目録
初日
(初日:矢賀駅~広島駅)
とにかく矢賀駅入口下車
広島駅前16番乗り場、蔦屋家電前の乗ったことのないバス停で2-7温品四丁目行きを待つ。1225。
2-x系列が沢山出てて、どれが目的地・矢賀駅方面なのか見当がつかない。けれど、とにかく2-7は行くらしい。
1226、乗車。東行。次バス停は東区役所。いきなり左折、高架で線路を跨ぐ。
広電曙営業所。既に土地勘はない。
午前中の曇天がにわかに入道雲を宿し初めてます。
左手へ湾曲していく。ad曙一丁目。
バス停曙町から矢賀入口……ですけど、目指すはここじゃなく矢賀「駅」入口。も少し先でした。地下から線路をくぐった?えーん、分からないよう。
兎に角……矢賀駅入口下車。1237。
昨日のげんこつ辺りから、天神川イオンを北西にまたいだ辺りになります。
1238、とりあえず矢賀駅へ西行。ひろしま駅弁から在来線の踏切兼新幹線高架下を越えますと──おおっ!何とレトロな矢賀駅さん?
尚、ワシは鉄ちゃんではない。
それはともかく……そのまままっすぐ山手へ進む。ad矢賀二丁目10。
市立矢賀小学校。おおっ?あるじゃん、古い佇まい!
イオン方向への緩い傾斜
矢賀中央集会場、ad矢賀二丁目2。ここの変則十字から左折するつもりが、思わず直進西行。土塀が残ってる。──写真に撮れてなかったけど……。
十字に戻ると「二葉の里歴史の散歩道」地図に気づく。ここから小学校を過ぎた場所から山手、才蔵寺と才蔵峠から三本松へと導線を作ってるようです。
迷う。この山手道が昔の道でしょうか、それとも今から目指す予定の平地道か?導線地図はそれを示してない。少なくとも観光客は山手を行くんだろうけども……。
南行。観光用でない平地道を選ぶ。1303。
1306、才蔵峠分かれに「今宮神社跡」石碑。ad矢賀二丁目1。おそらくここは、古い中では新しい道でしょう。切通ができてからの間道を主体とする道……だと思う。直進。矢賀2丁目町内会掲示板。家は、その9割はキレイな一戸建て。でも残りは古い造りのままです。
ワカサ病院というエンジの建物が、緑色看板の建物進行方向に見える。GM.で確認すると──今は西に続いてる才蔵寺の尾根の先、かつては岬の突端手前だったと思われる位置です。つまりあの「岬」のさらに南が、目指す「岩鼻」のはずです。
いい目印です。病院に向け、進む。
1315。イオン方向まっすぐに道。側溝と石垣の縁取る緩い傾斜を残してます。
矢賀一丁目の船屋?
1320。ワカサ近くまで来ました。
ここに、赤レンガで囲う白壁の蔵。この辺りは才蔵峠の峰の東の陰、原爆後にも残ってた地域ではないかとも想像する。
1323、矢賀一丁目集会所。ad矢賀一丁目1-11。しっかり見たはずですけど……特段の痕跡は見いだせず。
掲示板には男崎神社の秋季大祭。これ、さっきも見ました。矢賀三丁目にある神社らしい。──その位置を地図で見て驚く。矢賀地区最北、戸坂へのルート途中です。つまり矢賀集落もまた、戸坂ルートの町、おそらく「府中湾」北奥の港町に端を発しているようで、それが近世に激しい勢いで南へ中心を移してきた町ではなかったでしょうか?(巻末)
ad矢賀一丁目1-19。
古い家は、地盤が1m近く高いようです。左手東側への傾斜地も残る。新しい家は、道路と同水準に地盤を持つので一階面が凸凹になってます。それが、道の右手にだけ続いてます。
今歩いてるこの道が海岸線で、一階部に船を収納する能地のような構造上の慣習があったなら、説明がつく道と家屋の配置です。
──ただ、写真画像でも分かる通り、家屋の方向は海向きの妻入ではなく、道の伸びる向きです。新築時に向きを変えた可能性はあるので、確たる否定もできませんけど……。
(上)伊根湾の東側、伊根浦の一番奥にあたる立石地区の舟屋群。(略)
(中)舟屋はどれも海に対して神社建築のような「妻入り」だ。左喘が江戸時代の舟屋で、正面の梁は低く、柱は「ハ」の字状の構造をしている。中央は昭和、右は大正時代の舟屋。
(下)数少ない江戸時代の舟屋。太い立派な梁が印象的で、1階は海側に緩く傾斜し、舟を出し入れしやすいように海水を中まで引き込んでいる。〔後掲JR西日本〕
スピリチュアルな「広島湾」岩鼻
1342、矢賀薬局。その手前の豊島医院の駐車場の平面で、岬部の傾斜を確認できました。斜面が西から東へ半mほど下ってる。整地をしてなおこうなのですから、元はもっとくっきりと「岬」だったはずです。
岩鼻到着。1347。
──万一、今後訪れようと思った方のために助言すると、交通量のある道路の脇です。長く留まってると無茶苦茶目立ちますし、夏は暑く、きっと冬は寒いので……快適なご旅行で寄るところじゃないです。
岩鼻の今昔
岩鼻とは、岩の突き出た端(はな)の意味で、往時には広島湾に突き出た岬であり、岩が海波に洗われ、奇岩重畳(きがんちょうじょう)し松が茂生して人目を引く奇観であったといわれています。
広島城の築城の折りには、天守台や石垣の石材として、この岩鼻の細粒花崗岩が使われました。また、寛政8年(1796)、我羅我羅橋にあった御茶所がこの岩鼻の南端に移され、諸大名が参勤交代の途中ここで休息し、行列を整えて広島城下に入ったとされています。
この岩鼻は、平成元年からの造成工事により山容があらたまり、今では高層住宅が建ち並ぶ強固な地盤となっています。 ※全文〔散歩道案内板〕
巌鼻図(芸藩通志)が掲げてあります。※ただし上下画像は後に書籍からとったもの。
書籍に残るのは街道時代の穏便な名所としてです。
けれどこの位置にあるこの奇景は、海からは相当に目だったはずです。古「府中湾」からの進入時に気をつけないと座礁するポイントであるとともに、広島湾の玄関口でもあったでしょうから。
「広島城の築城の折りには、天守台や石垣の石材として」用いられた、というのも──してみると、単なる石材としてではなく、呪術的な行為であった可能性があると思います。もしそうならば、スピリチュアルな意味での「広島湾」はかなり永らく矢賀岩鼻にあったことになる。
岩鼻、猿猴川砂州、船津を所望した田所氏
今一つ──この、岩鼻より東にはっきりと伸びている道は何でしょう?
その方向は「府中湾」の出口です。埋立が大規模に進む現代まで海だったはずです。そこを、なぜ人が渡っているのでしょう?
この疑問に対する「船越から」の答えは「猿猴川砂州」でした。──この「道」は、猿猴川が江戸期までに自然に形成した砂州です。江戸期にはこれを船越側からの自然橋として利用していた、と推測されています(詳細は巻末参照)。
※後掲 安芸の船越から 山陽道歴史探訪>25、古代の府中平地と潟湖
そしてこの砂州故に、旧府中湾西岸・矢賀は船の接岸に加え待機に良港たる要件を備えていたらしい。
一所畠2反、矢加村 件畠者、(略)依為船津所望之間、預之畢。[正応2年田所氏文書]
田所氏は13Cに安芸府中にいたと推測される国衙役人です(後掲)。「船津の為に所望する」、つまり田所氏は矢賀を欲した理由を、船着き場に使いたいから、としています。
それがなぜ現・広島駅北側でなかったのか、という点には「船越から」は水深不足と推測しています。
船着場を設けるに適した地点として考えると、岩鼻付近より西の海岸は満潮時の短時間には海水に覆われても、大部分の時間は地表が現れる干潟で船着場を設けるに適していません。[後掲 船越から/27、中世の温品村と矢賀村]
推測に推測を重ねた上なのですけど……田所氏のこの文書だけに寄るならば、岩鼻付近は中世の太田川河口で唯一、絶妙な均衡の上に存立した港湾だったことになります。均衡とは、またも推測するに──猿猴川砂州によって堆積が遅れ、水深が保たれたスポットだった、という意味です。
さて──先述の通り、滞在するには余りに目立つ場所ですし、夏場は日射病の恐れがあります……というか既にクラクラしてきとります。
尾長東〜三本松:歴代藩主の鷹狩の陣幕
1403。曙五丁目(東)交差点から北西方向の路地へ。ad東山町2。
ナイス村上東山店の駐車場にも、やはりひどい傾斜がある。
奇妙な段差が目立つ。これは岬西側の微高地の名残りでしょうか。
1413、ad尾長東一丁目10。もう一本東の裏道へ入ってみる。これと車道との間に、既に50cmは差がある。裏道の方が高い。
時折、石垣の残存を見かける。
1423、ad東山町1。天然鯉城温泉?とにかく左手に道が出ました。
特養いっぱい。このまま進むと太陽の塔に着くらしいけど下界へ左折することにします。でも何とも印象的なエリアでした(次章特論参照)。
1430、きしだ精肉店。ad尾長東二丁目3。T字を直進。
1438、三本松町内会用品庫、三本松地蔵。もうこの辺りか。
秀吉が植えさせたとの伝説のある古株3つに縁起をかついで、歴代藩主が鷹狩等の際に陣幕を張ったという。それだけと言えばそれだけで、要するに野原に古株しかなかった場所らしい。
では町筋はどこにあったのでしょう?──この点がよくイメージできないのです。次章詳述。
翌日
(二日目:饒津神社~戸坂)
鶴羽根社に移った菖蒲前
バス停・二葉の里。0943。今日はさらに山手からスタートするとしましょう。
ひろしま観光ループバス・グリーンルートのバス停・二葉の里歴史の散歩道。こんなんまで出来てるんだ。
0949、鶴羽根神社。
鎌倉時代、源頼政の遺言により、二葉山山麓に建立された椎の木八幡宮が前身と伝えられ、約800年の歴史を誇っています。(略)昭和20年8月の原爆により、社殿はことごとく灰塵に帰しました。現在の社殿は再建したものですが、幸いにも残った石鳥居、石畳のそり橋、石燈籠などが往時を伝えています。〔案内板〕
左手の由緒の文面はまことに古めかしい。
祭神は「御祭神
伊邪那岐命 伊邪那美命
帯中津日子命 品陀和氣命 息長帯日賣命」とあります。
また源頼政について
當社ノ儀ハ建久年間(一一九〇~一一九一)「源三位頼政ノ室 菖蒲ノ前」安芸国加茂郡西條ノ郷ヲ領シ 没後其ノ遺言ニヨリ元久年間家臣池田左衛門社殿ヲ建立シ御祭神ヲ勧請ス 修理料トシテ椎木山(二葉山)ノ寄附アリテ椎木八幡宮ト稱シ 池田氏神主職トナレリ(略)
天保四年二月 明星院鎮国堂ヨリ出火 悉ク類焼シ同年四月 假社殿落成御遷座アリシモ 同社域二藩主ヨリ饒津神社造営ヲ仰セ出サレシ為 同六年四月 現在ノ地ニ所替ニト相成リ〔由緒案内板〕
天保四年:1833年
分からないけれど天保までは饒津神社の位置にあったわけです。
──後で勉強してやっと分かるようになったのは……鳥羽院の元女房、源頼政の室だった菖蒲前(あやめのまえ)という美女の伝説が、東広島市付近に多く残っていること。この女性が修理料として寄附した椎木山(二葉山)の領地が、13Cに池田左衛門社の管理のもとで椎木八幡宮になります。
祭 神 菖蒲前霊(源頼政公の室)
例 祭 八月二十七日(旧暦)
由 緒 源三位頼政は治承四年(一一八〇)平氏追討の兵を挙げたが敗死し、その室の菖蒲前は当地の小倉山に隠れ、元久元年(一二〇四)八月二十七日に没した。里人、菖蒲前を祀りて一社を建つと伝える。〔広島県神社誌/小倉神社←後掲東広島郷土史研究会〕
……もっとも彼女の「没後其ノ遺言ニヨリ」というのだから真偽は問い難いけれど、少なくとも菖蒲前の御威光はかなり強かったのは確かです。
江戸末期の焼失時、藩主がその建替場所を指図した、という伝承も面白い。そこまでしないと収まらない争論が生じていたと予想されるからです。「落成御遷座」から二年も経ってなので、相当な争論だったはずです。
鶴羽根社の朝櫻大神
東愛宕町寄進の石燈籠の基部の石組が、相当に複雑な出来です。当時、かなり金を投じてる。
手水舎が被爆建物になってました。
参道左手に三柱の社。地主大明神、椎木稲荷大明神、八十吉大明神。木造、再建と思えるけれど祀り方は古めかしい。
椎木稲荷大明神をまず見てみます。
当社の創建は遠く不祥ですが、鶴羽根神社が現在の地に遷宮となった江戸期の古地図には、その姿が描かれています。元の御社名は「朝櫻神社」と称して居り(略)古記録によると、「明治四十二年四月 本市臺屋町(現京橋町)無格社 稲荷神社(御祭神~倉稲魂神)当社に合併す」とあります。
御祭神・朝櫻大神……事代主神 保食神 高艮大神〔案内板〕
この朝櫻大神は、もちろん聞いたことがなく、全くヒットもない。完全な土着神です。
後掲鶴羽根神社サイトは地主大神の名も挙げてます。これも「土地古来の神さまであります」とある。
山縣豊太郎事故死の号外
八十吉大明神は人霊神でした。保田八十吉翁という人とある。右隣に大正3年の石碑があり、山口町に文政年間に生まれた人と読めるけれど事跡まで読み取れない。
入口右手にも同翁※のさらに大きな碑がある。
──後の調べでは※は勘違い。八十吉の父、七兵衛于宣の顕彰碑でした。何とこの人が、広島銀行の事実上の創始者なんだって(次章参照)。
なお手前に銅像。これは現代文の解説が彫られ、山縣豊太郎(1898-1920)とある。大正4(1915)年に伊藤飛行機研究所(千葉県)第一期生で6年に主席卒業。「民間人初の宙返り」をやったけれど、9年に連続宙返りの途中に機体が空中分解して墜落死した、とある。明治31年京橋町山縣家に生誕。
保田翁と同町です。何の繋がりがあるものか?
山縣豊太郎(やまがた とよたろう)は、初宙返りをした愛機に「鶴羽2号」の名を与えていました。もちろん故地の鶴羽根神社からとったものです。この機は陸海軍直営ではなく、当時の民間飛行機開発社の一、伊藤飛行機研究所の製造。山縣は同研究所一期生でした〔後掲ちば観光ナビ〕。
ライト兄弟初飛行(1903年)から八年後の1911年、帰米中の飛行サーカス団ボールドウィン一行が大阪城東の練兵場で飛びました。50万人が見物に訪れたという〔後掲古典航空機電脳博物館〕。以後外国人飛行団に日本人は熱狂してきましたけど、1919年についに東京遷都50年祭で山縣が日本人で初曲芸を見せたのですから、当時の熱狂は察するに余りあります。その他、政府主催の民間懸賞飛行大会でも何度も優勝しており──1920年の弱冠22才の天才飛行家の事故死は、新聞の号外まで出るニュースとなってます〔後掲ちば観光ナビ〕。
実はこの山縣像は、WW2以降50年もの間、台座だけで風雨に晒されていました。
銅像は山縣飛行士の没後1年目の1921(大正10)年に建立されました。広島市出身の彫刻家山田直次氏の政策です。長く市民の誇りでしたが、戦時中に供出され、訪れる人もない荒れた台座のみとなっていました。しかし2001年に有志の努力で、再び立派な等身大の石像がつくられたのです。〔後掲ヒコーキ雲〕
狛犬に二千六百年の彫込。戦後に造られたり再建はされまいから、この2匹も原爆に耐えたと思われます。
明星院・饒津神社とも、鶴羽根神社から西に2百mの場所でした。予定にないけど行っておこう。
明星院。千手観音を祭る。真言宗。
饒津神社、1105。
線路が高架になって、現・京橋川を渡っていく地点のすぐ北でした。
饒津社の目地が通らない乱積み
参道左手に「北清事變忠死者記念之碑」。
「広島市に拠点を置く歩兵第十一連隊はその一翼を担い出兵。二三八名の戦死者名を刻字し」とある。坂にもあったけれど……北清にはそれほど安芸から出兵があり、それほど悲惨だったのだろうか。
明34建立。
「横方向に目地が通らない乱積み」があると聞いてました。「拝殿前乱積み」と呼ぶという。ここのはそのうちでも江戸期最大と書かれるけれど……どこ?
※拝殿前の25m幅の石段のことだったらしい。〔後掲饒津神社〕
原爆で焼失してるけれど、本殿入口門は「向唐門」(むかいからもん)と呼び「旧向唐門の礎石の上に再建 龍の彫刻等細部を忠実に復元した」とある。つまりこの龍は、元から彫られたらしい。
神社で?なぜでしょう?
饒津神社の聖・微高地
現配置は非常に整然としてるけれど、どうやら元の神社はもっと雑然としたもののように見えます。
02.御陣中御手水鉢
03.稲荷神社(御神体は縮景園の稲荷社より遷座)
04.拝殿
05.淺野長勲公頌徳碑
06.石水盤石灯籠銘碑(せきすいばんいしどうろうめいひ)
07.収蔵庫
08.社務所
09.向唐門(むかいからもん)
10.手水舎
11.二の鳥居
12.狛犬
13.恵比須神像(二葉の里 七福神めぐり)
14.「桑宅木原(そうたく きはら)」翁之碑
15.「小石河野(しょうせき こうの)」先生碑
16.「虎山坂井(こざん さかい)」先生之碑
17.北清事變忠死者記念之碑
18.饒津神社四百年祭斎行記念碑
19.饒津神社復興記念碑
20.追遠歸厚碑(ついえんきこうひ)
21.陸軍檢疫部職員死者追悼ノ碑
22.広島県立広島工業高等学校記念碑
23.被爆松切株の保存
24.標柱(しめばしら)及び説明碑
A.B. 広島市指定保存樹
途中から折れているのは従来と遥拝方向を違えて拡張したからですけど、この饒津神社の場合、上記画像の立入禁止の神域──おそらく河岸の岬のような部分がむしろ本来の霊域で、本殿はそれを避けて屈曲しているように見えます。
本殿は一段上の段。完全に柵で囲まれてる。
やはりここの高み全体が神体っぽい。右手から覗くとどうも樹の根に祭壇っぽい石積もある。
西側は、川の大きくL字に湾曲するポイントになる。航行上のランドスケープとして機能してきたのかもしれません。
雨の滴。1121。
本殿右手には稲荷。新しいけれど石燈籠は弘化年間のもので、おそらく被爆倒壊したものの再建でしょう。
弘化三年(=1846年)の銘あり。
維新の大業を贊けし浅野長勲と猫
左手「浅野長勲公頌徳碑」石碑は紀元二千六百年に建立。
裏に相川(勝六・第31代広島)県知事名で「夙ニ明治維新ノ大業ヲ贊ケ」とあるけれど、どういうことだろう?広島藩最後の藩主ではあろうが維新に功績があったのか?
──慶応3(1867)年9月薩長両藩と挙兵倒幕の盟約を結ぶ一方、高知藩に続いて大政奉還を建白〔後掲国立国会図書館〕。これが「将軍徳川慶喜に大政奉還をすすめるなど、国事に奔走」〔後掲広島ぶらり散歩〕したと、少なくとも一部で信じられている模様なのです。
毎年二月一日に長勲公御例祭というのまでやっているそうです。
鶴羽根神社は「ちょっと寄り道」のつもりだったのに──午前中をお参りで済ませてしまいました!
にしても……なぜコロナでトイレの使用を禁止する??少しでも早く帰らせる腹ならそう書けよ!……と苛立ちつつ、お陰で東行路は結構スタスタ行けてしまったのでした。
という非常時ながら……裏道に潜ってみてます。いい湾曲。ひっそりとながら、何本かはあるらしい。1159、二葉の里一丁目3。
けれど驚くような抜け道はないらしい。短い距離ですぐに元の道へ。暇そうな猫もすり寄って参りました。
Tika टीका を授かる峠
麺屋菜心で昼飯。1247。
腹がくちた後、ホテルチューリヒから北へ直進、谷の集落口の公園に出ました。本日は、そのまま北へ登りまして、以前から狙ってた「古天神」を目指します。
尾長天満を過ぎる。
1255、ad山根町35。道の右手に暗きょの川が顔を出す。
午後1時、(学校法人松本学園)桜が丘高校。……って、すげえ坂道!
ここそのものを天神谷と呼ぶらしい。急傾斜地崩壊危険区域図に記載。そりゃそうだろな。
漸く着いた峠で、何故なんだ?豪勢な鳥の糞を頭頂部に浴びました。ハンカチで拭くと丸々糞にまみれてしまい、吹き出る汗を拭うこともままならなくなくなりました……。
峠の十字路を左折西行。1319、ad山根町37。古天神到着。
公園の中の小さな社でした。
859年 大麻天神の灯火
「史史跡 古天神御社」という看板がありました。ただし「平成十三年 古天神史跡を周知する会 世話人一同」。周知が目的かい!
お願いがまた面白い。「神社に上ったりボールを当てないでください」って……地域的に嫌がられとるんか?
旧蹟の碑に曰く──
明星峯にあり天神宮と称した 伝に明星峯とは当社の神燈海上より之を望めば赫々として明星の如し 故に名づく 又 大麻峯とも 昔 当社の祭日に社頭の樹木へ大麻(おおぬさ)を掛ける 海上より船客之を望むに風に[番飛]って興あり 故に大麻天神とも称す(略)三代実録貞観元年参月貮拾六日壬午授安藝国正六位上大麻天神従五位下とあるは正しく是なるべし〔旧蹟の碑 案内文〕
さらっと書いてるけど、貞観元年というのは859年の事です(→次章詳述)。典拠は三代実録で疑いようもない。ただ所在地を安藝國としか言っておらず、府中埃宮と同じく名前からだけしか同定はできません。
社は公園の南外側にあり、向きは南。ここに何かの灯火が置かれた、と考えるのが分かりやすいでしょう。
蓋然性はあるけど、ぼんやりしてる。
牛田東の坂道は微妙
──さて?どうしようここから?
そんな奴いねえだろうから、牛田側へ降りてみようか?
1345。五叉路を北東へ降りる。ad牛田東三丁目41。
「トンネル建設絶対反対!」の垂れ幕。今の状況からだけ言えば──いいから作ってほしい。
1356。ad牛田東三丁目11で川音を聞く。左折。
1359。ad9で階段を降りる。
空き地の家を中心に石垣がちらほらある。
1405。ad東一丁目1。車道脇の公園、完全なる新興住宅地ど真ん中です。
1409。ad牛田早稲田一丁目24から右折北行。この緩い坂にも石垣が残ります。微妙にだけど……面白い。
早稲田一丁目湾曲が読めない
真っすぐに小高い山。郵便局を右に見る。道は左に湾曲。──郵便局は牛田早稲田郵便局(→GM.)、すると山は見立山(→GM.)でしょう。
時は戦国の世、中国地方の大半を制した毛利氏は、安芸高田市吉田町の郡山城から平城を求め広島城の築城を思い立つ。当時の広島はいくつかの城に分かれた、葦の生い茂る寒村だったという。天正17年(1589年)毛利輝元は二葉山、己井山に登り、どこに築城するか思案したあげくこの山に登り、そして島の中で一番広い島「在間」を城の場所と見立て、以後この山は「見立山」と呼ばれるようになった。〔見立山案内板←後掲広島里山紀行〕
1418。山側、進行右手北東側が古家屋のみ2mほど高いのに気づく。
矢賀よりもっとはっきりしてる。
それほど山肌はせまっておらず、感覚としては平地なので、唐突でした。かつては山が迫っていたのか?
ad.牛田早稲田一丁目のこの湾曲は、未だに読めません。このラインそのものもそうですけど北東側の複雑な道の相と、南西側の条里の明確な埋立地の道の相とが、非常に対比的です。でも、現・河岸からは半kmは隔たっており、旧河岸とも考えにくい。次章再考。
牛田早稲田1交差点
目前に牛田早稲田1交差点(→GM.)が見えてきました。マックスバリューの看板。
集落中心と見えます。韓国料理屋前で一服。1425。
ホームメイド菓子の実。1436。目標の一つに据えてたので、ちょいと菓子を購入。
牛田本町のバス停で力尽きる。1511のバスで帰る。
(補記)後日:見逃し二寺社立ち寄り記
早稲田一丁目の湾曲に気を取られ、なぜか牛田早稲田神社(早稲田八幡)を見逃してしまいました。次章に別途訪問した記録を補記してます。
元は八幡。祭神名には地元神の名はなく、仲哀・応神両天皇と神功皇后。古名を「垚」といい、「垚八幡宮」又は「垚の宮」とも称す。
古天神から牛田へ降りちゃったので行かなかった聖光寺(→GM.)は、曹洞宗だけど元は不明。明治期の図絵には観音堂や金比羅社を置く不思議な禅寺です。
そもそも「広島」の名は、毛利輝元が二葉山(当時の明星院山)検分時にこの寺に宿泊した際に名付けた「広島山」を由緒とするとの説もあります。
これも後日少し歩いてみる。国禅寺と聖光寺間には短いけれど古道跡とおぼしき路地もありました。ただ、聖光寺より東には嶺が出ていてこの路地は寺門前で途切れてました。
全ての過去が頭だけを出してて悩ましい土地、という印象です。
■レポ:「猿猴川砂州」の存在証明
府中から岩鼻に至る江戸期の自然陸橋──本稿では勝手に「猿猴川砂州」と呼んでる地形の存在について、「船越から」は地学的な証明を試みています。
「船越から」がその直接の根拠にしているのは、「安南郡古地図」です。上の明治26年地図から明治には存在が確認できますけど、元和年間(1615-1619年)作成と伝わるこの安南郡古地図により、猿猴川砂州が江戸初期には既に形成されていたことが確認できます。──同地図は細部でやや正確を欠きはするけれど「当時の地理を記載したものとしては唯一とも言える図」として、「船越から」は一章を設けて注視しています。
太古の昔に広島湾に開けた浅い入り海だった所が、土砂の堆積により古代のある時期には潟湖になり、次に湿地を経て、17世紀の干拓により農地になった〔後掲船越から/25、古代の府中平地と潟湖〕
神武東征時から江戸初期までの数百年の間に、安芸府中の海岸線の相は劇変しています。ただ、これは陸地表面の形状から──つまり往来する小さな人間の主観からそのように見えるだけ、地学的には、地表面に引っかかった堆積の多少による変化です。
上図左手にある花崗岩の基質(オレンジ色)が、やや盛り上がっている点にご注目ください。この盛り上がりラインが、岩鼻からの砂州の基盤になっています。
即ち、この「花崗岩の窪み」への堆積により──
(砂州で封鎖)→潟湖
(陸地化) →湿地
(人工埋立)→干拓
という変遷が起こったのです。
ちなみにこの堆積の原動力は、古・府中湾側の府中大川ではなく太田川(現・猿猴川)によるものと「船越から」も想定しています。次の図は同著者によるシミュレーションですけど──
「船越から」も予想してますけど、この地形を自然に見ると太田川本流が現・広島駅裏を通って府中湾口に注いでいたことを物語ります。その時代の河口の北岸が岩鼻で、岩鼻以東の河岸が先の古・府中湾口の砂州になります。
ただし「船越から」も何度も繰り返してますけど──この移行は年代が不確かです。いつ頃から猿猴川砂州を人が往来していたかは、不明です。ただ、通行を始めた頃の往来旅客は、そこを太田川北岸として感じて歩いたはずなのです。