009-7厳原(東)\対馬\長崎県

2014.5対馬めぐみ教会開所式〔後掲在日大韓基督教会〕

対馬めぐみ教会前にて

942,厳原八幡宮神社を退去。
 対馬めぐみ教会前から東側へ。この北で川は東へ90度折れてる。
──ふと気になって調べてみると,この教会は日本系ではありませんでした。2016年に韓国人神父の朴栄喆牧師が新たに設立したものです。
 キリスト教と対馬,あまり念頭に上がらなかった組み合わせですけど──下写真のように韓国人教会は戦前からありました。実は前章で見逃してますけど……厳原八幡宮神社にも祀られていたのです(巻末参照)。

1935.6付け「長崎県厳原」とハングルのロゴで書かれた教会前集合写真〔後掲「徒然に」〕

厳原の石垣はなぜあるんだろう?

れ?ファミリーショップいまばやし厳原店?チェーン店なのか!
 0954,国分寺前に来た。右折南行。「文化八年朝鮮通信使幕府接遇の地」とある。1811年──朝鮮暦純祖11年,第12回目,家斉襲封祝賀に来たけれど対馬で差し止めとなった最後の朝鮮通信使です(八戸事件→巻末)。
 額に「天徳山」。
 中には本殿はなく櫓のみ残る。
▲路地

垣多い。大字田渕と表示。
 厳原の石垣は,西海岸と同様に対馬の強風に耐えるとともに,密集地のための防火壁,加えて朝鮮通信使の易地聘礼時の体裁を整えるためと言われてます。最後の「見映え」説はやや根拠に乏しいようですけど,野面積みを基本としつつ隅石を算木積みとした垣は,専門的には貴重らしい。隅石のカーブラインが強いものは朝鮮・琉球様式の折衷とも言われます。天保15(1844)年正月の築造年月の陰刻のある垣(今屋敷705-1)は県指定有形文化財ともなっています。
▲石垣の路地

厳原市内の怕所(おそろしどころ)

だ,専門的に見る石垣密集地は,本稿冒頭で触れた「川の90度屈曲地点」(対馬新聞社より東北)付近,観光的に言う武家屋敷通り付近らしい。これもなぜか見落としてます……けど,街中に自然に溶け込んでる様は,個人的には屈曲地点以南の方が気に入ってました。

厳原南部の石垣の分布〔後掲漆原〕

ナックムーラン。東横INNが真西に見えてる。
 もうこの奥に道はない。西へ引き返す。
──この時,何を目指していたのかよく分からない。場所はこの辺り(→GM.:地点)じゃないかと思います。
▲集落最奥の廃屋っぽい豪宅

天道茂」という字がこのすぐ北にあります。角川日本地名大辞典で見るとこんなことが書いてある。要するに厳原の古い御嶽だったらしい。

地内に後山の支脈が走り,先端に市ケ峰がある。地名の由来は,古く八幡宮神社の磐境(境内)として定められた地であり,対馬では神地で人が汚さないところを茂・天道地・天道茂とよんだことによる。この神跡は,神功皇后が新羅から帰還した時に当地から清水山を見て霊山とし,宝鏡を神体として諸神を祀ったものという伝えがあり,当地を怕所(おそろしどころ)として敢えて汚さず,金倉と称したともいう。今も清祥な地として金倉様が祀られている。〔角川日本地名大辞典/天道茂〕

▲苔むした石垣

中矢来西のX迷路

西書店にでた。1010。南行。
 1015,自衛隊対馬駐在員事務所。漂流碑は工事中にらしい。住所表示は中矢来。
▲中矢来

の西の入りくんだ区画へ。
 ここは沖縄Xしてヒットしたわけじゃなく,航空写真でも極めて平易な場所です。ただ昨日,バイクでたまたま迷いこんだらエラく迷った場所。
 道の配置が堪らなく複雑怪奇だけど家並みは普通。うーむ……一体何の場所なんでしょう?
▲中矢来西の道

でこのエリアの住所表示だけは確認できました。
「国分」(こくぶ)です(巻末GM.参照)。
 国分寺(対馬では島(嶋)分寺)に由来する住所のようでした。
▲1022同

の位置のことはなぜか……というか特に扱う気もなくて,誰も書いてないみたい。
 ただ,島分寺又は国府の所在地,という意味では考古学的に最後の謎らしい。
▲1023同

今屋敷の江口醤油と憤怒相

団長崎県対馬支部前に出た。1025。右折北行。
 どういうわけか,金石川には橋ごとに西側に祠がある。長崎の感覚に共通するなら,道標代わり,つまり城下の筋の住所表示のようなものだったかもしれません。──ただ,記名はなく,何様の祠かは不明。
▲1024支部前の祠

つ目が十王橋。
 駐車場名からみてこの西も十王小路と呼ぶらしい。祠には唐風の憤怒相の神体。ここと金石館ホテルの間に江口醤油がある。大字今屋敷と表示。──「今」≒New屋敷があるなら,Old屋敷と呼ばれたものがありそうです。
 さて?11時が近づきました。

ふれあい処から大西書店の峰が湾口を閉じる

▲1029ふとした場所にも石垣の残りが

103ふれあい食堂
とんちゃん丼650
 10食限定のあなご丼セットもある。初日なら迷わずコレだけどどうしてもとんちゃんを食っときたい。
 ただ……個人的にはプルコギとステーキの間の,何か半端な料理に思えました。「とんちゃん」は要するに豚プルコギが戦後に上対馬に根付いたものみたい〔対馬とんちゃん部隊(長崎県対馬市)URL:http://tsushima-tonchan.jp/〕。

とんちゃんイメージ〔前掲対馬とんちゃん部隊〕

れあい処の裏にも石垣がありました。古くはここは対馬藩重臣の館だったと「巡礼」にあった。
 つまりこの厳原集落は,ふれあい処から大西書店裏の峰で湾口を閉じるような構造になってる。その湾口に,昔の池の屋形はあり,その後の金石城は西側高台にある。そこから南は外港だったわけです。
 小さな町ながら複雑な配置です。──と全然分かってないけど,当時はそれなりに納得した気になりました。
 1129,東横INNで荷物をピックアップ。

かすまきや 見た目普通な対馬です

▲港のハングルの宿案内

ノ島にいつもは目を凝らす航路でしたけど,船中完全熟睡でございました。
 博多上陸。久しぶりに人の気配に圧倒される。何という圧倒的な人口格差!あの島の自然,というか非人間界色の強烈さを改めて実感する。
1607牧のうどん
かけ やわめん400
そしてそして夜にはまだ残ってたこちらで,夜一人飲茶といたしました。
2100(磯原)渡辺菓子舗 加寿萬喜500
▲渡辺のかすまき

やざらざら感は残り,決して滑らかなクリーム状ではない。でもこれは明らかに故意で,小豆のふっくらした香気が最も高まった状態になってるらしい。
 皮も,何が飛び抜けてる訳でもない平穏な造り。さりげなく上質で,隙がない。
 何より,かすまきにここまで精緻になれるのは,それにプライドを持ってる対馬ならではなのでしょう。
 今から対馬に行くワシがあれば,一言耳打ちしてやりたい。「見た目の普通さに騙されるな」と。

■レポ:江戸期最後の日本人叙階司祭 小西マンショ

 この日の前半(前章)で訪れた厳原八幡宮で,神様の多彩さに驚きましたけど,この多彩さには節操のない崇拝というだけでなく,別の側面もあると言われていると後に聞きました。
 神道の「祀る」行為には,神を昇華させるのとその呪力を封ずる,二面性があると言われます。宮地最南端に立する天神神社はまさにそれだという。

厳原八幡宮神社南半分〔GM.〕

 きちんと見てないので断言できないけれど──ここで触れようとする今宮若宮神社は,縁起によると,一般にも菅原道真公の怨霊を封じようとしたとされる天神社に合祀されてます。

社号 今宮 若宮神社
祭神 小西夫人マリア
例祭日 八月十四日(旧暦)
(略)
元和五年(一六一九)霊魂を鎮めるためマリアとその子を祭り今宮・若宮神社と称した。後天神神社に合祀された。〔由緒書〕

今宮若宮神社縁起〔後掲「徒然に」〕
「鎮める」という表現は,通常,既に発動した祟りを対象にします。つまり,1619年までに祟りは到来したと認識されたからでしょう。
 この前後40年近くは,朝鮮交易が繁栄の絶対条件だった対馬にとって,崖っぷちもいい所な時期でした。

〜1598 慶長の役(第二次朝鮮出兵)
1599 徳川家康,宗義智に朝鮮との国交回復を指示
1607 朝鮮との国交修復(将軍秀忠の襲職を賀する朝鮮通信使(回答兼刷還使)来日)
1609 己酉約条締結
1635 3代将軍・家光に宗義成・柳川調興の両者が口頭弁論(柳川一件→柳川:津軽流罪)
同年  朱印船廃止
同年  朝鮮貿易復活(歳遣船1船を釜山に出す。)〔後掲対馬重要歴史年表ほか〕

 朝鮮出兵から手の平を返しての和平交渉は,当然ながら朝鮮側からすると芬々たるものでした。「家臣を朝鮮に度々派遣するも帰国せず。」〔後掲対馬重要歴史年表〕とありますけど,帰らなかった家臣さんはどうなったのでしょう?
「朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした犯人を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で犯人として差し出した。」〔wiki/柳川一件〕という非道も後先考えずにやってます。
 1606年頃には国書改ざん(徳川将軍名文書の偽造?)があったとされ,後の柳川一件の摘発に繋がっていきます。
 この時代を対馬がいかに生き抜いたかは,もっとはるかに身の毛もよだつような裏があるのでしょう。
「祟り」とはこの崖っぷち状況のこと,あるいはその何らかの非情なる側面を指したのではないでしょうか?

小西行長は熊本でこんなTVドラマに描かれてました。

マリアと短かった対馬キリシタン時代

「小西夫人マリア」と書かれ,「宗義智夫人」とは記されないマリアについては,他所に相当の記事があります。小西行長の娘で,日本名を妙。輿入れの1590(天正18)年に15歳〔後掲和樂web〕。夫婦仲は良かったらしく,神父セスペデスが会った際,義智の首にマリア夫人が贈ったタツノオトシゴ製のロザリオが掛かっていたという〔後掲対馬びっくり箱〕。
 このスペイン人宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスは朝鮮出兵時の従軍司祭で,鰐浦で布教したとされる〔後掲対馬びっくり箱,原典 朴哲「グレゴリオ・デ・セスペデス──スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役」春風社,2013〕。義智はマリアの影響で洗礼を受けてダリオと号し,家臣の入信者も多かったという。つまり,対馬には短いキリスト教時代があったのです。
 行長は,関ヶ原の敗軍の将として,石田三成・安国寺恵瓊とともに京六条河原で斬首。1601年にマリアは離縁され,移動中に入水した伝説もあるけれど,長崎で4年生き,1605年に没したというのが定説です〔後掲徒然に〕。
 さて,以下で触れるのは,その子・マンショと養女・ジュリアの生き様です。

小西マンショの足跡〔主にwiki/小西マンショ,後掲「徒然に」を参照した〕

それでもマンショは西へ向かった

 義智とマリアの一子・マンショの,日本名はどうしても分からない。まあ本人も語る気はなかったろうから,以下マンショで通します。
 この人は,マリアの死後,島原の有馬・八良尾のセミナリオ(神学校)の学徒となりましたけど,キリシタン追放を受け1614年にペトロ・岐部※らとともにマカオへ上陸します。〔後掲一歴史学者の……〕

※ペトロ・岐部:岐部茂勝(きべ しげかつ),1587年(天正15年)-1639年7月4日(寛永16年6月4日)。日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。1630年に薩摩坊津に帰り密行して布教,1639年,仙台で囚われ穴吊りの上,腹を火で炙られ殺される。52歳没。

 ペㇳロの記録中,マカオでの記事として次のようにあります。

1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は、司祭(神父)になるべく同地のコレジオでラテン語と神学を学んだ。しかし、マカオの上長の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知ると、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意し、マンショ小西、ミゲル・ミノエスとともにコレジオを脱出して渡航した。〔wiki/ペトロ岐部〕

※原典 “Blessed Peter Kibe”. University of Notre Dame. 2020年11月13日(wiki著者)閲覧

 対して,同じくwikiですけどマンショの記事にも(出典未記載ながら)

ペトロ岐部やミゲル・ミノエスとともにゴアに渡るが、現地のカルヴァリヨ管区長の日本人への偏見のため受け入れを拒否される。この間、原マルティノ※の支援を受けた。〔wiki/小西マンショ〕

※1569(永禄12)年頃〜1629(寛永6)年。天正遣欧少年使節副使,使節の少年4人中の最年少。マカオのコレジオで学び1608年に4人そろって司祭に叙階。遺骸はマカオの大聖堂の地下に埋葬。

とあるので,アジア各地の教会管区は,逆にアジア系の布教サイドへの参入はナンセンスという感覚が支配してたらしい。ただ,上記天正遣欧少年使節は全員が一気に叙階してるから,背景の政治力に慮った行動もまた支配的だったのでしょう。
 経歴からするとマンショはペトロに追従したと考えられるので,マンショもマニラで神学徒の一介だったと推定できます。
 マカオのコレジオからは「脱出」と書かれているのを信じるなら,教会管理サイドによって彼らが何かの理由で移動の自由を抑制されていた,おそらく危険人物として軟禁されていたのではないでしょうか。

原マルティノ肖像。「左下・原マルチノ。中央は案内兼通訳のメスキータ神父。1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画です。”Newe Zeyttung auss der Insel ]aponien”(日本島からのニュース)と題されたこの肖像画には、使節団のメンバー4人(略)が描かれています。(出典:『京都大学の学術情報基盤の未来を考える』)」〔wiki/原マルティノ〕

 ゴアは単に中継地で,マンショさんらは何れもヨーロッパに向かっています。
 マンショさんは喜望峰経由の海路をとっています。これに対し,ペトロ岐部は,単独の陸路行を選択。インドからペルシャ→ホルムズ→バグダードを経,「日本人としてはじめてエルサレム入りを果たした」という〔wiki/ペトロ岐部 原典前掲University of Notre Dame. 2020〕。オスマントルコがサファヴィー朝ペルシャと対峙した時期で,当然イスラム教圏ですから楽な「旅行」ではないはずですし,史料根拠も定かでないけれど……本当ならとんでもない冒険です。祖国を追われた個人がどうやったのか,という事以上に,無帰属の一信仰者がどうしてそれほどのインセンティブを保ち得たのでしょう?
谷口ジローの描く登山家・羽生丈二〔夢枕貘「神々の山嶺」1994〕

ヨーロッパでの学びとローマからの旅立ち

 ペトロさんはとうとう,インドからイタリアまで行き着いてしまってます。ローマで念願だったらしい叙階を受けた後,マンショさんとポルトガルで再会しています〔wiki/小西マンショ〕。

すでにマカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」という警告の手紙が送られていたが、ローマでイエズス会士による審査を受けた岐部は、司祭にふさわしい適性と充分な学識を備えていることを認められ、1620年11月15日、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で32歳で司祭に叙階された。〔wiki/ペトロ岐部〕

※原典 “ペトロ・カスイ岐部神父の生涯”. カトリック東京大司教区. 2020年11月13日(wiki著者)閲覧

 マンショさんの方は,ポルトガル入りの後,コインブラ大学で学んだという。ここと下記サン・ロケ教会はともにリスボン市内です。

ペトロ岐部が司祭となってポルトガルに赴いた際にはまだサン・ロケ教会の学舎で学んでおり、岐部は現地の司祭にマンショのことを頼んでいる。〔wiki/小西マンショ〕

 これに15年ほど先立って,イタリアで次の戯曲が制作されてます。

戯曲「アゴスチーノ摂津守の悲劇」1607年〔後掲徒然に〕

※イタリア・ジェノヴァの刊行社ジュゼッペ・パヴォーニから活字印刷。原題「ARGOMENTO DELLA TRAGEDIA INTITOLATA AGOSTINO TZVNICAMINDONO Re Giapponese.」(日本国王アゴスティーノ・ツノカミドノと題する悲劇の要約)

 ツノカミドノは小西摂津守行長。──って行長は国王じゃないぞ?「……守」を王と訳してしまったのでしょうか?
 劇は五幕構成で,その主な内容は,
①日本におけるキリスト教の受難
②小西行長「王」と内府様(徳川家康)の葛藤
 即ち,
1.行長=キリスト教=殉教 VS
2.内府様=神・仏(悪魔)=勝利
という対立構図で描かれる,逆・勧善懲悪ものです。〔後掲一歴史学者の……〕
 この戯曲がどのくらい有名だったかは,懐疑的な説もある〔後掲一歴史学者の……:「ドイツ・イエズス会の殉教劇を調べた労作」による〕らしい。ただ,マンショさんがこの後ポルトガルからローマへ渡り,1624(元和10)年にイエズス会に入会を認められています。父親の名前によるところもあったかもしれません。
 マンショさんは,さらにローマの聖アンドレ修練院で学んでます。履修科目は神学と人文学。なぜか経済的に恵まれていたらしく,入学時の所持品記録には多くの衣類の記載があるとのことです〔出典不詳〕。
 かくして,1627(寛永4)年には念願だったであろう司祭の位を得たのです。
 詳しくないけれど,司祭の叙階は上下関係があるらしく,帰国段階でマンショは日本国内第四位の序列にあったという〔wiki/小西マンショ〕。
①ジョアン・バスティスタ・ポッロ
②マルティーニョ式見
③ディオゴ結城
④小西マンショ
⑤ペトロ岐部
「上位3名が殉教した場合には日本管区を引き継ぐことになっていた」と同wikiにはあるけれど──それがどうなったのか分からない。また,なぜペトロより上位が付いているのかも不明ですけど──

帰国したマンショさんはどこへ?

「1627年度のイエズス会ローマ管区の名簿には、『ミゲル・ミノエス神父、小西マンショ神父、日本へ』と記載」があるという〔後掲徒然に〕。
 ミゲル・ミノエス神父は西行途中の暴風雨の「後遺症で落命」します〔同〕。
 その後,マニラでドミニコ会の朝長ヤコボ・デ・サンタ・マリア神父※と合流,「5ケ月も海上をさ迷ってしまい,途中で朝鮮に漂着した後に,やっと薩摩国に到着」〔同〕します。

※1582年大村生。大村の旧家朝長氏の出。1626年,マニラで神父に叙階。1633年7月4日長崎で捕縛,8月17日長崎にて穴吊るしで殉教

 日本上陸後,かなりの,期間,結城ディオゴ※と同行したとされ,おそらくこの点から近畿で活動されたと推定されています。

※1575年阿波生。名家・結城家の出。1617年,マニラにて叙階。1635(寛永12)年阿波国大坂峠で捕縛,翌1636(寛永13)年大坂で穴吊りの刑,殉教。

 マンショの殉教は,1647年にトンキン(ベトナム)へ来たフィリポ・マリノ神父の次の記録から推定されています。「3年程前に都で日本人神父の小西マンショが殉教を遂げたことを知った。」
 wiki(/小西マンショ)は「正保元年(1644年)に捕縛され,高山右近の旧領音羽で処刑され殉教した。殉教地は飛騨高山ともいう。」と書くけれど,出典は記されてない。
 このように,どうも日本帰国後の足跡は,殉教も含めて誠にボヤケています。なぜなのか分からない。客観的に見てキリシタン殉教史はとかく美化されるきらいがあるから,司祭としては不名誉な実情があるのかもしれません。
 また,ペトロやディオゴなど,常に上位者とともに行動しているところから,家康と対立した「殉教者」小西行長の子として,実情以上に振り回されていた印象も受けます。
 ただ,とにかくローマで叙階されて再び帰国する壮挙を遂げたこの対馬人が,対馬本土では八幡宮の片隅に祀られるのみ,という情景は誠に物悲しい。

小西行長養女・ジュリアおたあのミュージカル(劇団わらび座)〔宇土市2015年上映ポスター〕

その義理の叔母 ジュリアおたあ

 朝鮮出兵で第一軍の司令だった小西行長は,戦中に朝鮮人の娘を養女にしたという。
 そういう子どもは無数にあっただろうに,どういう事情があったのかは伝えられません。wiki〔ジュリアおたあ〕は「戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮の両班の娘ともいわれる」と書くけれど,出典は分からない。
 名を聞かれ「オプタ」(없다 無い)と答えたので,それが転じて「おたあ」と呼ばれるようになったという説もある。

※wiki記載出典:盧桂順『朝鮮女性史 歴史の同伴者である女性たち』東京図書出版、リフレ出版、2020年

 戦役を通じて、小西はある朝鮮人少女を養女にしており、彼女が後に受洗して〝ジュリアスおたあ〟と名乗るようになったことから、彼女は史上初の朝鮮人キリスト教徒(受洗者)と考えられている。〔後掲内藤〕

 ジュリアさんが知られるようになったのは,家康の近隣にキリシタンの女性がいる,ということが宣教師たちによって伝えられてからです。──例えば,日本管区長フランシスコ・パシェコの1622年2月15日付書簡追伸には「Vota Julia」と記載されます。

ジュリアおたあの足跡〔後掲徒然なか話〕

 史料での初見は1605年「イエズス会年報」(伏見教会のロドリゲス・ジラン神父著述)と思われます。高麗生まれでキリシタンの侍女ジュリアについて「茨の中の薔薇」と評しています〔前掲盧〕。この時期は,伏見城で御物仕(将軍の正室の食事係)を努めたとされます。
 続いて1607年2月のマニラ管区長への報告書(アルフォンソ・ムニョス神父記述)。天主堂のミサに通う侍女のジュリアの描写がある。──この天主堂は,何と家康の許可で江戸城下に設置されたフランシスコ会の教会だといいます。
 さらに1611年のスペインのセバスティアン・ビスカイノの会見録(金銀島探検報告)に,駿府城で家康と会った時にジュリアの同席が記されます。──これらから,家康は1606年春にジュリアを江戸城へ移し,さらに1607年春の駿府隠居時にも伴っていたとされます。阿瀧という名が与えられていたという。
 家康嫌いが口を揃えていうオンナ好きであったとしても,これはどうも度が過ぎてます。また,よくジュリアについて書かれる「大奥」※というのとも,どうも違う光景です。秀吉同様,征討地からの戦利品として女性を連れ帰って誇る蛮習だったのか,あるいはよく言えば……「外国」出身の「敗者(西軍)の子息」がお側に安寧に暮らす様子を顕示することで,徳川の泰平の到来を演出しようとしたのかもしれません。

※大奥という用語自体が,4代徳川家綱代以降の初見で,5代綱吉代に定着した制度とされる。つまりそれ以前は,表と「奥」の境は定かでなかったと言われます。〔wiki/大奥 原典:(編)竹内誠、深井雅海、松尾美恵子『徳川「大奥」事典』(東京堂出版 2015年)〕

 けれど,セバスチャン・ヴィエラ神父の1613年「年度報告」及びロドリゲス・ジラン神父の1619年度「イエズス会年報」で伝えられるジュリアの消息には──1612年のキリシタン禁教令後も,ジュリアはキリシタン棄教の要求を拒み,かつ家康の側室への抜擢に難色を示した。そのため,駿府から追放されたとある。
 1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎が,島にある由来不明の供養塔が「おたあ」の墓であると主張。これ以後,神津島に流されて没したとするのが定説になっています。
 以上から類推されている「ジュリアおたあ」物語が巷説のとおりで,戦場で拾われたけれど一時は家康に近習,でもキリシタンゆえに流罪になり果てた数奇な運命,という形で語られているわけです。

ジュリアからウンナキ殿への便り

 さて,実はこの文章をまとめている最中ですけど──1609年(慶長14)年8月19日付の「おたあ」書状が萩で公開された,というニュースがありました。なぜ萩かというと,書状の宛先が長州藩士・村田安政(書中の「うんなき殿」)だったからです。

おたあ→「うんなき殿」書状 (上)全体 (下)末尾拡大〔後掲読売新聞〕
おたあ→「うんなき殿」書状 (上)全体 (下)末尾拡大〔後掲読売新聞〕

 同館によると、書状は3通で長州藩士の村田家に伝わり、子孫が同館に寄贈した。村田家初代の村田安政はおたあの弟だという長州藩の記録があり、2人のつながりを裏付ける発見としている。
 江戸時代初期の1609年(慶長14年)8月19日付の書状は、安政が長州藩にいると知ったおたあが、体のあざの位置などを記して本人確認する内容で、ほかの2通は弟と会いたいなどと望む内容だった。
 このほか、村田家からは、おたあの仲介で安政が家康に面会した際に与えられたという家康の小袖(身丈121センチ、 裄ゆき 丈59センチ)も寄贈された。〔後掲読売新聞〕

「長州藩の記録」は確認していません。村田安政という人もヒットがなく,幕末の村田清風との系図上の関係も確証がありません。また,互いの安否を確認した兄妹が,再会できたのかどうかも情報がありません。
 マンショが日本帰国時に朝鮮に漂着した,という情報も先述しました。朝鮮から日本への航路は,当時,対馬へ寄港するのが普通だったはずです。マンショ,うんなき殿,ジュリア,3人の行長の末裔たちは,どこかで再会していたのかもしれません。

ジュリアおたあの肖像画〔後掲読売新聞 ※原点:東京都神津島村教委提供〕

■レポ:幕末広東発・八戸事件の怪

 1811(文化8・純祖11)年の易地聘礼,つまり朝鮮通信使の終点を対馬に差置く行程改訂は,元は江戸幕府側から示された案です〔wiki/朝鮮通信使〕。

※wiki原典 奥谷浩一「朝鮮通信使47年間の空白と「易地聘礼」にかんする思想史的考察 : 江戸時代の日本思想史の一断面」(PDF)『札幌学院大学人文学会紀要』第80号、青山學院女子短期大學、2006年

 1791(寛政3・正祖15)年に,幕府の経費節減意向を対馬宗氏が伝達したものです。
 実現まで20年かかっています。──この間,1805(文化2・純祖5)年に,対馬藩から朝鮮の通訳官へ渡した易地聘礼の実現工作のための贈賄が発覚,同通訳が処刑される事件が起きています。また,北海異談※中では,ロシアが南下方針の延長で何らかの工作──例えば通信使中にロシアのスパイを同行させるなどの行動に出ることを幕府は恐れ,これが通信使延期の真の理由,としています。何かの裏があった可能性も否定できません。

※1808(文化5)年に講談師の南豊亭永助が著。文化露寇(フヴォストフ事件)をテーマとし,この事情を機密指定していた幕府により永助は処刑。

 いずれにせよ,1841(天保12・憲宗7)年には,老中・水野忠邦が江戸招聘から大坂招聘への変更計画を立案したとも言われますから,来てもらう日本側が右往左往していた側面が強い。

※wiki原典 田中健夫『前近代の国際交流と外交文書』吉川弘文館、1996年

 少なくとも,朝鮮側が通信使を止めようと強く臨んだ形跡はないのですけど──

中外新聞掲載の「八戸順叔」投稿記事 (上)全文 (右)書出し3行 (左)末尾3行〔wiki/八戸事件〕

五年一朝貢しない朝鮮は討つべし

 上記は,1867年1月(同治5年12月)に広州の「中外新聞」に掲載されたとして各国政府関係者に出回った香港在住日本人「八戸順叔」の寄稿記事です(原物についての懐疑は後述)。その末尾には──
「討朝鮮之志因朝鮮五年一朝貢至今負固不服此例久廃故也」
──日本が朝鮮を征討しようとするのは、朝鮮が5年に1度実施していた朝貢をやめ、久しく廃止しているからだ。〔wiki/八戸事件〕

※wiki原典 田保橋潔『近代日鮮関係の研究 上巻』(1973年、原書房)初版は1940年

と書かれています。
 そもそも朝鮮は主観的には,江戸幕府に朝貢している気は全くありません。国際的にもそうで,ただ江戸幕府側が権威発揚のためそのように日本国内へ流布していただけです。
 さらに先述のように,易地聘礼を言い出したのは江戸幕府なのですから,「討」たれる朝鮮としてはとんだトバッチリなわけで──細部はかなり無茶苦茶な内容なわけです。
 幕府も朝鮮政府へ,「無稽之説」として八戸記事を否定しています(1867年6月幕府発対馬藩主宗義達宛書簡,同月倭館滞在中の講信大差使・仁位孫一郎から東萊府使・鄭顕徳に書契提出)
 ところが,この記事を受けて,アヘン戦争敗北後,西洋風の軍事力を整備しようとしていた李鴻章らの洋務派は,欧米以上に日本を仮想敵と見做し始めます。そうして本当の宗主国である清朝からの情報により,朝鮮も同様の対日疑念を持つに至る。
 1875年9月の江華島事件の後,翌1876年2月に行われた日朝両全権の会商席上,朝鮮全権・申櫶が八戸記事を持ち出し,この日本側からの侮辱(特に「五年一朝貢」記述)が両国関係悪化の主因と断じます。※wiki原典 原田環『朝鮮の開国と近代化』(1997年、谿水社
 ただし,日本側が発生当時に否認説明済であると説明すると,この時も朝鮮側は八戸案件を取り下げています。

寄稿も八戸さんも中外新聞も見つからない

 先に示した八戸順叔寄稿の一次史料は,現在まで発見されていません。伝わっているのは,清朝総理衙門による引用文(照録)のみ。
 田保橋潔「近代日鮮関係の研究 上巻」(朝鮮総督府中枢院,1940)では,
問題の記事は1867(同治5)年に広東で発行されていた「中外新聞」12月12日版に掲載されたとする。ただし,「中外新聞」という当時発刊のメディア名で確認できるのは寧波で発行されていた同名新聞のみだという(曽虚白「中国新聞史」)。なお,香港紙としては,以下3つの類似(「中外」の二字を含む)メディアがあることが確認されています。
①中外新報(1858年創刊。英字新聞『孖剌報(Daily Press)』の中文版)
②中外雑誌(1862年創刊)
③香港中外新報(1864年9月から1865年4月までの間に創刊)
 もっとも中国語の大衆向け新聞は,多国籍紙としてこの時期に発刊が始まったばかりです〔後掲塩出〕。小規模又は短期間に廃刊になった新聞も多数あったと思われるので,完全に否定するのも難しい。
 寄稿者・八戸順叔についても諸説あり,確定されません。

我九州の人、八戸順叔なる者(此人、曽て米国に遊びし事あり)上海にあり、日本政府、此議ありと聞き、軽率にも之を誇張して地の清国新聞に投書せしかば(以下略)〔wiki同 ※原典:煙山専太郎『征韓論実相』(1907年)120頁〕

 ほか,田保橋は「旧幕府遣老の伝へるところ」として「代官手代八戸厚十郎の三男」説(後掲)を採っています。
「八戸順叔」名の日本人離れした語感※から,これをペンネームだとする説もあるけれど,そうなるともう状況証拠だけになります。──李相哲は八戸喜三郎という人物を特定,その挙動が限りなく関東の新聞への寄稿者に近い証拠を挙げて,「八戸順叔」は喜三郎の筆名,「中外新聞」は英字紙”The China Mail”内の中国語で記事欄のコーナー名と推測しています。

※ただし,津軽藩には藩主の津軽順承や家老家の津軽順朝など「順」の字を名乗る者が多くいた。また,この津軽順朝の子で津軽黒石藩を継承した津軽承叙も存在した。よって,日本名として皆無ではない。

 だから,以上の実証からだけからすると八戸事件はフェイクとしか思えません。ただそれを清朝政府が資料として重視しているので,少なくとも,何かの実体があった可能性が高いのです。

八戸喜三郎の幕末アメリカ旅行

 李説で推認される八戸喜三郎の足取りを,ある種のサンプルとして見てみましょう。

八戸喜三郎の足取り
1865年 渡米
※日本人移民「元年者」に関わったオランダ系アメリカ商人ヴァン・リードが,1865年に持病の結核療養のためサンフランシスコに帰国する際,八戸喜三郎(ヤベ キサボロー Yabe Kisaboro)という日本人が同行〔wiki原典 福永郁雄「ヴァン・リード論評」(1985年、『英学史研究』第18号、日本英学史会),福永郁雄「ヴァンリードとは”悪徳商人”なのか - 横浜とハワイを結ぶ移民問題」『横浜居留地と異文化交流』(1996年〕
1866年 日本帰国時に漂流
※同3月4日船がウェーク島沖で座礁沈没し、27日二人が乗るボートがグアム島に漂着〔前掲福永1985 66頁←”Wreck of the Libelle,” The Friend, Honolulu, September 1,1866.〕
1867年 南京移住
※「香港に在住し、八丈島漂流人のために尽力・周旋した人物である。慶応3年2月に日本諸藩の武士70人とともに南京金陵に赴き、支那政府より士官に任ぜられた。英語に通じ、対話はほぼ英国人のようである」〔『国際人事典』595-596頁。『万国新聞』1867年(慶応3年)4月。〕
同時期 新聞に寄稿
〔wiki同 ※原典:李相哲『朝鮮における日本人経営新聞の歴史 一八八一―一九四五』(2009年、角川グループパブリッシング〕

 少なくみても二百年ぶりに破れた「鎖国」直後(と言っても薩長藩士の欧米記録にあるように厳密には密航ですけど),雪崩を打ったように海外に出た日本人がこの時期,世界各地を徘徊していたものと思われるのです。
 八戸事件は,もちろん国家又は特定勢力の公式意見が示されたのでもないし,何かの決定的証拠になったわけでもありません。けれどその後の現実の大日本帝国の動静を知ってから振り返ると,見事に「自己成就した予言」になっていることは確かなのです。それを前提とすれば,こうした征韓論などの「大言壮語」を吐く,又は心中に秘めていた日本人はそう珍しくはなかった,と想定する方が蓋然性は高い。
 その意味で言えば,複数の「八戸順叔」が幕末から維新当初のアジアに蠢動していた,と考えていいのではないでしょうか?

八戸順叔は幕末数次の渡欧

 もう一人,田保橋説「八戸順叔」の経歴を見てみましょう。 

 八戸順叔は「旧幕府遣老の伝へるところに従へば、・・・代官手代八戸厚十郎の三男で、後姓を太陽寺(?)に改め、明治維新の際、上野国高崎藩の雇士となり、藩制改革に参与し、後東京府及び地方の属官に任ぜられた。幕末数次ヨーロッパに渡航した経験があると云ふ」(田保橋・前掲書※ーニニページ)。幕末にヨーロッパ渡航数回というのは、かなり特異な経歴である。かれは幕府の外交関係の一属僚であったと思われるが、老中板倉との何らかの接触があったであろう。外務官僚がこのような重大な失言をするとは考えられないし、数種の新聞に発表した点からみて、おそらく、意図的に流言を放ったものと推定される。おそらくそれは幕府の対韓政策の一布石であったのであろう。〔後掲山川 一注(6)〕※前掲書:田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上巻 朝鮮総督府中枢院,1940

 前歴としては「出世しなかった伊藤博文」という感じです。いや,半年ロンドンにいただけの伊藤よりよほど外国通です。
 維新後は役人におさまってますから,「幕末数次ヨーロッパに渡航」した間に何かの功績を挙げた可能性があります。それがエージェント的なものだったなら,広東で投稿,ということも考えられなくはないけれど──それを実名でするだろうか?という点には疑問が残ります。
 だからそこから一足飛びに「幕府の対韓政策の一布石」と推論するのは,やや辛いし,当時そんなことをして朝鮮を挑発して何の利があったか不明だけれど──外交的にはヨチヨチ歩きの幕府の一部が,よく分からない理屈でそう考えたのかもしれません。
 考えてみれば,帝国主義の西洋に倣って富国強兵を進めるなら,朝鮮を攻め取るべし,という発想は,ごくシンプルです。
 過去の刀伊・元寇・応永を半島から日本への侵略に3カウントするなら,日本→半島の侵略は白村江戦・倭寇・朝鮮出兵で3カウント。元寇は2度,倭寇は多数回とすれば日本からの方が多い。朝鮮-日本と連なる島弧状の陸地は,どちらの方角からしても「そこを征して向こうへ」というアフォーダンスを喚起させる地勢なのでしょう。
 つまり「征韓論」は「論」ですらない。大言壮語したい日本人が朝鮮を語れば,普通に出た言動でしょう。──これは逆に,中国・朝鮮からしても自然な発想ですけど,彼らからすると日本に攻め入るメリットに欠けるから引力は小さい。
 この八戸さんが「意図的に流言」した内容だったとしても,それはあまりクレバーでもスニーキーでもなくて,現実の侵略をする力はないけれど,そのうち……という弱者の憂さ晴らしだったように思えます。けれど人間は,特に集団的無意識のレベルでは,そうしたドス黒く深い願望を知らぬ間に実現してしまうものです。
 八戸事件は清と朝鮮にとって,長期的に正確なインテリジェンスだったのです。逆に日本にとっては,この根も葉もない記事が日中戦争まで誘発せしめる重い呪いになったのでした。

■レポ:朧げなままの対馬国府・国分

 承平年間(931~938)に編纂された地名辞書「和名類聚抄」に,対馬下郡(≒下島)の地名として「国府」が記されます。

巻5・国郡部第12・西海郡第67・対馬島・28丁裏8行目 対馬島 管二[田四百二十八町本稲三千九百二十束]
巻5・国郡部第12・西海郡第67・対馬島・28丁裏8行目 上県[加無津阿加多]
巻5・国郡部第12・西海郡第67・対馬島・28丁裏9行目 下県[国府]〔二十巻本 和名類聚抄 和名類聚抄巻五←後掲国立国語研究所〕

 ほぼ,それだけです。10C前半には対馬に「国府」と呼ばれる地名があった。そこからの推測で,その地名は他での由緒※と同じだろう,即ち「対馬国」の国府だろう,と考えられるわけです。

※角川日本地名大辞典で「国府」を引くと,97のヒットがあります。中には北海道の国府(現・中川郡中川町。国府コクネップ川から)のような例も含むけれど,概ね古代の国府又はその伝承を由緒とします。

 なのに……それ以上のことが分からない。
 たまたま次の事件が9C半ばに起こったことが,記録されています。ここに書かれた行政職名から,国府(役職:守)と郡の役所(役職:主帳・大領・少領)があったことが推定されてます。〔後掲対馬古族〕


対馬島上県郡擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主ら、党類三百人ばかりを率い、立野正岑(かみたつのまさみね)の館を囲み、火を放ちて正岑ならびに従者十人、防人六人を射殺と言上。〔『文徳天皇実録』天安元(857)年6月25日の記〕

 この記事から,

【攻撃側】郡:主帳❝卜部❞・大領❝直❞・少領❝直❞
【防御側】国:守❝立野❞

という構図です。上記文徳天皇実録と同等の内容が三代実録にもあることから,この事件及び官職や氏名は史実性が高い。
 下記三代実録記事はその判決についてらしく,記述時点は翌年です。「皆斬に当たる」──本来は全員斬首だけど,と減刑遠流ということになってます。
 ともかく,この9C終わり頃には,それぞれが争うほど国と郡が対馬に定着していたわけです。

太政官論奏して曰く(略)対馬島下県郡擬大領直氏成上県郡擬少領直仁徳ら、部内百姓首従十七人。兵を発して立野正岑、及び従者榎本成岑らを射殺。氏成らの罪、皆斬に当たるも称されて死一等を減じこれを遠流に処す。〔『三代実録』天安二年※十二月八日の記 ※858年〕

「国分」は,仏教政策上,各国府に置かれた国分寺又は国分尼寺から来ていると言われます。対馬の国分寺が855年末までに設置されていたことは,次の史料から確認されます(原典未確認)。

天平勝宝七年(七五五)対馬などの「島分寺」を含む薩摩国・壱岐島など西海道五ヵ国島の講師が停止され(略)斉衡二年(八五五)一一月九日停止されていた講師を復活(略),この段階までに島分寺として整ったことが知られる。〔原典:斉衡二年一一月九日「太政官符」類聚三代格←日本歴史地名大系/対馬島分寺跡・対馬国分寺跡←コトバンク/対馬島分寺跡・対馬国分寺跡〕

※斎衡(斉衡)2年≒855年

 ここまでが前置きですけど──これだけの史料からようやく言えるのは,9C半ばまでに対馬に国府・郡役場・国分寺が存在した,ということだけです。国府の位置については,国分寺は通常国府から離れていない,国分寺に由来する「国分」が現・厳原市内にあるということは,国府も厳原にあったはず,と推定されます。
 ただ,繰り返しですけど,そっから先が皆目分からないのです。

国府・島分寺のあった場所

厳原町国分〔GM.〕

 字・国分の場所は,上記の通り。本文でさまよったのはその南東の海側の一角です。
 (前)厳原市教委の主に地名学的な次の論考でも,「現在の下県郡厳原町の市街に国府が置かれたことは確実」としています。なお「白品議」の意味はヒットがなく不明。

対馬島における国府がいつ設置されたか明瞭でないが,太宰府・壱岐・対馬は最短距離にあれ現町役場所在地一帯に国分・白品議等の地名山名が残り,中世に国府の津とよばれた現在の下県郡厳原町の市街に国府が置かれたことは確実であろう。現在の厳原町市街は南流する厳原本川(市ノ川)と,東流する金石川の流域に展開している狭陸な地である。厳原港の南側には白品議の急傾斜地が迫り,東麓が現役場のある国分であり,金石川北部,清水山南麓には白高卒の称が残っており,印鎗の小杷が残されている。(略)八幡神社の東辺,遊月橋の辺までの円滑な蛇行から直角に変流していて不自然である。馬場筋とよばれた現在の厳原・上対馬線道路上の標高を観察すると,金石川下流の江尻橋から約250mのあたりまで4.3m未満と最も低い。このことは,中世末の厳原港の海岸線が現在の遊月橋の辺まで湾入していたとされること(15)と符号している。〔後掲厳原市教育委員会1985〕

※原注15 永留久恵『対馬の歴史探訪~1982

遊月橋がどこか分からなかったけれど,Cafe&Bar遊月橋という店がここにあるので,この辺りでしょう。

 厳原市教委は「対馬嶋分寺の位置はきわめて限定」とまで書いてます。上記によれば厳原市街の旧海岸線自体が現在よりはるかに内陸で,つまり平地が限定されるのですから,国府又は嶋分寺の位置も選択肢は狭いはずなのです。

(続) 厳原町市街をこのように見てくると,旧国庁ないし,対馬嶋分寺の位置はきわめて限定されてこよう。嶋分寺の旧位置についても現時点確証は得られていないが,前述の厳原の旧地形を考えれば,『対州編年畧』,『津島紀事』に清水山南麓とされているのは当を得ていると考えられる。〔後掲厳原市教育委員会1985〕

 嶋分寺は857年に焼かれたと推定されてます。下記対馬市教委によると,その後,875(貞観17)年頃に再建されるも,1267(文永4)年には衰亡してる。
 つまり,9C前半頃の短い期間の存在が推定されるのです。それがなぜ地名にまでなって現在にまで伝わっているのでしょう?この辺りが完全に謎なのです。

全国に建立されていた島分寺だが、対馬では平安時代に入りようやく落成された。場所は清水山の南麓と考えられている。天安元年(857)に叛民によって国府が焼かれ国守立野正岑(たつのまさみね)が殺害されたことが『文徳天皇実録』や『三大実録』から分かっているが、このとき島分寺も焼失している。貞観17年(875)頃に再建されたようだが、詳細は不明である。文永4年(1267)の八幡宮文書『寺社僧徒等免行事』に島分寺がないことから、このころ既に廃れていたが文明年間(1470頃)に宗貞国が国分寺として復興したという(永留2009)。この場所が島分寺も置かれていた清水山南麓であり、後に金石城が作られた金石原(かねいしばる)である。〔後掲対馬市教育委員会2010 3節1節1項1〕

薄く残る「国府」「国分」地名

 厳原の江戸期までの地名は「府中」だったわけで,古代「国府」に引きずられた名称と思われます。そもそも「国府」や「国衙」という地名も,江戸期まで残ってたらしい。

古代に置かれた対馬国府で、対馬島府ともいう。「和名抄」では国府は下県郡にあると記されている。対馬国府に関連する史料は少なく、現在までその遺構は確認されず、その確かな始期も所在地も未詳であるが、中世・近世を通じて国府・国衙または府中(ふちゆう)・府内(ふない)などとして、施設または通称地名として史料にみることができる。「対州編年略」に天武天皇一二年(六八三)対馬国与良(よら)に国府を定め、桜川(さくらがわ)の南に国庁を建てたとある。「津島紀略」でも与良は府の本号(旧号)とし、与良に国府が置かれ、具体的には国府平(こうびら)の下を流れる桜川、すなわち金石(かねいし)川の南岸に政庁があったとする。この流域は現在の国分(こくぶ)にあたり、大町(おおまち)から奥里(おくざと)にかけての一帯が国庁域であったとみられる。その北側の清水(しみず)山麓に島分(とうぶん)寺(国分寺)があった。「文徳実録」天安元年(八五七)六月二五日条によれば、対馬島上県郡擬主帳卜部川知麻呂や下県郡擬大領直浦主(氏成か)らが党類三〇〇人ほどを率いて、守正七位下の立野正岑の館を囲み、火を放ち、正岑と従者一〇人・防六人を射殺したと大宰府からの飛駅使が報じた。〔日本歴史地名大系 「対馬国府跡」←コトバンク/対馬国府跡〕

 では国分の細地名ではどうでしょうか?
 その後の与良の五里の地名の中に「奥里」というものがあり,この周辺には「国府原」「国府岳」「国府平」という地理名称も残っているといいます。この地名は確かに,国分のいわば根屋(ニーヤ:沖縄)のような地域を指すらしい。

古くは現国分町の西部山すその地区を与良の五里のうち奥里といい,地内の大部分は平津と称する浦であった。地名の由来は,白鳳年間桜川の南に置かれた国府にちなむ(津島紀事)。桜川は金石川の別名である。この付近を国府原といい,西側に国府岳があり,北側の丘を国府平という。国府は現厳原町役場付近から万松院に至る幅100m・長さ300mの金石川南岸の狭少な地域と推定され,島分寺や島分尼寺は川北に建てられた。中世享禄元年金石館が金石川の北側に設けられて以後は,城の一画として米倉・厩舎・馬場などが置かれ,さらに藩の営繕普請を司る役所も設けられ,これにちなむ地名として破損の内・米倉通りなどがある。ほかに奥里町・田の平町・新町・今町・大町・柳小路・十王町・鍛冶屋小路・公事殿小路・幸田小路・浜町・三軒屋などがあり,奥里は与良の奥里の名を残したもの,田の平は古い水田地帯が市街地になったものであり,新町・今町・大町・浜町などは新しく市街地化した町名,柳小路・鍛冶屋小路・公事殿小路などは居住者を示したものである。〔後掲角川日本地名大辞典〕

 この「奥里」という地名は土地にかなり根付いたもので,明治初めまでは町名だったようです。

(近世)江戸期~明治11年の町名。江戸期は府中(厳原(いずはら))城下のうち。白鳳期桜川(金石川)の南に府を定め庁を置いたことから国府原といい,その西辺を奥里といった。もとは与良の五里の1つである。現在は町役場前国分町通りの裏道にわずかに奥里町の通称名を止めている。明治11年国分町に合併。〔角川日本地名大辞典/奥里〕

 ただし,その他の細地名は後代に由緒を持つものが,旧・国分に統合されていったもののようです。例えば「田の平」又は「田平」という地名です。前記「古い水田地帯が市街地になったもの」に由来するという。

大(おお)町の南西に位置する。国分町の一画を占める。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「田平新町」一六軒とある。元禄元年(一六八八)一二月の火災で「大町・平馬場町・国分町・田平新町」の一帯などが焼失した(郡方毎日記)。〔日本歴史地名大系 「田の平」←コトバンク/田の平〕

考古学的実証は無い

 地名にさえこの程度に痕跡をとどめる古代の国府・国分ですから,より決定的な考古学的な証拠が出てきそうに思えるのですけど──結論として,そちらの方は不思議なことにまだ見つかっていません。
 観光化のための旧金石城庭園の調査は,以上も意識してかなり徹底的に行われています。

城内における過去の調査から、16世紀代の遺構と重複している可能性が高く、心字池との識別を明確にする必要性は当初から指摘されてきた。そのため発掘調査では中世の国分寺と古代の島分寺の存在も視野に入れて進めることが前提とされた。ただし心字池に関連した遺構を破壊してまで下層を掘ることはせず、影響のない範囲で探ることとした。〔後掲対馬市教育委員会〕

 国府の痕跡が見つかった,と書くプログもあるのですけど──調査報告原文を読む限り,そういう記述は見当たりません。
 一つには,上記のとおり,古代より後の遺跡がさらに重層化しており,「遺構を破壊してまで下層を掘ることは」出来ないとの判断から発掘が限定的に終わっている可能性はあるのですけど──未だ,古代・対馬国府の考古学的片鱗は見つからない。厳原中心部ですから,それなりに建設工事は頻発しており,調査機会が少ないわけじゃなかろうから,今後も期待は残るんてすけど……。
 ならばなぜこれほど地名的な尾を引いているのか──堂々巡りの謎は厳原中心部に置き去りになって残存しているのです。

■資料:対馬鰐浦からみえる釜山

 対馬鰐浦(→GM.:地点)には「韓国展望所」という場所があります。今回の日程では到底行き着けませんでしたけど、天気によっては次のように赤々と釜山方面の灯が見えるらしい。

※ 後掲佐伯 裏表紙写真
「コロナ前はこの対馬の外れにある展望所に韓国人観光客が大挙して訪れてた」,つまり韓国人ウケがいいで,「韓国/釜山がうっすら望める韓国の古代建築様式を取り入れた展望台が建つ展望所」を造ってるようです〔GM.クチコミ〕。ちょっとやり過ぎの感もあるけれど──

夕暮れでもこんなに見える時があるらしい。〔GM.画像〕

「目前には航空自衛隊海栗島分屯基地があり」ます〔GM.クチコミ〕。次の画像の下部に写っている施設らしい。
 対馬の地勢をこれ以上物語る画像もないので,以上3枚を掲載して,本章を閉じることにいたします。
昼間の,おそらく最大望遠。釜山後方の山が見えてます。〔GM.画像〕