m166m第十六波mスペクター基地深く入る龍灯かm八坂宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

くつろぎスイーツ砂塵巻

▲坊の浜の港道

りすぎとるぞ,密貿易屋敷?──としばし浜の道を右往左往しました。1112。
 それでようやく……どうやら,さっき撮ってた辺りのがソレらしい……と気付きました。
 にしても?いわした菓子舗の「坊津くつろぎスイーツさじん巻」とは?──砂塵?

▲くつろぎスイーツ

摩隼人ならもしや,と思ったけど,さすがに砂はアカンらしい。
 笹の葉っぱのことだそうです。よもぎ餅(餡なし)を笹の葉を巻いて香り付けしたもののことなんですと。それなら安心安心。

密貿易の家か?

▲1117密貿易辺りののどかな浜道

Y!ロコで後ほど見つけた,車で訪れた観光客の記事。
「細い道をクネクネ行くと地元の方が、『密貿易の家か?』と問うてくる。ナンバーを見たらしい、そうだと云うと、指さす方向に『密貿易屋敷跡(浜倉荘)』が。」
 どうも現在は,このアパートっぽい表示があるらしい。だからワシが見たのは違うかも……なんですけど,まあこの一軒だけでヤってた訳でもなかろうし。
 てゆーか,「密貿易の家」って何よ?

▲1119浜からの路地にも凄い石垣がちらほら

八坂宮から海へ落ちる道

120,八坂神社へ。
 本殿は新しくて真っ赤。左手に全く判読不能な墓石状の2柱,ただし供え物も祭壇もなし。
 左手後方に,北面する沖縄風の祠を見る。右に丸石を従える。こちらは注連縄が新しく,御本尊か秘神かかもしれません。

▲八坂宮後方の祠

の真裏に踏み込んでみると,ここにも石垣。祠類なし。ただ……右手に崖を下る階段があります。
極めて粗い,落ちてしまえという感じの岩道の,曲がった先がウロになってる。沖縄なら,竜神か何かを祀っているような場所です。
 これは……ロッククライミングとまで言うと大げさで,階段そのものは鉄筋で補強してある。参拝者はいそうな雰囲気なのだが。

▲1130宮浦から海中への道

みにくい。1138,港の,奇妙にパティオ風になってるのか単なる駐車場なのか,とにかくやや広いスペースの海側基礎にも古い石積が確認できます。
 そうこうしながら「つる屋」へやはりよもぎを……と立ち寄ると──この貼り紙は!何と,配達で留守!

秀吉君と大喧嘩

▲1137港の広場の海側突堤

むを得まい!さっきの階段から高台へ。
 ここにもスゴい石積が残ってます。樹木に壊されそうになってる段もあり,精巧なのか古過ぎるのか分からない。

▲樹木の根が崩そうとしてる石段

飯にあり付きたかった。
 1145,息急ききって帰ったのに,探してた食堂「勝八」が……まだ準備中?
 上の近衛屋敷跡へ。と思ったら,看板は「龍巌寺」とあるぞ?ここに一時期は近衛さんが居た,ということか?──いや違うぞ,この下の藤棚がその場所らしい。
 この人は,関白職を巡って秀吉君とケンカして1594年(文禄3年)配流。──と言ってもここは当時降伏したてほやほやの島津領,何かもうひとつ裏があってもおかしくない。

近衛公と双剣鯖

近衛・島津・徳川家家系及び姻戚関係図

* 鹿児島大学附属図書館「島津氏と近衛家の七百年」鹿児島大学レポジトリ,平成28年
衛家はそもそもが日本最大の荘園・島津荘の所有者で,島津家はその下司職として薩摩に入った家です。考え方次第では自家の別荘地に一時,都の喧騒を逃れた,とも言えるわけで──
「関白准三宮近衛信尹公謫居舊跡」という石碑の題字は,何と「近衛文麿の筆蹟」だとあります。

▲1143近衛公旧居の高台下から

てさて……「勝八」はどうよ?
 奥にお兄ちゃんが出てきたのが見えた。ダメ元で声をかけてみると「え?開いてないですか」──何?開いてるの?
 いざ入店。

▲1142近衛公の高台の城壁と花

ってた「双剣鯖炭火焼」というメニューを頼むと──おばちゃん曰く「今日は(双剣鯖)上がったんですけど調理するのが居なくて……」
 えっ……ええ〜!
 豚バラとか親子丼も旨そうな雰囲気の店です。いや,だけどここは魚でしょ!

南日本新聞紙面(平27.1.15)

■資料:地誌に書かれた坊津

 という訳で,坊津の正体はこの時点では欠片も分かりませんでした。わははは……
 ここまで話を膨らませといて,そう笑って済ませて「下人の行方は誰も知らない」のもオツですけど,鹿児島市の県立図書館で二登三登を試みてはみました。未だ未踏峰ながら──唐物崩関連を中心としたその転記を整理してみておきます。
▲「坊ほぜどん」:12歳になる女の子ども12人が頭にお賽銭箱を乗せ行列する祭

民俗:秋目の媽祖宮=今峰権現社

此嶽上に野間神社あり,支那の水神,姥媽を祭る。即ち姥媽の音,転して野間と云ふに至れりと。又秋目港にも今峰権現社なるものありて,野間神社と同しく姥媽を祭りしものにて,唐人琉人の船員,崇敬措かざりし神廟なりしと云ふ
[坊津町郷土誌編纂委員会「坊津町郷土誌上巻」昭44,坊津町 中p319「薩摩海軍史 上巻」]

 言い訳ですけど,坊津にも媽祖信仰かそれと疑わしい程のものがあるだろ?と期待したのは,あながち過信でもなかった訳です。博多浦のある久志の北隣,秋目には,少なくとも存在した。
 ただ,それが今の秋目のどこなのか,あるいはどこだったのかは全くヒットがありません。

唐物崩まで:南方・大陸船が慣泊す

 先に関連論文から採ります。唐物崩れより前の薩摩の交易の様は地誌にあまり語られない暗部だからですけれど,豊臣代,つまり後期倭寇の頃から中央の規制上,癇に障るものと認知はされています。

天正末年から慶長初年にかけての薩南は,内外船が慣泊し,南方地域や大陸との往来が激しかった。石田三成や寺沢志摩守が再三島津領の海賊の取締まりを命じていることでもわかるように,それら内外船の中には,あきらかに多数の非合法船が含まれていた。
[武野要子「特集 九州と対外関係 島津氏の南蛮貿易試論」西南地域史研究会「西南地域史研究 第一輯」文献出版,昭52)]

 石田,寺沢の名は同時代に度々見い出せます。ただ,次に見るように豊臣代は具体の規制を受けることは少なかったと考えられています。すぐに朝鮮役も始まり,ここでの島津,特に維新入道義弘とその海兵の威光の影に隠れた格好です。


ところで,秀吉の,権力による輸入品の独占購入あるいは先買い特権の行使は,一体どの程度島津氏に影響を与えたのであろうか。(略)秀吉の該貿易に対する姿勢は輸入品の独占購入・先買い特権の行使という形をとり,みずからの利潤獲得と欲望をみたすことに重点があり,貿易制度の確立を志向する性質のものではなかった。したがって,島津氏は秀吉の一連の威嚇的な命令を以てしても,あまり深刻な影響を受けなかったのではないかというのが,著者の主張である。
 しかし,家康の場合はあきらかに秀吉とは異なる。[前掲武野,昭52]

 ここにあるように,現代に「鎖国」と呼ばれる江戸期の貿易規制が,規制主体の利潤確保ではなく,統制による秩序維持にあったことは重要です。
 島津氏の経済政策の巧みさは,幕府にその目的たる秩序維持の形式は完遂させつつ,自身は秀吉的な実利益を追求する,Win-winの図式を選択・実行した点にあるからです。
 さて,往時の坊津について,坊津町郷土誌に僅かに次の文化財案内があります。繰り返しの確認になるけれど──正直なところでの痕跡は,これほど綺麗に抹消され,過去は浄化済。地誌の記すところが実情なのです。

「唐人まち」……写真に見える道は石畳で敷かれ昔日の面影を漂わしていたが,昭和二十六年のルース台風で崩れ去った。その石畳は琉球人の石工によって造られたもので表面に唐針(日時計)が彫り込んであったそうである。(略)
「石畳の道」……坊の浜の中心道で,貿易盛んな頃一帯の船主達の住居が立ち並んでいた所で旧家が多い。手前の突き当たりに『石敢当』がある。
[坊津町郷土誌編纂委員会「坊津町郷土誌上巻」昭44,坊津町 中p320]

 坊津の記述ですけど,ここに琉球人の足跡が残ってます。後に訪れた山川や鹿児島城下に共通する。本土人とどちらが主体か,と問うより,大陸人の浙江人と福建人と同じように,薩摩人と琉球人が船主・資本側と水主・労働者側という形に分化していたのかもしれません。
 ただ,いずれにせよその数量は定かでない。後は後に触れる「鰹節製造沿革」の「漢土に通商して窃に唐物を売買する大船船猶七十余艘なりし」記述だけ,という惨状らしい。

唐物崩直前:薩摩藩は被害者か自演者か

 唐物崩れの本質は,地誌に綴られる事実の後ろを透かして見ることができそうです。

享保三年(1718)大阪奉行所は唐物抜荷商を逮捕し,逃れた者の逮捕令を全国に達した。これに応じて翌年,薩摩藩は幕府のお尋ね者四六人の人相書きを領内に回し厳しい捜査を命じた。更に琉球に領内を脱出した者が漂着したら捕えるように達した。坊津の『享保の唐物崩れ』の背景にはこのような事情があった。
※ 笠沙町郷土誌編さん委員会「笠沙町郷土誌〈上巻〉」笠沙町,平3 第ニ編第五章第ニ節 抜荷の取締強化と海商の衰退]

 唐物崩れの4年前に,幕府本体ではなく,大阪奉行が全国指名手配をかけ,この下命の延長で薩摩藩が「仕方なく」捜索に動いています。
 4年という期間が微妙です。また,反感の行き先が江戸に,つまり体制中枢に向かわないような構図にもなってます。
 上は笠沙町,下は坊津町の記述ですけど,大筋は似ているから,当時の薩摩で同様の構図が説明されたのでしょう。

享保三年の禁令後まもなく,大阪にて大規模な抜荷事件が発覚し,多数の抜荷犯が検挙され,また逃亡者多数を出すという大事件が生じた。(略)
注意すべきは、この事件を契機に,事件に関係なくとも抜商者の徹底捜索をより厳重に申し渡している点で,さらにその筆頭が薩摩藩主松平薩摩守(吉貴)で,以下西国・四国・中国の各領主総計七十六名宛令達されている点である。(略)
大阪で検挙された抜荷犯の詳細は分からぬが,薩摩藩と直接的にも間接的にも関係ある者が多かったことは今見た令達や,同年十一月初に出された唐船処理についての令達が,やはり松平薩摩守を筆頭に十五領主宛であるのを見ても想像される。
[前掲坊津町郷土誌p334]

 まず,いかに大阪という大都市のとはいえ,町奉行の指名手配に大藩薩摩が琉球までの捜査に動く,というのは過大対応です。現代で言えば,大阪市長の命に鹿児島県知事が服してるようなもの。
 江戸も認知した上で,幕府の下級部署が,薩摩藩による自己浄化の名分を作った,と考えるのが自然です。
 そこまでネゴが行き届いているということは,薩摩藩は仕方なく,ではなく,むしろこのセッティングの主体だったとも考えられますけど……繰り返すけど4年という間隔が,そう決めつけるには微妙で,薩摩藩自演説が正しいなら非常に周到にタイミングを図ってやってます。

1722唐物崩:鰹節の影に隠した恨み言

 唐物崩れという坊津にとってエポックメイキングな事件は,もちろん,正史から小骨を抜くように丹念に抹消されてる。まとまった記述は,前章までに何度か牽いた鰹節の漁業史で,具体の史料としては「坊津拾遺史」所収の「鰹節製造沿革」だという。ただ,この史料部分はワシの文献読解力ではどうしても見つけられませんでした。

この『享保の唐物崩れ』を実証する具体的史料は発見されておらず,詳細は知るべくもない。(略)『坊津拾遺史』に所収する『鰹節製造沿革』※は次のように述べている。
(略)漢土に通商して窃に唐物を売買する大船船猶七十余艘なりしと,然に享保の初,一村非常の天変難を醸生し,港商挙て跡を暗し,残るものは唯老幼婦女子のみ,之を唐物崩と云ふ,人口に膾灸す,如之一朝にして寂寥たる寒村となり,其子孫皆漁夫の身となる
[前掲坊津町郷土誌p332 ※同著巻末に収録の『坊津拾遺史』には同章は発見できず]

 坊津は,北方の「薩摩」に対する対抗意識を未だ宿しているのでしょうか。同町誌は次のような本音を漏らしています。
 おそらく,この辺が唐物崩れの本質です。

なぜ,この時期まで幕府の貿易統制に非協力的な薩摩藩が,一転して幕府に協力的な貿易の統制策に転じたのであろうか。それは,規模はとにかく,それまで自由な交易で無数に存在した海商グループの再編成であり,やがて来る薩摩藩専売貿易の準備であったと述べている。それはまた,かつて秀吉や徳川幕府が貿易統制で利益の独占を図ったのと同じように,藩の密貿易統制による,利益の独占化でもあった。現在でも『自分ではやりながら,民間の抜荷をこんなに厳しく取り締まったところはない』と言う海商達の恨み言が浦に伝えられている。
[前掲同]

 つまり,薩摩藩の目的は密貿易の根絶ではない。自藩の強力なガバナンスの基に経営される密貿易コーポレーションへの再編成です。そのビジョンは,江戸中央の貿易秩序維持方針に逆らわない微妙なコントロールを効かせつつ,利益を獲得できる政治-経済複合体──というと,既存の「鎖国」感からは途方もなく聞こえますけど,実は我々にとって身近な政経策です。
 現代日本の護送船団方式そのものです。現代の日米関係を,江戸期の薩摩藩-幕府関係になぞらえると分かりやすい。
 もちろん,この再編成は経済的利益を目しただけのものではありません。島津氏による薩摩藩南部の完全掌握が,もしかすると最大かもしれない目的です。唐物崩れは,幕府側に周到なネゴをした上での島津氏による南薩摩海洋経済圏の征服です。1世紀前の琉球侵略との関連で言うなら,東シナ海東半海域の経済征服の完成と考えてもよい。

唐物崩後/俵物:交易品としての食材

 逆に言えば,それまで薩摩,極端に言えば日本ではなかった南薩摩が,この経済征服に反抗しなかったのは,以上のような薩摩藩の巧妙なシナリオにもよるでしょう。けれどそれにも増して,端的に,唐物崩れ前より儲かるようになったからではないでしょうか。
 壊滅した坊津浦や博多浦は,藩内向けには威嚇,幕府向けには従属姿勢のアピールです。地域総体に流入する富は激増した。
 それも薩摩藩のシナリオに入っていた可能性が高いと思います。中国・琉球のニーズ分析の結果,枯渇しつつあった金銀銅の鉱山資源に代替しうる輸出商品とその流通ルートのイメージを,薩摩藩の誰かが考案,おそらく試行していたと想像します。
 考えても見て下さい。金→銀→銅と変遷した交易品の次世代に,フカヒレ,ナマコ,アワビ,昆布といった食材を持って来る発想が,単に机上で生まれるでしょうか?
 とすると,教科書で書かれるように,俵物は幕府や長崎奉行が考案した新商品ではなく,まず密輸品として一般化した交易が正規の長崎交易の形態にまでなった,という可能性があります。

唐船貿易の重要な輸出品は俵物である。俵物は,干鮑・煎海鼠・鱶鰭(俵物三品という)や昆布など,俵詰めの商品をいう。『上質の煎海鼠は,越後の国で密かに売買され,薩州に運ばれているという』『最近は,薩州船を外国船に仕立て,蝦夷地の松前藩に回し,俵物を密売しているという噂である』(同前書※)
[前掲笠沙町誌 第ニ節 薩摩藩の唐物抜荷]
※引用者注:『通航一覧続輯』巻一

坊津人が蝦夷地で交易した物証

 坊津の海商たちがはるか北海道まで出向いていたことは,アイヌ語の辞書の存在がほぼ動かぬ物証になっています。

秋目では,宮内,月野など知られているが(略)数少ない史料の中で蝦夷語辞書「上原先生著蝦夷語箋」(嘉永七甲寅年仲夏新刻豊雲楼蔵版)は海商宮内家の遠く東北・蝦夷方面へ交易に出かけたという事実を物語りさらに丹念に記された航海日誌(横折張)は,船額,唐器額などと共に海商としての活躍を裏づける証拠である。[前掲坊津町郷土誌p348]

▲「蝦夷語箋」表紙
※ 日本の古本屋/同書
 アイヌ相手なら国禁ぎりぎりかもしれないけれど,次のロシア語辞書となると,よく残っていたものだ,と感心する完全な国禁書籍です。相当頻用していた学習帳だったと思われます。
▲付録にはロシア語版もついているらしい。

正:密比率(数量的接近)≈1:9

「社会実情データ図録」というサイトが,この時期の俵物についてデータを掲げておられました。

1698(元禄11)年に、中国船の来航増加と輸出銅の不足により、幕府が、銅代物替として俵物(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の輸出を公定してから、以前にも増して海産物の貿易が増加し、主たる貿易品となった(荒居英次(1975)「近世海産物貿易史の研究―中国向け輸出貿易と海産物」吉川弘文館、以下同様)。※ 社会実情データ図録▽江戸期・明治前半期の昆布輸出

と,これはまず通説的な解釈に立った上で,数量的な解釈に入っています。

 従来の見方では俵物貿易に重きがおかれていたが、実際は、昆布を中心とする諸色海産物(昆布、鶏冠草、所天草・若布、鯣(スルメ)、干魚、干貝、鰹節)の輸出が俵物を上回っていた。[前掲図録]

 海産物の保存技術の発達により,また清朝下での人口爆発と有閑資産階級の拡大もあり,大陸中国人と日本の海産地域が交易ルートで結ばれる。図録が注目している「諸色」の意外なシェアの大きさは,元々の蝦夷地からの珍奇な海産物のルートを使って西日本産の日常品まで交易品に変えていったことを示します。
 さて,北方産のものでは,その後も「海帯」として漢族の食文化に永く登場する昆布が代表格で──

「清国民ハ昆布ハ炭毒ヲ消スノ効アリト称シ需用者ハ其大部清国ノ中流以下ノ社会ニシテ中流以上ハ多ク之ヲ食スルモノナシ従ッテ其売行先キハ都会ヨリハ寧ロ地方山邑農村ヲ多シトス」(『清韓貿易視察報告書』)[前掲図録]

 漢族がどういう発想経路で昆布にニーズを示していったのか不可解ですけど,この流通も基本的には十分把握されてません。ただ,日本海での海難事故を通じて史料に残ることになりました。

江戸幕府によって半公認されていた正規の取引の他、薩摩藩に利益がもたらされるような直接・間接の密貿易がどの程度あったかは分からない。加賀藩油屋廻船神速丸(じんそくまる)の難破(1828年)で昆布・ニシンの返り荷として薩摩からの抜け荷薬種が摘発され、富山藩密田家廻船長者丸の難破(1838年)で薩摩藩向け抜け荷昆布が判明したことなどから見て、かなり大量の密貿易が行われ[前掲図録]

 薩摩に「富山の薬売り」が組織的に根を下ろしたことは諸研究*が明らかにしてますけど,ここでは図録の示すデータから,昆布の交易総量を考えてみます。
* 村田郁美「薩摩組の働きから見る富山売薬行商人の性格」2014 など
▲18Cの俵物貿易実規模の推定

 19C末から20C初めに8千〜1万tの昆布が中国に輸出されています。
 この需要は20C以降の推移から見て,突然に急増したものとは考えにくい。19C後半データを欠いてますけど,次の箱館港の輸出量のトレンドから,この間も同比率で増え続けたことが推定できます。

▲明治以降の函館港昆布輸出量

 だから17C以降逓増したものと推定して補助線を引いたものが,(二つ上の)グラフの赤い影の部分です。
 正規の交易量千t程度に対し,実交易量は4〜8千。この差分は非正規,いわゆる密輸だったと仮定することができます。つまり,裏経済の比率は7〜9割だったことになります。
 この部分を主に担ったのが蝦夷地から富山など日本海を歴て琉球に至る薩摩藩の交易ルートだった,と仮定するのはそれほど無理はない。坊津の人々が唐物崩れ以降に果たした江戸後期の交易機能は,表の歴史から想像できる規模を遥かに凌ぐ可能性があるということです。

唐者崩後/長崎商法:闇経済の正規化

 先の通航一覧続輯に幕府側が残した指摘の記録でも明らかですけど,この薩摩闇交易の規模を幕府は把握していたと考えられます(→後掲)。末端の役人は行政的にこれに危機感を示して悲鳴のような指摘を上げていたんてしょうけれど,中央の幕閣は政治的に黙認又は握り潰し続けた。
 これこそ薩摩の当初ヴィジョン通りで,幕府の「鎖国」の政治的目的が対外治安維持であって,利益誘導ではなかったからでしょう。江戸幕府の中央の思考回路は,実にドライでした。
 これには,あるいは江戸期を通じて薩摩藩が行った将軍家との姻戚関係の深化や献金工作も影響しているでしょうけど……本質的には,薩摩藩の利益誘導が幕府の外交政治目的に矛盾しなかったからでしょう。
 唯一,衝突する傾向を見せたのは,裏経済の拡大に伴う正規経済=長崎交易の衰微です。

薩摩と東北・松前地方との交易は,薩摩藩の抜荷(一般民間人の抜荷も含む)ないしは琉球貿易に密接な関係がある。薩摩から主として唐物を持って行き,上質の俵物(鱶鰭・干鮑・煎海鼠)などと交易した。俵物は対中国貿易の主な輸出品で,高価に売れたので,幕府はその生産-集荷-販売をきびしく統制した。(銅不足により唐貿易はその重要輸出品を海産物に頼らねばならなかった。)つまり俵物は長崎会所を通して売られなければならなかったが,薩摩の海商達は公然と質の良い俵物を求めて幕府の取締りや長崎・上方市場を無視して,唐物の処分を東北・松前地方に求めたのである。そして,薩摩領内に来航した唐船(幕府へは全て漂着唐船として届出る)との交易,琉球貿易の重要輸出品としてその上質の俵物は処分された。
[前掲坊津町郷土誌誌p350]

 坊津町誌の書くように幕府(と言ってもおそらく長崎奉行など地方役所)の統制は,年々厳しい目を薩摩ルートの船舶群に向けるようになります。
 上記後半の質の問題も後には追及されるようになった模様です。中国側が薩摩や天草の品を上質と見た,という記述もありますけど,これは漢語の一次史料にたどり着けませんでした。
 ただ,これに対し,島津氏は幕末には,正面から正規交易への「昇格」を目論むようになります。長崎交易の乗っ取りに近い行為で,部分的にはそれを実現してしまいます。

天保八年(1837),幕府は(天保の改革時の老中水野忠邦)天保一〇年からの薩摩藩の長崎での唐物販売権の停止を通告した。薩摩藩天保の改革の担当者調所広郷は,表面上は唐物販売事務所である唐物方を廃止し,一方で琉球の救助を理由に唐物販売の復活を図った。弘化四年(1847),遂にそれに成功した(芳即正『調所広郷』)。長崎貿易は幕府公認の貿易である。抜荷はそれ以外のものである。[前掲笠沙町誌 第ニ節 薩摩藩の唐物抜荷]

 終始一貫して琉球の収奪を続けた薩摩藩が,「琉球の救助」を旗印に掲げたのも肝が座ってて笑えます。でもここで「薩摩の長崎商法」を否定したのは,とうとう幕府中央,しかも天保改革を主導した超強行派でした。これを10年かかったとは言え押し通して復活させた,というのは,政治劇はもちろんあったにせよ,薩摩闇経済の巨大さが既に否定し難いものになっており,記録に残らないけれど各分野で経済的支障を生じたからと想像できます。
 広域交易圏の姿は,浜崎太平次(山川拠点の海商。1814〜1863(文化11〜文久3)年)代になるともはや隠しようのないものになってます。

浜崎太平次は指宿・鹿児島のほかに,甑島・琉球国那覇・長崎・大阪・新潟・函館に支店を置いていた。(海上王浜崎太平次伝)(略)
「肥後は隠し,薩摩はばらし」と言われるほど藩は一般民間人の抜荷統制に厳重であったが,藩御用(海運など)にたずさわる商人達は,これら抜荷をより容易に行いうる立場にあったと思われる。藩との結託・保護のもと活躍した海商の典型を「全国長者鑑」の筆頭にあげられている指宿の浜崎太左衛門・大平次一家にみることができる
[前掲坊津町郷土誌p351]

 wiki(濱崎太平次)はさらにロシア,インドネシア,キューバなどの交易先まで掲げています。
 けれども,この時代になると坊津地域からは,少なくともこの濱崎家や天草の大石家,牛深の萬家など藩政・幕政に影響を与えるほどの海商は出ていません。だから長期的には,坊津の属地的な地域経済は唐物崩れ以前の興隆を取り戻すことはなかったと見えるんですけど──枕崎や山川,天草その他の外地に移動した人・船・財の規模が分からない限り,唐物崩れで本当に坊津の密貿易システムがその後も稼働し続けたという確証は,やはり得られないのです。

幕府の薩摩闇ルート把握状況

 通航一覧は「1850年(嘉永3)をさかのぼることあまり遠くない時期」(後掲ニッポニカ。以下同),当時の幕府シンクタンクたる昌平坂学問所が,正編のみで4年かけて編んだ五百巻を超える*大部の行政資料集です。
*正編322巻,附録22巻。国書刊行会本で8冊
同続輯152巻,附録26巻。清文堂刊で五冊

「編纂の動機が当時日本をめぐる国際環境の急迫に対応するための修史事業であったことはいうまでもない」けれど,黒船来航後に追加された同・続輯は,さらに外患に危機感を先鋭化させて作られてます。
* 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/通航一覧(箭内健次)
←コトバンク URL:https://kotobank.jp/word/%E9%80%9A%E8%88%AA%E4%B8%80%E8%A6%A7-98936

 幕府の危機意識の強さも察せられますけど,さらに注目すべきは,賛否を衆愚的に議するだけでなく事実*を積み上げた上で結論を出そうとする堅実な論理的姿勢です。
* 一覧には1566(永禄9)年(信長が岐阜に入る前年!)の三河国片浜浦への安南(ベトナム)船漂着事件まで記録されています。
 失礼ながら……薩摩藩の実をとる現金な姿勢に対し,幕府側は最後までクソ真面目だったと言えます。

尤右荷物少々宛之取引は相好不申,多分北国筋越後辺え相送り売捌候由(薩摩藩の抜荷ルートを推測した記述に続けて)昨年秋,長崎表え後れて入津之二艘之唐船杯は荷物甚数少ニて空船同様之儀有之由,右之趣ニ候之間,近年長崎表衰微いたし,同所御役所ニても殊之外御金操六ケ敷
[前掲坊津町郷土誌p352 通航一覧続輯 第一巻一六三頁]

 まず間違いなく密貿易後に,「空船同様」の中国船が長崎に入港している。その舞台裏,「長崎表衰微」の因果関係を,幕府はしっかり認識してます。
 だから当然,その唐船を空船にした相手が薩摩藩で,かつ彼らがどういうルートで何を捌いているかも想像できているのです。

一 唐物代物ニ相渡候俵物と唱,煎海鼠・干鮑・鱶鰭之三品並こん布之儀,松前より重に買入候処,右上品之煎海鼠抜散,越後国ニて密売買有之,薩州え相廻り候由,越後俵物請負人とも,兼て長崎会所え申立候ニ付,去々巳年出羽守殿え申上之上,越後国外御用序,御普請役え申付,同国海岸通り浦々為見廻,俵物稼方為間糺候処,新潟海老江辺え,重て松前産之煎海鼠多分相廻り,直二薩州船え密売いたし候段相違も無之様二相聞候旨申聞候間(略)近来薩州船を外国之商船二仕立,松前え差廻し,俵物類密売いたし候由風聞有之
[前掲坊津町郷土誌p353 通航一覧続輯 第一巻一六七頁『天保六年四月土方出雲守言上書』]

 (蝦夷)松前→(越後)海老江→薩摩のルート,品名のほか,「薩州船を外国之商船二仕立」てる手口まで把握してる。
 当時,薩摩藩に潜入した幕府隠密(スパイ)が誰も帰らなかったとか,薩摩弁は外部の潜入者を発見するための人工言語だとかの都市伝説めいた謂いも,島津政経集団にとっては当然だったでしょう。もう一つ,実証材料が幕府側に公にされれば即座に改易とかの総攻撃に晒されても全然不思議ではない。
 マジメ組織・江戸幕府と曲芸政経体・島津とのまさに虚々実々の対峙した「鎖国」という悲喜劇。唐物崩れは,その第一幕として捉えるのが実態の理解に近づく道だと考えます。端的に言うと,かの坊津壊滅劇は島津が闇の海洋王国建設へ乗り出す引き返し不能点でした。