アメリカは遠からず「没落」するでしょう@ことばぐすい

 2005年7月のロンドンのテロが衝撃的だったのは,テロリストたちが「イギリス国籍」だったということでした。自国民がテロリストであった場合にはもう「テロリスト国家」との戦争というタームでは問題を扱うことができません(その場合は「テロリストを生み出した国」であるイギリス自身を「敵国」に設定しなければなりません)。
 アメリカで次のテロがあったときに,その犯人たちが「アメリカ市民」であった場合,アメリカは深い混乱のうちに沈むでしょう。そのときにはじめて建国以来の「戦争の有効性」に対する信頼が揺らぐことになるからです。国民国家と国民国家が領土や権益をゼロサム的に奪い合うという古典的な「ウェストファリア・システム」で世界戦略を語ること自体がすでに困難になりつつあるという状況にアメリカはうまく対応できていません。これは統治者たちの政治的知性の問題でもありますけれど,それ以上にアメリカ国民が「国民国家以外の政治単位が主体であるような政治」というフレームワークを受け容れるこのを拒否していることに理由があるように思われます。
 今,アメリカ合衆国と敵対しているのは領土も国境も国民も中性的な「センター」さえ持たない「リゾーム」的なテロリスト・ネットワークです。彼らがそのようなアモルファスな政治単位を「選んだ」のは,そのような不定形なものだけがアメリカのような超大国の支配と拮抗しうるということに気づいたからです。
 アメリカは遠からず「没落」するでしょう。これは避けがたい流れです。ですから,戦略的な考え方をするならば,私たちの優先的な課題は(エマニュエル・トッドが言っているとおり),「アメリカが滅びていくことがもたらす被害をどうやって最小化するか」ということに集約されます。アメリカが急速に没落していくことで世界が受ける衝撃は巨大です。それがどれぐらいの混乱をもらたすかは測定不能です。ですから,アメリカにはできるだけゆっくりと没落していってもらいたい。いかに周囲を巻き込まないで,静かに滅びていってもらうかということを,ヨーロッパとかアジアの諸国が考えて,政策的に提言してゆかないといけないんじゃないかと思います(そんな「猫の首に鈴をつける」ような政策的提言を誰がやってくれるのかわかりませんが,やってくれるとしたらフランス人か中国人でしょう)。
 アメリカの没落がどういうプロセスをたどるのかについては諸説ありますが,興味深いものをひとつご紹介しておきましょう。かつてイランの宗教革命やベルリンの壁の崩落の予言を的中させた未来学者ローレンス・トーブはたいへん意外なファクターがアメリカ没落のきっかけになると予測しています。
 それは反ユダヤ主義です。トーブは,アメリカではいずれ組織的なユダヤ主義暴動がおきると予測しています。
「それはゲットーを越えて隣接地域やユダヤ人の働く地域にまで広がり,やがてテロの形態を含むアメリカ型ポグロムとなる(注)」のですが,警察や行政当局は真剣に阻止しようとはせず,「犯人を捕らえて裁判に附しても,陪審員は微罪で解放してしまう。一般大衆は,帝政ロシアやナチス・ドイツにおいてと同じように,座視するか,あるいは迫害者に共感を寄せる」。この反ユダヤ主義運動の中核をなすのは,「黒人白人の失業者,ホームレス,貧者,下層階級,エリートコースから脱落した中産階級」の人々です。彼らはその社会的不満を「スケープ・ゴート」としてのユダヤ人に向けて解き放つわけですが,支配階層の人々は黒人とプア・ホワイトの階級的不満がユダヤ人集団に集中することをむしろ歓迎します。それが白人エリート層に権力も富も情報も文化資本も集中している階層化社会の矛盾を一時的にではあれ隠蔽してくれるからです。
 トーブの予言によれば,迫害されたアメリカのユダヤ人たちは(かつてヨーロッパで迫害されたユダヤ人たちがそうしたように)イスラエルに向かうことになります。
「多数のアメリカのユダヤ人のイスラエル移住はアメリカとイスラエルと中東と,移民自身の上に大きな影響をもたらすだろう。アメリカへの影響は,少なくとも短期的には大きなものとなる。(…)アメリカ・ユダヤ人の活動領域は中規模経済エリア(小売り,軽工業,金融,メディア,専門職)に集中している。それゆえユダヤ人の離国は経済的・社会的には爆弾となる。アメリカ経済はそのダイナミズムを失い,英国,カナダ,オーストラリアに似たものとなる」
 カラフルすぎてにわかには信じがたい予言ですが,アメリカ社会の「弱い環」がここで指摘されるような人種差別,宗教差別にあるというのはかなりの程度まで事実でしょう。アメリカは遠からずヒスパニック系市民が最大集団となり,建国以来アメリカを支配してきた「ワスプ」(White Anglo-saxon Protestant)は相対的な少数集団に転落します。それでも,先ほど言いましたように,権力や財貨や情報はこの少数集団が依然として独占する状態がしばらく続きます。しかし,少数の人種集団にその社会のリソースや支配権が集中するという事態をアメリカは建国以来実は一度も経験したことがありません。トクヴィスが言うように,「多数の支配」がアメリカの統治システムの原則であるとしたら,ここで統治原則と社会の現状の間の亀裂が生じることになります。そのとき,果たして少数集団となった「イギリス系アメリカ人」たちは多数に従って,蓄積された資産を多数はに返還するのでしょうか,それともあくまで死守するのでしょうか。
 アメリカの危機はおそらくそのようなかたちで顕在化するように私にも思われます。
 この原稿を校正しているときに(2005年9月)アメリカ南部をハリケーン「カトリーナ」が襲い,甚大な被害が出ました。報道によると,被害者は危険地域に集住していた低所得の黒人たちに集中しているようです。彼らは災害に対して備えのない地域(きっと地価や家賃が安いのでしょう)に住み,非難命令が出たときも移動手段がなく(車を持っていない,バス代がない),水没した地域に取り残されたあとも実効的な救援がなされませんでした(彼らは黒人地域への救援は後回しにされたと訴えています)。その結果,自暴自棄になった被災者たちによる略奪,強盗,レイプなどが頻発してしまったわけです。自然災害で一時的に無秩序状態になると,たちまち略奪やレイプが行われるということは,アメリカ社会が「近代市民社会」として十分な倫理的成熟に達していないということを意味しています。
 社会の階層化が進行し,権力や財貨や情報や文化資本が一握りのエリート層に集中し,低所得層の有色人種には成功のチャンスがほとんど残されていないという現状が続けば,最初に崩壊するのはこの「市民意識」です。自らが秩序形成の主体であるという意識を失い,外的な規制(警察や軍隊の暴力)がなくなれば,略奪や殺人をすることが「許される」というふうに考える人々が増えることで社会は内面的に崩壊してゆきます。これから先,アメリカは持てる者たちがその資本を防衛する「セキュリティ」のために膨大な社会的コストを投じることを余儀なくされるでしょう。すでにアメリカの郊外ではリッチな人々は「ゲーテッド・コミュニティ」(周りを防壁で囲み,警備員たちが警護している高級住宅地)に引きこもりを始めています。コミュニティの「要塞化」です。一握りの人々が資産と心身の安全のために高い壁をめぐらせた城塞に住む。これはもうほとんど中世的な風景ですが,階層化の極限がどういう社会を生み出すかをみごとに空間的に表象しているものと言えるでしょう。
「敵」が外国の国民国家である間,アメリカの「戦争戦略」は有効でした。けれども,「敵」が「国家」ではなくなり,かつ貧しいアメリカ市民が富めるアメリカ市民の潜在的な「敵」になるという前代未聞の状況に,アメリカの「成功経験」を適用することはもう不可能です。そして,このような状況に対応するための方法をあの炯眼な建国の父たちも遺訓として書き残してくれていないのです。

 アメリカにはアメリカ固有の病があります。これは当たり前です。すべての国民国家は固有の国民幻想によって統合されています。それは他国民にはよくわからない。知性的には理解できても,身体的には共感できない。そういうものです。問題は,ぼくたち日本人がアメリカの固有の病に限って,選択的に思考停止に陥っているように見えることです。アメリカについては,「知性的に理解する」ことについてさえ抑圧が働いているように見えることが問題なのです。
 その理由はやはり先の大戦での敗戦経験があまりに壊滅的だったからでしょう。あまりに徹底的に敗北したために,日本人は眼を上げて相手を見つめることさえできなくなってしまった。言い訳の余地のないほどの徹底的な敗北を説明するために,戦後の日本人は「アメリカは私たちのスケールを超えて強大な国であり,その全貌を私たちは理解することさえできない」という話型を選びました。自分たちが弱かったのではない,相手が強すぎたのだという説明で,敗戦国民のなけなしの矜持を守ろうとしたのです。
 先日,ぼくはゼミ旅行で台北を訪れました。そこの中正紀念堂というモニュメントには巨大な蒋介石の銅像があって,台湾海峡越しに中国本土をはったと睨んでいました。「いつか大陸に反攻するぞ」という国民的決意を造形的に表象しているのです。
 もちろん台湾が本土に軍事的に反攻し,共産党政権を打倒して,中華民国の旗を北京に掲げるというのは非現実的な夢想です。そのことは台湾の国民もわかっている。国共内戦で,共産党軍が国民党軍に敗れた事実も熟知している。けれども,そのことと「次は勝つぞ」という決意のあいだに矛盾がない。
 いくさに敗れた国民の選ぶべき基本的なマインドセットは「臥薪嘗胆・捲土重来」です。古来そう決まっている。そのようなマインドセットを維持できている限り,現実にどれほど軍事的・外交的に圧倒されていても,敗戦国民は戦勝国を「まっすぐに見つめる」ことができる。眼をそらしたり,耳を塞いだり,記憶を改竄したりする必要がない。そしてそのようなリアリズムの上にのみ「敵との歴史的和解」という「方便」も構想される。誇りある一国民国家として,対等の立場で敵国との「次の戦い」をあえて放棄するという宣言に署名することができる。
 ぼくたち日本人にできないのはこのことです。
 アメリカに負けたときに,日本人は「次は勝つぞ」ということを国民的合意にすべきだった。それがどれほど非現実的な夢想であっても,日本人同士の心の中では,そのことを確認しておくべきだった。そう思います。(略)
「まっすぐに見つめる」まなざしからのみ,「どうしてアメリカはこんなふうに非理性的にふるまうのだろう?」「彼らはどのような政治的幻想に支配されてそうしているのだろうか?」「その幻想から彼らはどうすれば解放されるのだろうか?」といった一連のクールな問いが導かれたはずなのです。そして,そのようなリアルな視線だけが,最終的に「アメリカとの歴史的・恒久的な和解」をもたらしたはずなのです。
 けれども,ぼくたちはそういう問いを封印してしまった。封印したまま六十五年が経過しました。だから,いまだに日本人はアメリカのふるまいをうまく理解できない。たしかに日本はアメリカの軍事的従属国です。けれども,それはアメリカの世界戦略を理解しているということでもないし,理解した上で賛同しているという意味でもない。「何をしたいのかよくわからないけれど,主人の言いつけだから従っている」というだけのことです。
 (略)金融危機も,オバマ政権の指導力低下も,保守党のバックラッシュも,間違いなくアメリカの没落を予兆しています。それを無感動に見つめながら,アメリカが世界に君臨する超大国であることを止めるときに,きっと日本もまた「従者の呪い」から解放されるだろうと,おおかたの日本人はぼんやり期待している。
 でも,残念ながら,ぼくはその見通しには同意できません。
 アメリカが没落し,西太平洋から撤退したあとの日本は,このままでは「主人のいない従者」「本国のない属国」「宗主国のない植民地」になる可能性が高い。これは考え得る最悪の国のありようの一つです。そうならないためにも,改めてアメリカについて考えること,より厳密にはアメリカについて考えるときに日本人はどのように知性が不調になるのかについて考えることが要請されているとぼくは思います。

(内田樹「街場のアメリカ論」,文春文庫,2010)
注 Lawrence Taub,The Spiritural Inperative:Sex,Age,and the Last Caste,Clear Glass Press,1995/2002,pp198-199,202,126-127