目録
船戸宮裏手道
うーん。ワシはこの時,どこを歩いたんでしょう?
船戸宮から左手の階段を登っていきました。下からはコンクリート固めだけど道側は石積です。つまり,階段を降りて港という地勢だったろう。
これが古道だとしたら……旧坊津浦には,もしかすると海岸沿いの道というものがなかったんでしょうか?
「下が坊津公民館」とメモってるから,知らぬ間に東へ戻る道に入ってたことになります。
この道のさらに上に家屋の列があります。この石垣も古い。
1048,下りに入りました。
鶴見山公園から鶴は見えるか?
▲1050下りに入った道。この山際の石垣も見事な古び方でした。
「鶴見山公園」と看板のある場所に着いた。1052。
ここで地図を確認。この下が八坂神社,と確認してます。──ということは,この神社の向こうに鶴ケ崎(→前頁:鶴ケ崎)を見ていたはずです。だから鶴見山から見えるべき「鶴」とは,海人が鶴の頸に例えた岬です。
けれど当時は……えーい,もう全然分からん。とにかくこのまま密貿易まで行っちゃえ!
ところがこの辺りの事物,これが面白過ぎて時を忘れてしまっております。
「井戸に手押しポンプを再現しました。水遊びにご利用ください。坊津町」
何と旧町の行政遺跡です。でも水遊びしろって言われてもなあ……。
推定・伊瀬知善太夫 旧宅
公園脇の道の石垣が,なかなかに古い。草生してて分かりにくいけれど,構造は相当な年月を感じさせます。
路面はコンクリートだけど,道の湾曲は年代を感じさせます。あたかも公園の郭を結んでいるような──。
後に何度か取り上げた坊津町郷土誌に「伊瀬知善太夫」という人の記事があり,この公園はその屋敷跡とのことでした(後掲)。
表には石垣で囲った小さな畑(上写真)。家の奥にも古い竃がある。直し直して使ってきたものらしい。
屋根の庇も精巧です。社だったんだろうか──と当時は訝ってます。今見ても,沖縄の古民家のような佇まいです。
密貿易屋敷に看板はない
石垣に見惚れつつ辿っていくと,どうも下の海岸道に降りれそうな石積み階段を見つけました。1059,名残りを惜しみつつゆっくりと下降。
▲1103ゆっくり下る石段。元の石積みとコンクリの修復で化石のようになった道です。
失敬して家屋の裏庭を覗くと──やはり物凄く古い構造と,コンクリで安易に固めた跡の混合した垣が見えます。
この家屋,というか敷地というか,使い倒されてきた形跡がある。この短い坂で4枚も写真を撮ってます。
そめで──結局,「密貿易屋敷」と看板があるような場所は見つからなかったのです。けれど,位置的にみる限り,どうもこの時に撮りまくってた辺りがそれに該当します。
だから,確証はないんですけど……この屋敷がそうだったのだ,と信じることにしています。
公民館放送室への坂道
外周をさり気なく,物凄く厳重に石垣で囲ってます。
今,畑になってる上の写真の辺りも,元から畑だったとはどうも思えない。日当たりも地勢も,畑にするには不自然過ぎます。下の道路がなかったと仮定すると,この石段を使ってのみ海から上がってこれた場所のはずです。
▲1107海岸道への出口直前。下側の石垣が厳重な造りになってる。
下の道へ出る。理容「長谷」と公民館放送室の間へ出ました。1106。
地名表示は「坊の浜」。ここが旧港の中核部,と見てとったんてすけど──やはり確証は一切ありません。
さあ?残り2時間半。どっち行こう?
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■レポ:伊瀬知善太夫▼▲p
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1823年の漁場境界争いを解決した伊瀬知善太夫屋敷跡。
* 出水・知覧・坊津・枕崎 その十
坊津町郷土誌編纂委員会 編「坊津町郷土誌」坊津町,1969
第三章 4 生命をかけて守った漁場境界線−伊瀬知善太夫の偉功− 四三〇
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■資料断片:唐物崩れとは何が起きた時空か?
この時に集めてた坊津に関係する雑多な資料,論文,史料を,捨てるに忍びず列挙してみておきます。この不可解な港の糸口を見つける素材群になれば,という一抹の望みも込めて。
宮本常一:坊津認識
応仁の大乱によって大内氏と細川氏が争うようになってからは、出発地は堺にかわり、大内船をのぞいた他の船は、堺から四国の南を通り、薩摩坊ノ津にいたりそこから明州に向っている。※ 宮本常一著『海に生きる人びと』双書・日本民衆史三 未來社,一九六四年/一七 倭寇と商船
宮本さんは,それほど坊津を過大視してません。南海路のルート上に位置づけるのみ,という視点,これが最も堅実な見方になるでしょう。
けれどそうなると,近代以降の坊津の重要性は認識し辛くなる。
一路一会:百済僧の開いた「一乗院」
古くは日本三大津と言われ、大陸航路の要衝であり遣唐使が寄港する本土最後の港ゆえ「入唐道」とも呼ばれていました。「坊津」の名称は、百済から渡来した僧によってこの地に一乗院という大寺院が建てられた事に由来
※ 一路一会>古い町並みと集落・南九州>鹿児島>坊津 坊津の古い町並み
これも通説的な見方です。中世初期の大陸航路の最終寄港地で,その頃に出来た一条院(一乗院)が町の基である。
少し特異なのは,一乗院が百済からの来航者によって創建された,という点です。けれど九州より北の百済の国に,九州南端のこの場所がなぜ重要だったのか,どうも判じかねます。
江戸時代には坊津をはじめ泊、久志、秋目の四カ所の港に薩摩藩の「外城」が置かれるなど、坊津はそれほど重要な港であり、鎖国後も密貿易によって繁栄を続けます。
しかし「享保の唐物崩れ」と呼ばれる幕府の一斉摘発によって、坊津は一夜にして寒村となったのです。[前掲一路一会]
枕崎水産協組:坊津→枕崎の逃散
他でも度々引用した協組さんの記事ですけど,誰か歴史好きの方がおられたのか,それとも組織秘伝の口述でもあるんでしょうか?
享保8年(1722)、それまで密貿易で栄えていた坊津港に「唐物崩れ」といわれる驚天動地の一大事件が発生し、坊津港から多数の船が枕崎港に逃げこんだ。
※ 枕崎水産加工業協同組合 唐物崩れ
つまり,枕崎の海洋進出の人的基盤は坊津だ,と明言するのです。
ただ,次の書き方からすると,「驕れる者久しからず」めいたニュアンスも持っています。この辺りの感情がどうも汲みきれません。
寛永12年(1635)5月20日、幕府は明船の入港を長崎一港に限らせたので、坊津の繁栄に一時はかげりが見えた。
しかし福建を出帆し、あるいは琉球を経由する明船は、風波の難を避けるためにも、薪水食料補給のためにも坊津が便利なために、漂流したなどの口実の下に坊津港へ集まるようになった。
ここに薩摩藩の唐物抜荷(対明密貿易)が、直接にあるいは琉球を経て間接に開始され、坊津港のひそかな繁栄時代が到来するのである。
対明貿易だけでなく、東南アジアとの貿易も行われた模様である。
坊津港に隣接して、同様に湾入の深い良港、泊は、坊津の副港の役割を果たしていた。
慶長年間に、シャム行きの英国船が鰹節を積んで入港したのは、その好例である。
さて坊津港は、幕府の眼をかいくぐる、薩摩藩の密貿易港として栄えていたが、当然に幕府の知るところになった。
貿易船の所有者たちは、縞奮な生活にふけり、安穏の夢をむさぼり続けていたが、享保8年突如として幕府による一斉手入れが強行され、徹底した弾圧にあった。[前掲枕崎協組]
history8:商船は全て焼かれた
以下は「坊津拾遣史」を出典としますけど,どこまでが原典に書かれたものか確認できてません。ここでは坊津の海運業は物理的に消滅したことになっており,枕崎協組の記述とこの点で大きく異なります。
「坊津拾遣史」によれば(略)享保 (1716年) の初め、非常の天変難を受けた。港は商船無く跡暗し、残る者は老いたる者と幼き者婦女子のみ、これを「唐物崩れ」と云う。とある。
密貿易が暴露し、関係ある者は、ことごとく検挙され、商船は全て焼き払われた。
※ history8/唐物崩れとは
疑問点書き出し
坊津での海運の繁栄が,享保の初め(1722(享保8)年と書く記述が多い)に壊滅したことははっきりしてる。ただそれが何で,その後どうなったのか,これらの点ではかなり捉え方に差があるわけです。
この時に書き出している疑問点は以下のようなものです。これを追って,何度か薩摩とその近辺をさすらうことになりました。
Q 江戸期薩摩に鎖国はあったか?
Q1「唐物崩れ」をなぜ島津氏は許容したか?
Q2「唐物崩れ」でなぜ幕府は島津氏を処罰しなかったか?
Q3 他の三口(宗氏(対馬口)・松前氏(蝦夷口)・長崎奉行(出島口))での交易と島津氏のそれは同じだったか?
Q4 密貿易の形跡がなぜ現鹿児島県に皆無なのか?地理的痕跡は消せたとしても,利潤を上げていたなら帳簿は残るはずではないか?
Q5「唐物崩れ」後,江戸期「海民」はどこへ行ったのか?
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