目録
三本がじゅまると「皆さん心得」
北へ入ってみるとパティオ部の池の跡。その先のガジュマルの根本に大きなガーもありました。
多分……マップにあるアガリガーでしょう(池は「ナカンクムイ」)。パティオの形からは、コアの見えにくい真栄里集落の中心地のはずです。→GM.:三本ガジュマル
右手に丸石。文字は
「東
クハ■ー■
神川
■■碑」
と読めます。
ガーの上屋根に、昭和四年の注意書きがあります。なぐり書きっぽくて読み辛く、ネット上にも誰も文字起こししてません。けど、「皆さん心得」とかろうじて読める題名からも素朴な生活者の利用ルールらしき風情満点です。
ガジュマルには「植樹百周年記念碑 三本がじゅまる」という2013年の碑。名義は個人名になってます。──後で調べる限り、どうやら皆さんはこれを目的に訪れるみたい。へえ〜。
さて1226、そのまま北へ進んでみる。
十字で右折東行。全般にそうでしたけど、古い家屋とかはほぼ見当たりません。
唯、小径の微妙な揺らぎが伝統的な集落たることを僅かに物語ります。
さり気なさが好い。
1232。折れたらしい大樹のあるT字を右折南行。すると──
この付近は集落東縁に近い。なぜか拝所が連続してるエリアで、古い境神のような場所に思えます。
集落東端トゥンチャー&カッチンヤマ
対面におそらく……トゥンチャーと呼ばれる拝所。駐車場の奥。
香炉6。拝みの跡もある。
「トゥンチャー」は意味不明。拝所に「殿」が付く場合に「トゥン」と読むことは多いけれど、その後に「チャー」と続くのは聞いたことがありません。
裏には、ストーンサークルのような石の囲いがある。ここが小さなシビになってると思われましたけど……何ともさり気なくて断言できることが何もありません。
ならばこの裏の……香炉さえない石垣の場所がカッチンヤマなんでしょうか?1244。
この南側に小さな川があったように、古地図にはあります。現在は痕跡を見い出せません。
マーチンサー拝所除草委託事業
1247、バス通りで右折西行──てゆーか、もう3年も前にバス来なくなってるし!
ガーまで戻って西行。
マーチンサーの拝所。1254。
不整形の野原に祠一つ。中に香炉一つ。拝んだ跡はないけれど、神々の前だけ雑草がやや少ない。
何げなく見張られてたのか?と疑ったけれど──
おじいがやってきて、話しかけてくる。方言きつくてほとんど分からないけど──「草を刈る」のかと訊いてるらしい。どうも除草業者と間違えたようです。ということは、ここの草刈りは委託発注してるの?
西パティオの名はアガリカーンマー
ガジュマルのある西のパティオに出ました。1301。
ここにも大きな池がある。古地図上では三角形だけど現在のは方形。
ガーや祠はなく、ゴミ置き場になっとる。
唯ここは──地理的に見ると非常に興味深い。先に集落コアと疑った2ブロック東のアガリカーンマーと、地名的にも、池-井戸-広場-樹のセットの構成的にも完全に対を成しているからです。
沖縄語でアガリは陽の登る東、イリは沈む西で、方位的にもそれをなぞってます。但し、アガリカーンマーの池は「ナカンクムイ」(中……)になっていて、「アガリクムイ」(東……)はさらにワンブロック東、先のトゥンチャーなどの筋に存在し、この点では微妙に非対称なのです。重心の移動、みたいな何事かが想定されますけど──分かりません。
仲間ヌトゥンから集落西北端へ
此処を右折北行しよう。
1307T字路、左折西行──
いや?このT字北対面に祠3つ。
石敢當と同じ位置、T字対面。沖縄で魔を止めるとされる地勢です。
マップに、仲間ヌトゥンと書かれる場所でしょう。
左右にも香炉らしいものがあるけれど、草が生えて分からない。
結界の向こうは竹やぶ。
西へワンブロック。さてこのエリアが、もう一つの拝所の多発点です。
先ずT字北、マップに「(越来)」と書かれる祠(黒丸7地点)。──この東集落北西側には、T字路が多い。壺屋を典型とする、王朝時代の都市計画前の伝統集落の特徴とされる道割です。
東集落西北端のダブル三ツ石
広っぱの中、神域を持たない拝所です。
一礼、祠を覗く。
三柱の石の中にガラスコップふたつ。その向こうで線香が焚かれてます。
何故か、このエリアは環状になってる。時計回りに歩く。
──パーソナルな論点で恐縮ですけど、この円環の中の「島当」、通常「しまとう」と読むらしい姓は、喜屋武に特有のものでほぼ糸満市域にしかない。全国で推定30人〔後掲日本姓氏語源辞典〕。
1320。マップの通り、西側の園地内にも拝所があります。ただし一つだけ。トゥン、越地ヌトゥン、越地西側のアジシーとあるもののどれかでしょう。先の「(越地)」との位置関係からすると越地ヌトゥンと推定されます。
祭壇は左右に分かたれ、左より右が少し大きい。どちらにも3柱の石。
何れも3石の中で火を焚く形に見える。つまりヒヌカンでしょう。
厳かな佇まいです。
ただ実際に焚かれた跡は見えない。──現在学んでる知識では……掃除してるのでしょうか。
左から撮影(上記)。
二つ並んだ火の神(ヒヌカン)というのは、個人的には見たことがない。方向ももちろん同じです。(→仮説:中城ノロとソフツゲナノロに対応?)
他の拝所がないなあ、と思いつつ北へ登っていくと……あれ?この細道は何か雰囲気があるぞ?
入ってみようか。
■レポ:真栄里 メーザトゥ の情報群
八重山にも同じ漢字で、現代読みではマエザトと読む地名があります(現地読みではマイザトゥ・マジャドゥで糸満市真栄里と異なる)。
「前里」と表意文字で考えれば「よくある地名」になります。
方言ではメーザトゥという。沖縄本島南部の西海岸,与座岳から西に延びる石灰岩堤南側の緩やかな斜面に立地し,東シナ海に臨む。地名は,東シナ海に突出した丘陵上にあった地形から,前の里の意か。地内には丘陵先端部に沖縄考古編年前Ⅴ期~後Ⅰ期の真栄里貝塚や先中城城跡(真栄里城跡),集落内にシマタイヌ殿遺跡などがあり,カータガー(川田川)の近くの砂丘には川田原貝塚があり,後期土器の標式になっている川田原式土器が出土する。〔角川日本地名大辞典/真栄里【まえざと】〕
真栄里遺跡は、少なくとも考古学標式としては戦後、重要な遺跡であり続けてきたようです。下記には沖縄考古編年後Ⅰ期の標式とあり、かつC14年代測定値1,610±85B.P.が示されるので、最長でBC8C-17Cの2千年の真栄里人の痕跡です〔後掲高宮〕。
下記の「沖縄または周辺の南島系土器」の特記は、他資料からほぼ九州縄文土器の影響しか窺えないためでしょう。
沖縄本島南部,糸満(いとまん)市真栄里小字内間原に所在する沖縄考古編年前Ⅴ期~後Ⅰ期,グスク時代に及ぶ遺跡。真栄里集落の西端,標高20mの真栄里グスク南側崖下および北側斜面に立地する。昭和32年12月から翌年1月にかけて,南側部分を試掘調査。遺物包含層における文化層は3時期にわたり,上層ではグスク時代のフェンサ上層式土器が,下層では前Ⅴ期に属する宇佐浜式土器などが出土した。また中層では九州の弥生時代前期に属する板付Ⅱ式土器を移入ないしはその系統を引くと思われる土器が出土した。この土器は真栄里式土器と命令され,沖縄考古編年後Ⅰ期の標式土器となっている。なお,中層からは同じく九州の縄文時代晩期に属する夜臼式土器の系統を引き変容したと思われる土器のほか,沖縄または周辺の南島系土器なども検出された。(略)同文化層のC(^14)年代測定値は1,610±85B.P.である。真栄里遺跡は弥生文化の波及と定着を知る上で最も重要な遺跡であったが,沖縄偕生園の建築工事により破壊された。〔角川日本地名大辞典/真栄里遺跡【まえざといせき】〕
「真栄里集落の西端、標高20mの真栄里グスク南側崖下および北側斜面」とある、この北側斜面を次章では通過したことになります。実際に城登りを目当てにした後掲「グスクへの道標」さんは、西端を真栄里グスク、東端を「チングスク」として整理した上で、西側には「石積」があるけれど東には「グスクとしての遺構は見当たらない」としながらも石積と疑われるものを見たと書いてます。
「グスクの丘陵は東西に長く3つの郭からなる連郭式のグスク と思われ、丘陵の西端が主郭の一ノ郭」というのが前掲「グスクへの道標」さんの見立てです。これは平面地図では理解しにくかったけれど、下記標高色別地図によると至極自然です。
このベルトがそのまま先史人の住んだ考古遺跡であり、かつ朧な御嶽的な場だったと思われます。
また、沖縄戦末期の最激戦地になった国吉台地を隣にし、仮にもバックナーが落命した地ながら、真栄里側に比較的戦禍が及ばなかったのも地形的に頷けます。海側≒中世ユノーシ(世直)浜との中継地として有利でも、軍事拠点としては本丸を置くべき防御力は乏しい。
現代に入って特養施設が出来て、かつ少なくとも縮小されたらしい。「グスクへは、グループホーム寿の施設内を通って入る方法と、丘陵の南側、旧偕生園跡地から斜面を通って城門跡に出る方法がありますが、ホーム側は入口が閉鎖状態で、南側も草木に覆われ入口を探せない状態」〔後掲グスクへの道標〕であり、歩くには色々な意味で相当に難易度のある丘みたいです。
なかなか使われなかった「真栄里」地名
さて先に「真栄里」(前里)地名がややありきたり、などと愛郷心を刺激するようなことを書いてしまいましたけど、「中城」又は「仲城」という地名もかなり後まで使われたようです。具体的には史料で康煕52(1713)年、官名としては実に1821(道光元)年(下記)、つまり19C前半まで少なくとも併称されています。「真栄里」名の成立自体を角川は17C後半と見ておられます。
なお恥ずかしながら最初は誤字かと思った康煕13(1674)年の「経界正し」は、沖縄版検地のようなことらしい(後掲)。
島尻方,はじめ島尻兼城【しまじりかねぐすく】間切,のち兼城間切,康煕13年(1674)の経界正しの頃からは高嶺間切のうち。17世紀後半に,中城【なかぐすく】村が改称して成立したと推定されるが,村名は真栄里・中(仲)城を両用したらしい。康煕9年毛姓8世盛平が兼城間切真栄里地頭に任じられている(毛姓小宗家譜/那覇市史資料1‐7)。しかし,同52年成立の「由来記」高嶺間切のうちに,崇べ所の部は中城村,年中祭祀の部は真栄里村と見える。また道光元年(1821)以降,鄭姓8・9・10世が仲城地頭に任じられているが,3人とも真栄里と名乗っている(鄭姓小宗家譜/那覇市史資料1‐6)。真栄里掟の管轄。拝所に,島尻中城ノロ火の神・ソフヅケナノロ火の神・真栄里里主所・島尻中城内西表之殿・島尻中城内東表之殿のほか7つの殿があり,島尻中城ノロ・ソフヅケナノロの祭祀(由来記)。乾隆35年(1770)3月9日,小雨と雹が降るという記事の中に,真栄里村の西にあるユノーシ(世直)浜の名が見える(球陽尚穆王19年条)。(続)〔角川日本地名大辞典/真栄里村(近世)〕
上位の間切としては兼城から高嶺に移行した形ですけど、ノロの管轄としては、下記によると兼城のものらしいソフヅケナノロの所管が混濁してるようです。──残念ながら「ソフヅケナノロ」についてこれ以上のヒットは未発見。ただふと思うのは、本文中の火ヌ神三ツ石の2セットは両ノロに対応したものかも、という仮説でした。
高嶺間切中城・崎中城村は,元から同村にあった真栄里村とともに,中城ノロの管轄下におかれたので,管轄区域の拡大変更がみられる。しかし両村が移管された1737 年(元文2) 以前に成立した由来記の真栄里村の条に,島尻中城巫火神•島尻中城内西表之殷・島尻中城内東表之殿・神アシアゲノ殿があるから,同村は真栄田村から分れて,近い距離にある兼城間切に建村していたのではなかろうか。真栄里村にはソフヅケナノロの祀る火神があるから,むしろソフツゲナノロの管轄下にあるべきであるが,中城村の城内之嶽弐前,真栄里村の下地之殷ほか4殿は,両ノロが祀っているから,特別の関係にあったことが知られる。中城・崎中城村は移管後合併して中城村を称した。〔後掲宮城〕
とかく一元化することなく、異質を内包し続けてる。原因や由来は全く分かりませんけど、そんな印象を受けます。それは集落内の地名区分になると、もっと激しくなってます。
大栄 越地 仲門 山城 東門小 川門 仲添 仲ヶ小 仲間
真栄里集落については、結果的に、東西の集落の小地名すら分かりませんでした。
ハラジュー(腹中)は,ウーヒー(大栄)ヌル方・クィージ(越地)ヌル方に分かれる。〔角川日本地名大辞典/真栄里【まえざと】〕
「腹中」は沖縄の家系のようなものです。地域区分とも対応しませんから、多分これも地理的に混在してる。
地域区分中にある「メーザト」が、現地名「真栄里」として採用されたと考えられます。
・真栄里は元々、イトゥブ、メーザトゥ、クールーという三つの独立した集落から形成されたという。
クールーは先中城とも言われ、護佐丸の中城入りに伴って、先中城按司が移ってきたのでその名がついたという。
先中城按司の孫・真栄里按司二男高嶺大主がイトゥブ村を作り、糸部大屋子と称したという。〔後掲atwiki〕
時系列はクールー→イトゥブの順に形成されたことになります。これは15Cの護佐丸が中部・中城に入った時、恐らく追い出される形で現・真栄里に来た形で、だから中城の地名が出来たことになってます。これらとメーザトゥ≒プレ・真栄里の前後関係は読み取れませんけど、遺跡による長い歴史から考えて元々の原住民集団がそれではないでしょうか?
先のウーヒー(大栄)ヌル方とクィージ(越地)ヌル方のうち、下記によると前者が護佐丸系という伝承があるようです。ただし後者「越地」は家系としては、登場しません。
・『大栄』は護佐丸の遺児盛親の乳母の実家といい、盛親は国吉ヌ比屋に守られ、『大栄』に匿われ、先中城按司に武術を教わりながら成長したといわれる。国吉ヌ比屋の妻と乳母は姉妹だったとも言われる。乳母は後に真栄里ヌル殿内の始祖となった。
・『仲門』は美里間切伊波按司の子孫・勝連按司が先祖という。後に西原幸地村から養子が入ったという。
・『山城』の先祖は美里間切山城村から来たという。
・『大栄』『仲門』『山城』は墓地を共用している。
『仲門』の祖先の男と『大栄』の祖先の女が兄弟姉妹であったという。『仲門』の先祖と『山城』の祖先も兄弟だという。
・『東門小』は那覇市銘苅から旧具志頭村に移り、そこから真栄里に来たという。
・先中城按司の長男真栄里按司の子孫と伝わる、『川門』が長男筋、『仲添』が二男筋、『仲ヶ小』は三男筋。
・『仲間』は護佐丸の三男盛親の子孫。『東仲間』と『クール仲間』は分家。〔後掲atwiki〕
他に那覇・銘苅や沖縄市・美里からの移住集団も伝わるというのは──真栄里の土地はそれほどあちこちから移住者を呼ぶ、又は転封地として指定されるほど、豊か又は開拓の余裕のあるところだったのでしょうか?
最後に明治、伊敷三良という方が別名ハナウティーと呼ばれる真栄里芋を普及させてます。沖縄の二百種以上の芋の中でも、美味な芋として知られるという〔後掲嘉手納町〕。
(続)明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。同38年納税組合設立。同40年頃,伊敷三良がサツマイモのウランダー種から実生苗を見出し,メーザトゥーンム(真栄里甘藷)を育成した。戸数・人口は,明治13年173・791(男403・女388),同36年214・1,025(男515・女510)うち士族36・184。〔角川日本地名大辞典/真栄里村(近世)〕
なお、明治13(1980)年の人口統計では、士族数は3.5%と非常に低い。謎を深めるばかりのデータの羅列でしたけど……25百年ほどは続いてきた非常にピュアな「民」の集落であろうことは、かなり確からしく感じられます。
※経界:琉球版土地区画整理
先述「経界正し」として角川が記していた語ですけど、単純に言うと「境界」の古い言い方のようです。
又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ〔球陽(141号)←wiki/沖縄県の歴史 都道府県の歴史〕
という琉球史料があります。悪名高い人頭税の端緒と評される一節ですけど、ここでの「経界」は「土地などの、さかい。しきり。くぎり。境界。」〔精選版 日本国語大辞典 「経界」←コトバンク/経界〕のことですから、「経界正し」とは現代の区画整理事業、この場合のニーズとしては不分明な所有関係を課税客体の明確化のために行政的に整理することらしい。
前掲「精選版 日本国語大辞典」はその初出として次を挙げます。
農事の勤惰を弁じ田圃の経界を察し〔報徳記(1856)一←精選版 日本国語大辞典 「経界」←コトバンク/経界〕
ただ沖縄の「経界正し」はこれより古い。ということは──と中国語を辿ると、何と紀元前から使われている語でした。下記は周の井田制について記述した孟子の文章で、専門家には有名なものらしいです。
(読み下し)夫れ仁政は、必ず經界自り始む。經界正しからざれば、井地鈞しからず、穀祿平らかならず。是の故に暴君汙吏は必ず慢其の經界を慢にす。經界既に正しければ、田を分かち祿を制すること、坐して定む可きなり。
夫仁政、必自經界始。經界不正、井地不鈞、穀祿不平。是故暴君汙吏必慢其經界。經界既正、分田制祿可坐而定也。〔後掲mixiみんなの日記〕
夫(そ)れ仁政は必ず經界より始まる。經界正しからざれば、井地均しからず、穀祿平らかならず。是の故に暴君汚吏は、必ず其の經界を慢(ないがしろ)にす。〔孟子←普及版 字通 「経界」←コトバンク/経界〕
百度百科はほかに5例の用例を挙げます。中国から派遣された行政プロ集団・久米三十六姓の頭には、当然に入っていた用語だったのでしょう。
《汉书·食货志上》:理民之道,地著为本。故必建步立畮,正其经界。
《新唐书·解琬传》:会吐蕃骚边,复召授左散骑常侍,诏与虏定经界,因谐辑十姓降户。
郑观应《盛世危言·垦荒》:谓宜通饬,边疆督抚,将沿边荒地派员探测,先正经界,详细丈量。
章炳麟《文学总略》:然《雕龙》所论列者,艺文之部,一切并包,是则科分文笔,以存时论,故非以此为经界也。
杨树达《积微居小学述林·序》:又或繁称博引,漫无经界,违失许旨。〔百度百科/经界 jing1jie4〕
私有財産としての不動産に必須な現代の境界とは異なり、これら「経界」は行政、特に課税上の基礎としてのものです。日本の検地政策上も、集落境界については「村切」(むらぎり:百科事典マイペディア 「村切」←コトバンク/村切)という概念がありますけど、課税地の境に当たる語は見当たりませんでした。 この「経界正し」に際して、本来の制度目的ではないはずの間切の異動(兼城→高嶺間切)があった、というのはどういうことか、再考してみますけど──さして結論は前進しません。ただ
、「経界正し」時に久しぶりに首里王朝側の役人が真栄里集落を歩いたこと、そこで行政の所管庁を変更しなければならないほど極めて「マズい」事態が発覚したことが予想されます。
プレ糸満としての世直浜とその東台地上にある真栄里は、王朝からするとサクッと所轄官庁を移せるような辺境で、そういう目の届かない土地にあちこちからの移民団が流入したのでしょうか?逆に、開拓地として注目されていたから転封先に指定された、と考えるのは、上記事実とは単純には矛盾しますけど、複数の移民で予想以上に混乱していた、ということなら整合します。何れにせよ、「経界正し」に際し問題が露見した。それがなぜ間切の異動で一定の「解決」を見たのかは、とても不透明な点として残るのです。