
**出典:今帰仁村史編纂委員会「今帰仁村史」今帰仁村役場,昭50
***アカショウビン:[漢字]赤翡翠 [学名]Halcyon coromanda
ブッポウソウ目カワセミ科に分類される鳥類。森林に生息。西表島が最大の繁殖地。カワセミの仲間であるが、アカショウビンは渡り鳥で東南アジアで越冬する。→wiki/アカショウビン URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%93%E3%83%B3
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民俗地図のある 稀な沖縄のムラ 糸満・真栄里を とうとう歩きます。 |
支出1300/収入1350
▼13.0[143]
利益 50/
[前日累計]
利益 227/負債 –
十二月三十日(ニ)
1406南部そば
南部じゅうしーセット550
1508桜食堂
肉丼650
[前日日計]
支出1300/収入1200
▼13.0[144]
/利益 100
[前日累計]
利益 127/負債 –
十二月三十一日(五)
目録
与那覇堂このとりとめのなさ 曙光
先に書いておくと、この日、沖縄県感染者数は50人になりました。東京64人、大阪52人に次ぐスケールで、密度的にはもちろん群を抜いてる。
ワシの今回の島での滞在は、あと30時間ほどです。でも後に住み続けるウチナンチュはこの状況に長く耐え続けてるわけで──。
バイクの返却に向かう。でも返却時間まで30分弱ありますので──寄り道しときます。
安里十字路から首里への県道29号・坂下通りに入る。0909、松川東三叉路から西へ左折。坂を降ります。
〔日本名〕沖縄県那覇市松川
〔沖縄名〕やまがーからやー
〔米軍名〕Beehive Hill西麓(5/28第5海兵連隊第3大隊F中隊突出地点)※
「〇913カラヤー拝所」とメモしてますけど、実は今どこだったのか分からなくなりました。次の案内書きを転記してるので、おそらく「山川カラヤー」(カラヤー=瓦屋)だったろうと思ってます〔後掲グダグダ(β)/山川カラヤー〕。
伝承によると中国年号の乾隆年代(1700年半ば頃)に、琉球王府の瓦奉行が瓦を焼くための陶窯をこの地に創建したとの事です。かつて山川三丁目辺りは与那覇堂村と呼ばれており、与那覇堂瓦屋によって首里王府関連の建物や寺院等の瓦を焼いていたという事が首里王府仕置瓦奉行例帳に記載されています。
この与那覇堂村にウフヤー島袋を中心として職人たちが集まり集落ができ、そして土帝君(土の神)と火の神を祀ったようであります。(略)念ながら先の太平洋戦争で窯と拝所は破壊され、(略)2017年に再建されました。
施主 ウフヤー三男 島袋(略:個人名)〔案内板〕
……とすると70年ぶりに「再建」されたのが築後数年のこの祠だった──という非常に幸運な遭遇だったことになります。
与那覇堂村とは、けれどそもそもどこのことでしょう?グダグダβさんがまとめたものを、以下転記します。
与那覇堂村
首里城の西、首里台地の西端部に位置し、東は大鈍川村(ウドゥニガームラ)、西は真和志間切茶湯崎村(松川村)、北は真和志間切真嘉比村。真和志之平等のうち。ユナファドーと呼ぶ。
「球陽」尚貞王4(1672)年に初めて真和志郡与那覇堂村を首里府に所属させたとある。首里古地図では(略)の屋敷地のほか、北・西の真嘉比川沿いに畠・田が広がっている。畠は屋敷地の北と西に広いが、他は真嘉比川沿いにまとまっている。北西部には「鳥頭」「はるおかみ」と記された二つの丘が見える。
文化12(1815)年の士族の家部26(琉球一件帳)。
明治12(1879)年大鈍川とともに山川村に編入。
角川辞典 p113(省略と編集)〔後掲グダグダβ/与那覇堂村〕
鳥頭!この丘の名に初めて到達しました。
はじめ真和志間切,康煕11年(1672)からは首里真和志平等(まわしのひら)のうち。方言ではユナファドウという。「絵図郷村帳」には,
真和志間切 村と見える。首里の綾門大道の下手,観音堂のある万歳嶺の北に位置する。万歳嶺の頂に弘治10年(1497)に建立された「万歳嶺記」碑によると,当時万歳嶺の下に魚市が立ったらしい。首里古地図によると万歳嶺の下にわずかに士庶の家があるだけで,あとは広い畑や沼があり,小丘が点在していた。この情景は,康煕2年(1663)来琉した冊封使張学礼の「中山紀略」に「塋前に五峯相対し,左右情あり。後に靠山あり,沙水相映ず。明堂広濶にして,万馬を容るべく,遠山囲抱す」とある。西部にカラヤー(瓦屋)と呼ばれる地域があり,窯跡の名称を伝えている。嘉慶17年(1812)瓦屋(製陶所)の屋根を瓦葺にし,石壁を巡らした(球陽尚灝王9年条)。「琉球一件帳」によると,平士の家26(那覇市史資料1‐2)。明治12年山川村に編入。〔角川日本地名大辞典/与那覇堂村【よなはどうむら】〕

鳥頭から牧志サキハマバイク
「平士」は一般無禄の武士の総称と言われる。下級武士か没落士族か分からないけれど、とにかく松川のこのとりとめのなさは、ここが純粋な「民」の聖域だからだろうと想像され、だからこそどうも拘りを捨て難いのです。
「鳥頭」……かもしれぬ前方の丘は、やはり全体が亀甲墓の雑居ビル状態。ただ墓だらけなだけで、御嶽の、少なくとも表示や痕跡は見あたりません。
この付近は前に首里観音堂について掘った際に、船着を想定した地点でもあります。

「真嘉比遊水地」との表示が、現行行政上の呼称。住民にとっては散歩道、下の河原ではおじいとおばあが優雅にゲートボールに興じてます。
んなことしてりゃ当然ですけど──0946、ギリギリになってしまいました。ガソリン満タンにしてサキハマにバイク返却。この狭い本島内で、何と130km走ってました。
本日は、けどここからが本番です。
その足でゆいレール乗車。
車内は満員御礼状態!スーツケース姿が多い、つまり沖縄脱出か、あるいは本島からの里帰りか。とにかく人の流れは物凄い。こりゃオミクロンるわな。わははは。
日本は、沖縄でさえも、一日一万人代というのを経験してない。まして米国で恐れられてる百万人代という状況などは。だから、2022年の上半年はダメ、という覚悟を既にしてます。それで充分か、あるいは妥当かは知らんけど。
0956、旭橋下車。久しぶりにバスターミナルへ。
8時だよ!全員読書のゆたかっ子
鉄ちゃんでは絶対にないワシですけど、バスに乗れると嬉しいのは認めざるを得ない。
1010、BT9番から那覇バス446に乗車。終点・糸満営業所まで。ICOCAは使えず。
おや?与儀十字路を通るのですか?もし帰りもこの路線なら与儀小学校前で降りれば──島ちゃんもアリ?
1023、古波蔵交差点。市内を回りまくったのでやっと次が壺川。まあ……のんびりしてますよ。
いやいや?次は旭橋那覇バスターミナル?GM.にあった1025発というのはこのことかい!
つまりこのバス路線は──旭橋から市内を一周して客を集めて戻ってきて、さあ出発!というインドのバスみたいなルートを取ってるらしい。
ワシの15分を返せえ。
ま……旅行者の15分なんて端数処理の範囲内じゃろの。さあ改めまして……出発!
1033バス停・軍桟橋前。
1038バス停・住宅前。──バス停のネーミングをもう少しマジメにつけた方がいいと思う。
ゆたか小学校に「8時だよ!全員読書」の横断幕。それは何か、違うぞ。てゆーかその番組あったら怖いぞ。
「保栄茂バス停、1050。この三文字で「ビン」と読ませる。まさかと思ったけどローマ字も「BIN」となってる。漢字数(3)より仮名文字数(2)の少ないルビって……あるの?(※巻末参照)
1052阿波根入口。これは「あはごん」と読む。ウルトラ怪獣か?(※巻末参照)
めーざとぅの拝所マップとバックナー
風景は波打ち続ける。平らな土地がない。でも尖った山もない。中部の崖のエリアと質が違う。
北部の山並みとも違います。北・中・南の大地は陸続きの、各々違う沖縄です。
非常に不謹慎なことを書くと──もし沖縄を米軍が守ったならば、フィリピンでパターン半島に籠もったように、北部山中を拠点にしたでしょう。グスク時代の南部における諸勢力の抗争が、適度に攻めやすく小拠点を造りやすい地勢下、獲った獲られたと果てしなく血腥く展開されたのも当然です。日本軍は、中部での健闘が南部でも継続可能と誤認し、結果的に県民を巻き込んだ凄惨な末期戦況を招いたとも言えます。一方、名護岳に潜んだ第1護郷隊が八原旧参謀の手紙によりようやく下山したのは1946年1月2日でした。
1109、終点・糸満営業所で下車。すぐ前が真栄里北交差点です。
曇天。ただ降水確率は10%。いけるはずです。真栄里交差点から左折東行。
北側の丘も気になる。GM.にも「怖い」と書いてる、霊感のある方がいました。今はその丘の稜線の南側を東行している形です。
栄里之塔、真山之塔はいいとしてバクチー碑というのは?──ああ違う、バクナー碑か。
バックナー中将戦死の状況(USMC原文) ▼展開
そもそもこの真栄里行きは、たまたま糸満市HPから入手した真栄里集落の詳細な拝所マップ(下記参照)を契機にしたものでした。この視点での地理情報の整理は一部自治体が進めてるみたいですけど、住民感情としては反感も大きいでしょう。糸満市はその辺がサバけてるのか、周辺地域も含め整理が進んでるようでした。
この日も、このマップの紙媒体を手にしての訪問でした。
〔日本名〕沖縄県糸満市真栄里
〔沖縄名〕メーザトゥ
〔米軍名〕?(バックナー中将戦死地近隣)
洗礼 受けて ほんのり微高台へ
1122、前方に丘。これが大小の集落を分けてるはず。
三叉路。うーん。左の集落道……かなあ。と入っていくと、いきなり犬に吠えられる。沖縄集落歩きはこの「洗礼」が……なあ。
1125。北の山手をまず一枚。
ガジュマル下の拝所。樹木右手のガラスケースに入ってる。
樹木側には香炉などなし。
ほんのり微高台。茂みあり。
道順としては、ここがマップに「(山城)」と書かれる場所に当たりそう。だとすれば──
きっとナンデー父の墓
──山手に登ってみる手かな?ちょっとだけ、神聖な匂いはしてきたか?
ならば──これだろうか?「ナンデー父の墓」?
家の跡地の……奥に小さな祠、という感じの場所です。ただし供物はきちんとあります。沖縄的な、生活の一部みたいな祠です。
少し高台に出れるようです。集落写真として一枚──撮りましたけど、この集落は家屋が散在してる。コアというのを今のとこ感じません。
1140。上の道から行ってみることにします。
突き当りを右折西行。もうこれが集落の北縁らしい。家並みは絶えました。
石獅子の社の裏のカミ様たち
1146、真栄里の石獅子。GM.ではad.真栄里67。
炊事場付きのコンクリート家屋2棟付設。トイレまであります。──ちょっと売り出し中なんでしょか?
奥の左手にコンクリの祠。掲げる神名は多い。
「天の世之神々
あむとの下の神々
まいそう世之神
じいはか世之神
いくさ世之神々
盛屋能分の屋敷地知の神神(ママ)
屋敷ジクの神からゆにんの神
地知側神川王側神
川王湧神龍グチングから
龍グ側神四足から水子の神
上之神々から下の神々様」
建物裏手に回りこむ。ここの垣根が結界でしょう。
「天之大川
世之神之大川
むいの大川
わくしん大川
川王すくしん」
もちろん意味は全く分かりません。
藪内には、もはや祠や道は見当たりません。
真栄里石獅子で見忘れてたシーサー
そういえば獅子がないぞ?
あれ?
四つ角の……このヒトのこと?
道側からはちょっとだけ顔に見えるけど……これは犬というより人面瘡です。
──後に沖縄の、ホントに古い狛犬(シーサー)を見ると、大体こんな感じです。ただ真栄里のコレは、多分目鼻を後で打ってます。
正午の鐘。
静かです。
石敢當とゴミ捨て場のある三叉路に出て右折。
すぐに左折。
これで大きい集落行きの東行路に入ったはずです。
メーミチでは50m走
滑走路?
……と疑ってしまうほど大きな、新興住宅地みたいな道になりました。
でもこれは、いわゆるパティオのような場所らしい。マップには「メーミチ」(前道?)とある。馬場だったかもしれない。
なるほど、山の向こうにもう一つ集落、というのではなくこの集落自体が丘陵地にあるのか。
1211、メーミチの拝所……だと思う。後ろに工事現場。
1215、バス停・真栄里。この前が公園になってて親子連れが姦しい。どうやら、50m走のタイムを測って遊んでるようです。
のどかです。
■転記:びん&あはごん
保栄茂 びん ほゑむ
バスで通って変な地名、と思っただけなので所見はそれ以上ありませんけど──まず地図を見て驚きます。三箇所、似たような櫛状の集落が存在します。
台湾やシンガポールの短冊地籍のほか、農地由来なら地割のようにも見えますけど──少なくとも壺屋型の連続T字の集落ではない、何らかの人為的計画性を感じさせる構造です。
方言でもビンという。沖縄本島南部,東シナ海に注ぐ保栄茂川上流域に位置する。「おもろさうし」には「ほゑむ」「ほへむ」と表記するが,いつ頃から「びん」と呼ばれるようになったかは不明。また,「おもろさうし」から保栄茂意地気按司・保栄茂世の主とたたえられた按司が居住し,首里城や米須(現糸満(いとまん)市)とも交流のあったことがうかがわれる。〔角川日本地名大辞典/保栄茂【びん】〕
ちなみにおもろさうしへの地名記述は、次の歌謡だと思われます。
きこへいろめきが節
8-409(17)
一おもろ音揚がりや/宣るむ音揚がりや/国中の/首里杜ぐすくから/早く 御み使い/拝で 輝居らに/又保栄茂世の主や/米須殿 通い/又今日の良かる比に/又今日のきやかる日に
おもろねやかりや/せるむねやかりや/くになかの/しよりもりくすくから/はやく おんみつかい/おかて かゝおらに/又ほへむよのぬしや/こめすとの かよい/又けおのよかるひに/又けおのきやかるひに〔後掲明治大学DB〕
何か祝っている風情で、かつその対象が「保栄茂世の主」の「米須殿 通い」、従属とも読める事象のようです。さらにそれは、首里の指示だったとも読めますから、保栄茂が首里の影響下に入ったことを「音揚がりや」、アガる出来事と捉えてるのだと思います。
「高究帳」では高頭305石余うち田224石余・畑81石余。石高は,豊見城間切のうちで我那覇【がなは】村に次いで大きな村であった。時期は未詳だが,「絵図郷村帳」に見える前はる村を合併。屋号大嶺の拝所となっている大嶺親雲上屋敷の辺りを前原屋という(豊見城村史)。「球陽」によれば,国場川に架かる真玉【まだん】橋を木造で架橋したのは,保栄茂村の住人であったという(尚貞王40年条)。乾隆53年(1788)から翌年にかけて,保栄茂村鞁間志田から翁長【おなが】村南喜雨川原に用水路が開かれた(球陽尚温王2年条)。嘉慶22年(1817),保栄茂村や真玉橋村の耕作当らが,中頭【なかがみ】方具志川間切の百姓に黒糖の製法を伝授して褒賞されている(球陽尚灝王14年条)。なお明治15年に報告された旧藩時代のサトウキビ作付面積は1万4,180坪で,間切中で最も大きい(地方経済史料10)。(続)〔角川日本地名大辞典/保栄茂村(近世)〕
上記は、なぜか技術的な先進地だった気配が伺えます。下記からは、ノロが居て霊地だったことが察せます。中近世沖縄で技術的先進と言えば中国大陸由来とまず想像されますけど、それなら琉球神道での優位、または多分グスク時代の優勢とは不整合ですから──どうも色彩が玉虫色なのです。
(続)拝所には,保栄茂ノ嶽・ゲストク嶽・保栄茂ノロ火の神・フト川・保栄茂城殿があり,保栄茂ノロの祭祀(由来記)。保栄茂ノロは,翁長村の拝所の稲二祭の祭祀にもあたっていた(同前)。嶽元はウフアタイバラ(大フ当腹)のウフアタイ門中(屋号ウフアタイ),国元は百次腹の上宜保門中(屋号上宜保)である。高安門門中の元屋は,按司元といわれる。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年121・690(男343・女347),同36年161・757(男382・女375)うち士族13・64。〔角川日本地名大辞典/保栄茂村(近世)〕
角川は「保栄茂ノ御嶽」を特に別項としています。ゲストク嶽をその読みの一つとしていますけど、前述では別御嶽と扱っており、その辺りは不明瞭なのでしょう。──ということは、恐らくものすごく古い土地です。
方言ではビンヌウタキという。保栄茂集落の北東方の丘陵,保栄茂城の南麓にあり,地元ではアガリノウタキ(東御嶽)という。「由来記」にゲストク嶽と見え,集落の北西方にある御嶽をイリノウタキ(西御嶽)と呼ぶ。〔角川日本地名大辞典/保栄茂ノ御嶽【びんのうたき】〕
「bing」音は中国語のピンインを連想しやすいですけど、これは該当漢字が多すぎます。単純には「兵」が考えられますけど──特定材料に欠けます。
阿波根 あはごん あーぐん
方言ではアーグンという。沖縄本島南部西海岸に位置する。西はかつては東シナ海に臨んでいた。南は北波平辺りからの湧水が集まって溝を造り,メーバルガー・ミジスンチャー・ヒーワチを経て,白川に流れ込む。豊富な湧水を利用した藺草(七島藺)の生産地であった。集落の南に阿波根城跡があり,ほかに橋口原遺物散布地などの遺跡がある。「おもろさうし」には「あはこん」と見える。〔角川日本地名大辞典/阿波根
【あはごん】〕
阿波根にも独自のノロがおられました。他事象からも、一独自勢力だったことは伺えます。
万暦48年(1620)の「ようとれのひのもん」に「そうふきやう二人あはこんの大やくもい」,また同じ碑で表裏をなす「極楽山之碑文」に「大奉行阿波根真界」と見える(県文化財調査報告書69)。「由来記」には兼城間切安波根村と見え,コバモトノ嶽・サクマノ嶽・安波根ノロ火の神・安波根里主所之殿が見え,安波根ノロの祭祀。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年115・580(男301・女279),同36年149・691(男330・女361)うち士族47・209。〔角川日本地名大辞典/阿波根
村(近世)〕
さて先述されていたおもろさうしへの記述は、二首がありました。
あきみよのとまりが節
13-873(128)
一阿波根の大親/按司付きの大親/海 凪らちへ/我が浦 寄せれ/又赤子旅 遣たる/さるこ旅 遣たる/又慶良間旅 遣た物/座間味旅 遣た物/又十尋家が 欲しやす/八尋家が 欲しやす
一あはこんの大や/あんしつきの大や/うみ とらちへ/わかうら よせれ/あかくわたひ やたる/さるこたひ やたる/又けらまたひ やた物/さまみたひ やた物/又といろやか ほしやす/八いろやか ほしやす〔後掲明治大学〕
上下二歌謡ともやはり趣旨は汲み難いけれど、いずれも「遣た」「遣り」とイメージが似ます。「派遣」のような意味でしょうか?「派遣先」はどうも隣島又は島内各地、グスク時代末期の統一過程の情景を連想させます。
おやみかまが節
12-705(54)
一阿波根のくせらへや/添頂 ゑけ 鳴響ま/又名柄仁屋 比屋根子が/又羽 差し遣り 奇せ 差し遣り
一あはこんのくせらへや/おそつちへ ゑけ とよま/又なからにや ひやこんしか/又はね さしやり くせ さしやり〔後掲明治大学〕
■レポ:2019GSJモデルから見た沖縄本島
沖縄の地学的地形は、日本列島の概ね南東縁を成す四万十帯(専門的には四万十付加コンプレックス)の南端部を成してます。この地層については既に概観しました。

ミクロ(≒人間サイズ)の地質レベルで言うと、四万十帯は、本州で調査事例の多い仏像構造線や、振る舞いが大胆で大地震との関連から調査が進む南海トラフの間の「カオス」群というイメージのものらしい。
堆積岩の場合「層状の構造(例えば、砂岩頁岩互層)」を持っているため、露頭では平行線状の構造が認められる。このため層状構造の方向がわかれば、地層がどの方向に分布するかを予想することは比較的容易である(略)四万十層群の地層には層状構造を持たない地層が多く認められるため、地層の分布を知るためには、露頭で頁岩中の砂岩のレキ形状及び配列等の地質構造の特徴を把握し、ボーリング等の調査を加味して推定することとなる。
したがって、地層の大局的な分布や地質構造を推定するこは可能であるが、詳細な分布状況を(レキがどこまで分布し、形態がどう変化するのか等)とらえることが困難であ❴る❵場合が多く、仮定を設けて推定する部分が生じてしまう。〔後掲南九地質〕※❴ ❵部は引用者追記
上記は主に南九州の実務者の実感に依っておられるようです。沖縄ではどうなのでしょう。
沖縄の地学-地質-土壌知見の素人的総合
産業技術総合研究所地質調査総合センター(以下GSJ=Geological Survey of Japan, National Institute of Advanced Industrial Science and Technology)は、2008〜2010年>度に沖縄島周辺海域で反射法音波探査による海洋地質調査を行い、2019年にその分析成果を公表しました。
具体的な戦術としては──
調査船は予め設定した測線上を一定速度で航走し、エアガンと呼ばれる圧縮空気を用いた人工音源を、電磁弁でコントロールすることによって一定の間隔で発振を繰り返します。海底面や海底面下の地層面から屈折・反射して戻ってくる音をストリーマケーブルと呼ばれる受波装置で受け取ります。(略)産総研で行う音波探査は、島弧や海溝軸の方向に直交する測線を2マイル間隔(約3.7 km)、その測線と直交する方向の測線を4マイル間隔(約7.4 km)で設定して(第2図)、高密度のデータの取得を行っています。〔後掲荒井〕
この調査船は多分、現段階で世界最先端装備を搭載する海洋資源調査船「白嶺」(はくれい:2012年就航)の前代船・第2白嶺丸です。同船最末期の仕事だったでしょう。人口音源による一次元の反射結果をこれだけの面を走査をしながら収集することで、海中地下の三次元構造を把握したものです。
2019GSJモデルの二つの知見:海盆とその生成過程
GSJの音響調査では地下の深部の硬い岩盤の下は分からないので、この探知限度の「音響的に強い反射面」を「音響基盤」と呼んでいます。2019分析は主に、この基盤の上の層序と、基盤露出部の方向性の二つのアプローチです。
GSJが南北の差として見出すのは、オレンジ色「うるま沖グループ」と呼ばれる堆積層の動向です。北部にも「うるま沖」はあるけれど、陸上にはほぼない。けれど南部では陸上でも表出します。
「うるま沖グループ」は音響上のグルーピングですけど、石灰質ナンノ化石年代解析により沖縄島南部陸域に分布する島尻層群に相当することが判明※。
荒井晃作・井上卓彦・佐藤智之(2018)沖縄島南部周辺海域海底地質図.海洋地質図,no. 90 (CD),産総研 地質調査総合センター.
泥岩中心の島尻層群は、農業土壌としてはジャーガル(下記リンク参照)に相当します。各専門分野の厳密な定義上は危険な言い方でしょうけど、素人なのであえて安直に対照させると──
「うるま沖グループ」
〔後掲荒井〕
【地学】(沖縄トラフ上の付加体)
【音響】うるま沖グループ
【地質】島尻層群
【土壌】ジャーガル
という捉えで、南部の地下の性格は、近似的には大間違いではないと思います。
本節初めに挙げた四万十帯が、沖縄本島を切断するラインがいわゆる沖縄中部、その南側が上記の性格を帯びる地塊です。
ではなぜ、決して広くはない沖縄本島がこんな複雑なことになっているのか。GSJはこの点に、音響基盤露出の方向性から一定の仮説を示します。
琉球赤翡翠 「ト」字の地下構造
沖縄島の北部と南部は陸上の地質層序も相違点が認められることは知られていました(中江ほか,2010).ここで、後期中新世以降の沖縄島北部と南部に何が起こっていたのかを議論します.(略)音響基盤が海底面の浅いところに露出しているエリアは,沖縄島残波岬の南から慶良間諸島の方に続いていることが分かりました.沖縄島北部では音響基盤の露出は辺戸岬から鹿児島県与論島の方向に続きます.このことは,当時に形成された島弧の並びは,沖縄島南部では現在とは違っていたことを示しています.この島弧の並びの違いが,沖縄島南部陸域を含む広い範囲で厚い堆積層を生じさせたと考えられました.すなわち、フィリピン海プレートの沈み込みや沖縄トラフのリフティングの活動に伴う、後期中新世以降に生じた琉球弧の構造的な変形が起こり、プレート沈み込み境界の上盤側のプレート上の斜面域に形成される凹地状の地形(前弧海盆と呼びます)に、厚い堆積物をためる環境が形成されたと考えられます.第4図に後期中新世以降の島弧の軸の位置と厚い堆積層のたまった位置を示します.前弧海盆の位置は沖縄島の南部とその周辺海域に広がっていたと考えています.〔後掲荒井〕
大構造として大陸側:アジアプレートと太平洋側:フィリピン海プレートとのせめぎ合いがある中に、中構造としての弛みが形成したのが前弧海盆、つまり広義の沖縄トラフになるようです。
イメージとしては次の図が一番近かったけれど──この弛みに、小構造として堆積物が積まれたのが沖縄中南部、地名で言えば普天間基地以南の地形になるらしい。
これを二次元的に言えば、奄美から沖縄北部の島弧線、本島付近の地名としての荒井の表現では「沖縄島残波岬の南から慶良間諸島」線がまず存在します。これに15〜20度違えた枝が「ト」字を描いて、沖縄市から喜屋武岬方向に伸びます。
残波岬-慶良間ラインは、科学的に計測可能なものです。これに対し堆積盆のフィリピンプレート側=東側の縁ラインは、要するに弛みの範囲なので曖昧模糊としたものらしい。──いわば奄美-沖縄北部の基軸構造が、地学的な時間感覚では「ちょっと乱れた」結果だからでしょう。
先に地理的感覚たけで、次のラインを呈示したことがあります。ここで言う宮城島-久高島ラインが、堆積盆の東縁の一つに当たるようです。
次の図は地質レベルのものです。上記「首里-久高島ライン」はここでの「首里断層」に相当し、荒井モデルの残波岬-慶良間ラインにほぼ平行するものとして「天願断層」があります。これらは多分、地学的大構造の地理・地質レベルでの下位構造なのでしょう。
大きなレベルで言えるのは、沖縄本島中南部に形成されている「ト」字の断層構造の、右下部の狭間の堆積層が最もなだらかな陸地景観を成している、微妙なバランスの上に成立した稀有な状況が、いわゆる沖縄南部の緩い丘陵地形だということです。これほど複雑な地学的力学の交差点に、この位に程よい人間の生活環境が乗っかってるのは、一種の奇跡です。
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