m131m第十三波m水盆の底や木目の眩みをりm川内観音(序)

本歌:虫籠の底に木目のふくれをり〔灘〕

再訪ですけど初訪気分です。
王直と鄭成功の棲む平戸


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

鉄ちゃんではないのに松浦鉄道

633,松浦鉄道「たびら平戸口」行きに乗車。恥ずかしながらこの路線は初乗車です。
 ライトグレイのシャツの高校生多数。
 黒い雲の動きが激しい。風は暴風というほどではないけれど明らかに荒天。雨具は用意しなかった。この空だとなるようになるしかないでしょう。
 まあ,松浦党本拠へ入るには相応しい空模様で。
▲松浦鉄道 佐世保~たびら平戸口間路線図

643,発車。
 佐世保中央までに既にトンネルがある?アーケードから西の部分の地勢はどうも理解できてません。
 あ,今アーケードをまたいだ。こういう鉄道も珍しいかもしれない。
 0647,中佐世保。──後の調べでは,この中央駅-中佐世保駅の間の距離200mというのは,筑豊電気鉄道線黒崎駅前駅-西黒崎駅間と並び日本で一番短い鉄道線らしく,鉄ちゃんサイトではそりゃもう大変ですけど,ワシは断じて鉄ちゃんではないので関係ない。
 おおっ好い車窓です。谷とトンネルを繰り返して進む。昨日歩いたジェニュインへの道を過ぎたはず。
 0650,北佐世保。ここはもう山麓の駅という感じです。
 トンネル。また出た。凸凹の地形をあるいは縫い,あるいは抜けて進む。
 0653,山の田。初めて佐世保の付かない駅名になったのはいーけど,何だその語感のほのぼのさは?
 次は……泉福寺?グレイシャツの学生はずらずらとここで降りる。高校グランドには体育祭の準備らしい骨組み。
🚈🚈
657,左石。珍奇な地名です。まだそれぞれの家数は相当ある。ばらばらのベッドタウンになってる感じだろうか。
 7時を回る。野中。左手にエレナと「はるやま」。スゲえ寝癖の髪を振り乱した学生が電車に駆け込んできた。
 地勢は他よりは複雑ながら,佐世保近辺ほどではなくなってきた。前方に大きな岩塊。0704,中里。
 俄に動きを止めた雲の合間から晴れ間が覗き始めた。
 0709,上相浦。読みは「かみあいのうら」。佐世保方向の車内には相当数の立ち客が見える。
 0711,大学……って,これが駅名?その辺りから,地勢が広々としてきた。疎らになった山裾はそれでも複雑だから,新しい土壌が間を埋めた格好だろうか。
 大きな川渡り,トンネルを抜ける。──後で地図を見ると,この川が相浦川。松浦鉄道は,泉福寺までの小佐世保川沿線から,左石からの相浦川沿線に乗り換え,そのまま河口まで連れ添った格好です。
 コンクリート橋くぐる。0714,相浦。フェリー乗り場の案内アナウンス。
🚈🚈
723,佐々とアナウンス。「さざ」と読む。大きな平地。山並みは依然激しいけれどここも堆積地だろうか。「河津桜とシロウオの里」と看板。
 左手に川(佐々川)を見ながら北へ進む。0729,清峰高校前。「自転車盗の多発」と掲示。
 次の神田の読みは「こうだ」。簡素だけど美しい駅です。
▲GM.掲載の4枚の神田駅写真。確かに妙に清楚で清々しい駅です。

昔は北松炭田 今がマックスくんがフォーチュンクッキー

方に風車数基。
 0734,トンネルを抜けて谷を縫い始める。吉井。潜竜ケ滝。──後の調べでは,この両駅間で渡ったであろう福井川橋梁は,竹筋コンクリート建設と推定され,2006年にこの橋を含む両駅間の橋梁3本が登録有形文化財になってるそうです。この区画は,やはり佐々川から江迎川沿線への乗り換え地点ですから,建設時点では高度な設計を施した,ということでしょうか。
 0747,高岩。「白岳高原5km」という古ぼけた看板が風に揺れてる。
 川を渡りトンネルへ。
 0749,江迎鹿町。読みは「えむかいしかまち」。どういう由来がありうる地名?──と確かに訝しいけれど,どうやら江戸期の宿場名「江迎宿」を継いで国鉄伊万里線時代に江迎駅と名付けたけれど,後に行政名として江迎町と鹿町(古くは「ししまち」)が並立,駅のあるのは鹿町だったから1988年の三セク化時に現駅名前のように「鹿町」字を入れたらしい。
 なお,江迎宿北の山下家酒造場に「江迎本陣」という江戸期の本陣跡が併設されてて,ここは完全に現存している唯一の本陣という。
※ wiki/江迎鹿町駅 日本の長崎県佐世保市にある松浦鉄道の駅
※ wiki/江迎町 日本の長崎県北松浦郡にあった町
鹿町町 日本の長崎県北松浦郡にあった町


浦鉄道のキャラは,この沿線にちらほら見える不気味な奴らしい。名前を「マックスくん」という。最大らしい。なお,松浦鉄道は略して「MR」と称す。ミスターらしい。
 上の動画は,この当時,松浦鉄道がアップしてた「恋するフォーチュンクッキー松浦鉄道Ver」。曰く「松浦鉄道のマスコットキャラクター『マックスくん』が沿線各地の観光名所で『恋するフォーチュンクッキー』を踊った映像をYouTubeに公開しました。
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々この路線は,伊万里・有田などの陶磁器を佐世保へ運ぶ鉄道の延長で,松浦半島西側は,北松炭田(ほくしょうたんでん)の炭鉱鉄道として戦前にかなり無理なピッチで造られたらしい。炭田の最盛期は1950年代中ば,98カ所の炭鉱で約1万8千人の作業者が従事し,ために吉井・佐々・左石からは支線も伸びていたという。
 MRはこの国鉄路線を受け継ぎ長崎・佐賀両県が経営。かつて「三セクの優等生」と吟われたこの路線も,沿線過疎化に伴い21世紀に入って赤字に転じ,直近では2014年度からの10年間で沿線自治体の約16億円の財政支援を受けているところ。
……といった風に,鉄道ファンでないワシでも(断じて違う)かなり興味深い線路です。次のサイトなどMRの魅力を網羅してるので是非ご一読を。
列島最西端を走る鉄道線「松浦鉄道」――興味深い11の真実
星川功一

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えたちばな」駅(末橘)を過ぎると長いトンネル。この場所で佐世保市から平戸市に入ることになります。
 8時を回って西田平駅。林の中を通っている風情になりました。
 0808,たびら平戸口下車。
 曇天。でも雲は黒くはない。日本最西端の碑とある天皇皇后陛下巡幸記念碑。

たびら平戸口から平戸桟橋への遠い道

▲たびら平戸口駅周辺 GM.&地理院地図

の駅の位置も特異です。MR鉄道は半島の付け根を3/4円弧を描いて北行から東行に転じる。その中間点の「たびら平戸口駅」で一休みする感じです。
 駅のすぐ東を釜田川が流れてますけど,この川は西田平駅沿線から一度MR路線を離れて先回りする格好で玄界灘に注ぐ。つまりMRはやや無理をして,平戸口側の西海岸へ回りこんでいきます。平戸との陸路の接続のためにはこうするしかないほど,平戸対岸の本土の地形はハードなわけです。

▲0839平戸口のバス停にて

はそこからをナメてました。「平戸口」なんだから平戸にはすぐ入れるだろう,と。
 駅前バス停の時刻表を見て唖然。ああっ0808にバスがでてる!列車に合わせた時刻ですから,するっとバスに乗るべきでした。
 で?次は1004?でも……地図を確認すると歩くのはちょっと無理っぽい。
 0823,とにかく平戸瀬戸市場へ着く。ここの二階はレストランだけど……まだオーブン前。バスを探すしかないけど……ここの前の平戸口桟橋バス停からは平戸桟橋行き0900の便がある。これに乗るしかなさそうです。──いや,これほどとは思わなかった。これだとやはり直行バスが便利です。
 0836,松浦駅行が来た。博多行きは日に3便。
 0842,佐世保駅前行き。
🚐
戸桟橋行きが9時を回っても来ない。でももちろんこれしか便を知らない。あれ?今,橋の方から走ってきた車両か?そうか往復便なのか。
 0904,乗車。平戸大橋をようやく渡る。短いけれど高い。平戸瀬戸には白波立つ。
 一つ目の集落。櫓の立つ岬。亀岡神社。
 もう街中らしい。0910,新町バス停。
 0913,桟橋到着。佐世保への半急※はここ発。1845が最終。
※ 聞き慣れない用語だけど準急みたいな意味合いみたい。

▲0928平戸桟橋辺りの光景

バスが現実的な道を自転車で

ンタサイクルは借りれた。0927。あまり利用者はいないらしく,えらく珍しがられる。確かに,車がないと辛い面積ではある。──この日,目指したのは鄭成功出生地の媽祖廟。この行程もやや無茶だとは承知してたけど……。
 桟橋辺りは極めて寂しい。
 電動です。残りkm数36で走り出す。風が強い。
 社はやはり数が多い。一漕ぎする度に社が現れる感じ。
 0933,平戸郵便局を過ぎる。

▲0944大膳原辺りの台地光景

941,一つめの峠のほぼ最上部。セブン。初めて鄭成功廟看板を見る。
 バス停・大膳原。これが広域名でしょうか。かなり大きい台地状地形です。
 残km33。バッテリーの調子はいい。上りの減りもさほどではない。

▲0956棚田のある海側集落

946,バス停・上大垣。同名交差点でR383に交わる。これを右折南行です。
 海岸沿いと思いきや,尾根の上,アップダウンの厳しい道です。
 0954,バス停名・川内。目的地と同住所だけど,これはかなり広い地域を指す地名らしい。
 集落に棚田。
 上の集落写真撮ってたら,宮の浦行きのバスに追い越された。あることはあるらしい。ちょっと計画してればバスが現実的ですね。

▲1001海側から見下ろす平戸瀬戸

ス停・川内峠上り口。0958。絶対登らん!──これを間違って入ると島中央の縦断道に入ってしまう。
 1001,バス停・大野公会堂前。ここが登りの最上部らしい。

貝拾いに行ったら急に産気づいた

▲1015チョー安っぽい鄭成功像

ス停千里が浜。1006,峠も越えたしまずは一服,と自転車を停める。
 浜には,真っ白に安っぽい鄭成功像の脇に平戸島八十八ケ所第七番札所として「鄭延■王慶■ ■ ■」との1852(嘉永5)年の碑あり。「平戸松浦家36代曜(てらす)の時代に,中国・台湾の英雄鄭成功顕彰の機運が高まり」と案内板にある。
 なるほど,地元でも鄭成功を持ち上げ始めたのは維新前夜になってからなのか。

▲1012碑文。漢文ですけど一応判読は効く。

違いかと思ったけど,右隣の戦捷記念碑は満州事変と大東亜戦争のもの。大陸中国への反攻,というイメージが繋がるからなんでしょうか?少なくとも戦前までの日本での鄭成功信仰は,右翼的な空気圧も含んだものだったみたい。
 背後には「湯快リゾート」という施設。誰も寄り付いてないけれど,海水浴シーズンには賑わうのかな?

▲児誕石

し先で児誕石を一応見とく。1019。
 案内板に曰く「マツが千里ケ浜に貝拾いにいき,急に産気づき,浜の岩にもたれて産んだ」と伝わるそうな。海神の神秘性を出生譚に絡めたいための逸話でしょうか?
 ただまあ,なかなかそういう神秘性が印象深い場所ではあります。内海なのに暗い海というか――――

▲1027赤い鄭成功廟

然ここは知らなかったんだけど──1026,看板を見かけたので崩れた道から海際の丘に登ってみる。
 鄭成功廟。
 由緒書きを読むと,この社そのものが1962年に台湾延平郡王祠より分霊が送られたもの。それ以前からの謂れはない場所らしい。
 左隣に「平戸ロータリークラブ創立四十周年記念 台南扶輪社来日記念植樹」との碑と樹木。「扶輪社」とはどんな宗教団体かと調べてみたら,ロータリークラブの中国語訳でした。
※ 維基百科/扶轮社 依循國際扶輪的規章所成立的地區性社會團體

▲1034降り口の景色。おそらくこの集落辺りが鄭成功出生地ですけど──

こまでの見聞で,何となく,この媽祖廟の位置付けが見えてきました。
 どうやら地元の信仰施設ではない。湄洲や泉州の天后廟みたいな,外国人が媽祖を拝むために後付けで造ってる「宗教施設」っぽい。
 げんなりしてきましたけど,一応ここまで来たんだから──てことでね。

▲1035家屋に掲げた「かまぼこ」看板

元祖丸山遊郭から成功への道

道が小さな下りにかかった場所で,やはり案内板に自転車を停める。
 1037,「歓楽郷丸山跡」の碑。
 平戸市の小さなプレートにこう書かれてました。「川内浦は西洋の外洋船にとって,手狭な平戸港に代わる停泊・整備のための重要な港であった。当時はこの丸山に歓楽街が置かれていたとされ,長崎の丸山もこの地名が移ったものといわれている。」
 ええっ?長崎丸山って平戸が元祖だったの?

▲1041丸山の下り坂

本五大遊郭の一角を占めた長崎・丸山の先史が平戸にあった……のか?風俗なので定かなものではないにせよ,売り手側も平戸から移った,という世相が伝わるものかもしれません。
 建物も旅館・料亭風だという。これもワシにはよく分からない。
「平戸の副港」という呼び名を記事に用いている記事もある。オランダ・中国船が風待ちや修理をした,と(オランダ商館の倉庫があったとも)されるけれど,出典は不詳。でも那覇の例からすると平戸の統治側も本港との使い分けをしていても,突飛な発想ではありません。
川内 かわち 飾り立てた2階家
 後で購入した名本「史都平戸」にも,こんな表記がされていました。

川內浦 川内浦は湾広く海深く海底は自然に傾斜して潮汐適度に干満し,碇泊安全で船舶の修繕に便利であっったので,平戸入港の外国船は,貨物の陸揚後はここに来て碇を下し船の手入れをした。為に商家軒を並べ又倉庫埠頭も築かれ平戸の副港としての地位を占めた。その一角丸山には酒楼が設けられ,絃歌頻りに起って歓楽地となった。貿易の
長崎移転に伴って丸山の遊女等は丸山の地名と共に彼地に移ったというのは事実であろう。
※ 財)松浦史料博物館「史都平戸 年表と史談」アオヤギ,平22九版(p143)

▲1044成功への道

手前で色々寄り道してしまったけれど──1044,ようやくたどり着きました。
「成功への道」の撮影をした途端,海際の猫がうなり始めた。
 一匹しかいない?こいつ,番人なのか?
 合わせるように,太陽までも強烈に照りつけ始めます。

▲台湾で絶賛発売中「成功ビール」(成功啤酒)。ちなみに鄭成功の台詞部分は「MY WAY 成功好滋味」とちょっと何言ってるのか分からない。

■資料1:鄭成功概伝(史都平戸)

 この時目的地としたのは,鄭成功と媽祖にまつわる平戸・川内観音です。
 鄭成功と媽祖については,wikiを初め多くの記述があるし,本稿でも触れたので,やや資料性の高いものを改めて挙げるにとどめます。鄭成功については,この時に購入した松浦史料博物館が書き継がれている「史都平戸」の記述です。おそらく,異説を含まない教科書的な鄭成功伝です。

鄭成功 父は芝龍といい中国福建省の人である。芝龍は追われて泉州碇泊中のオランダ船に乗り,平戸川内浦に来て浦人田川マツをめとって二子を生んだ。福松及び七左衛門という。福松は即ち鄭成功で母マツが,千里ヶ浜で貝を捨う時,にわかに産気づき浜の大石にもたれて成功を生んだという。芝能は平戸老一官と称し藩主の寵をうけ機智に富み,剣を平戸藩士花房権右衛門に学び二刀流を嗜んだ。後再びオランダ船に乗って南に帰る途中海賊李旦に捕えられたが,その才幹を認められ李旦の死後は代って党類を率い中国南部沿岸を侵したが,明朝の招に応じて帰順し,一曜福建総兵となり富貴権勢赫々たるものがあった。福松七歳,弟と共に母に養育され平戸に残っていたが,父の招きにより福松は単身渡海し,十五歳で南京大学に入った。骨相非凡大志あり,二十一歳のとき明王隆武に謁し名を朱成功と賜り,軍都督となった。人は彼を国姓爺と敬称した。そして平戸在住の母を招いて孝養を尽くした。やがて清起り明王が危険に瀕したとき,父は清に降ったが母マツはこれを潔とせず泉州城内に憤死し日本女性の意気を示した。※ 財)松浦史料博物館「史都平戸 年表と史談」アオヤギ,平22九版(p132)

(上記続)成功は悲慣慷慨し孔廟に詣でて儒服を焚き,部下九十余人を伴って船に乗り,南澳に至って兵数千を募り,鼓浪島を奪い軍を整えて揚子江を遡り,南京に迫ったが惜しくも敗れ,戈を転じて澎湖島を獲り,たまたま台湾占拠中のオランダ人と戦いブロビンジャ城を降し,ゼイランジャ城を陥れ,安平鎮を定め承天府を置き,地を拓き,民を養い,法律を定め学校を興し大いに時運の挽回を図ったが,遂に熱病の為に一六六二年三十九裁で没した。この偉傑日中混血児は台南城内に明延平郡王嗣として祭られている。[前掲財史都平戸]

■資料2:日本に存在する媽祖の所在一覧

 学術的に存在する,または存在することになってる媽祖は,次の場所にあるものでほぼ網羅されてます。
▲日本所在の古媽祖像一覧
※ 高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」※※ 所在地の原典:藤田明良「日本所在の古媽祖像一覧表(2006年6月現在)」
※※※ 色塗りは引用者
凡例 緑:長崎・沖縄
黄:大阪以東
桃:上記以外

 色塗りを付けたのは,主に由来の正当性からの観点です。
 まず,緑の部分,長崎と沖縄という江戸期の4つの口のうち,中国人海商が公式に来ていた2つの港近辺には,媽祖が当然にある。長崎で語られるように,寄港した船に積まれた媽祖は出港までの間,媽祖寺に収められていたからです。
 もう一つ,いわゆる水戸黄門,徳川光圀が明末に渡来した心越や隠元の影響を受けて広めたと言われる媽祖群。東日本のものはほぼその由来を持っていて,穿って見ても,水戸の威光を建前にして公に祀っていた媽祖です。大阪のものはやや謎ですけれど,由来は東日本のものに近いらしい。
※ 佐藤雅信「日本に来た媽祖―東アジアの航海神の足跡をたどって― 」横須賀大津高校
徐興慶「心越禅師と徳川光圀の思想変遷試論―朱舜水思想との比較において―」

 なお,神戸や横浜の近代以降の中華街に造られた媽祖廟は,「古」像ではないものとして除かれているようです。
 さて,問題になるのは上記以外,ピンクに塗ったエリアの媽祖です。開港地と光圀のどちらでも正当化されない,つまり密貿易の痕跡か江戸期以前にルーツを持つかとしか説明できないもので,大抵公式の由緒はひどく漠然としてる。おそらく語り継げなかったわけで,前者の可能性が濃いものです。
 例えばこの後訪ねることになる薩摩では,「山中で公開してない」「焼けて現存しない」というものがある。江戸期にはもっと露骨に隠蔽されたか,「観音だ」という形に転化されたかしたのでしょう。それでもこれだけの数があるわけですから,同時代には遥かに多数が存在したはずです。
 平戸のものは,この第三群の筆頭の一つと言っていい。王直ゆかりの土地です。公式の由緒もまさに鄭成功です。