絶賛している。〔後掲マルキヨ製菓〕
ここで周煌さんの名前が出ます。この人※は「琉球國志略」という記述を残しておられ、これを中國哲學書電子化計劃で追いますと──
茶「夏錄」云:『土不宜茶』;今亦間有之。自閩中來者多、
鹽曬海鹵成者,色極白。宜野灣、今歸仁,有鹽場、
酒燒酒,國中自釀,味甚烈;致遠及供應,多以水滲入。紅酒,太平山出者,名太平酒;八重山出者,名密林酒。醇酒,出土噶喇。米肌,嚼米汁而成,如奶酪而甘淡;閱日則酸。國王朔、望饋天使,有此。或曰:以此埋土中,經年取作燒酒,味醇無比。中國人聞其從女子口中嚼成,多不敢飲;琉人競取,以為絕佳〔後掲中國哲學書電子化計劃/周煌「琉球國志略」卷十四〕※茶・塩・酒の種毎に引用者が改行
マルキヨの紹介する漢字とは違いますけど、上記ゴチック下線部「米肌」(北京語ピンイン:mi3ji1)「ミジ」、つまり現代も沖縄で売られてる「噛む極上ライス」ミキだと思われます。
なお、現・酒税法上及び衛生面から、口噛み酒造りは現代ニッポンでは違法。沖縄のミキは「清涼飲料水」品名です。53kcal/100gなので250g缶でご飯一膳ほどのカロリー、飲み過ぎにはご注意。──ということで以上、長い寄り道でした。
前田ルビーから天久の丘へ
大謝名交差点を突っ切ってから、路地裏から出てくるコースを採る。完全に前田食堂の後遺症ですけど……こちらで昼食二食目とします。
1333軽食の店 ルビー
牛肉ニンニク炒め650
出てくるのはかなり遅い。店内は古食堂めいた風情を造りこんであり、新しく開店した店っぽい。
ただ──お味はかなり好い!前田ほどじゃないけどニンニクが、こちらは肉汁と一体になった液状でがっちりと辛い。
さて。東横イン美栄橋にチェックインいたしました。
荷物を置くや、再出撃。
昨日と同じく、もうワンアクションできる時間が残ってます。本日は、以前から気になってた天久の丘の海際へ。
■レポ:真志喜パッチワーキング
羽衣天女伝説の森の川。
けれどどの記述を見ても、不思議なことに察度王の母たる天女の名前は書かれてません。これは対馬の天童伝説の「虚ろ船に乗ってきた醜女」の母像を連想させます。
にしても、題名は乙女チックなこの話の展開はどうでしょう?
昔、奥間大親という人がいました。嫁のきてもない程の貧乏でした。
ある日のこと、畑仕事を終えて手足を洗おうと“森の川”に立ち寄ったところ、水浴びをしている一人の美女が見えました。物陰から様子をうかがっていると、木の枝に衣がかかっていました。
奥間はすばやく衣を草むらに隠し、女の前に姿を現しました。おどろいた女は急いで衣を取ろうとしましたがそこにはあるはずの衣が有りません。
女は「私は天女です。羽衣がなければ天に昇れない。」と泣き崩れました。
奥間は女の身の上話などを聞き「それは、お困りだろう。私が探してあげるからそれまで私の家で休まれるがよい」というと女は感謝して奥間の家に世話になりました。奥間はその羽衣を倉の奥深く隠しました。〔後掲宜野湾市〕
現代なら、ちょっとした猥褻暴行罪で起訴されてもおかしくない。わざわざこんな酷い話を、王統の始原の神話にするのは、教育上の問題はさておき、何を象徴させてるんでしょうか?
考古→森の川・マヤーアブ洞穴遺跡
森の川洞穴遺跡は、約3〜2.5千年前(沖縄考古編年前Ⅴ期:高宮編年)のものと比定されています。3百m北東には大山貝塚。上記の位置図だけからすると、ずば抜けて住み良い地勢とは思えないのですけど……考古学的にはそうです。
方言ではマシチという。沖縄本島中部の西海岸,東シナ海に面する琉球石灰岩段丘上に位置する。沖縄考古編年前Ⅴ期の森の川洞穴遺跡があり,またマヤーアブ洞穴では,宇佐浜式土器や中国製磁器などが出土している。グスク時代の舶来陶磁器などが採集された真志喜石川遺跡のほか,古代集落跡も発見されている。〔角川日本地名大辞典/真志喜【ましき】〕
マヤーアブ洞穴は、後で触れる戦時に住民が隠れた穴です。そういう身近なところに中国製磁器が出てる。察度神話に出てくる「畑に落ちてたのが黄金だった」話にも似た状況です。
つまり外航路も発着していた様子が推測されます。ただ水深を見ても、中大型船の着岸に有利だったとは思えません。不思議な時空です。
歴史→初の仕明(開墾)地
ところが史料的には、あまり顔を出しません。それどころか1681年に開墾された土地とされますから、近世まで衰退していた土地らしいのです。地名「真志喜」は開墾者の人名だという。
中頭【なかがみ】方,宜野湾【ぎのわん】間切のうち。村名は,「絵図郷村帳」に見えず,「由来記」に記される。かつては浦添【うらそえ】間切謝名【じやな】村のうちで,康煕10年(1671)宜野湾間切成立時に分村。同20年謝名村の真志喜が,牧港村内に開田して褒賞され,毎年切米2石5斗が与えられている(球陽尚貞王13年条)。これが沖縄における仕明地の始まりといわれ(同前),村名はこの人物の名に由来するとも考えられる。また「当時用候表」にも村名は見えるが,肩書きに「新村改帳ニ大川村」とあり,かつては大川村とも呼ばれていたと思われる。なお,現在真志喜に小字大川原がある。(続)〔角川日本地名大辞典/真志喜村(近世)〕
古名と窺われる「大川」は、「森の川」の表記とも通ずるので実際の河川ではなく「水が豊か」という語義でしょうか。いずれにしても、中世に大集落があったようには思えません。
民俗→沖縄三大心霊スポット
にも関わらず、拝所は非常に充実してます。
先に押さえると、1883(明治16)士族人口比は1%を割ります。県全体の25%※と大きくかけ離れた真志喜は、純然たる民の土地でした。
平民59,326戸73.71%〔沖縄県統計概表(1880年)←wiki/琉球王国〕
全人口の1/4が武士という島津藩に準じた人口比です。
(続)拝所に,謝名西森・大川ノ大ヒヤ殿・奥間ノ大ヒヤ殿・石川ノ大ヒヤ殿・呉屋ノ大ヒヤ殿・小国ノ大ヒヤ殿・謝名ノロ火の神があり,謝名ノロの祭祀(由来記)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。戸数・人口は,明治13年91・462(男226・女236),同36年119・551(男258・女293)うち士族1・4。〔角川日本地名大辞典/真志喜村(近世)〕
ただし、拝所は謝名ノロの支配を受けてます。
隣接する大川貝塚は、永らく拝所であり、かつ風葬地(墓)だったと、多くの観光案内にも書かれます。森の川、恩納村「SSS」と併記して沖縄三大心霊スポットと呼ぶ向きもあり、御嶽に近い場所だったらしい……のが中世の察度ほかの歴史に絡むのかどうかは、全く確証が持てませんけど。
近代→県営嘉手納線真志喜駅
1922(大正11)年から沖縄戦までは、県営鉄道嘉手納線の真志喜駅というのが存在しました。王朝自体から、交通の要衝として機能してきた地点らしい。
明治41年~現在の字名。はじめ宜野湾村,昭和37年からは宜野湾市の字。第2次大戦前の集落は羽衣伝説で知られる森の川の泉の北に広がり,那覇【なは】と国頭【くにがみ】地方を結ぶ国頭街道が集落内を通過していた。また,大正11年に開通した県営鉄道嘉手納【かでな】線が地内を通ったが,昭和10年の地図によれば真志喜駅は東隣の大山の地内にあった(宜野湾市史2)。戦前は農業が盛んで,主にサトウキビ・田芋などが栽培されていた。(続)〔角川日本地名大辞典/真志喜(近代)〕
まあ、ワシは鉄ちゃんではないんで興味はないんだけど……真志喜駅が大山地内にあったということは、大山に被る範囲が「真志喜」と感覚されてきた可能性があります。そうだとすると、この土地を真志喜と自認する人が増えていたわけで、これもなぜなのか推測できません。
戦争→基地のモザイクタウンからの復興
(続)沖縄戦ですべては灰燼に帰し,住民の多くははじめ具志川村内の各収容所に収容され,昭和21年には野嵩【のだけ】と普天間【ふてんま】の収容所に移された。同22年集落への帰還が許可されたが,米軍基地(陸軍病院)に接収されたため,住民は大山に移り住んだ。同30年帰還が許可されたが,地内の一部は米軍のキャンプ・マーシー,普天間飛行場に接収されたままであった。同51年キャンプ・マーシーが全面返還され,跡地では区画整理事業が進められた。宜野湾警察署が普天間から移され,真志喜中学校・県立宜野湾高校が新設されたほか,市営総合運動場も建設されている。〔角川日本地名大辞典/真志喜(近代)〕
上図でもよく分からんけど、多分森の川は接収されてません。でもその周囲はモザイク状に基地になってます。
真志喜の戦時を次のように語る記述も、一つだけ見つけました。前述の中国磁器の出た洞窟に隠れたらしいのです。
「西森御嶽」がある森川丘陵の中腹に「マヤーアブ」と呼ばれる自然洞穴(ガマ)があります。沖縄の言葉で「マヤー」は”猫”「アブ」は”縦穴”で「猫穴」を意味します。1945年の沖縄戦の際、真志喜集落の住民約300人は米軍の上陸直前に「マヤーアブ」に避難して尊い命を守る事が出来ました。このガマに避難した住民は戦場の恐怖と飢えに耐えながら、お互いに助け合い悲惨な戦禍を乗り越えて、今日の真志喜集落の礎と繁栄を築き上げて来たのです。「マヤーアブ」の入り口には香炉が祀られて人々が祈る聖地となっています。〔後掲アッチャーアッチャー〕
原独立歩兵第13大隊第3中隊の三日間
それとは別に、森の川で激しい抵抗戦があったと記す記事もありました。なぜかあまり記されないし、米軍側の記述の裏打ちもないので、精度に確証はないけれど──こんな戦闘を、上陸四日目の旺盛な米軍相手にやってのけた部隊があることになります。
4日になると遂に米軍は本格的な南下を開始して、日本軍守備隊の前方部隊の陣地に攻撃を仕掛けました。軍司令部の報告では、米軍は重戦車5両を先頭に300~400の歩兵を随伴して海岸沿いに突破して来るような様子だったそうです。
本島西海岸側(宜野湾側)には、独立歩兵第13大隊(大隊長・原宗辰大佐)が布陣していました。森川公園は当時、「85高地」と呼ばれ、この独立歩兵第13大隊の主陣地があった場所です。ここは第13大隊の第3中隊を基幹とする守備隊がいました。
4日朝から前進陣地の神山陣地(第五中隊布陣)は猛攻撃を受け、撤退を余儀なくされます。
西側の海岸沿いでは、戦車と共に米軍が南下し、眞志喜付近まで進出してきました。85高地は側面から攻撃を受けますが、速射砲などの活躍により、米軍戦車3両を撃破して南下を阻止しました。
4日~6日にかけて激しい戦闘が85高地で繰り広げられますが、ついに第3中隊長鈴木秀輝中尉以下多数の死傷者を生じてほぼ全滅となり、85高地付近は米軍に占領されました。〔後掲日本会議沖縄県本部〕
日本軍は中隊ですから多分百人程度、つまり人数比ですら1/3規模です。嘉数(4/8-22)・前田高地(4/25-5/6)より2km北です。上陸正面に布陣した賀谷大隊は4/1から遅滞戦闘を継続していますけど、固定陣地での戦闘としてはごく初期のものではないでしょうか。
ただし森川公園の地形は、単なる窪地です。どこのことでしょうか?日本軍の呼称慣習から、多分85高地の防衛地点の標高は85mでしょうから、背後東側の最高所を探すと──
標高76mですけど、この辺りだったのではないかと推測されます。シュガーローフが46mですから、この規模の小さな丘に、マヤーアブの部類の石灰岩の自然洞窟があり、これらを融合した陣地は意外な抵抗力を示したのではないでしょうか?
森川公園に建つ慰霊塔「森川之塔」にも、この戦闘は記されません。ただし裏書に──
1956年(昭和31年)12月15日ウンサクムイ頂上に建立
2002年(平成14年)3月吉日都市計画街路開通に伴ない森川公園の一角に移設〔碑銘裏書〕
とあります。この掘削されたウンサクムイという小丘が85mもあったものかどうか、つまりウンサクムイ=85高地だったか否かは、現地形を見るとやや疑われますけど、全般に地形改編があった可能性は窺われます。
もう一つ気になるのは、真志喜”猫穴”に隠れたという住民の記述とこの戦闘の不整合です。”猫穴”マヤーアブ洞窟は森川公園から北東百m余(→GM.)。85高地での激しい戦闘中、”猫穴”にずっと全住民が隠れてました……という話があり得るものでしょうか?三日間程度なら可能だった、と考えられなくもないですけど、戦後の米軍統治下で何らかのバイアスがかかっている気配を感じます。
1945年4月初の真志喜の実光景は、どのようなものだったのでしょう?
一つ一つは相当に分厚い手応えなのに、各々を繋ぐ糸が見えない。真志喜の地誌の全体像は、どうにも取り付きようがありません。
西森碑文を遺した伊江家は、首里石嶺に伊江御殿墓がある。伊江島の按司地頭を務め、琉球処分は華族(男爵家)。同家家譜及び関係文書類・伊江御殿家関係資料146点は、2019年国重文指定。
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