外伝01-9மதுரை【Crazy for RRR】Some day:気分はインド滞留

RRR RRR RRR

日,五回目のスクリーンを見てきたとこです。
 常々思ってるけどインド映画というのは,映画ではありません。じゃあ何かというと,インド人にしか分からない何かの娯楽です。……いや,かつてそうでした。
 RRRに至って,それが,強引に世界を納得させる力を持つに至ってしまった。
 今日の八丁堀シネマの劇場側あいさつが言い得て妙でした。「この映画はインド映画ですけど,面白いんです」

インドネシア語版でもやはり「七つの海を渡った……銃弾」と言ってるらしい。イギリスからインドへ行くのに,七つも海を渡る必要はない。
ビーム登場シーンの虎さんとの対決は,総督邸攻撃用の猛獣確保でもあった,という伏線は見事で,デリーでビームが運んでた巨大な肉塊も彼らの餌だったんでしょう。でも森からデリー市内までは,どう運んできたのか?? デリーの市内の室内にどう搬入したのか??と一連の謎が残るんですけど……?

橋にロープで宙釣り作戦問題

ローブの長さがほんの少し長かったり短かったりしたら,誰も助からなかった──などとはもう言わない。ただ,子どもとインド国旗が衝突してたら「アイツらは何がしたかったんだ?」と末永く語り継がれる謎の二人になっていたであろう……。
この握手が実質の「RRR」オープニングになる目出度いシーンです。ただし,この状態から二人ともヤムナー川に落ちるには,両者が同時に腰のローブを解かなければならない。少しでもタイミングがズレたら……という疑心から,ビームはまだ国旗を手放せずにいるのではないだろうか?

 日本語吹き替え版RRRで面白かったのは,ビームとジェシーの初デートシーン。原作では二人が互いの言語を理解していないのに,日本語版では「言語の壁」がなくて「ごめんなさい,よく聞こえなかったわ」とかたまたま勘違いしたとかという構成になってます。インドを含む世界の常態としての多言語状況は,日本人に「理解不能」であるという前提で邦訳されている。ある意味で賢明な意訳であり,ある意味では悲しい日本人観です。

NATU! NATU!! NATU!!!

アカデミー賞受賞!のナートゥのシーン。まず分からんのは,何で招待状のないラーマがパーティーに入れたんだろう?あと,これだけ目立ってるのに出席者の白人に「アイツは例の警官じゃないか」と気付く人っていなかったんでしょうか?
NATUシーンは,実はその前段に含意があります。「褐色人に芸術が分かるか?」なる差別的発言への反駁,というのはS.S.ラージャマウリ監督の一群の映画に込めた意志でもあろう。その小さなサブストーリーと認知できるのが,ジェイクがビームを蔑み踊る「スイング」の後,楽団のドラムのアフリカ系の男が小さく首を振るカット。「黒人奴隷」がアメリカで創出した新進ダンスを,イギリス人がこんな文脈で踊る事態そのものに絶望的に首を振っているのです。
それを前提にすると,このドラマーがラーマに鉢をすんなり渡し,さらにそのリズムを引き継いで打ち鳴らす流れ,次いでのNATUシーンそのものの高揚がより深く堪能できます。
ちなみにこのジェイク役:Eduard Buhacさんをググると「映画監督」として出てくる。英語サイトにも「Actor, Writer, Director, Producer」と表示される多彩な活動範囲の……謎の方です。

More Deep NATU!

NATU,アカデミー賞受賞!──はいいけど,このポスターはヒドいと思う。
ノロイとそのイタチ軍団の踊り〔斎藤惇夫「冒険者たち」※アニメ「ガンバの大冒険」原作〕

然ですけど、RRRのNatuシーン(またはバーフバリの黄金像除幕式典で勝手に始まる音曲)から、斎藤敦夫「冒険者たち」(ガンバの冒険)のイタチとネズミの踊り比べを連想した方はおられないでしょうか?
 アニメでは血みどろの戦いとしか描かれなかったイタチとネズミの戦いは、斎藤原作では前半が、イタチの言葉・踊り・歌として描かれており、論者によってはそれがこの物語の真に珠玉な部分だと評してます。

半ジェイクがとうとうNatu!!!し始めるシーン

ーフパリと違い,敵が異文化であるRRRの底流には,インド文化の中でも原ドラヴィダ的な「野生」をあえて英国「文明」に衝突させ,前者の勝利を描くインド的精神主義の姿勢があります。これはコムランビームのシーンとも共鳴してます。
 中盤以降の怒涛のアクションの裏で,ラーマとビームの戦いに,ラージャマウリさんは印英──あるいはアジアvsヨーロッパの「文化的競争」を象徴させています。だから,Natuシーンはある意味この映画全体を要約してます。

NATUシーンの最後辺り,ラーマ,ビームとジェイクの三人の踊り比べ

場に移るまで白人男性全員がノリを示さず、ジェイクに至っては半ばまで「不快」「汚らわしい」とまで吐いていたのが、白人女性が砂煙をあげ踊り出し、最後にはジェイクを含む白人男性まで片足をクネクネさせて踊り初める。
 これはまるで現代の様です。印中の異質かつパワフルな経済的・技術的進出で全く新しいシーンが創造され,欧米も止むなくそこでの「踊り方」を真似ないといけなくなっている。それとそっくりです。
 必死の形相で踊り初めたジェイクを,ラーマは拒まない。むしろ「GoodJob」の親指を両手で示してます。

(上)ラーマの足がツッた(フリをした)時,後方で立ち上がって喜ぶ婦人がいて……(中)ドレス色からどうもジェニーだと思われるけれど……(下)次のシーンではジェシーは座っています。──ということは,ビームにはもう一人「隠れファン」がいたのでしょうか?(おそらく制作上の何かの手違い?)

猛獣とビームの殴り込み問題

最高に盛り上がるシーンで恐縮ですけど,マッリがこの猛獣たちに食べられちゃったら,ビームはもう村へは帰れなかったろうなあ……。
跳躍したビームは地上着地後に篝火で猛獣たちを四方に散らばらせた,というストーリーですけど,着地前に真下に猛獣いなくてホントに良かった──と思ってたら,いるじゃないか,真下あるいは真後ろに(赤線囲い内)!!じゃあなぜビームは生き残れたんだ?
ビームの拷問シーンと,その現場に夜帰ってきてラーマが言う「銃によらない革命だ」のシーンは,唯一,インド独立史の非暴力主義を連想させます。ただストーリーは,最終章でもっと過激に白人を殺しまくる訳ですけど……。
ラーマのトラップで宙に浮いたジープからの追撃シーン。流石は悪の提督!と唸らせる妙技ですけど……何で銃が一緒に浮いたのか?ラーマを撃った後,無事に着地できたのか?と色々と謎が謎を呼びます。ちなみにこの俳優:レイ・スティーブンソンさん(撮影当時56歳)はRRRブーム最高潮の2023.5に亡くなってます(58歳)。マイティ・ソー(2011)で共演した浅野忠信さんが追悼コメントされてました。お疲れ様でした。

Load,Aim,Shoot!

Tシャツが売り出されたらしい。映画を知らない人がこのシャツ着てる奴見たら……変でしょうね。
村の訓練シーンはそれ自体が迫力あるんだけど──この村人たちは一体何をして生計を立ててるんでしょう?

Komaram Bheem

Komuram Bheemudo
公開鞭打シーンでビームが歌うコムラム・ビームは実在の人名で,ビームのモデルになっているハイデラバード藩王国(ニザーム藩王国)内のゴンド族の革命指導者〔wiki/コムラム・ビーム〕。1930年代に複数のゴンド族(先住民(アディヴァシ)中,インド最大の民族。現・人口3〜400万人)の指導者。死後「Bheemal Pen」崇拝の中で神格化。
 歌としては,このシーンまでに二回歌われてます。冒頭はマッリの笑みとともに,総督邸ではマッリに奪還を約しつつビームが歌う。三度目が拷問時,風に舞ってきた一葉からビームが分身又は英雄コムランビームと対話しつつ歌う。
 分身としては,耐え抜いた未来の己との対話です。成した後の自分を「知って」いる者は必ず成す。自己暗示と言うには凄まじ過ぎるけど,バーフバリのDhivara(滝登り)シーンにも通底するインド式精神主義です。これが物語の転換点になります。

 なお,ビーム役のNTRジュニアは,鉄塊ぶら下げシーンで本当に足を怪我したという。それは確かにもっともらしい。でも,ラーマ役のラームチャランもこのシーンで膝の前十字靭帯断裂で全治三ヶ月の怪我をしたという。なぜ鞭を手にした特別捜査官がこのシーンで怪我をしたんだろう?

 ちなみに主役二人のモデルは──
Komaram Bheem
Alluri Sitarama Raju
〔Watched RRR? Meet the real-life revolutionaries Alluri Sitarama Raju and Komaram Bheem〕※URL:https://www.google.com/amp/s/organiser.org/2023/03/14/164921/bharat/watched-rrr-meet-the-real-life-revolutionaries-alluri-sitarama-raju-and-komaram-bheem/amp/
ラーマ救出を決意したビームに,刑務所の地図を見せるジェニー──でもこの英側唯一の味方役の女性は,デリーにいるはずで……アグラに逃げて来てるビームとはどこで接触したのでしょう? ※デリー-アグラ間は250km近く離れてる。

2人対インド総督軍問題

※バーフバリ前編に最初の頃日本で付けられてた迷キャプション「1人対王国」に因みまして……。

手榴弾は現代のものでも1kg近い。矢に付けても飛ばないはずよ?

大団円問題

ラストの草原シーンでは,元々ヒロインだったマッリがどうも脇役になってしまって可哀想です。でも……
エンディングでは主役に帰り咲いて,ほっと一安心──って,じゃあジェシーは一体どこへ行ったんだ?あの人はもうイギリスに帰れないだろし……エンディングで踊ってる場合じゃないと思う。
デリーからベンガル湾沿岸のヴィシャーカパトナム Visakhapatnamまで,船で何日もかかる。背中の矢筒はもう外した方がいいと思う。

 最後になるけれど,RRRのラーマの「ラーマ王子」化は,インド極右的なイメージが強いことは,一応頭に入れておいた方が,思想的には安全です。
 21Cに入ってからインドを訪れた事のある人は,インドが如何に怒涛の「右傾化」をしつつあるか,かつ,これまでの現代史からしてそれが如何に必然でやむを得ない事か,ご理解できるはずです。

インドを余り知らない人でもRRRの「思想的危険性」が確認できるのは,エンディングのインド独立運動の英雄群像の中にネールはもちろんモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーが登場していない点です。彼らはRRR製作のテルグ語映画の支持層にとって,「向こう側」の有力者だからです。

A song claims we won freedom without shield or sword thanks to a miracle by Mahatma Gandhi. I despise this song. If freedom could be won without violence, Ram would have Sita to spin cotton to get Ravan to release her. Hindus, become Ram and get your bow and arrow ready. Those who eye India will have their eyes gouged out and thrown to vultures.〔Sadhvi Saraswati(サドヴィ・サラスワティ,当時13歳の少女)によるVHP(世界ヒンドゥ協会,RSS(民族義勇団)傘下)集会でのアジテーション←後掲インド映画の平和力〕

ガンディの奇跡により、盾や銃剣に頼ることなく植民地支配からの解放を得たという歌があります。くだらないと思います。暴力なしで自由が勝ち取れるなら、(古代叙事詩『ラーマーヤナ』の)ラーマ王子は(魔王に拉致された)シーター妃にこう言ったでしょう。「解放してもらえるよう、魔王のために綿を紡ぐがよい」 ヒンドゥ教徒にうったえます! 私たちもラーマ王子になって、弓と矢を手にするのです。インドに邪な視線を注ぐ者がいたら、それらの目をえぐり出しハゲワシのエサにしてやりましょう。

※インド映画の平和力/テルグ語映画『RRR』について、そろそろ「本当の話」をしよう④ ヒンドゥ右翼の影その3 「ラーマ神のよそおい」と「武器の獲得」 –
URL:https://blog.goo.ne.jp/sakohm27/e/fdf7acff6b9f6b0e970f9211cd451a9f

 エンディングの「SHOREY」で挙がるインド独立運動の英雄群像の中にガンディーもネールも入っていないのは,そういう政治思想が底流にある映画だからです。

※RSSはガンディー暗殺犯のナトラム・ゴドセが帰属した団体。

YouTubeにもやはりこういうコメントがありました。

 アクション映画として楽しむと同時に心理的警戒を維持しておくべきなのは,中国映画「芳華」「長津湖」と同じかそれ以上です。
 ただ,それでもこれらの映画が楽しめるのは,そうした荒々しい──バーフバリ風に言えば,破壊神シヴァの神威が還流となって画面と音声に噴出してるからに他ならないのです。
 WITCHといい「首」といい……カルチャーの表層にこれほど荒い野生からの噴火口が出来ている現状を,どう見るべきなのてしょう?
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