m551m第五十五波m福州m1.柔遠驛 mm このみなとまでにほへるでいごの花

第三天

m551m第五十五波m福州/泉州m1.柔遠驛/開元寺/西街炉下埕 mm
このみなとまでにほへるでいごの花
ザイトンへハヌマン降る土用東風
この港から出で波斯へ女王花
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本句
の町に生まれる雲や花は葉に
〔灘◁28th松山〕
❛D❜ →上五中七は季語に合うか?
←雲の湧き上がり出ていく感じ
→「生まれる雲」は「生まれし」と過去の方が?
←今生まれた雲
→主体の愛着。雲を描写すべき
←小高い場所から町を眺めている
→花は葉にが暗く終わらせている。
❛選❜ 時間の流れが2つ。喪失と創出の対比もある。
※泉州は海上交易の中心地として繁栄し、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロはこの都市をザイトン(イタリア語: Zaiton、閩南語: 刺桐)としてその繁栄を記録に残した。
※土用東風∶(どようごち)夏の終わり、土用のさなかに吹く東風のこと。また雲ひとつない晴天に吹き渡る東風を「青東風」という。「青東風」は「青嵐」に含まれる場合もあるが、「青嵐」が爽快で清涼な風なのに対し、「青東風」は蒸した感じが伴う。
※波斯∶(はし)ペルシア
琉球館の柔遠。
マルコポーロの泉州。
異人の来た港の
仄かな香り。
[本日合計]
支出1300/収入1470
    ▼13.0[③044]
    /負債 170
[本日累計]
利益 -/負債 530
九月十五日(一)
0836早餐館
連江鍋辺 豆漿 250
1053 庄記面館
伴麺+肉燕 370
1734 東門頭牛肉館
香米咸飯+経典牛筋湯280
2000 春生堂 秘制酒
千里香 辣腸 500
[本日合計]
支出1300/収入1300
    ▼13.0[③045]
    /負債 0
[本日累計]
利益 -/負債 530
九月十六日(二)

 


またesimのアクセスが悪い。
古三座から76路で柔遠雅苑南西のバス停・南公園まで行けるのは分かるけれど──
仕方ないので2つ目のesim──同じCUniqの2つ目をオンにしてみたらサクサク繋がり始めた。ということは、一つ目esimは金盾さんに、何かの前科で逮捕されてしまったことになる。試しに再度一つ目に戻してみたけど同じく捕まってる。──時間を置けば解除されるのか?大体何で捕まった?まあ所詮中国カフカですからね。
J1の下のluckin coffeeからは注文するとロボットが部屋まで届けてくれるらしい。エレベーターに乗るのが凄いけどまあ原理的には可能。そこまでして部屋でコーヒー飲むのもどうかと思うけど。
荷造りをしてから0730出撃。泉州行1217までのリミット付き探索です。

宿北の水路は五四河

宿北の水路は五四河。
少し西で北に折れてます。つまり北から我が宿・全季にぶつかって東行する形になる。これが宿の東1kmほどで晋安河、前回親しんだ南北水路に交わります。さらにこの晋安河が光明湾という東西の閩江の湾入のような支流に注ぐのですけど、この合流点の西側がこの日に向かおうとしてた柔遠駅。
 琉球の進貢交易用の港があったとされる場所です。
五四河-晋安河-閩江と柔遠駅の位置関係〔→高雄地図∶五四河

古三座のバス停のモニターにもあと何駅というのは出てる。安心じゃん!
76路に乗る間際にさっきからどぎまぎと騒いでたオバハン二人がワシに「◯◯へ行く?」と訊いてくる。見た感じ乳母車引いてるし町の人なんたけど──ガイジンに訊くなよ!
0743 76路バスの車窓から見る福州の町

朝の南北道はそれでもガンガンに車とバイクを流し続けてます。
金垱。北京語なら何とかアナウンスが聞き取れる。次です。町はまずまず下町……からの、あらら。
76路バス車内

一気に人が減ってきました。誰も行かない辺りなの?
0800ジャスト南公園下車。バスの乗客半ばが降りた。ad.国貨西路311
0803バス停・南公園とそのすぐ背後を爆走するバイク。道路上で客を乗降させる土佐電より、さらに数倍する怖さ!

迷う。まず公園ブロックの東か。
0806南公園から打鉄港河方向

0808水路・打鉄港河。東岸はいい川辺たけど文化街に整備されてる。岸壁や橋も往時のものではとてもない。
0809文化街にもうすぐなる界隈・打鉄港河

北へ渡ろう。
天榕花園というアパート群に北行する路地・琯前路。名はコレです。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
高德地图(経路:南公园(公交站)~天俊·云顶[ダミー])

0814琯前路へと北行

0815琯前路

0816いろいろとごちゃごちゃしてる琯前路

0817福州市水務文化旅遊有限公司とその前の市場
1818琯前路

1819琯前路。とにかく好い通りでした。

0820琯前路の朝の木漏れ日

0822T字を右折、出たみちは琯后街。
0821琯后街に出る。中途から南を一枚。

左折北行。つまりこの前路と后街の間に琉球館があったことに……地名的にはなります。0823后街の南を一枚。0824北を一枚。
0823琯后街を南へ一枚

0824琯后街を北へ一枚

0826琯后街から状元街へのT字口

0827琯后街・状元街T字の南西角の店頭

状元街北側の敷地面への下り段差

0824東西の状元街。地が5段ほど低い。堤があったのか?一応左折西行。
0836早餐館
連江鍋辺 豆漿 
0837早餐館の連江鍋辺

豆漿は豆乳。シエンではなかった……。
鍋辺は──何だこれ?米のお粥にお好み焼きの屑みたいなのにセロリの香?
具の割にかなりガッツリした汁です。トロミがあるわけでも味が濃いわけでもないのに──ガッツリ食べた満足感がある。
早餐館の連江鍋辺をさらにどアップ

そんなはずはない。具はほとんど屑みたいな料理です。西安の胡椒湯にも似てるけど、あんなに調味料は強くない。
7元でした。多分福州の最下層料理だと思う。
北から見る早餐館の外観

0850状元街の入口

状元街の中にフラッと入ってみる。五一新村?派出所名は新港。
0851状元街のスプラッター肉屋さん

0858状元街のアパート下で何だか決めポーズの男

0859何か琯前路よりさらにぐちゃぐちゃで気に入った状元街

0900状元街東出口辺り

宝珠巷で折り返す。后街の東に入ってみよう。
0902五一新村后巷への入口。正面が東、右湾曲で南へ折れる。

0901五一新村后巷へ東行。段差あり。
右≒南に湾曲。
0903五一新村后巷の弧状部

五一新村后巷の行き止まり(居住区ゲート)部

南公社区という役人専用アパートらしく通り抜けできそうにない。戻る。0906
しかし──これは水路の跡の再利用に見える。とすればこの四分の一孤ラインは岸線と推定できます。
五一新村への四分の一弧(指さし位置)

0908対聯からの登り階段

交通案内にのみ記される「柔遠」

0917住宅地図に記される複雑な水路

花園名にも「柔遠」

0918 丁度来た76路に飛び乗る。北へ。
車中、こうやってesimのナンバーがどんどん変わるなら無理して電話番号登録しなくてもJCBを使えばいいと気付く。
0943宿のブロックを回る。南の道は湖東路。
湖東支路の居住区での寸景

西は湖東支路。0947一枚。
高架・百福橋の登り口

高架は百福橋という。色んなイメージが込められてるらしいけど。URL:https://sjfd.ctxjj.com?type=scenicSpot&code=SJBDJXBF
高架・百福橋のトップ付近の赤斑

高架・百福橋から北を眺める。

河は宿の北すぐでY字分岐してる。岸壁はいずれもコンクリ。
一風呂浴びてバス停・古三座。
69路で福州站へ。南広場に着くから昨日の店に寄れる。1039
69路バス車内

新esimは位置情報が出なくなってる?つまり金盾さんはesimの位置情報をサービスしてくれる段階を経てバッサリとアクセスを切るらしい。これは広州でもそうでした。多分スマホの中に軽いウイルス的なもので侵略するんじゃないでしょうか。知らんけど。
南広場が終点ならBT内に入るらしい。1050下車。
泉州-漳浦が硬座75分ならやはり昼に動くか?
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一六世紀前期は、日明間の直接的貿易がきわめて低調な時期であった。一五一四〜四〇 (永正一一〜天文九)年には、一五ニ三(大永三)年の寧波の乱を挟んで、日明朝貢貿易による海外産品の輸入は二七年間にわたって中断している(8)。また一五三〇年代前半までは、華人海商が対日密貿易に従事したことを明示する史料も確認されていない。
 したがってこの時期の日本への中国・南海産品供給は、ほとんど琉球の中継貿易に依存していた。ただし琉球の対明朝貢貿易は、一五世紀中期から長期低落傾向にあり、一四七五(成化一一)年には朝貢回数が従来の一年一貢から二年一貢に半減された(9)。さらに弘治年間(一四八八〜一五〇五)には、それまで関税を免除されていた進貢船の積載裔品(附搭貨物)に、五割の関税が課されることになり、交易条件は大きく悪化した(10)。〔後掲中島3枚目p3(1071)〕

※原注(8)小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』(刀江書院、1941年)102-76頁(ママ)
(9) 岡本弘道『琉球王国海上交渉史研究』(榕樹書林、二〇一〇年)一七〜四一頁
(10)小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』 (日本評論社、一九三九年)三〇五〜七頁。

 しかし考古学的データは、一六世紀前半には琉球の中継貿易はむしろ拡大局面にあったことを示唆する。那覇港における中国陶磁の出土数は、一五世紀前・中期の七七一点から、一五世紀末〜一六世紀前半には二二〇九点と三倍増している(12) 。また堺においても、一六世紀前半は貿易陶磁の出土量が「ピークを示す時期」であり、京都でも貿易陶磁は特に一六世紀前期に「多量に出土する」(13)。一六世紀前期にはH明間の直接的貿易はごく限定的だったので、これらの輸入陶磁の大部分は琉球の中継貿易を通じて流入したはずである。〔後掲中島3枚目p3(1071)〕

 この時期に朝貢貿易の縮小にもかかわらず、琉球の中継貿易が活況を呈していたのは、福建との密貿易の拡大によるものであった。すでに弘治年間には、次のような状況が伝えられている。「琉球・日本の諸海国は、閩を去ること僅かに数千里。…………奇貨珍材、以て華人にり、獲ることたやすく数倍。故に濱海の禁を冒す民、往往にして買胡と通じ、巨舶にり風涛をたより、旁午そこここに出没す」(14)。この時点で日明間の密貿易が拡大していた形跡はないので、「奇貨珍材」を華人に売った「買胡」とは、おもに琉球人であろう。特に南シナ海域や琉球との密貿易拠点となったのが、福建南部の漳州湾地域(漳州府・泉州府)であった。漳州海商はすでに一五世紀前半から琉球に渡航して密貿易を行っていたが、一五世紀末からは海禁の弛緩にともない、漳州湾地域の密貿易はさらに拡大していく(15)。〔後掲中島3-4枚目pp3(1071)-4(1072)〕

※原注(12)瀬戸哲也「考古学からみる琉球国の形成過程」(『歴史学研究』一〇二三号、 二〇二ニ年) 三頁。
(13)永井正浩・績伸一郎「堺出土貿易陶磁器の時期と様相」(日本中世土器研究会編 『貿易陶磁器研究の現状と土器研究』日本中世土器研究会、 二〇一七年)一一一頁、赤松佳奈「京都出土輸入陶磁器の基礎整理」(同書)七三頁。
(14)費宏『太保費文憲公摘稿』巻九、序「送福建按察司副使陸公君美序」。徐暁望「論明万暦二年福建水帥的台湾新港之戦」( 『福建論壇」二〇一九年一一 期) 一〇九〜一〇頁参照。
(15)徐暁望「明代滝州商人与中琉貿易」(「海交史研究』一九九八年二期)、楊国禎 『閾在海中ー追尋福建海洋発展史』(江西高校出版社、 一九九八年)一八〇〜九八頁。

一六世紀前半には那覇港や畿内における中国掏磁の出土景がピークを示す。一五二〇年代には琉球の朝貢貿易はたしかに急減したが、福建-琉球間の密貿易の拡大により、全体的な貿易量は減少したとしても 一時的・限定的だったのではないか。この時期には広東-東南アジア間、浙江-日本間の貿易ルートがほぽ途絶したことにより、琉球による中国と東南アジア•日本を結ぶ中継貿易の重要性は、むしろ高まっていたはずである(17)。
 一六世紀前期のポルトガル史料も、琉球船がしばしば福建や広東に渡航し、交易を行っていたことを伝えている(18)。たとえば 一五三六年のボルトガル商人ヴァスコ・カルヴォの書簡によれば、福建では漳州カンチェウ(Camcheu)港において非常に活発な交易が行われており、特に「琉球レケオスは日々福建の地と交易し、福建・琉球の海商が相互に往来して、大量の黄金・銅・鉄や絹・磁器などの商品を、大型ジャンクで交易していたという(19)。〔後掲中島4-5枚目pp4(1072)-5(1073)〕

※原注(17)太田由紀夫『銭躍る東シナ海』(講談社、 二0ニ―年)では、一五二0年代から琉球では朝貢貿易が縮小しただけではなく、「華商との密貿易がこの頃から下火になっていた」と説くが(一四八〜一五三頁)、説得的な論拠は示されていない。
(18)中島 『海域アジアと琉球』二四三〜八、二六七〜八三頁
※関連 (1)(略)中島楽章『大航海時代の海域アジアと琉球―レキオスを求めて―』(思文閣出版、二〇二〇年、中島『海域アジアと琉球』と略称)(略)
(19) Rui Manuel Loureiro , Cartasdos Cativos de Cantiio , Macao : Instituto Cultural de Macau , 1992 p.92,95. カルヴォは一五ニ一年に広東当局がポルトガル人を駆逐した際に拘束され、広東按察司の獄中からひそかにこの書簡を送った。彼は監禁中に華人から漢語を学び、中国の地誌も参照していたという (ibid . p.96)。彼の中国情報は拘束以前の見聞と、監禁中に伝聞や書籍で得た知識によると思われ、総じて正確である。中島 『海域アジアと琉球』二七三〜九頁。

 一五五六(嘉靖三五・弘治二)年に豊後に渡航して日本情報を収集した鄭舜功は、華人海商が対日密貿易に乗りだした契機について、次のように記している。
  嘉靖甲午、給事中陳侃は琉球に出使し、例として福建に由りて津発ふなです。ときに従役の人は皆な閩人なり。…………比に日本の僧、琉球に師学し、我が従役の人、この僧の日本はあきなう可しと言うを聞く。故に従役せる者、即ち貨財を以て往きてこれに市い、大利を得獲して婦り、閩人をして往往にその間に私市せしむるを致す(25)。
 一五三四 (嘉靖一三)年、陳侃が冊封使として琉球に渡航した際、随行した福建人が日本の学僧から情報を得て、日本に渡航して交易を行い多大な利益を得た。それを契機に、福建人は日本に密貿易に赴くようになったのだという。むろんそれ以前から漳州海商は恒常的に琉球と密貿易を行っており、そこで日本情報を得る機会もあったはずである。しかし 一五三四年は、石見銀山で灰吹法が導入され銀生産が急増した翌年にあたり、実際にこのころから、華人海商が日本銀を求めて琉球から九州に渡航しはじめたのだろう(26)。〔後掲中島5-6枚目pp5(1073)-6(1074)〕

※原注(25)鄭舜功 『日本一鑑』窮河話海、巻六、海市。上田館 『戦国日本を見た中国人 海の物語 『日本一鑑』を読む』(講談社、二〇二三年)四ニ〜五頁参照。
(26)長谷川前掲「石見銀山と大内氏」六〜九頁。
※(24)長谷川博史「石見銀山と大内氏」(『石見銀山研究』二号、二〇二二年」(

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〉〉〉〉〉参考資料 

中島楽章 2024「一五四〇年代の東アジア海上貿易と琉球・九州」『史学雑誌』133編7号 pp1-42
※reseach map URL:https://researchmap.jp/gakusho/published_papers/50951258

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