FASE105-9@deflag.utinaR412withCoV-2_BF5#夕凪や うみんちゅ炉炭進る\❛資料集❜いちゅまんうみんちゅ

※糸満海人 「糸満」を現地では「いちゅまん」と呼ぶ。意味は諸説あり不明。知る限り,拗音「ゅ」を含む沖縄地名は極めて珍しいと思います※。

※ 沖縄県地名から拗音「ゅ」を含む読みを検索すると,「首里」(しゅり)及び地名に付する現代地名「中」(ちゅう)を除くと
①北中城村:仲順 ちゅんじゅん
②中城村:伊集 いじゅ
しか例がない。なお,
拗音「ゃ」(ex.謝名)または「ょ」(ex.諸志・許田)の読みの地名はやや多い。なお,現代中国語(北京語)の母音には「u」相当音がない(ピンイン「u」は正確には「a」「e」の中間音)。〔後掲どんとこい沖縄〕

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 後掲宮本中「糸満」ヒット:4箇所

 海人というとすべて女が海底にもぐってアワビをとるもののように思っているが、必ずしもそうではなかった。アワビがいないところではとりようがなかったわけである。そこでアワビをとらぬ海人もいたわけである。沖縄の糸満人のような海人はさしあたってその仲間だということになる。
(略)
 ところで、このもぐったものはどうも男だったらしく、内海の海人は女はあまりもぐらなかったのではないかと思われるのである。中にはもぐったものもあったかもわからないが、奈良時代になるとそういうことはすくなかったらしい。あるいは糸満人たちとおなじく、そのはじめから女はあまリもぐらない習慣をもっていたかとも思われる。「万葉集」では海人の女たちをよんだ歌を見ると、
 玉藻刈るあまおとめども見に行かむ船揖もがも浪高くとも(九三六)
 難波潟潮干に出でて玉藻刈るあまのおとめら汝が名告らさね(一七二六)
 これやこの名におう鳴門のうず潮に玉藻かるとうあまおとめども(三六三八)
〔後掲宮本,三 内海の海人の生活〕

 さて鐘ケ崎の海人は少弐氏の九州本土回復戦につくした功績によって、対馬周辺の漁業網漁の権利を正式にみとめてもらった。それによって宗氏と特別の関係をもつようになる。対馬にわたった者は、宗氏の重臣山下氏に統率せられ、宗氏のために日々の菜魚をおさめ、また海上の通信連絡にもあたり、宗氏の祖をまつきぶこばる木武古庭神社のまつりには山下氏にひきいられて特別参拝するようになった。そのように宗氏につよく結びつきながらも定住することなく、小屋掛けの生活をし、冬になると郷里へかえり、小屋には人かげもなかったという。しかも、夏もその小屋に定住しているのではなく、そこは足がかリにすぎず、そこからまた対馬周辺の海を船でかせいでまわった。
 宗氏からもらった書付によると、その漁業というのは網漁が主で、それも糸満人の漁法によく似たものであったらしい。船五艘くらいで組み、それぞれの船が網をつんでおリ、その網をつなぎあわせて大きくすることができるようになっている。そして網を海に張ると、船で悼や石を利用しながら魚をかりたてて網の中に追い入れ網をひきあげる。ときには海にとびこんで、ヤスで魚を追うこともあったらしい。この漁法をとるためには網をはる船が三艘、追い込む船や指図する船が二艘から四艘は必要であった。だから五艘から七艘で船団をくんでいた(略)〔後掲宮本,九 鐘ケ崎の海人〕

 いままで述べて来た瀬戸内海および九州北西の海人の生活や技術には多分に共通なものがあり、男女ともに一っ船で沖ではたらく風が見られるのであるが、海人のもっとも多い三重県志摩地方では、ごく近い過去に家船があったような様子は見えない。そこで往々にして北九州の海士とは別系統のもののようにいわれているが、必ずしもそうではないと考えられるのである。そして現在では女のみがもぐっているが、その昔は男ももぐっていたのではないかと思われる。現に中心をなす国崎は男ももぐっており、また長崎県五島の小値賀の海人が熊野から来たといういいったえがあり、熊野を姓とする家もあるが、小値賀の海人は男海士が主であり、海中でホコを使うことは実にたくみなので知られている。つまり糸満人や奄美大島の海人と相似たものがある。もしそうだとすると、志摩の海人もむかしは男もまたもぐり、ホコ突きなどをおこなっていたのではないかと思われる。わずかの資料であるから、にわかに断定できないけれども、もともとは共通したものであったのが、次第に女のもぐることのみが人の眼につくようになったのではなかろうか。〔後掲宮本,一三 志摩の海人〕

【糸満への漁業特化】

沖縄では漁業者(海人,ウミンチュ)のことをイチマナーと呼ぶことが多いように,漁業者の代名詞になっていることにある。〔後掲中楯/第4章 糸満漁民の発展 上田不二夫〕

治世の経済的基盤が土地つまり農業にあった封建社会においては,水産業は自給自足経済の補助産業の位置におかれ,水産物は,限定された狭い範囲内で孤立分散的に流通するほかはない。琉球王国時代の沖縄水産業も同様である。ただこの時代の沖縄水産業の特異な点は,対中国進貢貿易の中に鱶鰭や海参などの水産物が含まれ,その生産へ向けての糸満漁民による先進的な沖合漁業が成立していたことである。とはいえこのことは,ひとり糸満に漁業生産を特化させただけであって,水産業を奨励振興し,それを国内の生産-消費構造の中に組み込む政策にはつながっていかなかった。むしろ海を閉ざし,国民を土地に緊縛する政策,「勧農政策」が治世の中心政策であった。〔後掲中楯/第3章 沖縄漁業の変遷と水産業の位置 井手義則〕

糸満村ハ専ラ漁業ヲ営厶。首里那覇ノ魚蝦大半ハ此村二取ルト云。故二同村ハ島尻地方ニ在テハ第一ノ富村ナリト云〔明治15・16年地方巡察使復命書(我部政男編,上下巻)上巻p304←後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕

院長 日当間切ノ人ハ漁業致サスヤ
吏員曰 漁業ハ糸満人計リ参リ致スノミニテ当地ノ者ハ不致土地ノ者ハ先ツ農機ノ方専ラ宜キ見込ニ候〔明治15・16年地方巡察使復命書(我部政男編,上下巻)下巻p1812←後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕

【王国時代の漁業権】

 この「勧農政策」,農本主義政策の基底には,周期的な土地割替えを強制する「地割制」があった。一部に”仕明地”と呼ばれる私有地は存在したものの,基本的に土地の私的所有が認められず,しかも,地割制度による土地移動が強制された結果,海は,沿海部の村落民にとってすら継続的な”生産の場”とはなりえなかったし,農業と体系を異にする生産熟練,技術の蓄積や生産手段の改良を不可欠とする漁業の発展,展開は望むべくもなかったといえる。したがって,この農本主義の「間隙をぬって……各地先に入漁でき……いわば『漁業の空白地帯』である県下各漁場へ出漁できた」(17)糸満漁業が,沖縄漁業の代名詞化するのは当然であった。〔後掲中楯/第3章 沖縄漁業の変遷と水産業の位置 井手義則〕※原注17 上田不二夫「戦前における糸満漁業の発展過程について」『沖縄歴史研究 11号』31p

琉球王朝時代から王府は地先漁場に対して海の境界ともいうべき「海方切」(ウミホウギリ)を定め,各村海(または部落海)の利用に関しては地先の権利を強力に認めていた。そのため,地先漁場への入漁に際しては糸満といえども難しく,種々の条件がついた上に1902年(明治35),漁業法の施行以後は漁業権の設定によってさらに締め出される傾向にあった。したがって,糸満漁業はそれらの問題を解決していくために,奄美に代表されるような”漁業の空白地帯”を求めて横への拡がりをしていくところに第1の特徴がみられる。第2に,沖縄のもつ自然的・地理的諸条件および販売市場の未成熟さが県外出稼漁の発生を必然的にしたということにある。本土では動力化を背景にした漁船の大型化,漁業の沖合化の時代に,沖縄のサンゴ礁という地形は港湾整備の面でマイナスの要因になったことがあげられる。〔後掲中楯/第4章 糸満漁民の発展 上田不二夫〕

【王国時代の林業優先政策】

漁業の基本的生産手段たる漁船の製造制限政策が存在したことである。
『沖縄県水産一班』で木村八十八は,「農業林業は古来之に制度を立て制限奨励共に尽せりと雖も漁業に至りては藩政一の制度の設なく却て林業保護の為め間接に漁業を禁制したるかの嫌なきにあらず即ち元文二年(1737年──筆者注)……設定せられたる所謂漁船定数の制を施し置県当時迄行はれたり」(18)と述べ,(略)この林業保護政策を確立したのも蔡温であり,先に引用した元文二年(1737)に「松山法式帳」,「山奉行所規模帳」を公布したのを手始めに,次々と7つの林政指導書を出し造林に力を注いでいる。その結果,「漁獲用・運搬用の刳船についても,大木ははじめから禁止され,1742年(寛保二),御用木でもずい木(中が空洞になった木)は許可されたが,これも45年には禁止され,雑木を材料にした舟しかつくれなかった」(19)のであり,下って藩政時代においても,「船舶の事は……大木伐採を制限するために,各間切島村の造船を制限して『定数船舶』と称し,其造船の手続き,及び林産物の搬出につきては,厳重なる取締」(20)が続けられた。〔後掲中楯/第3章 沖縄漁業の変遷と水産業の位置 井手義則〕
※原注18 木村前掲書p8
19 宮城栄昌「沖縄の歴史」p116
20 真境名安興「沖縄現代史」p324

蔡温はその著『平時家内(チネー)物語』(1749年)のなかで,農民の心得を次のように説いている。これは具志頭間切総地頭の地位にあった蔡温が,間切人民に布達したもので(略)「海辺之百姓者少々魚ヲ取候而終日海辺ニ罷出家業之働致油断其漸々致衰微候儀笑止千万ニ候漁猟かって之作方占抜群相増候働ハ其通ニ候左様ニハ無之徒ニ海辺ニ出ケ間敷手隙ヲ費候儀不計得至極ニ候此儀思慮可有之候」(『沖縄県史料』前近代Ⅰ,1981年,沖縄県教育委員会)とある。〔後掲中楯/第4章 糸満漁民の発展 上田不二夫〕

【俵物生産専業】

 薩摩の琉球支配以降,薩摩が財政再建策の一環として打ち出した中国貿易を契機として,糸満は,中国人が欲しがる海産物の採捕を行っている(昭和51年度・沖縄県農林水産部水産課「沖縄水産業のあらまし」,4ページ)。糸満の鱶釣り漁業がこれである。中国で鱶の鰭が珍重されていたのは、古くから知られている。沖縄から中国へ鱶が輸出された記録は,足利時代の永寧6年(1434),「沙魚皮(鮫皮)4200張」とあるのが初見とされている。九州で鱶釣り漁村として名をなしていた大分県佐賀関は,安政3年(1856)以降,同漁法が本格的な発展段階に入ったとされている(同上書,5ページ)。これに対し,沖縄でのそれは,既述のように,明との勘合貿易が始まった段階にまでさかのぼることが出来るので,古い歴史をもつことになる。〔後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕

【組織】

糸満へ売られて来て苦労した人は皆成功している。糸満に来て,人のやらない漁業を習い,雇主と一緒に,鹿児島,五島列島,隠岐島など,各地へ出かけて漁業をやった経験が,いつの間にか,一人前の漁師として自活出来る能力を身に着けてしまう(ママ)。男の雇子には,沖縄本島北部の国頭郡本部町,伊平屋島,伊是名島,与論島などの出身者が多く,その99パーセントは漁業に従事していた。沖縄では,各地に追込み網漁が発達している。それは糸満の分村によるものであり、かつ,追込み網の雇子がもたらしたものである〔上原孝栄(前糸満市役所職員)聞き取り←後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕

【海外出漁】

例えば,マニラ行きの場合,汽船に乗って,体だけ向こうへ行く。こちらからサバニを作る人を連れて行った。現地で7艘から10艘のサバニを作り,それらが一組になって(1艘の船に4人乗り込むので,10艘の場合,約40人),共同で魚を網に追い込んでとった。糸満の漁民が魚をとったあとは,ホーキで掃いたように,魚がいなくなるといわれたそうである。〔後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕

本格的な海外出漁は大正時代の後半以降である。この時期の海外出漁は,大規模かつ特異なものであった。第1に,出漁範囲が広く,昭和4年頃にはアフリカ東海岸のザンジバルにまで達している。第2に,漁業者の数も多く,シンガポールに例をとれば,昭和10年,同地の日本人漁業者約1,000人のうち800人余りが沖縄県人であった。海外出漁といっても,南洋諸島がその大半を占めていた。南洋諸島は沖縄に似て珊瑚礁漁場であったこともあって,燎原の火の如く,またたく間に拡がった。しかも,沖縄独自の追込網は,機械力を駆使する現代漁法も及ばぬほどの成果をあげ,シンガポールやジャカルタ等の鮮魚供給を一手に引き受けていた。南洋方面で成功している漁業は,沖縄県人による追込網であるといわれていたという(同上書※,6〜7ページ)。〔後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕※昭和51年度・沖縄県農林水産部水産課「沖縄水産業のあらまし」

【戦後密貿易】

沖縄では,終戦直後等のヤミ商売のことを〈食糧挺身隊〉,または〈三日益〉(みっかえき)といっていた。三日益とは,長く続けると警察につかまるという配慮に由来している。(略)その後,〈与那国商売〉・〈台湾商売〉・〈香港商売〉・〈三角商売〉(糸満-香港-鹿児島間の物々交換)へと発展している。糸満では,本土の廃船を買って,この商売を始めている。(略)特に,糸満では,台湾・香港との密貿易で活況を呈し(ママ),その取扱い商品や利潤などが,県内各地に及んでいたこともあって,〈沖縄の経済復興は糸満漁民の力による〉とさえいわれている。〔後掲中楯/第2章 糸満市糸満町の地域特性 益田庄三〕

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