007-1佐世保上り道\平戸編\長崎県

~~~~~(m–)m平戸編~~~~~(m–)m

凡例 平:平戸 長:長崎
期倭寇の代表選手・王直。中国水軍がいくら追っても平戸に隠れて殿様暮らし,というくだりを何度も読んでるうち,その土地を再訪したくなりました。ただ,なぜか平戸の宿は混んでいて,佐世保起点で長崎も交えた広域行程となったのでした。

※編内目次
[佐世保]
[平戸]
[長崎]
唐人町
筧潭 水無 南京寺
小菅 集落 船場
梅園 福州寺 漳州寺
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※-C:上り道編
C-:下り道編

カトリック三浦町教会から歩きだす

▲1533カトリック三浦町教会

日1528。駅東対面,レオプラザホテルに荷を預けてすぐ,裏道から北行を開始しました。
 佐世保駅前の細い平地部は,せり出した丘陵地と海の間に延びてます。この丘陵地の海側急傾斜面は,長崎に劣らぬ坂道マニア垂涎の地形地なのです。
 さらにポイントの高いのは,この急坂の道の複雑さ。一本道を誤って,予想してもいない場所に至ったり,間違ったことに気付いたけれどリカバリーできる道が見つからなかったりと,難易度が高い。例えば──レオ裏の高台は分譲地らしく,上側への道は途絶えてる可能性がある。少し北へ回ろう。
 教会裏にも階段の坂道。勘で,これもパス。

変なL字から三浦町二組公民館

▲金子ホテル前の「変なL字」地点(指差し部,国土地理院地図)

 駐車場の広いdairyストアを過ぎ,1534,金子ホテルを見る。駅前裏道はここまでが高台で,ここから一気に下ってる。
 金子ホテルの南の坂から左折東行する。何とも変なL字の登りです(→地点:GM.)。一見何でもない微高地なのに不思議な場所です。
 そのまま東行。1536,寺院が見えてきた。「黒髪山参道いろは坂」と新しい石碑が示す。
 1538,信号のある三叉路。左折しかないな。
 園児2人がふいに駆け出す。三浦保育園らしい。

▲1541三浦町二組公民館上り道の入口から車道に別れを告げる。

浦町二組公民館上り道」とかすれた看板のある階段の上り道。1540。
 ここを右折東行して登ることにする。ad(住所表示:以下同じ)三浦町13。
 すぐ三叉路。右は途切れてるっぽい。これも左へ進むしかないか。
 おや?側溝が片側に続いてます。あまり流れた跡がなく,所々暗渠になってます。古い家並みのラインと見て,これに沿うことにする。

側溝は続くよどこまでも

▲1544三浦町の側溝沿いの坂道

叉路。右を選択すると,すぐにまた三叉。今度は左を選ぶ。
 とにかく東北へ登ろう。側溝はまだ続いてます。ただ,ほぼ暗渠になってきました。
 1547,次の三叉路。右手に見事な階段。でも方向からは左です。うーん……左だな。
 風が強い。天気予報では台風が近づいてました。
 1550,もう一本右に草蒸す階段。魅力的だけど心を鬼にして……というわけでもないけれど,直進を続ける。

▲1551路地に草茂る坂道を登る。

柱のある三叉路。1552。
 直進。階段が終わり,傾斜はあるけれど普通の道になりました。ここで一度側溝とは離れる。

▲1549再度階段道へ

び階段が見えてきた。石垣の段々畑状の敷地が傾斜を帯びて連なります。ただその上は,どうやら尾根になっている気配がしてきました。

高台に意外にも古い家並み

▲1553傾斜弱まる。

び側溝が姿を現す。先のと同じ側溝だろうか?とすると大回りしただけだったかもしれないけれど……。
 長崎と異なるのは,どうもこの上部の家並みの方が古くからある雰囲気がしてること。こちらから先に町が出来たんだろうか。

▲1556煉瓦の廃墟前にて

瓦の廃墟の先に三叉路。1555。
 東方向は右ですけど,主道は左折っぽい。迷う。
 いや,ここは右折で行こう。前方の高みは東から回った方がいいように思えます。

暗い坂の吼声は怖い

▲1559暗い傾斜を行く。

屋が増す。
 大丈夫だろうか?……と不安を煽るような暗がりの坂になってきました。すとん,と行き止まりでも不思議はない風情ですけど,地形からはこっちのはずです。

▲1601無茶苦茶に貫禄のあるアパート

パート前の三叉路。1600ジャスト,左折。ほぼ北方向です。
 犬吼える。こういう状況での吼声は怖い。
 石垣4段。右手に森,枝々が風に騒ぐ。

▲1604石垣の間を抜ける道

マツキヨとエレナと古道・逢坂

1604,石垣が増える。間違いなく古い敷地群です。
 驚くべきことに,まだ水きょが付いてくる。ただこれも,上から町が出来たならむしろ自然なことです。
 1606,女子高生一人とすれ違う。さらに三叉路。直進。
 砂が舞う。尾根が近い気がする
 0609,さらに三叉路。さらに直進すると──

▲1617山衹町のバス停

いに車道に出た。1611,ad山衹町17。佐世保新四国第二番札所とある社。
 それでやっと位置を確認できました。間違いなく,予定よりものすごく東に来てしまってる。
 1615,北行。白南風小学校下バス停。車道沿いで距離を稼いで軌道修正しよう。
 1619,T字。右手に山祇簡易郵便局,左手に小学校。
 1622,マツキヨとエレナのある信号十字路。左折西行。

▲1625だらだら下る殺風景な車道

628,突然に「平戸往還 逢の坂」との看板。そうか──この道の存在自体は古いんだ。
 1632,バス停・逢坂。この地名の響きも古風です。

猫の背を追う下り道

▲1630西への階段道に折れる。

道が大きく曲がる。1632。
 そろそろか。西へ下る急階段を行こう。猫が階段を上がってきた。車道をまたいで東へさらに続く階段に猫の後ろ姿。
 古い階段らしい。左折して下降。しかしまあ……なかなかきつい下りになってます。

▲1639猫の背を追う急坂道

■小レポ:佐世保エリアでの平戸往還ライン

 この日にチラ見して通り過ぎた「平戸往還」というのは,長崎エリアと平戸の間に整備された江戸時代の道でした。脇道として下方街道,唐津街道,波佐見往還がありました。
 古道のウォーキングルートとしては,マニア的に有名になりつつある,または売り出し中らしい。
 平戸往還本道は,1654(承応3)年に幕府から長崎警備役を担わされた平戸藩が整備したもの。脇道・下方街道は平戸の町から島内南の霊山・志々伎山と安満岳への参道。唐津街道と波佐見往還は,三川内焼や波佐見焼を長崎へ運び海外に輸出するルートに使われます。「セラミックロード(陶磁器の道)」の起点と呼ばれる由縁です。
※ wiki/平戸往還
※ 旅する長崎学 ~たびなが~/平戸町道ウォーキング

 佐世保域について言うと,平戸から南行してきた往還本道は,まず東から佐世保宿に入ります。
 この行程の史料は少ないけれど,かの伊能忠敬が1813年1月(文化9年12月)に歩いた測量日記が残ってます。
▲伊能忠敬地図(佐世保域)
※ 伊能忠敬e史料館/8次 測量日記第20巻文化9年12月23日(1813年1月25日) 南北を逆転させて追記したもの。以下同じ。

佐世保宿 
市役所付近から谷郷(たにごう)谷の出口までが宿場町。馬指役所・庄屋・郡代役所など。佐世保市の中心部のため、宿場の面影は全くない。(略)
平戸街道(その3)<編集部のお薦め>(東京北星会・佐世保北高関東地区同窓会)

 従って,佐世保宿(市役所)の地点までは現・国道ラインです。ところがここから往還は西行します。

宮地嶽神社
(略)里人はこの地を宮の地の山として宮地嶽と呼び、この聖地に神功皇后とゆかりの神々を祀った。
平戸街道は海食崖の斜面を、無理をして登り(小崎坂という)、横切り、この神域を通って名切谷(中央公園)に下っている。なお、この海食崖の下の平地は、当時は浅海か湿地であって通行不能であった。[前掲平戸街道その3]

▲上記拡大図

 つまり佐世保川を渡り(さらに,小佐世保川に架かる松川橋を渡る,と書く記事もある※),宮地獄神社から西へ,逢坂を登る。
市役所から山祗神社を通って早岐まで | させぼの歩き方≪佐世保のトレッキング・カヤッキング・サイクリング情報サイト:させぼエコステイ
 これで本章から先の行程に繋がることになります。ワシはマニアではないので,全くそーゆーことを調べてなかったけど,勘が囁いたのか結果的にそうなりました。
 佐世保の古道は,集落に潜らなければ現在は一見新しい道に見える,この丘陵地上を通っていたわけです。現・佐世保駅界隈は上記のように「浅海か湿地であって通行不能」でした。現代港湾に適合した水深のある港湾は,かつてはそういう場所なのかもしれません。
 そうなると,この主道と集落の配置は──
▲フィッシュボーン構造イメージ

 対馬や沖縄でよく見かける道の造りです。特性要因図でお馴染みの,フィッシュボーン(魚の骨)状を考えればいいのかもしれません。
 海際に道が取れない。高台に主道を配置し,各港にはそこから降りていく形を取る。佐世保の場合は片側が山になってるから半身の魚骨になってますけど──
 ただ,港と港は海路で結ばれていたはずです。その分,近い隣港にはわざわざ苦労して海崖を縫って陸路の道を造る必要を感じなかった,ということかもしれません。
 さて,では次章,逢坂そのものではないけれど同じ斜面を下っていきましょう。