目録
9 蛋民総論
関連(ことばぐすい)→定住革命
9-1 史料記載
……凡蜑極貧、衣皆鶉結。……〔周去非『嶺外代答』巻三・蜑蠻(中華書局、一九九九年)、一一五頁←後掲王2021.12 注2〕
……其犯廣東者、為蜑賊梁本豪勾引、勢尤猖獗。總督陳瑞集衆軍之、斬首千六百餘級、沈其船百餘艘、本豪亦授首。帝為告謝郊廟、宣捷受賀云。……〔張廷玉等撰『明史』卷三二二・日本傳(中華書局、一九八六年)、八三五六-八三五七頁←後掲王2021.12 注3〕
……曩有徐・鄭・石・馬四姓者、常擁戰船數百艘、流東西二江、殺戮慘甚。…〔屈大均『廣東新語』巻十八・舟語・蛋家艇(中華書局、一九九七年)、四八六頁 ※9-1-08-2で中國哲學書電子化計劃原文として再掲←後掲王2021.12 注4〕
周去非『嶺外代答』に「蜑民はきわめて貧困であり、服はぼろぼろである」(2)とあり、蜑民は一般に経済的に貧しい集団とされる。しかし、『明史』(3)と『廣東新語』(4)の記事によると、蜑民のなかでも、数百隻もの戦船を擁して蜑民集団を率いるような有力者もいたことが明らかである。また、『清實録』と廣州府諸縣の縣志には、いずれもこの反乱が蜑民中の有力者である周玉と李栄を指導者とした蜑民の集団によるものであることを記している。〔後掲王2021-12〕
蜑(蜒)(5)という語の文献上の初出は東晋においてであり、常の『華陽国志』巴志(6)に見られる。その後、蜑(蜒)という語は『南斉書』・『周書』・『隋書』などの史籍に散見している。ところが、それら史書に見える蜑(蜒)と後代の史料に見える水上蜑民には相違がある(7)。例えば、『隋書』巻29・地理志上に「蜀郡(現在の四川省成都市)にはさらに蠻がいる」(8)、巻31・地理志下に「長沙郡にはさらに夷蜒が入り混じってあって、その名は莫徭という」(9)と書かれ、同じく巻82・南蠻伝には「南蠻の雑類は、華人と錯居して、蜒といい、といい、俚といい、曰という。……山洞に随って居住しており、その祖先は所謂百越である」(10)とある。以上より、東晋から隋に至るまでの蜑(蜒)は穴居野所の少数民族であり、水上居住者の意味は全く見出されない。その居住地帯も巴蜀と華中にもっとも集中しており、粤桂に限られていない。即ち、荊湘巴蜀における陸居の蜑(蜒)と華南に生きる蜑民ないし水居の蜑民とは、系譜的につながらないものと考えられる。〔後掲王2021-03 2-3枚目 p48-49〕
7 この説に関して研究者は共通の理解を得ている。主な論著として、陳序經『民的研究』(商務印書館、1946年)、46-47頁;韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」(『厦門大学学報』第 5 期、1954年)、172頁;小川博「中国史上の蜑-蜑(蛋)についての諸学説の沿革について(五)」(『海事史研究』17号、1971年)、83-84頁;傅貴九「明清民考略」(『史学集刊』第 1 期、1990年)、16頁;蒋炳釗「蛋民的歴史来源及其文化遺存」(『広西民族研究』第 4 期、1998年)、78頁等。
8 魏徴等『隋書』巻29・地理上(斉魯書社、1982年)、830頁:蜀郡……又有蠻。
また、[ケモノ+延]の字をめぐって、『康熙字典』(巳集下・犬部・、16頁)の記す、あるいは蜒に作る。
9 前掲『隋書』巻31・地理志下、898頁:長沙郡,又雑有夷蜒,名曰莫徭。
10 前掲『隋書』巻82・南蠻伝、1831頁:南蠻雑類,与華人錯居,曰蜒,曰,曰俚,曰,……随山洞而居,古先所謂百越是也
(戸籍・徴税)
蜑戸、……自唐以來、計丁輸糧。明洪武初、編戸里長、蜀※河泊所、歳收魚課。……〔阮元修・陳昌斉纂『(道光)廣東通志』卷330・列傳63・嶺蠻(上海古籍出版社、2002年)、713頁←後掲王2023 注2〕
蜑民に対して朝廷は政策を定め、支配を実施した。その支配政策は唐代にまで遡ることができる。『(道光)廣東通志』卷330・列傳63・嶺蠻に「唐代以来、蜑丁の数を計って糧食を納めさせた」とあるように、唐朝廷は蜑民の人口を把握するとともに、これによって徴税の基礎を構築することを目指した(2)。しかしながら、徴税の具体的な状況については史料に乏しく、ここでは詳論できない。〔後掲王2023〕
蜑戸、縣所管、生在江海、居於舟船、随潮往来、捕魚為業。……〔楽史『太平[ウ/四/哀-、]宇記』巻157・嶺南道1・廣州新會縣(中華書局、2007年)、3021頁←後掲王2023 注3〕
閏十月丙午、罷廉州貢珠、縱蜑丁自便。……〔脱脱等撰『宋史』巻31・高宗本紀(中華書局、1986年)、586頁←後掲王2023 注4〕
紹興二十六年、罷廉州貢珠、散蜑丁。盖珠池之在廉州凡十[食余]、接交阯者水深百尺、而大珠生焉。蜑往採之、多為交人所取、又為大魚所害。至是、罷。……〔脱脱等撰『宋史』巻186・食貨志、4565頁←後掲王2023 注5〕
泰定元年七月癸卯、罷廣州・福建等處採珠蜑戸為民、仍免差税一年。……〔宋濂等撰『元史』巻29・泰定帝本紀(中華書局、1976年)、649頁←後掲王2023 注6〕
宋代になると、蜑民は縣によって支配された(3)。また、宋・元両王朝の統治者は蜑民たちに対して徭役を課していた。徭役の内容は、蜑民固有の職業とされた漁業に従って課せられた。蜑民は真珠を採取することに長けていたので、朝廷は蜑民に真珠の上納を命じていた。貢納については『宋史』に2箇所の記述がある。その1つは巻31・高宗本紀に、「閏10月丙午に廉州(現在の廣西合浦縣廉州鎮)の貢珠を罷め、蜑丁を解放して自由にさせた」(4)とあり、もう1つは巻186・食貨志に、「(紹興)二十六年(1156)に廉州の貢珠を罷め、蜑丁を解散させた」(5)とある。また、『元史』巻29・泰定帝本紀にはつぎのように記す。「泰定元年(1324)7月癸卯に廣州、福建などの採
珠の蜑戸を罷め、民となし、1年分の賦税を免徐した」(6)。〔後掲王2023〕
(軍役)
廣州有蜑一種、名曰盧停、善水戰。……〔周去非『嶺外代答』巻3・蜑蠻(中華書局、1999年)、116頁←後掲王2023 注7〕
(宋恭宗時)区士衡上書丞相陳宜中、謂水軍蜑子、慣習鯨波、足以敵北兵〔史澄等纂『(光緒)廣州府志』巻114・列傳・區士衡(成文出版社、1966年)、35頁←後掲王2023 注8〕
(元世祖時)八月、平章不忽木等奏立湖廣安南行省、給二印、市蜑船百斛者千艘、用軍五萬六千五百七十人、糧三十五萬石、馬料二萬石、鹽二十一萬斤、預給軍官俸津、遣軍人水手人鈔二錠、器仗凡七十餘萬事〔宋濂等撰『元史』巻209・安南傳、4650頁←後掲王2023 注8〕
(明太祖時)三月、命南雄侯趙庸籍廣州蜑戸萬人為水軍。〔史澄等纂『(光緒)廣州府志』巻78・前事略4、349頁←後掲王2023 注9〕
『嶺外代答』巻3・蜑蠻には、蜑民は水戦が得意であったということが書かれている(7)。宋恭宗、元世祖などの時期には、廣州などの蜑民を水軍としていた(8)。従って、兵役も蜑民が負っていた役務と言える。このことから、北宋以後、朝廷が蜑民に対して支配を加える記事が多くなり、各種の徭役が課されていたことがわかる。その役務の種類は主に真珠の上納と兵役にわけられると言えよう。
明代になると、朝廷はやはり蜑民を利用して水軍に編成しているが(9)、蜑民に対する中央王朝の支配政策はこの時期から著しく変化があった。具体的に言えば、明太祖が河泊所を置いて蜑民を治めさせるようになったことである。かつ政令により、蜑民より魚課(漁業税)を徴収することを河泊所の主要任務とした(10)。それゆえ、蜑民魚課の徴収機関である河泊所についての研究を行うことは、明朝廷による蜑民への支配政策を把握するために意義がある。〔後掲王2023〕
※原注 10 陳序經『民的研究』(商務印書館、1946年)、96頁。また、前注2を参照。
9-1-xx 広東新語とその性格
9-1-99
呉建新の研究に基づけば、『広東新語』の成書時期は最も早くて康熙二十六年の秋分頃と思われる。(略)
この書物には計11箇所の蜑民関係史料があり、広東の蜑民の日常生活、風俗習慣さらには朝廷による蜑民の統制などの記述が多く含まれている。史料として大きな価値を有するため、後世の文人の書籍・地方志及び論考は多くこれらの史料を引用した。例えば、『粤中見聞』・『南越筆記』・『羊城古鈔』・『粤遊小志』四書の蜑民関係史料の記事はほぼ『広東新語』から転載した二次史料に過ぎないことがわかる。それらは清代における広東地方を知るためには有用な書籍と考えてよいが、蜑民関係史料を用いる場合には、第一に『広東新語』を参照すべきである。一方、蜑盗の問題と蜑民への管制について屈大均は崇禎期の新安知県周希曜の「條議」を摘記しているが、記事の内容は屈大均の著作の方が詳しい。以上の考察から、『広東新語』中の11点の蜑民史料が貴重である事は疑いない。しかし、本稿の検討に基づけば、『広東新語』にみられる蜑民関係史料には漁課の上納のことが不明であるなどの限界がある。また蜑民への呼称に対する言葉遣いから見る限り、多少の軽蔑を含む傾向が見られる。さらに、先人の記事を引用した部分が含まれるため、必ずしも全ての蜑民関係史料が屈大均が生きた時期の状況を反映しているものとは言い切れない。〔後掲王2021-01〕
屈大均は明の遺民として清朝に対する抵抗の生涯を送った。その反清思想も彼の著作の内容に反映されている。例えば、『広東新語』の「沙田」(27)及び「遷海」(28)において、屈大均は清朝廷の遷界令を批判しており、また清の年号を使っていない。そのため、雍正・乾隆年間に至ると、屈大均の文字の獄が発生した。屈大均の著書は禁書となって、しかも後裔をも巻き添えにした(29)。(略)こうした事情から、『広東新語』の現存版本は極めて少なく、康熙三十九年(1700)木天閣(30)原刻本と乾隆年間水天閣翻刻本があるのみである。しかしながら、後者には誤りが多数存在しており、木天閣を水天閣に書き間違えてさえいる(31)。〔後掲王2021-01〕
28 前掲『広東新語』巻2・地語・63條、57-58頁:……歳壬寅二月,忽有遷民之令,滿洲科爾坤、介山二大人者,親行邊徼,令濱海民悉徙内地五十里,以絶接濟台灣之患。於是麾兵折界,期三日盡夷其地,空其人民。棄貲携累,倉卒奔逃,野外露栖,死亡載道者,以數十萬計。……自有東以來,生靈之禍,莫慘於此。……
29 屈大均の文字の獄及びその後裔が文字の獄の巻き添えとなったことについて、『清代文字獄』第二輯・屈大均詩文及雨花臺衣冠塚案[雍正八(1730)年十月起乾隆四十(1775)年三月止本案係雍乾兩朝者]、傅泰奏屈明洪(屈大均の長男)印投監折(批諭旨)、李侍堯德保奏據屈大均詩文摺(軍機處)、李侍堯德保奏據屈大均廣東新語並査文外摺(軍機處)、李侍堯德保奏審擬屈稔屈昭泗(屈大均の同族)情形摺(軍機處)、屈稔屈昭泗供單(軍機處)、屈大均詩文止須銷毀屈稔等不必治罪諭(實 東華 聖訓聖德門 卷三)、高晉奏屈大均所葬衣冠處之雨花臺摺(軍機處)等(上海書店出版社、2011年)、129-140頁を参照。
30 木天閣とは、元々学士の居所、天子の書籍を所蔵する庫のことである。ただし、ここでの木天閣は広州木天閣書坊を指す。
31 汪宗衍『屈大均年譜』欧初等編『屈大均全集・第1冊』人民文学出版社、1996年 、前言の7頁;前掲『広東新語』、前言の2頁。
(生活)
史料6「蜑民は黒い入れ墨をして海に潜ることを試みた(蛋人嘗玄身没海)」・史料7「蜑民は船を家とする(蛋以艇為家)」及び「潜水が得意な蜑民……蜑民は長縄に繋いだ鎗を海鰌の子に飛ばして刺す(善沒水……蛋人輒以長繩鎗飛刺海鰌)」・史料9「水中で真珠を採る者(入水採珠貝)」・史料10「魚を多く食べる(以多食魚)」・史料11「蜆を採り、蝦を捕る(取蜆、取蝦)」の記載からみれば、広東の蜑民は船に住み、魚を食と為し、漁業を主たる生計とした生活をしてきたものと見られる。真珠や貝類を取って暮らしをたてていた蜑民が存在しており、また彼らは捕鯨にも従事していたことがわかる(47)。史料8「出て行けなくなって死亡した者もいる(穴中不能出而死)」は、船を河海へ出すことの危険度が極めて高いことを示している。さらに真珠などを採るために、蜑民は水中に潜ることも多かった。水中作業には危険が伴うため(48)、潜水技術に熟練していたとしても、遭難する可能性がある。このように、蜑民の生活は決して安全なものとは言い難い。〔後掲王2021-01〕
廣東沿海軍民蛋戸,賴私煎鹽斤為生,許令盡數報官,於附近塲分減半納課,以補無之數。鹽課提舉司給與批文執照,有不報官貨賣私鹽者充軍。〔注47 広東の沿海で製塩業を営んでいた蜑民もいた。:申時行等修・趙用賢等纂『(萬)大明會典』巻34『續修四庫全書』789・史部・政書類(上海古籍出版社、1995年)、600頁←後掲王2021-01〕
蜑,海上水居蠻也。以舟楫為家,採海物為生。且生食之,入水能視,合浦珠池蚌蛤,惟蜑能没水探取。旁人以繩其腰,繩動搖則引而上,先煮毳衲極熱,出水急覆之,不然寒慄以死。或遇大魚蛟諸海怪,為鬣所觸,往往潰腹折肢,人見血一縷浮水面,知蜑死矣。〔注48-1 范成大『桂海虞衡志校注』巻13・志蠻(広西人民出版社、1986年)、118頁←後掲王2021-01〕
珠蚌生在数十丈水中,取之必以繩引而縋人而下。氣欲,則掣動其繩。舟中人疾引而出,稍遲則七竅流血而死,或為惡魚所噬。〔注48-2 『広東新語』巻15・貨語・443條、413頁←後掲王2021-01〕
9-1-06
4 吾所寶者珠,在古時凡生男子多命曰珠兒,生女多曰珠娘。珠娘之可知者,交阯王之女曰珠,雙角山之女曰綠珠是也。(略)蛋人嘗玄身沒海,鑿石而得樹,樹上得蚌,蚌中得珠。予詩云:「家家養得採珠兒,兼採珊瑚石上枝。珠母多生珠子樹,海中攀折少人知。」〔卷十五 貨語/珠←後掲中國哲學書電子化計劃〕
※採番は中國哲學書電子化計劃による。以下同じ。
〔史料6〕珠 蜑民は黒い入れ墨をして海に潜ることを試みていた(40)。〔注40 前掲『広東新語』巻15・貨語・443條、412・415頁←後掲王2021-01〕
9-1-07
1 廣之蒙衝戰艦勝於艚。(略)班首者,一舟之性命所,能倒上船,於望斗中以箭四面射,勢便,或銜刀挾盾,飛越敵艦,斬其帆檣;或同蛋人沒水鑿船,而乘間騰躍上船殺敵;或抱敵人入水淹溺之。其便捷多此類。(略)其上灘瀨者,曰水船,即也,亦曰竿船。叉二木於船首,以張帆席,故曰竿。竿即檣也。蛋人所居曰艇。孔鮒云:「小船謂之艇。」《釋名》云:「艇,其形徑梃,一人一人所行也。」盜舟曰龍艇,長四五丈,裸無篷蓋,數十人以橈撥之,奮迅如龍,最利攻。〔卷十八 舟語/戦船←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料7〕戦船 ある時は(戦船の)船長が蜑民と水中に潜って相手の船を掘る。(ママ)……蜑民の住んでいるところは艇と呼ばれる。孔鮒曰く:小船は艇というのである(41)。〔注41 前掲『広東新語』巻18・舟語・521條、480頁←後掲王2021-01〕
9-1-09
1 南海,龍之都會。古時入水采珠貝者,皆身面為龍子,使龍以為己類,不噬。在今日人與龍益習,諸龍率視之為矣。新安有龍穴洲,風雨即有龍起,去地不數丈,朱鬣金鱗,兩目燁燁如電,人與龍相視久之,弗畏也。其精華在浮沫,時噴薄如瀑泉如雨,爭承取之,稍緩則入地中矣,是為龍涎。或謂龍涎者,多積於海上枯木,如鳥遺,其色青黎,其腥,雜百和焚之,翠烟千結,蜿蜒蟠空,經時不散,可以剪分香縷,然多不真。從番舶來者,出大秦、波斯,於雨中焚之,爆有聲則真。蓋龍本純陽之精,故其氣香。又龍屬木,木之氣得太陽多者必香。故諸香以龍涎為最。得盂水徑撲其中,不落空外。龍以水為用,見水則精入焉。蓋龍用精則為雨,用氣則為雲。〔卷二十二 鱗語/戦船←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料9〕龍 南海は龍の多く集まるところである。昔、水中で真珠を採る者はみな全身に入れ墨を施し、龍の子に扮装した。龍から同類だとみなされて噛み食われないようにするのである。今日、人が龍に慣れ親しんできたので、龍戸(蜑民)はみな龍をやもりとみなすようになった(43)。〔注43 前掲『広東新語』巻22・鱗語・613條、545頁。←後掲王2021-01〕
9-1-10
1 之族有曰鰻,背有肉鬣連尾,無鱗,口有舌,腹白,大者長數尺,脂膏最多。其有脈錦紋者,名金絲鰻,善穿穴,冬時穴熱乃出,名走風。有曰白,以池塘中烏耳者為佳。有曰,質黑章,多涎沫,大者長二三尺,小者佳。有曰藤。其曰泥鰍,長二三寸,無鱗,以涎沫自染。曰魚,與泥鰍相似而多肉,與諸皆喜伏水土之下,味甘可以滋陰。大抵與魚相反,魚屬火可以滋陽,故蛋人多子,以多食魚。〔卷二十二 鱗語/←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料10〕 と魚の属性は概ね逆である。魚は火に属して男性の精力を滋養する。蜑民に子供の数が多いのは魚を多く食べるからである(44)。〔注44 前掲『広東新語』巻22・鱗語・628條、564頁。←後掲王2021-01〕
9-1-11
1 番禺海中有白蜆塘,自獅子塔至西江口,凡二百餘里,皆白蜆。二三月,南風起,霞氣蔽空,輙有白蜆子飛落,微細如塵,然落田輙死,落海中得鹹潮之力乃生,秋長冬肥,積至數丈乃撈取。予有謠云:「南風起,落蜆子。生於霧,成於水。北風,南風肥。厚至丈,取不稀。殷勤祭沙,莫使蜆子飛。」外有黑蜆、蜆,一名扁,遇風雨亦輙飛徙,蛋女率於黑沙泥處取之。貧者以為蔬,然味不如白蜆。凡生於海者曰白蜆,生於江者曰黑蜆、蜆,而金錂蜆者,生大海中獨珍。(略)
3 凡取蜆之蛋曰蜆,取蝦之蛋曰蝦籃,其富者則出洋皮取大魚。蜆之利,以白蜆塘為最,豪右家擅奪海中深澳以為塘。白蜆之所生,或多或少,視其人造化所至。蛋人佃其塘以取白蜆,亦復如之。故諺曰:「今年白蜆多,蛋家銀滿。」〔卷二十三 貝語/白蜆←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料11〕白蜆 蜑女はみな黒泥砂において蜆を採る。およそ蜆を採る蜑民は蜆[竹多]と呼ばれ、蝦を捕る蜑民は蝦籃と呼ばれる。その富者は遠海に出かけて大魚を捕る。白蜆の儲けは白蜆塘(45)が最も良い。豪家はほしいままに深い湾を奪って池塘を作る。白蜆の産量には多寡があるが、運によって定まるとみなされている。蜑民はこの池塘で作業をして白蜆を採るときにも、同様と考えた。故に「今年は白蜆が多いので、蜑民の銭もかごに一杯になる」という俗諺がある(46)。〔注46 前掲『広東新語』巻23・介語・647條、578-579頁←後掲王2021-01〕
※ その他文献にある「娼妓」に関する文章は、広東新語には見つからず、「専門的職業」とするのは伝説又は蔑視の一つであった可能性がある。
然蜑因生活困苦,故不少蜑女子投身此行業,清文廷式(1856-1904)〈臨江仙〉寫道:「一曲招郎才調好,閒聽蛋女琵琶。(48)」一般良家婦女即便嫻熟音律,也受限於禮教,斷不可能隨意彈奏,又曲調為〈招郎〉曲,其中寓意不言可也。〔後掲王2021-01〕
廣州珠江蜑船下七八千,皆以脂粉為生計。猝難禁也。蜑本海邊捕魚為業,能入海挺槍巨魚,其人處。脂粉為生者,亦以船為家,故冒其名,實非真蜑也。珠江甚闊,蜑船所聚長七、八裏,十層,皆植木以架船,雖大風動。中空水街,小船百往其間。客之上蜑船者,皆由小船渡。蜑妓買為己,十三、四即侍客,實罕有佳者。晨起面多色,傅粉後飲卯酒作微紅。七、八千船,日皆有客。小船之繞水街者,賣果食香品,竟夜也。餘守廣州時,制府嘗命餘禁之,余謂:「此風由已久。船十餘人恃以衣食,一旦其生計,此七、八萬人何處得食?且纏頭皆出富人,亦多益寡之一道也。」事遂已(49)。〔注49 清趙翼:〈廣東蜑船〉,《簷曝雜記》(北京:中華書局,1997 年),頁 62-63。←後掲王2021-01〕
(経済)
9-1-01
塘之地瀕海,凡朝夕市,販夫販婦,各以其所捕海鮮連筐而至。家之所有,則以錢易之;蛋人之所有,則以米易。予家近市亭,頗得厭飫。嘗為漁者歌云:「船公上檣望魚,船姥下水牽網。滿籃白飯花皆魚名,換酒洲邊相餉。」又云:「多烏耳,蠏盡膏。香粳換取,下爾春醪。」〔卷九 事語/廣州時序←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料1〕塘(番禺の北東の村、現在の広州市)塘は海に臨んでいる。およそ朝は無人で、夕には市ができ、行商人は捕獲した魚介を入れた籠を持ってやって来て、農民の物は貨幣で交換するが、蜑民の物は米で交換する(34)。〔注34 前掲『広東新語』巻2・地語・45條、45頁←後掲王2021-01〕
9-1-03
五月自朔至五日,以粽心草黍,卷以柊葉,以象陰陽包裹。浴女蘭湯,飲菖蒲雄醴,以辟不祥。士女乘舫,觀競渡海珠,買花果于蛋家女艇中。〔卷二 地語←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料3〕広州時序 五月朔日より五日に至るまで、……男女は船に乗り、海珠(現在の広州市の海珠区)にて行われる競漕を観て、蜑女の小舟において花果を買う(36)。〔注36 前掲『広東新語』巻9・事語・332條、299頁。←後掲王2021-01〕
(風俗)
史料4・史料8の冒頭によれば、蜑民男女の結婚は比較的自由で、未婚の蜑男は船尾に一盆の草を置き、未婚の蜑女は船尾に一盆の花を置き、この方式によって媒酌とする。また、結婚式の時には「蛮歌」を歌い競い、船で嫁を迎える。さらに、以上の二史料から見るに、同類結婚する場合は明記されているが、史料8には良民(49)と通婚しないと記している。なお、『(光緒)四會縣志』(50)・『(民国)陽春縣志』(51)などの文献においても、蜑民の間の婚俗に言及するが、良民との通婚の婚俗に関する記述は見あたらない。一方、明・王士性撰の『広志繹』巻5に、「婚姻においても蜑民が蜑民に嫁ぐ」(52)とある。従って、蜑民は同類結婚が基本であったと言ってよいだろう。
史料6・史料8「入水する時に全身に入れ墨をした(入水輒面文身)」・史料9は、蜑民の入れ墨の習慣について述べている。水中での作業には多大な危険が伴うため、蜑民は自分の経験に頼る以外に、全身に入れ墨をし、蛟龍の子に扮装して安全を祈った。この特殊な風俗習慣もまた良民から遠さかる要因となったと予想される。〔後掲王2021-01〕
50 陳志喆修・呉大猷纂『(光緒)四會縣志』上海書店出版社等編『中国地方志集成:広東府縣志輯』編1・輿地志・蜑(上海書店出版社、2003年)、127頁:……婚娶率以酒相餽遺,群婦子飲於洲塢岸側。是夕兩姓聯舟,多至數十,男婦互歌。……
51 藍榮熙修・呉英華纂『(民国)陽春縣志』上海書店出版社等編『中国地方志集成:広東府縣志輯』巻13・事紀・戸(上海書店出版社、2003年)、428頁:……婚配以歌相贈答,無冠履禮貌,不諳文字,以舟楫為家,捕魚為業,或編篷瀕水而居,不敢與齊民齒。……
52 王士性『広志繹』卷5(中華書局、1997年)、114頁:婚姻亦以蜑嫁蜑
9-1-04
3 潮人以土音唱南北曲者,曰潮州戲。潮音似,多有聲而無字,有一字而演為二三字,其歌輕婉,、廣相半。中有無其字而獨用聲口相授,曹好之以為新調者,亦曰歌。農者春時,婦子以數十計,往田挿秧,一老大鼓,鼓聲一通,羣歌競作,彌日不,是曰秧歌。南雄之俗,正月,婦女設茶酒于月下,罩以竹箕,以青覆之,以一箸倒挿箕上,左右二人之作書,問事吉凶,又畫花樣,謂之踏月。令未嫁幼女,且拜且唱,箕重時,神即來矣,謂之踏月歌。長樂婦女,中秋夕拜月,曰月姑,其歌曰月歌。蛋人亦喜唱歌,婚夕兩舟相合,男歌勝則牽女衣過舟也。黎人會集,則使歌郎開塲,唱一句,以兩指下上鼓,聽者齊鳴小鑼和之。其鼓如兩節竹而腰小,塗五色漆,描金作雜花,以帶懸肩上。歌郎畢唱,歌乃徐徐唱,鼓亦如歌郎。其歌大抵言男女之情,以樂神也。〔卷十二 詩語←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料4〕粤歌 蜑民は歌を歌うことも好きだ。結婚式の時には二隻の船を近付ける。男が歌に勝つと女の服を引いて船に迎える(37)。〔注37 前掲『広東新語』巻12・詩語・399條、361頁。←後掲王2021-01〕
9-1-08-1
1 諸蛋以艇為家,是曰蛋家。其有男未聘,則置盆艸于梢;女未受聘,則置盆花于梢,以致媒約。婚時以蠻歌相迎,男歌勝則奪女過舟。其女大者曰魚,小曰蜆妹。魚大而蜆小,故曰魚,而妹曰蜆云。蛋人善沒水,持刀槊水中與巨魚。見大魚在巖穴中,或與之嬉戲,撫摩鱗鬣,俟大魚口張,以長繩鈎鈎兩腮,牽之而出。或數十人張,則數人下水,誘引大魚入,舉,人隨之而上,亦常有被大魚啖者。或大魚還穴,橫塞穴口,己在穴中不能出而死者。海鰌長者亙百里,背常負子,蛋人輙以長繩鎗飛刺之。候海鰌子斃,出沙,取其脂,貨至萬錢。蛋婦女皆嗜生魚,能泅。昔時稱為龍者,以其入水輙面文身,以象蛟龍之子,行水中三四十里,不遭物害。今止名曰獺家,女為獺而男為龍,以其皆非人類也。然今廣州河泊所,額設蛋,有大、小、手、門、竹箔、簍箔、攤箔、大箔、小箔、大河箔、小河箔、背風箔、方網、輳網、旋網、竹、布、魚籃、蟹籃、大罟、竹等一十九色。(続)〔卷十八 舟語←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料8〕蜑家艇 諸蜑民は船を家とする。これを蜑家と呼ぶ。蜑民の男が未婚であれば、船尾に一鉢の草を置く。蜑民の女が未婚であれば、船尾に一鉢の花を置く。この方式によって媒酌とする。結婚式の時には蛮歌で迎える。男が歌に勝つと女を奪って船に迎える。その年上の女子は魚姉と言い、年下の女子は蜆妹と言う。魚は大きく蜆は小さいため、姉は魚と呼び、妹は蜆と呼ぶのである。潜水が得意な蜑民は毎度刀とほこを持って、巨魚と闘う。もし蜑民が岩礁の間に大魚を見かけたら、大魚と遊び戯れて鱗とひれを撫で、大魚が口を開くと、長縄に繋いだ鈎を大魚の両腮に引っ掛け、大魚を引いて水面に浮かべる。ある時は数十人が網を張り、数人が水に潜って大魚を網の中に誘い込む。人は魚網を取り込みながら、水面に浮かべる。かつて大魚に食べられた人もいる。あるいは、大魚が洞穴に戻って穴の入り口に横たわったため、出て行けなくなって死亡した者もいる。年長の海鰌(セミクジラ)は常にその子を背負って水中で百里も泳ぐ。蜑民は長縄に繋いだ鎗を海鰌の子に飛ばして刺す。海鰌の子が死ぬのを待ち、死んだことを確認したら、死体を砂浜に引き揚げ、脂肪を取り出す。その価格は万銭に至る。蜑民の婦女はみな生魚を食べることを好み、遊泳が得意である。昔、龍戸と呼ばれる者があり、入水する時に全身に入れ墨を施し、蛟龍の子に似せた。水中三四十里に入っても、大魚の害を避けられる。現在、その名は獺家という。女性は獺と称され、男性は龍と称される。みな人ではないとみなされたためである。しかし今広州の河泊所は大小、手、門、竹箔、簍箔、攤箔、大箔小箔、大河箔、小河箔、背風箔、方網、輳網、旋網、竹、布、魚籃、蟹籃、大罟、竹という十九種の蜑民を定め置いている。(続)〔注42 前掲『広東新語』巻18・舟語・527條、485-486頁。←後掲王2021-01〕
(続)計稽船,其魚課,亦皆以民視之矣。諸蛋亦漸知書,有居陸成村者,廣城西周、林是也。然良家不與通姻,以其性兇善盜,多為水禍患。曩有徐、鄭、石、馬四姓者,常擁戰船數百艘,流東西二江,殺戮慘甚。招撫後,復有紅旗、白旗等賊,皆蛋之梟黠。其婦女亦能跳盪力,把舵司,追奔逐利。人言居而偏忍,蛋居水而偏愚,未盡然也。故多盜,而海洋聚,多起蛋家。其船雜出江上,多寡無定,或十餘艇為一,或一二至十餘為一朋。朋則有數隨之魚,勢便輙行攻,為商旅害。秋成時,或即搶割田禾,農人有穫稻者,各以錢米與之,乃得出沙。其為暴若此。議者謂誠以十船為一甲,一甲長,三甲為一保,一保長,無論地僻船稀,零星獨釣,有無罟朋及大小船,皆使編成甲保,互結報名,自相覺察,按以一犯九坐之條,則奸舸難匿,而盜藪可清。然清船及澳艇,尤為先務。〔卷十八 舟語←後掲中國哲學書電子化計劃〕
(続)毎年、河泊所が戸籍に基づいて船を検査して漁課を徴収し、民と同じように扱っている。蜑民らは次第に文字を知るようになり、陸地に集住して村落をつくる蜑民も現れた。その場所は広州の城西の周と林がそれである。しかし良民は蜑民と通婚しない。それは蜑民が凶暴な性格でよく強奪を行い、水郷の禍害となったからである。かつて徐、鄭、石、馬の四姓があり、数百隻の戦船を所有していた。彼らは東江・西江で財貨を略奪し、多く平民を殺戮した。彼らが帰順した後、また紅旗・白旗などの海賊が現れたが、これらはみな蜑民の凶悪な者である。その婦人もよく戦闘を行い、船を操り、海を駆け回って利益を求める。「族は田畑に居てひたすら残忍で、蜑民は水上に居てひたすら愚かである」と言われるが、全くそうだというわけではない。広東は元来盗賊が多いが、海洋での劫掠は多く蜑民によって起こる。その船は江の水面に出没し、船数の多寡も一定でない。あるときは十余艇をもって一となり、あるときは一、二(大きな漁網の一種)ないし十分をもって一朋となる。毎朋に数隻の郷(香ともいう、小船)がついて魚を塩漬けにする。情勢が有利になると劫掠を行うため、旅商人の災いになっている。秋季収穫の時、すぐに農民の手から殻物を奪い取ることもある。稲を収穫した農民は、各々銭と米を蜑民に与えることによって、蜑民に沙田(河海の沿岸に設けた田)から出ていってもらえる。その暴虐さは以上の通りである。論者は「十船を一甲とし、一名の甲長を置く。三甲を一保とし、一名の保長を置く。辺鄙で船の少ないところや零細な漁民、大船及び小船の有無にかかわらず、みな保甲に編入される。名前を互いに知ることで、動きを相互に察知できる。ある蜑民が罪を犯した時は、同保甲の関係者が連座して処罰を受ける規定によって、奸船を隠せなくなり、盗賊を一掃することができる。船(四櫓六櫓は小、八櫓は大である)及び澳艇(小船)を取り除くことは、もっとも優先すべき急務だ」と言う(42)。〔注42 前掲『広東新語』巻18・舟語・527條、485-486頁。←後掲王2021-01〕
(統制:政府による管制)
史料2・史料8の後半部によれば、広東の蜑民は東、西江及び南部沿海域に集中していたが、その生活場所は固定してはいなかった。その原因としては、漁場が季節によって変わり、定住が望ましくなかったことが考えられる。また、蜑民は船に居住し、主に漁撈を営みながら生活してきた。しかしながら、時には生活に困った蜑民が盗賊と結んで、河海及び沿岸に出没して略奪を行っていた。政府は蜑民の動きを把握することが困難なため、広東に河泊所53を設けて蜑民を管理しようとした。更に、船を操ることに優れた蜑民は、現地の保甲に編入されることもあった。彼らは魚介類の採捕を生業とし、非常時には水軍に編入された。〔後掲王2021-01〕
9-1-02
廣中之盜,患在散而不在聚,患在無穴者,而不在有穴者。有穴者之盜少,而無穴者之盜多,則蛋家其一類也。蛋家本鯨鯢之族,其性嗜殺,彼其大艟小出沒波濤,江海之水道多岐,而罟朋之分合不測。又與水陸諸凶渠,相為連結,我哨船少則不能躡其踪跡,水軍少亦無以當其鋒。計必兵恆有餘於盜,毋使盜恆有餘於兵。又設為嚴法,如盜殺一人,則以一兵抵;殺一兵,則以一官償;一民舸,則奪一哨船之食。而責之功,晝夜巡行,惟盜是索。而蛋人則編以甲冊,假以水利,十艇為一隊,十隊為一長,畫川使守。畧倣洪武初以蛋人為水軍之制,擇其二三智勇者,為之大長,授以一官,俾得以軍律治其族,與哨船諸總,相為羽翼。又使諸縣富民,仍得朋造烏槽、橫江二船,專業漁鹽,有警則船人皆兵,分班守直。凡出外海制賊用烏槽,裏海制賊用橫江船。又使東西二江日夜諸長,皆為哨長,而勿征其餉。如此,則上無養兵之勞,而水師自足,一有事,旦暮可集矣。〔卷七 人語/蛋家賊》←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料2〕蜑家賊 広東内の盗賊について、その問題は散在していることにあって、集住していることではない。問題は住居のない者にあって、住居のある者ではない。住居のある者に盗賊は少ないが、住居のない者に盗賊は多い。即ち蜑民はその一種である。蜑民は元々海賊であり、その性は殺戮を嗜む。彼らは大船、小舟に乗って大波に出没する。江海の水道は危険であり、しかも蜑民の間の分合は予測できない。また、水陸の諸盗賊と結託している。我が巡視船が少ないと、盗賊を追跡することができない。水軍が少ないと、強力な盗賊を防ぐこともできない。常に盗賊より多くの兵士を配置させなければならない。決して盗賊が兵士より多くなってはいけない。また、厳しい法律を制定している。即ち、もし盗賊が民一人を殺したら、一兵士を処罰する。もし盗賊が一兵士を殺したら、一官を処罰する。もし盗賊が民船を略奪したら、一巡視船の食物を取り上げる。そして処罰された者に手柄を立てさせるため、昼夜を問わず巡行するよう命じる。こうしてこそ盗賊を粛清することができる。一方、蜑民は甲冊に編入させ、水上での優勢により、十艇ずつを一隊とし、十隊を一長とし、川ごとに分けて守備させている。おそらく洪武初に蜑民をもって水軍と為す制度をまねたものである。その中の二、三の智勇ある者を抜擢して大長と為し、官職を与える。軍律によってその族を治めさせ、巡視船などと相互に補佐する。また、諸県の富民を集めて烏槽、橫江の二種類の船を作らせる。平素は漁撈と製塩を生業とする。危険があれば船人が皆兵士になり、交替で当直する。およそ外海の盗賊を討つ時には烏槽を使う。内海の盗賊を討つ時には橫江を使う。また、東、西江において日・夜(渡船)の諸長をみな哨長とする。しかもその餉を徴収しない。こうすれば朝廷は兵士を養う苦労がなく、水師も自足できる。いったん事変があれば、直ちに集結することができる(35)。〔注35 前掲『広東新語』巻7・人語・260條、250頁。←後掲王2021-01〕
(圧迫と差別)
史料5・史料8は、蜑民が圧迫と差別を被った状況を伝える。史料5は地方の有力者が「漁課」という名目で蜑民の漁獲から搾取を行っていたことを示している。周知の通り、蜑民は昔から賎民の一つとみなされ、良民とは異なる待遇を受けてきた。史料8はまさに蜑民が差別を受けていたことを物語る。良民が蜑民と通婚しない理由として、蜑民の凶暴な性格や略奪を行うことが憎まれたからと推測される。しかも生活習性によって龍戸・獺家という呼称がある。ここには良民が蜑民を人ではないとみなす態度がうかがわれる。〔後掲王2021-01〕
9-1-05
1 廣為水國,人多以舟楫為食。益都孫氏云:「南海素封之家,水陸兩登。貧者浮家江海,入估人舟算緡。中婦賣魚,蕩至客舟前,忽以十數。弱齡男女,身手便利,即張羅竿首,畫釣泥中。、蟹、蜃、蛤之入,日給有餘,不須衣食父母。又舟人婦子,一手把舵筒,一手魚,中兒女在背上,日如負瓜瓠,搖櫓,批竹繩,兒女苦襁褓,索乳哭啼,恆不遑哺。地氣多燠,既省絮衣之半,跣足波濤,不履襪,或男女同屐。男子冬夏止一一襦,婦人量三益一布裙,如是則女恆餘布。地惟稻,土厚穫多,人日計米一升。加以魚、蚌、烏菱、蕉、橘、藷、芋,減炊米十可二三,如是則男有餘粟,故古稱饒富居甲焉。按吾廣多雜食物,而水居尤易為生。顧禾蟲之埠,蜆之塘,皆為有力者所奪。以漁課為名,而分畫東西江以據之,貧者不得沾丐餘潤焉。蛋人之蜆蝦籃,雖毫末皆有所主。海利雖饒,取於人不能取於天也。〔卷十四 食語/舟楫為食←後掲中國哲學書電子化計劃〕
〔史料5〕舟楫為食 吾が広東では食物が雑多で、水上に居住し生活することは特に容易である。けれども、禾蟲(ゴカイの一種)の埠、[虫雷]蜆の塘はすべて有力者に奪われた。有力者は漁課(漁業税)をもって名目となし、東、西江を分割して占拠する。貧しい者は海の利益を得られない。蜑民の中の蜆[竹/多]蝦籃(38)はたとえ僅かの物でも、すべてが主人に所属している。海の利益は豊饒であるが、人によって取られてしまうのであり、天によって取られるのではない(39)。〔注39 前掲『広東新語』巻14・食語・429條、395頁。前掲『広東新語』巻12・詩語・399條、361頁。←後掲王2021-01〕
3-2 河泊所
河泊所官、掌收魚税。閘官・官、掌啓閉蓄洩。洪武十五年定天下河泊所凡二百五十二。歳課糧五千石以上至萬石者、設官三人。千石以上設二人。三百石以上設一人。〔張廷玉等撰『明史』卷75・志第51・職官4・河泊所(中華書局、1984年)、1852頁←後掲王2023 注16〕
明代になると、直隸・湖廣(現在の湖北省と湖南省)・江西・浙江・福建・両廣・河北・雲南・四川に分布している漁戸はすべて河泊所の管轄下に置かれた(15)。『明史』に「河泊所の官は魚税を収めることを掌る。閘官・官が水門の開閉を制御する。洪武十五年(1382)、全国に凡そ252ヶ所の河泊所を定める。毎年徴収する糧食が5000石以上10000石に至るまでの河泊所は官3人を置き、1000石以上は2人を置き、300石以上は1人を置く」(16)と記してある。以上より、明朝廷は依然として河泊所を通じて漁戸より魚課を徴収したことがわかる。
(略)
明初において、廣東河泊所が即ち蜑民の支配機関となっていたことには疑いの余地がない。次に、現在のところ集められる史料を基に、明代における廣東河泊所の設立・廃止年代及び所在を表にまとめた。〔後掲王2023〕
設立年代/所在/典拠/廃止年代
洪武二年(1369)/惠州府河源縣/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/廃止年不詳
洪武四年(1371)/惠州府興寧縣/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/正統十三年(1448)
洪武初(具体年不詳)/瓊州府會同縣/『(正德)瓊台志』巻27・古蹟/景泰二年(1451)
洪武六年(1373)/瓊州府昌化縣/『(正德)瓊台志』巻27・古蹟/景泰二年(1451)
洪武十年(1377)/惠州府府屬/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/未廃止
洪武十年(1377)[20]/韶州府樂昌縣/『(嘉靖)韶州府志』巻6・古蹟/景泰七年(1456)
洪武十四年(1381)/廣州府清遠縣/『(民国)清遠縣志』巻15・古蹟/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十四年(1381)/廣州府香山縣/『(嘉靖)香山縣志』巻3・政事志・魚鹽/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十四年(1381)/廣州府新會縣/『(萬[厂/禾/禾/日])新會縣志』巻2・公署/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十四年(1381)/廣州府東莞縣/『(天順)東莞縣志』巻3・合屬衙門/萬[厂/禾/禾/日]元年(1573)[21]
洪武十四年(1381)/潮州府[掲-ヒ+|_ム]陽縣/『(嘉靖)潮州府志』巻2・建置志/景泰二年(1451)
洪武十四年(1381)/潮州府饒平縣東□村/『(嘉靖)潮州府志』巻2・建置志/景泰二年(1451)
洪武十四年(1381)/潮州府程郷縣/『(康熙)程郷縣志』巻3・版籍志・田賦/嘉靖十一年(1532)
洪武十四年(1381)/惠州府海豐縣/『(嘉靖)惠州府志』巻6・公署志/廃止年不詳
洪武十四年(1381)[22]/潮州府潮陽縣/『(隆慶)潮陽縣志』巻9・官署志・河泊/廃止年不詳
洪武十四年(1381)/肇慶府封川縣登[栄-ツ+サ]坊/『(天啓)封川縣志』巻5・建置/嘉靖十一年(1532)
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府四會縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府高要縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府陽江縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十六年以前(具体年不詳)/肇慶府德慶州/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府瓊山縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府澄邁縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府臨高縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府文昌縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府[イ+ク/厂/ル/言]州/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府萬州/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府崖州/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/嘉靖三十七年(1558)
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府陵水/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/景泰二年(1451)
洪武十六年以前(具体年不詳)/瓊州府感恩縣/『(正德)瓊台志』巻11・田賦・漁課/正統十三年(1448)
洪武十六年以前(具体年不詳)/惠州府龍川縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/惠州府博羅縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/惠州府歸善縣/『(康熙)歸善縣志』巻20・雜志・徭蛋/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府增城縣/『(乾隆)增城縣志』巻3・品族・徭蛋/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府南海縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府順德縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/廣州府番禺縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
洪武十六年以前(具体年不詳)/韶州府曲江縣河西下廂/『(光緒)曲江縣志』巻5・官舍・古署附/萬[厂/禾/禾/日]九年(1581)
洪武十六年以前(具体年不詳)/韶州府英德縣/『明英宗實録』巻116・正統九年五月丁巳/正統九年(1444)
洪武十六年以前(具体年不詳)/廉州府府屬/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/廉州府欽州/『(嘉靖)欽州志』巻4・職官/嘉靖十年(1531)
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府府屬/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府那黎/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/嘉靖三十五年(1556)
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府化州/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/廃止年不詳
洪武十六年以前(具体年不詳)/高州府呉川縣/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/隆慶元年(1567)
萬[厂/禾/禾/日]四年(1576)/潮州府澄海縣[魚ウ/ヒ]浦/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
萬[厂/禾/禾/日]四年(1576)/潮州府澄海縣東壟/『大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課/未廃止
21 また、一説には萬九年に廃止されたという。申時行等修・趙用賢等纂『(萬)大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課『續修四庫全書』789・史部・政書類(上海古籍出版社、1995年)、645頁:清遠縣河泊所、東莞縣河泊所、香山縣河泊所、新會河泊所、以上萬九年革。
22 また、一説には洪武二十七年に設けられたという。『(嘉靖)潮州府志』巻2 ・建置志(書目文献出版社、1991年)、194頁:河泊所、在縣治西和平村、洪武二十七年建
*出典:蔡逢恩修・林光斐纂『(同治)樂昌縣志』(成文出版社、1967年)、35頁;余鳳聲修・朱汝珍纂 『(民国)清遠縣志』(成文出版社、1967年)、227頁;張希京修・歐華纂 『(光緒)曲江縣志』(成文出版社、1967年)、80頁;黄一龍修・林大春纂『(隆慶)潮陽縣志』(上海古籍書店、1982年)、16頁;林希元輯『(隆慶)潮陽縣志』(上海古籍書店、1982年)、2頁;台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明英宗實録』(中文出版社、1984年)、3228頁;郭春震纂修『(嘉靖)潮州府志』 (書目文献出版社、1991年)、195・198頁;李修・劉梧纂『(嘉靖二十一年)惠州府志』(書目文献出版社、1991年)、76・79頁;劉廣聰纂『(康熙)程郷縣志』(書目文献出版社、1992年)、404頁;申時行等修・趙用賢等纂『(萬)大明會典』巻36・戸部23・課程5・魚課『續修四庫全書』789・史部・政書類(上海古籍出版社、1995年)、639・645-646頁;方尚祖纂修『(天啓)封川縣志』(海南出版社、2001年)、322頁;鄧遷纂・黄佐纂『(嘉靖)香山縣志』(嶺南美術出版社、2007年)、44頁;符錫纂修『(嘉靖)韶州府志』(嶺南美術出版社、2007年)、44頁;盧祥纂『(天順)東莞縣志』巻3・合屬衙門(嶺南美術出版社、2007年)、32頁;王命修・黄淳纂『(萬)新會縣志』(嶺南美術出版社、2007年)、103頁;連国桂修・章纂『(康熙)歸善縣志』(嶺南美術出版社、2009年)、240頁;唐冑修『(正德)瓊台志』(嶺南美術出版社、2009年)、152頁。
*廃止年代の欄の「廃止年不詳」は、古文献に河泊所を廃止した旨の記述があるが、具体的な廃止年代が記載されていないことを示す。「未廃止」は明末に至っても河泊所が置かれていることを示す。
(明河泊所の軍役強化とその失敗:王推定)
上の表の如く、明代における廣東河泊所の設立状況は、瓊州府11ヶ所、廣州府8ヶ所、惠州府7ヶ所、潮州府6ヶ所、肇慶府5ヶ所、高州府4ヶ所、韶州府3ヶ所、廉州府2ヶ所で、合計46ヶ所である。これらの河泊所の設置場所は拙稿で検討した廣東蜑民の分布地(23)とほぼ一致していることが明らかである。また、この46ヶ所のうちで、瓊州府の河泊所が最も多かったことが確認される。これは離島の瓊州府(現在の海南島)に生きる蜑民の支配を強めるためであると考えられる。
さらに、設立年代については、大部の廣東河泊所は洪武十六年(1383)以前に設けられたことが示されている。一方、正統年間(1436-1449)から景泰年間(1450-1457)にかけて廃止された河泊所が多いこともわかる。具体的には、瓊州府5ヶ所、廣州府4ヶ所、肇慶府4ヶ所、韶州3ヶ所、潮州府3ヶ所、高州府3ヶ所、惠州府2ヶ所、廉州府1ヶ所で、合計25ヶ所の河泊所が廃止された。また、その他に廃止された9ヶ所の河泊所については、具体的な廃止の年代は明らかでない。その廃止の原因に関して、尹玲玲の推測は、財政支出を削減するために魚課の収納が困難な河泊所を廃止したというものである(24)。尹の研究は重要な示唆を与えるが、更なる検討が必要である。〔後掲王2023〕
24 尹玲玲「明代的漁政制度及其變遷―以機構設置沿革為例」(『上海師範大学学報』第32卷・第1期、2003年)、97-98頁。
明初、沿海要地建衛所、設戰船、董以都司・巡視・副使等官、控制周密。〔張廷玉等撰『明史』卷322・列傳第210・外國3・日本傳、8352頁←後掲王2023 注25〕
命南雄侯趙庸籍廣州蜑戸萬人為水軍。時蜑人附海島、無定居、或為寇盜、故籍而用之〔台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明太祖實録』巻143・洪武十五年閏二月癸亥(中文出版社、1984年)、2252頁←後掲王2023 注26〕
永樂六年、命豐城侯李彬等海捕倭、復招島人・蜑戸・賈豎・漁丁為兵、防備益嚴。〔張廷玉等撰『明史』卷91・志第67・兵3・邊防海防民壯土兵、2244頁←後掲王2023 注26〕
永樂六年、命豐城侯李彬等海捕倭、復招島人・蜑戸・賈豎・漁丁為兵、防備益嚴。〔張廷玉等撰『明史』卷91・志第67・兵3・邊防海防民壯土兵、2244頁←後掲王2023 注27〕
廣東州河泊所奏:本所蜑民原額船網等業二千二百餘戸、後因充軍逃故、遺下無魚課米八百八十餘石。〔台湾中央研究院歴史語言研究所校印『明英宗實録』巻161・正統十二年十二月戊午(中文出版社、1984年)、3125頁←後掲王2023 注30〕
『明史』には「明の初めには、沿海の要地に衛所を建て戦船を設けた。都司・巡視・副使などの官を置き、(沿海の要地を)厳しく守った」(25)とあるが、『明太祖實録』等が記すように洪武・永楽両朝においてさらに廣東の蜑民を集めて水軍を組織していたことである(26)。また趙金娥によると、徴用された蜑民らは沿海の衛所水軍に所属していたという(27)。要するに、廣東の蜑民は衛所制(28)の統制下に置かれていたと考えられる。しかしながら、章栄玲によれば、正統三年(1438)になると、衛所の軍籍に属する者の生活が苦しくなり、衛所の軍政は益々廃弛したため、沿海の諸衛所の兵が大量に逃亡し、丁壮の徴用も困難となったという(29)。さらに『明英宗實録』正統十二年(1447)12月戊午に、「廣東[イ+ク/厂/ル/言]州(現在の海南省[イ+ク/厂/ル/言]州市)河泊所が奏するには、本所では漁を生業とする蜑民は元々2200余戸であった。その後、蜑民が兵役を避けようとして逃走したため、本所は880余石の魚課米を徴収できない。……」(30)という記事もある。この史料から、兵役からの逃亡により蜑民の戸数が減少した結果、魚課の徴収が困難になったことがわかる。以上のことから、正統・景泰年間(1436-1457)において多くの蜑民が衛所制下の重い兵役に苦しんで河泊所の支配から離脱したため、大部分の河泊所は存在する必要がなくなったのだろう。〔後掲王2023〕
28 衛所制は、明朝の軍事制度である。1郡の要害の地に所を設け、数郡にわたるところには衛を設けた。おおむね5600人を衛とし、その長官は都指揮使である。1120を千戸所、その長官は千戸である。112人を百戸所とし、その長官は百戸である。衛所の最小部隊10人の長官を小旗、50人の長官を総旗という。黄宗羲著・西田太一郎訳注『明夷待訪録―中国近代思想の萌芽―』(平凡社、1964年)、130-131頁。
29 章栄玲「明清廣東沿海所城的功能及演変」(『文博学刊』第3期、2018年)、106頁。
9-3 実数論
1953年の民族識別の調査によると、広東省の蜑民総数は90万人前後といい、[門>虫]江(60)下流の10キロの沿岸(福州市の大部分)には3731戸/17235人、長楽・永泰・南平などの 7 県には4219戸/10369人、梧州市には3441戸/18994人の蜑民がいる。また、香港における1961年センサスによれば、蜑民は20572戸/136802人であった61。以上の合計は約1083400人である。しかし、この数字は広東省、福建省の一部、香港・梧州に住んでいた蜑民の人数にすぎない。また、1930年代後半以降の戦乱で多数の流民が発生したため、新中国の初期は1920-1930年代に比べて蜑民人口がすくなかったと思われる。従って、梁啓超・陳序経が民国期の蜑民の概数を100~200万人と述べていたが、本稿もこれと同意見である。〔後掲王2021-03 13枚目 p59〕
61 前掲『広東民社会調査』、17頁;前掲徐心希「、粤、台三地民歴史考略―以福州民為中心」、84頁;秦璞・徐桂蘭『河与海珠』(黒竜江人民出版社、2009年)、17頁;岸佳央理「香港の「都市化」と水上居民:1961年センサスを中心に」(『人間文化創成科学論叢』第14巻、2011年)、52頁
蜑民の人口については、史料不足のゆえに、具体的な数を確定することは不可能である。だが、その概数は知ることができる。明清代の地方志などの文献からすると、明初における広東の高要・潮陽・香山・州四県の蜑民合計は約5661戸、広州の男性蜑民は少なくとも10000人であり、正統~萬年間における両広蜑民の合計戸数は約3300であった。清代における広東蜑民は少なく見積もれば約12752戸、多く見積もれば約15826戸、広西の蜑民は約428戸以上が存在した。民国に入ると、政府が人口調査を実施した。その結果は22万人にのぼるが、自ら公安局へ来て登記料を支払うことを要求するという不適切な方法から得られる蜑民人数は、実際より少ないに違いない。しかし、明清に比べて相当に多い数となっていることは確かである。新中国の初期に行われた民族識別をきっかけに、広東省、福建の一部及び梧州市に住む蜑民について調査が始まった。これらの報告結果を合計すると、93万人以上を数える。この調査が行われた1950年代のはじめは社会混乱の時期に当たるため、この人数はそれ以前を大幅に下回るものであろう。このことから、1930年代の戦乱期以前における全中国の蜑民は少なく見積もれば100万人、多く見積もれば200万程度と推察される。
蜑民の地域分布に関しては唐宋から明清にかけて変化があり、清末より民国にかけても変化があった。即ち、蜑民は明代以前においては広州・廉州・欽州・福州などの沿岸に集中していた。明清代では広東を中心にして広西の西江流域と福建の県・侯県及び沿海域に分布していた。清末の五港開港と香港島割譲に伴って広州・香港・厦門・福州の蜑民は激増したと推定される。民国になると、福建では江流域の沿岸、泉州湾と南沿海域に蜑民が分布する。広東では珠江流域と沿海一帯に多かった。広西では西江と北江に蜑民が存在する。新中国建国以後、政府による蜑民の陸上定住化政策が行われたため、蜑民の分布範囲は縮小し、人口も減少する。〔後掲王2021-03 20-21枚目 p66-67〕
アヘン戦争後、南京条約によって広州・厦門・福州・上海・寧波五港を開き、香港を割譲したことは蜑民の生活に新しい段階を開き、港湾への依存度を高くさせた(72)。すると、清末になって福建と広東の蜑民は厦門・福州・広州・香港により多く分布するようになった可能性がある。民国における蜑民の地域分布について、陳序經は「福建では沿海と江に蜑民が存在し、福州が最も多い。広東では蜑民の地理的分布は三つにわけられる。第一は珠江流域、広州を中心として、珠江の本流である西江・東江・北江にまたがり、その地域で蜑民が多いのは番禺・南海・三水・順徳・香山・新會・東莞の各県にわたる。第二は沿海一帯、東は汕頭より西は北海に及び、海南島の沿海一帯などのあたりにも分布している。かつて欽州・廉州・恵州の海岸に多かったが、現在は香港・澳門が多い。第三は韓江流域、韓江の上流に蜑民が多かったが、近年では大幅に減少している。その原因としては、韓江の水流が浅くて激しくなったためと考えられる。もしくは客家と潮州人が蜑民の生業をうばったことであろう。広西では梧州から南寧に至るまでの大江、及び梧州から柳州にかけての北江に蜑民の足跡がある」73と述べている。この見解は概ね同意できるが、本節の検討結果に基つき、蜑民の分布地域をさらに加えることができる。民国期の福建省人口調査が示しているように、福州を中心とする江流域の河岸・海岸と泉州湾を中心とする泉州・興化、及び厦門や州を中心とする南沿海域の付近に多くの蜑民が集まっていた。さらに注目したいのは、福建蜑民の分布は江の上流一帯に位置する南平・建甌・順昌・光澤・建陽・泰寧に及んでいる点である。〔後掲王2021-03 19-20枚目 p65-66〕
35 谷川健一編『日本民俗文化資料集成(3)漂海民-家船と糸満』(三一書房、1992年)、318頁
07 陳序經『民的研究』(商務印書館、1946年)、46-47頁;韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」(『厦門大学学報』第 5 期、1954年)
9-4 近現代
其南江上又有曰蛋戸者、岸無室廬、耕鑿不事、男婦皆以舟楫為居、捕魚為業。舊時生齒頗衆、課隸河泊、近或苦於誅求、逼於盜賊、輒稍稍散去。或有棄舟楫入民間為傭保者矣〔黄一龍修・林大春纂『(隆慶)潮陽縣志』(上海古籍書店、1982年)巻8・風俗志・郷間之俗、3頁←後掲王2023 注52〕
蛋之苦、宣自今日哉。差遣頻、並逃籍求生、蓋自元已然矣。國朝正德間、蛋止三十二戸、乃漸增至三百餘。……嗣後興兵、差重逃亡、至什之九。……〔姚舜牡『来恩堂草』卷4・論蛋船(北京出版社、1997年)、71頁←後掲王2023 注52〕
萬九年秋八月行清丈法。珠賊殺永安所田千戸。後討斬之。縣原於附海地方設烏兔・多浪・村埠以居蜑民、捕魚課、後為流商所煽、造船盜珠。是年潛殺官兵。〔9 鍾喜修・江珣纂 『(民国)石城縣志』(成文出版社、1974年)巻10・紀述志下・事略、936頁←後掲王2023 注53〕
特に嘉靖朝以降、廣東蜑民の中にはこうした重圧を受けて、船を捨てて上陸して雇工(長工・短工)となったものがあった(52)。真珠を盗むことを生計とする者(53)や、倭寇・海寇と結んで民衆を劫掠する者も現れた。萬年間(1573-1620)には、明朝廷の圧迫に対抗する蜑民が反乱を起こすに至る〔後掲王2023〕
9-x 現代対応
定住を一義的に定義できないのと同様、「遊動民の定住化」がいかなる状態から別のいかなる状態への変化を意味するのか説明することは容易でない。定住用地・家屋の供給とそこへの移住の要請、居所登録の義務化、就学年齢に達した児童の通学提唱といったことに共通項が見られるとしても、もとの生活圏(や代替空間)において相対的に遊動的な生活・生業形態を部分的に維持することが許されるか否かについては、大きな偏差が認められるからである。たとえば、遊動民のもとの生活圏が他者と競合するような魅力的な空間である場合、そこは国家や他民族によって占拠・奪取され、遊動民はそこへの物理的な接近が拒まれることがある(この状況は、狩猟採集民・遊牧民・焼き畑農業民に多く見られる)。これに対し、アジアの船上生活者やヨーロッパのロマなどについては、河や海、都市の空き地といったもとの生活空間が広大で他者との共存が可能であったり、あるいは他者の目にはさほ
ど魅力的と映らなかったりすることから占拠・奪取の対象となりにくい傾向にある。この場合、もとの生活空間は物理的にはそのままに広がっているが、遊動民自身の動きが定住本位型の管理下におかれて、そこでの自由かつ越境的な移動が制限される状態にあるということになる。ここで理解しておくべきは、こうしたグラデーションのあるさまざまな事態を、為政者や研究者、そして当事者が総じて「定住化」という言葉で呼び表してきたということだろう(cf. 鈴木 2016; 左地 2017; 丸山 2018)。〔後掲藤川2020 2枚目p107 注1〕
※原注 鈴木 佑記 2016 『現代の “ 漂海民 ”―津波後を生きる海民モー
ケンの民族誌』めこん。
左地 亮子 2017 『現代フランスを生きるジプシー―旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』世界思想社。
丸山 淳子 2018 「先住性と移動性の葛藤―ボツワナの狩猟採集民サンの遊動生活と土地権運動」『先住民からみる現代世界――わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』深山直子、丸山淳子、木村真希子(編)、pp. 245-264、昭和堂。
東南アジアでは、フィリピン南部のスールー諸島やマレーシアのボルネオ島東岸、インドネシア東部のスラウェシ島に広がる海域のサマ・バジャウ、あるいはミャンマー南部からタイ西岸にまたがる海域のモーケンが、船に住まう人々としてよく知られる。さらに、日本の海でも、瀬戸内のノウジ・フタマド・フナズマイ、大分のシャア・フナヤ、長崎のエフネ・エンブなど、「家船漁民」と総称される船上生活者が数多く存在してきた。あるいは中国では、江蘇・浙江・福建・広東・香港・広西といった中国東南部の海・河川・淡水湖に漁業や運搬業を営みながら船に住まう人々がおり、各地でさまざまな呼称を当てられてきた。彼らは現代中国語においては「水上居民」と呼ばれている。〔後掲藤川2020 2枚目p107 注2〕
船上生活者の文明化は、最終的には彼らの居所を水上の船から陸上の家屋へと引き上げることを企図する定住化政策へと結実していった。実際のところ、アジア各地で船上生活者の定住化政策と表現されるものは土地・家屋の供給と居所の登録、就学年齢児童の通学提唱などにとどまっており、定められた地理的範囲内でありさえすれば、生業選択の結果として船での移動的な生活を継続すること自体が厳格に禁じられることはほとんどなかったといってよい(cf. 草間 1987(1929); 水野 2003; 石井 2004; 床呂 1999; 鈴木 2016)。とはいえ、定住化の過程は船上生活者にとってみれば、本来は多様な生き方のうちの一つにすぎなかったはずの水上における越境的かつ漂泊的な住まい方が、法律・科学知により「非文明的」と断定されるとの経験をもたらすものであった。〔後掲藤川2020 3枚目p108〕
※原注 草間 八十雄 1987 「水上労働者と寄子の生活」『近代下層民衆生活誌Ⅲ 不良児・水上労働者・寄子』明石書店(1929『水上労働者と寄子の生活』文明協会)。
水野 真知子 2003 「水上生活者の子どもと地域の学校」『地域の教育の歴史』千葉昌弘、梅村佳代(編)、pp. 113-141、川島書店。
石井 昭示 2004 『水上学校の昭和史―船で暮らす子どもたち』星雲社
床呂 郁哉 1999 『越境―スールー海域世界から』岩波書店。
鈴木 佑記 2016 『現代の “ 漂海民 ”―津波後を生きる海民モーケンの民族誌』めこん

その後、現・Sm 漁業社区の敷地内には 1999年までに合計30棟の集合住宅が建設されたが(写真3)、後発的にこの定住用地へとやって来た 4,000 人超の連家船漁民にとってこの土地はあまりに狭小であった。したがって、家屋を得たいと望む連家船漁民は、龍海市内外に分散して、農家の一室や市街地の分譲アパートの購入・賃借に奮闘してきた。それが叶わぬ場合には、最低生活保障の一環として市内に建設された通称「廉租房」(=低家賃住宅、写真4)9 への入居を申請するなど、彼らは陸上の家屋を獲得するために、涙ぐましい努力をしてきたのだ。そのためか、2011年の時点で、陸上に一切の居住空間を有さず、水上の漁船や川岸に固定した廃船を住まいとする連家船漁民は、20世帯ほどあるのみであった(写真5)(10)。つまり、1960 年から本格的にはじまった陸上定居から約50年の間に、連家船漁民
の約99%が、何らかの形で陸上の家屋を保有するようになったのである(11)。〔後掲藤川2020 3-4枚目p112-113〕
※原注 10 Sm 漁業社区の住民を代表する党支部書記への聞取りと筆者の目視による。これらの世帯は、戸籍の居所欄に「小船」と記載されていた。
11 なお、Sm 漁業社区居民委員会では、社区敷地外に暮らす人々の戸籍も敷地内に暮らす人々と同じように管理しており、両者ともにこの居民委員会をとおして同等の行政サービスが受けられるようになっている。住民の実際の居住空間と、住民の戸籍を管理する行政単位が正式に有する区画が一致しない状況は、近隣の他社区や農村と比べて連家船漁民を独特な存在に見せる要素ともなっている。

1978年の改革開放以降、組織による労働分配は終わりを告げて生業の選択が個人に任せられるようになったにもかかわらず、Sm 漁業社区に属する連家船漁民のうち、漁撈や漁獲物の水上運搬、大型船で各地へ赴き河底から砂を掘削・運搬する仕事といった水上労働の従事者は 1,677人おり、これは全労働力人口の実に 77.3% に値する数に上るのである12。表1からもわかるように、彼らの間で見られる水上労働とは、その労働形態の種別にかかわらず、一定期間の船上生活と船での移動をともなうものである。
ここには、もはや陸上で育った経験しかもたぬ 1960 年代以降生まれの若年層(20 ~ 50 代までと、この層はとても厚い)も含まれている。彼らもまた、両親の漁船を譲り受けたり、両親の援助を受けながら大型漁船を新造して船員を雇ったりするなどして船上生活へと参入しているのである。さらに、陸上の家屋の存在は、(少し意外なことかもしれないが)連家船漁民の活路を水上にも広げることに寄与している。なぜなら、家族を陸上の家屋に残して単身、省や国を跨いで航行する船へと新たな労働の場を求めることが可能になったからである。これらは、「過去の船上生活の残存」、あるいは「船上生活からの脱却の失敗」といった例外事項と見なして等
閑視できるような数をはるかに凌駕する、継続的な現象なのである。〔後掲藤川2020 8枚目p113〕
※原注 12 この数値は 2006 年に Sm 漁業社区が発表した統計データに基づくが、2019 年現在もそれほど大幅な変化があるようには見受けられない。
表1 Sm漁業社区の連家船漁民が従事する水上労働
漁船の種類移動生活の期間/活動場所/作業/全長×幅×深さ(m)/材質/船に暮らす人数
①手抛網漁船/1日(朝~夕方)/九龍江内部/投網漁/5.8×2.2×0.8/木造/2人(夫婦)
②小型掃簾漁船/1日(朝~夕方)/九龍江内部/小型船での刺し網漁/6.0×1.4×0.8/木造/2人(夫婦)
③灯光漁船/3~7日/九龍江河口~厦門島附近の海域/集魚灯を用いた漁/21.9×5.2×2.0/鉄製/3~4人(夫婦+子)
④虎網漁船/15日~3か月/九龍江内部/大小/3艘の船での流動定置網漁/母船:10.0×3.5×1.0/木造/2~3人(夫婦+子)
⑤鈎釣漁船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/延縄漁/9.5×3.0×1.0/木造/2~4人(夫婦+子)
⑥中型掃簾漁船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/中型船での刺し網漁/7.0×2.1×0.8/木造/2~3人(夫婦+子)
⑦[テヘン+ケ/也]蝦船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/エビ引き網漁/15.0×4.3×1.75/木造/3~4人(夫婦+子)
⑧籠壷漁船/15日~3か月/九龍江河口~厦門島附近の海域/鉄製の枠とナイロン製の網で作られた円筒状の網を水に沈めて魚を捕る漁/18.3×5.0×1.8/鉄製/3~4人(夫婦+子)
⑧単[テヘン+ケ/也]網漁船/3か月~6か月/台湾海峡/連家船漁民がオーナー、船長を務める大型船/1艘での底引き網漁/22.3×5.3×2.35/鉄製/7~15人(主に男性)・1艘
⑨双[テヘン+ケ/也]網漁船/3か月~6か月/ー/連家船漁民がオーナー、船長を務める大型船/2艘での底引き網漁/29.5×7.2×3.7/鉄製/7~15人(主に男性)/1艘
⑩運魚船/1日~1か月/九龍江河口~厦門島附近の海域漁船が捕った漁獲物を船上で買いとり、運輸船で厦門島内などの魚売り商人の所まで運ぶ/17.8×4.2×1.55/鉄製/2~3人(主に男性)
⑪交通船/1か月~3か月/厦門島附近の海域/海上・海中での工事に従事する人を陸から現場まで運ぶ/木造の漁船を用いる/木造/2人(夫婦)
⑫砂船/3か月~6か月/九龍江内部・福建省沿海・広西チワン族自治区沿海/農村出身経営者に雇われて大型船に乗り、川底あるいは海底の砂を掘削・運輸/30.0×13.0×6/鉄製/個々人で契約(主に男性)
⑬貨船/6か月~2年/アジア各地/福建省籍の貨物船に雇われて各地に貨物を運ぶ/-/鉄製/個々人で契約(主に男性)
〔後掲藤川2020 9枚目p114〕
家屋の獲得を渇望する一方で、連家船漁民の大多数が長期間の船上生活をともなう水上労働に従事しているという事実――。筆者には、この一見矛盾するかに見える状況こそ、水上空間に比して低リスクであるように(地方政府にも、連家船漁民自身にも)見えていたはずの陸上が、蓋を開けてみたら多くの連家船漁民にとっては(少なくとも水上と同程度には)、リスクの高い空間であったことの証左であるように思われる。なぜなら、(彼ら自身はそれがリスクだと明言することはないが)生業・生活の場を陸上のみに限定することを、多くの連家船漁民は実に注意深く避けているように見えるからである。〔後掲藤川2020 8枚目p114〕
結果として、Sm 漁業社区の狭小な敷地内に集合住宅を得る機会のなかった連家船漁民は、近隣の農村の農家や市街地のアパートの一室を購入あるいは賃借するように動いており、2018 年までに、ごく少数を除く約 99%の家族が、何らかの形で陸上に生活空間を有するという状況にある(約1%は船に居住)。
しかし、このことは、連家船漁民の間に「水上での移動から陸上での定住へ」という単方向的な動きや、定住地や家屋への束縛という動きを生み出すことにはならなかった。なぜなら、2006 年の時点で Sm 漁業社区の全労働力人口のうち、実に 77.3%が水上労働(漁撈・漁獲物の運搬・砂の掘削・高速船や貨物船の乗組員)に従事しており、それ以外の連家船漁民もまた、個々人や家庭内で、水上での移動を基礎とした生活・生業を担保する船(や、それに付随する操船免許など)を維持したり、新たに購入したりして、水上の船で住まいながら生きるための道を常に開きつづけているからである(藤川 2016; Fujikawa 2018)。〔後掲藤川2019 8枚目p52〕
※原注 藤川 美代子 2016 「福建の船上生活者にとって「家」とは何か――ある家族の年代記から」『物質文化』96: 45-58。
Fujikawa, Miyoko 2018 “Continuing to Live on the Water: The Meaning of Land Residences for Boat Dwellers in Fujian, China,” Journal of Marine and Island Cultures 7(2): 126-149
事例1:張チンユェ
張チンユェ(1969 年生・男性)の両親はともに漁船で生まれ育ったが、成人してから父は生産大隊の管理職として、母は漁村内の各種工場で働くなどして、ともに陸上での労働に従事していた。チンユェは陸上の病院で誕生した後、父方祖母・父母・(後に誕生する)弟妹とともに Sm 漁業生産大隊の敷地内に分配された集合住宅に住んでいた。小学 1 年生を何度か留年することになり「勉強は向いていない」と考えたチンユェは小学校を自主退学した後、近隣の農業生産大隊へ出向いて建築現場でレンガ運びの仕事をした。12 歳になるとSm 漁業生産大隊の木造機帆船で外海へ行き、漁を手伝ったが、16 歳まで労働点数は加算されぬままだった。生産責任制になると、生産大隊の木造機帆船 2 艘がチンユェの母の父方イトコ(MFBSe)に払い下げられ、彼の兄弟やイトコ約 10 人が株主としてこの 2 艘を共同経営することになった。1 艘につきチンユェを含め 20 人以上の連家船漁民が雇われ、台湾海峡へ出て漁をした。毎回の漁獲高に、株主や乗組み員の勤務年数・技術の高低によって定められた比率をかけて計算される給料は、漁の出来に依存するため不安定だが、工場労働に比べるとよいと感じていた。
しばらくすると、株主同士の関係が悪くなり居心地が悪くなったチンユェは、別の連家船漁民が購入した新造の鉄製機帆船に雇われ、台湾海峡で漁をした。その間、チンユェは龍海市 Fg 鎮で集団化されていた連家船漁民の妻と結婚し、それを機に父母や弟妹たちと住んでいた集合住宅を両親から譲り受けることになった。
やがて、不安定な機帆船の給料に不満を感じるようになったチンユェは、水産品冷凍工場で魚を絞める職に転職した。休日もなく毎日出勤しなければならなかったが、給料は安定していた。ところがリーマンショックの煽りを受けて 2010 年に工場が閉鎖したため、もとの機帆船へ戻ることにした。「字も書けないし、頭もよくない。陸にいてもあまりいい職業に就くことができないし、経験のある機帆船が結局のところ、一番お金が稼げる」と考えたためである。
その後、龍海市内の市街地で三輪車を漕いで客を乗せる仕事が儲かりそうだと聞き、チンユェは借金をして三輪車を購入。働く時間が自由なのが性に合っていたが、電動機付き三輪車に規制がかけられたり、ナンバープレートの購入を義務づける営業許可制が採られたことで思ったよりも金が稼げず、やむなく三輪車の営業を停止し、妻とともに近隣の鎮の水産品加工工場で働くようになった。家計が立ち行かなくなれば、また機帆船に乗ればよいと思っている。〔後掲藤川2020 9-10枚目p114-5〕
1950 年代ごろから世界各地の遊動民が同時代的に経験することになった本格的かつ厳格な定住化の圧力とは、多くの場合、「広大な範囲に及ぶ故地からの排除と、狭隘な定住用地への再配置」という二つの要素を伴っていたという点である。とりわけ、もとの生活の場が他者と競合するような魅力的な空間である場合、移動性の高さを理由に遊動民の故地に対する所有権が認められず、結果的に故地全体が国家や他民族によって占拠・奪取され、物理的な接近が阻まれるという事態も起きている(この状況は、狩猟採集民・遊牧民・焼き畑農業民に多く見られる。これに対し、アジアの船上生活者やヨーロッパのロマなどは、河・海の岸辺、都市の空き地といったもとの生活空間が他者の目にはさほど魅力的と映らぬために占拠・奪取の対象となりにくい傾向にある。この場合、故地の空間はそのままに広がっているが、厳格な管理下におかれて故地への接近と自由な移動が制限されるという状態がつづくことになる。とはいえ、こちらも近年の都市開発などによって故地の空間が改変され他者によって占拠されはじめている)。しかし、近年の遊動民研究がいみじくも明らかにしているのは、他者による故地の占拠・奪取の有無にかかわらず、多くの地域で遊動民の定住化は、「故地への回帰と自由な移動の回復」を求める動きの出現へと帰結したことである。なぜなら、遊動民の多くは定住地だけに根づくことを拒否して、たとえ故地への完全なる回帰が叶わずとも、管理の網の目をくぐり抜けながら、まるで定住地の範囲からじわじわとはみ出すかのように新たな形で移動を再開したからである(cf. 鈴木 2016; 左地 2017a; 藤川 2017; 丸山 2018)(1)。〔後掲藤川2019 3枚目p47〕
※原注 (鈴木2016未掲示)左地 亮子 2017a 『現代フランスを生きるジプシー――旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』、世界思想社。
藤川 美代子 2017 『水上に住まう――中国福建・連家船漁民の民族誌』、風響社。
丸山 淳子 2018 「第 10 章 先住性と移動性の葛藤――ボツワナの狩猟採集民サンの遊動生活と土地権運動」、深山直子・丸山淳子・木村真希子(編)『先住民からみる現代世界――わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』、pp. 245-264、昭和堂。
1 たとえば、ボツワナの狩猟採集民サンは、かつて野生動物を追いながら、植物の生育状況や水の有無を見極める形で広範な原野を移動する生活を送っていたが、恒常的な家屋を建てたり、長期にわたり一定の土地を利用したりしないという生活形態のために故地を奪われることになった。なぜなら、家屋や農地を一所に定めることこそが土地の所有であると考える国家内マジョリティ(多くは、農耕民)から見れば、サンが生活していた広大な原野は無主物の「空き地」そのものであり、ボツワナの独立後は、経済効果を有さぬサンの狩猟採集活動のためにその土地を眠らせて(・・・・)おくよりも有益であるとの正当性を付与された上で、他民族の領地・国有地・商業用地として使用されたからである。その代わりにサンに与えられたのは、遊動生活を送った故地から遠く離れた狭小な定住地であり、彼らはそこで「貧困状況の改善」・「国民化」の実現のためという名目で定住化を促され、マジョリティ社会への同化と包摂が目指されることになった。これは 1980 年代に入ると先住民の権利回復にかかわるグローバルな動きと連携しながら、定住地から故地としての原野への回帰、自由な移動と狩猟採集を可能にする形の土地利用の復権を目指す運動を引き起こしている。実際のところ、分割所有という定住民的な発想に基づく土地利用の理解や、定住地での生活に起因する貧富の格差などが原因となり、希望するサン全員の故地への回帰は実現していない。しかし、多くのサンは故地の原野への回帰が叶った一部の人との間に社会関係を構築しながら、定住地の住まいと原野と往来しながら原野での自由な移動を回復しつつあるという(丸山2018)。〔後掲藤川2019 3-4枚目p47-48 注1-1〕
※原注 丸山 淳子 2018 「第 10 章 先住性と移動性の葛藤――ボツワナの狩猟採集民サンの遊動生活と土地権運動」、深山直子・丸山淳子・木村真希子(編)『先住民からみる現代世界――わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』、pp. 245-264、昭和堂。
(続)マヌーシュと自称するフランスのジプシーは、キャラバンで移動しながら定住民を相手に手作りの蔓製品・木製品販売や金属加工、家具修理、音楽・サーカスの興行、季節労働などを提供していたが、1960 年代ごろから都市の周縁部に集合宿営地を与えられ、そこでの集住を強いられることになった。この段階では、家庭ごとにキャラバンに住まいながらの集住が目指されたが、2000 年代以降は、国民の均質化を目指す福祉政策の一環として「適合住宅」と呼ばれる固定された家屋から構成される集合宿営地が新たに登場している。しかしながら、マヌーシュの定住化とフランス国民化を目指したはずの宿営地は、彼らをより広範囲の「旅」へと導くことになっている。多くのマヌーシュはキャラバンを保持することで、家屋を拠点として、親族訪問や巡礼のために外国を含む外部へと家族で出かけていくから
である(左地 2017a, 2017b)。〔後掲藤川2019 4枚目p48 注1-2〕
※原注 左地 亮子 2017a 『現代フランスを生きるジプシー――旅に住まうマヌーシュと共同性の人類学』、世界思想社。
2017b 「フランスにおける移動生活者のための「適合住宅」政策――居住福祉を通したマイノリティの社会的統合の試み」『居住福祉研究』23: 49-61.
(続)タイとミャンマーの国境付近の海で、ナマコや夜光貝の捕獲をしながら季節によって船と島の杭上家屋とを使い分けながら生活していたモーケンは、1980 年代に生活圏の海域が国立公園に指定されたことを皮切りに、船での自由な移動を制限されて潮間帯の杭上家屋に定着した生活を余儀なくされた。さらに、2004 年のインド洋津波によって杭上家屋が倒壊すると、潮間帯での家屋の建設が禁止され、より陸地側に比較的堅固で恒常的な家屋が設置されることになった。とはいえ、モーケンたちは現在も国立公園化された海域において監視の目をくぐり抜けながらナマコ漁などをつづけているという(鈴木 2016)。〔後掲藤川2019 4枚目p48 注1-3〕
※鈴木2016未掲示
(続)タイとミャンマーの国境付近の海で、ナマコや夜光貝の捕獲をしながら季節によって船と島の杭上家屋とを使い分けながら生活していたモーケンは、1980 年代に生活圏の海域が国立公園に指定されたことを皮切りに、船での自由な移動を制限されて潮間帯の杭上家屋に定着した生活を余儀なくされた。さらに、2004 年のインド洋津波によって杭上家屋が倒壊すると、潮間帯での家屋の建設が禁止され、より陸地側に比較的堅固で恒常的な家屋が設置されることになった。とはいえ、モーケンたちは現在も国立公園化された海域において監視の目をくぐり抜けながらナマコ漁などをつづけているという(鈴木 2016)。〔後掲藤川2019 4枚目p48 注1-3〕
2 例外的に、特に後者の問題について熱心に論じてきた分野がある。それは、中国で「水上居民(=水上に住まう者)」と総称される船上生活者に関する研究である。中国において、①土地・建物を陸上に直接所有せず、②小船を住居にして一家族が暮らす、③海産物を中心とした採取活動に従事し、獲物の販売や農作物との交換で生計を立てる、④一カ所に長くとどまることなく、一定の水域を絶えず移動するという特徴(羽原 1963: 2-3)をそなえる水上居民は、その生活・生業形態が特異であると見なされ、定住と農耕を本位とする漢族から構成される主流社会のごく周縁へと追いやられながら、野蛮で遅れた民族として差別されてきた。この状況を重視する多くの研究者は、1960 年代以降、共産党政権下の集団化の過程において各地で実施された水上居民の定住化政策について、水上居民が被差別的状況を脱するための契機と捉えてきた。そうした視点からは、水上居民が陸上の定住地でおこなうさまざまな実践(たとえば、祖先祭祀や神明祭祀)は、陸上の漢族社会への同化を目指しておこなわれるものと理解され、反対に現在も一部の世帯でなおつづく船上生活は、「陸上世界への適応の失敗」として等閑視されることになっている(cf. 黄 2015(引用者追記:2005の誤記?); 長沼 2010a, 2010b, 2013; 稲澤 2016; 胡 2017)〔後掲藤川2019 4枚目p48 注2〕
※原注 黄向春 2005 「歴史記憶與文化表述――明清以来江下遊地区的族群関係與儀式伝統」、厦門大学人文学院歴史系中国近現代史専業博士学位論文。
長沼 さやか 2010a 『広東の水上居民――珠江デルタ漢族のエスニシティとその変容』、風響社。
2010b 「現代中国における宗族新興の可能性――広東珠江デルタの水上居民を例に」、小長谷有紀・川口幸大・長沼さやか(編)『中国における社会主義的近代化――宗教・消費・エスニシティ』、pp. 277-298、勉誠出版。
2013 「祖先祭祀と現代中国――水上居民の新たな儀礼の試み」、川口幸大・瀬川昌久(編)『現代中国の宗教――信仰と社会をめぐる民族誌』、pp. 185-202、昭和堂。
稲澤 努 2016 『消え去る差異、生み出される差異――中国水上居民のエスニシティ』、東北大学出版会。1949 年 8 月、福州市における国民党軍との戦いに勝利を収めた人民解放軍は、厦門や州に向けて南下を開始。その結果、9 月 25 日までに九龍江河口に位置する龍渓県・海澄県(当時)の全域が解放された。10 月になるとより河口に位置する厦門島と鼓浪嶼島に暮らす人々を解放する「解放厦鼓作戦」が決行されることになり、連家船漁民の中にもこの作戦に協力する者が現れた。彼らには、人民解放軍を複数組に分けて船に乗せ、二つの島まで運ぶために人員と船を出すようにとの命が下された。
連家船漁民のうち、船体が大きく海洋まで出ることのできる流動定置網漁船に乗る者が召集の主な対象となり、その中から、漁船 157 艘、13~60 歳まで 128 名の前線支援船員(通称「支前船工」)が選ばれた。彼らは 10 月 5 日の夜、人民解放軍の指揮の下に九龍江河口を出発し、作戦中、24 名が殉死した。参加者 128 名のうち、後に 1名が特等功、25 名が一等功、35 名が二等功、69 名が三等功として認められ、称賛された(張 2009: 112; 張・張・藤川 2009: 142-152)。〔張2009:「厦門島・鼓浪嶼島解放作戦に殉じた烈士」(通称「解放厦鼓戦役支前工」)を讃える物語←後掲藤川 2019 10枚目p54〕※原注 張 石成 2009 『連家船』、私家版につき出版情報なし。
張 亜清・張 石成・藤川 美代子 2009 『即将逝去的船影――九龍江上「吉普賽人」史迹』、海風出版社。集団化と陸上定住化の動きは、九龍江河口の複数の地域に広がって根拠港を有し、互いの間で婚姻をはじめとする有機的な関係を結んでいた大勢の連家船漁民を、合計 5 カ所に分断し(=上流は州市、中流は龍海市 Fg 人民公社と Sm人民公社、河口は厦門市・鼓浪嶼島にてそれぞれ集団化された)、集団化した先の土地へと定着させていくものであった。こうして登場した集団は、連家船漁民から見れば、自身の意志が及ばぬ政治的決定の結果としてもたらされた、従来の地縁的・血縁的紐帯をちぐはぐに分断・接続する形の、いわば「お仕着せ」のものでしかなかったはずである。だが、現在 Sm漁業社区に所属する連家船漁民について見れば、彼らは今日、地域社会において自らを「漁業大隊の者(原語「漁業大隊的」)」と称するようになっている。これは、明らかに、集団化政策のごく最終段階として 1960 年に登場した「Sm 公社 Sm 漁業生産大隊」に由来する呼称である。つまり、この自称は、彼らが政府から与えられた定住地で生産・生活をともにする経験を 30 年以上積み重ねるなかで、この新たに登場した巨大な共同体に対する帰属意識を着実に生み出してきたことを示すものである。
政策の影響を大きく受けたこの共同体に対する帰属意識を体現するのが、1990 年に Sm漁業村(当時)の成員全体を庇護する神明として登場した水仙王・媽祖・土地公と、これらの神像を安置するための廟宇(=Zd 宮)である(写真4~6)。神明の所持や祭祀が禁じられる文化大革命以前、連家船漁民にとって、神明を共同で祭祀する最大の単位は根拠港を共用する数十家族に過ぎなかったことを考えれば、それらの区別を超越して、4,000 人余りの成員全員で神明をもつことになったというのは、きわめて画期的なことであった。〔後掲藤川 2019 11-12枚目p55-6〕改めて、洗江・巡社がもつ意味を考えてみよう。前者は Sm 漁業社区の連家船漁民が船を停泊させる水上の空間を、後者は Sm 漁業社区が有する陸上の空間をそれぞれ自らのものと読み替え、利用可能な空間として受け容れるためにおこなわれている。いずれにしても、連家船漁民が儀礼の開始を望んでから実施が実現するまでには、20~50 年という長い時間を要しており、彼らは現実の生活でそれらの空間を共用する経験を積み重ねることで、そこを「漁業大隊の者」という「われわれ」の空間として受け容れることが可能になったといえる。つまり、端午節の洗江と巡社の実践は、連家船漁民が、本来は果てしなく広がる水上と陸上の空間の中から、自分たちの空間を選び出し、その境界を画定しながら、自らの内に受容していくための民俗的な方法として機能しているのである。〔後掲藤川 2019 16枚目p60〕
9-SD サンダカン
(マレーシア サバ州)
サンダカンでヒットする画像(2025年付)〔skyticket〕サンダカン中心部〔航空写真〕
サンダカン/Jalan Buli Sim Sim北〔航空写真〕
→GM.
サンダカン/Jalan Buli Sim Sim東〔航空写真〕
→GM.Sim Sim(シムシム)水上集落入口「LORONG H 森森第八橋」〔後掲Milly〕
サンダカンはリトル香港と呼ばれています。ブルネイの初代の王様は中国から来たと言われています。さらに鯖(引用者訂正:サバ)にあるキナバル山はシナバル山が訛ったと言われています。いずれにしてもボルネオ島のマレイシア領は中国との関係が深いです。〔後掲koujin〕
サラワク。
このボルネオ島の南西部にある地域は、19世紀半ば、イギリス人が個人的に所有するサラワク王国という国でした。(略)
インドに住む富裕英国人の御曹司として育ったジェームス・ブルックは、(略)ブルネイの統治下のサラワクに、足を踏み入れたのは、1839年8月15日の事でした。
その頃、クチンでは、新しく配置された総督への不信感から、現地の支配層のマレー人やビダユ族の叛乱が巻き起こっていました。
ジェームスが訪れた際、その総督より相談され、叛乱を鎮圧させた暁には、領土の一部をくれるとの事。ジェームスは、最初は興味を示さなかったそうですが、その総督による懇願に承諾し、一度、シンガポールに戻り、体制を整え、1840年に再度クチンを訪れ、首謀者たちと会談し、叛乱を鎮圧しました。
そして、1841年9月24日に、ジェームズ・ブルックは、サラワク王国のホワイト・ラジャ(白人王)として、国家を掌握したのでした。当初は、現クチン市近辺の小さな領土のみでした。〔後掲ドリ鍋〕クチンより北東部の地域は、イバン族の首狩りが横行している地域で、特定の占有権がない事もあって、ジェームズ率いる現地人を含む軍隊が、首狩りのイバン族を制圧する為の起点となる場所に、砦を築いて行きました。これが、領土の拡大となり、2代目のチャールズ・ブルック(ジェームスの甥)の旺盛期迄(20世紀初頭)には、現在のサラワクの領土迄拡大しました。この数々の砦は、サラワク州内の市や町に、現存し、中には、政府の機関として使われている場所もあります。〔後掲ドリ鍋〕
19世紀にはイギリス人のジェームズ=ブルックと言う人物が北部ボルネオの北部のサラワクをブルネイ王から買い取って、自らサラワク王を名乗り、後にイギリス領に編入された。南部はオランダが進出し、その植民地とされた。(続)〔後掲教材工房 世界史の窓〕
1883年、イギリス領北ボルネオの首都がクダッからサンダカンに移された。〔wiki/サンダカン〕
1930年代には、木材の輸出量が年間180,000 m3となり、南洋材の世界最大の輸出港となった。〔wiki/サンダカン〕
多くの日本人には、からゆきさんを題材とした山崎朋子著「サンダカン八番娼館」で知られているのではないでしょうか。〔後掲ぴあ〕
(続)そのような植民地の歴史が前提となったため、イギリス領サラワクとサバは1963年、マレーシア連邦に組み込まれ、オランダ領カリマンタンは第二次世界大戦後に独立したインドネシア共和国領となった。インドネシアのスカルノは、サラワクとサバのマレーシア連邦への編入に反発してマレーシア連邦を承認せず、1965年にマレーシア連邦が国際連合に加盟すると、インドネシアは脱退した。〔後掲教材工房 世界史の窓〕
サンダカンでは大プロジェクト「サンダカンウォーターフロント計画」が進行中です。サバのプライムミニスターがサンダカン出身なのが関係してるのかどうかはわかりませんが、この小汚い港町を美しいウォーターフロントにするべく工事が徐々に進められています。あと何年かかるか分かりませんが、多分10年後にはサンダカンはすっかり変わっているでしょう。汚いけど愛着のあるbandar(ダウンタウン)はすっかりつぶされ、綺麗な建物が建っていることでしょう。不法移民の水上集落はビーチリゾートになる予定だそうです。それはもちろんサンダカン市民にとっては喜ばしいことです。この計画が達成された暁には、サンダカンは大いなる発展を遂げるでしょうから。〔後掲ぴあ〕
9-HL ハロン湾 Tp.Ha Long
(ベトナム ハイフォン北東沿岸)
ハロン湾がユネスコの世界自然遺産として認定される前、またハロンが観光に開放される前は、多くの人が湾で漁師として暮らし、生計を立てていました。〔後掲VIETNAM360〕
・ クアヴァン、ヴォンヴィエン、バハンの漁村を紹介
クアヴァンの漁村〔後掲VIETNAM360〕
・ やや規模は小さいと思われる。9-JS 日本水上学校
(横浜市山下町)
かつて、横浜港や大岡川、その分流である中村川などには、ハシケ(艀)と呼ばれる積荷運搬用の小舟がひしめくように停泊していたという。
ハシケの持ち主の中には、船尾のスペースを使って日常生活を営んでいる者もいた。
彼らは「水上生活者」と呼ばれていた。
「水上生活者は、横浜港でハシケを使った運送業に従事する人たちでした」
昭和20年代から石川町に住み、中村川とともに幼少期を過ごした田…和さんと姉の今…江さん、そして中区山手町にある日本水上学園の園長・松…之さんにお話を伺った。〔後掲はまれぽ〕1921(大正10)年、東京にある芝浦小学校(現・竹芝小学校)に、日本で初めて、水上児童のための「水上学級」ができる。
同校の「水上学級」の担任となった伊藤氏は、沖に出た両親と船が戻ってくるまで岸壁や材木の陰で野宿せざるを得ないという、水上児童の過酷な生活環境を目の当たりにし、寄宿舎併設の必要性を主張した。(略)伊藤氏は自らの足で土地を探し、資金を集め、1942(昭和17)年、横浜市山下町に「日本水上学校」を創設した。〔後掲はまれぽ〕同校は1967(昭和42)年、25年間の歴史に幕を下ろす。その理由は、水上生活者の生活環境が向上したこと、そして、水上生活者が減少したことにあるという。
1967(昭和42)年3月23日の神奈川新聞によると、同校で行われた最後の卒業式について、16人の卒業生の両親は千葉や東京方面へ運送に出掛けているため、式に姿を現さなかったとし、さらに、その様子が「水上学校らしい光景」だったと記している。
なお、同校は水上生活者の子どものための学校としてはその役割を終えたものの、学校部門は学校法人「聖坂養護学校」へ、宿泊部門は児童養護施設として社会福祉法人「日本水上学園」へと引き継がれ、現在に至っている。〔後掲はまれぽ〕※原典参考資料
・読売新聞(昭和42年3月22日)
・神奈川新聞(昭和42年3月23日)
・「横浜・中区史」(中区制50周年記念事業実行委員会)
・「横浜港史 各論編」(横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編)
・「横浜港史 資料編」(横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編)
・「写真集 昭和の横浜」(横浜市史資料室編)
・「昭和30年代の神奈川写真帖(上巻)」(アーカイブス出版編集部編)水上生活者の住環境にも、さまざまな形態があったようだ。
田中さんは、当時通っていた市立石川小学校での出来事を語ってくれた。
「学校で家庭調査票の記入を求められたとき、ハシケに住んでいた同級生の女の子の家が『社宅』に分類されていて、すごく驚いたのを記憶しています。その子の家は、お父さんの勤めている運送会社から手配されているハシケだったようです。そのハシケは岸壁に固定されていて、内部には電気も通っていました」
どうやら、住宅用と、運送専用とでハシケを分けて使う者もおり、その中には、ライフラインの整った環境で生活を営んでいる者もいたようだ。
一方で、松橋さんによると、水上学校に通う児童の住環境については、「住所も定まっていないし、電気も電話も通じていない環境だったから、当時は家庭訪問するにも全く連絡が取れない状態だったそうです。『〇日△時に、だいたい××あたりに停泊してる』などのように約束を取り付けて訪問していたみたいです」とのこと。〔後掲はまれぽ〕昭和の木製のハシケ。物干し竿が設置され、水上生活者たちの洗濯物がひるがえる(資料提供:日本水上学園)〔後掲はまれぽ〕
1859(安政6)年6月2日、横浜港が日米和親条約によって開港すると、土地を持たない農民が、横浜湾岸労働者としての職を求めて全国から一斉に集まってきた。ハシケ運送業者が土地を持たず、水上で生活するという習慣は、彼らによって根づいたのだろう。
開港直後は港の整備が不完全であり、強風が吹き荒れている間は、貨物船を着岸させての積荷の受け渡しが危険な状態であったという。そのため、貨物船があえて着岸をせず、沖合に停泊し、ハシケ運送業者が沖まで出て荷を受け取る、という形態が定着していったようだ。
田中さんによると、「横浜港の沖合に貨物船が停泊すると、ハシケ運送業者たちはタグボートと呼ばれる小型船でハシケを引っ張って、一斉に沖へ出て行った」という。〔後掲はまれぽ〕イギリスの貨物船からハシケに荷が積み込まれている(資料提供:日本水上学園)〔後掲はまれぽ〕
生活の河
放送年度:1961年度
だるま船が都市輸送に重要な役割を果たしていた時代、隅田川の水上生活者の一家が船の生活と陸の生活の選択に悩みながら、支えあって生きる姿をユーモラスに描いた。社会の片隅に生きる庶民にスポットをあてた「テレビ指定席」の枠で放送。当時公開された、戦争における人間性を描いた超大作映画「人間の條件 完結編」の脚本や、名作映画「名も無く貧しく美しく」で監督デビューした松山善三が脚本を手がけた。(全1話)
脚本:松山善三 音楽:木下忠司 〔後掲NHKアーカイブス〕泥の河(1981年製作の映画)
上映日:1981年01月30日製作国・地域:日本上映時間:105分 ジャンル:ドラマ配給:松竹
あらすじ 1982年度アメリカアカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。 自主製作、自主公開という小さな取り組みから始まった本作は、欧米はもとより、旧ソ連邦、中国やアジア諸国にまでその配給をひろげて、今日でも名作として語り継がれている小栗康平監督のデビュー作。 宮本輝の処女作を原作に、少年少女たちのひと夏の出会いと別れが切々と描かれる。〔後掲水運ネットウォーク〕主人公は小学生の男の子で、子供の目から見た大人の世界が描かれている。川にかかる橋のたもとで食堂を営む両親。川の対岸に一隻の屋形船が停泊してて、そこ暮らす同級生の男の子と姉と母。
実はこの屋形船は船上遊郭であり、かつ生活の家でもあるのだ。屋形船は前後に2部屋があって、壁で仕切られていて、船の内部からは部屋を行き来できない構造となっている。前の部屋から後ろの部屋にいくには一度外に出てから後ろに回って入るしかない。前の部屋が生活空間であり、後ろが売春部屋というわけだ。船上遊郭とはいうものの、川をめぐるわけではなく、いつも橋のたもとに停泊していて、基本的には家として船が利用されている。
ただし、一定期間たつとまた別の場所に、移動していく。〔後掲水運ネットウォーク〕原書及び映画「泥の河」〔後掲水運ネットウォーク〕
9-XS 咸水歌
近年の珠江デルタでは、水上人の民謡といわれる「威水歌」が民間芸能として注目されている。また、威水歌をはじめ沙田地区の人々の風俗習慣を「水郷文化」と称し、観光資源として利用する動きも出てきている。第四章では、このように1990年代以降に活発化する新たな動きを事例に、水上人のエスニシティの現在と今後の可能性について考察した。従来、蛋家という名は他者から押し付けられた差別的な呼称であり、そう呼ばれた人々の側に帰属意識が生じることはなかった。しかし、沙田地区を水郷と言い換え、そこに住まう人々を勤勉で清貧な農民とする新たなイメージは、徐々にではあるが、かつて蛋家、今日では水上人と呼ばれる人々にも受け入れられつつある。その要因は、民謡の歌い手としての水上人が、政治的に評価されたことにある。このようにして創られた水上人像が、どのような形で当該社会に定着して行くかは、今後、政府とそれらを受け入れてゆく人々との相互行為によって決められる。この場合、受け入れてゆく人々のなかには、水上人のみならず、水上人を自らと差異化する陸上人や、水上人の歴史を再構築しようとする研究者や有識者なども含まれる。つまり、広東珠江デルタの漢族エスニシティの一側面である水上人というカテゴリーは、異なる文化を持つ集団(陸上人)との接触によって生成、維持されてきただけでなく、国家という枠組みや、他者により構築される歴史や語りの影響を受けながら今日まで変容を繰り返してきており、今後も変わり行く可能性を多分
に秘めているといえる。〔後掲長沼2010〕再説“咸水歌”的来歴。許多中山人都[言人]咸水歌起源于沿海,因海水是咸的,生活在此的漁民或者農民互相伝唱的歌謡便称作咸水歌。換句話説,水上居民長期与大海的咸水打交道,所以他[イ門]所伝唱的歌謡就称之為“咸水歌”。由于演唱的人多,伝唱的歴史比軟悠久,因而這里便成了中国電唱咸水歌的代表区域。
関于咸水歌的得名,学者[イ門]又有[口/力]一種解釈:広州方言中的“咸”字,是継承了古義,《周易》中第三十一卦“咸卦”,用的就是“咸”的古義。此後,《晋書》武帝(司馬炎)時,又把“咸”化成故事記述――“以塩[シ十]洒地,而引帝車”。
実際上,咸水歌的内容除了情歌外,[シンニョウ+不]有“労働歌”、“時政歌”、“叙事歌”等。〔後掲個人図書館〕咸水歌在初唐時,就已有了[竹/非]形,唐初詩人王勃在《広州寺碑》中写道:“場[奥/フ]当唐初,北人多以商至,遂家于此。六朝以来謡俗[言区]歌播于楽府,炎方勝事自是偏聞四海。然方言[ケモノ+尤]操蛮音,以邑里[ケモノ+尤]雑夷故也。”
有学者説,第一位戚耳聆听咸水歌的中原学者是中山古鎮劉氏的始祖,宋末元初的[又+]光[サ/存],在他選写的《浮虚山記》里,有這的描述:“来航去舶,擢歌相聞”,那漁歌,便是咸水歌的前身。〔後掲個人図書館〕「中山泰寧涌」〔後掲個人図書館〕
・新市社区(広東省中山市小[木覧](欖)下[車害]社区)?小[木覧](欖)民俗博物館
中山市云路83号 〔高德地図〕URL=https://surl.amap.com/f2GJ8hn1q6iI小[木覧](欖)駅東1.5kmに釣魚台天后宮あり
〔高德地図〕URL=https://surl.amap.com/2BjtGBLv1u0ag
※交通は非常に不便、自転車?街並みはこの付近はそれほど興味深くない(多分新市街)。小[木覧](欖)-釣魚台天后宮付近〔高徳地図/航空写真〕
小民俗博物,前身是同寅医院,建于1919年,占地面4000平方米,于1941年停,重修后于1948年。建筑楼已超一百年史,修改造,保留原有建筑格局,一房一景,以食、婚俗、布、荼薇酒、理店、影展等主的原列,生形象的再小清末民初期至改革放初期的衣食住行、生活、生、日礼俗等方面,忱地将些秀文化一代代下去。〔後掲中山市小小[木覧](欖)鎮〕
シェンシュイ歌は中国全土に存在する多様な民謡の中でも、独特の特徴を持っています。まず、歌詞の内容が非常に生活密着型であり、特に塩田や海辺の労働をテーマにしている点が他の農村民謡や山間部の民謡と異なります。これにより、地域の自然環境や経済活動が歌に強く反映されています。
また、歌唱スタイルにも特徴があります。シェンシュイ歌はしばしば掛け合い形式や即興的な応答が含まれ、コミュニティ内の対話や交流を促進する役割を持っています。この点は、単に一方的に歌う形式の民謡と比較して、より参加型で動的な文化表現となっています。
さらに、メロディやリズムも他の広東省の民謡と比べて独特で、海の波のような揺らぎや塩水の流れを模したような抑揚が特徴的です。これにより、聴く人に地域の風景や生活感を強く喚起させる効果があります。こうした要素が組み合わさることで、シェンシュイ歌は単なる歌唱以上の文化的価値を持つ存在となっています。〔後掲ALA!中国〕シェンシュイ歌のメロディは、広東地方の伝統音楽の影響を受けつつも、独自の抑揚や旋律を持っています。特徴的なのは、波のように揺らぐリズムや、塩水の流れを思わせる滑らかな旋律線で、聴く者に海辺の風景や生活感を強く印象づけます。これにより、歌は単なる音楽以上の情景描写の役割を果たしています。
リズム面では、シェンシュイ歌は比較的ゆったりとしたテンポで歌われることが多く、歌詞の内容を丁寧に伝えることが重視されています。時には掛け合い形式や呼応するリズムが用いられ、コミュニティの一体感を高める効果もあります。こうしたリズムの多様性が、歌の表現力を豊かにしています。
また、歌唱技法としては、装飾音やビブラートが用いられ、感情表現が豊かに行われます。これにより、歌い手の個性やその場の雰囲気が反映され、同じ歌でも異なる味わいを持つことが可能です。こうした特徴が、シェンシュイ歌の魅力を高めています。〔後掲ALA!中国〕シェンシュイ歌は長らく口承で伝えられてきました。地域の年長者や歌い手が若い世代に直接歌い継ぐことで、歌詞や歌唱技術が保存されてきました。この口承伝承は、単に歌を覚えるだけでなく、歌に込められた地域の歴史や価値観を共有する重要な文化的儀式でもあります。
また、地域の祭りや集会、労働の合間の交流の場が伝承の場として機能しており、共同体の中で自然にシェンシュイ歌が継承されてきました。こうした場では、即興的な歌詞のやりとりや掛け合いが行われ、伝統が生きた形で受け継がれています。
さらに、伝承者同士の師弟関係も重要な役割を果たしています。熟練した歌い手が弟子に技術や知識を伝えることで、歌唱の質が保たれ、地域の文化的連続性が確保されています。これらの伝承方法は、シェンシュイ歌の独自性を守る基盤となっています。〔後掲ALA!中国〕咸水歌,古称“家歌”,又名“沙田民歌”或“水上民歌”,数百年来流伝于中山坦洲一,是一些亦亦農的家人口耳伝唱的口頭文化。据北宋《太平[ウ/四/哀]宇記》中記載:“香山之民在婚喪嫁娶、典祀神時,均歌唱以尋其情,曰歌堂……”。明朝嘉靖年間的《香山県志》中記載有黄棠所写《洲煙雨》中民[イ門]生活場景的描述:“万中間螺髻青,人家環続住升平。鶴汀[烏/几]渚[口/虫]煙雨,長有漁歌牧笛声。”明代史学家黄佐的《石岐夜泊》里也有“漁歌菱唱不勝春,桂[木口/耳]蘭[木戈/元-一]光里。”又如清朝光緒《香山県志》巻四《興地上山川》記載有“風雨初晴歳欲除,舟維海漢意何如。村墟易米塩[金少],蛋艇提壺酒換魚”。〔後掲広東省人民政府〕
2000年5月12日,火炬区海傍村[女ヨ]女在慶“五一”[既/旦]首届民間芸術巡演活動中演唱咸水歌〔後掲広東省人民政府〕
梁容勝也是坦洲地区具有代表性的民歌手之一。20世50年代初,他加入了中山県文工隊,其高棠歌《送郎一条花手巾》就曾唱進了北京。梁容主勝一度成為広東省華南歌舞団民歌独唱演員。1960年梁容勝随華南歌舞団到北京参加全国文化芸術界代表大会并演唱《共産党恩情長》,受到毛沢東、劉少奇、周恩来等国家領導人接見。梁容勝与其他民歌手一起演唱的《釣魚仔》《対花》等中山民歌也被灌録成唱片。〔後掲広東省人民政府〕
9-DC
(アムステルダム・ロッテルダム)
「二酸化炭素の排出を極限まで抑えた新しい共同体を、水の上に作ろう」。そんな試みが今、アムステルダム市郊外の運河で、市民たちの手によって自発的に進められている。
プロジェクトの名称は「スクーンシップ(クリーンな船)」。
水上に浮かぶ住宅30棟を同じ場所に設置して、46世帯105人の住民が、「水の上でのご近所づきあい」を目指すという斬新な試み。すでに現場には住宅5棟が設置されており、3月からは一部の人々が実際に暮らし始める。2020年に完成の予定だ。(略)
エネルギー源として、運河の水と大気との温度差を利用してエネルギーを得る「ヒートポンプ」や太陽光発電を最大限活用し、二酸化炭素の排出につながる都市ガス(天然ガス)は一切使用しない。ITによって電力供給を制御する「スマートグリッド」で各住宅を結びつけ、電力を融通し合うことによって、自然エネルギーの弱点である供給の不安定さの克服を目指す。何よりも水上に浮かぶ生活であるため、地球温暖化で海水面が上昇しても影響を受けない。
水上住宅の建設や太陽電池などの設置にかかる費用は、一戸あたり30万~80万ユーロに達する上に、参加を希望する人々は、計画の詳細を話し合うために多くの時間を割くことを求められる。入居希望者は引きも切らず、キャンセル待ちの人も多い。〔後掲太田〕「水上生活」のより積極的なビジネス化を目指すのが、オランダのハーグ近郊で設計事務所「ウォータースタジオ」を主宰するコーエン・オルトゥイス(47)だ。
同社はこれまでに、スクーンシップの住居を含め約250の水上住宅をデザインしてきたが、オルトゥスの野心は壮大だ。「大都市の大半は沿岸部のデルタ地帯にあり、海水面上昇の危機にさらされている上に、過密化が進んでいる。その行き詰まりを打開するのが、都市の沿岸部にまるごと新しい区画を浮かべることであり、それは既存の技術で十分可能だ」と主張する。
オルトウィスは、自らが創立・出資するディベロッパー「ダッチドックランズ」と共に、モルディブや米国・マイアミで人工島などの水上構築物をつくろうとしてきた。政府や自治体の規制の壁に阻まれることも多かったが、風向きが変わってきたという。「海水面の上昇が続けば、行政も海上構築物のルール作りに、重い腰を上げざるを得なくなる」とみる。
現在、ウォータースタジオ社は、欧州の16の企業と共に欧州共同体(EU)の資金援助を受けて、大規模な人工島を海上につくるために必要なノウハウの蓄積を目指す「space@sea(海の空間)」というプロジェクトに参加している。計画は、北海の海上に浮かぶ都市をつくることを想定しているという。〔後掲太田〕■「地産地消」の新たな形
水の上で生産する動きも始まっている。ロッテルダム港の水上では近く、世界初の「水上農園」が開業する。40頭の牛を飼って1日800リットルの牛乳を作り、ミルクやヨーグルトとして販売する。
開発・運営にあたる企業「ベラドン」の社長、ペーター・フォン・ヴィンガーデン(58)が目指すのは、新たな形の「都会での地産地消」。海水面の上昇で農地の確保が難しくなることを見越し「水上なら過密な都市の中でも農業ができる」と考えた。
「生産する過程を直接見ることができて消費者は安心できるし、遠くから食べ物を運ぶことで空気を汚染することもない」。ニワトリや野菜を育てる第二弾、第三弾もオープンさせる予定だ。〔後掲太田〕日本列島の大半が海底に沈んだ「異変」から25年が過ぎた。かつて日本列島があった海域は、領有権の主張はおろか、学術的な調査すらも凍結された状態で残されていたが、その付近には中国の海洋調査船がひそかに入り込んでいた。海上自衛隊のワタリ准尉らは、白山の一部[注釈 54]が岩礁として残っているのを発見する。
かつてのD計画の中心人物で、現在は日本国の首相となっている中田一成は、日本国を再建するために大和堆の上にメガフロートを建設する計画を進めようとする。しかし、それは中国をはじめとする周辺諸国との軋轢(あつれき)を招くことになった。〔wiki/日本沈没〕9-HF ハウジングファーストとの関係性
Q 人間の行動パターンを遊動と定住に分けると、いわゆるハウジングファースト「先に住居を、治療・更生は後」という方法は、定住により該当者を統治の枠内に固定させ、不自由にする効果を持つ、とも言える。この点について、意見や、参考となる事例がありますか?
A # ハウジングファーストと遊動・定住の観点
ハウジングファースト(Housing First)とは、主にホームレス支援におけるアプローチで、まず住居を提供し、その後に治療や支援を継続的に行う方法です。対して「遊動」と「定住」は人間行動や社会学的視点での移動や生活様式を捉える概念です。
## 意見
– **定住による固定はコントロールとも捉えられる**
確かに、ハウジングファーストは対象者を物理的に一定の場所に留めるため、統治や支配構造の一部と見ることもできます。社会的なネットワークや監視の及ぶ範囲に置かれることで、支援者や行政による管理が強まる可能性があります。
– **自由の制約と安全の提供のバランス**
一方で、遊動的な生活(例えば野宿や不安定な住居)では安全・衛生面や社会参加の機会が著しく制限されるため、定住は主体の健康や社会的再統合に不可欠とされることが多いです。自由の度合いと安全・安定のトレードオフとして捉えられます。
– **対象者の主体性の尊重が重要**
ただし、定住が「不自由」であるかどうかは、個人が選択し受け入れているかに依存します。強制的な定住は抵抗やストレスを生むこともありますが、選択の伴う住居提供は主体のエンパワーメントにつながる事例もあります。
## 参考となる事例・文献
– **ハウジングファーストの海外事例**
カナダやアメリカの都市では、ハウジングファーストによりホームレス状態から脱却し、再犯率や医療利用頻度が減少した研究があります。例: *Housing First in Canada*, Gaetz et al., 2013
→ 定住が安全を担保し、その後の支援を可能にしている。
– **遊動的生活と支援の難しさ**
野宿者など遊動的な生活者は支援へのアクセスが難しく、健康状態の悪化を招くことが多いです。
→ 定住支援の必要性を裏付ける。
– **批判的視点とアンチハウジングファースト論**
一部の研究者は、住居提供だけでは根本的問題(精神疾患や貧困構造)を解決できず、結果的に「社会的抑圧」の一形態になる可能性を指摘しています。
→ 定住による社会統制の側面を強調。
## まとめ
観点/ポジティブ側面/ネガティブ側面
定住(ハウジングファースト)/安全・安定した生活基盤の提供 医療・支援アクセスの向上/統治・管理による自由の制限感 強制的定住による抵抗感
遊動的生活/自由な移動と選択/支援アクセス困難
健康・社会的リスク増加
ハウジングファーストは「遊動と比較して定住化による支配的効果が否定できない」一方、支援の効果や生活再建の視点では重要な政策手法です。支配的効果を和らげるには、対象者の主体的意思を尊重し、柔軟で包括的な支援システムが求められます。
※# ハウジングファーストと遊動・定住に関する参考文献
## ハウジングファーストの効果・批判を論じた文献
1. **Gaetz, S., Scott, F., & Gulliver, T. (2013).**
*Housing First in Canada: Supporting Communities to End Homelessness.*
Canadian Homelessness Research Network Press.
– ハウジングファーストの理論的背景とカナダにおける実践例、効果検証がまとめられている。
– [オンラインで無料公開](https://www.homelesshub.ca/resource/housing-first-canada-supporting-communities-end-homelessness)
2. **Tsemberis, S. (2010).**
*Housing First: The Pathways Model to End Homelessness for People with Mental Illness and Addiction.*
Hazelden Publishing.
– ハウジングファーストの創始者による基本モデルの解説。
– 定住による安定化の重要性とその効果について具体的事例を示す。
3. **Padgett, D. K., Henwood, B. F., & Tsemberis, S. J. (2016).**
*Housing First: Ending Homelessness, Transforming Systems, and Changing Lives.*
Oxford University Press.
– 定住支援の臨床的・社会的効果の検証と課題を総合的に論じる。
4. **Cloke, P., May, J., & Johnsen, S. (2010).**
*Swept Up Lives? Re-envisaging the Homeless City.*
Wiley-Blackwell.
– 遊動・移動生活(ストリートでの生活形態)と都市空間における社会的コントロールの問題を探求。
– 定住政策の統治的側面を批判的に検討。
## 遊動・定住と社会統制に関する理論的文献・報告
1. **Scott, J. C. (1998).**
*Seeing Like a State: How Certain Schemes to Improve the Human Condition Have Failed.*
Yale University Press.
– 国家による定住促進が形成する統治(国家の「視点」)と個人の自由との緊張を社会理論的に論じる。
– ハウジングファースト的政策の社会的統制側面の理解に役立つ。
2. **Foucault, M. (1977).**
*Discipline and Punish: The Birth of the Prison.*
Vintage Books.
– 監視・管理と自由の絡みを哲学的に検討。
– 定住化を通じての「規律化」や「監督」の機構分析に応用可能。
3. **Wacquant, L. (2008).**
*Urban Outcasts: A Comparative Sociology of Advanced Marginality.*
Polity Press.
– 都市の貧困層の隔離、監視と社会統制、遊動的な生活様式の社会学的分析。
– 定住化政策の社会学的影響を理解するための枠組みを提供。
# まとめ
分野/代表文献・著者/内容
ハウジングファーストの実践と効果/Gaetz et al. (2013)、Tsemberis (2010) /住居提供の効果と支援方法の提示 遊動生活と社会的統制/Cloke et al. (2010)、Scott (1998)、Wacquant (2008)/移動生活の特徴、定住による社会的拘束の問題 監視と統治/Foucault (1977)/監視社会・規律化の理論
〔AIとの対話〕▼▲▼▲
〉〉〉〉〉参考資料
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/肇慶の文化財を探索:肇慶古城壁から包拯文化園まで
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/広州の地下鉄の乗り方は?
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2025-11-11 定番ツアーはもう飽きた?ローカル旅行情報発信サイト /中国の電動バイクは外国人でも無免許レンタル可能?多くの旅行客が活用している「」の種類と現地法律に則った賢い利用方法を徹底解説
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(にうろ)中国旅ブロガーniurouのブログ
2024 /WeChat(微信) のQRコード(乗車券)で地下鉄に乗る方法 https://niurou-king.com/wechat_ditie_qrcode/
2025 /Alipay(支付宝) のQRコード(乗車券)で地下鉄に乗る方法 https://niurou-king.com/alipay_ditie_qrcode/
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▼▲ は
(はくが)博雅特网 /梧州艇仔粥-万秀区特 http://shop.bytravel.cn/produce/82474ED47CA5/
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(べとな)VIETNAM360 目的地 | ハロン湾 ハロン湾の最高の漁村 5 By Romain Hutt 24.11月2024年 206 vues URL=https://x.gd/aexKM
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(まいに)毎日頭條
2017/探究廣東美食」艇仔粥「的文化淵源 URL=https://kknews.cc/news/jm4yaoq.html
2018/枝灣以前的老照片,還認得是裏? URL=https://kknews.cc/zh-mo/history/x85m5gg.html
(みりい)Milly 2025.8.10/サンダカン水上の街にあるレストラン|Seafood Sim Sim 88 行ってみた URL=https://x.gd/CIUup(短縮)
▼▲参考資料▼▲▼▲▼▲
