食べても満ちたらぬときの身随念@ことばぐすい

食べるとき,カラダの感覚へと一点集中する瞑想作法を,食べる禅,食禅とでも名づけてみませうか。
ほどほどにヨクボーを持ちながら食べたほうが美味しいに違いない,瞑想しながらヨクボー抜きで食べるなんて,味気ないに違いない。そう思うでせう?
ここでのパラドックスは,こうです。「美味しく味わいたいヨー」てふヨクボーに駆られて食べると,むしろその雑念のせいで,味わう能力が低下し候ふ。普通は,ヨクボーに駆り立てられるスピィドで食べているから,味も,触感も,香りも,本来の百分の一すら味わえていないのです。
反対に,はやるヨクボーを抑えて,味,触感,香りに意識を集中しながら食べると,感覚のセンサーがきわめて敏感になり候ひて,メマイがするほど多彩な味わいを感じ取ることができるようになります。しかも,そこにヨクボーの雑念はなし。
私の営むイエデカフェで開催していた坐禅瞑想会では,せっかくカフェを使って坐禅会をしているのだからと,「食禅」の手ほどきをいたしました。私がつくった簡素な精進料理やデザットを,参禅者の御方々とともに,瞑想しながらいただくのであります。
食禅を手ほどきいたします際に,参禅者の動作を拝見していると,たいてい最初に注意せねばならなくなることがあります。それは,食べ物を噛んでいる間に早くも,箸が既に「次はこれが食べたいヨー」とて,食品をつかんで待ち構えてしまっていること。多くの人が前のものを飲み込むとすかさず,待ち構えていたものを口に投げ込むのであります。
これでは絶え間なく胃に「エサ」を送り続ける,ベルト・コンベアー方式ではありませぬか。単に下品なるのみならず,次に食べるものへのヨクボーに意識を浮遊させているぶん,「今,ここで」食べているものの味わいなんて,よく分からなくなるのであります。

そのうえさらに,思考を空回りさせながら食べてしまいますなら,浮気はさらに激しくなり候ふ。食べながら,何か嫌なことを思い出してイライラしていたり,何か楽しいことを考えて上の空になったり,食べた後に何をしようか考えたり。
意識はいつもさ迷い歩き,食べること以外のことばかりに浮気して行き候ふ。食べたいから食べているはずなのに,いざ食べ始めてみるとこのありさまでは,食べたいのやら食べたくないのやら,分かりやしませぬ。
意識が浮遊してしまうほど,「食」の実感がとぼしくなり,たくさん食べても食べても,なかなか満足できぬ状態となるように思われます。ヨクボーと不満足は共犯するのであります。
では意識を,「今,食べている」てふ現実に釘付けにするにはどうすればよいかと申さば。
箸を手に取るときの感覚から始まり,食べ物を箸に取るときの動きや,口に入れるときの感覚,それから食べ物を噛むときの感触をようく実感してやり,ひたすら意識を集中してまいります。
さて,食品を噛みしめるときの感覚をロック・オンして,意識をそこにのみ注ぎ込み感じ取ってみませう。それがしっかり感じられるようになったら次に,舌の動きに意識を向けていただくと,舌が味わったり触感を感じ取ると同時に,食べ物を攪拌するためにグルグル回っているのも実感できるでせう。食べ物が,だんだんグチャグチャに流動化しながらグルグルグルグルと回り続けている触感を,しっかり感じ取ってまいります。
舌の感覚をロック・オンして感じ取ってみるとよく分かると思いますが,味わいを感じることができるのは,舌の上側のみです。そこに様々な食品のカケラが触れると,「味」が生まれてまいります。動き回る舌の感覚に集中してまいりますと,舌には大量の感覚が一瞬の間に生まれているのが分かるでせう。
舌のそれぞれ別の場所に,滑らかな感覚,ざらざらした感覚,ツブツブが当たっている感覚,ドロドロしたものが触れる感覚,食べ物の細胞が破裂し甘い液が飛び出したものが触れる感覚,など,など。ましてそれらの感覚と一緒に,えも言われぬほどきわめて多彩な味が生まれては消えていっているのが,次第に読み取れるようになるはずです。
かくも繊細に広がる味わいの世界に比べれば,「馥郁たる何とかかんとか」だとか「甘さと酸味が絶妙に調和してどうのこうの」だとかの評論は,あまりにも大雑把すぎて話にもならぬのです。それらは直接の現実ではなくって,概念やイメージに振り回されているだけなのですから。
ほら,瞑想しながら召し上がるほうが,はるかに味わい深い感じがするでせう?
食禅は,味や触感だけでは,まだまだ終わりませぬ。嗅覚にやってきている香り,己のあごの動きへと,意識を動かして感じ取ってまいります。
飲み込むときの感覚もロック・オン。次はすかさず,食品が食道を通ってゆき胃に落ちるまでの感覚をロック・オンして追跡。慣れれば,食べ物が食道を落ちてゆく際に螺旋状のスピン回転をしながら落ちてゆくのも,実感できるのではないでせうか。

そして最後に,落ちたものが臓腑にしみわたってゆく感覚などなどを,可能なかぎり集中力を注ぎ込みながら体感するのであります。できるだけ多くのことをひとつひとつ順番に,ありのままに感じ取ってまいります。
上達すれば,同じ食品でも一回一回噛み締めるたびに,全く違う感覚や味が生じつつ,噛むたびに前頭葉に神経刺激が送られている感覚までもが,意識できるようになるでせう。
ともあれ,最初はすべてを追跡するのは難しきことゆえ,噛むときの感覚とあごや舌の動き,それから味くらいにしぼって実践するとよいかもしれませぬ。
「食べている」という,「今,ここ」で起こっている現実から意識が浮気をしなくなるため,非常に落ち着いた満足感を得ることができ,そのときそのときに本当に必要な量以上は食べなくなります。
それに召し上がり方が上品で丁寧になることでせうから,傍目にも美しいものなのであります。

小池龍之介[『自分』から自由になる 沈黙入門]2008,株式会社幻冬社