目録
1840都落ち 1945壊滅
坂頂上部、ad.嘉間良一丁目5。
道は左に湾曲、これはおそらくコザボウル(→GM.※)裏坂の下に繋がる。右手にも細い車道。
望みはしかし、これを西へ直登するルートです。この道と上のセンター公園面までは、段差があるのです。
交通量もあります。このルートでしか車両で左右、特にコザボウルからセンター街に抜けれないからでしょう。
1546、右手細道に入ることに。
坂上を左に行ってすぐに「呉冨士慰霊塔」というのがあったことに、後に気付きました。GM.によると碑文には──
呉冨士の沿革
呉冨士は1840年代に士族が都落ちしてできな屋取(ヤードゥイ)であった
以来別天地で開墾から始まり およそ一世紀にわたる祖先の艱難辛苦の心血が注がれた
1908年沖縄県及び島嶼町村制の施行で間切から中頭郡越来村字上地になり 昭和年間の行政区画で字呉冨士として独立した
この間に二十四姓八十二戸が構成され純農村として発展してきたが太平洋戟争で壌滅した
ここに祖先の偉業を偲び悠久に古里(ママ)を記す
呉冨士親交会〔碑文〕
鬼気迫る血文です。
本部半島にも例の多かった没落士族の移住ですけど、1840年代ということは琉球処分前、明治維新までも30年待つ時代。その時期に既に首里士族の流出が始まっていたのでしょうか?
あと──一言「壊滅」したと書かれる事態は、何だったのでしょう?(巻末参照)
とは言え、現実の道行きに戻りましょう。
大栄しろあり変形十字
小憎らしいことに、西側には段差が延々続いてます。内地なら階段がとこかにありそうな地形だけど──この急斜面が墓地になって、おそらくその聖性ゆえに道がないのでしょう。
ということは、先の呉冨士という地名、もしかするとこの段差からセンター公園付近の山塊を「富士」に例えていたのかもしれません。
ダメでした。
1552、やはりここまで回ることになった。東に「大栄しろあり社」の白看板のある変形十字、ここでようやく左手西へ登ります。
上の尾根道に出れました。1556。
車の交通量ははっきりと、この山塊の西側と北側の道に多い。西はセンター街、北はおそらく沖縄自動車道からの抜け道です。
〔日本名〕沖縄市嘉間良1丁目1
〔沖縄名〕?
〔米軍名〕?
道なりに南へ。1600。
センター公園。
本日は怖じけることなく登っていくと──石灰岩上の展望台、もちろん無人です。そのすぐ下まで古墓が迫ってる。ほんと、生気のしない公園です。
地理院地図で見ると、一応、次のような格好で等高線ラインをグルリと回れるようになってますけど──到底そんな道はありません。
センター公園にやっぱり奴が居る
西へ!
こうなったら西へ抜けたい。勘頼りで、こっちだと思う遊歩道を辿ります。
全く気付いてなかったけれど、ここの高台は二つのピークを持ってるらしい。遊歩道の樹木の隙間から、もう一方の頂上らしきものが見えましたけど──どうやって行ったらいいものやら、見当もつきません。
段々と──道が道っぽくなくなってきました。迷ってるのか、遊歩道を歩いてるのか、最早定かではありませんけど、とにかく──
何となく拝所っぽい場所に出ました。と言っても──壇も香炉もないので、そう思いました、というだけですけど……立地と、多分公園設置の経緯を推すに、ここが御嶽なのはぼんやり想像はつくのです。
ちなみにGM.コメント情報にも①元々地域の墓地だった場所、とあります。また②岩地なのでハブの生息している可能性があるとも。
ほどほどのヨモギで山羊
南側に出てしまいました。目算とは違いましたけど、まあ宿には歩いて帰れました。
1618。ちょうど良い時間になりました。デイゴに停めてたバイクに乗りまして──
1640山羊料理 南山
山羊汁(大、脂多め)650
「よもぎも多めで……」と注文しますと、おばちゃん「ごめんなさい、今日、よもぎ少ないので」とお断り。かと思ったら「ほどほどで……」とのご判断を頂きました。
1725。食後、ふと思い立ち──南山のすぐ向こうの脇道から山手に入ってみる。
通学路と書かれた歩道が、上の道に繋がっていました。
ただ九年堂はやはりみつからない。夕暮れのみが見えてました。
コザ・アーケードからフリーダム
コザのアーケード街を、帰路にちょっと一巡り。
最近、コザベーカリー前でバイクやらを停めて、グルりを歩くのが習慣です。ただそれだけの歩きですけど、欠かす気がしません。
シャッター街の中に、ポツポツと新しい店や老舗の灯がある様は、どうにもこうにもコザらしい気がします。
Dec.29 沖縄県感染者29人。
■レポ:慰霊塔のみ建つ呉冨士
呉冨士親交会の上記碑文の年代史を年表に簡素に落とすと──
1908年(町村制施行)中頭郡越来村字上地になる
昭和年間(行政区画整理)字呉冨士として独立
1945年「壌滅」
明治末〜大正の30年ほどは「上地」に含まれ、その前後もそう認知されていたと想定し、次の資料を読みます。
中頭【なかがみ】方越来間切のうち。「高究帳」では高頭122石余うち田31石余・畑91石余。道光24年(1844)に至って,越来間切が疲弊したため,王府から所帯方吟味役が派遣されたが,特に上地村は人口が少なく村とはいえないと報告している。また翌年,上地村などの疲弊を理由に,越来間切に指揮司が派遣された(球陽尚育王10年条・11年条)。咸豊10年(1860)百姓地田畑が請地に出されている(地方経済史料9)。拝所にカナヒヤン嶽・上地之殿があり,越来ノロの祭祀(由来記)。(続)〔角川日本地名大辞典/上地村(近世)〕
越来は尚泰久※の所領だったとされ、王府側にも何らかの意味で要地であり続けたのでしょうか?
越来の衰微を憂って王府から派遣された「所帯方吟味役」の時点が1844(道光24)年と,碑文の初移住年代に重なります。あるいはこの吟味役が、初期開拓士族を同道又は誘導したのかもしれません。
1860(咸豊10)年の請地というのが、正規の入植者募集でしょう。その最たる入植地として、上地があがっており、その入植者集落を呉冨士と呼称したと想像されます。
越来尋常小学校上地分校
次を見ると、入植者集落は呉冨士だけではなかったようで、多分ほかは失敗したか土地を語り継ぐ者が途切れたのでしょう。
(続)明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。廃藩置県後,唐田ノ原・桑江畑・呉冨士などの屋取が形成された。明治28年越来尋常小学校の上地分校が設立され,同35年敷地を拡大し上地尋常小学校となる。戸数・人口は,明治13年157・670(男344・女326),同36年195・865(男446・女419)うち士族90・436。明治36年の民有地総反別189町余うち田2反余・畑127町余・宅地14町余・山林39町余・原野6町余・雑種地1町余(県史20)。同41年越来村の字となる。〔角川日本地名大辞典/上地村(近世)〕
ホールドとして「越来尋常小学校」が出てきます。後掲ツナガルマップ(/美越小学校)によると少し経緯と校名が異なり、1886(明19)年11 月に美里小学校と越来小学校両校が合併、「美越小学校」(現・越来郵便局の裏一帯)が設立され、後に、上地にその分校が出来て、これが1902(明治35)年に上地尋常小学校となったとあります。ただ、むつみが丘公園(沖縄市図書館・郷土博物館の隣)には「
昭和20年(1945)3月末に米軍の爆撃で校舎は灰燼に帰したが門柱だけは残り、米軍基地で利用していたのを昭和25年(1950)安慶田小学校に移設し使用されていた。
この門柱は昭和16年学校創立60周年を記念し建立したものである。」〔「越来国民学校跡地」碑文←後掲日本1000公園〕
なお、上記明治36年の戸数・人口は士族構成比で46.2%・50.4%、男性人口比では実に97.8%。本部半島の入植地の士族の多さと比べても比較にならない高率の「士族公社」状態です。
この農業公社の収益が良好だったかどうかは、窺えません。ただ、副業としてのバーキ(竹籠※)作りは現在、民俗的に再注目されています。
昭和初期の沖縄は冬キャベツの産地であり、その出荷用としてのバーキの需要が急速に増大していきました。沖縄市上地では、それ以前よりバーキを作っていたが、昭和5年に上地副業組合が設立されると、県内で上地アラバーキとして有名になりました。〔後掲沖縄市立郷土博物館〕
多分、昭和5(1930)年の上地副業組合設立は同地での竹籠作りが、業として相当に拡大した後のことでしょう。
なお「冬キャベツの産地」だったため、という事実は未確認です。現時点での沖縄県のキャベツ出荷量のシェアは、低くはないけれど抜群ではない。ただ、柔らかくて甘いという定評はあるようです。
(続)北部の丘陵地には竹林が多く見られ,第2次大戦前には農業の副業として竹製品の生産が盛んに行われた。(続)〔角川日本地名大辞典/上地村(近代)〕
「太平洋戟争で壌滅した」呉冨士
呉冨士が上地の一部、と確認した上で、戦後の推移に関する角川資料の次のパートを読み進めます。
戦後一部が嘉良川となる。昭和20年全域が米軍用地に接収されたが,同27年小字東原・上地原・唐川原・西原の一部地域が返還された。同28年開放された跡地と隣接する諸見里【もろみざと】の一部をもって行政区中の町が成立したが,地籍は未分離のままであった。戦争で消滅した旧上地尋常小学校の北側に,土地の人々が前ヌシーと称した石灰岩の小高い丘があり,希望が丘と称され親しまれていたが,同34年丘の北側に琉米親善センターが建設され,希望が丘一帯も住宅地や商店用地に造成された。琉米センターは市民の諸行事や琉米間の親善行事などに広く利用されたが,同58年撤去されて,市文化センターが新設された。〔角川日本地名大辞典/上地村(近代)〕
諸見里及び琉米センター≒市文化センター(→GM.、ほかツナガルマップ/コザ市琉米親善センターでも確認可)の位置からして、今更ですけど──上地という大字は相当に広かったことが分かります。ザクッと言って南西は文化センター通りから呉冨士慰霊塔(経路→GM.)の範囲。1952(昭和27)年の返還地は、従って現在の胡屋市街のほとんどです。
かつ、この返還された小字:東原・上地原・唐川原・西原に呉冨士はない。ここまでの作業で、呉冨士は全域が未返還、つまり嘉手納基地内にあると推測されました。
その仮説に立って後掲沖縄市教委「沖縄市基地内文化財」p69から、次の史料を見つけることが出来ました。
この集落名の読みを始めて確認できました。「グフジ」でした。音に漢字を当てたと思われ、まず「冨士」とは関係なさそうです。
この地図は、どうやら聞取り調査と文献資料からの推定位置を沖縄戦時の画像に落としていくという気の遠くなるような作業で作られているらしい。だから精度の保証は要求しにくいけれど──呉冨士は、現在の沖縄南IC(→GM.)から北北西に1km行かない辺りに存在した集落でした。
先の「越来国民学校跡地」碑文に「昭和20年(1945)3月末に米軍の爆撃で校舎は灰燼に帰した」〔←後掲日本1000公園〕とありました。沖縄市には十・十空襲の被害は軽微でしたけど上陸前の艦砲射撃があったというから〔後掲総務省〕、「爆撃」とはそのことでしょうか。この時に上地が破壊されたか否かは資料がないけれど「昭和20(1945)年3月下旬から米軍の空襲・艦砲射撃が始まると、住民の避難の動きも本格化し」、主に名護の羽地村へ転居したという。「嘉間良・越来・安慶田・照屋一帯が本格的な民間人収容所『キャンプ・コザ』として整備された」〔後掲総務省〕ともあり、その後は嘉手納基地に整備されたわけなので、呉冨士の人々が戻ってきた時には旧集落は塀の向こうにあり、越来校と同じく損壊したかどうかを確認することすらできなかったのでしょう。
その喪失を、端的に言葉に落としたのが碑文の「壊滅」だったのだと想像します。呉冨士集落は、誰も見ないうちに全く壊され滅びたのです。
今更ですけど、後掲沖縄市「広報おきなわ」の慰霊塔建立記事を最後に掲げます。なお、現113世帯に御霊107柱という数は、一世帯につき一人が失われたという比になります。
犠牲者の冥福を祈る
呉冨士親交会慰霊塔建立
戦後、嘉手納基地に接収された旧越来村にあった呉冨士(ごふじ)集落の出身者でつくる呉冨士親交会(上地康雄会長)が、集落の沖縄戦戦没者の御霊を祭り、冥福を祈るため沖縄市中央に慰霊塔を建立し、三月二十日、除幕式典を行った。呉冨士親交会の会員は、現在百十三世帯で、慰霊の塔には百七柱が祭られている。除幕式では遺族を代表し稲福英男さんが「反戦平和の誓いを新たにし、基地が返還され 呉冨士の集落が戻るまで はこの場所で安らかに眠ってほしい」と追悼の言葉を述べ、その後、参加者一人ひとりが戦没者の冥福を祈り手を合わせた。〔後掲沖縄市〕※傍点引用者
この慰霊塔が何の場所に建っているのかは、語られません。そも、いつまで建ち続ける塔なのでしょうか。
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補論:まだまだ深い越来の底
で、以下はどうにも咀嚼できなかった情報群となります。
まず、言い訳として早めに書いておくと──後掲沖縄市教委は序文中に次のように、対象集落を説明しています。
対象とした集落は字久田・大工廻・八所・倉敷・御殿敷の5集落である。
戦前、現在の嘉手納飛行場内にはたくさんの集落が存在していたが、その多くは屋取集落と呼ばれるもので、本地域における歴史はそう古くはない。そのなかで、宇久田・大工廻の2集落は、『琉球国由来記』(1713年)でその名が確認できる古い集落である(字久田は「河陽村」と記載)。かつては多数の文化財があったと推察されるが、その集落域のほとんどが滑走路として開発された区域に含まれ、現地踏査が困難であるため、闇き取り調査によって文化財情報の把握に努めた。なお、八所は字大工廻に含まれる屋取集落で、当初は大工廻集落のー地域ととらえて調査を行なっていたが、集落の形成過程や生活実態を鑑みて、大工廻集落とは別の集落ととらえるのが妥当であると判断し、本報告書では別の集落として記載している。
倉敷・御殿敷はいわゆる屋取集落であり、集落域は現在は嘉手納弾薬庫となっている.嘉手納弾薬庫は立ち入り制限が厳しく、文献等の資料も乏しいため、聞き取り鯛査によって文化財の把握に努めた。〔後掲沖縄市教委p9〕
学術報告としては、推定力はかなり頼りない。民の資料がとにかく少ない沖縄で、数十年途絶えた集落史を辿ろうという冒険的な試みですからやむを得ません。ただ──その精度で推す限り、嘉手納基地に飲み込まれた集落群は、いずれも屋取=没落武士入植地だったというのです。
なぜこの両者、基地としての収容エリアと屋取が重なるのか、ちょっと想像がつきません。先述の越来「衰微」(→前掲球陽尚育王10年条・11年条)の具体的状況が怪しい以上、屋取地が即、越来の場合に限り単に余った土地とも推測しにくい。それどころか、基地、この場合エアベースに収容されるということは、利用しやすい平坦地、おそらく内地の農民層には利用しやすい一等地だったはずです。
しかも5集落の中に、既に呉冨士はありませんけど──最も近しいと思われる「大工廻」を少し掘ってみます。
大工廻 だくじゃく だくざく
もちろんこんな地名は、角川で検索する限りここしかありません。読みは──何だと思います?
何と「だくじゃく」と読ませます。
方言ではダクザクという。沖縄本島中部,比謝川中流域に位置する。隣接する宇久田とウクダ・ダクザクと併称される。村の創始者は南風原(はえばる)村(のちの越来(ごえく)村)から移住したと伝える。「南島風土記」は大工迫の誤伝と記す。サク(迫)は狭い谷あいのことをいう。〔角川日本地名大辞典/大工廻【だくじゃく】〕
根地(元集落)についての情報は、良く噛むと怖い。南風原という地名も(中部では)始めて聞いたけれど、村の創始者の移出時期と、南風原→越来(ごえく)の改称が同時点だったと仮定すれば──要するに越来に新入居した集団が旧住民集団を追放して、その移転先として用意したのが大工廻だった、と解せます。
新入居集団とは越来と王朝の緊密な関係を考慮するなら、多分、尚王室関係者です。大工廻は、前記のような経緯が想定されるにも関わらず、王都への炭貢納で名を馳せたと伝わります。
大工廻村の勢頭親部という人が初めて炭を焼いて国王に献じ,田地を賞賜されたと伝え,以後大工廻村・宇久田村は木炭200俵・鍛冶炭(軽炭)100俵を貢納するようになったという(由来記・遺老説伝)。炭焼きが始まった年代は未詳だが,大工廻村は宇久田村とともに古くから木炭の産地として知られてきた。道光24年(1844)越来間切が疲弊したため,所帯方吟味役が派遣されたが,特に大工廻村は人口が少なく村とはいえないと報告している。翌年も大工廻村ほかの疲弊を理由に,越来間切に指揮司が派遣された(球陽尚育王10年条・11年条)。咸豊10年(1860)百姓地田畑が請地に出されている(地方経済史料9)。(続)〔角川日本地名大辞典/大工廻(近世)〕
後段の①1844(道光24)年の間切疲弊による所帯方吟味役派遣と②「村ではない」報告は、呉冨士とほぼ被ってます。地名音からも同一地名とは思えないのですけど……。
(続)拝所に,ウラウシノ嶽・中森・コバウノ嶽(二御前)があり,大工廻ノロの崇べ所(由来記)。ほかに,河陽村とともに祭祀を行った大工廻ノロ火の神・前之川・大工廻神アシャギがある。大工廻ノロは河陽村の祭祀も管掌した(同前)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。同31年9月砂糖樽検査所設置(県史16)。同36年の士族人口比は68%と高く(県史20),白川・森根・御殿敷【おどんしき】・嘉良川・倉敷などの屋取が形成された。同37年宇久田村に置かれた越来尋常小学校の分教場は,のち大工廻村に移ったが宇久田分教場と称した。〔角川日本地名大辞典/大工廻村(近世)〕
「大工廻ノロ」が語られる点は、呉冨士と異なります。呉冨士は越来ノロの祭祀権下にありました(→先述。出典はいずれも由来記)。ただ、大工廻ノロは三十三君には数えられていなかったようです。──三十三君には代わりに美里ノロが確認されます(隣集落で密接し過ぎており、これはこれで変ですけど)。
南風原・大里•佐敷•知念•玉城・具志頭・金武•大宜味•国頭•恩納・伊江嶋・伊平屋嶋
真和志の平等──山川真壁殿内(13間切3嶋)
真和志•豊見城•小縁•東風平•兼城•高嶺・喜屋武・摩文仁・真璧•北谷•読谷山・名護・久志・久米嶋•宮古嶋・八重山嶋
楚辺・泉崎・那覇大あむは、この大あむしられの支配下にあった。
西原・浦添•宜野湾・中城・越来・美里・具志川・勝連・与那城・羽地•本部・今帰仁・座間味・渡嘉敷•栗国嶋•渡名喜嶋
泊大あむは,この大あむしられの支配下にあった。
与論島・沖之永良部島•徳之島・奄美大島・喜界島が琉球国王治下にあった際には、これら諸島の大あんしゃりは、この平等に属していたであろう。」〔後掲宮城,注18〕
大正3年分教場の校舎が増築され,宇久田尋常小学校となる。第2次大戦前は農業が主体で,サトウキビの栽培が盛んであった。戦後は全域が米軍用地に接収され,住民は各地に離散した。戦前催されていた綱引き・エイサー・村芝居などの年中行事は行われなくなったが,組踊「伏山敵討」は郷友会によって保存されている。〔角川日本地名大辞典/大工廻(近代)〕
呉冨士にあった上地校に対し、宇久田尋常小学校があった。呉冨士の主産物は特に知られず、副産のバーキばかりが有名だったけれど、大工廻はサトウキビ栽培に成功していたらしい(どちらが裕福だったかは断じにくい)。
なお、組踊「伏山敵討」は村芝居で人気の題目で、寄り足(ゆいあし)と呼ばれる特殊な足使い、按司方と大主らとの大立ち回りなど難易度は高いという〔後掲国立劇場おきなわ〕。
題目の文字から分かる通り、仇討ものです。ただの敵討ちではなく、故地を攻め取られた按司の子息が、占領者を奇襲で討つ物語。米軍用地に接収され離散した大工廻の子孫たちは、この題目を何をイメージして踊るのでしょう。
棚原の城は無法な天願の按司に攻められ、棚原の按司は家来と共に討死、只富盛大主はをなぢゃら若按司と城を脱出したが、天願の追及がきびしいので富盛と若按司母子は別々に隠れて時機を待ったところへ天願の按司が本部山に猪狩りを催すと聞いて富盛は先廻りして山中に隠れ天願を待ち受ける。
若按司もこれを伝え聞いて馳せ参ずる。何事も知らずに猪狩にきて天願の按司は二人に討たれる。〔後掲伊江村〕
武士国美里の黒サージ
後掲沖縄市教委の「Ⅳ集落に伝わる人物」によると、越来や美里には乱暴者の物語が数しれずあるようです。「悪者」としてでなく英雄、又は治安維持者として語られるニュアンスです。これは内地と沖縄に共通しますけど、少なくとも戦後しばらくの期間の任侠の英雄視に似たトーンです。
中でも「美里黒サージ」と呼ばれる集団について、複数の証言が掲載されています。この類の乱暴な義人を「武士」と呼んでいたようです。
美里黒サージの由来
當……茂(明治38年生)美里
昔は娯楽が少ないもんだから、馬ハラシーがある場合には、その付属物の催しとして沖縄相撲があるし、獅子モーラシーみたいのがあるし、特に、この相撲なんかはね、力自慢の連中がおってさ、それが喧嘩になることが多かった。そこで、その頃、美里部落は空手の這人、名人には武士と言よったよ。「あれ、武士やっさー」って。空手の違人ね。そこで、うちの部落のその武士が四五名連れ立ってね、頭には色が黒かったので(ママ)、黒サージーといっていたが、あれは美里字のシンポルでもあったらしい。「美里黒 サージー」といって。で、この人々が四、五名威風堂々と通ったらね、皆、環境が静まって乱暴する人がおらなかった。
で、そういうふうに、昔、ここは、武上国 だったよーというような話を聞いたが、今は逆にそういう面影はなくなっているね。〔後掲沖縄市教委p248〕
どうやら美里、越来は、王朝時代でさえ民間の実効統治機構、現代的に言えば「黒社会」が幅を効かせる地域だったらしい。
明治段階での武士の人口比率の高さは、前述のように公式には地域の衰微による入植に由来するとされるわけですけど、前述の気風と関係する可能性も捨てきれないように思えます。
尚巴志遺骨と平田子とその門中
これは登川の話なので、越来とは地理的にやや遠いんですけど、歴史的にはちょっと驚愕の伝承なので付記しておきます。
平田子と尚巴志の遺骨
平田盛永(明治41年生)登川
平田は尚巴志の子孫だ。尚巴志の何男かしらないけど、平田の子という方がおり、それでその平田を取って、平田が本当だといったらしいです。
昔、あの城この城と攻め滅ほしあっていた。金丸という人に平田は滅ぼされて、その時に第一尚氏は負けた。どこを探してでも、尚巴志の子孫は、平田の子揖は潰してやるという風にあったらしいですよ。それで、尚巴志の家来にあたる平田子は、尚巴志の遺骨を負ぶって読谷の方に逃げて、伊良皆に持ってきて葬った。
読谷の伊良皆に尚巴志のお墓もあるし.平田子のお墓もあるんですよ。尚巴志の次男、三男か知らなんけど(ママ)、平田は味方であったらしいですね。それで今でも清明祭があるでLょう。こっちの平田門中は全部行くんですよ。尚巴志の墓と平田子の墓に。〔後掲沖縄市立郷土博物館p222〕
平田子の墓というのがどこにあるのか確認できませんでしたけど、尚巴志墓と伝わる場所は確かに読谷村にあります(→GM.)。伝承の性格上、多分、平田子の墓もこの近辺(アガタヌカー→GM.)に存在するのでしょう。
伝承通りならば──「平田門中」は毎年、ここへ全員が揃い、六百年前の琉球王朝創始者を鎮魂するのです。それが何を意味するのか、とは問うべきではないのでしょう。鎮魂自体が問中の存在理由になっている、ということになります。
沖縄は怖い土地です。
嘉間良 星窪伝説
後掲沖縄市立郷土博物館は、「星窪」という地名とその由来を数人から聞き取って記録しています。
②
星窪 の名の由来
仲……樽(明治43年生)嘉間良
(略)廃藩置県当時、通訳等を手伝ったという話なんかしてましたから八……貞さんが。その人から詳しく聞きましたね。
星窪 という名前は、星が落ちてきて窪めたから星窪とその地名をつけたらしいといってその人が言いよったが、その人から私、話聞いてね。窪んだ分が三百何十坪だからね、あの星窪は。今もう、縁なんかも壊れてしまってから原形は残ってないがね。それで、これに似たものが並んで二つありました。一つはもう全部なくなって、一つは今も残っております。原形が。そいで、その辺の地名が星窪という名前になったということは話しておりました(略)
(星が落ちた土地)三百坪くらいの時は立派にこんなに窪んでおるもんだから、みんな珍しくて見るもんだから、「どうしてこんなかなあ」と言ったら、星が落ちてきて窪めたという伝説があるということを教えられておりますが。二つあったが、一つは原形がなくなっております。〔後掲沖縄市立郷土博物館p53〕
話通りだとすれば隕石ですけど、二つあったとすれば、そんなジオン公国のコロニー落しのようなことは考えにくいでしょう。内地なら噴火を疑うべきでしょうけど、それも考えにくいし──そもそもどこのことかが分からないから、データを集めようもありません。
ではなぜここに挙げたかというと、この地名は沖縄語でも星(ほし)と「窪(くぼ)む」に分かれる地名で、音が先にあったとは考えにくい。ならば、この二つの漢字音が逆転して、伝承が忘れられた後に音だけが定着した可能性もあり得るのではないでしょうか?
「窪星」→くぼほし→ぐふじ→呉冨士
という変化の可能性のことですけど……まあ、思い付きでした。
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