目録
神の日もいい加減にして大宜味

大宜味塩屋海岸から大宜味集落の路地へ、概ね東行。1149。

え?(記憶と異なり)天空が物凄い蒼です。
神の日もいい加減にしてほしい、という荒天。これもまた沖縄です。

……って、ハイビスカスにはロバツスなどごく少数の種を除き、蔓はないはずです。多分蔦の植物の下から他の花が顔を出した……のかな?
塩屋湾 脈絡すら無くバラバラ

直ぐに湾に出てしまった。
舟影がゼロです。
──別日に来て塩屋大橋を歩いて渡った時にも、やはり見なかったから……漁で出払ったのではなく、本当にいない。素人には良い港に見えるのに……なぜ?


廃校跡※らしい。頭上のラッパから正午のオルゴール。目的地・森川子の宮。

鳥居前の広場が、モーアシビなどのためのパティオでしょう。
鳥居の左手にガジュマル。

中途、左に柵のある祠。奥に庇の片方欠けた祠。
祠内には石一つ。
後方は学校,イビはない。おそらく(校地が出来る前の)海がイビです。──と当時決めつけてますけど、細かく言えば湾の内側出口を向いており、境界神の色彩もあります。

奥祠には石が沢山。ただし形もバラバラ。
──巻末で触れますけど、まさにこの塩屋湾の文化状況を表すような、脈絡のないバラバラぶりです。
チョウの採取は禁止 ヤフュタンナかな

こども会館前右手隣の空地にも小さな祠。1209。
供物なし。ただ燃えカスあり。
不思議な感触を受けたのを、記憶しています。天も少し微笑んでるし、塩屋湾を回ってみる気になりました。共同店から右手湾奥側へ。1213。

大川共同店。天に急かされ先を急いだのか、この時はスルッと通り過ぎてますけど……勿体なかったなあ。
いかにも味のある、好い外観の共同店です。

屋古、1215。
蝉時雨のみ響く。
「チョウの採取禁止」看板。
──この集落もこれだけでスルーしてます。勿体ないお化け続出です。巻末参照。

田港(たみなと)、1219。
ここには仮目標の拝所を見つけてきてました。入ってみます。
集落と湾を見下ろすだけのカミ

〔日本名〕国頭郡大宜味村田港
〔沖縄名〕たみなとにがみや
〔米軍名〕- ※
最奥、田港根神屋(→GM.)。
本屋の前に、まず東屋を目指す気になりました。だけと……右脇から奥に道。奥へ進んだけれど本当に果樹園(シークァーサー?)だけしかない。

東屋──に見えます。拝みや供物、壇はない。
ただ、後から写真を見ると……神アサギっぽい場所にも見えます。ここで祭事をしてるのかどうか、確定できないけれど……。

只。周囲の低い石積みは、田港集落にとって、この場所が古くからの何かであったことを……疑わせます。
塩屋湾の時空は、なべてこのような手触りでした。限りなく淡いけれど、確かに在る、とでも言うのでしょうか。

根神屋について言えば、ピュアな意味で、湾と集落を見下ろしている。ただそれだけの神サマなのです。
これが本物、だと感じられる態様です。
あいさつをします ただそれだけの邑


湾岸道路へ戻る途中、ウフエ屋と記す拝所ひとつ。
「ウフ」は「親」「大」の蓋然性が高いですから、根屋(村の創始に関わる拝所)かもしれませんけど──これまたスッキリしてます。

横と上に設置されてるビニールハウスの骨みたいなのは、日除けをして宴会をするためでしょうか。

湾最奥 クレーン二機の唸る大保

塩屋湾最奥には二機のクレーン。「大保」という地名はまさに香港です。1244。
──何のことか普通は分からんけど、香港大埔(→GM.)のことです。ただし、漢字「埔」は「広い平地」という以上の含意のない、ややアバウトな字義です。
地形が違うのか南湾岸は山道ばかり。おそらく最近まで、大きな道は北湾岸だけだったのでしょう。またこの南岸道が、本島東岸・東村との連絡路入口にもなってるらしい。1253。

津波T字路でようやくR58に戻る。1255。左折西行。
1308、源河。ここも気になるけれど……雨が迫ってる気配。

稲嶺三叉路を左に入る。1315。
北の天は晴れてるけど……南は真っ黒。その境目が頭の上にある。要するに、今にも降り出しそうです。──まさに沖縄らしいカタブイ(不安定性降水)です。


オリエンタルで骨喰ろうて片降り
田井等の交差点辺りの道幅は、ほぼ百メーター道路状態。……ここが収容所敷地跡だと推測する。
名護に入ると、路側が水で溢れてる。どうやら局所的な集中豪雨が、名護にはついさっき降って、今はほぼ上がった──という不可思議な状態らしい。とにかく雨にはかからずにすんだけど……35km亀さん運転のまま進んでると、チラリと雨。いや、結構降ってきた!おおおっ!!
名護東江にたどり着きまして──あ!開いてた!!

ビギナーズラックというのはまさにコレ、という訪問でした。骨を選んだのも店内に入ってからです。
1344 オリエンタル食堂
ほね汁550
後から調べると──
逆に言えば……山原のこの店がなぜ中部由来のこの料理を供するようになったのか、どうも想像がつきません。でもメニューの並びでもスミにあるから、店側も、おそらく隠れた名物として売出してる感じです。

そこから3時間ほど──記録を残してません。
確か、もう一度雨に降られて、かなりヒドい目にあったまま、連泊なので昼寝と洒落込みましたら、実は結構疲れてて寝過ごしてしまった……と記憶してます。沖縄は、ルートとスタンスによって、何かよく分からない疲れがドッと出ることがあります。ワシだけか?

上下の二枚は、宇茂佐の近辺から見た黄昏時の雲。「神の日」の夕方らしい空の貌です。

屋部川を闇の向こうに感じつつ
宇茂佐の森三丁目(→GM.)の「まるふく」へ行ってみたけれど,コロナ対策かGM.上の閉店時間より早く既に閉まってました。そば屋も同じと思われる。どうしよう──と帰りかけてたら。
二回目位の名護で通りがかりの弁当屋で買った弁当に無茶苦茶に感動した記憶があります。それ以来、沖縄でしばらく弁当にハマっていたほどですけど──買ってみるか? ※多分、ふぁみりー弁当 名護店……だったろうと思う。

最後に一つだけ残ってたヤツをゲット。ついでに隣にあった唐揚げ屋にも寄ってみる。
この唐揚げも結構有名らしく、他の客は全て予約して受け取りに来てました。

福福まん家名護本店
「元祖長崎 発祥の店 県民 あご出汁から揚げ」
「アゴだしと椿油でサクサク,つやつや」なんだそうだけど──
宿での実食結果。唐揚げは中津とかとは全然別物の爽やかな揚げ心地。変な言い方だけど、上品な天ぷら屋の鳥天みたいな歯応え。折角そうしてあるのに……これに、ニンニクむんむんの(宿でエレベーターの中に臭いが残ったほど)ソースがどっぷり。確かになかなか例はない。面白い創造をするものです。

弁当は──なぜでしょう?記憶以上に旨かった。特に(写真手前の)ヒジキのイリチャーみたいなのがトンデモなかった。ハンバーグとか洋食系は和食のフワフワさはない。何か味覚のコントロールが名護は微妙にズレてるのでしょうか。
最後の屋部川を闇の向こうに感じつつ帰着。川音を聞きながら(階が高いし窓があるから,もちろんそんな気だけしながら)過ごした名護の最終夜でした。

■レポ:塩屋の湾は平明なる迷宮
本文では、この素人目に見た「良港」・塩屋湾に船陰がない点に首を捻りました。でもこの湾は、それどころじゃなく、とにかく分からない。見た目、あっけらかんと平明な風光なだけに、その謎の深さがより際立ちます。
沖縄本島北部,国頭(くにがみ)山地の西側で,塩屋湾北岸に位置する。地元ではサーといい,「ペリー訪問記」の地図でも,塩屋湾をシャーベイ(Shah Bay)と記している。地名は,この地にかつて塩田があったことによるという。旧盆明けの初亥の日に,豊年を祈願するウンジャミの行事が行われる。〔角川日本地名大辞典/塩屋〕
シャーと言ってもアズナブルてはないけれど、音からすると類似する「塩」(シオ)から来てるかどうかは、とうも不確かです※。沖縄語では塩はマースだし、「塩田」を何と言うのかは未確認。でもとにかく、下記の宮城島(湾口)及び大保(湾奥)何れにも入浜式塩田があったことは、画像から推定されます。つまり「塩屋」は古音「サー」に似た漢字表記が求められた時代に、たまたまそこに塩田が多かったから「塩」に因んだ用字を選んだ、というところでしょう。


下記角川/塩屋湾からすると、元の音は「サー」に近かったかもしれません。──雑感ですけど……ペリーらアメリカ人が「シャー」と書いてるように、日本語の「サ」発音は実は結構稀です。2014年頃、サッカー日本代表のW杯メンバー発表でザッケローニ監督が大迫選手を「オザコ」と言ったのが話題になったけれど、「SA」の発音ができず悩んでる日本人もいる位です。現代中国語には「三」のようにsa音はなくはないけれど、塩は「盐」yánなり「鹾」cuo2なりであって、「sa」ではない。中国語の「sa」音は少ないからそちらから当たると、「薩」sa4字が該当します。この字は、サンスクリットの表音文字として「菩薩」で用いられるほかは、特定の人名、あとは地名としてまさに「薩摩」を意味するのみです。
従って、長くなりましたけど──塩屋の古読音らしき「サー」地名は、やや特異です。仮説は浮かびませんけど──韓国語には「四」や「寺」などSA音は割と多いとは思います。
塩屋港 入船出船絶え間無く
方言ではサーインナトゥという。サーは塩屋,インナトゥは港の意。「ペリー訪問記」ではシャーベイ(Shah Bay)と見える。東シナ海に面し,湾口をふさぐように宮城(みやぎ)島が浮かぶ。最奥部に大保川(大保大川)が流入している。湾岸の地質は,湾口が中生代砂岩,奥の方は古生代石灰岩と一部沖積土質からなっている。組踊「花売の縁」に「まこと名にあふ塩屋港,入船出船絶え間無く,浦々諸船の舟子共,苫を敷き寝に梶まくら」とある。王府時代の塩屋村には17世紀末頃から大宜味間切の番所も置かれ,首里王府への貢物や薪炭を運ぶ山原(やんばる)船や諸方の船が出入りしたようである。「花売の縁」の主人公,森川之子は塩屋で塩を焼いていたといわれ,同劇の最初でも「宵も暁も馴れし俤の立たぬ日や無いさめ塩屋の煙」と謡われており,塩焼きの跡には今日小祠が立てられている。(続)〔角川日本地名大辞典/塩屋湾〕
してみると今は船陰絶えたサーの湾に「入船出船」が「絶え間無」く行き交っていた情景が、「花売の縁」を信じるなら首里王権時代にはあったわけです。また「浦々諸船の舟子共,苫を敷き寝に梶まくら」という描写は、交易船「入船出船」の他に舟子、多分交易船への揚げ荷、降ろし荷に従事した港を拠点とする海民衆の、水上生活のデッサンのように思えます。
なお、「塩焼きの跡」の小祠というのがどこの事かは不詳。


(続)咸豊3年(1853)にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い,塩屋湾には石炭層があると報告している。「水路誌」には「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入るゝ能はず。湾口付近は距離半浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記す。現在も大型船は入れない。湾岸には塩屋のほかに屋古・田港などの集落があり,塩屋には間切番所,のちに役所もあったが,一帯は交通不便なところであった。昭和37年に宮城島の南側に現在の宮城橋が完成,また昭和35年塩屋大橋の架設工事が始められ,同38年に開通。同橋は橋長308m,橋幅8m,構造型式はゲルバーダンガー鈑桁橋で,工費約60万ドル。昭和50年に本部(もとぶ)大橋が完成するまでは沖縄第一の大橋であった。塩屋大橋の完成により,湾岸約7kmを迂回しなくても,津波(つは)から塩屋へ行くことができるようになった。橋から眺める湾岸の風光は,ウンジャミのハーリーとともに知られ,沖縄新観光名所の1つとなっている。〔角川日本地名大辞典/塩屋湾〕
※水路誌については後述(→ss)

つまり、現在の整備状況からは想像できないほど、大宜味は名護・本部方面から隔絶されていた上に、塩屋湾が交通の妨げになっていたらしいのです。下記の記録からは、南から自動車が入って来れるようになったのは昭和も二桁になってからのようです。
国頭街道は、1920(大正9)年、指定県道となり、その後道幅を広げていきました。
国頭街道開設後に 伊差川 いさがわ ― 源河 間、 塩屋 ― 辺土名 間が、それぞれ郡道として工事が進められ1921(大正10)年には辺土名まで郡道が開通しました。 しかし、全線車が通れるようになったわけではありませんでした。のりあい自動車が辺土名まで通るようになったのは 1937年(昭和12)、バスが運行を始めたのは1933(昭和8)年からでした。〔後掲北部国道事務所〕
塩屋大橋以前には渡しもあった(下記参照)。ルートははっきりしませんけど、宮城島で中継ぎはしなかったとすると直線500m程度でしょうから、結構半端に長い距離です。──地図を見ていると、沖縄本島は明らかに塩屋湾-(東村)福上湖のラインで分断されてます。大宜味塩屋は特に近代以前、一種の海峡の町、あるいは山原最南端だったと捉えることができるのです。
そう想像するなら、塩屋側の渡船の船着きこそ、この時訪れた森川子の宮の神域だったような気もします。根拠はないけど何となく。

1963(昭和38)年、米軍が当時沖縄最大の橋を架けたのは、山原の統治上必須と見たからでしょう。──陸の最強国家には、狭い島内に自動車で直行できないなどナンセンスだったのでしょう。

塩屋湾ウンジャミに静寂が来る
しつこく交通の不便を言いつのったのは、この土地の民俗の意外なほどの独自性が、それを前提にするとすんなり消化できると思うからです。
塩屋のウンジャミは、(知らなかったけど調べて観る限り)自然に神聖なのです。古式を明るく淡々と遂行してる感じです。

神ウスイ(ハミウスイ)では、山の神様に向かって深く拝みます。
海の豊かさは山とも深く関係があるから、すべてに感謝ですね。
後方からは、ノロがススキの束で背中を祓います。
これらの神ウスイやヨンコイも、
塩屋のウンガミの行事でしか観ることができない光景です。〔後掲沖縄クリップ〕
これもさらりと書いてあるんだけど、「神ウスイ」※という霊的イベントは特異なものに思えます。霊的に既に上位にいる者に背中辺りをタッチされることで、祭祀の主宰者たる地位を得る、という類型です。
※※最も類似例と見られるもの 大宜味城∶神人になる者の就任式「ハンサガの式」で神人の責務と秘密を守ることを誓い、洗礼を受けるが、この洗礼の祈願では、祝女のうち洗礼を受ける者は髪を後ろに垂らして座り、周りで神人がハンサガのオモイを歌いながら背をさすったり肩を叩いていく。

インスタ映えする画像としては有名な、女たちが海に腰まで浸かってハーリーを出迎えるシーンは、全体は次のような運び。これは……何の情景の再現でしょうか。
ファーリーははじめにフギバン(ファーリークワーとも言い、比較的若い者たちが二十人乗る)が屋古のフルガンサを出発し、続いてウフバーリー(比較的ベテランの者四十余人が乗る)がそれぞれ三艘ずつ出発する。おのおののファーリーにはファーリーガミが二~三人乗って、こぎ手の「エイサーエイサー」の掛け声に合わせてクバ扇を打ち振る。(略)
対岸の塩屋では各ムラの婦人たちが藁鉢巻姿で腰元まで海水につかり、ティサジ(手拭い)を打ち振り太鼓を鳴らして迎える。
ファーリーが対岸に着くと、乗組員も櫂を持って海に飛び込み、櫂と櫂を互いにたたきながら勝利を誇り、ウンガミも最高潮に達する。その頃、陸路ヌルの行列(ウマンザ)が通ると、今までにぎやかだった婦人たちやファーリーの乗組員たちも一斉に鉢巻を取り、櫂を横にして敬虔な気持ちでヌルの行列を手を合わせて拝む。沿道の人々もひざまずき手を合わせて拝む中をシマンホーが太鼓をたたきながら〈ヌール ヌ メーカラ ニシンマンニン アシズーク チマズーク ウトイミソーリ ウーサレリー〉と唱えながら通る。そのときは一瞬水をうったかのように静まり返る。〔後掲大宜味村/国指定文化財等〕
シマンホー(島方)とは祭祀を担当する男性神人だそうです。なぜそこで、静まり返るのでしょう?

塩屋湾内で行われるハーリーのゴール地点が塩屋で、
スタート地点は、田港と屋古の間にあるフルガンサという場所になります。
まずはじめにスタートするのは、御願バーリー。
3集落(田港・屋古・塩屋)のハーリー船が競い合うのですが、
船の漕ぎ手となる男性だけが熱くなるのでなく、
各集落の女性たちもゴール地点で熱い声援を送りつづけます。
それも海に浸かりながら。
こんな光景、ほかでは見たことがありません。〔後掲沖縄クリップ〕
──彼らは何をやっているのでしょう?清々しいほど全く分かりません。ウンジャミの日程表の写しが入手できたので、下記展開内に掲載しましたけど……一層、訳が分かりません。

山原船の風景から推すその水深
少し覚めた話に戻します。塩屋湾に船が少ないのは、湾口の水深が素人が見る以上に浅く、大型どころか普通の船は入って来れないからのようでした。
「水路誌」※が次の引用で「和船より大なる船を入るゝ能はず」という時の「和船」とは、沖縄では山原船(マーラン船)でしょう。
(続)咸豊3年(1853)にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い,塩屋湾には石炭層があると報告している。「水路誌」には「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入るゝ能はず。湾口付近は距離半浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記す。現在も大型船は入れない。湾岸には塩屋のほかに屋古・田港などの集落があり,塩屋には間切番所,のちに役所もあったが,一帯は交通不便なところであった。昭和37年に宮城島の南側に現在の宮城橋が完成,また昭和35年塩屋大橋の架設工事が始められ,同38年に開通。同橋は橋長308m,橋幅8m,構造型式はゲルバーダンガー鈑桁橋で,工費約60万ドル。昭和50年に本部(もとぶ)大橋が完成するまでは沖縄第一の大橋であった。〔(再掲)角川日本地名大辞典/塩屋湾〕
「ゲルバー橋」は桁(けた)とヒンジ(継ぎ目)とからなる構造の橋。要するに「遊び」の大きい工法で、支点の不同沈下の影響が少ないらしい。有名なのは東京の両国橋。ゲルバー(独∶J.G.Gerber)創案〔Weblio辞書/ゲルバー橋〕。
米軍資料の工法名がそのまま伝わってるらしい。「ダンガー鈑桁橋」は何のことか分かりませんけど、単に「鈑桁橋」というとアルファベットの”I”の字の形に鉄板を組み、桁を製作し、荷重を支ささえる橋〔後掲中部技術事務所〕のことです。多分、当時の米軍にとってはそれなりに最新技術を注入しなければならない、沈下の危険も懸念された難工事だったと推測されます。

そこで水深を確認してみて……驚きました。「湾」の体を整えておりながら、物凄く浅い。山原が塩屋湾-福上湖ラインでへし折れているのは確かですけど、折れたのはかなり古い時代らしく、谷としては非常に緩やかなのです。
ところが──

この湾に山原船が入ってきていたことは、伝承の他、上記のような写真もあり確かです。

以前から本稿では、浅い水深でも平気で入ってきた山原船について、具体に可能な水深を把握しようとしてきましたけど、非常にアバウトな答えにしかたどり着けていませんでした。
塩屋湾の例からは、山原船の水深の限界を算出できるのではないでしょうか?
たまたま、2024(令和6)年に大宜味村企画観光課が塩屋湾水質改善事業で調査船を出した時のデータがありました。
海底地形(測深)に使用した機器は音響測深機(PDR-1300)、堆積層厚(シルト分の層厚)に使用した機器は、音波探査機(SH-20 型)である。
調査の結果、塩屋湾内の最大水深は 15m を超え、10m 以上の水深帯が広がっていることが明らかになった。また、広範囲にシルト分が堆積していることも明らかになった。〔後掲大宜味村企画観光課プロジェクト推進室 11枚目p5〕
現実の土は、粘土分・シルト分・砂分・レキ分などがいろいろな割合で混じっています。」〔後掲住宅地盤品質協会〕

つまり、少なくとも中型程度の船にとっては、入ってしまえばこんなに最高の風待・波待の港はなかったわけです。
入れさえすれば。さて、湾口のデータです。
図Ⅱ-1-(2)-4には、地形計測結果(水深図)を示す。
塩屋大橋及び宮城橋より西側の湾外は、航路部を含めて-3m 以浅である。それが両橋から塩屋湾内に入ると急激に深くなり、-15m 付近となる。また、-10m の水深帯は湾奥部まで広がっていた。
なお、宮城橋付近は、調査船が侵入できないほどの浅瀬となっていた。〔後掲大宜味村企画観光課プロジェクト推進室 20枚目p12〕
「釣割」というサイトで塩屋橋地点の干満差を算出してもらうと、月最高(大潮)で1m。

近代までに堆積の進行を考えたとしても、近世近代の塩屋湾に入った山原船は、3+max1+@m、粗く言って
……信じられない数字です。
同時に、港湾としての塩屋湾が滅んだ理由も確定されます。現在の
田港は大宜味のくにの都なる
事前に調べた訳ではないんてすけど、この日訪れた田港は、先のウンジャミのハーリーの出発地ともなっているように、国頭の時空上の要地でした。

終戦前の様子が分かる貴重な一枚 津波 1945(S20)年4月3日〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 14枚目p243〕
先の塩屋湾内の山原船画像(→前掲)の背景にもあった通り、大宜味一帯は、南予と見紛わんばかりの棚田の広がる土地だったようです。今存在したら是非伺いたいですけど──なぜ消滅したのかは分かりません。分かりませんけど、ある時代の、多分近世の大宜味は酷く住み易い土地、若しくは陸上りに最適な土地だったようなのです。

現在の屋古と合わせ、一集落と呼称されていたらしい。つまり、恐らくヤフュ・タンナ呼称以前には、この付近が唯一の集落だったか……あるいは、塩屋側は海民の「占拠地」だったか。本稿の指向としては後者を採りたいですけど、その場合は、「ヤフュ・タンナ」の位置は外航(≒大型)船の攻め込めない微妙な防御力を持っていたのかもしれません。
あとこの呼称、タンナ=田港ならばヤフェは屋古でしょう。屋古の方が先に来るのは、用字通り、屋古が最も古い集落であることを示唆するかもしれません。
方言ではタンナといい,隣接する屋古とヤフュ・タンナと併称される。沖縄本島北部,塩屋湾北岸に位置する。集落は段丘崖下のわずかな平坦地に形成されている。地名は,昔から多くの船が出入りしたことによるという。今帰仁(なきじん)城落城後,北山(ほくざん)の落人が隠れたところともいわれる。旧盆明けの初亥の日に行われる塩屋のウンジャミは,まず田港アシャギで祈願をし,その後屋古・塩屋へ移動する。集落のはずれにある田港御願の植物群落は,国天然記念物。〔角川日本地名大辞典/田港〕
北山落人伝説があることは、民俗の古さも考えると、首里王権になって人工的に造られた集落ではなく、相当太古に遡る手触りです。先史代の住居としても潟の中央の天然の橋のような位置は漁撈の最適地だったでしょう。
王府時代の間切名。国頭【くにがみ】方のうち。田港郡とも書く(球陽)。康煕12年(1673),国頭間切の渡野喜屋・田港・屋古・前田・城【ぐすく】・屋嘉比・塩屋・根路銘・饒波【ぬうは】・喜如嘉【きじよか】・根謝銘の11か村と,羽地間切の平南【へなん】・津波【つは】の2か村,計13か村で成立(南島風土記)。田港間切は向象賢・向日躋の領地となった(球陽尚貞王5年条)。のち屋古・前田を合して屋古前田村とし,さらに大宜味【おおぎみ】・親田・見里の3か村を新設し,合計15か村となり,17世紀末頃大宜味間切と改称。〔角川日本地名大辞典/田港間切(近世)〕
首里王権代には間切の中心地。向象賢は羽地王子朝秀、向日躋は屋嘉比親雲上朝茲のことというので〔日本歴史地名大系 「大宜味間切」←コトバンク/大宜味間切〕、本稿の採る「北山王国ぐだぐだ滅亡」説によるなら、実質、北山残党(羽地王統分派)に分与されたのかもしれません。
王府時代~明治41年の村名。国頭方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)田港間切,17世紀末頃からは大宜味間切のうち。「高究帳」には国頭間切たみな村と見え,前田村と併記され,高頭83石余うち田78石余・畑4石余。「由来記」では大宜味間切田湊村と見える。田港間切の時代は,諸国廻船の港として船の出入りも多かったことから,田港村が間切の主邑であった。(続)〔角川日本地名大辞典/田港村(近世)〕
ちょっと見る限り、この田港がなぜそんな要地なのかはよく分かりません。ただ、地形的に見る限り、「田港御願」として聖地になっている後背の台地が防衛上重要だったのではないか、と夢想されます。集落と台地の間にはイビナとメーダカという拝所があるようでした。

定水和尚事績
ここで角川は、定水和尚という人物の事績に触れています。
不思議な宗教人で、不存在説もあるけれど、とにかく後世慕われた伝説の人らしい。
(続)ダチガー(滝川)のほとりにある寺屋敷は,王府に仕えていた定水和尚の隠居所とされる。定水和尚は,康煕4年北山監守の存廃について尚質王と意見が対立し,官職を辞して仏門に入り田港に隠居したという(大宜味村誌)。乾隆18年(1753)港として重要な地であった田港村でも構いの検者が材木を積んだ船の荷改めを行った(地方経済史料9)。(続)〔角川日本地名大辞典/田港村(近世)〕
康煕4年は1715年。つまり定水和尚は17C後半から18C前半を生きた人物です。
「北山監守の存廃について尚質王と意見が対立し、官職を辞し」た、つまり親北山・反首里という文脈で語られます。「琉球北山由来記」に「定水和尚を弔へた歌」などの項があるから※、北山系の物語の伝承上、非常に大きな存在だったことは確かなようです。
順列 ……「明の太祖朱元環より北山王に下 したる詔諭の文書」「統一された後の北山」「北山城監守の全廃」「定水和尚を弔へた歌」「弔定水和尚」「阿応理屋恵御殿の神職の変遷」……
その他、首里弁ヶ岳にあったという「坊主墓」について、沖縄県立図書館の調査者が2023年に調べた結果がレファレンスにありましたので、ほぼ消失しつつある事象の貴重な証査として下記展開内に転記させて頂きます。
何処までも見えては来ないヤフュ・タンナ
それでほ、以下、全く歯が立たなかったマターを列挙していきます。まず、後掲寡黙庵さんは、前掲の向象賢・向日躋の地頭就任を、田港間切の設置と同時だと記述します。つまり、両領主が就任したから田港間切分立、郡都・田港設置が行われた、と。
古琉球の時期には、大宜味間切はなく国頭間切に属していた。『球陽』尚貞王五年(1673)条などによると、同年に羽地間切から二ヶ村、国頭間切から11ヶ村を割いて「田港郡」(田港間切)が設置され、向象賢(羽地王子朝秀)・向日躋(屋嘉比親雲上朝慈)が惣地頭に任じられている。〔後掲寡黙庵/大宜味間切〕
ここから考えると、政治的中心としての田港は、第二尚氏の半ば以降の歴史しか持たない、割と新しい存在です。塩屋湾の古めかしさと、これはまるでそぐわない。なおかつ──
大きな集落は山原船を所有し、前の浜のタムンザー(薪炭の集積所)には、収入源である木材・薪・木炭などが山のように積まれ、それを積んで那覇や与那原まで売りに行った。
大人は日々の糧となる米やいもをつくり、山で木を伐り出し、海で魚を追い、或いは村外に出て大工の仕事をしたりと、生活を支えるために必死で働いた。幼い頃からそんな姿を見て来た子どもたちも、学校から帰ると、水くみ・草刈り・薪取り・子守りなどをしてよくお手伝いをした。
やんばる大宜味村の原風景としてよく語られる情景だ。〔後掲大宜味村 大宜味村史/写真集〕
大宜味村史で語られる郷愁溢れるこの記述の「前の浜」には、後掲沖縄ビーチマニアックス(2005年記事)によると美しい砂浜を前にした「道の駅」があったらしい(現在の該当地不明)。これを信じると、山原船時代の少なくとも最末期には、
(続)拝所に底森があり,大宜味間切他村の御嶽と同じく毎年四度・四品・百人御物参の祈願に,公庫から御花米が出されている(由来記)。なお田湊ノロが祭祀する田湊ノロ火の神は,屋古前田村にある(同前)。田港村の伝説上の人物に,武芸の達人といわれる田港ペークー,孝女として名高い田港乙樽がいる。田港乙樽は村の旧家根謝銘家の出とされ,同家は今帰仁城主弟の家系で,村を開いた思徳金がその祖といわれる(大宜味村誌)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。屋取に大保原がある(各町村字並屋取調)。明治24年頃から,ダチガーの水を利用した水車による製糖が行われた。明治36年屋古前田村を編入。戸数・人口は,明治13年の「県統計概表」に,田港【たんみ】村と見え64・272(男136・女136),同36年には屋古前田を含めて114・710(男359・女351)うち士族44・269。(略)〔角川日本地名大辞典/田港村(近世)〕
「田湊ノロ」の火の神が「屋古前田村にある」?これはうっすらと、元々土地の──多分塩屋湾一帯で霊力高いのは屋古だった、つまり原集落だったことを想像させます。
そして……「今帰仁城主弟の家系」?末尾の士族の率の異様な高さは、ここが首里王権の強い統制下にあったことを予想させるのに、そこが旧王朝の王族に最も近い一族の拠点?それは何を意味するのでしょうか?
はじめに「田港間切」が創設され、後に大宜味間切となる。『琉球国由来記』(1713年)には田港間切から大宜味間切となっている。そこには平良村と川田村あり、大宜味間切に組み込まれたのは一六九五年である。その時、田港間切から大宜味間切と改称され、間切番所は田港村から大宜味村に移転し、これまで登場してこなかった大宜味村が登場するようになる。その時の田港(大宜味)間切の村は、城村・根謝銘村・喜如嘉村・大宜味村・田湊村・塩屋村・津波村・平南村・平良村・川田村・屋古前田村・饒波村・根路銘村である。〔後掲寡黙庵/大宜味間切〕
大宜味の小字も、今帰仁と同様、あまり多くを語りません。語らないからこそ、けれど次図でその形状を見た時の驚きは大きかった。


北山王国のお膝元・今帰仁でも西の島だけにしかなかった、海と山とを結びつけたとこまでも人工的な短冊状の字配置が、田港間切では当たり前にほぼ全字の共通属性なのです。
なぜでしょうか?
屋古単独の情報にも触れておきます。
方言ではヤフュといい,隣接する田港とヤフュ・タンナと併称される。沖縄本島北部の西海岸,塩屋湾の北岸に位置する。旧盆明けの初亥の日に行われる塩屋のウンジャミは,田港に続いて,屋古の神アシャギで祈願が行われる。〔角川日本地名大辞典/屋古〕
田港の次に祈願実施──これも、いかにも人工的な序列儀礼です。田港が一番、屋古が二番、と強要するような。
王府時代の村名。国頭【くにがみ】方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)からは田港間切のうち。「絵図郷村帳」に国頭間切やこ村と見える。17世紀末頃,道ひとつ隔てた前田村と合併して,屋古前田村となる。〔角川日本地名大辞典/屋古村(近世〕
この「屋古前田村」成立も、いくら前後関係を見ても理由が想像できません。単純に独立村落・屋古を損ないたかった、という以外には。
屋嘉比杜おわる 金丸は崇べて
このようにして大宜味村の字を見ていくと、この村には、塩屋湾以外にもう一つ濃い時空の土地があるらしいことが感じられてきました。
屋嘉比及び根謝銘、「城」という字があった辺りです。
この「屋嘉比」はおもろ二首で唄われています。
しよりゑとの節
13-919(174)
一伊是名親のろよ/若人愛しけが御船/飛ぶ鳥る 隼る かに ある/又離れ親のろよ/若人愛しけが御船
一いちゑなおやのろよ/わかきよかなしけかおうね/とふとりる はやふさる かに ある/又はなれおやのろよ/わかきよかなしけかおうねしよりゑとの節
13-920 (175)
一伊平屋の子が 船遣れ/崇べてす 乞うたれ/追手 乞うて/思様に 走りやせ/又押し分きの親のろ
一ゑひやのしか ふなやれ/たかへてす こうたれ/おゑちへ こうて/おもやに はりやせ/又おしわきのおやのろしよりゑとの節
13-921(176)
一屋嘉比杜 おわる/親のろは 崇べて/吾 守て/此の渡 渡しよわれ/又あかまるに おわる/てくの君 崇べて
一やかひもり おわる/おやのろは たかへて/あん まふて/このと わたしよわれ/又あかまるに おわる/てくのきみ たかへてはねうちしちへはりよるきよらやが節
13-922(177)
一辺戸に おわる ましらて/ましらては 崇べて/吾 守て/此渡 渡しよわれ/又奥に おわる ましらて/ましらては 崇べて
一へとに おわる ましらて/ましらては たかへて/あん まふて/此と わたしよわれ/又おくに おわる ましらて/ましらては たかへて
〔後掲明治大学〕
もちろん分かりません。分かりませんけど、雄大です。
いきやあるかつれんが節
13-926(181)
一鬼殿が 船もどろ 押し浮けて/此の渡内の うらこや/又鬼殿が 速もどろ/又青波が てとりけと 敬て/又白波が やかた口 敬て/又鬼殿が 垂れきゝ帯 敬て/又鬼殿が 垂れ袴 敬て
一おによとのか ふなもとろ おしうけて/このとうちへ うらこや/又おによとのか はやもとろ/又あおなみやか てとりけと おやまて/又しらなみや やかたくち おやまて/又おによとのか たれきゝおひ おやまて/又おによとのか たれはかま おやまてはつにしやが節
13-927(182)
一国笠に おわる/親のろは 崇べて/島討ちしちへ/按司添いに みおやせ/又屋嘉比杜 おわる/金丸は 崇べて/又あかまるに おわる/てくの君 崇べて/安須杜に おわる/ましらては 崇べて/又奥杜に おわる/玉のきやく 崇べて13-928(183)
一かゑふたの親のろ/とからあすび 崇べて/うらこしちへ/袖 垂れて 走りやせ/又値の島の親のろ/又のろ/\は 崇べて/又神々は 崇べて/又北風 乞わば 北風なれ/又南風 乞わば 南風なれ
一かゑふたのおやのろ/とからあすひ たかへて/うらこしちへ/そて たれて はりやせ/又ねのしまのおやのろ/又のろ/\は たかへて/又かみ/\は たかへて/又にし こわは にしなれ/又はゑ こわは はゑなれ〔後掲明治大学〕
雄大かつ、この描写は陸を行く人のものめはなく、海を行く舟人の視点のように感じます。風、ランドマーク、船。
「屋嘉比杜おわる 金丸は崇べて」の、「金丸」とは屋嘉比杜に鎮座する神の名前とされている。
屋嘉比杜とそこを司る親ノロが、「おもろさうし」に謡われる程、中央(首里)から注目されていることがうかがえる。(『おもろさうし 日本思想大系 18』外間守善・西郷信綱/岩波書店)
海上に視線を移すと、船の往来の目標になった赤丸(国頭村奥間の赤丸崎)から、辺戸の安須杜、奥の杜までを眺望する壮大なロマンを感じさせるおもろである。〔後掲大宜見村史編纂委員会/大宜味村史 言語編 p3〕
「大城」御嶽は、もちろんその名の通り、グスク時代の城趾でしょう。けれど、ここを拠点とした王や英雄のことを語る伝承は、ありません。

山びこは喜界の祝女の泣くを聞く
屋嘉比の神アサギは、同集落の最高所にあるという。これもまた、城郭を予見させる位置です。
旧3村(親田・屋嘉比・見里)と国頭村浜の祭祀は、屋嘉比ノロが管轄しており、行政的に分離されながらも、4集落の祭祀は深い繋がりを持って継承
されてきた。また、ネジャメ(ウイ)グスク(根謝銘(上)城)内のウフグシクウタキ:イベ(大城御獄)は、屋嘉比ノロが管轄する御獄として現在でも田嘉里が拝んでいる。
年中行事の祭祀場となる神アサギは、屋嘉比バールの最も高所にあり、その周辺に山口、芝といった旧家が立ち並んでいる。これらの背後には、山口の祖先と喜界島のノロとの伝承のあるクガリ山があり、シマの重要な拝所である〔後掲大宜見村史言語編p21〕
かつ──最後にとんでもない話が降ってきました。喜界島のノロの伝承がある?
大宜味村田嘉里たかざとの屋嘉比やかび川を上ると、上流の右手に見える山が、喜界祝女(ノロ)の哀話が伝えられている「くがり山」です。
昔、屋嘉比村の山口家の祖先は、船を所有して、奄美諸島と交易をしていました。ある年山口家の祖先の1人の男が喜界島へ渡って、美しい喜界祝女にひと目ぼれしました。男はその美しい祝女を口説いて、屋嘉比村へ一緒につれて帰りました。
ところが、実はその男には、屋嘉比村にれっきとした妻がいたのです。喜界祝女は「だまされた、どうしよう」とくやしがりましたが、すべてあとの祭りでした。
神に仕える身を捨てて、はるばる海を越えてやってきた喜界祝女はいまさら喜界島に戻るわけにもいきません。喜界祝女は仕方なくその男の世話になって、屋嘉比村に住んでいました。
ある年、屋嘉比村は飢饉にみまわれました。村人は日々食べ物に困り、山口家の男も、愛人の喜界祝女の面倒をみなくなってしまいました。喜界祝女は泣く泣く村を離れ近くの山に入り、たいへん貧しい暮らしをしたといいます。
ついには喜界島を恋焦がれたまま死んでしまったそうです。その後、土地の人は、この喜界祝女のこもった山を「くがり山」(恋いこがれの山)と呼ぶようになったそうです。〔後掲北部国道事務所〕

同じく沖縄由来と思われる浦島伝説に似て、救いがたい展開で主人公に救いがたい末路に至り終わるストーリーです。
旧暦七月のウンガミまつりのあと、屋嘉比村では臼太鼓(うすでーく)が山口家前広場で奉納されますが、くがり山の伝承にまつわる次の歌があります。
くぬ山 じ泣 ちゅし
聞 く人 や居 らん
吾 が泣 ちゅし
聞 く者 や山 ぬ響 ち
「この山で泣いても、だれも聞く人はいない。わたしが泣くのを聞くのは、山びこだけである」という意味です。〔後掲北部国道事務所〕
後味の物凄い悪さをひとまず置いて、まず山口家が奄美交易をしていたという背景、またその中で特に、主人公が奄美大島ではなく喜界島の者であるという点も、喜界島が「みやきせん」海域の特異点でなければあり得ないことに思えます。
また何より、物語がこれだけ喜界祝女に感情移入しているのは、大宜味の人々にとって喜界島が全くの異境ではなく、喜界人が異人ではなかったことを予感させます。喜界島と大宜味の接点はこの物語以外にないので何とも言いかねますけと──将来、考古学的発見でもあれば、

〉〉〉〉〉参考資料
※九州大学附属図書館 URL:https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=1&amode=MD823&bibid=24941
PDF URL:https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/24941/adachi2.pdf
大宜味村
/大宜味村史 写真集
PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/08_syasinsyuu-1.pdf
/国指定文化財等
URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/soshiki/kyoiku_iinkai/gyomu/rekishi_bunkazai/bunkazai/334.html
/むかしやあんしえったん─懐かしい昔の風景─
PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/08_syasinsyuu-2.pdf
大宜味村企画観光課プロジェクト推進室令和6(2024)年6月「塩屋湾水環境再生事業業務委託報告書」
※「令和6度塩屋湾水質改善事業業務委託」に係る公募型プロポーザルの再実施について/大宜味村 URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/soshiki/kikaku_kanko/gyomu/kankyo_hozen/919.html
/PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/sankousiryou_compressed.pdf
(おおぎ)大宜見村史編纂委員会 2020「大宜味村史 言語編」
※大宜見村HP URL=https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/soshiki/kyoiku_iinkai/gyomu/rekishi_bunkazai/338.html
PDF(抜粋資料データ「言語編」(参考までに))URL=https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/12/sankousshiryou_gengohen.pdf
沖縄CLIP|あなたの沖縄旅を豊かにする体験予約サイト・観光情報メディア/塩屋のウンガミ(海神祭) | よみもの
URL:https://www.okinawaclip.com/post/1707351790/
(おきなわび)沖縄ビーチマニアックス 2005年08月31日/大宜味道の駅前の浜|沖縄ビーチ特集|沖縄ビーチ/海を楽しもう!
URL:https://okinawanbeach.ti-da.net/e482708.html
(かもく)寡黙庵 沖縄の地域研究/大宜味間切の村と歴史 URL=https://yannaki.jp/oogimihensenzu.html
(こくり)国立劇場おきなわ – 公演情報詳細/組踊公演 「花売の縁」
URL:https://www.nt-okinawa.or.jp/performance-info/detail?performance_id=988
(じゆう)NPO 住宅地盤品質協会/土の知識
URL:https://x.gd/9hgh5 (短縮)
(しんざ)新里孝和・陳碧霞・芝正己 2019「沖縄,古宇利島と塩屋湾のウンジャミの祭祀植物」『琉球大学農学部学術報告』66号,p.51-63
※AgriKnowledge URL:https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010938437
(たうと)Thoughts About Peace/少年飛行兵 と 私 第二幕〜
URL:https://ameblo.jp/thoughts-about-peace/entry-12905129197.html
中部技術事務所/鈑桁橋(ばんげたきょう) – 橋の種類 – 橋と道路のはなし | 国土交通省 中部地方整備局
URL:https://www.cbr.mlit.go.jp/chugi/kids/hashi/hashi_shurui/bangetakyo/index.html
釣りナビくん(運営∶マリーンネットワークス株式会社) アプリ URL:https://tsurinavi-kun.com/
釣割/潮見表・タイドグラフ 全国の潮見表・タイドグラフ(2025年最新版・完全版)/沖縄県/大宜味村/塩屋橋
URL:https://tide.chowari.jp/47/473022/20174/
(でいお)DEEokinawa/2010.10.19 やんばるたろう 大宜味村塩屋のウンジャミにいってきた
URL:https://www.dee-okinawa.com/topics/2010/10/post-25.html
日本玩具博物館「山原船(やんばるぶに)グヮー」
URL:https://x.gd/IygmX (短縮)
(ほくぶ)内閣府沖縄総合事務所北部国道事務所
/やんばる国道物語
– 近代沖縄の道(1879年~1945年):やんばるロードネット
URL:https://www.dc.ogb.go.jp/hokkoku/yan_koku/03kindai/50.html
– やんばるの伝説をたずねて (6/23)くがり山(大宜味村)URL=https://www.dc.ogb.go.jp/hokkoku/yan_koku/07densetu/145.html
(めいじ)明治大学 生田情報メディアサービス URL=https://www.isc.meiji.ac.jp/~meikodai/datebasa/omorosaushi.txt
琉球新報社 2016/架橋前の「渡し」再現 親川さん夢かなえる
URL:https://ryukyushimpo.jp/photo/entry-318922.html
レファレンス協同データベース/弁ヶ岳にあったとされる定水和尚の墓について、その場所や広さについて手掛かりとなるような資料はあるか。 URL:https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000328002



