目録
■ミニツアー∶愛宕古川
広島市東区愛宕町1、我羅我羅橋(→GM.)。
橋の長さは9尺(2.7m)、幅は3間(5.5m)。
享保2年(1717)頃、橋のたもとに茶所が建ち参勤交代の途中、諸大名が立ち寄って賑わった。けれども寛政8年(1796)、岩鼻の麓に移されたという。
対面にも川跡が道として残ってる、と思われます。
北側では舗装跡が「お食事処 ふくみ」前で右手東側へ湾曲しています。おそらく、暗渠になって今も地下を流れてるのでしょう。
「ふくみ」前で東に向きを変えているとすれば、古川はそこから北へどう流れを接続させているのでしょう?
この北、パティスリーメイ北ローソン(GM.∶地点=上記地図の森整形外科記載の扇帯)の辺りの、広島駅北には珍しい四半分ロータリーのような道配置が古川跡と仮定してたのですけど……「ふくみ」前の東ターンはその仮定と矛盾するのです。
古川はどこを流れていたのでしょう?
本章で躙り寄りたいのは、現・広島城域=古「広島」を浮かべる多島河口海とでも言うべき状態だった広島湾東部に、
言い換えると、現・広島駅方面を通って岩鼻からの砂州を形成して府中湾南に旧・太田川が注いでいた時代の、
ホントに結論に辿りつけるものか、自分でも疑わしい。とにかく、少なくともキーワードを抽出しハーケンを残しておく事を重視して筆をとります。
■Haken1:大麻天神──859(貞観元)年正六位上の安芸第四位神
前章の古天神の古称として案内板に書かれていた、「安藝國正六位上大麻天神」の史料原文からまず当たってみましょう。不明瞭ながら、古・太田川北岸に関係する史料中では最も古いものです。
史料は六国史の最後にあたる日本三代実録(實錄)、時代は貞観元年=859年です。
三月丁巳朔。(略)
廿六日壬午。授上野國正六位上波己曾神從五位下。安藝國②正六位上大麻天神。伊都岐嶋中子天神。水分天神。天社天神並從五位下。〔維基文庫/日本三代實錄/卷第二〕
日本全国の神様の叙任が延々と語られてます※。
これだけ津々浦々の叙任があればかなり小さい地元神も対象になって可怪しくない。またこの羅列中だけでも「大麻」神は二柱、近畿と阿波のものが書かれ、安芸独特の名称とも断定しにくい。
貞觀元年己卯春正月戊午朔。天皇不受朝賀。諒闇也。中務省七耀暦。宮内省藏氷樣。大宰府腹赤魚等付内侍奏。(略)
廿七日甲申。京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。(略)天香山大麻等野知神。(略)安藝國①正五位下伊都岐嶋神。從五位上速谷神並從四位下。從五位下多家神從五位上。(略)葛木二上神並從五位上。无位水越神從五位下。(略)阿波國從五位下大麻比古神。〔維基文庫/日本三代實錄/卷第二〕
奈良県橿原市の天香山も徳島県鳴門市の大麻比古神社も山中です。安芸のケースのみ「社頭の樹木へ大麻を掛ける 海上より船客之を望むに風に[番飛]って興あり 故に大麻天神」(→前章)と解するのは、少し無理があるように思えます。
ただ、謂れはともかくこの山上のカミが大麻天神と呼ばれていたとすれば──「安藝國」は同章(同貞観元年記事)中に、これを含め計六ヶ所もヒットがあり、こちらの方が目を引きました。
年代順に並べると──
① 正月
正五位下伊都岐嶋神
從五位上速谷神並從四位下
從五位下多家神從五位上
② 三月
正六位上大麻天神
③④⑤ 四月三日
采女凡直貞刀自記事
⑥ 四月廿七日
從五位上多家神從四位下
この年に「出世」した安芸の神様は、四柱:厳島(宮島)・速谷・多家・大麻です。地域に置き換えると、前二社が大野瀬戸(現在宮島フェリーが渡る海峡)の南北、後二社が今扱っている広島湾東端部です。
①正月段階での序列は、速谷>多家>厳島。──前々章で「エノ」(埃)度を帯びる土地として見出している速谷神社(→廿日市・可愛川)が筆頭。多家神社が、現・日本三景にして世界遺産の宮島を抑えて、次席に置かれてます。
二ヶ月遅れて大麻天神(古天神)が、三柱に次ぐ第四の神様として叙任されます。その翌月に、多家神社は単独で出世して、速谷と同位に就いてます。神道上、広島湾の東西を分かつ二頭体制が成立している。
この日付の叙任は、多家神社単独です。──ちなみに前日26日の「常陸國正六位上石船神。佐波波神並授從五位下。」も単独。なぜか神様叙任ラッシュは、前月の3月26日で途切れてます。
つまり、貞観元年=859年4月前後、大野瀬戸域の神威に対し広島湾東端域のそれが同等にまで上昇させる、何かが起こったと考えざるを得ないのです。
さて、「安芸」ワードのヒット③④⑤は、次の箇所です。上記の「何か」は、この記述内容である可能性が高いと思われます。
夏四月丙戌朔。日有蝕之。雷雨。震東京民居二家。
二日丁亥。天皇不御前殿。(略)
三日戊子。安藝國③采女凡直貞刀自「刀」賜姓名笠朝臣宮子。隷左京職。宮子。中務少丞正六位上笠朝臣豊主之女。母雄宗王之女淨村女王。大同元年。雄宗王以伊豫親王家人。配流安藝國④。宮子少年從母。不知父族。貫安藝國⑤賀茂郡凡直氏。預采女之貢。美濃守從五位上笠朝臣數道。越前守從五位下笠朝臣豊興等證之。仍復本貫姓名。〔維基文庫/日本三代實錄/卷第二〕
Haken1-1:凡直国造──瀬戸内海連合自治区群
三代実録の叙任が列挙された3月までと打って変わり、貞観元年=859年4月には官人の出世記事と歴史書的な記述に転じます。その中にあるのが上記「采女凡直貞刀自」記事です。
和訳しても同じく分かりにくいけれど──大まかには、安芸出身の采女(召使)になった凡直貞刀自さんが笠朝臣宮子として復権した、という記述です。
外国人の方らしい阿哈馬江さんのサイトに、この箇所の和訳と思われる文章があったので掲げてみます。
笠朝臣宮子(もと凡直貞刀自)。左京人。笠朝臣豐主の女子。幼少期、母・淨村女王と、父方の祖父・雄宗王に從い、安藝國に下り、父の一族を知ることがなかった。
安藝國賀茂郡の凡直氏の戸籍に入り、姓名を凡直貞刀自と稱す。
采女の貢にあずかり、安藝國から上京し、采女となる。
父方の一族である笠朝臣數道・笠朝臣豐興が、彼女が笠豐主の女子であることを證明し、よって、本貫(左京)・姓名を復した。〔後掲阿哈馬江/親王・諸王略傳〕
ね?訳分からんでしょ?──日本人名大辞典に、かなり苦労したらしき解説がありました。併記します。
凡貞刀自 おおしの-さだとじ
?-? 平安時代前期の女官。
雄宗王の娘浄村女王と笠豊主の子。大同(だいどう)2年(807)伊予(いよ)親王事件に連座して安芸(あき)(広島県)へ流された雄宗王に母とともにしたがう。凡氏の戸籍にはいり、采女(うねめ)として朝廷に出仕。貞観(じょうがん)元年本名の笠宮子にもどった。〔デジタル版日本人名大辞典+Plus 「凡貞刀自」←コトバンク/凡貞刀自〕
やや家系図的に項目化してみます。原文にある大同元(806)年は配流の年ですから、貞観元(859)年4月の出来事は笠朝臣宮子=凡直貞刀自さんの復権でしょう。ご記憶頂きたいのは、流罪に連座し安芸入りしてから53年後という点です。
※※姓名:凡直貞刀自
(母方祖父)雄宗王
= 伊豫親王※家人(母)淨村女王
(父)笠豊主
←{証明}美濃守・笠数道
越前守・笠豊興
※伊豫親王
=(父)桓武帝(第三皇子)
本稿の問題意識からはこの復権劇だけが論点ですから、復権の政治的パトロンとなった凡直氏と笠氏に話を絞り──たいんですけど、そうは言っても「伊予親王の変」を最低限押さえます。
桓武帝の皇子は、平城-嵯峨-淳和と皇位を兄弟間で継承。平安遷都を強硬した桓武帝政の反動で、激しい権力闘争がなされたと推定される時代です。810(大同5)年、平城帝が事実上駆逐(出家)された平城太上天皇の変(≒薬子の変)がその嚆矢ですけど、伊予親王の変はその三年前(807(大同2)年※)。平城帝の弟・伊予親王が母・藤原吉子とともに自害。けれど薬子の変では、藤原仲成が伊予親王母子を陥れた容疑で処刑されてます。823(弘仁14)年、同母子は復号・復位、墓が山陵とされます。本稿で扱う859(貞観元)年の貞刀自さん復権劇の四年後の863(貞観5)年には、同変の御霊会(≒鎮魂祭)が平安京神泉苑で開催〔wiki/伊予親王の変〕。
つまり伊予親王母子と同変犠牲者は、権力闘争の中での上書きでしょうけど、悲哀の物語となりました。
さて、本稿の対象・貞刀自さんについてですけど──祖父と書かれる「伊豫親王家人※」たる「雄宗王」、その娘「淨村女王」とも全く素性が知れません。三代実録の記述以外、書かれたものを確認できないのです。
安芸に配流、つまり流罪になった、という点だけからすると、上記処罰者リスト中の伊予親王の娘(一説※に吉岡女王)又はその子女を何かの理由で偽ったものかもしれません。
Haken1-2:貞刀自凡直──復権劇のパトロン 吉備・笠・凡直群
だから、おそらくこの859(貞観元)年の「事件」の本質は、凡直・笠氏の中央への影響力拡大のための政治劇と推測されます。──これは、そもそも貞刀自さん復権譚がわざわざ歴史書に記される理由を考え直してみると分かりよい。伊予親王変の犠牲者の悲劇が美化される風潮を利用し、半世紀に渡る彼らの庇護者として自家の評価を高めようとした、と考えるのが自然です。もしかすると貞刀自さんも中央と関わりはなかった、つまり全くの虚飾だった可能性すらあると思います。
伊予親王が「伊予」地名を冠した理由は、なぜかどうしても分かりません。ただし、上記処刑者リストで雄宗王の下にある藤原雄友(「雄」字は賜名の可能性有)は伊予に流刑されており、生前からか死後かは不詳ながら地縁があった可能性は高い。
貞刀自さん復権の機となる「証拠」を呈示した美濃守・笠数道と越前守・笠豊興の一族、笠氏は、やや不確かながら吉備氏の一氏族 と考えられています。
笠氏というのは、かつて倭王権の成立にも大きく関わった吉備地方に勢力を持った吉備(きび)氏から分かれた氏族である。吉備氏は対朝鮮活動にも活躍した一族の総称であるが、瀬戸内海という海上交通の要を押さえ、山間部は鉄資源に富んでいたという条件から、倭王権にも比肩する勢力を誇った。六世紀の吉備氏の反乱伝承は、その表われである。
吉備氏の系譜は孝霊(こうれい)天皇皇子四道将軍の吉備津彦命(きびつひこのみこと)の後裔とも、弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)の子孫とも称するが、記紀の伝承は整合せず、信頼しがたい。吉備氏というのは多くの氏族の総称で、備前地方には上道(かみつみち)臣を中心に三野(みの)臣、備中地方には下道(しもつみち)臣を中心に三野(みの)臣、備中地方には下道(しもつみち)臣を中心に加夜(かや/香屋・賀陽)臣・苑(その)臣・笠臣が居た。笠氏はここに含まれるが、その居地が詳らかではなく、最も新しく吉備氏系譜に割り込んだと見られている(『国史大辞典』)。〔後掲倉本/JBPRESS〕
また、貞刀自さんが戸籍を入れていた凡直氏というのは、中四国に広く存在していた豪族と考えられています。実態は諸説ありますけど、三代実録が安芸だと強調しているところから考えて、安芸凡直氏なのでしょう。
凡直氏を名乗る豪族は讃岐だけでなく、瀬戸内沿岸の諸国に見られ、凡が「押統ぶる」と解釈できることから、従来の国造よりも広い地域を治める国造だったのではないかと考えられている。〔後掲さぬきの歴史〕
凡直国造の配置が、まるで吉備を取り巻くようであるのが議論を呼ぶ。ふつうの国造は氏族名が[(固有の)氏名+直]の形なのに、凡直の場合は[地名+凡直]の形式を採るのも異例である。〔後掲よっちゃんの文明論〕
九州をやっと従わせ東北の反乱鎮圧に窮していた
9C半ばに「安芸凡直」が中央、特に藤原北家に最も近かった同族・笠氏と協力し(口裏を合わせ)、近畿中央に悲劇の末裔・貞刀自さんを、貴族社交界の「アイドル」としてデビューさせ、もって吉備宗族の政治力向上を企図した。──というのがこの「事件」の実態ではないでしょうか?
その背景には、混乱する中央政界と対する中四国の経済力向上があった、とも想像できます。その結果として多家神社の3ヶ月単位の異例な叙任が実現し、かつ「アイドル」を輩出したということは、安芸凡直の政治(又は軍事力)がこの時期に倭中央から喫緊に求められたことになります。
ではそれがなぜ、吉備の一般的中心たる現・岡山域ではなく現・広島=安芸だったのでしょう?
Haken1-3:瀬戸内海民集団──凡海 オオシアマ部→凡直 オオシノアタイ
凡直の地域の最も明確な特徴の一つとして、確認できる屯倉が希少である点が指摘されています。
凡直国造の支配域には、ふつう屯倉(ミヤケ)が設置されなかった。屯倉とは地方豪族の支配域内に王権が占有した土地で、直接に貢納を収納したり政治や軍事の拠点を設けたりしたから、王権の直轄地のような性格をもつ。屯倉は、5世紀に畿内各所に設けられたのを皮切りに、6世紀代に全国に展開された。対岸の吉備には、白猪(しらい)屯倉・児嶋屯倉があったことが知られる。
凡直国造の地域に屯倉が設けられなかったことは、当該域のそのものが、王権の厳しい管理下にあったと受け止められる。〔後掲よっちゃんの文明論〕
上図は安閑天皇紀のものを例としてプロットしたにとどまりますけど、これを基礎に考えると中四国の屯倉はほぼ備後-備中に集中します。──この配置は奇しくも、福山や小倉を天領とし新城を築いて西日本を押さえようとした徳川幕府に似る、と映ります。
これを自然に考えると「凡直国造の地域に屯倉が設けられなかったこと」の意味は、当該域が「王権の厳しい管理下にあった」からではなく、むしろ半独立状態、「自治区」のような状況だったから、ということにならないでしょうか?
さて、ほとんど史料が実態を語らない凡直について、唯一史料が残るのが讃岐(現・香川)地域です。讃岐の「凡」は姓として明確に伝えられています。
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。(略)開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられました。(略)能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。〔後掲四国八十八ヶ所霊場会〕
wiki他の転記記述ではなぜか欠落し、かつ「尼」と書かれることが多いんですけど「海洋技能集団海人族の凡園子」が原伝承のようです〔後掲さぬきの歴史、聖地巡礼四国遍路〕。つまり①「凡」姓は定説のように「広域の」意味ではなく氏族名で、かつ②海民の姓だった、という仮定が可能になります。
海部が「凡」字を冠した例は摂津(凡海連)、周防(凡海直)にあったようです。
海部氏(あまべうじ)
海部(あまべ)を統率した伴造氏族。各地に連・直・臣・首・公姓の海部(海)氏が見られる。
このほか、凡海(おおしあま)連(天武朝に宿禰姓の系統あり)・凡海直といった氏族が見え、凡海部という部民も存在する。
海部は海人(あま)の民によって組織され、彼らが海上交通上の要衝に置かれた屯倉の運営に関与していたらしいことも、海犬養連氏(その管掌下にあった犬養部は飼養した番犬により屯倉の守衛を担当)の存在、同じく海人系の安曇(あずみ)犬養連氏の存在などから推測される。〔後掲古代史俯瞰〕
面白いのは海部が屯倉の、おそらく護衛兼輸送に携わっていたらしいこと。これと先の、凡直に屯倉がないこととがどう整合するのか分からないけれど──上記「古代史俯瞰」にあるように、海部は伴造(職能集団)で国造(属地集団)と差別化された範疇です。屯倉は国造域に置かれたけれど、凡直は属地的になってもなお本質は伴造だった、と考えるとやや親和的な事実になるのではないでしょうか?
以上の不確かな前提に立てば……海民をルーツとする凡直のうち、9C段階で優勢だった安芸凡直が、伊予親王変の悲劇化に乗じ中央政界に食い込もうとした動静が、三代実録の記述として残ったと考えられるのです。
■Haken2:矢賀
以下では、前章で訪れた矢賀・尾長・牛田(早稲田)の三地点について、角川日本地名大辞典が記す史料を辿ってみます。
三地点は、旧太田川北東岸に位置しました。
太田川側から見ると、南西に出っ張った牛田山(標高261m)を最高地点とする島状高地は、その流路が海に出るのに最大の障害になっています。即ち高地ギリギリまで流域を切り込ませます。これは船運を行う人間側からすれば、遠浅で利用しにくい広島湾で、少しはマシな港湾を設けうる地形でした。土木力のない中世以前に港をこの地域に求めたゆえんです。
このうち、港として、広島湾域で最初に注目されたのは矢賀のようです。
まず中世。事績はほとんどなく領地の名称として登場するだけですけど、初出は13C末、鎌倉中期です。
1407(応永14)年【熊谷⊂武田】
1541(天文10)年【毛利←大内】
1551(天文20)年【熊谷⊂毛利】
1556(弘治2)年【白井⊂陶】※領知せず
鎌倉期~戦国期に見える村名。安芸国安南郡のうち。正応2年正月23日の沙弥某譲状に、府中のうちに「一所畠二反 矢加村」が見え、在庁田所氏の所領があった(田所文書)。応永14年正月20日の武田信之預ケ状では「安南郡之内矢賀村」を熊谷氏に預けているが(熊谷家文書)、天文10年に武田氏は滅亡。同年7月23日の大内義隆預ケ状写では可部・温品【ぬくしな】の代所として佐東郡の地を毛利氏に預けており、そのなかに「矢賀卅五貫」とある(毛利家文書)。同20年2月28日の毛利元就宛行状写ではそのうち20貫を乃美元信に与え、水軍の拠点としている(閥閲録134)。毛利・陶の厳島合戦直前の弘治元年正月には、陶方の水軍の攻撃を受け、飯田氏らが反撃している(同前132)。陶方の水軍は白井氏であったが、厳島合戦後の弘治2年10月23日の大内義長宛行状で「矢賀尾長七拾五貫文足〈渋屋跡〉」などの給与を約束されている。しかし白井氏が実際に領知することはなかった(成簀堂文庫所蔵文書/安芸府中町史)。永禄11年12月日の東林坊事書案によると、弘治元年の白井氏矢賀攻撃の際には矢賀にあった東林坊も攻撃され反撃したとあり、児玉元実・就忠から「矢賀村之内太歳原」の地を預けられたとある(知新集)。「芸藩通志」に多々万比城址を記す。〔角川日本地名大辞典/矢賀村(中世)〕
よく知られる武田→毛利の推移はともかく……その前代の田所氏の時代、というのは何のことでしょう?
Haken2-1:田所氏──天湯津彦命から厳島国府上卿役まで
田所という一族のルーツは、何と神話の世界にまで延びていました。
田所氏は姓が佐伯氏で、天湯津彦命を遠祖と伝えられる。先代旧事本紀には 天湯津彦命は阿岐国造の祖神で、且つ、全国十の国造の祖神である。阿岐国造は阿岐国を支配した大国造と伝承されている。阿岐国造といわれるようになったのは、天湯津彦命の五世孫である飽速玉命(あきはやたまのみこと)を国造に定められたことによる。〔後掲田所〕
明瞭に書かれる割に、けれど安芸国造という職又は集団の実態はほとんど分かってないようです。安芸は「飽」速玉の「あき」に通ずるとするのが妥当ですけど、この飽速玉の記述はほぼ旧事本紀のみで、記紀と六国史には無い。その旧事本紀の用字も「阿岐」「安藝」「阿岐」「阿支」と不統一なので以下「アキ」と呼びますけれど、ただ一つだけ──旧事本紀の掲げる大化改新前の全国百四十四国は、国ごとの起源が記されています。驚くべきことに、うち九国に、阿岐国造の同族が派遣されています。国名は以下のとおり。
①阿尺国 ②思(太)国 ③伊久国 ④染羽国 ⑤信夫国 ⑥白河国 (以上東北)
⑦佐渡国
⑧波久岐国(現・山口県)
⑨怒麻国(愛媛県北部:松山市怒和島?)〔後掲速谷神社〕
古代日本でのこの広がりです。先入観なしに捉えると──アキ「国造」集団は前線植民を専門とする、近代中国で言えば福建人のようなものだったと考えられます。単に倭国の前線ではなく⑦⑧⑨のような海域の要所にも植民していますから、移動性の高い海民であったはずです。
※※2014年12月、宮城県山元町熊の作遺跡から里制下(701~717年)の木簡が発見された。これには信夫郡安岐里の人員を徴発したことが記されており、この背景を安芸国住民の大規模集団移住に求める大胆な見解も発表されている(鈴木2008)。〔後掲菅原祥夫:福島県文化振興財団遺跡調査部〕
田所氏の出自は現・広島市佐伯区の五日市町三宅(→GM.)という。三宅は「屯倉」の可能性が高い。先の凡直支配域に屯倉がほぼ無い、という説に相反します。国造後裔を称する点からも、半独立的な安芸凡直に対する、天皇家直属的な勢力だったのかもしれませんけど──平・藤原・源を名乗る当たりからは、単に時の権力に迎合的な集団だったとも考えられます。
田所氏は、安芸国第一の旧家(8)で、旧・五日市町三宅の田所屋敷跡に住み、本姓は佐伯で阿岐国造の後裔と伝えられる。姓は平、佐伯、藤原、源と名乗り、氏は田所・三宅と名乗った。(9)田所資隆(すけたか) (朝廷より免状を賜り佐西四度使(ささいよどのつかい)と田所執事職に補任した。)は昌泰三年 (900) 頃、旧・五日市町三宅の田所屋敷跡より国府・府中に赴任し在庁官人となった。〔後掲田所〕
田所資隆の府中入域年・900年は、先の三代実録の859(貞観元)年から約半世紀後です。安芸凡直により俄に興隆した府中域に、首尾よく入域した、ということでしょうか?
田所氏がさらに矢賀に進出したのは、前掲角川にあるように遅くとも四百年後の1289(正応2)。この記述は矢賀を得た年のものではないと思われますけど、田所文書※への記載目的(財産管理)からして作成推定年は入域からそれほど乖離はないでしょう。
その1289(正応2)年が、1274・1281年の元寇直後であるのは、元寇での貢献の対価とも推定できます。──田所氏が海民系氏族であることを補強する材料は二つあり、一つは先の角川引用の全文(前章再掲)に──
一所畠2反、矢加村 件畠者、(略)依為船津所望之間、預之畢。[正応2年田所氏文書]〔再掲〕
──「船津」として、田所氏側から「所望」した場所だった旨が記載してあること。
今一つは、田所氏が現在に至るまで相続された「厳島国府上卿役」=厳島神社に列席する最上位の公卿(正三位上)かつ公職であること。いわゆる平清盛の厳島崇拝なども、単なる庇護者であって、綿々と中世からの田所氏の神威が受け継がれていることになります。
もう一点挙げるならば、田所文書中の沙弥某譲状という文書に書かれた、田所氏の公的な職務に水運が含まれていることがあります。
神事謹仕頭人等*役事
船所惣税所職得分事
天台末五ヶ寺公文職得分事
惣社***〔沙弥某譲状←後掲安芸の船越から/28、中世国衙役人田所氏の活動〕
「船所」を管轄する、具体的には「惣税所職」、徴税を所掌していた旨が記録されています。──続く部分にはかなり長々と、田所氏の所有地が書かれていますけど、「船越から」著者のカウントでは80箇所以上、けども国衙領(己斐村)19.2町、自身で開墾した温科村10町を除くと、原郷6町3反、江田村3町7反以外は、2町に満たない小さな筆ばかりであることが判明します。これは、田所氏が徴税業務かその他の債権管理で得た担保不動産ではないか、と「船越から」は推定します。つまり、広島湾一円の金融業の元締めだったということになる。
総合すると、田所氏は元寇後の13C後半までに、政治的拠点としては安芸府中、神職の権威としては同地から厳島に影響力を有し、広島湾をその制海権におさめた海民勢力だったと考えられます。
Haken2-2:熊谷・白井・飯田・乃美──戦国太田川デルタ水軍衆
熊谷氏は、その名の通り現・埼玉県熊谷市(武蔵国熊谷郷)の出身です。承久の乱の功で三入荘(現・広島市安佐北区可部町の大林、桐原、上町屋、下町屋一帯→GM.:下町屋)に移ってきた一族です。熊谷直時の入封は1222(貞応元)年とされます。
以後、安芸武田氏の最有力武将であり続けた熊谷氏が、毛利氏に寝返ったのが1522(大永2)年。父・熊谷元直を毛利戦で失った熊谷信直によるもので、武田側がこれを諌めた「横川の合戦」が起こるも熊谷側は猛攻に耐え〔後掲広島市祇園西公民館〕、その後の萩移封にも同行して毛利の臣であり続けます。──この熊谷氏のただ一度の謀反劇は、インテリジェンスでは恐ろしい実力を見せる元就による謀略で、事実を推すのは諦めた方がいいけれど──この経歴には、全く水軍色が感じられません。武田氏中央がなぜ矢賀を与えたのか、想像もできません。
ただその後、毛利は寄騎として
尾長だけは後掲(→角川/尾長)のとおり白井氏の影響下にあった気配があります。ただし、白井氏が矢賀を攻めた弘治元年は厳島合戦の年(1555年=天文24年)と同年、大内氏が白井氏の尾長安堵を約した弘治2年はその翌年なので、一般にこれは空手形で〔後掲播磨〕「実際に領知することはなかった」と見られています。
厳島合戦前後の毛利-陶両サイドの水軍の抗争は、もちろん闇の中です。ただ、大内・陶方白井水軍が毛利側の水運の喉元に当たる太田川河口を押さえる動きに出たことは想像に難くなく、逆に毛利方は大きなリスクを感じたはずです。──矢賀や牛田の毛利への安堵は、大内側が広島湾岸の潜在的重要性に気づかない段階で、毛利側が工作したものでしょう。元々山国の産である毛利は、多分その短い間隙を突いて初期毛利水軍を急造してます。──この時期の毛利水軍を以下「天文毛利水軍」と呼んでいきます。
矢賀安堵の1541(天文10)年から厳島合戦の1555(天文24)年までとすれば、14年です。日清-日露間の急造海軍並ですけど、天文毛利水軍の場合は艦船建造ではなく既存海民の組織力の競争だったでしょう。
上記で白井水軍を矢賀に迎え撃ったとされる飯田氏とは、飯田義武(生年不詳-1592(天正20)年没)のことらしい。この将は武田氏配下の水軍に属した経歴を持ちます。つまり熊谷と同じく、仇敵の海上勢力を毛利が冷徹に取り込んだのです〔wiki/飯田義武〕。同じような露骨な取り込みが各方面でなされたと推定されます。
要するに、厳島合戦(1555年)頃の天文毛利水軍は脆弱かつロイヤリティのないもので、以後、実質的に忠海から三原方面の小早川水軍が主体となっていきます。矢賀の主が飯田氏や熊谷氏にではなく、忠海・賀儀城を本拠とする乃美元信(宗勝の弟)に委ねられたのは、その現れとも解せます。
忠海とは、具体な動員地としては既に触れた二窓や能地を指します。
Haken2-3:矢賀元村──プレ矢賀の海港機能継続性
さて近世江戸期の矢賀に話を移しますけど──角川は、記述を同じ「矢賀村」について①②に分離して記しています。
先に整理のため、以下の引用中、明治後期段階の市町村への接続で位置を明確にしておくと──
→1889(明治22)年:矢賀村
②矢賀新開
→1878(明治11)年:広島区所属
→1882(明治15)年:同尾長村・愛宕町・猿猴橋町・蟹屋村・荒神町
つまり江戸期の矢賀は、旧・太田川東北岸域の埋立により急速に南へ拡大し、戦後の荒神市場まで、即ち現在の広島駅エリアの素地を形成した後、1882(明治15)年に町村として独立していったわけです。かつ、角川はその時期を江戸初期と記します。
そこでまず、①埋立部分ではない元の矢賀の近世史を確認します。なお、明治に別の町村になったためか、このエリアの一般呼称は見つかりませんでしたので、差別化のため、本稿ではこのエリアを仮に「元村」と呼んでいきます。
江戸期にはなぜか、現在の矢賀ではなく、屋賀と呼んでいました。
①江戸期~明治22年の村名。安芸国安芸郡(もと安南郡)のうち。屋賀村とも書く。広島藩領。蔵入地。村高は、元和5年「知行帳」では屋賀村と見え184石余、「芸藩通志」「旧高旧領」ともに507石余。この増加分の多くは当村南西部における新田開発によるものと思われる。江戸初期当村地先の入江では新田開発が大いに進み矢賀村・大須新開となる。また百足山西麓の地は尾長村として分離(知新集)。
「芸藩通志」によれば畝数49町余、戸数175・人口1,188。矢賀浦とも呼び、江戸期を通じて浦役を勤めたが舟は一艘もない。特産は蠣灰。また牛はおらず、馬は56匹を数える(芸藩通志)。当村から尾長村のうち片河町に越す矢賀峠には福島正則の家臣でその勇猛を謳われた可児才蔵の墓があり、この墓に祈れば歯痛が治るといい伝える。この峠を通っていた西国街道は、元禄年間の大須新開築成の後に岩鼻を廻るルートに変更された(県史)。
文化14年3名の繰綿屋株が公認され、村内においても農間余業として賃繰りが盛んであったものと思われる。矢賀市には在郷市が形成され、明治12年に戸数61・人口282の人口輻輳地をなす(共武政表)。明治4年広島県に所属。同7年小学校博文館を設立、生徒数は男45・女21。明治初年の物産は米・麦・粟・蘿蔔・芹(同前)。同15年一部が尾長村となる。同21年の戸数204・人口1,166。同22年市制町村制施行による矢賀村となる。(続)〔角川日本地名大辞典/矢賀村(近世)①〕
新開形成史の推移とは別に、尾長村だけは独立していますけど、これは後に別節で触れます。
最大の難読箇所は「江戸期を通じて浦役を勤めたが舟は一艘もない」という記述です。他地に船を付けたのか、外地からの船の発着に特化していたのか、あるいは「馬は56匹」の記事からして近隣の港、例えば海田などに陸送したのか。──何か特異な交易路を有したことだけは確かです。ただ、南に埋立地が発達したわけなので、そもそもなぜ江戸期を通じて浦役が存在し得たのか、この点が想像できないのです。
可児才蔵の墓のある矢賀峠を越えなくなったのは、単に新開が開けて陸路がとれるようになったからでしょう。
綿作も後述(→安芸木綿)のとおり、広島湾埋立地で一般的な産物です。
だから、普通に考えると、矢賀の重心は臨海埋立地部に移動し、元村は寂れて放置された──という展開が予想されるんですけど……上記にあるとおり、
:戸数175・人口1,188
1888(明治21)年
:戸数204・人口1,166
かつ、下記引用中の矢賀新開の人口は──
:家数172・人数1,309
というのですから、少なくとも維新をまたぐ60年ほどでは人口減がないこと、1:2の耕地比がありながら元村と新開の人口は同規模だったことが知れます。「在郷市が形成」されたからでしょうけど──港を失った矢賀元村の市場にどういう有利が有り得たのか……説明しうる仮説を当面思いつきません。
Haken2-4:矢賀新開──矢賀であり続けたポスト矢賀
土地勘がない人向けに最も分かりやすく言うなら、現・広島東洋カープの本拠地・MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島の辺りのことです。
(続)②江戸期~明治15年の村名。古くは矢賀新開・蟹屋新開とも呼ぶ。猿猴川東岸の低地上に位置する。「知新集」に「ここを矢賀村といふハいにしへ大須新開古川村なといまたひらけざるさきハ土地郡分の矢賀村につゝき、なへてこのあたりの惣名なりけんを、今ハ間に大須古川二村をおき郡分の矢賀村とハ土地へたゝりたれとも猶そのかミの名をよひて矢賀村といふ」とある。広島城下新開組に属す。村高は、享保14年芸備郡村高帳699石余、「芸藩通志」775石余、「旧高旧領」780石余。
元和5年の安南郡絵図に矢賀新開、承応2年洪水以後所々堤高下出来絵図には矢賀新開・矢賀沖新開の名が載る。隣接する猿猴橋町の南側に矢賀新町(荒神町)、西国街道の通る大須賀村境には松原町が形成されるなど街衢の発展がみられた。「知新集」によれば、当村の鎮守荒神祠は慶安年間の頃洪水の際流れ着いた神体を祀ったという。また当村の畝数54町余、家数172・竈数356(本竈172・借竈184)・人数1,309(うち茅葺・桶屋各2、大工・染物師・塗師各1)。
大割庄屋四郎左衛門家の3代目宗林は尾長村の水道に自力で架橋、橋は宗林橋と呼ばれた。猿猴川岸の大藪御多門は享保14年白島大火ののち、白島一本木の多門を廃し当地に移転。明治4年広島県、同11年広島区に所属。同15年尾長村・愛宕町・猿猴橋町・蟹屋村・荒神町となる。〔角川日本地名大辞典/矢賀村(近世)①〕
やはり雑多な記述が並ぶ感じです。──1653(承応2)年に洪水があり、その後の史料「所々堤高下出来絵図」に矢賀新開の他、「矢賀沖新開」という地名があるというけれど、これは場所が特定できません。
ただ、矢賀新開村の鎮守「荒神祠」と書かれる場所は特定できました。広島駅近くにあった闇市に起源を持つ市場・荒神市場(後の愛友市場。現在は解体)の名前の由来となる社ですけど──ad.広島市東区曙三丁目4、全く行ったことのない新幹線高架下で、実際1973年に新幹線用地として境内の9割が買収され、現在、三宝大荒神社又は荒神山安養院と呼ばれるのは残った一割部分です〔後掲広島ぶらり散歩/三宝大荒神社〕。
本尊は如意輪観世音菩薩ですけど、これは戦後に元は比治山にあった安養院が合併(混淆)した後のことで、神社としての祭神は澳津彦命、澳津姫命、澳中彦命。──この神々は竈神とされるけれど、メジャー神ではないけれど地元神でもない。宮島にも社(長浜社)があるけど、何と那覇・波の上宮にも祀られます。
知新集:二つの矢賀の位置関係
さて前引用の最重点です。知新集は前掲の通り芸藩通志の下調査書で1819-1822(文政2-5)年編とされますけど、角川は二つの矢賀村の解説を掲げていました。
「ここを矢賀村といふハいにしへ大須新開古川村なといまたひらけざるさきハ土地郡分の矢賀村につゝき、なへてこのあたりの惣名なりけんを(続)」
──大須新開や古川村などが開かれてなかった頃には、「土地郡分の矢賀村」とこのあたり(矢賀新開)は続き(繋がっており)、「矢賀村」が全体の地名だった。
「土地郡分の矢賀村」という表現は分からないけれど、文脈から言って本稿で言う矢賀元村と同義と思われます。つまり、現・JR矢賀駅から現・広島駅やマツダスタジアムにかけての「大矢賀村」が存在した、と知新集は言っているのです。
後半はさらに面白い。
「(続)今ハ間に大須古川二村をおき郡分の矢賀村とハ土地へたゝりたれとも猶そのかミの名をよひて矢賀村といふ」
──今(≒知新集作成時:1819-1822年)は、矢賀元村と矢賀新開は、その間に「大須古川二村」を置き、隔たっているけれど、矢賀新開はなお昔の名で「矢賀村」と言っているのだ。
ワシは素人なので、雑に、広島市の古地図に落書きしてみました。次の図です。
広島城下町絵図に尾長村と大須賀村は書かれていました。古川村は書かれてませんけど正徳年間にはまだ存在又は認知されてないのでしょうか?──ただ尾長は矢賀の西、古川の北です〔日本歴史地名大系 「尾長村」←コトバンク/古川村〕。この大須古川二村で矢賀元村と隔たる場所は、やはり現・広島駅〜マツダスタジアム付近になるのです。
なお、「安南郡古地図」※という史料にはこの位置関係が書かれているらしい。下記はその転記ですけど、位置関係の理解は上記で概ねよいようです。
※伝・元和年間(1615年-1619年)作成
けれど──1615-1619年の広島藩と言えば、福島氏の時代です。──福島正則が転封され浅野氏が広島入りしたのが、1619(元和5)年に武家諸法度違反の咎を問われた後です。これは、洪水で損壊した広島城を無断改修したことからでした。
そんな時代に、福島氏が内政、特に回収スパンの長い矢賀新開の大開拓を進めていたのでしょうか?もちろん、それ以前の毛利期とも思えません※。
Haken2-5:1607(慶長12)年太田川変流(西遷)──太田川デルタの歴史的転換点
この点は、下記の記述を前提に考えると、「矢賀新開」の素地は人力ではなく自然現象で短期間に形成された、と考えるのが理に合っているようです。
古市と中筋の間を流れる古川は、かつて太田川の主流でした.慶長12年(1607年)の大洪水で氾濫した川の流れは、中筋や東野を越えて※現在の太田川の位置に移ってしまい、水量の減った古川は太田川の支流になりました。区役所の東側と才ノ木神社西側に周囲より高い場所を通る道路がありますが、これらは昔の礎防だったところで、今より川幅が広かったことがわかります。〔後掲広島市安佐南区/古川と安川〕
ただ、未だ議論されているのはその流路、特に変流の分岐がどこだったか、という点です。──「船越から」は、国交省同書が典拠として挙げる「広島県史・原始古代編」は少なくとも1980年版ではこの図を掲載していない点を指摘しています〔後掲「船越から」/書評4、「太田川史」の描く古代海岸線〕。一方で具体的な分岐点として八畳岩(→GM.)〔後掲サイクルフォーラム〕を挙げる論者もあります。
よって本稿では、1607年の太田川変流で河口が動いた、という仮定のみを採用していきます。
つまり、安南郡古地図の掲げるのは太田川変流で矢賀沖に、押し流されなくなった土砂が急速に堆積地を形成していった時代のものと推測されます。この堆積地はそのまま耕地にできるものではなかったでしょうけれど──俄に開けた陸地に果敢に挑んだ農民たちの苦闘により徐々に「矢賀新開」へと変貌していき、現在の広島駅周辺地区が形成されていったのでしょう。
参考:地域の伝え(戸坂)
地学が朧に伝えるこの様子を、民間伝承は次のように残しています。以下は次章で歩いた戸坂の郷土史の記述なのですけど、ニュアンスが伝わるので長文ながら引用します。
太田川は昔は安佐南区の東原・西原の西がわを流れていました。(略)川の名前もその地いきの名前をとって「佐東(さとう)川」とよんでいました。でも、慶長(けいちょう)12年(1607)の大こう水で川の流れが現在のように変わりました。(それで、もとの太田川を古川とよび、新しい流れの方を新川とよぶようになりました。昭和の初めごろまで太田川を新川とよぶ人はたくさんいました)(略)
佐東川を舟が行き来することが多くなって上流の加計(かけ)の方から舟が来るようになりました。そして、加計のあたりを太田筋(すじ)といい、川を太田川とよんでいたのがだんだん下流の方までよぶようになったのが「太田川」という名前のいわれです。「佐東川」という呼び名は江戸時代の中ごろにすたれていきました。〔後掲松田/第4章〕
太田川の地名の由来は諸説あり、上記の説の正当性を実証する材料はありません。
確かに太田川最上流、かつての加計町、筒賀村、戸河内町の2町1村が合併し、平成16年に成立したのが、三段峡の所在する安芸「太田」町です。この名は加計の中世勢力•栗栖氏の拠点と伝わる古地名「太田郷」から取ったとされます。
また、加計の川舟運輸が盛んになった1669(寛文9)年に,筏乗り50人を擁する太田筋株艜組合が許可されています〔角川日本地名大辞典/加計村(近世)〕。──ただこれも、河口部までを含む太田川名称の後に成立した、との説明も可能です。
だから、加計の一地域名が太田川変流とこれに伴う水運ルートの伸長により、河口部までの総称化した、という相当な想像力を要する説は、実証されてはいない。でも伝承としては、信じられた説であるという面白さから、併記させて頂きました。
■Haken3:尾長
現在の住所地としての尾長は、矢賀(元村)から山塊を挟んで西反対側の狭い区域です(西→GM. 東→GM.)。
ところが、歴史的呼称としての尾長は、少なくとも前章で古天神行きの途中でスルーした尾長天満宮の名でも分かる通り、二葉山南麓全部を指すようです(例えば角川は下記通り東照宮までを尾長項に挙げます)。──この範囲で考えると、矢賀-尾長-牛田の三地域は二葉山を東麓-南麓-北麓とぐるり取り巻く地域が該当することになります。
旧国名:安芸
尾長山・二葉山山塊の南麓に位置する。地名の由来は、「知新集」に「むかし此所海辺にて地かたハ山の尾にそひて長々しきゆゑ」とある。また尾長山の名は沖を通る船が難破した時、ここに棲む大蛇の尾によって救われたとの寓話にちなむという(広島市コミュニティカルテ)。〔角川日本地名大辞典/尾長〕
旧太田川本流に洗われていた時代、その北側河岸線は「地かたハ山の尾にそひて長々しき」土地で、それをモロに落とした地名、というのは大変納得しやすい。
また猿猴川砂州の形成からも想像できますけど、岩鼻が船が漕ぎ寄せられて「引っかかる」場所、というのも地形上分かりやすい道理です。
難破船ならよいんでしょうけど──下記1555(天文24)年正月7日、即ち厳島合戦(1555(天文24)年10月)の年初めには、広島湾を窺う白井水軍がここに来たらしい。海賊の行動ですから単に「至」った、だけではないでしょう。
Haken3-1:1555(天文24)年白井水軍尾長に至る
安芸国佐東郡のうち。天文24年と推定される正月7日の白井越中守宛大内義長感状(白井文書)に「同二日至佐東河内尾長」と見える。厳島合戦後も大内氏に従っていた白井氏は、弘治2年10月23日の大内義長宛行状で「矢賀尾長七拾五貫文足〈渋屋跡〉」などの給与を約束されている(成簀堂文庫所蔵文書/安芸府中町史)。しかしまもなく大内氏は滅び、やがて毛利氏領となった。文禄4年9月1日の毛利輝元宛行状写で、福井源右衛門尉に「御公領」の内「六拾七石九斗三升八合 尾永」などを与えるとある(閥閲録147)。〔角川日本地名大辞典/尾長(中世)〕
「福井源右衛門尉」が何者かは分かりませんでした。ただ田所文書(うち「閥閲録」所収福井左伝次家文書)によると、この1595(文禄4)年9月1日同日に毛利元就は「東原之郷」二二五石九斗三升も同者へ宛行っています〔後掲周梨槃特〕。東原はおそらく現・安佐南区東原(→GM.)と思われ、つまり戸坂の北対岸です。福井氏の他の所領を知らないからアバウトですけど、太田川水運を見据えた配置でしょうか。ただ──細井氏が如何に頑張ったとしても、関ヶ原後の転封と1607年の太田川変流で全ては水泡に帰してます。
江戸期~明治22年の村名。安芸国安芸郡(もと安南郡)のうち。広島藩領。広島城下新開組に属す。当村は江戸初期、福島正則の頃矢賀村より分離し成立(知新集)。村名は、元和5年「知行帳」では「おなか村」と見え291石余、「芸藩通志」「天保郷帳」ともに602石余、「旧高旧領」では「尾張村」と見え613石余。江戸初期西国街道が広島城下につけかえられ、福島正則は矢賀村境の岩鼻に大門を設置し、当地は城下東の入口となった。「知新集」によれば畝数54町余(うち山畑17町余)、竈数300・人数1,458(茅葺3・大工2、鍛冶・桶屋・木挽・畳刺各1)。(続)〔角川日本地名大辞典/尾長村(近世)〕
単純に石高を拾ってみます。
〔閥閲録147毛利輝元宛行状写〕
1619(元和5)年291石
〔知行帳〕
1825(文政8)年602石
〔芸藩通志(年代=完成年)〕
1868(明治元)年613石
〔旧高旧領:年代=最頻年次〕
江戸期の間に石高は9倍。初期25年での4倍余の増は自然現象としても、さらに2倍になっているのは灌漑努力の結果でしょう。
当然に町筋も形成されたらしいけれど──以下の記事には謎が多い。
(続)片河町は村内に形成された街衢で、地名は旧古川筋の片側に人家が並んだことにちなむ。同所に住んだ世羅屋は浅野氏入国に随従、はじめ東愛宕町に住む大工棟梁職であったが、のち耕作を業とした。地内には正徳5年御用地となった弓鉄砲射場、安永9年藩主に献上された御山屋敷、藩重臣の下屋敷があった。(続)〔角川日本地名大辞典/尾長村(近世)〕
「片河町」「世羅屋」「御山屋敷」とも全くヒットがない。
ただ、広島藩武士団の山手町のような地域でもあったらしい。東から城下へ至るルート沿いですから、あるいは軍事的配慮かもしれません。
片河町の「河」は古川、本章冒頭で歩いた場所です。「片」が川筋の片側に人家が並んだのは、藩から先の軍事的な観点での規制があったのでしょうか。そうだとすれば、街が出来たのは参勤交代道の逆側、おそらく北側でしょう。
最後は当時の景勝地です。
(続)法華宗国前寺は明暦2年藩主浅野光晟の帰依をうけ、寺領200石を与えられたが、元禄4年藩主の不受不施派禁圧策により寺領は没収された。開山の日像は日蓮直弟子九老僧の1人。
二葉山南麓の東照宮は光晟の造営、社領300石。天台宗松栄寺は東照宮の別当寺で、明治初年の神仏分離により西隣りの同寺末の教禅院とともに廃寺となる。
ほかに曹洞宗瑞川寺(現聖光寺)、禅林寺の庵室石泉亭(現廃寺)、尾長天満宮があった。
城下より中山へ越す大内越峠は、大内義隆が府中出張山に拠った武田氏麾下白井備中を攻略した経路であることにちなむ。※白井氏の項で再掲
片河町より矢賀村に越す山路の傍らには福島正則の家臣でその勇猛を謳われた可児才蔵の墓があり、この墓に祈れば歯痛が治まるという言い伝えがある。
「数丈の磐石重畳して一奇観を為す」とされる景勝岩鼻には藤棚があり、甚六茶屋と呼ぶ茶店が開かれた(明治33年の広島繁昌記)。
明治4年広島県、同11年広島区に所属。同7年小学校梅馨舎・誠之館を開設、生徒数はそれぞれ63・61。片河町にも頒馨舎が設立され、生徒数66。同15年矢賀村(矢賀新開)・古川村・矢賀村の各一部を編入し、大須賀村と境界変更。同22年広島市の大字となる。〔角川日本地名大辞典/尾長村(近世)〕※項目毎に引用者が改行を入れた。
国前寺の没落劇は興味深い。──不受不施派禁圧策は、日蓮宗の過激派です。1669(寛文9)年に幕府の禁圧方針が出て全国的にキリスト教と同等に排除されています。
その4年後に三代浅野綱晟を国前寺管理の墓所に埋葬したのですから、当時の浅野家の日蓮宗崇拝熱はかなりのものだったのでしょう。
[現在地名]東区牛田新町一丁目
(略)
延宝元年(一六七三)に没した広島藩三代藩主浅野綱晟の遺骸は、当時「日新館」と称する浅野家の山荘があった牛田(うした)の地に葬られ、尾長(おなが)村の日蓮宗国前(こくぜん)寺が墓所を守っていた。しかし元禄四年(一六九一)国前寺は不受不施派禁圧策により寺領を没収され、これを機に浅野氏は天台宗に改宗することになったが、当時の広島には天台宗寺院がなく、賀茂郡国近(くにちか)村(現黒瀬町)の阿弥陀(あみだ)寺を移すことにした。〔日本歴史地名大系 「日通寺観音堂」←コトバンク/日通寺観音堂〕
1691(元禄4)年までに幕府側と裏での丁々発止があり、国前寺領没収と浅野家改宗で手打ちとなったのでしょう。とばっちりを受けた寺はたまったもんじゃなかったでしょうけど──それが牛田から山を越えた尾長にあった、というのはどういう経緯だったのか?興味は尽きないけれど手がかりがありません。
もう一つ言い添えるなら──国前寺や東照宮の二百石や三百石という社寺領はどこにあったのでしょう?先の尾長の数字を見ると、江戸初期には一村の耕地よりも大きいことになります。全く他地に所在したのでしょうか?
■Haken4:牛田
愛宕山を挟んで北側、本編の二日目に入った牛田のことです。この土地の初出、宝亀11年はまたぐんと古い。
780年です。
宝亀11年12月25日の西大寺資財流記帳に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻〈布一、紙一、並在国印〉」と見える(西大寺文書)。天平神護元年に称徳天皇の誓願によって西大寺が建立され、同寺に施入された荘園のうちの1つ。その後、天慶元年に醍醐寺法華三昧料に充てられた朱雀院荘の1つとして牛田荘が見える(吏部王記)。西大寺領としては、建久2年5月19日の西大寺所領荘園注文に「顛倒庄々」の1つとして見え、早くその実を失ったものと思われる(西大寺文書)。〔角川日本地名大辞典/牛田荘(古代)〕
奈良・西大寺は真言律宗総本山です。藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱鎮圧祈願のため孝謙上皇が四天王像造立を誓願したのが764(天平宝字8)年とされます〔後掲西大寺〕。西大寺資財流記帳は要するに財産目録なので牛田荘の設置年ではありませんけど、西大寺古仏の伝承から16年後ですから、まず初期登録されていた施入地です。
それが1191(建久2)年までに「顛倒庄々」(ひっくり返された荘園?)に入ってしまった、ということは、田所文書に牛田名が記載される1289(正応2)年(下記引用参照)までの約百年ほどの空白が存在します。
少なくとも鎌倉後期までは耕地としてしか注目されてません。それ以後田所氏が入り、さらに白井氏が封じられている(1527(大永7)年)のは、太田川西岸の水運要地として再発見されたからと考えられます。それは言い換えるなら──五箇浦の海民たちが牛田を中心に蠢き始めたからだと想像できるのです。
正応2年正月23日の沙弥某譲状に「牛田村田畠」「牛田村弥富名崩田七反半下作人」と見え、在庁官人の田所氏は牛田村に私領田畠を持ち、また牛田村弥富名内の田をその所従清次郎に下作させていた(田所文書)。室町期には守護武田氏の支配下にあったと思われるが、大内氏の安芸進出により、大永7年には武田方であった仁保島の白井氏が大内方に付き、同年4月24日の大内義興袖判宛行状で「牛田七拾五貫地」などを与えられている(白井文書)。なおこの時牛田は佐東郡の内となっている。やがて天文10年には武田氏が滅亡し、毛利氏は大内氏から各地の所領を預けられるが、年未詳7月15日の内藤隆時書状によれば、毛利隆元が人質として周防に在国した償として、佐東郡大牛田150貫、小牛田150貫の地が隆元に預けられている(毛利家文書)。天文11年3月2日に隆元は国司就信に牛田の田1町6反を与え(閥閲録55)、同14年10月20日には同じく佐東郡牛田郷の内から「霜月神田一町弐段」を厳島大願寺に寄進し、詳しく指示している(大願寺文書)。(略)〔角川日本地名大辞典/牛田荘(中世)〕
何と毛利元就は、嫡子かつ次代当主たる隆元を大内の周防に人質に出した償として、大牛田・小牛田各150貫を得ています(毛利家文書、詳細未確認)。年代が分からないのが残念ですけど、おそらく先述の天文毛利水軍期です。
ただし。田所・白井・毛利各代を通じ、牛田に港湾施設が存在したという遺跡はおろか謂れある地名も見つかっていません(疑念としては下記神田八幡も参照)。いないのですけど──角川は以下に3点の史料を挙げ、牛田=天文毛利水軍拠点説の立場に立ってます。
Haken4-1:毛利天文年間急造水軍
(略)一方、牛田の地は太田川河口に位置し、毛利氏の水軍の拠点でもあった。①同23年7月4日毛利隆元は飯田義武に警固料として「牛田之内新給拾弐貫」を宛行っており、水軍の編成が意図されていたようである(閥閲録132)。②弘治3年11月13日の毛利隆元宛行状写でも「牛田舟方給之内拾貫文地」を宍戸元親に与えたが、「水夫用之時者涯分申付可調之由肝要候」と注意しており(閥閲録125)、年月日未詳の毛利隆元自筆書状によれば、実際水夫を調達できなかったためのちにはこの所領が没収されている(毛利家文書)。牛田には毛利氏の直轄地(公領)もあったようで、元亀3年11月19日の毛利輝元書状に、宍戸元親がかつて「牛田惣代官」に任じられていたことが見え(譜録)、文禄4年9月1日の毛利輝元代官補任状写では、福井源右衛門が代官に任命されており(閥閲録147)、毛利氏の重要拠点の1つであった。なお③牛田には真宗寺院東林坊があったが、同坊は水軍勢力でもあった。厳島合戦直前には毛利氏について仁保島在番を勤めたらしく、それ以後も毛利方の水軍として活躍している。天文12年頃には今の饒津神社付近に移り、福島氏の時代に寺町に移り光円寺と改めたという(知新集)。〔角川日本地名大辞典/牛田荘(中世)〕※丸付き番号は引用者
①内には水軍についての記述はないけれど、飯田氏が当時(1554(天文23)年=厳島合戦前年)、前述のとおり天文毛利水軍急造の任を帯びていたことからの推測でしょう。
②の宍戸元親も同任務を帯びたらしい。
宍戸元親(ししど もとちか)
生没年:?~?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。飯田義武・児玉就方・飯田元著・浦元信らと共に川の内警固衆の指揮官に任命された(当時の川の内警固衆の構成員は安芸武田旧臣の福井・山県・福島・熊野・世良・植木・豊嶋など)。〔後掲防長将星録〕
史料典拠は明確ではないけれど、天文毛利水軍の主な顔ぶれをひとまず次のように整理しておきます。
植木 熊野 世良 豊嶋
福井 福島 山県
(毛利)
飯田元著 飯田義武 浦元信 児玉就方 宍戸元親 ※五十音順
Haken4-2:神田八幡──東岸聖地への専用橋・神田橋
以下引用は景勝地群。うち早稲田八幡については後述します。
(後引用から続)寛文4年京橋川に架けられた神田橋は城下を分流する太田川に架かるものとしては西国・出雲街道の八橋以外では唯一のものであった。神田八幡宮は文亀3年銀山城主武田氏の氏神を勧請。早稲田八幡宮は永正8年の勧請と伝える。両社ともに当村の氏神。安楽寺は武田氏の遺臣豊島氏が開いたという。明治4年広島県に所属。同7年小学校賛成舎を開設。同15年新山村を合併。同20年の戸数619・人口2,604。同22年市制町村制施行による牛田村となる。〔角川日本地名大辞典/牛田荘(近世)〕
安楽寺(→GM.)は、ここの寺子屋が現・牛田小学校の前身となってます〔wiki/安楽寺後掲〕(ただし現在の場所は北北東200mに移動)。「1533年(天文2年)、現在の場所(東区牛田本町)に建てられました」〔後掲山田〕と書くものもあります。もしそうなら、太田川変流以前から牛田早稲田より西に陸地部があったことになり興味深いけれど──何か地質学的な分析で決め打ちが欲しいところです。
疑念という意味では、神田八幡はさらに面白い。現在の社名は神田神社分社らしいけれど、八幡も分社もヒットがありません。位置は広島市水道資料館(旧牛田配水池ポンプ場→GM.)の東側、ここらしい〔後掲広島ぶらり散歩/神田神社分社〕。
創設の伝承が同じだし、移転先の宇品・神田神社にも同様の記述がある〔後掲ヒロシマの今から過去を見て回る会〕から、まず間違いなさそうです。
かつての社叢は、アストラムライン牛田駅からビッグウェーブ(体育館)をまたぎ牛田総合公園辺りの全てだったように、筆や道の配置からは見えます。
神田神社は、1503(文亀3)年当時祇園村武田山にあった銀山城城主の武田光繁が、祖国・甲斐の国から城の守護神として安芸郡牛田村に奉遷したのが始まりと伝わっています。
神田橋というのは神田神社に参拝するために架けられたもので神田山という地名も神田神社に由来していると云われ、氏子は現在の東区牛田本町1丁目〜5丁目、中区白島九軒町の方まで住んでいたそうです。
ところが、明治政府が進めた富国強兵政策により1889(明治22)年神領地は陸軍省の用地となり、神田神社は当時県知事の千田貞暁が埋立てた新開地・宇品へ移転してしまいました。
しかし、古老たちには牛田村のコミュニティーの場であった神田神社を忘れることができず、工兵隊練兵場東側の道路根際に分社を祀り、それまで通りお参りしていたそうです。
戦後、軍用地は牛田浄水場敷地となりましたが神田神社分社は現在に至っています。〔後掲広島ぶらり散歩/神田神社分社〕
かなり踏んだり蹴ったりの経緯です。なぜこんなことになってるのか、そもそも広島城でもない場所がなぜ軍用地になったのか、上記のような「軍部の横暴」説だけでない、浅野家所管だったか(牛田は広島藩領かつ蔵入地だった→後掲)、宇品住民の政治力か、あるいは日露戦当時に海軍新発地+首都となった宇品港への霊力的配慮なのか──何か裏の謂れがありそうですけど、それはどっちみち分からないでしょう。
やや確実なのは、旧・神田八幡が
かつ、他地での八幡宮の通常の配置を考えると、同宮の河岸が(密)交易船の離発着した港であった、という想像はむしろ当然なのです。
そう考えると──先の1545(天文14)年に毛利が牛田の「霜月神田一町弐段」を厳島大願寺に寄附した事績も再注目されます。この「神田」は神田八幡のそれに通じるのではないか、ならば牛田早稲「田」地名も神田としての雅な呼び名ではないか、とどうもイメージがダブっていくように思えますけど──いずれにしてもスピリチュアルな実体を欠く話になるので、疑念だけを記すに止めまして……。
どうせならもう少し客観的な仮説を、もう一つ紹介します。
広島藩領。蔵入地。村高は、元和5年「知行帳」730石余、「芸藩通志」「天保郷帳」ともに1,025石余、「旧高旧領」968石余。「国郡志書出帳」によれば、家数474(うち百姓327・貸屋144・社人2・出家1)・人数2,848、牛20・馬9。太田川に面した低地であり、梅雨から野分の頃まではたびたび洪水に襲われて田畑の6~7割が冠水、山は建山・留山で肥草の不足に苦しんだ。また作物は「田地作物凡八九歩綿作を主と仕」、農間余業に男は藁仕事、女は木綿織のべ等。広島城下に隣接する村らしく、同前書によれば村民の約3割にあたる933人が奉公人・同懸り人であるが、元禄年間の頃すでに「当村之儀者他村と違ひ御家人或ハ又者類多ク百姓一通リ之者無数」と報告(牛田村取計ひ之儀ニ付愚筆を以奉申上書付)。(前引用へ続)〔角川日本地名大辞典/牛田荘(近世)〕
Haken4-3:牛田荘──デルタに散在した耕地群
前掲「船越から」は、牛田集落の管轄する耕地の半ばが、現・牛田の外にあったと推測します〔後掲「船越から」/20、太田川三角州②、牛田荘と五箇浦〕。
これは次のようなデータから推論されています。うち、知行帖730石と芸藩通史1,025石は前掲角川も挙げていた数字です。
※ 奈良時代設立の荘園。780(宝亀11)年西大寺流記資財帳に「牛田荘図」あり。
・ 同荘領有者の真言律宗大和西大寺の1191(建久2)年文書に「墾田79町」と記載
・ 79町×1.2ha※=94.8ha
※ 中世以前の1町=3600歩(坪)=現代の1.2ha(110m四方)
2 17C初めの牛田村面積は55ha②
・1619(元和元)年知行帖記載 730石→推定耕地面積約55町
(参考)芸藩通史(19世紀初頭,文化年間編纂)82.1町(1,025石)=82.1ha
※ 近世の1町=3000歩(坪)=1ha
3 牛田村外部に牛田荘が有した耕地は約40ha③
③=①-②
∵②>古代牛田村耕地:開墾・干拓により耕地は増加しているはず
問題は、この差分40ha(以上)の土地がどこにあったか?という点です。地勢、その他神田八幡の信徒圏などを考え合わせると、太田川デルタの島=五箇浦のうちだったとしか考えられません。
毛利氏が太田川三角州の中に城を築く以前、ここは五箇浦(あるいは五ヶ村)という名で呼ばれる地域でした。そこは、箱島(後の白島)、鍛冶塚、平塚、在間などと呼ばれた地の総称です[後掲船越から 20、太田川三角州②、牛田荘と五箇浦]
江戸期以降の神田橋の両側の耕地の合算、と考えてもなおこの数字40haには届かない、と「船越から」は算出しています。
(牛田西対岸の)箱島自体の面積は毛利氏築城時の絵図から推測しても20ha程度しかありませんから耕地としては10ha程度しか成立しませんん。さらに20ないし30haが箱島以外の五箇浦の土地に広がっていたと推測されます。[前掲船越から 20、太田川三角州②、牛田荘と五箇浦]
またこの中州島群に耕地があり、在住者もあったらしいことを「船越から」は次の正観寺の立地から推測しています。
箱島にあった「正観寺」は、霊亀元年(715年)の開基と伝えられ、また、在間には広島城築城の少し前に日蓮宗の寺院も建立されています。寺が荒地の中に孤立して建てられるはずはなく、8世紀の時点で、この周辺には耕地が開墾され多くの人が住んでいたことは確かです。[前掲船越から 20、太田川三角州②、牛田荘と五箇浦]
単に数字合わせの話ではないことがご理解頂けると思います。どうやら、現代の陸人による「牛田」から、感覚を飛躍させなければこの80haという数字を理解できそうにないのです。
デルタ周辺で最も由緒ある──つまり神話的感覚で設定されたと想像すると、この違和感の根源を辿りやすいかもしれません。
即ち──海人が海道を単位に物を考えるように、古代「牛田庄」は川、又は広島湾の水路網を隔てた「水域」全体を指し、幾重にも河で分かたれた耕地一円を意味していた。その場合の水域は、広島湾デルタの少なくとも東半分程度の呼称だったという推定されます。
これを敷衍して、広島駅北側山麓に寺社は並ぶのに漁村らしき痕跡がないことと関連づけるなら──この両者は一種住み分けられた土地だったかもしれません。牛田本荘は太田川水運の内港に特化し、その外港が広島駅北側に展開していた、そう想像することはできないでしょうか?
鶴羽根神社と京橋の関係が深かったのも、こうした牛田の性格を想定すれば不思議ではなくなります。デルタ多島海域は、今で言えばハイウェイが整備された広域都市圏のようなもので、五箇浦海民にとって実に住みやすい世界だったのかもしれないのです。
さて、前章本編の牛田歩きで最も不思議だった早稲田一丁目の湾曲に視点を写します。
Haken4-4:早稲田一丁目湾曲──何もない牛田山際の「水際ライン」
このラインそのものもそうですけど北東側の複雑な道の相と、南西側の条里の明確な埋立地の道の相とが、非常に対比的です。その二相は、ほぼこの「早稲田湾曲」で分割されています。
普通に考えるなら、このラインがかなり長期に渡って、港湾の置かれた海岸線だったということになります。
けれどこの地点は、現・河岸からは半kmは隔たっています。川の配置から旧河岸とも考えにくい。
すると、早稲田湾曲から太田川(現・京橋川)までの間の土地は、近世には何だったのでしょう?
驚くべきことに──と思えるんですけど──牛田河岸には見事に
上記1711年図の橋を通って河岸から北東へ伸びる道は、橋(神田橋→GM.)の位置からも上記安楽寺方面へのものでしょう。一つ南の道は、二又川(二又川通り南沿い→GM.)沿いでしょう。この二本の道が、近世牛田村で地図に記される全てです。上下図とも西岸白島町方面には町並みが描かれるのに東岸牛田側には白紙です。
上記1711年図では、神田川からの道は山際まで伸びてますけど、下記1882年図では河岸近くで右折して終わってます。右折は安楽寺地点でしょうから、明治初年のこの道は安楽寺の参道として専ら利用され、ここで絶えていた。少なくともそう認識されていたことになりそうです。
河岸から早稲田湾曲までの史蹟らしいものを探すと、次の區劃整理完成記念碑が見つかります。昭和9年に組合を立ち上げ、翌年解散してます。財源の出資を受けるためだけの団体でしょうから、この昭和一桁代にこの(牛田公園)付近はようやく区画整理されています。
つまり、この土地は近世とは言わず、昭和の初めまで定まった道がなかった。おそらく悪田の土地だったと考えるのが自然です。
牛田の地名由来は、多くの場合は伝統ある公家の荘園「大人田」が語られますけど──
牛田山は広島県西部、太田川河口付近に馬蹄形に広がる山塊を指す。山名の由来は、公家の高官(公卿大人)の所有地で「大人田(うした)」と呼ばれていたという説や、荒れた土地を開拓したことから「潮田(うした)」と呼ばれていたという説などがある。〔後掲山と溪谷〕
──割と素直に想起されるのは(上記後段の)「潮田」(うしお-た)です。これは以上を前提にすると、単純に「悪田」という意味あいでしょう。先述のような「伝統荘園」イメージの方が地元ウケはよかったからでしょうけど──
そこから敷衍すると、早稲田湾曲の地点は、この牛田=潮田=悪田の北側の縁に当たり、ここがその時期の旧集落だったと推定されます。
この推測では、現代の陸人の発想では伝統荘園「牛田荘」の耕地が見当たらなくなってしまうのが難点なんですけど──先述「船越から」の通り、牛田の耕地が現・牛田より広域、一続きの陸域ではなく後の五箇荘に近い水域に所在した可能性を考えてみましょう。それがむしろ古代の人々こそが持つ共通理解であったなら、早稲田神社付近の高地を拠点に早稲田湾曲を小舟のみ寄せる港として、デルタを水路に用い五箇荘を行き来した、という想像が成り立つのではないでしょうか?
旧太田川本流の北東岸について、用意できた史料はここまでです。概してそこは、人の手の及ばない、仮に及んでも早い堆積量のために安定した耕地を保てない「神の土地」で、牛田から岩鼻までの寺社群はその名残りと考えられます。
だから推定1607(慶長12)年の太田川変流(西遷)は、この地域が一転して「人の土地」になる重大な契機でした。保田家に代表される京橋町の興隆は、この転機以降に成されたものです。
■Haken5:縄屋と保田八十吉
前章で鶴羽根神社に顕彰碑を確認した保田八十吉さんは、1843(天保14)年生-1919(大正8)年没。
明治広島政財界の紛れもないフィクサーです。ただ上の写真でも分かる通り(?)政治には徹底して消極的な清廉の人だったらしい。
保田八十吉(一八四三〜一九一九)は、保田家(縄屋)の分家、新宅の三代目にあたります。新宅では醤油・酒の醸造業を営みました。八十吉の頃になると、その勢いは本家を凌ぎ、文久三年(一八六三)には稲荷(いなり)町西組年寄に就任するとともに、先代以来の藩への献銀が認められ、四二人扶持と苗字・帯刀を許されました。
八十吉は実直な人柄と勤勉により信用を得ていましたが、明治に入り、江戸時代の名だたる商家が次々に没落する中で、広島きっての実力者、資産家と謳(うた)われるようになりました。明治十九年(一八八六)、四十四歳で請われて第百四十六国立銀行に就任し、同行が同三十年に普通銀行の廣島銀行に転換した後も、亡くなるまでその地位にありました。
この間の八十吉の活躍は多方面にわたります。特に公共事業への貢献は多大で、宇品築港では県令(けんれい)千田貞暁(せんださだあき)を支援してこれを完成させました。明治二十一年には黄綬褒章を受け、死去に際しては従六位に叙せられました。〔後掲広島県/収蔵文書展,平成18年〕
さてここで掘り下げておきたいのは、八十吉さんリスペクトではなくて、江戸期の保田家とその舞台となった京町周辺の光景です。
Haken5-1:初代保田内蔵──島原負傷兵の転身出世劇
保田家は京橋町とともに始まります。それはおそらく、太田川変流に跛行して興隆したということです。
初代・内蔵(生年不詳、没年1662年)から始まり、六代目からを分家(新宅)で数えると、八十吉さんはほぼ8代になります。
保田家の元は浅野家家臣と伝わります。
尾張の武家から豊織の盛衰を永らえ、故秀吉体制下では五奉行中最も家康寄りだった言われる吏僚・浅野長政は、関ヶ原戦後に和歌山37万石を得ます。ここから、大坂陣後の1619年に福島家改易後に広島藩に入封。保田家は、この和歌山→広島移封時に同行した、と語られることが多いようです。ただし出典は不詳、浅野家臣従の時点や出身地は分かりません。ただ保田内蔵が商家に転じた経緯は、次によると島原戦後の秩禄処分を元手にしたものと考えられますから……17C半ばまでの保田家の実態は、当主が体一つで武功を立ててきた、武家としても商家としても江戸初期の泡沫家系の一つだったと推定されます。
保田家の初代内蔵(後太郎右衛門)は、浅野家に仕え、紀伊国から移住してきた武士でしたが、寛永十五年(一六三八)の島原の乱で負傷して浪人となり、京橋町北側に間口二間半の家を買求め移住しました。当初は農業のかたわら紺屋と縄を商い、「縄屋」を家号としました。〔後掲広島県/収蔵文書展,平成18年〕
Haken5-2:17C京橋町──商家・保田家発祥推測地に関する先行研究
この「京橋町北側」「間口二間半」の商家・保田家発祥地がどこなのかは、未だ議論があり、次のように史料の読解が進んでいるところです。
ただいずれにしても縄屋・保田家の興隆を中心として栄えたエリアは
■京橋町→GM.∶地域
の界隈です。上記は現・広島市南区京橋町のエリアなので、
■京橋 →GM.:地点
から東へ400mほどの通りが、安芸の京橋町だったことになります。
広島城の外堀、東側の京口門から西国街道(山陽道)で東へ向かうときに最初に渡る橋が京橋、京橋から次の猿猴橋までの街道両側が江戸時代の京橋町です。〔後掲広島県/収蔵文書展,平成18年〕
行政側からの視点で列挙するなら、
と連なるルートを確保しようとしたわけです。
前掲のとおり江戸以前の岩鼻とその東西の街道は旧太田川
猿猴橋架橋は推定1591年。橋名は、京橋の方は「京街道」起点の意と言われるけれど、猿猴橋は最初は「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名づけられたといい〔後掲南区魅力発見委員会 ※同典拠:芸州広島城下町図〕、つまり太田川のカッパを鎮撫する意図が想像されます。
架橋を指示した毛利輝元は、広島城築城の2年後にこれを施工。京橋もほぼ同時期に完成してますから、即ち京橋町そのものが広島城と太田川北岸を接続する目的で設置されたのです。
Haken5-3:ベンチャー投資家としての保田家
島原戦の先駆け武者だった保田内蔵(-1662)が、如何にして初期の資本形成に成功したのか、手がかりになる記述はまるで見つかりません。とにかく二代目に相当の財を成し、保田家を立てるに至ります。
保田家は、当初は農業と紺屋・縄を扱う商家として出発しましたが、二代目からは質貸業を営み、三代目からは米などの穀物や、「御国産第一之品柄」と称された綿を、それ以降は貸家業、瀬戸物・薬なども取扱うようになります。文政年間には、焼物が藩の国産品となるようその開発に携わっています。しかし、このなかでも質貸業が同家の根幹でした。〔後掲広島県/収蔵文書展,平成18年〕
初代内蔵(-1662)の蓄財を二代九左衛門(-1682)が質貸業で再投資へ循環させ、これが保田家の現・広島銀行に続く基幹部門になってます。
ここで注目したいのは三代九左衛門(1651-1737・同名)が綿に関わるようになり、さらに下って分家新宅二代・七兵衛(1807-1859)の頃には焼物開発に関わった点です。いずれも藩の出資を受けていますけど、島津型の半官企業体から脱した民間主導の資本主義の萌芽が見られます。
Haken5-3-1:安芸木綿──陸化デルタの初発ヒット商品
江戸期に爆発的に拡大した日本国内の綿産業のうちでも、安芸木綿(あきのゆう)は高級品とされています。前掲の通り「御国産第一之品柄」と称された広島の綿は、安芸の埋立地(新開)の土壌に非常に適合した作物だったらしい。
綿花には砂質の土壤が適したが、更にデルタ末端の新田では水利の便に恵まれず、稲作の困難な事(略)、また干拓新田では土壤に塩分があるが綿花は塩分に強い事などが、綿作地としての発展を条件づけた。江戸時代の海岸干拓新田は、伊勢湾以西の西日本陥没地帯の内海に多かったが(53)、特に中国地方及び近畿の内帯には花崗岩の露出地域が多く、河川は豊富な土砂を運搬堆積して著しく砂質に富んでデルタが形成され、綿作の適地をなした(同じ干拓地でも九州有明海沿岸のそれは、土性が全くの埴質で全層を通じてきわめて粘土質である事が(54)、綿作の発展を阻む一因をなしたと思われる)。〔後掲浮田〕
(54)本岡武:有明海干拓地の農業地理学的特質とその問題,人文地理6の3
ただなぜか、安芸木綿についての実証史料は極めて少ない。以下は、後掲浮田さんがかなり苦労してまとめた、同時期の全国の綿作の分布図です。基礎データが明治10年「全国農産表」のものなので、例えば江戸後期に発展し安芸を凌駕した河内・和泉なども含み記載され、かつ浮田さんの補正が入ってますけど──
では干拓地、なかんずく広島太田川デルタにおいて、綿作はどのくらい有利だったと言えるのでしょう?
この点に関して浮田さんは、かなり希少かつ普通なら解析できない二つのデータを発掘し、専門の一つ・経済地理のメスを入れていきます。まず、次の「広島の新開730町歩における文政6年の作徳積り」(原データ:文政6年「綿作麦作仕込みより取入迄作德積り」広島市個人蔵,広島市史編纂室写)というデータです。
この史料の性格は、調べても分かりませんでしたけど──これを信じると、税引(年貢納入)前で販売額の半額が収益になったことになります。
何より、農民の統括的な人物が算定したものと解釈するなら、この収支帳を作成しようとする発想自体が資本主義的に思えます。
後掲浮田はその他にも、明治13年綿糖共進会報告のデータを元に、綿作が、肥料購入費用や、水田に三倍する重労働の人件費を控除できれば、収益の大きい作物だった可能性を示唆しています。
而して多量に肥料を投下し、且つ灌水その他に充分手を尽せば、田方綿作より遙かに多くの収益を挙げ得た(58)。第6表はすでに綿作の有利性が減退した明治13年のものであるが、「砂地海辺畑綿作」は、多大の肥料代、手間賃を要したが、反当粗収益は多く、もし手間代をすべて自家労働で償うとすれば最大の収益(収益A項)を 挙げ得たのである。
綿作にとっては、このように新開の砂畑の方が自然的にも好適な条件をもち、他に適作が得られず、更に「新田」という社会的性格がもたらす有利性の故に、江戸時代末期に近づくに従い、次第にわが国綿作に支配的な地位を占めてきた。それが明治10年前後の様相に、明瞭な形をとって表現されるに至ったものと考えられる。かかる田方(本 田)綿作から砂畑(新田)綿作へという重点の移行は、広汎な国内市場の形成に基づく、綿作の「適地適作化」の進行にほかならない。〔後掲浮田〕
前者の江戸後期データ(1823(文政6)年広島新開)と後者の明治のデータ(1890(明治13)年摂津武庫)では、時代が半世紀違うので単純な比較は本来禁じ手てすけど──素人なので敢えて比べますと、明らかに広島新開の利益率が大きい。
1890年摂津武庫データからの知見、綿作の付随経費の大きさを考えると、武庫に対する広島の利は、肥料や水利にあったとも推定できます。肥料の干鰯※は産地に近く入手し易かったでしょうし、水利は太田川の天然のものが武庫川や既に都市化した大阪より容易く専用できたでしょう。
どんどん保田家の話から遠ざかってますけど──安芸木綿の輪郭をなぞるために、ここまで定義なしに使ってきた「広島新開」を確認しておく必要があります。ただ、その概要を示した下の図を見て頂きますと──築城時[紫]と宝暦2(1752)年[水色]の丁度境目が、最初に示させて頂いた広島城-京橋-猿猴橋ライン、つまり保田家が店を構えた京橋町に当たることを確認できます。
京橋町は臨・広島新開でした。
Haken5-3-2:広島新開──藩・民・国の三段階拡張史
太田川デルタの干拓は、性格的に、かつ概ね時系列的に三段階に分類されます。
①江戸前期:藩直轄
②江戸後期:民主管
③明治以降:国直轄
次の中国新聞記述が、見つけた中では、この過程を最も平易に表現していました。
広島では17世紀には藩営事業として大規模な干拓が進められた。江戸中期以降になると、富裕な町人や農民の投資で零細な干拓が繰り返される。中区の宝町や昭和町などの一帯を航空写真で見ると、道路が折れ曲がっている。このエリアが小さな干拓で徐々にできたためで、大規模に造成された駅前通り以北の整然とした道との違いは明らかだ。広島にはこうしたパッチワークのような土地が多い。〔後掲中国新聞デジタル〕
うまく数値又は図化できないけれど、実際の生活実感として、宝町(→GM.)や昭和町(→GM.)のベルト、概ね現・国道2号線北側には方向を見失う区画が続きます。
干拓地全体では、面積的に広島新開が最大です。
広島藩の主な新開地を見ると、安芸・佐伯・賀茂・豊田四郡の沿岸部で藩全体の八〇パーセントを占めており、そのなかでも太田川デルタ地帯を中心にした広島新開がもっとも規模が大きく、広島城下を基点に、その東部・南部・西部にわたって、新開村三〇か村、面積にして約八〇〇町歩、石高一万石に及んでいる。(略)(14)〔後掲土井〕
明確ではないけれど、上記は①藩直轄の開拓部でしょう。それに対し、下記は②民主管のそれに相当する──と見ると、広島藩下における①②両者の比は1(万石):2です。
一八世紀後半から一九世紀になると、瀬戸内海沿岸地域において農民的商品生産・商品流通の進展や、地域的社会分業の進行が幅広くみられ、それにともなって、この時期の新田開発もふたたび積極的に行われた。その主体は富を蓄積した地主豪農層や商業資本家が、その余剰資本を投下して干拓・新田開発及び新田畑を買い占めて、新たな利澗の追求と地主化を志向することにあった。芸備両国のうち、広島藩では一九世紀初頭からの国益政策の一環として沿岸部の大規模な藩営新田開発が行われており、文政期から明治初年までの五0年間に約二万石の新田畑が高付けされている。福山藩では文化十二年(一八一五)に新開高一八五町(高七五二石)とあり、開発は低調であるが、幕末期にいたってふたたび積極的になる。備中・備前の瀬戸内沿岸地域においては、備中では一九世紀幕末までの新田開発が、約六〇〇町歩と一八世紀をはるかに凌駕しており、備前でも大規模な新田開発があいついでいる。〔後掲土井〕
ここで不思議なのは、中国新聞が記すような小規模な「パッチワーク」型干拓の痕跡は多く見られるのに、前掲太田川史の宝暦≒18C半ば以降江戸期中の干拓地(下再掲中の緑色部)は極めて狭いという点です。
全ての資料を信じるなら、江戸前期に倍する干拓地の多くは、太田川デルタ以外で施工されたものだということになります。
これは、江戸前期の①藩直轄による広島新開での綿作耕地多量獲得の成功は、②後期の小規模な民主管を誘発し、太田川デルタ以外の広い地域で拡大再生産された、ということを推測させます。「主管」と書くのは、施工主体の民の組織に藩、及びさらに多くの豪商による資本が投下されて、②江戸後期の開拓は実施されたと思われるからです。すなわち、前期に蓄積された資本が後期に庶民層の資本主義的な経済活動に投資・循環されるようになったのです。
これは、流通路としての瀬戸内海の活性化の文脈からも説明されることがあります。
十八世紀後半から十九世紀にかけて、その(引用者注:瀬戸内海海運)構造が変化ないし解体の方向へ大きく動きだした。まず、流通の担い手である在郷商人の活躍と廻船に新たな買積船が登場したことである。蝦夷地-日本海-兵庫・大坂を結んで買積経営を展開した北前船をはじめ、尾州知多郡の内海船の瀬戸内への進出、さらに瀬戸内各地の廻船も買積経営に乗り出し、地域市場が一般的に成立したのであった。たとえば、広島藩の沿海部では一八の都市(三〇〇〇人以上)が出現し、従来の流通構造を解体させるとともに価格体系をも変化させたのであった。(28)〔後掲土井〕
保田家の実業部門が分家に移ったと思われるのが、17C半ばの時期です。まさに①→②の移行と時を同じくします。
保田本家6代以降の略歴には、綿や銀の交易機関の長としての役柄を臭わせる記述があります。単に派手な旦那衆として没落したのではなく、小規模事業体への資本の投下の窓口としての機能を有し続けた可能性があります。
うち六代九左衛門が投資したと伝わる事業が、江戸後期の江波焼でした。
Haken5-3-3:江波焼──江戸後期の資本主義潮流
現在、江波焼は「幻の焼き物」と言われています。染付は山水図が多い。ほとんどが裏白皿(裏染付のない皿)で、器型も高台や目跡がやや雑で浅い。手数を省いた余白ある絵柄、稚拙な筆法とダミ(ぼかし染付)が特徴、と芸術的な評価は低いけれど歴史的に珍重されているらしい。
窯跡は中区江波二本松付近の江波皿山(→GM.)東南麓に、文政期(1818-1830年)から幕末までの約40年間あったとされます。窯元は油屋忠右衛門。ただし昭和初期の埋立工事で窯跡は消失。──芸藩執政・今中大学の日記等の古文献に、製陶術の見学や藩主・重臣の皿山見分の記録がある〔後掲広島ぶらり散歩/5cd11b 江波焼〕。考古学的成果としては、1974年に江波地区で「皿山細工人 吉蔵」「天保五年七月五日 又市細工」銘のある湿台(しった:皿の裏削りをする道具)が発見され、江波南の海宝寺の過去帳でもその名が確認されています〔後掲広島の皿山〕。
その性格と振興財源について、後掲広島県は次のように記しています。
つまり──
【出資元】縄屋(保田家)及び長門屋※ ※不詳
【保険?】藩の綿座役所からの出銀補填
【貸付元】広島藩皿山方・谷口伝之助
【保証人】広島町奉行・菅求馬、松野唯次郎
という複雑な「錬金術」をとっているのです。
こうした資本家-労働者の構造化は、先の木綿についても見られます。安芸木綿のうちでも後期の逸品とされた能見木綿について、後掲土井は──
(引用者注:安芸木綿の)代表的な産地である佐伯郡能美島では、文政ごろ冬から春にかけて一〇日間で四〇〇〇反を織るといわれ、文政十年(一八二七)の領外取引分だけで二〇万反に及んでおり(24)、明治十年(一八七九)の産額は七〇〜八〇万反であった。能美木綿の生産形態は、村内の富裕農民が織元となり、所有の「ハタ機」および「ハタ機」を所有する農家に原料を渡して賃織りさせた。織元の上部組織には、広島城下の問屋や仲買商人が存在し、原料や資金を融通する仲買層-織元層-賃織層といった支配系列が形成されていて、いわゆる問屋制家内工業の形態をとっていた(25) 。したがって、先の文政十年の他国売り二〇万反の集荷・販売ルートをみると、いずれも大坂積登せ※※であるが、一六万反を仲買人から広島町の木地屋・米屋、瀬戸島の伊予屋、伊予国岩城島の三原屋の四人がそれぞれ買い取り、四万反は広島町の綿座を経て積み登されている。〔後掲土井〕
(25)「広島県史」近世2(広島県一九八四年)四一ニページ。
※※大阪つみのぼせ:最終市場への運送のことを言った江戸期の言い方。江戸積登せという言い方もある。
【原料】(能見)網元富裕農民
【生産】(能見)ハタ織機を有する農民
【集荷】(能見)網元富裕農民
(城下他港湾)仲買
【販売】(大阪)
なお、二十万反は現在価値で約18〜39億円。これは現・能美町相当の歳出予算額と同規模です。
この状況を敷衍すれば、①江戸前期からの干拓と綿作高度化を基盤として、
a.豪商への資本蓄積、
b.富農層の中産階級化、
c.最下層を含む資本主義的欲望の励起、
さらにこれらをエネルギーとした
d.階層的かつ空間的な人・物・金の流れの形成
といった②江戸後期の一連のダイナミックな経済活性化が、③明治後の躍進を準備した様子が見てとれると思うのです。
さて、保田八十吉さんはまさに③明治期の広島経済の礎を成した政財界のフィクサーです。ただ史料としては、この家の元禄〜文政年間の勘定書が、今に伝わっています。現物の内容を確認できないけれど、「損益や資産」に係る内容とあるので簿記的な側面を匂わせます。
ただ、(亡き?)先代への報告を目的としており、顧客・出資者への説明ではないと思われ、やや儀礼的な行為だったらしい。
なお、八十吉さんは広島銀行の責任者だった1897(明治30)年以降、広島職工学校(現・県立広島工業高校前身)へ銅蟲の技術習得過程を設けさせています〔後掲伊藤〕。具体の関与は図り難いけれど──広島藩独自の金属加工・銅蟲は、廃藩とともに当時失われかけていたという。この金属民芸品は今も特定の事業者により、生き長らえて現在に至っています。
■Haken6(補助線):白島
西国街道から京町橋を渡り広島城方面へ向えば幟町。その北が白島町です(→白島中町:GM.)。ここは牛田から神田橋を渡った西対岸でもあり、ここまでの調べで再々登場した場所でした。
予想以上に古い土地でした。
この地誌に、近世、特に初頭の太田川変流期に若干関係するものがありましたので、付記して検討してみます。
太田川河口の三角州に位置する。地名の由来は、「知新集」に「箱島ハ、白島の古名にして、広島の土地往古海中なりし時も、此あたりのミは神代よりの一山箱の如く方なりける故」とある。(続)〔角川日本地名大辞典/白島村〕
何度も引用してきた「知新集」は前掲のとおり芸藩通志の下調査書で、1819-1822(文政2-5)年成立。広島町奉行管内(≒旧広島市)のほぼ唯一の地誌です。簡素に言えば、これしか信ずべきものがない。
そこに古名「箱島」と、その由来たる「このエリアだけ神代から『一山箱』のように『方』だった」とある。珍しい表現を用いているけれど、言ってるのは「四角形の島」だったというだけのことですけど……阿川弘之※の筆はやや酷い表現で──
白島のもとの地名は箱島、太田川の三角洲の北辺に位置し、閉鎖的な芸州広島藩城下町の中でも特に因循閉鎖的な、それこそ箱で囲つたやうな狭い古くさい地域であつた。〔阿川弘之『亡き母や』 35頁←wiki/白島 (広島市)〕
と記す。
以下の経緯から相当の土木的改変がなされていて、おそらく微高地も探し難い。けれど、道の形からは、微妙に食い違った方形の連鎖が読めます。下記寛永絵図からも、ほぼここと広島城付近にしかない道割とご理解頂けます。この四角い土地が、それこそ神代から太田川の奔流の河口に頑強に立ち塞がってきたことを物語ります。
(続)両郡の境は正観寺南の小路、同寺と宝勝院の間の小路とし、これより北西一本木あたりは安芸郡、南・東側は沼田郡に属す。また一説には城北川を境とするともいう(知新集)。当村のうち沼田郡に属す部分を西白島村、安芸郡に属す部分を東白島村という。〔角川日本地名大辞典/白島村〕
宝勝院(→GM.)は毛利氏より寺地を賜り1599(慶長3)年創建〔知新集〕とされますけど、旧正観寺(碇神社→GM. 向かい側、原爆で消失し府中町茂陰二丁目に再建〔後掲正観寺〕)は715(霊亀元)年行基創建〔知新集も同〕。
注目すべきは、安芸・沼田郡の境とされるこの二寺の位置です。現・白島からすると、中央(例えば白島中町公園→GM.)よりかなり東に偏った位置です。
しかも分割ラインは南北ではなく、北西(安芸郡)-南東(沼田郡)と斜めで、しかも安芸郡(東)-沼田郡(西)の位置関係からも逆転します。
以上の地理は全く解釈できない※けれど、少なくとも古くから争奪されてきた場所とは想像できます。
江戸初期の城下町建設に伴い、当村の南端は早くから城下町に編入され、中通組に属す東白島町・西白島町が成立した。なお当村地内に成立した町は、毛利氏時代の城下絵図(新修広島市史)では「箱島、侍町有之」と見え(略)〔角川日本地名大辞典/白島村〕
旧住民が集住した土地ならば、なぜ「侍町」があったのか、という疑問も湧きます。もしかすると旧くは大内・陶方の白井水軍系海民の拠点があったなどの理由で、毛利の広島入り当時は一時的に人口が激減するような状況があったのかもしれません。
いずれにせよ広島城真北すぐですから、侍町には好条件です。太田川デルタの戦国末当時の五箇荘の感覚からすると、「箱島」の南の影に広島城を立地させた、あるいは箱島を南に増長させた新・四角形筆として広島城を構想した、と考えられなくはない。
下記の記述を言い換えるから、「箱島」の南接水域を堤で封じて広島城北堀にした、とも言えます。──広島城周辺区画のうち、北側だけがやや凹型になっており、かつ大きな筆であるのは、この水域の名残りでしょう。
広島城を構想した小早川隆景は、黒田官兵衛が謀り低防御地を選び、目的通り秀吉を嘲笑を買った〔後掲安芸の夜長の暇語り〕とされますけど、そのもう一つ裏では堤防を人為的に破壊して浮城と為す水越しの仕掛けを持っていました。──実際は水攻めに通じていた秀吉は、その仕掛けは見抜いていたと思いますけど、とにかく隆景はこの発想を既存の「箱島」の防御性から得て、つまり箱島の拡張として広島城を構想したのでしょう。
白島側の堤は、当初、非常時に破壊する前提で築枯れたのです。
当地では洪水の被害から城郭中枢部を守るため、福島氏時代城北川の両端をせき止めて外濠とし、また本川・京橋川対岸より堤防を高くし、非常時には対岸の堤を破壊して城郭を守るいわゆる水越しの方策を採った(新修広島市史)。元和3年の大洪水後、福島正則が人柱の代わりに名剣8本を堤に埋め、決壊防止を祈るため九軒町に八剣大明神を建立したと伝える。〔角川日本地名大辞典/白島村〕
八剣神社(→GM.)は、元、堤下の神剣埋設地にあったと伝わります〔後掲展開内の〔広島縣神社誌←後掲猫の足あと〕〕。美談の体をとってますけど、創建の1617(元和3)年は太田川変流(西遷、1607(慶長12)年)の十年後。破壊を想定した堤防は、自然災害にも脆かったわけです。──水越し策を稼働させた場合には、白島の民地は当然水没させる前提だったのですから。
もしかすると、神剣八本を堤に埋めた、と書かれる行為に象徴されているのは、白島を水没予定地と想定した「偽装堤防」から、恒久居住域に設定した実を伴う堤防に切り換える行政ビジョンの転換及びその施工を行った、ということかもしれません。
■一応の総括:17C初に大反転した太田川デルタ多島海世界
神武東征の神代には遡らなくても牛田荘(8C末)や大麻天神(9C半ば)の時代には始まっている旧・太田川(≒現・京橋川+古川)の北東岸の歴史は、海民のものと思われます。特に牛田荘の耕地の推定所在地が水域をまたぎ五箇荘に散在していた可能性は、その姿を具体に示してます。備後や伊予で争闘が繰り広げられた南北朝期に安芸での記録が希薄なのは個人的に不思議ですけど、毛利氏が瀬戸内に出て厳島合戦に至る時代の白井ほか各水軍勢力の記録は多彩で、これも海民性が高い。
太田川デルタは17Cまで海民の世界でした。隣接沿岸にも陸の拠点が乏しく──西は山口(小郡)、東は三原・尾道までまとまった平地がなく──、かつ中世の中型船を寄港させる深度ある港を欠いたためです。日本国内でこのような土地は、遠浅の中規模以上の河川による堆積を伴う土地にしか成立せず、何れもマイナーな歴史と思われるけれど……知るうちでは珍しいと思います。
これが、当時の五箇荘中「箱島」(白島)南への広島城築城と1607年の大田川変流、そしてこれによって可能になった広島新開の干拓により、太田川デルタに一挙に「陸の時代」が到来します。
現代人の感覚では小規模に捉えられますけど、これは端的に言えば──旧・太田川≒現・京橋川+古川を越える道が出来た、即ち安定的に渡河できるようになった、たったそれだけの変化によるものです。
現・広島駅付近からの接続方向が45度弱ズレただけに思えますけど、根本的に異なる意味を持ちます。
16Cまでの旧太田川東北岸の海民は、デルタ≒五箇荘を後背地としました。17C以降の広島城-猿猴橋を核とする陸人は、変流にチカラを得て成立させた干拓地を後背地としました。つまり半多島海たる五箇荘が、自然と政治の環境の変化、かつ綿というそれに適す作物の存在により、一挙に広い農地とそれを贖う商業地に化し、大人口の住む土地に転じたのです。
これと似た物語を、本サイトでは既に扱っています。時空と規模を大きく隔てますけど、古代中国の山東「蓬莱島」について小松左京が描いたイメージです。
「蓬萊の島ですって?──それはどこの事です?」
「はて──山東の東と西の山地が、昔は中原海の海中にある二島だった、といわなかったかな?──もっとも、蓬萊は、陸人のよび名だ。おいしげる草木の名によって、名づけたらしい。この萊の地が、古の萊島、西の泰山のある島が、蓬島だ……」〔小松左京「東海の島」※小松左京短編集,角川,平28(2016)などに収録〕
BC54C(74百年前)まで遡れる現・山東省域の北辛・大文口文化は中国最古の文化圏と言われていますけど、ここは当時、海中の二島でした。黄河による堆積で二島が陸化して開かれた平地がいわゆる中原で、その時代以降は西の島が中国道教の最高聖地・泰山となります。
一方ではオルドスの海がひ上り、中原海が埋って行く。沖積世初期の海進のあとに海退がはじまり、浅海の沖積土が露出して行く。──奥地が乾燥しはじめ、草原は不毛の沙漠にかわって行く。
陸の時代!竜はそう思った。
「すると……江北の海人たちは、その後”中原の海”からしりぞいていったのですね?」
「そう──中原の海には草がはえ、ついで灌木、喬木がおいしげりはじめた。──”大海変じて桑田“となる、というありさまだったろう。(略)」〔小松左京「東海の島」〕※前引用の前段
模式化してみましょう。
②結果
③社会的結果
山東蓬莱二島
①黄河による堆積
②中原形成
③山東陸人支配
中華文明発祥
太田川デルタ
①太田川による堆積
+堆積過多で変流
②河口デルタの拡大
+京橋川側への
流量急減
③広島城
-西国街道連結
同街区の形成
岩鼻①旧太田川による堆積
②東西砂州形成
③西国街道延伸
毛利輝元の選択した広島城築城(1591年)は、太田川変流(1607年)と相まって、「箱島」ほか五箇荘の浮かぶ多島海水域だった太田川デルタに一挙に陸の時代をもたらします。
この変化にあって戦国期に水軍を成した太田川デルタの海民がどこへ散ったのか定かではありません。ただ、一概に散ったとも決めつけにくい。海民の本質の一つは可変性です。江戸期に爆発的な発展を遂げる干拓地での綿作とその拡大、かつ綿を含む商品の瀬戸内海海運ルートの驚異的な延伸と、無関係とは考え難い。つまり江戸後期のプレ資本主義的な経済動態の、控え目に言って触媒、想像を逞しくすれば先陣を切って活動したでしょう。
ただ前段はあり得ると信じるけれど、想像に過ぎません。実証的な史料には至れてません。
■ミニツアー∶牛田早稲田八幡
本文の歩きから3週間後、二度目のワクチン接種で戸坂へ向かう途中、牛田早稲田へ少し立ち寄ってみました。
目指しましたのは早稲田八幡神社。
牛田早稲田一丁目2。まさに、というアドレスでした。先日車道に出て左折した地点から、右折していればすぐだったらしい。ただし、かなり細くうねった緩い坂道になります。
明らかに、以西の牛田の条里の道割とは異なります。だからと言って、瀬戸内海岸部の古い集落の路地とも違う。湾曲を海岸線とする漁民集落と仮定すれば、水際(湾曲)に並行する路地になるはずですけど、そうでなく湾曲から山側へ隠れながら逃げるようなS字の坂がある。並行して三本も、です。
神社入口の左右石柱に「大正四年」銘。
一段目のは右「天保十一庚子年」左「安政七庚申年」。
右手は段差で住宅の二階層だけど、左手には傾斜に立つ民家が参道に並走してます。やはり道がよめません。
「ハワイ 牛田町人会」の奉寄進石柱。
広島人にハワイ移住者が多かったことは知られてますけど、牛田は中でも際立った地区だったようです。
現・牛田町(住所表示上の牛田◯◯町である地域全て)の人口は29,708人〔2013年7月末現在 住民基本台帳調査←wiki/牛田 (広島市)〕の、0.4%、約二百人に一人。
元は八幡を祀っていたとある。
原爆で半壊。祭神は以下の八幡三神で地元神の名はない。
・足仲彦命(帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)) 第十四代仲哀天皇
・品陀和気命(ほむだわけのみこと) 第十五代応神天皇
・息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと) 仲哀天皇の妃 神功皇后
つまり三韓征伐時の神々です。
ただし、古名を「垚」という。読みは「ぎょう」、漢字の語義としては土地が高い場所にある様を指すそうです。
古文書に「文亀三年工事を起し、爾来数年にして通常平地を一変し、一小丘を作り、永正八年九月十五日、ここに神霊を安置せり。よって今に至るも、『垚八幡宮』又は『垚の宮』と称す」とある。※ 由緒 – 早稲田神社
URL:https://wasedajinja.jp/%e7%94%b1%e7%b7%92/
何とかの古文書(不詳)上は、1503(文亀3)年に「平地を一変し」造った人口の山であるというのです。──地勢上、明らかに自然地形を利用してますし、時代からして古墳でもない。室町中期ですから南北朝の騒乱下でもなく、戦国時代の武将だとしてもなぜかその名が記されない。
可能性があるとしたら、どこの誰とも知れぬ水軍≒海賊が、自然地形を利用した砦を築いてしばらくの間居座った、ということになりますけど……実証の手がかりはない。
摂社に次の二社。
・金刀比羅神社 祭神:大物主神(おおものぬしのかみ)
・稲荷社 祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 大宮女命(おおみやめのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと)
裏手からも階段がありました。その正面に観音らしき土色の巨像。
早稲田八幡は小高い丘です。武人の目には砦に有用と映ったのではないでしょうか?
牛田早稲田広域遺跡群
金刀比羅は見つからない。
代わりに本殿右手で「彌生時代古墳跡」石碑を見つける。──右手にある「郷土資料館」という新しい建物は、この弥生遺跡発見時に造ったものらしい。
通称早稲田山にあるこの墳墓は、昭和32年9月、早稲田神社の再建工事中に発見されました。表土下15cmのところから小貝塚が出土し、その下層から、当時の広島付近では最初の円筒形の墳墓がみつかりました。そこから、座った状態で葬られたと推定される弥生時代中期末(今から約1900年前)の成人男性の人骨が発見されました。
弥生時代は、体を伸ばして葬る方法が一般的と考えられているので、このような例は県内では珍らしく特異なものです。
平成4年11月20日
広島県広島県赦育委員会
広島市教育委員会〔案内板〕
ウェブ上を探すと県教委のページに、やや最新の情報としてこうあります。
太田川河口の三角州をのぞむ早稲田山(標高約50m)の東斜面に位置する。昭和32年(1957)、早稲田神社の再建工事の際に発見された弥生時代中期後半(約2,000年前)の土擴墓(どこうぼ)である。土擴は上縁の直径1.5m、深さ1.5mで、底には20~30cm大の石がすり鉢状におかれていた。土壙の底から70~80cm上部から、頭蓋骨、下顎骨(熟年男性)の一部が検出された。円筒形の土壙のなかに、座位屈葬の形で埋葬したものと推定される珍しい例である。土壙の上面には、ハマグリ・カキなどを中心とする小貝層があり、弥生時代中期後半の土器片や石鏃(せきぞく)が出土した。なお、西側傾斜面には、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の遺物包含層が分布し、押型文土器や石鏃などが多数採集された。〔後掲広島県教育委員会/牛田の弥生文化時代墳墓〕
「最新の情報」というのは、現段階で牛田早稲田遺跡はその周辺、北北西7kmの毘沙門台遺跡までを含む広域遺跡として、研究が進められている遺跡群の一つになっているからです。
なぜこの地域にこれほど、他地と性格を違える遺跡が多いのか、まだ定説は確立されていまいようです。
参拝者に優しい宮でした。本殿面に駐車場、本殿前に車椅子用らしいスロープもある。裏手には廻廊式の庭園。
この神社は、この規模の神社としては異例にもHPを開設していました。地域の社として相当重要な存在らしい。遺跡の規模と年代、この地元密着度から想像して、中世のどこかの時点で某かの勢力がふいと砦を築いた、というような一過性の聖地ではないと見受けられます。
1700。ファイザー(と今回やっと分かった)2回目ワクチン接種。
自転車で太田川沿線を爆走した帰り道、気持ちのよい眩みを覚える。一回目と似てます。気持ちいいけど自転車はやや危険だな、こりゃやっぱり。
1757、水風呂を浴びて涼みつつ体温測定。
37.1°。へえ?あまりキテないなあ。
1943、36.6°──うーん、ダメだこりゃ、全然上がらんなあ。一回目でキテしまうと二回目はもう再来してくれんのだろうか?残念無念。
──と思って、少し体を動かしてるとえらく汗が出る?2057、再測定。37.1°?微熱はキテるなあ……。
えーい!!えらく半端な副作用じゃのお!もっとどばっと来んかいどばっと!