目録
真喜屋上ヌ御嶽への道が冥い
〔日本名〕名護市真喜屋
〔沖縄名〕上ヌ御嶽
〔米軍名〕-

さて。真喜屋古島と伝わるこのガー(井戸)ラインの右手坂上、名護市消防団羽地分団対面に上之御嶽があります。
鳥居を潜って登りましょう。


こりゃあ……ほとんど御嶽です。階段があるから登る気になりましたけど……本殿も見えました。


1019、階段から左手斜め、海側を向く社。
コンクリートながら形状は荘厳。
落とし物三月預かる祝女かな

香炉二つ。
ウチカビ痕は見当たらないけれどこれは掃除してあるからか。賽銭十ほど。從って後方の聖地はありません。
撤退、階段を下りる。

カミガーまで戻る。その対面にかなり新しい一戸建て。これが「のろ殿内」でした。昭56落成とあります。
つまり、現役のノロの棲家です。──昔の意味での住居ではなく、「公的控室」といった意味合いでしょうか?
神棚には石5柱、香炉3。隣に箒が立ててあります。

私物保管中!三ヶ月で処分するとのお知らせ。
祝女の方も庶務が大変です。

一つ目の井戸の、もう一つ高みから帰路につきましょう。1036。
石敢當のない三叉路 菊枕
GM.(経路)

下ってすぐ右折。三叉路。先のと機能が違うのか、ここには石敢當はありません。直進。
次の三叉路を左折、階段を降りる。

出た三叉路。ここは……右折かなあ。

アスファルトだけど周囲は完全に野道。
川を渡る。1048。


稲嶺集落に入りました。1051。
最初の十字路は直進。
名護市稲美集落センター。時計回りに回るけど特段のものは見つけられません。
1058左折、西へ。
濃い海に顔覗かせて古宇利島

1112、真喜屋小学校入口で待つは……北行き、即ち第一津波!──ついに前田食堂本店を狙います。
対面の家の窓からずっーと下を見ているおじい。
で?彼がようやく窓を閉めた頃──になっても来ないよう、バス!


11027、来た!──前田食堂開店は11時、ギリか??
海が凄い色してる。古宇利島が海から顔を出してます。
10分で第一津波(つなみ、ではなく、「つは」と読む)。下車。──ここのバス停の時刻表は恐ろしいことに……読めない!
FASE86-2@田港根神屋/■レポ/田港は大宜味のくにの都なる

終戦前の様子が分かる貴重な一枚 津波 1945(S20)年4月3日〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 14枚目p243〕

前田食堂本店牛肉おかず
1042、前田食堂本店。流石に並んどる……でも自販機ではあの、夢の……牛肉おかずが買えました!
待ち客数も5組ほどだからきっと……。
待ち客の半分は有名所を訪ねてきたナイチャーだけど、半分はウチナンチュ。相席有りだから大層、その、疫情的には危険ですけど……。
──と思いつきNHK都道府県マップを見てみる。沖縄380人,広島2454人,東京9457人,全国計89,887人。本日も盛大ですなあ。

通った……。注文。
1210 前田食堂本店
牛肉おかず650
皿来たる。むおんッ、とニンニク!

■レポ:津波とその古島と伊平屋の海
地名の由来はそのままで、当地がよく津波に襲われたことによるという〔原典∶大宜味村誌←角川日本地名大辞典/津波〕。
平南∶古来屡々海嘯に襲はる
というか、現・津波には元の集落からの移住で、そこは津波で滅びたのだそうです。
羽地村源河より平南を経て津波に至る海岸一帯は甚だ潮水の急速なる所にして古来屡々海嘯に襲はる。平南は即ち古への平南村の故址なれども民屋悉く海中に掻浚はれ遂に其故地のみ津波に併合せられたるなり。又津波も数度侵触せられ,現在の海浜は旧時部落の中程に当りし所なりといふ〔国頭郡志 ※角川日本地名大辞典/平南川 より〕
平南川の西方丘陵地には石グスクがあり,そこの小さな洞穴は,かつて平南村の拝所だったという。平南村はもと津波村の南に位置し,年代は未詳だが,津波の被害を受け村民は津波村に移り住んだという。〔角川日本地名大辞典/津波村(近世)〕
※ 平南川∶GM.
津波グスク∶GM.
津波グスクの北東麓には遙拝所があります。角川の石グスクが「平南川の


そうするとこの津波古島は、平南川河口東端(又は西端)の、海中に突出した岬地に存在したと想像されます。下記に色別標高図としてイメージを作ってみました。

典型的な海城です。
津波に襲われるというのは船を接舷できないということで、南の尾根を越えて寄せない限り、簡単に攻め落とせない城。海賊の拠点として誠に適地です。
平南だった頃の津波史
この平南村の存立環境を前提として、津波に関する角川の記述を読んでみます。
乾隆18年(1753)から,山筆者が材木を積んだ船の荷改めを行うようになった(地方経済史料9)。海岸では製塩業が行われ,道光6年(1826)百姓模合塩浜の貢租は,銭3貫532文・納塩5升8合8夕6才であった(同前10)。御嶽にテクフ嶽・津波城嶽・石城嶽があり,大宜味間切他村の御嶽と同じく毎年四度・四品・百人御物参の祈願に,公庫から御花米が出された(由来記)。明治14年の「上杉巡回日誌」には,「村中二箇ノ大空屋アリ,アサゲト云,ノロクモイ,祭典ヲナス所ト云フ」とある。〔角川日本地名大辞典/津波村(近世)〕
なぜか、この津波の地に首里王権の出先機関「山筆者」が駐留し、船改めをしていた。つまり通航規制を行っていたというのです。また、塩の貢納も行われた。
環境的には中央に簡単に従いそうにない荒ぶる周辺地域が、なぜここまで従順なのでしょう?
どうもワシには──津波が海を挟んで向き合う伊平屋島、この間の「

その場合、尚巴志一族は、佐敷の「支社」又は「飛地」から北山王国端の内海へ「凱旋」したことになります。──この絵は、九州から隼人の支援で奈良を征した後に「九州王朝」に再合流したヤマト朝廷に似ています。
津波の地場勢力は、第一尚氏と再合流した後、御花米授受や塩貢納などを首里王権との距離の近さを証するものとしてアピールしていたのではないでしょうか?
なお、ここでの御嶽の列挙にも「石城嶽」が挙げられており、前掲と同じく平南川西丘陵地のことだと想像されます。

〉〉〉〉〉参考資料
PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/08_syasinsyuu-2.pdf
(ぐすく)グスクへの道標/津波グスク
URL:https://gusukumitisirube.jp/about/tuhagusuku/02.html
(なかま)仲間勇栄 2017「『林政八書』中の『山奉行所規摸帳仕次』 : その和訳・英訳と内容分析」『紀要論文 琉球大学農学部学術報告 63号』
※琉球大学学術リポジトリ URL:https://u-ryukyu.repo.nii.ac.jp/records/2008641


Your article gave me a lot of inspiration, I hope you can explain your point of view in more detail, because I have some doubts, thank you.
Thanks for the feedback! That’s an interesting point. I suppose there are many reasons, internal and external, why we do not accomplish all that we might. Regardless, I am thankful for the Lord’s grace in that. Thanks again!