サンサン通り登川カギ店対面
二時半。程よく半端な時間になりました。
コザには、歩きのツーリストとして重いトラウマがあります。絶対に、かつ、てきめんに迷うのです。
今回は、その精神的克服を目指して、地図を見ながらあえて最も迷った北側へ歩いてみます。本人、割と緊張してます。
1434。まずデイゴホテルから、まっすぐ北東に歩いてみる。
コザボーリング北側裏の坂道から降りられます。ただ、さらに北では道がどれも途絶えている。サンサン通り側からも空き地が隔てて、通れません。通りが既にかなり低くて高低差があるのです。
なるほど。サンサン通りは、谷をそのまま下る道なんでした。これが北から上がって来にくい理由みたい。
降りる。1445。
降りた十字を右折すれば、サンサン通りの登川カギ店の対面。だからちゃんとここから入れば登ってこれるんですけど──ここをバイクで見落とさない自信は……ちょっとありません。
住吉路地道側溝
そのまま進むと階段になりました。
かなりの高度差。しかも……左に折れてまっせ?迷子になるのには持って来いなルート選択でっせ?
でも──今日は降りねばならぬホトトギス。
え?これは……道なのか?
途切れてるような風情だけれど、家と家の間の空間は一応ある。
道……ではあるらしい。
細い側溝が道中央を伸びてます。電柱もこれに沿ってる。一応計画的に作られた道です。
折れに折れて行き止まりになりそうになりながら、なお折れてad.住吉二丁目13。路地に出て来れました。
でも左手は行き止まり。右へ進むとT字路。1459。
左手の道は石垣の下にT字でぶつかる。石垣上に遊具が見えます。あれはおそらく……コザ聖母幼稚園。
石垣前には車道がある。GM.ではこれも袋小路になってるけど……見た感じでは出れるらしい。
T字の右側は上り坂。こちらを進んでみる。1502。
ad.住吉二丁目12。左手に道があった。一見私有地の駐車場にしか見えないけれど……左折。
いや?これはホントに駐車場でいきどまりでした。犬がやたら吠え始めた。このシチュエーション前にもあったよな……。
バス停・嘉間良 住吉変則交差点
石垣下T字の右手下りから、一度サンサン通り側※へ出かけた手前で──左手に細い路地を見つける。
この路地から……北へ抜けれるか?
いや、でももうここしか考えられない。思わずサンサン通りへ出てしまいたくなるけれど……入る!1511。
細かく分岐してるみたい。荒い方向だけで勘を頼りに進むしかない。
基本はやっぱり迷子ではあるけれど、サンサン通り西、住吉八丁目ブロックのはずです。
見張番白猫 陽光に溶ける
住吉のこの路地は、好かった。人の気配からあまり写真を撮ってないけれど、細かい斜面を生かして生活を建てていこうという気配がありました。
T字路に出れたよ……。1513。
猫。日だまりに蕩けたような三毛が、まさにネコ撫で声で語っております。
もうこの北は越来城水辺公園付近のはずです。
そろそろ右手、西南側へ進んでみようか。
左手に車両の影。え?左手路地を20m進むと──
聖母幼稚園十字尖塔
1521、くるみ食堂。
右はすぐ住吉交差点の食い違い十字路でした。戻ってきてしまっていたらしい……。この道は、どうしてもサンサン通りへワシを吐き出したいらしい。
然れども!ここは左手西へ進む。
住吉交差点から本道は右へ湾曲するけれど、これを左手脇道に入る。方向は北西。
道は少し下りながらうねうね続きます。──ということは、微地形としてはサンサン通りの谷に隣接する越来水系の谷側に降りていく形です。
不安だけど聖母幼稚園の、十字を突き上げ尖塔が目印になってくれます。
住吉二丁目18交差点
ここだ。1522、住吉二丁目18の交差点(→GM.)。
センター公園から何度か見下ろした谷下の十字だと……形状からか、なぜか確信できました。
左手西側は一気に上り坂。手前北西角に鶯色と赤の3階建てアパート。右手東への道は東南へ少し捻って伸びる。正面北側は緩い上り坂。
迷うけど……左手に見える坂の新しそうな気配が気になる。これは、センター街へ抜けれるルートを発見できるのではないか?
この坂(→GM.)は、地図上、なぜかセンター公園〜デイゴホテル北側街区と連結されてません。地形の障害はないはずなのに。センター公園からの帰路でいつも迷っていたのは、一見通れそうなこの区画が通過できないからでした。
登っていきます。
■レポ:沖縄住吉の生まれた時空
このエリアについては、基本、手も足も出ません。ただ内地では多い地名ですけど、沖縄では那覇と沖縄市の二箇所しかありません。
昭和57年~現在の沖縄市の町名。1~2丁目がある。もとは沖縄市安慶田(あげだ)・仲宗根・嘉間良・越来(ごえく)の各一部。現在,行政区住吉と安慶田の一部を構成。〔角川日本地名大辞典/住吉【すみよし】〕
解するに、
仲……子さん(明治30年生)住吉
昔はこっちは室川屋取 いいました。嘉間良から住吉区になっている。上の方に室川があり、そこに水を汲みにいった。水はターグ(樋)に入れ棒に通して肩に担いで運んだ。その川の下の方には小さいカーがあり、ウブガーといっていた〔後掲沖縄市立郷土博物館,p29-〕
「ウブガー」(産井)と言うからには、室川の中心地は現・住吉のどこか「下の方」にあったと思われます。ただ、河川としての室川がどこを流れていたかはよく分かりません。
もう一つ、この後にも出る「
呉……ミーさん(明治40年生)住吉
私は安慶田の人ですけど、戦争がきてから室川になった。室川の人口が多くなったのと国道330号線という大きな道路ができて集落が分断され、危ないということで室川から分戸して住吉を造った。〔後掲沖縄市立郷土博物館,p29-〕
室川から住吉が分立したのは、国道330号=サンサン通りが集落を縦断したから、という証言が前後ともに語られます。「危ないから」というのは、それほど人口が急増した地区だったということでしょう。川沿いだから、内地の感覚なら集住する地域ですけど、沖縄だから、あるいは那覇の銘苅のような霊地で家屋のないエリアだったのかもしれません。
当……治さん(大正5年生)住吉
この一帯は安慶川ぬ前屋取 です。道向こうは室川ですが、住吉は室川の五班だったんですよ。国道三三〇号線が出来て向こうに行き来するのも危ないからということと、戦後人口が増えたので、室川から分戸して、初代の具志竪という自治会長と、当銘と言う老人会長が、「住み良い町にしよう」ということで、みんなに提案して「住吉」という地名をつけたんですよ。〔後掲沖縄市立郷土博物館,p29-〕
その増えた人口は、下記によると「寄留民」。これは、前記「屋取」を形成した江戸期末の首里那覇から没落士族のことか、沖縄戦での避難民が戦後の基地門前町に居着いたものかは判断しにくいけれど……時代的には後者の可能性が高いのではないでしょうか。
金……徳(大正9年生)住吉
こっちの方は地元民はわずかで、寄留民が九十五バーセン卜ぐらい。旧部落の人もわずか四、五軒しかない。〔後掲沖縄市立郷土博物館,p29-〕
先に「住吉は室川の五区」との証言がありましたけど、次では室川と住吉で二区だった時代があると語られます。その間には収容所だった時期があるらしい。先の寄留民流入と合わせて考えると──要するに、この時期に人口も地域割も完全にシャッフルされたところに米軍がR330を造り、今の住吉が生まれたということのようです。
久……教(明治45年生)
戦前は室川は仲宗根であった。戦後、仲宗根の小字名を取って室川となった。戦後は収容所になり、そして、今の嘉間良の方が一区、室川と住吉の一部が二区で、こちらから前の方が三区となっていた。それが、行政区の変更で、国道を境にして、あちらが住吉、一区の所は嘉間良になっている。室川の二区が住吉に分かれる。室川が三区に統合する。二区、三区で室川部落になったわけです。そして戦後は「室川」と。区制であったが廃止となり今は字名を使用している。〔後掲沖縄市立郷土博物館,p29-〕
I am currently perfecting my thesis on gate.oi, and I found your article, thank you very much, your article gave me a lot of different ideas. But I have some questions, can you help me answer them?