GM.(経路)
急斜面から不老洞まで
ウォーキングマニアが辿る平戸往還・逢坂を,ワシが下っているのは,佐世保随一の洋菓子店を目指したからでした。だからそれが,こんなとんでもない坂道の連続とは予想もしていませんでした。
蛇行なんてもんじゃない,ほとんど綴れ織りです。
好い道です。松川町自治会と徐行看板が出てる。続いて松川町一組公民館……という辺りからまっすぐの坂道になりましたけど,それでも急斜面です。
おおっと!上からバイクが追い越していきました。この坂道,結構交通量多い坂です。
1643,小さな公園。地盤が二段になってる。何かの跡地でしょうか。
1646,ようやく車道へ戻る。天津飯店正面。
川と車道を越える。──これが小佐世保川だったのでしょうか。
裏手の道を左折。ラブホを過ぎると公園脇に出た。1653。左にホテルビブロス。
これを北行だろう。右折。
左手に佐世保市体育文化館。
1656,十字路……とは言えない,何本交わってるんだ?という交差点。北にホテルロータスハウス。その向こうの高みに松浦鉄道高架が見えてます。
北行きの道へ,僅かに右折左折して注意深く入る。間違いないな?
おおっ!これは明らかに古い切通です。だけどその入口って……これは石垣だぞ?城門とは思えない位置だけど?
──調べたところ,結果的には単なるトンネルでした。でも市民には心霊スポット扱いされてる場所です(巻末参照)。
松浦鉄道沿いの谷
トンネルを抜けた西は谷状。その少し高みを松浦鉄道。今進む道は谷の東側を,ほぼ松浦鉄道と同じ高さで北行してる。
言い方を変えると,ここには南北に大小2本,陵線が走ってる。そのうち手前の小さい方をトンネルで潜り,稜線間の谷に出たわけです。
1706,道が左折。陸橋から鉄道を越える。
いや?これは陸橋と言ってもほぼ石垣です。つまり今の道のラインを石垣あるいは石橋が伝ってたんでしょうか?
読みにくい道と集落の配置です。
谷があるなら,谷底沿いに道が伸びればいいはずなのに,基本道は両側の高みをそれぞれ通ってる。そのうち東側が今歩く道,西側が概ね松浦鉄道なのだから,双方とも古くから,少なくとも近代以前からそこに配置されていたと察せられます。
けれどなぜ谷底が使われないのでしょう?中世に山津波でも流れたのでしょうか?
谷と松浦鉄道の向こうは急に平穏になります。1711,市立祇園小学校前。従来の山肌を崩して整地したらしい学校地。ただし,この北面も石垣が所々露出してます。まだ続いてるの?何が?
佐世保にジェニュイン(本物)あり
どうやら少し先で道路をまたいで続く石段,その先の小山へ抜けてるらしい。でも何のために?形状は郭っぽいんだけど──後の調べでももちろんこんなところに城跡はありません。
1716,この西側にも切通がありました。つまりこの地区は酷く閉鎖された地形だったと思われます。
風強!
「祇園風致地区」との市の公式看板を見る。その先に──
▲ここの何がいいといって,味ももちろんながら,こういう独特の,しかも飾りないセンスが好い。
1720ジェニュイン
お日さまロール
よかった……。てっきり迷ったかと思った。まるっきりの山道に,ぽつん,とある迷い家めいたお店です。なのに客はひっきりなし,実際食べた生地も独特の固さと弾力。突飛ながら阿闍梨餅の皮を想起しました。それでいて卵の風味が艶かしいほど濃厚。
1724,そのまま直進すると信号のある太い,えらくキレイな車道。ここを左折すると中央公園370mと表示。まっすぐは県立武道館らしい。
西天に暗雲と満月
▲1729来週10月20日はYOSAKOIさせぼ祭りだって。
左に「こうつう公園」。右に佐世保キリスト教会。だけど通行人は皆無。
1736,突然運動部員の群れるグランドを斜めに突っ切り,川辺から市立図書館へ出ると,もうそこはいつもの佐世保市街となりました。
1738,島瀬町交差点を過ぎ,島瀬公園で一服。灰皿が一ヶ所に減ってた。でもまだ存在してます,喫煙所。
1743,アーケード。ここにスタバが出来てる。ええっ倉式珈琲まで?ああ,シカゴと入れ替わったのか。
東の空が真っ黒です。平戸本番となる明日,空は持つのか?
垂れ幕に「欢迎再来!」と簡体字。確かに中国人の姿は目立つ。
1756ブラック
ジャンボ(激辛)650
相変わらず客はいない。なぜこれで続いてるのかも謎だけど,記憶通りのとんでもないネットリ辛さで,個人的には捨てがたいのです。何で客がいないのか,に加え色々と謎っぽいお店です,いつもながら。
宿への帰路の西天には,満月が掻き消えそうな暗雲に溺れてる。でも東の空には星もまたたく。天気予報では,風は明日未明までがピークとの予想。ギリギリ行けるのか?
■小レポ:不老洞の昭和20年
高梨町に7人で暮らしていた江島や家族は幸い無事。空襲被害を確認しようと市街地へ向かった。「不老洞」へ着いたが誰かに止められた。入り口には目隠しのすだれ。だが、垣間見えた光景に息をのんだ。壁際には、死体が折り重なっていた。どれも体が焼けた気配はない。煙に巻かれたのだろう。
※ 戦後70年 ながさき 佐世保大空襲の記憶 1 | 長崎新聞ホームページ:長崎のニュース、話題、スポーツ 中,元中学教諭ERさん(2015年当時83歳)証言
現在でも心霊スポット視されるほど,この不老洞をトラウマに感じてきた人は多いらしい。
佐世保大空襲は1945(昭和20)年6月28日。
戦災後1ヶ月以上は、髪の毛を焼いたような匂いが漂っていたと言われています。
※ 佐世保空襲/佐世保市役所
とも書かれる。当方は広島市と呉市の記録に触れる機会が多い立場だけれど,どうもこの佐世保空襲の記録は次元が違う感触を覚えます。町と市民そのものが一網打尽に抹殺された,密度の濃さを感じます。
▲空襲直後の島瀬町付近
画像でも,ほぼ更地になるほど徹底的にやられている。データを見ても,どうやら火の勢いが凄まじかったのではないか。
焼失面積 178万平方メートル(全市街地面積の3分の1)
焼失家屋 全焼 12,037戸(全戸数の約35%) 半焼 69戸
被災者 60,734人(全人口の27%)
うち死亡者 1,242人
うち負傷者 336人
[前掲市HP,死亡者数原典は「佐世保空襲犠牲者遺族会」調べ]
全焼と半焼,死亡と負傷の比で,前者が完全に勝っている。周辺がない,ということは,狭い平地部が完全に火の手で埋まったのではないでしょうか。
現在の佐世保アーケード辺りに,古い文物が皆無なのはこういう事情らしい。
不老洞の両坑口,須佐町と高梨町も被害は大きかったけれど,前述の焼傷のない死体の異様な状況からも,市街から運ばれたのではないと察せられます。猛烈な火気でこの閉塞した谷は窒息状態になったか,煙が充満したかで死に至る方々が多く,それが運びこまれた死体安置所になったのでしょうか?
不老洞は1926(大正15)年竣工,延長33.5m,幅員4.0m,高さ3.9m。
※ 不老洞(長崎県佐世保市) – 廃線隧道【BLOG版】