FASE97-2@deflag.utinaR411withCoV-2_BA5.2#秋霖の漏る天 仰ぐルートビア\三重城

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原っぱ右手のレンガ混じりの石積み

0954原っぱ。右手一部に石垣,古さは感じない。レンガの廃材も使われているから,戦後有志が手作業で補修してきたのでしょうか。
拝所向こうをヒコーキが離陸していきました。
三重城見張らし場から西南西を見る

左手に見晴らし場所。屋良座森らしい石積みが軍用地の海岸に見えています。1004
屋良座森城跡とも思われる石積み

同南西の高地。がじゃんびら公園から北西に続く陸上自衛隊那覇駐屯地と思われる。

後背の高台も見渡せます。
本殿全体の立地

本殿。鳥居の向きからやや左手,北西を向く。
構造は古みがある。庇が一部欠けてます。花束と清酒の供え物。
正面の花供えと風貌

鉄製の扉が半分開いてて中に
「恵比寿大明神
金比良大明神
●●●大明神」と書かれた丸石。注連縄もあり祀り方はかなり内地風。
本殿左手の二つの「奉納」方石

左手に「奉納」と書かれた方石二つ。祭壇でしょうか?
本殿左手斜め後方。亀裂が酷い。

社後方(海側)の茂み

1017祠後方の位置に茂み。聖域でしょうか?青いヒルガオが二輪。
三重城本殿から北東への浜

ここから沖には石積みが連なる。補修が何度も施されているらしく,これも古いか否か断じにくい。
那覇港に入港する船一隻,出航する船一隻

1023念のため横手の階段から降りると窪みに丸石の

左手階段下の丸石祠

「五臓神」記名とその祀られ方

祠。「五臓神」と記名?なぜこの神なのか想像もつかない。1971年建立とある。
ここからは帰れなかった。岩陰で釣りをしてるオヤジ。警備員のユニフォームだからサボリかな?

左手階段下からの北方向の眺め
那覇港〜辻間の郊外店舗群

辻南公園を南側より

1051辻南公園。ここにも祠。正面の社は金柵と木扉で封じられてる。左手に祠,神体は丸石。さらに左手に小さな祠二つ。
北側(南面)の祠群

うち真ん中の祠

赤骨汁のお膳

1101宮良そば那覇店
赤骨汁500
やや苦戦してるらしく(場所柄当然ではあるけど……)中味汁を新発売!どんどん元のそば屋から離れてますけど……。
千切り唐辛子にコーレーグース,さらに生姜を入れるとかなり複合的な辛さになります。
赤骨汁の野菜と汁と

(後半戦)赤骨汁の汁に浮く前半戦で落ちたホロホロ肉

「浦添店ホームページより全国発送の注文が出来るようになりました!!!」
「宮良そば 公式」で検索
この中に骨汁4食セットあり。3500円,5食4000円。送料込かどうかは不詳。

前回確認済だったけど,今回は歩きだから……と再度使用した「沖縄式消毒剤」表示の……おそらく度のキツい泡盛。ナイチャーへの恨みの深い誰かの悪質なイタズラだと思われる。

エイサーの準備をする黒づくめ軍団を抜けた上山中学校脇に石垣。1157
上山中学校脇に続く石垣

上天妃とおじいの背中

上天妃宮を拝んで去る。1204
1221ゆいレール・県庁前駅ホーム。少し早いが(もう食えんし……)今日は混んでると見ました。

空港であてにしてたケンミン食堂は国際線側。エンダーも,何と空港食堂まで行列でした。こいつらが食べ終わったら搭乗手続きに雪崩こむ……さっさと手荷物をくぐることにしました。
昨日,コロナ感染はついに12万人。前回まで少なかった東北が赤くマークされてる。
空港の喫煙所から見る滑走路は水滴のお花畑が一面の満開。これでも十分,旅行神は空の漏れを控えてくれていたらしい。感謝感激雨霰。
 1739博多駅から乗り込んだ新幹線が動き出した。あ〜しんど!

龍がCHU!! I love OKINAWA──

■レポ:▼▲

葛飾北斎「琉球八景」中「臨海湖声(りんかいこせい)」〔後掲OKINAWA41〕
三重城より那覇港を望む(戦前,那覇市歴史博物館蔵)〔後掲沖縄伝統芸能の魂 マブイ〕

みぐすいくにぬぶてい
ていさちむちゃぎりば
はやふねのならひや
ちゅみどうみゆる

【漢字入】
三重城にのぼて
手巾もちやげれば
はやふにぬなれや
一目ど見ゆる

【和訳】
三重城に上って
手ぬぐいを振って見送ると、
船足は速く、
一目しかみえず(瞬く間に行ってしまった)。
〔後掲沖縄伝統芸能の魂 マブイ〕

 三重城は琉球王国時代より貿易港として栄えた那覇港北岸の沖合に築かれ、外敵から防衛するための城塞の役割を担っていました。
 やがて世の中も平和になると、海に突き出た長堤は船を見送る送迎場として利用されるようになります。〔後掲沖縄伝統芸能の魂 マブイ〕

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■レポ:三重城で実戦があったか?

 どうも…歩いてみて本気になれない気がしています。
 例えば、瀬戸内海の三原城や福山鞆城、さらには村上水軍本陣・能島などの同等期の海城と比較すると、正直…これで本当に戦争できたのか?という思いが濃くなってしまうのです。
 そのことをはっきりさせるには、実戦での戦績です。でも、三重城で実際に水軍を迎え撃ったという記録が、非常に少ないのです。

事例1:1609年 三重城琉球兵 島津侵略軍撃退!▲▼

 wiki/三重城には、沖縄ナショナリズム的にはビールでも飲みたくなる文章があります。何と、島津侵攻戦で一時的な勝利を収めたのです。

沖縄県立博物館蔵「琉球那覇港及首里城間之図」加筆〔後掲Smits Gregory 図7〕

※原文キャプション:The location of major defense centers and the Pearl Road connecting them. Sh Shin initiated this structure and later kings enhanced it.

By the middle of the sixteenth century, Ryukyu’s military had reached its full development, and Figure 4 illustrates its basic organization. One general point reflected in this diagram is that Sh Shin designed his military reforms in part to focus the kingdom’s resources on guarding the central organs of state, namely the port of Naha and Shuri Castle. A network of fortresses and roads throughout the Shuri-Naha area supported this military organization. Yarazamori Fortress and Mie Fortress were on opposite sides of the narrow entrance to Naha Harbor. An iron chain boom could be drawn between the two castles to close off the entrance to ships. Large-bore artillery pieces were concentrated in this area as well.
I Fortress, nearby but further into the harbor, functioned as the main arsenal, distributing weapons to the hiki soldiers as they assembled at their defensive positions. Tomi Fortress, deep inside the harbor, was the command and control center. The Pearl Road, built explicitly for military purposes, connected these fortresses to each other and to Shuri Castle.(29)〔後掲Smits Gregory〕

※原注 29 Uezato, “Guntai,” pp. 117-119; and Uezato “Ryky no kaki,” pp. 82-87.
※※google翻訳: 16世紀半ばまでに、琉球の軍事は完全に発展し、図4はその基本的な組織を示している。この図が示す一般的なポイントの一つは、尚真が軍事改革を設計する際、王国の資源を中央の国家機関、すなわち那覇港と首里城の守備に重点を置くことを意図していた点である。首里・那覇地域全体に広がる要塞と道路のネットワークがこの軍事組織を支えていた。矢臼森城(屋良座森城)と美栄城(三重城)は、那覇港の狭い入り口の反対側に位置していた。鉄製のチェーンブームを両城の間に張ることで、船の出入りを閉鎖することができた。この地域には大型砲も集中配置されていた。
 イオ(硫黄)要塞は港の近くにありますがさらに奥に位置し、主な兵器庫として機能し、防御位置に集まる火気兵たちに武器を配布しました。トミ要塞(豊見城)は港の奥深くにあり、指揮統制の中心でした。パールロード(真珠道)は軍事目的で明確に建設され、これらの要塞同士および首里城とを結んでいました。
※括弧内は引用者追記の漢字

 wiki/三重城の文章は、多くがこの記述の転記らしい。ただ一文、追加があり、

(もう一つの脚注を出典とするならば:Turnbull, Stephen. The Samurai Capture a King: Okinawa 1609. Oxford, Osprey Publishing, 2009. Page 26-29, 40-43, 46-47.)

「三重城は2つの城のうち小さい方だが、7~9cmの大砲で武装していた。防御側は槍や国産のハンドキャノンで武装していた。これらの防御は海賊に対するものであったが、1609年の薩摩の琉球侵攻の際には、薩摩の艦隊を追い払うことに成功した。その後も海賊対策のために利用されたが、一般的には市民が船の出入を見るために利用されるようになった。」
とあります。最後の「薩摩艦隊を駆逐成功」という記述には驚愕しますけど、どういう意味かはよく分かりません。

「Examining the Myth of Ryukyuan Pacifism」アイコン〔前掲Smits Gregory〕

 ただ、別の英語の歴史ストーリーに次のような記述はありました。

In a final, ill-fated attempt to prevent the invaders from reaching the capital, General Goeku Ueekata sought to hold the Taihei Bridge, a narrow stone span at Tairabashi, with a mere 100 men. The Japanese decimated the holding force with gunfire, then beheaded one of its wounded officers, scattering defenders who had never witnessed volley harquebus fire, not to mention such naked brutality. The road to Shuri lay open.
Off the coast a few miles to the west, Kabayama’s fleet was far less successful in its attempt to secure Naha, the ultimate prize. On May 4 cannons from the Ryukyuans’ flanking fortresses pummeled Shimazu vessels, preventing Kabayama’s flagship from even nearing the imposing works. Manning the ramparts at Yarazamori, Jana Teido and 3,000 men repulsed the attack with cannon and small-arms fire. The invading ships quickly fell back out of range amid the exultant cheers of the defenders. Yet the shrewd invaders may have achieved exactly what they’d intended.
In deploying so many of Ryukyu’s limited forces to protect Naha, Sho Nei had left Shuri Castle vulnerable to the battle-hardened contingent of samurai marching down on it from Tairabashi. Kabayama’s abortive attack on the port froze the bulk of the Ryukyuan army in place when it should have been inland defending Shuri. The king would live to regret his mistake, but by the time his advisers realized what was afoot, it was too late.
On May 4 the Shimazu advanced uphill toward the red palace walls of Shuri, pausing only to rain fire on the ramparts. While Japanese harquebusiers effectively kept the defenders’ heads down, the ashigaru brought up scaling ladders. Samurai soon poured over the ramparts, taking Shuri’s lower baileys one after another.〔後掲HistoryNet〕

※google翻訳: 侵略者の都への到達を阻止しようとした最後の不運な試みとして、上方剛久将軍はわずか100人の兵力で大平橋(大平橋)を守ろうとした。日本軍は銃撃で守備部隊を壊滅させ、負傷した将校の一人を斬首し、ハルケバスの一斉射撃やあの露骨な残虐さを目撃したことのない守備隊を散り散らした。シュリへの道は開かれていた。
 西へ数マイルの沖合では、樺山の艦隊は最終的な戦利品である名覇の確保に大きく失敗した。5月4日、琉球の側面要塞からの砲撃が島津の艦艇を激しく打ち、樺山の旗艦がこの壮大な防御陣地に近づくことすらできなかった。ヤラザモリ(屋良座森)の城壁を守るジャナ・テイドと3,000人の兵士は大砲と小火器の射撃で攻撃を撃退した。侵攻艦は守備側の歓声の中、すぐに射程外へと退いた。しかし、抜け目のない侵略者たちはまさに彼らの意図した通りのことを成し遂げたのかもしれません。
 小ネイは、龍球の限られた兵力を多くあすじて那覇を守るために投入したことで、首里城を平橋から迫ってくる戦闘経験豊富な侍の部隊に対して脆弱な状態にしてしまった。樺山の港への攻撃は失敗に終わり、本来なら首里を守るべき内陸の琉球軍の大部分を動けなくさせた。王はその過ちを後悔することになるだろうが、側近たちが事態に気づいた時にはすでに手遅れだった。
 5月4日、島津は首里の赤い宮殿の城壁に向けて丘を登り、城壁に砲火を降らせるためだけに一時停止した。日本のハルケブッサーが守備隊の頭を下げて守り続ける一方で、足軽ははしごを登らせた。侍たちはすぐに城壁を越え、首里の下のベイリーを次々と奪取した。
※括弧内は引用者追記の漢字
※Harquebusier(ハークビジエ):15世紀から17世紀にかけてヨーロッパで人気があった火縄銃(ハーケバス)を使用する兵士
※ジャナ・テイド 首里城守将? ※ベイリー:外(城)壁

首里城を攻める島津兵ハルケブッサー〔後掲HistoryNet〕

 つまり、この物語の中では、島津勢は首里側が誇る那覇湊防衛線で敗退したように見せて、実はそれは陽動で、首里城を一気に落とした、ということになっています。このストーリーの波及で、「三重城で島津勢撃退」場面が沖縄ナショナリズムに成型されて構成されたのではないでしょうか?

While Shuri Castle sheltered Sho Nei and served as the seat of royal authority, the port of Naha, a few miles west, represented the vital artery through which trade and diplomacy were carried out. Realizing the growing importance of Naha, the court in 1546 had ordered the construction of harbor fortifications and a road to link Shuri with the port. Intended to defeat periodic attacks by pirates, the defenses at the time of the invasion comprised Yarazamori and Mie, sister stone fortresses that jutted into the sea on either side of the anchorage. Suspended between them was a giant iron net that defenders could lower to permit entry or raise to seal off the entrance.〔後掲HistoryNet〕

※google翻訳: 首里城が湘内を守り、王権の中心地として機能していた一方で、西に数マイル離れた那覇港は、貿易や外交が行われる重要な動脈でした。那覇の重要性の高まりを認識した朝廷は、1546年に首里と港を結ぶ港湾の要塞と道路の建設を命じた。侵攻時の防御は海賊の定期的な攻撃を撃退するため、両側に海に突き出た姉妹の石造要塞、ヤラザモリと三重で構成されていました。その間には巨大な鉄の網が吊るされ、守備側はそれを下ろして侵入を許したり、入口を封鎖するために上げたりできた。

 よく考えると、そんな目立つ「自主閉塞装置」を構築していたというのなら、試験運転か実戦かは何度か行われているはずです。

事例2:1554年 五代目王が倭寇撃退!!

 では、他に琉球王国軍が那覇湊を守って倭寇と戦闘した事例はあるでしょうか?--と後掲沖縄県埋文2008「琉球王国・首里城関係年表」を検索してみると、島津襲来の半世紀前、次の事例がありました。

1554年(天文23・嘉靖35・尚元1)尚元即位、倭寇来襲し尚元王、兵を率いてこれを破る〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター 2008/214-217枚目p201-204 附編2 琉球王国・首里城関係年表 215枚目p202〕

 三重城は記載されませんが、倭寇の来襲路は那覇湊から首里城のルートだった可能性が高いでしょうから、三重城付近が撃退ラインだったと想像されます。
 これは原文も見つかりました。明第12代嘉靖帝の明実録世宗実録に掲載されています。まず、沖縄県教委による書き下し。

(三六)嘉靖三十七年(一五五八)正月乙亥(二十六日) 是れより先、三十五年、倭冦浙直より敗れ還りて海に入り、琉球国の境上に至る。中山王世子尚元、兵を遣わし邀撃し、尽く之を殲し、中国の被虜の人金坤等六名を得。是に至り、陪臣蔡廷会等を遣わして入貢し、坤等を献還す。因りて言わく、 「遠夷窮島の入貢の使は、須らく夏令に乗じ、南の風迅に遇い始めて帰国するを得べし。乞うらくは、三十四年の例の如く、福建海口に于て毎歳自ら帰舟を修買するを行い、題請を候たざるを聴さんことを」。上、其の忠順を嘉し、之を許す。仍お勅を賜い奨諭し、銀五十両・綵幣四襲を賞す。獲功の人、馬必度及び廷会等、倶に厚く賜し之を遣かしむ。〔後掲沖縄県教委・琉球王国交流史/世宗実録 訳文篇(三六)嘉靖三十七年(一五五八)正月乙亥(二十六日)〕

 以下は原文です。マーカー部が対応しています。マーカー以外の部分は、その前後での「倭」字のヒット箇所です。

37 ○甲申 (略)全中升仙逢朋松皆先事被擒至期馬妖樹青白二旗放火縱掠兵備參政劉熹急督兵之賊潰走南潯官兵追及於雙林盡殲其獨馬祖師者逸去至是總督胡宗憲等以聞兵部覆議兩浙自倭患頻仍兵費浩繁求急迫民生日蹙是以人心搖惑釁易生故妖道一鼓流言向風嘯聚者旬日問以數千計今惡黨雖擒元凶未獲舟山逋逃反側觀釁宜急赦脅從而嚴捕馬祖師者以除亂本仍以其事功罪下巡按御史覆之詔可 巡按山東御史周斯盛勘上三十五年正月虜犯遼東義州大寧堡官軍功罪詔參將趙承懋指揮何良臣准贖鎮撫魯承勛千丁芝指揮雍爵各升二級指揮孫守禮劉國臣千史得和百北士連各升一級指揮鐘世威馬世臣量加給賞指揮等官史偉等五人下巡按御史逮治 命宣府西路左參將署都指揮僉事王尚忠充左副總兵官協守大同
41 ○己丑 旌表南直隸等處孝孫李九疇壽婦陳氏節婦楊氏烈婦胡氏 巡按直隸御史尚維持言頃浙直倭患 升下用部臣議許總督軍門開納級之例亦一時權宜計耳奈何土豪市逃軍罷吏向懼罪自匿者皆得竊金驕人於白晝大都而軍前未見協濟之實充軍下死罪一等非凶惡不輕坐而亦令納銀自贖罷間官若呂希周孝輩不複知有名節久矣而亦效用軍門恣其削得旨近因倭患暫許督撫等官便宜行事各官任意行私原發空頭札付悉收回其冒濫朦朧給授者巡按御史悉追奪治罪充軍不准贖業有成命何得擅違其禁之罷閒官以贊畫為名生事害民者悉令革回閒住 升四川松潘副總兵官署都指揮僉事許信為署都督僉事僉書南京前軍都督府事
57 嘉靖三十七年正月(略)
64 ○庚申
66 ○倭犯廣東潮洲之駝浦攻蓬州千所破之
82 ○先是三十五年倭寇自浙直敗【注】還入海至琉球國境上中山王世子尚元遣兵邀盡殲之得中國被虜人金坤等六名至是遣陪臣蔡廷會等入貢獻還坤等因言遠夷窮島入貢之使乘夏令遇南風迅始得歸國乞如三十四年例聽於福建海口自行修買歸舟不候題請 上嘉其忠順許之仍賜敕獎諭賞銀五十兩彩幣四襲獲功人馬必度及廷會等厚賜遣之
104 ○乙酉
105 ○廣東僉事萬仲分部水陸兵為東西哨攻倭臨敵而哨兵皆潰領哨千魏岳高洪死之〔中国哲学書電子化計画/明実録世宗実録/大明世宗肅皇帝實卷四百五十二〕

※番号は中国哲学書電子化計画付番
【注】原注(139)「三十五年、倭寇浙直より敗れ これがどの戦いをさすか特定はできないが、三十五年は倭寇に対して浙直総督胡宗憲の下で中国側が攻撃に転じ、八月にはほぼ鎮圧に至るという年である。この三月には、日本に本拠を置く徐海が、倭賊五、六万人を率い船千余隻で入寇する途中に暴風のため漂没したり舞い戻ったりするものが半数以上に及ぶということがあった。田中健夫『倭寇-海の歴史』教育社、1982年。」〔後掲沖縄県教委/和田他 139枚目p125〕

 見方を変えます。琉球王国軍の倭寇撃退を北京中央に伝えたのは琉球陪臣・蔡延会という人だったわけですけど、「世宗実録」にこの人の名は8箇所(付番)にヒットします(巻231/3(嘉靖26(1547)年)、巻452/46・82[上記]、巻482/5、巻331/3、巻452/46・82、巻482/5(嘉靖39(1560)年))。つまり、短く見ても13年に渡り東シナ海を往来した外交マンです。しかしながら、1556(嘉靖35)年以外には倭寇の撃退はもちろん、交戦譚は語られません。
 撃退者の名が「中山王世子尚元」と語られているように、第二尚氏五代尚元王はこの時、王冠を戴く前か、戴いた直後です。明朝が琉球に期待する「東シナ海の親明・反倭寇海上勢力」のイメージを、出来る限り大陸にアピールしようと必死だったのではないでしょうか?まるで、かの国の大統領を喜ばせるのに必死などこかの首相のようです。
「得中國被虜人金坤等六名」(中国の被虜の人金坤等六名を得)ということは、この時本当に尚元王子が倭寇を撃退したとしても、大した規模のものではないでしょう。蔡延会も新王に命じられて嫌々言上したのだけれど、その年の北京その他中国大陸が倭寇に慄いていたので、運悪く史書に書き残されてしまったのでしょう。蔡延会は多分、もう二度と明行政府でそんな「大ぼら」は吹かなかったのだと思われます。

威風堂々!鉄壁の防衛陣・三重城

 結論として申し上げたいのは、三重城その他の那覇湊の「防衛装置」は、概ね威嚇本意だということです。多分、実戦での経験値や戦闘力はありません。
 前掲のHistoryNetが推察しているように、首里城の環境で、西からの水路ルートで侵攻されるのは最も危険ではあったでしょうけれど、攻め上る他の陸路は無数にあるわけです。
 首里城は確かに要害です。でも、あの規模の城塞の防衛力を本当に発揮させるならば、万単位の守備兵とこれが長期間籠城する兵糧が必要だったでしょう。沖縄の城塞で長期の籠城戦が敢行された実例が全く伝わらないのは、そんなことができる環境は一例もなかったからです。庶民又は素人、もしくは百人単位の小勢力には「う~む、この城は陥とせないなあ」と思わせるだけの威嚇用の城塞。
 wiki/三重城の前掲文の末尾を再読します。
「…その後も海賊対策のために利用されたが、一般的には市民が船の出入を見るために利用されるようになった。」
 そんな防衛施設はありません。軍事機密ですから、市民が見物に来る縁日ではないのです。本当に鉄鎖巻き上げ装置を備えた機密設備ならば、例えば倭寇側のスパイが破壊工作に来ることが想定されたはずですから。

三重城は対岸の屋良座森城と共に那覇港の防衛ラインとして、1609年の島津侵攻以後は、出入り船の見送り場所として、1900年には、レンガ造りの灯台が設置され、2015年まで、海上交通情報の那覇信号所として利用された。〔後掲琉裁きもの専門学院〕

 多分、上記の状況が実態に近いと感じます。島津侵攻以降、見物用の観光地になった。もし侵攻時に一時的にでも脅威になったのならば、島津は戦後の米軍同様、ここに防衛拠点を築き閉鎖したはずです。

三重城 琉球新報社「写真集・懐かしき沖縄」より〔wiki/三重城〕

三重城の南西側で新たに見つかった階段=2025年12月11日〔後掲琉球新報〕

 那覇市文化財課は11日、琉球王国時代の16世紀中ごろに造営されたとりで「三重城(みーぐすく)」(那覇市西)の発掘調査で、当時のものとみられる石積みや階段が確認されたと発表した。〔後掲琉球新報〕

 この時の訪問直後ですけど、那覇市は、1924~25年にかけて三重城を発掘調査しています。1925年末に現地での発掘調査成果が公開されていますから、報告書の発表も近いと思われます。

※ 全国自治体情報(公開日: 2025年12月05日)「那覇の街中に眠る『三重城』の謎に迫る!発掘調査成果、現地で特別公開」 URL=https://city.pier.news/article/140676#gsc.tab=0
 「沖縄県 那覇市  公開日: 2025年12月05日 那覇の街中に眠る「三重城」の謎に迫る!発掘調査成果、現地で特別公開
令和6年度および今年度に実施された三重城発掘調査の成果が、現地にて公開されます。那覇の街中に残る貴重な遺跡を、実際にその目で確かめることができる絶好の機会です。 開催日時:12月14日(日曜)」

 現段階では「石積みや石段」の発見にとどまっているように報道されていますから、防御施設として何かの解明がなされるとは限りませんけれど…この成果及びその専門家による分析が、かなり画期的な知見をもたらしてくれるものと期待します。
 それ以前、現時点での三重城にまつわる話は全て「物語」だと認知されます。

三重城(戦前)〔後掲那覇市歴史博物館〕

 
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〉〉〉〉〉参考資料 

(HIS)History Net by M.G. Haynes 7/7/2021 Samurai Invasion: Japan’s 1609 Conquest of Ryukyu -An elite corps of Japan’s samurai warriors launched an assault on the island realm of Ryukyu in 1609
URL=https://historynet.com/japan-invasion-of-ryukyu/
(OKI)OKINAWA41/浮島のミーグスク【元琉球王族、尚家が語る沖縄への想い】
URL:https://www.okinawa41.go.jp/reports/26287
(SMI)Smits, Gregory. “Examining the Myth of Ryukyuan Pacifism”. Asia-Pacific Journal: Japan Focus. 2010.
URL=https://apjjf.org/gregory-smits/3409/article
  閲覧:2025.3.3
(おきなわけんき)沖縄県教育委員会 琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ 琉球王国交流史「歴代宝案編集参考資料
世宗実録 訳文篇(三六)嘉靖三十七年(一五五八)正月乙亥(二十六日)」
URL=https://ryuoki-archive.jp/ryu-detail/?kid=1116
/和田久徳・池谷望子・内田晶子・高瀬恭子「『明実録』の琉球史料(二)」
 PDF URL=https://ryuoki-archive.jp/mirror?url=https://ibmuseum.mapps.ne.jp/files/8355/pdf_files/2.pdf
(おきなわで)沖縄伝統芸能の魂 マブイ/「花風節」- 古典音楽
URL:https://mabui.jp/hanafuubushi/
(おきなわけんり)沖縄県立埋蔵文化財センター 2008 「真珠道跡─首里城跡真珠道地区発掘調査報告書(Ⅲ)─」2008年(平成20) 『沖縄県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書48:真珠道跡』
※全国文化財総覧 URL=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21993
(なはしれ)那覇市歴史博物館 三重城
URL=https://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/digital-museum/4/41142
(ちゆう)中国哲学書電子化計画 /明実録世宗実録 URL=https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=309093
(りゆうき)琉球新報(公開日時 2025年12月12日 05:00)「那覇港『三重城』に16世紀の石積み確認 琉球王国の防衛ライン 戦後初発掘」
URL=https://ryukyushimpo.jp/culture/entry-4862705.html
(りゆうさ)琉裁きもの専門学院(熊谷和)2025.12.14 21:53 三重城の石積み発掘の調査報告会:情報の共有
URL=https://www.unshin.okinawa/posts/58275842

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